お前、真面目だな。
俺なら絶対に10分で作って、50分遊んでから、1時間後に出す。
いや、それが正しいわけじゃなくて、やっぱり世の中の人たちってちゃんと真面目に働いているんだなって思ったんだ。
id:Pgm48p 移動して探し回るゲームだから、何かに遭遇したとスマホに表示されたら運転中でも触ってしまう後先考えない人は必ずいると想定して、高速移動中は使用不可にすべきだった。現状放置では被害者遺族が浮かばれない
スター id:augsUK, id:yayoiori, id:yorunosuke, id:VA_AV
id:houjiT いやいやポケモンGO自体の流行とかゲーム性と事故の関係性が無視しきれないこと等々を鑑みれば記事の内容は妥当でしょ。警告は出ても直ぐに消してプレイ続行は可能だし、問題性は消えてない
スター id:mur2, id:yayoiori, id:oasynnoum, id:VA_AV, id:ntnajp605, id:zoomer, id:augsUK
なるほどなるほど。
それなら、いっそのことスマートフォン自体が高速移動中に動作しないようにしたら良いんじゃね?
でも、同乗者はどうするの?あと電車は?
どうやってそれらを判別するの?
え?やり方は知らん?w
その他の同様なコメントたち
id:Torneco ルール違反が一番の問題なのは間違いないけど、ナイアンティックもリスクをより低くする方法を考えて欲しい。お客様や社会のために。もちろんマナーや警察の取り締まりなどナイアンティック以外も取り組むべき。
id:wapa 人が亡くなってるという事実よりも、「ポケモンGoは悪くない」という擁護心が先に出てる人のコメントが多いのが怖い。むしろ轢かれる危険に晒されてる側の人たちだろうに。
スター id:yayoiori, id:yorunosuke, id:pilpilpil, id:mur2
id:hiromo2 ポケGOは位置ゲーなので、他に比べて車の運転に影響あるケースは多いと思う。関係ないとか言ってるのはオッカムの剃刀が鋭すぎか、それこそ恣意的だ。
id:hatebukk ポケモンGO関係なくとかいってる奴はなんなの?今回の事例は完全にポケモンGOのゲーム性に起因した事故でしょ。こういうのはちゃんと報道されてしかるべきでしょ。
id:magi00 ポケモンGOは移動中「でも」やりたいではなく、移動中「だから」やりたいなので、他に比べれば運転中のプレイを助長していると思う。制限だけでなく運転中のプレイが不要になるようなゲームバランスの改善を望む。
つい2分ほど前、行方不明になっていた同僚が遺体で見つかったという連絡を受けた。
同僚と言っても、その人は夫婦経営の勤め先の男社長の丁稚、自分は女社長のアシスタント(まぁ丁稚と変わらない)だったので、
金曜日の日中、島のリゾートの物資を仕入れてそのままトンボ返りという時、
13人兄弟の大家族で貧しいお家の彼に、嫌々ながらも了承したのが最後の会話だった。
気まずそうな笑顔が印象的だったが、今はもう思い出せない。
金曜日の夕方までにリゾートに戻って、土曜日の朝はリゾートのチェックアウト客の、本土へのボート送迎をするはずだった。
夏休みでちょうどその島に滞在中だった上司からメールがあった。
「彼が戻って来ません。ちょっと家まで行っていつ出たか確認してもらえますか?」
この時自分は、
「ああ、またここの現地民あるあるのスッポカシだ。」
と、彼が勘違いかわざとか、その日中に戻らないといけない約束を破ったのだと思った。
その頃彼は、小さいモーターボートで大海原を漂流していたのだ。
まだボート運転を勉強中で完璧ではない彼が、高波で操縦を誤ったのかもしれない。
日本と同様に、隣国とのいざこざがあるこの国で、隣国の武装船に襲撃されたのかもしれない。
貧しい人が多いこの国で、船で麻薬を運ぶ輩か泥棒に狙われたのかもしれない。
命の価値はみな平等だと耳にするが、この国では命の価値が日本よりも軽すぎるように感じる。
少しでも違う結果になったのだろうか。
いや、なんの影響もないに違いない。
それでもタラレバの考えは尽きない。
涙を流しながら知らせてくれた上司は、彼に思い入れがあったのだろう。
「お葬式には行きたい」
と、既に先のことまで考えている。
悲しいとか悔しいとか無念とか、怒りも悲しみも出てきていない。
お葬式に参列したとしても、多分このままなのではないかと思う。
日本のへんてこな食生活を話した時にものすごい顔をして反応したっけ。
でも何を思い出しても何も感じない。
