はてなキーワード: ケアマネとは
①のシステムで受け持ち件数を見た時に、ケアマネ一人あたりの件数があまりにも多い事業所も避けたほうがいい。
一人35件以上(要支援者を含めて39件以上)受け持つと報酬減算になるから、そんなに沢山受け持っているケアマネはあまり居ないはずだが、たまにいる。
受け持ちが多いケアマネは、心身に余裕がないか、一人ずつへの対応をテキトーにしてるかのどちらか。
あと、個人的には医療ニーズ高くても看護師あがりのケアマネじゃなくていい。
看護師の資格を持ってても、ほとんど看護師経験がなかったり、たいした医療知識のアップデートをしてない場合が多かったりする。そもそも優秀な看護師ならわざわざケアマネしてない。本気で在宅介護に関わりたいなら訪問看護とかしてる。
高齢者特有の病気なら、介護職あがりのケアマネでもそれなりに知ってたりするし、
医療依存度が高ければ主治医とか訪問看護とか医療専門チームと連携を図ればいい。ケアマネの仕事はケアマネ本人が病気を治すことではなく、専門家との連携を上手く図ることだ。
介護経験者のほうが、親身になって話聞いてくれるし、アドバイスくれたりする。もしかしたら認知症については看護師より詳しいかもしれない。
ケアマネ選びの参考にしてほしい。
(※追記…今回は所謂「居宅ケアマネ」のみ。施設ケアマネや小規模多機能型ケアマネは除く。)
まず前提としてケアマネになるのはそれほど難しくない。
実務(介護職だったり相談援助業務だったり)経験を積み→筆記試験合格→研修受講→ケアマネになれる。
試験もここ数年は合格率が下がっているが、言うほど難しくない。
ケアマネという仕事に限らずだが、重要なのは、ケアマネになってからだ。
それでは以下、参考に。
追記…信頼できる口コミや紹介があればそれはそれで良いと思う。でもそういうツテがない人や、紹介されても自分とは合わなかったけど今更断れないってことのないようにやはり情報として知っててほしい。
因みにケアマネがいるところは「居宅介護支援事業所」という。(デイサービスや施設系もこのシステムでチェック出来る)
この公表システム…介護保険サービス事業所は毎年必ず入力しなければいけない。
にも関わらず、一般の人々にあまり認知されておらず活用されていない気がする。
慣れていないと少し使い辛いかもしれないが、その事業所にいるケアマネの人数や経験年数、受け持ち件数や前年度の退職者数なんかもわかる。
この時の主なチェックポイントとしては、
・ケアマネの入れ替わりが激しくないか(退職者数が多くないか)
退職者が多い事業所は言うまでもなく、何かしら問題がある。そういう意味では求人をチェックしてみてもいいかもしれない。
「同一法人のサービス事業所は何か」とも重なるが、法人(会社)によっては利用者に不必要なサービスを入れられる場合がある。それが嫌で辞めてくケアマネも少なくない。
(同一法人のサービスだと連携が取りやすいといったメリットもあるにはある)
(特定事業所「集中減算」というものもあり、これを取っている事業所は止めたほうがいいと思うが、公表システムでは分からない)
ケアマネの人数が多くいたり、経験年数が5年以上の主任ケアマネと呼ばれる人がいたり、24時間連絡が取れる体制を整えていたり…と、いくつかの要件を満たしているはずだ。
(でも正直、主任ケアマネだから出来るケアマネとは限らない。経験年数があれば簡単な研修を受けるだけで主任ケアマネになれる。そして今回の制度改正で居宅介護支援事業所の管理者には主任ケアマネしかなれなくなった)
※追記…加算を取っていなくてもフットワークが軽くいつでも対応してくれるケアマネも居る。利用者や家族にとっては良いケアマネだが、本当にお疲れ様です。
もし医療ニーズが高いなら看護師資格を持っているケアマネを…(福祉系出身のケアマネが医療知識に乏しいことも課題になっている)
障害サービスや生活保護など介護保険以外の福祉制度に詳しい人をと思えば社会福祉士を…
ケアマネは介護職経験が全くない人でも取れる資格なので、介護の実技的アドバイスが欲しければ介護福祉士を…。
もちろん資格を持っているからといって、その方面で優秀とは限らないので、目安程度に。
ただ注意点として、公表システムはあくまでも年一回の入力義務なので、
新規開設事業所がまだ載ってなかったり、既に廃止した事業所が載っていたり、情報が一年前から変わっているおそれもある。
※追記…このシステムの情報をもとに実地指導や監査をしている自治体もあるので、虚偽の報告はしていないはず。もし掲載情報と異なる場合には、直接聞いてみて、納得いく回答でなければその事業所はやめといたほうがいい。
各自治体には『地域包括支援センター』というのがある。
そこでこんなケアマネを探してるけど居ないか、と聞いてみるのもいいかもしれないが、
包括にも地域差があるので、①の方法と組み合わせて、包括に紹介された事業所を自分で調べてみるといい。
※追記…基本的に包括はその地域の情報収集に長けているはず。行政直営型と委託型があるので、委託型だともしかしたら系列法人のサービスを…となるのかもしれない。あってはならないことだが。包括が紹介する事業所は良くも悪くも包括との繋がりを大切にしているとも考えられるので参考程度に聞いてみる価値はある。逆に包括に嫌われているケアマネは例え人柄が良くてもやめといたほうがいいと思う。
①でも書いたが、主任ケアマネかどうかとか、経験年数とかよりも、自分と合うか否かは重要。
正直、自分と合う合わないとか言わせないのが専門職だと思うが…それでも「この人はなんか苦手」っていうのがあると思う。
・他のサービス事業所(デイサービスやヘルパーさん達)、病院などと連携がきちんと出来ているか
個人的には、ケアプランを蔑ろにするケアマネは『無し』だと思う。
※追記…ケアマネの選び方について検索すると②や③についての記事はそこそこある。でも①の活用について記載のある記事を私はまだ読んだことがないので書いてみた。③にいく前に①や②を参考にしてほしい。
※追記…「選べるほど近くにケアマネがいない」という地域も確かにある。そういう時こそ①の公表システムを活用してほしい。ケアマネのサービス提供エリアが載っている。勿論、家に近いほうが何かと便利だが、そこを優先して苦手なケアマネと我慢して付き合うというのは本末転倒だと思う。(それでも近くにケアマネ居ない人は本当にごめんなさい。包括に相談してみて)
因みに提供エリアにも関わらず、遠いからという理由でケアマネは断ることができない。「利用者受け持ち件数が35件を超える」等の妥当な理由があれば別だが。
また、事業所によっては交通費を支払えば担当になってくれるので、お金を払ってでも担当してほしいケアマネがいれば聞いてみては。勿論、その地域に強いというケアマネも居る。でも本当に出来るケアマネは自分で地域開拓していく人だと思う。
本当はもっと書きたいことがいっぱいあるけど、ここでやめとく。
「ケアマネに色々要求するなら介護報酬上げて」と言うケアマネも、まずは自分のスキルがそれに値してるか考えてほしい。
介護保険って公費なんだよ…不必要なサービスを入れるレベルの低いケアマネほど介護報酬のこと言う気がする。
疑問を感じたら、ケアマネか管理者に聞いてみて、納得のいく対応でなければケアマネを変えてみては。
ただ、何人も変えて、それでも納得いかないのならば、ケアマネだけが問題ではないのかも。
因みに、ケアマネが煩わしくなったら、
『マイケアプラン』や『セルフケアプラン』といって自分でケアプランを作って介護保険サービスを使うことも出来る。
以上の内容は個人的考え及び経験が大きく影響しているので、重ねてになるがあくまでも参考程度に。
追記…色々書いたけど、ケアマネへの介護報酬は全額介護保険から出る。自己負担は今のところ無い。自治体や要介護度、加算で異なるが、1人の利用者で月3500円〜10000円くらいがケアマネに入る。これが多いか少ないかは人それぞれだろうが、現在の介護給付費が増大しているのは高齢者が増えているだけではなく、ケアプランを作る「ケアマネの資質」と「そのケアマネを選んだ利用者や家族」にも少なからず原因がある、ということも頭の片隅に入れといてほしい。
勿論、介護サービスを使わないと、どれだけケアマネが動いても1円も入らない月もある。本当にお疲れ様です。
知識や経験が無くてもアナタにとっては良いケアマネなのかもしれないし、その逆もあるだろう。介護は辛いだけじゃないはず。本当はおこがましいのは重々承知で私の知識と経験をフル活用して、1人ひとりの相談援助したい。拙い長文読んでくれた人、ありがとう。
素敵なケアマネに巡り合って、ハッピー介護ライフを送ってほしいと心から願っている。コメントにも為になること書いてくれてる人いるから読んでね。
軽度の発達障害を持っているが、正直健常者が羨ましくて憎い。
主な症状は、常に笑われていると感じる、視線を感じる、劣等感を持つなどがあって、この症状を持たない正常な健常者がとても羨ましく思う。
常にこんなマイナスなことを考えてる人間が働いたりして社会に貢献することできないだろ。健常者は考えたこともないだろうな。余分な事を考えない頭でたくさん生産的なことを考え出せるんだろうな。
山根俊恵の"ケアマネ・福祉職のための精神疾患ガイド 疾患・症状の理解と支援のポイント" て本を読んだら、健常者向けの精神障害者の取り扱い方みたいな項目があってあぁ、やはりこんな目で見られてるんだなと悲しくなった。
他のサイトでは精神障害者は他の人より考え方が違うから安心しろ!なんて書いてるけど、そのメリットを潰すくらい健常者が出来る事が出来ないデメリットの方が強すぎるて分からないのか。
今年になってから母が転んだり入院したりと明らかに今までより老化のグレードが上がったと漠然と感じていた。
入院した際、退院後のレンタル用品も増えるだろうと予想し介護認定の再申請をして良いケアマネと知り合うこともできたが母は直接介護事業所に電話してあんなものはいらないこんなものはいらない設置した手すりのせいで転んだなどと文句を言っている。
ベテランのケアマネは様々なところで尽力してくれるが「お母様は難しい性格の方」という評価をした。
このセリフを聞いたときに私は一瞬にして女子高生に戻ってしまった。
そして当時なんとなく感じていた言葉や形にできない母への憤怒は間違っていなかったのだなとあの頃の私の肩をたたいて励ましてやりたい。
毒母とまでは行かないまでも当時40代の母は支配傾向が強く自分の思い通りにならない私が気に食わないようだった。更年期との折り合いが上手くつかなかったのかもしれない。進学校に通っていた私には比較的裕福で穏やかなご両親を持つ友人しか周りにおらず母のことを愚痴ってはみたもののあまり彼女たちにはピンとこない様子だった。母と比較する対象の大人サンプルをあまり知らない私にとって、私が悪いのか、もしくは私と母の相性が悪いのかが判断できず、かなり情緒不安定で精神安定剤に頼る子供となっていた。進学したいのでグレるという選択肢はなかった。
私がやっと自分の人生を送り出したのは離婚後の30代半ばだと思う。
思い返してみれば結婚した主な理由は結婚しないと母の機嫌が悪くなるので、というのでは結婚生活などうまくいくはずもない。
離婚後の私は実家と没交渉になり1年に1度帰るか帰らないか程度、留守電も放置していた。距離を置いたことにより母と私は上手く行っていると思いこんでいた。
しかし、今年に入って何度も実家に行って母と会うと実は状況は凍結されていただけで改善されているわけではないということがわかった。
そして冒頭の「お母様は難しい性格の方」という言葉で私は母が他人から見てもかなり難ありな人間だと知り救われた。
また母と同居している弟は「元々キチガイなんだから気に病むな。」と言う。じゃあ、弟も母をヤバいと思っていたということなのか。この件について兄弟で話し合ったことはないが私だけが母と合わないわけではなく単に弟のスルースキルが高かっただけどわかった。
なんだか目の前の霧が晴れたような気分だ。
私はもうすぐ50に手が届く年齢だ。
介護者の私にだけ暴言吐きまくる認知症の父方の祖母(認知の前は妄想性障害で妄想で日夜とわず喚く怒鳴る暴言吐きまくり) の介護を2年間ほぼ一人でしたら、ストレスでここ半年間で7キロ体重増加 適応障害になり医者から薬処方
膝は悪くなり、介護と仕事のストレスから逃げたくて逃げたくて本来なら貯金しないといけないはずのお金をギャンブルで使いました。
お金を使ってしまった事に対しては自分が一番なに馬鹿やってんだよ情けないと思ってます。
祖母には私の父親含めて息子3人います。私の親は両方健在です、母親は介護職で父親は退職してもう一度務め先に務めています。叔父達も仕事してます。
色々家庭の事情があり祖母と一緒にいるのは叔父と私と私の娘です。
でこの親族どもは私が体調悪かろうが仕事が~仕事が~で祖母の介護を押しつけていました。
祖母が今のディにいくようになって叔父は少しだけ手伝ってくれますが私の両親は介護を頼むと怒鳴る知らん顔でした
つい最近あまりにも体調悪いから病院いったら上記にも書いてあるように適応障害と診断されて薬のんで
親戚の人達から両親が祖母の介護の世話をちゃんと私達(両親)がしてますといってたという話を聞くまでは
私の心の何かが崩れました。そこからゴロゴロ落ちていき体調不良は悪化し情緒不安定になり
先週お薬追加になりました。
叔父がさすがに心配したのか父から私に電話ありましたが介護手伝うかじゃなくて、私のストレスがたまりすぎストレス発散にしてきた事を怒り怒鳴られたのでぶちギレて介護のせいでこうなったと訴えましたが最後は話をそらして笑われ逃げられました
飲みたくもない薬飲んで、体重は痩せないどころか増えてくし膝も悪化し続け祖母からは相変わらず暴言はかれ
それでも仕事と介護して両親は好きな時に遊びにいける、旅行もいける、焼き肉も食べにいけるのに