昨年のことになるが、日本で勤めていた会社の元同僚から、仲良くしていた非常勤のおじいさんの死を知らされた。
かたや若手に位置していた自分、かたや定年まで務め上げ、家族のために定年後も務めていたおじいさんの先輩。
そして人事異動で別の部署となったものの、自分が退職する前年度までは、たまたま同じ部署の配属に再びなって、
よく雑談をして、冗談から真面目な話題まで、通路を遮ってしていたものだ。
おじいさんの死を聞いても、何の感情も湧かなかった。
今でも何も湧かない。
それでもメールで母に知らされた時も、何の感情も湧かなかった。
亡くなった祖父と対面した時、初めて涙が流れて、告別式の時は参列者に礼をする時に大量の鼻水がそれこそ滝となって流れたことに慌てた。
お母さんに対する、未練と言っても良いくらいの、良い意味でのしつこさを感じた。
今のところ母の次に愛する彼氏が亡くなった時、自分はどうなるのだろう。
今夜は眠れそうにない。
わかってないのはお前。
俺はそんなレベルの話はしてない。
マジで「デッサンをやれ」と言われたら、毎日まったく向上心なくただ作業として黙々とデッサン「のようなもの」を描き、昨日より今日うまくなったろうかとか一瞬たりとも思わずに続けるカスがいるんだよ。
2chで「絵がうまくならない」とか言ってる奴のスレでも適当に見てみろよ知らねーんなら。
てかこれこそ「相手の言ってる事を勝手に単純化して切り捨てたつもり」なコメントのの最たる例だよなあ。
キモチヨク言い逃げしたいだけの確信犯カスと呼ばれるのがいやなら正々堂々トラバつけろ。
誤読を訂正する機会すら与えないのって最悪の逃げじゃん。卑劣下劣醜悪。
なんで、「単純化して切って捨てたつもりの短文コメントクソ」って記事に単純化して切って捨てたつもりのクソ短文コメントつけちゃうんだろ。
なにももらえなくて悲しい
ファンの公式画像を使った二次創作てきな応援みたいなもんなの?
俺「オートアタック」
友人A「アスキーアート」
友人B「ダブルエー」
昔プレイしていたゲームにあった、アサシンアタックっていうスキルもAAって呼ばれていた気がする。
んで、この話をまた別の友人にしたら、「好きなゲームに登場するキャラの胸のサイズがAAで〜」みたいなこと言い出したし、人によってそれぞれなんだなって思った。
今日も忙しくなりそうよ!
すいすいすいようび!
今日も頑張りましょう!
さて、
遠く離れたこの田舎町でも
その余波が来そう。
しばらく収拾が付くまで大人しくしていましょう。
とりあえずは
うふふ。
味付き海苔で巻いてあって、
しまった!罠に掛かった!って気付くの。
その、味付き海苔鮭おにぎりとハムタマゴサンドをとっとこいただいたわ!
そんなときはデトックスフィンガーウォーラーで手を洗ってもいいわよ。
ちゃんと、麦茶容器も
たまには塩素殺菌したいわね!
今日も頑張ろう!
まさしく、Last Night, Good Night やね。
私が、なぜ死にたいか、社会的ステータスや状況なんかは別の記事として投稿しようかと思います。
http://anond.hatelabo.jp/20160823230040
現実の世界では(インターネット上の話ではともかくとして)エゴがどうとか以前に、無意識的に止めようとすると思う。
例えば、ちらほら人通りのある橋から目の前で人が飛び降りようとしていたとする。
格好や目つきや動きがよっぽど変ではないかぎり、止めようとすると思う。
止めようとするのが怖くても、警察に電話の一報くらいはしようとは思う。
高校生の頃に、飲食店で財布を忘れて戻ってきた客が急に怒りだして暴れだしそうにしていたことがあった。
隣にいた友人や他の客はすぐに止めに入ったし、私もすぐに警察に連絡した。
現実世界で自殺を止めるってのは、そういうことと似たものだと思う。
自分の所属している社会やコミュニティ(会社、学校、旧友、家族)なんかが
どう反応するのか、なぜ反応するのか、というのも気になる話ではある。
もし、自分が新しいコミュニティに移行したとして、初めからかなり自分勝手に振る舞って、周りからの印象が最悪、1ヶ月くらいでいなくなったとしよう。
そういう人は、誰からも自殺を止められないし、どうでもいいって思う人がほとんどだと思う。
仕事が出来なくて、怒鳴られている人がいたとする。同僚や上司とある程度の会話を普段しているなら、
仕事的には邪魔でも、長く過ごすと少しは情や想像力が働くので、無意識的に心配してくれるときもある。
一般的には、所属する社会がある程度健全に機能しており、自分も人並み程度に人と情のやり取りをしていれば、不登校の子どもにはプリントを持っていくシステムがあるように、
人の死を心配するってのは自然に組み込まれてるもんだとは思う。それは割合的には小さくはあるものの、一応多数の部類だとは思う。
会社にしても、学校にしても、ワタミの過労死や一橋大学のアウティングのように
責任を有しており、追求される可能性があるので、大きなリスクを小さくするためにも自殺というものは避けさせないといけない、
ある人が自殺を止める理由については、一概にこうだから、とは言えないとは思う。
自分の生存ルールなんかを把握できるほど人間は頭がよくないし、学問的に分析しようにも世界中のコンピュータを集めても計算量は足りないと思う。
はてブの、矢口とベッキーと狩野英孝の不倫記事のコメントを見ると、その人がそれぞれ違った叩きと擁護と無関心をしているように、
自分でもよく考えずに自殺を止めたり止めなかったりするんだと思う。動物的な本能と人間的な社会性や自分の経験、保身、いろんなものが混じってると思う。
エントリー主は、自分は死にたいはずなのに、どうして他人の自殺を通報したんだろうというところに何か引きづられているのだろうけど、
「何を読んでも、自分は死ぬべきだと思う」と思っているからこそ、自分の考えと発言の矛盾で混乱しているだけで、
少なくとも現時点で死んでいなかったり、変な行動や犯罪的なことをやり警察に連行されていないということは、
生の論理や生の執着、死の恐怖が結構こびりついていて、現在の生と将来の生への逃避ばかりに目が行っていて、
それが同時に存在するということに目が行っていないだけだと思う。
通報した理由は、ハッキリとはわからないけど、自分の考えたり想像したりしていることが、死だけではなく、生についても自分の知らない裏側できっちり考えていることは確かだと思う。
>「しかしなぜ、自分を変えられるから、あなたは変われるから、死ぬべきではないと言えるのだろうか。」
これは、現実的な人がいう自分の変わると、印税をもらえる人のいう自分の変わる、自分の想定する変わる、を分けて考えた方がいいと思う。
私は、3年間くらい死にたいって思っていて、今も、今すぐに死ぬボタン、みたいなのがあったらその日のうちに押すなーとは思っているけど、
死にたいって思い始めた当初と現在を比べると、変わったことはたくさんある。
少なくとも、前向きに生きてみようかな、と思い始めている時期は数ヶ月間あったり、
超たま~にではあるが、温泉行ってみようだとか、シンゴジラ見に行ってみようだとか、楽しみを実行したいという気持ちも生まれることもある。
昔は、外に出て誰かが歩いているだけで陰鬱な気持ちになっていたのが、今は特に何も思わなくなっている。
その程度には変われるし、いい出来事も起きたりはする。
けど、長い間生きることをメリットとは思っておらず、やっぱり死んだ方が楽だろ、とは思っていて、そこは変わっていないと思うし、
死ぬ時は、死んだ何日か後に増田に記事を自動で投稿するようにPCに仕掛けておいて、死ぬ思いなんか残しておこうかと思う。それは死ぬ前の楽しみ。
世の中には、気持ちよく反論をする、あるいはよどみなく自説を述べることで自分をより論理的(な風)に見せるという目的のために、批判対象の議論を勝手に矮小化し単純化する輩がいる。
「冷房はつけっぱが良い」という話は、ただ「つけっぱの方が電気代が安くなった」という話だけでなく(諸条件によってはこれもありうるが)、「変に我慢して暑さが頂点に達するまで待っても、暑くなったところから一気に冷やすためには涼しい時間帯からゆるゆるとつけとくのと『同じくらい』電気を使う」(我慢するだけ損/不健康)とか「さらにその場合最高出力を全世帯で同時刻にかけることになり『ピーク電力』が上がる」とかのデメリットも勘案しての話であり、詳細は自分の状況に応じて考えようという程度の「提案」である。
しかるにこれら議論を全て捨象して単純に「エアコンつけっぱで電気代が安くなるわけないだろ」などと言い捨てて得意げな奴らが大量に発生した。
似たような事象は数年前「朝バナナダイエット」に注目が集まった時にも見られた。
これは本来「カロリーコントロールをすべきだ/したい」という目的意識と意欲があるものの、「では具体的にどこから手を付けよう」というところがわからない、もしくはそこを研究している時間がないという「意識は高いが忙しい層」に向けて、朝食をバナナに置き換えると「総カロリーの抑制」「朝食は抜かず、一日の活動に支障がない」さらに「食物繊維も取れてなお良し」ですよという考え方のヒントを与えたものに過ぎない。