自分にも悪い所は山程あるけどけど....両親に対してもう憎しみと○意しかないです。心が壊れました。
明日自分がどうなるかわからない身なのでどこかに感情を吐き出したくてここにかきました。
施設にいれたらいいのでは?と思う方がいるでしょうが空き待ちです。何度もケアマネに相談して
訴えましたが回答は介護度が重い方々優先で(祖母は頭が駄目だが身体はまだ歩ける為介護度が軽い)空き待ちです。
料金の高い所に一時的でもとおもいましたが、祖母が拒否と一ヶ月にかかるかかる費用みて驚いて諦めました。
私よりもっと大変な思いをして介護してる方々が沢山おいでるかと思います私みたいに心壊れないようお気をつけてください。
介護や育児を誰かに任せっきりでいる方々、少しでも手伝ってあげるか、ありがとう、いつも悪いね
と、それだけでも少しは違ってくるはず私の家はそれがなかった。
今日、母から6月いっぱいで解雇という話を聞かされた。はっきりいって、不愉快である。
この会社というのがなかなかの魔窟で、実態はひどいものだった。職員も上司も、そして経営者もクソだからだ。
職員はまず教育が全くされておらず、適当。休みたけりゃサボる。夜勤の連中がサボってシフトが回らなくなるほどだ。
上司。面倒ごとはしらんぷり。すべて下に押し付ける。下の教育も全くせず、こいつらも教育がされてないみたいである。
経営者。こいつが一番クソかもしれない。経営の勉強、経営、更には福祉の仕事すらしたことがないんじゃないか。と言うのも、この会社は母(こっちからみて自分の母の姉)から譲り受けたものだからだ。
ついでに言うと、この姉もクソ。そもそもこの介護施設はこの姉と首謀者の夫(ハゲ)が立ち上げ、姉が陣取ることになった会社だ。このハゲがなかなかのクソで、事業を乱立させてはぶっ潰すという、類稀なセンスの持ち主だった。こんなのと長く連れ添うぐらいだから、この姉もお察しである。更に過去に母にすがりついて仕事を助けたのだが、いさかいを起こして裏切ったことがある。そんな姉、「私は教師をしたこともあるし、栄養士にケアマネの資格もある。なにより経験がある!」というが、実際は言うまでもない。その状態で姪っ子に譲渡したのだ。
母の仕事は壮絶だった。
入ってしばらくは1日14時間前後。それが1ヶ月(1日に昼働いて仮眠挟み夜勤という日がたまにある為)。先述、夜勤の連中サボったシワ寄せが母に全部かかることもザラだった。空いたシフト全て母が埋め合わせたのだ。労働基準法とはなんなのか。
しばらくすると、もともと介護職で入ったはずなのに何故か採用担当になった。介護の仕事に上乗せの形で採用の仕事も回るようになった。必死で採用掲示して面接の繰り返しだった。
そして4、5人採用した途端、「あんた、もう採用も夜勤も入らなくていいから、教育は我々でやるね」と言い出した。やっと楽できる、とお思いだろうが、違う。
先の上司共の話で面倒ごとは押し付けると言ったが、新人ら自分らで上手くこき使える様に調教させるのだ。
人も入ったことだし、夜勤も入らなくてすむ...。そんなことはなかった。夜勤のバックれは相変わらずで、やはり母が埋め合わせた。ひどい時は利用者が薬を飲み間違えてトラブったことがあるのだが、丁度担当者がサボり、母が徹夜で看病することもあった。
この頃3日から1週間ほど、うちに帰らない事がマジでザラだった。
更なる問題は残業代で、向こうは払おうとしなかったみたいである。自分は「貰えるもんは貰っとけ、ボランティアじゃねーんだから」といったのだが、母は持ち前のボランティア精神を遺憾なく発揮した。「今、経営が苦しいみたいなのよ。私が好きで入ってるところもあるから...」。
これだけ散々酷使しておいていきなり、6月10日、突きつけられた。「6月いっぱいでお願いします」。
母が配属されていた事業部をたたむ事が決定したためだ。
母以外にも4人ほど、解雇を言い渡されたらしいが、内3人はすでに受け皿が決まっていた。こう見れば、母だけピンポイントに潰しにかかってきている。
驚愕の展開はここからである。「解雇という形になると、助成金がおりないので、手続きしないでくださいね」。池井戸 潤もびっくりの超展開である。
母は食い下がったが「本当にごめん、本当にごめん」と掛け合ってくれなかったという。平謝りなんざ誰でも出来るわ。
結果、母は親族だから頼みやすいという点と強いボランティア精神につけ込み、甘えるだけ甘え、利用できるだけ利用して、用済み、というか邪魔になったら残業代も「あなたが勝手に残業したんでしょ?」と払わず、追い出しにかかった形だ。
だが、このまま引き下がる訳にはいかない。もし本当に解雇路線を貫こうものならこっちも手がある。「労働審判」である。不当な解雇、扱いを差し止めする簡易裁判だ。
実は過去に経験がある。こう言うと「お前のかーちゃんにも問題があるんじゃねーか」と言われそうだが、断じてない。
母はボランティア精神旺盛でありながら、負けん気が強く、精神力が半端ないのだ。その当時、半沢直樹の熱がまだ帯びていた事もあって、感じるところがあったようだ。負け犬のまま終わる気はないと。事実、立ち向かう方法があるなら泣き寝入りする必要も無い。
まだ弁護士に相談もなにもしてないが、もし本当に向こうがその気なら、自分も母と相談し、考えていくつもりだ。もし勝ったら、そのときは"あの言葉"をぶつけてやるわ。
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★今回のGDPショックの「A級戦犯」は、間違いなく住宅部門。
97年の税率引き上げでは、住宅駆け込みに何の対策もせず、反動減で景気悪化した。
今回は「前回の反省」を踏まえ、様々な対策を打った(ローン控除拡大、給付金など)。
・・・にも関わらず、住宅業界は「2回目のA級戦犯」になった。
★実質的には、増税前の住宅購入より、増税後の住宅購入の方が、各種対策のおかげで「有利」に働くケースが多い。
だから政府は、「今回は、住宅の反動減は少ない筈」と見通した。
「こんな筈ではなかった」が、政府のホンネだろう。
だが、政府見通しは「一般人との間の、情報の非対照性」を見落としている
★実際にモデルハウスに通い、見積りを貰うレベルの「真剣な住宅検討客」は、政府の「住宅落ち込み対策」の内容ちゃんとを学習してくれる。
「なんとなく、家でも買おうか、と思い始め、まだアクションしてない層」、ここで情報非対称問題が出てくる。
「なんとなく、家でも買おうか、と思い始め、まだアクションしてない層」の中には、
「消費税が5%から8%に上がった」と聞いた時点で、検討を中止する人がいる。
その先、「でも、今回の増税に対策が用意されてる」の情報まで辿り着いてくれる人は、
政府の想定ほど多くなかった
「なんとなく、家でも買おうか、と思い始め、でもまだアクションしてない層」と
政府・住宅業界との間で「情報の非対照」が発生したのが主因じゃないか?
いくら「良い対策」が作られても、それを周知させなければ意味がない、の典型例
★というのが自分の仮説だが、これを立証するために、「住宅を検討して、でも結局見合わせた人」に対して、
「あなたは住宅ローンの拡大や、住まい給付金の存在を、知っていましたか?」と調査することをお勧めしたい。
自分の想像では、政府の想像以上に、「そんな制度は知らなかった」という声が、出てくるんじゃないか?と思う。
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「経済的に有利な情報」を摂取する能力は、残念ながら年収高い人が高くて年収低い人は低い。
例えば非正規労働者向けの支援制度なんかは、どれだけ非正規労働者が情報摂取しようとしてるか、疑問
★「税率を上げます、その代わりにこういう対策します」な政策だと、情報リテラシーが低い人(概ね年収も低い)が不利益を蒙る。
情報リテラシーが低い人も考慮した制度設計するなら、「低税率がデファクトスタンダード」な制度設計するしかない
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★「政府と現場の情報非対称」という点では、介護の世界もそれに近いらしい。
各種の制度が100も1000も存在し、患者家族はおろか、ケアマネージャや介護事業者ですら、制度の全容を把握してない
★福岡に、介護関係の制度情報を交通整理して、ワンストップでケアマネージャや介護事業者に提供するベンチャーがあって急成長している。
逆に言えば、そういうベンチャーに頼らなければならない位に、介護界では「厚生労働省と現場の情報非対照」が深刻
★厚生労働省は、「その件は、平成26年3月15日付け、老人局長名通達の1245ページに掲載されてる」な感じで、
・・・厚生労働省通達の何千ページの中から情報に辿り着く能力は、キャリア官僚はそういう能力があるが、ケアマネージャはそういう能力はない
★厚生労働省は膨大な通達をデータベース化、交通整理する気はさらさらなかった。そんな必要性を感じてなかった。
一方、介護当事者側は、膨大な通達・複雑な制度を「仕方がない」と諦め、本来業務時間を割いて、というか残業しながら制度を必死に勉強。生産性低い
★こんな非生産的な話を「オカシイ」と気付いたのは厚労省でもケアマネでもない部外者。
IT系の若者が、ケアマネだった母親の実情を聞いて、「これはオカシイ」と気付いて起業して急成長。
★多分、「岩盤規制分野」には、この手の情報非対称がゴロゴロ転がってると思われる。関係者ですら「そういうもの」と諦めている。
これの続き。
前の記事を書いてからいろいろアドバイスをもらって、とりあえずケアマネさんに来てもらったりしたが俺のストレスは減らなかった。
キチガイとなった親父はこの後も頭のおかしい行動で俺をいらいらさせた。
ある日、風呂から上がって全裸の親父とリビングで鉢合わせた時、俺は目を逸らした。
親父はそれを見てて、俺が親父の裸に嫌悪感があることを理解した。
その日の夜、寝かけの俺の部屋に親父は全裸で現れた。
死ねと思った。
前の日記を書いてから、親父を週の半分デイケアサービスに行かせるようにした。
何してるか知らんけど、日中家にいないだけでかなり気が楽だし仕事もかなり自由にできるようになった。
そこでも親父はキチガイ行動しまくってたらしいのでスタッフの方には申し訳なく思う。
かかってきた瞬間俺は期待しまくった。
「お父さんが倒れられて…」
ガッツポーズした。
病院に行ったら親父は死んでいた。
涙は一滴も出なかった。
苦労させられたことや、出て行った母親のことを振り返るとただただ気が楽になったとしか思わなかった。
葬儀屋の言いなりになる人も多いそうだが、一番安く済ませる方法をスマホでググっていた。
<追記>
https://twitter.com/ningengasinu/status/294877200761618434
スパムbotっぽいアカウント @ningengasinu とは一切関係がありません。
http://anond.hatelabo.jp/20130124161712
マジレス。
受けていれば担当のケアマネがいるはず。受けていなければ自治体の窓口に相談して介護保険を受給できるように手配を。
介護保険なんてどうせ使わない、と言う事はあるかも知れないが介護保険を使い始めると必ずケアマネージャという専門家がついてくれる。ケアマネージャにもよるが、必ず定期的に訪問してくれるので、悩みなどを打ち明けれるし、相談にも乗ってくれる。
脳の障害の後遺症で性格が変わってしまったと言うケース、これは「高次脳機能障害」という事であまり知られていないが実は病気である。そしてこれは目に見えない障害と言われていて、性格が変わってしまうと言うケースの他、他の事はほとんど不自由なくできるのに、計算だけは一切できなくなってしまうだとか、右と左が分からなくなるだとか、ズボンを被って、シャツを履いてしまうだとか言う症状が出る。
もし診断で高次脳機能障害という診断が出ていないのであれば、自治体の窓口、あるいはかかり付けの医師に相談すること。介護をしている人には身近であるはずのケアマネージャに相談することも大事。
高次脳機能障害でも性格が変わってしまい介護が困難になったと言うケースは、普段の本人を知らないため医師は直ぐに診察が難しい事がある。だから家族が普段の行動を詳細にメモにして、それを医師に渡す等し、診断を得る事がまず大切。
診断を得ると、要介護認定が上がる事がよくある。また精神障害者として認定される事もある。
これらの診断が出ると、あれは病気であると言う事が分かるから、それなりに受けいられる素地が生まれてくる。
また介護認定が出ると利用できるサービスが増える。当然ながら自己負担が増えるのだが、デイサービスなどのサービスを利用するのは、本人のためにも、またあなたが共倒れしないためにも大切な事だ。利用を躊躇してはならない。
さらにこれらの認定が受けられれば、自己負担を少なくしてサービス付き高齢者住宅や老人ホームなどにも入居することができるかもしれない。ただし月々十万以上の出費は覚悟しておく必要がある。本人の資産(年金など)が使えればそれを使えばよいがまともに年金払っていなかったりすると苦しい。
さて、ここまでが一般的なアドバイス。
次が裏技的な方法だが良いかどうかは分からない。また通用するかどうかも分からない。しかし最終的にはこう言う裏技もあるのだと言うことを少し覚えておいて欲しい。
まず上記で高次脳機能障害の診断名が付き、要介護認定(要支援ではなく)がそれなりの等級で出たと言う仮定で。障害者認定があればなお良いが…。
この状態であなたは外に部屋を借りる。そして住所をそちらに移して、あなたの父親は障害者/要介護認定を受けながらも、一人暮らしであり、あなたは仕事の都合どうしても同居ができないのだと言う状況を作る。実質は貴方は同居していてもかまわないが、まずは書類上こう言った状況を作る。この状態で特別養護老人ホームや、サービス付き高齢者住宅(公でやっている所なら安い)の利用を申請すると、緊急度の高い案件というフラグが立ち対応が全然違う。この状態だと高価な民間有料老人ホームより、自治体などがやっている安価な老人ホームなどにも入居が可能かも知れない。
ただしこの手法、自分の担当のケアマネージャや自治体の職員の協力…とまでは行かなくとも黙認が必要なのでいろいろと根回しはいるかもしれない。
さらに言えば…経済的に困窮していると言う事にして強く言えば、生活保護を利用する事も可能ではある。あなたが支援する事ができないと強固に言えば。ただ現在の情勢でこれが通じるかどうかは分からないが…。ただこれをするにはあなたの父親の資産はすべて処分されることとなる。