「バナナを食べれば食べるだけ痩せる」なんて話はどこの誰もしていないのに、勝手にそのようなものの様に決めつけて「反論」し、気持ちよくなっている猿が雨後の筍のように現れたものである。
節電やカロリーコントロールといった生活の知恵に限らず、大抵の知識やテクニックとはこういうものである。
絵描きに「どうすれば絵がうまくなりますか」と質問すると、「デッサンをすると良い」とか「模写をする方が早い」とかいろんな答が返って来る。
結局は人の数だけやり方はあるという事だが、一点だけ誰が何を挙げている場合にも共通する前提がある。「それら練習を通して、自分の絵を客観的に反省し、描きたいもののイメージを鮮明に思い浮かべられるようにしろ」ということである。それをいちいち言葉にしないのは、それこそが「絵を描く」ということに他ならないからである。「絵を描く」ことをしたいと望む人間が、その時点での自分の技術的問題点を認識し「こういうところをもっとうまく描きたい」という問題意識を持って『いない』とか、「構想段階でもっと良いアイデアがポンポン出て来ると良いのに」という野心を持って『いない』とかいう事は、そもそも想定する必要すら意識に上らないからである。
にも拘らずこの場合もまた、現れるのである。その程度の常識的な問題意識も持たず、「デッサンをやってもうまくなんてならないぞ!詐欺だ!」なんてことを言い出す連中が…
おおよそ全てのアドバイスやティップスと呼ばれるものは、「問題意識」が相手にある事を前提に、その「問題意識」に取り組むとっかかりのヒントを与えるだけのものであって、問題意識の有無に係らず万人に適用可能な、ただああしろこうしろという指示のままにエスカレーターに乗っていれば勝手に問題が解決されていてくれるような、甘ったれにありがたい『完全な答』を教えてくれるような神様仏様はこの世に存在しないのである。
しかるにその程度のことも、人生十数年か何十年か生きてるのか知らないが、理解できないくそったれの甘ったれが世には溢れている。
あまつさえ、そうやって自分に問題意識がないだけのことを逆に笠に着て、問題意識のない自分にもすぐにご利益を与えてくれるドラえもんとはなれないアドバイザーをかように「論破」してみせたり無能呼ばわりしたりする。
自分では「頭の良い俺が不完全な証明を喝破してやった」なんて悦に入っているが、何の事はないただ自分の中に問題意識が足りなかったために相手が役に立つ話をしているのが何も理解できなかっただけである。
「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、 ほめてやらねば、人は動かじ」とはよく言ったものだ。
実際は、動かないどころか、そんな自分を正当化し、あまつさえ相手より有能な人間かなにかの様に錯覚し出す。そうして誰にも「論破」されない全能感を、何も『しない』ことで肥大化させ続けるというアクロバティックを通り越してもはや永久機関的ですらある自己完結に至るのが真に無能な輩の生態なのである。
考える脳味噌のない連中ほど、自分の頭が良いものか何かのように思い込み、考える脳味噌がないゆえにその状態の矛盾にも気づかずますます確信を深めていく。
自分から動き、問題意識を蓄え、種々の知識がその問題意識を解決しうるものかという観点のみをもって議論し評価する、ということが出来ないのはただの前提条件に達してすらいない無能中の無能なのである、ということを、この永久機関の中に引きこもった連中が理解する日は来るのだろうか。
殴られた、って・・・いいのこれ
今日夕方くらいからずっと腹が張ってる感じがあったものの理由がよくわからず、
風呂入って「ガスが溜まってるんだ」とようやく気付いた。
ストレッチしたりしても一向に出る気配がなく
腹が張っててももう眠いし、軽い腹痛はあるものの眠れないほどではないので
もういい、寝よう、と床についた。
目を覚ましたのは不本意だが、溜まってたのが出たならよかったわ、寝よう。
と再び寝始め、またうとうとしたところで爆音(屁)。
さすがにちょっと笑ってしまい、笑ってしまったら目が冴えて眠れなくなった。
眠れないながらも寝ようとベッドでゴロゴロしていたら、すかしっ屁が出る出る。
フスッという短いものからス〜〜〜〜〜〜〜〜ッという長いものまで様々な屁が。
おかげで腹の張りはだいぶ治まったが、まだもう少し出そうな気配があるうえ
明日もあるのに全く眠くなくなってしまい、どうでもいい話だなと思いながらも