はじめに書いた事を行ってどうしても駄目なら、最後にはこう言う手もなくは無い。ただ先にも書いたがおすすめはしない。きちんと介護等級の認定を受けて、その範囲でサービスを利用し、場合によっては施設入居を目指すことがよい。
なおわざと不健康な状況に追い込んでさっさと殺せと言うトラバがついているがこれだけは絶対にやめる事。何故かと言うと当然倫理的な話はある事もさることながら、何らかの病気を併発した場合、さらに介護が困難になる可能性が非常に高い。そうなると困るのはあなただ。放置した場合は保護責任者遺棄といった犯罪に問われる可能性すらある。また現代の医療技術だと相当な状態でも助かる。が、介護負担は増える。健康寿命をできる限り延ばすことがおそらくあなたにとっても大切である。
祖母が先日亡くなった。10年前に祖父が亡くなった時、病院提携の葬儀社を紹介され勝手の分からなかった私達はお任せしたけど、何故か自分が受付をさせられてるのに職員は突っ立っていたり、色々と残念で二度と頼むまいと思った。
少し落ち着いてから祖母と母は祖父の郷里の墓参に行き、そこで祖母は転んで腕を折った。顔を洗える様になれば御の字という話だったが、自宅の家庭環境を考慮して頂いて長めに入院出来たお陰でリハビリもしっかりでき、洗顔はもちろん簡単な料理も出来るようになった。とはいえ、介護認定が下りたのでヘルパーさんに入って貰ったり、デイケアに行く様になった。祖父の生前は殆ど外に出掛ける事がなかったのだけど、デイでオセロをしたり、他の利用者のお世話をしたりと生活のハリとなり、通うのが楽しみになったそうだ。墓参に行かなければ、外の世界は知ることがなかったかもしれないし、よいケアマネさんに出会えなかったかもしれない。
私は祖父が亡くなった時、当時はよく今ほど認知度のなかった認知症の祖父がにやにや自分を見てるのを見ると昔の精悍さがなくなっていて悲しくて殆ど実家に寄り付かなかった事を心底後悔した。祖母には出来るかぎり会いに行こうと決めた。そして、極力行ったつもりである。祖母の具合が良くないと聞いて後悔したくないから会いに行った。膝掛けを作り、痛みで眠れないと困るから寝つきが良くなるという匂い袋を持ってお見舞いに行った。入院してから聞けないでいた好きなタンゴも用意していった。祖母は寝ていた。涙が止まらなかったけど、一方的に話し掛けてタンゴを流して、もう少ししたら母が来る旨と誕生日には来るからねと伝えて、ありがとうと言って帰った。地元空港に着いてから祖母の訃報を知った。今生の別れなのは分かっていたけど、やっぱり悲しかった。後悔がない訳じゃないけど、祖父の時の後悔のお陰で少しでも少ない後悔にする事が出来た。葬儀も誠意のある業者に出会えてきちんとする事が出来た。祖父が色々と手を回してくれていたような気がする。二人とも本当にお疲れ様、どうもありがとう。
タイトルに上げたんだけどさ、今高齢要介護者向けに「介護保険」ってあるじゃん。
これと同じ仕組みで「子育保険」って出来ないのかなって妄想したんでぐだぐだ書く。識者の方できたら突っ込んでくれ。
介護保険って
常々、介護と育児は中身は年齢が違うだけで中身は結構似ているような気がするんで、これを元に
ってすればどうだろう。
これだけじゃ無理がある部分もあるので…
どうよ(ドヤッ
介護保険を使う事になっていろいろと調べたり利用申請したりしたのだが、介護が必要な人間を抱える家族って、育児をしている家族と構造はすごく似ているって思った。ただ将来への展望が違うだけで。
介護保険のコンセプトは「介護が必要な人を社会全体で支える」という事だったと思うけれど、育児も「子どもは社会全体で育てる」という感覚があっていいと思うんだ。
また、介護は、介護保険があるおかげで介護が産業化していて民間企業が参入し、使い易い介護用品が出てきたり、従来より足りないと言われてきた有料老人介護施設の増加を促したり、介護業者も競争が増えて対応の質が上がったりしている。
一方ケアマネージャという有資格者が必ず関わることによっておかしな業者に引っかかって被害を受けると言った事を防止し、過剰請求なども防ぐ仕組みが出来ている。
いろいろあるけど介護保険はこの点で成功している精度だと思うんだよ。
だからこれを見本に、育児・教育を保険として作れば、いくつかの諸問題は(多少時間がかかるにせよ)解決に向かっていくんじゃないかと思う。
これで介護保険並の保険料で済むなら、十分に考える価値はあると思うんだけどどうだろう。
いやまぁ、こんな事ここで言ってもしょうが無いんだけどさ。
識者の方突っ込んでください。
男性は本音がどこにあろうと「社会に貢献する」という根本的な部分を持っているので、話のもっていきかたに苦労することがない。
実は今、父に女性のケアマネさん、母に男性のケアマネさんが付いている。2人とも、もちろん、我が家の状況を理解している。父は認知症なのだが診断が難しい珍しいタイプで、ある医師は「認知症」だと言い、ある医師は「ぼくは認知症と取りません」と言うような状態だ。正直、認知症かどうかはどうでもいい。問題は私が父に対して、どのくらい保護責任があるかということだ。認知症で無ければ、保護する必要はもちろん無い。自分の身の回りのことはしているからだ。認知症であれば、何か重要な判断を必要とする場には立ち会わなくてはならない。例えば、見当識の無い要介護3の母を父一人にみさせておくなど社会的に許されないだろう。ところが、ここのところを父のケアマネさんが理解してくれない。
「私は週35時間は休みが欲しいんです。でないと精神的に潰れます。だから、その間、ヘルパーさんとか出来るだけ人に入って欲しいんです」と言ったら笑い飛ばされた。「お父さんは自立して生活できるのだし、奥さんと同居しているし、娘さんも近居なんだから、ヘルパーなんて入れられませんよ。介護保険では出来ないこともあるんです」だそうだ。「いや、父には母の世話は出来ないと思いますけど」「認知症じゃないって言われたんだし、本人がやると言っているのだから、やればいいじゃないですか」って。
一方、母のケアマネさんは、母をショートステイに預けるように、しきりとアプローチしてくれる。母の世話するのが父には無理だということを理解してくれているのだ。父は頑として受け付けないが、本当に有り難い。
父のケアマネさんに「父に母を預けるのは無理だ」ということを理解してもらうには、どう話せばいいのだろう。
認知障害のある84歳の母を85歳の父と一緒に介護している。母は「ここがどこで、今がいつで、自分が誰で、自分が何をしているのか」がわからない。見当識が無いというのだそうだ。半年前に在宅介護を始めてから、毎日毎日「私、どうしちゃったの? どうなってるの? なんで誰もいないの?」と聞く。最初のうちは「病気なんだから」と辛抱強く答えていた父は、すっかりうんざりしてしまい、母がいつもの質問を始めると無視するようになった。私が代わりに答えると母は「なんでパパに聞いてるのに、あんたが答えるの?」と言うので「同じ質問を千回繰り返しているから、もう答えるのがめんどくさいんだよ」となだめている。
一昨日の夜、10時に就寝し、父は寝室に引き取り、私と母は病室としてしつらえた部屋で休んだ。11時ごろ、母がむくっと起き上がった。「何?」と聞いたら「パパに聞きたいことがある」とベッドから下りて、父の寝室のほうへ行こうとする。父は頻尿のせいで常に寝不足で、余計なことで起こしたら、さらに体調と機嫌が悪くなることが目に見えていたので力づくで阻止して、ベッドに押し戻した。すると母が「なんで、私がパパのところに行くのを邪魔するの? あんた、パパと出来てるでしょう」と言い出した。「私はパパは大嫌いだよ。でも、寝ているところを起こすのは可哀相だと思うから止めてる」と答えたら「あんたはパパが好きなのよ」と言い募る。その後も、1時間ごとに起き出しては、トイレに行くふりをして父のところに行こうとしたり、私を出し抜いて出て行こうとしたりする。朝4時、トイレに母を座らせていると「あんたは何をしているかわかっているの? 父親と関係を持つなんてしてはならないことよ」と言う。「やってない」と何度言っても聞かない。
ふと、思い出した。
母は私を叩いて育てた。躾なのだそうだ。言ってもわからないからぶつのだと言う。じゃあ、この状況ならぶてばいいんじゃないか? 母は私をぶてば言うことを聞くと思っていたのだから、私だって母をぶって言うことを聞かせればいいのじゃないか? 頬を張った。何度も何度も叩いた。母は「あんたは父親と出来てる」と言い続けた。叩いたって、言うことなんか聞かないじゃないか。
翌日、ずっと母は父と私に向かって「あんたたち、いつからそんな関係なの? 許されないことよ。情けない。信じられない」と言い続けた。ケアマネさんに相談したところ「そういうことはよくあることなんです。何日も続くようなら、どこか施設に短期で預けて、離れたほうが落ち着かれるかも知れません」とアドバイスしてくれた。
母は夜になっても、同じことを言い続けた。そして、一昨日の夜と同じように、夕べも同じことを言った。そして、私に向かって手を上げようとした。「ぶちなさい」と私は言った。「それで気が済むなら、何度叩いてもいい。でも、私とお父さんは何の関係もないと認めなさい」と、母はぶった。何度もぶって、私の頬は真っ赤になった。でも、ちっとも痛くなかった。母が私を叩くときに手加減したことなどない。今だって、もちろん、力一杯叩いているはずなのに痛くない。84歳の老婆に叩かれたって、ぜんぜん痛くない。最後には「関係はない」と認めさせた。
今朝になって、母の左あごに青痣が出来ているのを見つけた。昨日までは無かったものだ。私がぶったのとは違う場所だが、ほとんど24時間揉み合いをしていたのだから、いつかどこかでぶつけたのかも知れない。痛くないと言うので放置しておくことにした。
母は今朝、父の顔を見て「あなたとケンカした夢を見た」と言った。今回の騒ぎは、それで終わった。日常が戻ってきた。母はすっかりご機嫌だ。
今度、わけのわからないことを言い募ったら、母をぶつのではなくて、私をぶたせてやろう。私には母親はいない。私をストレス解消の道具にしてきた老婆がいるだけだ。やっと、母から解放されたような気がする。好きなだけぶっていい。私はもう母の言葉にも母の暴力にも傷つかない。私は母より強くなった。
201104072100追記。
思いがけない反響をいただいて、返信をしたら、ご期待を裏切るのでは?黙ってようか、とも思ったのですが、残念ながら文学として書いたのではなく、苦しい気持ちへの共感と、何らかのアドバイスを求めての投稿でしたので、追記の形でお礼を言わせていただくことにしました。
「飯つくれと父が言う」
http://anond.hatelabo.jp/20100603223423
「飯つくれと父が言う2」
http://anond.hatelabo.jp/20100710104654
http://anond.hatelabo.jp/20110111155004
ここまでの経緯を簡単に言うと、私は母を老人ホームに入れたかったのに、認知症を患っている父に強く反対され、叔母が協力してくれると言うので在宅介護を始めたら、叔母がのっぴきならない用事で来られなくなり、母をデイサービスに週3日行かせることになったのです。
主たる介護者は「父」で、私は補助に過ぎないのですが、23年前に両親の介護をするという条件で土地をもらって家を建てた(そこには75歳の夫の姉がいて、家が無くなったら行くところがありません)ので、介護から降りるという選択肢はありません。問題は、そのときはうちの両親と仲の良い夫がいたのですが、3年前に60歳で亡くなってしまい、私1人で抱え込む羽目になってしまいました。
誰が悪いわけでもありません。人が亡くなる順番は年齢通りでは無いというだけです。
母を施設に入れることを、父が承諾してくれさえすれば、今の状態から抜け出せるのですが難しそうです。でも、増田で相談したおかげで、少しずつ「介護を抱え込まない」方向に進めています。今回もすぐ(ケアマネさんに相談だ)と思えましたし、ケアマネさんがすぐに理解を示してくれたことで、とても救われました。
みなさんへの返事の中で言ったことも実行出来ていないことが多い(特に母を家に戻したのは痛恨です)のですが、少しずつみんなが楽しく暮らせる方向に進めていこうと思います。
忘れもしない今年の5月18日。武蔵野赤十字病院、循環器科の医師から次のような宣告を受けた。「膵臓ガン末期、骨の随所に転移あり。余命長くて半年」妻と二人で聞いた。二人の腕だけでは受け止められないほど、唐突で理不尽な運命だった。普段から心底思ってはいた。「いつ死んでも仕方ない」とはいえあまりに突然だった。
確かに兆候はあったと言えるかもしれない。その2~3ヶ月前から背中の各所、脚の付け根などに強い痛みを感じ、右脚には力が入らなくなり、歩行にも大きく困難を生じ、鍼灸師やカイロプラクティックなどに通っていたのだが、改善されることはなく、MRIやPET-CTなどの精密機器で検査した結果、いきなりの余命宣告となった次第である。気がつけば死がすぐ背後にいたようなもので、私にはどうにも手の打ちようもなかったのだ。
宣告の後、生き延びるための方法を妻と模索してきた。それこそ必死だ。頼もしい友人や強力この上ない方の支援も得てきた。抗ガン剤は拒否し、世間一般とは少々異なる世界観を信じて生きようとした。「普通」を拒否するあたりが私らしくていいような気がした。どうせいつだって多数派に身の置き所なんかなかったように思う。医療についてだって同じだ。現代医療の主流派の裏にどんなカラクリがあるのかもあれこれ思い知った。「自分の選んだ世界観で生き延びてやろうじゃないか!」しかし。気力だけではままならないのは作品制作とご同様。病状は確実に進行する日々だった。
一方私だって一社会人として世間一般の世界観も、半分くらいは受け入れて生きている。ちゃんと税金だって払ってるんだから。立派には縁遠いが歴とした日本社会のフルメンバーの1人だ。だから生き延びるための私的世界観の準備とは別に、「ちゃんと死ぬための用意」にも手を回してきたつもりだ。全然ちゃんと出来なかったけど。その一つが、信頼のおける二人の友人に協力してもらい、今 敏の持つ儚いとはいえ著作権などの管理を任せる会社を作ること。もう一つは、たくさんはないが財産を円滑に家内に譲り渡せるように遺言書を作ることだった。無論遺産争いがこじれるようなことはないが、この世に残る妻の不安を一つでも取り除いてやりたいし、それがちょいと向こうに旅立つ私の安心に繋がるというもの。
手続きにまつわる、私や家内の苦手な事務処理や、下調べなどは素晴らしき友人の手によってスピーディに進めてもらった。後日、肺炎による危篤状態の中で、朦朧としつつ遺言書に最後のサインをしたときは、とりあえず、これで死ぬのも仕方ないと思ったくらいだった。「はぁ…やっと死ねる」なにしろ、その二日前に救急で武蔵野赤十字に運ばれ、一日おいてまた救急で同じ病院へ運ばれた。さすがにここで入院して細かい検査となったわけだ。結果は肺炎の併発、胸水も相当溜まっている。医師にはっきり聞いたところ、答えは大変事務的で、ある意味ありがたかった。「持って…一日二日……これを越えても今月いっぱいくらいでしょう」聞きながら「天気予報みたいだな」と思ったが事態は切迫していた。それが7月7日のこと。なかなか過酷な七夕だったことだよ。
ということで早速腹はきまった。私は自宅で死にたい。周囲の人間に対して最後の大迷惑になるかもしれないが、なんとしてでも自宅へ脱出する方法をあたってもらった。妻の頑張りと、病院のあきらめたかのような態度でありつつも実は実に助かる協力、外部医院の甚大な支援、そして多くの天恵としか思えぬ偶然の数々。あんなに上手く偶然や必然が隙間なくはまった様が現実にあるとは信じられないくらいだ。「東京ゴッドファーザーズ」じゃあるまいし。
妻が脱出の段取りに走り回る一方、私はと言えば、医師に対して「半日でも一日でも家にいられればまだ出来ることがあるんです!」と訴えた後は、陰気な病室で一人死を待ち受けていた。寂しくはあったが考えていたのはこんなこと。「死ぬってのも悪くないかもな」理由が特にあるわけもなく、そうとでも思わないといられなかったのかもしれないが、気持ちは自分でもびっくりするほど穏やかだった。ただ、一つだけどうしても気に入らない。「この場所で死ぬのだけは嫌だなぁ…」と、見ると壁のカレンダーから何か動き出して部屋に広がり始めるし。「やれやれ…カレンダーから行列とはな。私の幻覚はちっとも個性的じゃないなぁ」こんな時だって職業意識が働くものだと微笑ましく感じたが、全くこの時が一番死の世界に近寄っていたのかもしれない。本当に死を間近に感じた。死の世界とシーツにくるまれながら、多くの人の尽力のおかげで奇跡的に武蔵野赤十字を脱出して、自宅に辿り付いた。死ぬのもツライよ。断っておくが、別に武蔵野赤十字への批判や嫌悪はないので、誤解なきよう。ただ、私は自分の家に帰りたかっただけなのだ。私が暮らしているあの家へ。
少しばかり驚いたのは、自宅の茶の間に運びこまれるとき、臨死体験でおなじみの「高所から自分が部屋に運ばれる姿を見る」なんていうオマケがついたことだった。自分と自分を含む風景を、地上数メートルくらいからだろうか、ワイド気味のレンズで真俯瞰で見ていた。部屋中央のベッドの四角がやけに大きく印象的で、シーツにくるまれた自分がその四角に下ろされる。あんまり丁寧な感じじゃなかったが、文句は言うまい。
さて、あとは自宅で死を待つばかりのはずだった。ところが。肺炎の山を難なく越えてしまったらしい。ありゃ?ある意味、こう思った。「死にそびれたか(笑)」その後、死のことしか考えられなかった私は一度たしかに死んだように思う。朦朧とした意識の奥の方で「reborn」という言葉が何度か揺れた。不思議なことに、その翌日再び気力が再起動した。妻を始め、見舞いに来て気力を分け与えてくれた方々、応援してくれた友人、医師や看護師、ケアマネージャなど携わってくれている人すべてのおかげだと思う。本当に素直に心の底から。
生きる気力が再起動したからには、ぼんやりしているわけにはいかない。エクストラで与えられたような命だと肝に命じて、大事に使わねばならない。そこで現世に残した不義理を一つでも減らしたいと思った。実はガンのことはごくごく身の回りの人間にしか伝えていなかった。両親にも知らせていなかったくらいだ。特に仕事上においては色々なしがらみがあり、言うに言えなかった。インターネット上でガンの宣言をして、残りの人生を日々報告したい気持ちもあったのだが、今 敏の死が予定されることは、小さいとはいえ諸々影響が懸念されると思えたし、それがゆえに身近な知り合いにも不義理を重ねてしまっていた。まことに申し訳ない。
死ぬ前にせめて一度会って、一言でも挨拶したい人はたくさんいる。家族や親戚、古くは小中学校からの友人や高校の同級生、大学で知り合った仲間、漫画の世界で出会い多くの刺激を交換した人たち、アニメの世界で机を並べ、一緒に酒を飲み、同じ作品で腕前を刺激しあい、楽しみも苦しみも分け合った多くの仲間たち、監督という立場のおかげで知り会えた数知れないほどたくさんの人びと、日本のみならず世界各地でファンだといってくれる人たちにも出会うことが出来た。ウェブを通じて知り合った友人もいる。
出来れば一目会いたい人はたくさんいるが(会いたくないのもいるけれど)、会えば「この人ともう会えなくなるんだな」という思いばかりが溜まっていきそうで、上手く死を迎えられなくなってしまいそうな気がした。回復されたとはいえ私に残る気力はわずかで、会うにはよほどの覚悟がいる。会いたい人ほど会うのがつらい。皮肉な話だ。それに、骨への転移への影響で下半身が麻痺してほぼ寝たきりになり、痩せ細った姿を見られたくもなかった。多くの知り合いの中で元気な頃の今 敏を覚えていて欲しいと思った。病状を知らせなかった親戚、あらゆる友人、すべての知人の皆さん、この場を借りて不義理をお詫びします。でも、今 敏のわがままも理解してやっていただきたい。だって、「そういうやつ」だったでしょ、今 敏って。顔を思い出せば、いい思い出と笑顔が思い起こされます。みんな、本当にいい思い出をたくさんありがとう。自分の生きた世界を愛している。そう思えることそのものが幸せだ。
私の人生で出会った少なからぬ人たちは、肯定的否定的どちらであっても、やっぱり今 敏という人間の形成にはどこか必要だっただろうし、全ての出会いに感謝している。その結果が四十代半ばの早い死であったとしても、これはこれとして他ならぬ私の運命と受け止めている。いい思いだって随分させてもらったのだ。いま死について思うのはこういうこと。「残念としかいいようがないな」本当に。
しかし、多くの不義理は仕方ないと諦めるにせよ、私がどうしても気に病んで仕方なかったことがある。両親とマッドハウス丸山さんだ。今 敏の本当の親と、アニメ監督の親。遅くなったとはいえ、洗いざらい本当のことを告げる以外にない。許しを乞いたいような気持ちだった。
自宅に見舞いに来てくれた丸山さんの顔を見た途端、流れ出る涙と情けない気持ちが止めどなかった。「すいません、こんな姿になってしまいました…」丸山さんは何も言わず、顔を振り両手を握ってくれた。感謝の気持ちでいっぱいになった。怒涛のように、この人と仕事が出来たことへの感謝なんて言葉ではいえないほどの歓喜が押し寄せた。大袈裟な表現に聞こえるかもしれないが、そうとしか言いようがない。勝手かもしれないが一挙に赦された思いがした。
一番の心残りは映画「夢みる機械」のことだ。映画そのものも勿論、参加してくれているスタッフのことも気がかりで仕方ない。だって、下手をすればこれまでに血道をあげて描いて来たカットたちが誰の目にも触れない可能性が十分以上にあるのだ。何せ今 敏が原作、脚本、キャラクターと世界観設定、絵コンテ、音楽イメージ…ありとあらゆるイメージソースを抱え込んでいるのだ。もちろん、作画監督、美術監督はじめ、多くのスタッフと共有していることもたくさんあるが、基本的には今 敏でなければ分からない、作れないことばかりの内容だ。そう仕向けたのは私の責任と言われればそれまでだが、私の方から世界観を共有するために少なからぬ努力はして来たつもりだ。だが、こうとなっては不徳のいたすところだけが骨に響いて軋んだ痛みを上げる。スタッフのみんなにはまことに申し訳ないと思う。けれど少しは理解もしてやって欲しい。だって、今 敏って「そういうやつ」で、だからこそ多少なりとも他とはちょっと違うヘンナモノを凝縮したアニメを作り得てきたとも言えるんだから。かなり傲慢な物言いかもしれないが、ガンに免じて許してやってくれ。
私も漫然と死を待っていたわけでなく、今 敏亡き後も何とか作品が存続するべく、ない頭を捻って来た。しかしそれも浅知恵。丸山さんに「夢みる機械」の懸念を伝えると、「大丈夫。なんとでもするから心配ない」とのこと。泣けた。もう号泣。これまでの映画制作においても予算においても不義理ばかり重ねて来て、でも結局はいつだって丸山さんに何とかしてもらって来た。今回も同じだ。私も進歩がない。丸山さんとはたっぷり話をする時間が持てた。おかげで、今 敏の才能や技術がいまの業界においてかなり貴重なものであることを少しだけ実感させてもらった。才能が惜しい。何とかおいていってもらいたい。何しろザ・マッドハウス丸山さんが仰るのだから多少の自信を土産に冥途に行けるというものだ。確かに他人に言われるまでもなく、変な発想や細かい描写の技術がこのまま失われるのは単純に勿体ないと思うが、いた仕方ない。それらを世間に出す機会を与えてくれた丸山さんには心から感謝している。本当ににありがとうございました。今 敏はアニメーション監督としても幸せ者でした。
両親に告げるのは本当に切なかった。本当なら、まだ身体の自由がきくうちに札幌に住む両親にガンの報告に行くつもりだったが、病気の進行は悔しいほど韋駄天で、結局、死に一番近づいた病室から唐突極まりない電話をすることになってしまった。「オレ、膵臓ガン末期でもうすぐ死ぬから。お父さんとお母さんの子供に生まれて来て本当に良かった。ありがとう」突然聞かされた方は溜まったものではないだろうが、何せその時はもう死ぬという予感に包まれていたのだ。
それが自宅に帰り、肺炎の危篤を何とか越えて来た頃。一大決心をして親に会うことにした。両親だって会いたがっていた。しかし会えば辛いし、会う気力もなかったのだが、どうしても一目親の顔を見たくなった。直接、この世に産んでもらった感謝を伝えたかった。私は本当に幸せだった。ちょっと他の人より生き急いでしまったのは、妻にも両親にも、私が好きな人たちみんなに申し訳ないけれど。私のわがままにすぐ対応してくれて、翌日には札幌から両親が自宅についた。寝たきりとなった私を一目見るなり母が言った言葉が忘れられない。「ごめんねぇ!丈夫に産んでやれなくて!」何も言えなかった。
両親とは短い間しか過ごさなかったが、それで十分だった。顔を見れば、それですべてわかるような気がしたし、実際そうだった。
ありがとう、お父さん、お母さん。二人の間の子供としてこの世に生を受けたことが何よりの幸せでした。数えきれないほどの思い出と感謝で胸がいっぱいになります。幸せそのものも大事だけれど、幸せを感じる力を育ててもらったことに感謝してもしきれません。本当にありがとうございました。
親に先立つのはあまりに親不孝だが、この十数年の間、アニメーション監督として自分の好きに腕を振るい、目標を達成し、評価もそれなりに得た。あまり売れなかったのはちょいと残念だが、分相応だと思っている。特にこの十数年、他人の何倍かの密度で生きていたように思うし、両親も私の胸のうちを分かってくれていたことだろう。
両親と丸山さんに直接話が出来たことで、肩の荷が下りたように思う。
最後に、誰よりも気がかりで、けれど最後まで頼りになってくれた妻へ。あの余命宣告以来何度も二人で涙にくれた。お互い、身体的にも精神的にも過酷な毎日だった。言葉にすることなんて出来ないくらい。でも、そんなしんどくも切ない日々を何とか越えて来られたのは、あの宣告後すぐに言ってくれた力強い言葉のおかげだと私は思っている。「私、最後までちゃんと伴走するからね」その言葉の通り、私の心配など追い越すかのように、怒濤のごとく押し寄せるあちらこちらからの要求や請求を交通整理し、亭主の介護を見よう見まねですぐに覚え、テキパキとこなす姿に私は感動を覚えた。「私の妻はすごいぞ」今さらながら言うな?って。いやいや、今まで思っていた以上なんだと実感した次第だ。私が死んだ後も、きっと上手いこと今 敏を送り出してくれると信じている。思い起こせば、結婚以来「仕事仕事」の毎日で、自宅でゆっくり出来る時間が出来たと思えばガンだった、ではあんまりだ。けれど、仕事に没頭する人であること、そこに才能があることを間近にいてよく理解してくれていたね。私は幸せだったよ、本当に。生きることについても死を迎えるにあたっても、どれほど感謝してもしきれない。ありがとう。
気がかりなことはもちろんまだまだあるが、数え上げればキリがない。物事にも終わりが必要だ。最後に、今どきはなかなか受け入れてもらいにくいであろう、自宅での終末ケアを引き受けてくれた主治医のH先生、そしてその奥様で看護師のKさんに深い感謝の気持ちをお伝えしたい。自宅という医療には不便きわまりない状況のなか、ガンの疼痛をあれやこれやの方法で粘り強く取り除いていただき、死というゴールまでの間を少しでも快適に過ごせるようご尽力いただき、どれほど助けられたことでしょう。しかも、ただでさえ面倒くさく図体と態度の大きな患者に、単なる仕事の枠組みをはるかに越え、何より人間的に接していただいたことにどれほど私たち夫婦が支えられ、救われたか分かりません。先生方御夫婦のお人柄にも励まされることも多々ありました。深く深く感謝いたしております。
そして、いよいよ最後になりますが、5月半ばに余命宣告を受けてすぐの頃から、公私に渡って尋常ではないほどの協力と尽力、精神的な支えにもなってくれた二人の友人。株式会社KON’STONEのメンバーでもある高校時代からの友人Tと、プロデューサーHに心からの感謝を送ります。本当にありがとう。私の貧相なボキャブラリーから、適切な感謝の言葉を探すのも難しいほど、夫婦揃って世話になった。 2人がいなければ死はもっとつらい形で私や、そばで看取る家内を呑み込んでいたことでしょう。何から何まで、本当に世話になった。で。世話になりついでですまんのだが、死んだあとの送り出しまで、家内に協力してやってくれぬか。そうすりゃ、私も安心してフライトに乗れる。心から頼む。
さて、ここまで長々とこの文章におつき合いしてくれた皆さん、どうもありがとう。世界中に存する善きものすべてに感謝したい気持ちと共に、筆をおくことにしよう。
じゃ、お先に。
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http://konstone.s-kon.net/modules/notebook/archives/565
無断転載しました。ごめんなさい。
http://anond.hatelabo.jp/20100603223423
この記事の事後報告です。
母は順調に回復しましたが認知症のような障害が残るとかで、24時間見守りが必要な状態となりました。
で「在宅介護」か「施設を探すか」と決断を迫られているわけですが、私としては当然「施設行き」なわけです。今のように離れて暮らしていて、ときどき会うのはお互いに励まし合って良いようですし、モラハラ男の常で、父も他人の前では良い格好をしたがりますから、妻をいたわっているような素振りを見せます。
そして、病院側と今後について相談している最中「妻ですから家に連れて帰って、自分が介護します」と言い出しました。(出来るわけないだろっ)と思いましたが、他人の前で逆らうと「恥をかかせた」とぶんむくれるので、ひたすら我慢。
家に帰ると「母さんが帰ってきたら、もう飯を作るしかないな。3カ月も逃げ回ってきたんだから、当然、作るだろう? それが人として当たり前だよな。社会常識だよな?」と言ってきました。
「私は社会常識も当たり前も外聞も何もどうでもいいです。お父さんが納得する方法でご飯の支度をしますよ」と答えました。
「だから、お前はバカなんだ。無知にもほどがある。やって当たり前のことをやるのに、何が俺の納得する方法だ!」と怒鳴りだしました。
「ああ、無知なんですか。じゃあ、しょうがないですね。バカの言うことなんか聞けませんよね。私がどんなに一生懸命考えて、1600キロカロリーで、塩分7グラムで、タンパク質40グラムの食事を工夫しても、絶対、私の言う通りには食べないんでしょうね」
と、まあ、こんな感じで言い合いになってしまい、まったく話が進まなくなりました。
でも、病院から介護関係の事業所を紹介してもらえることになっているし、引き受けてくれる事業所が見つかれば、ケアマネさんに相談できるし、とにかく、もう、私1人で両親の心配をするような事態ではなくなってきているので、あちこちに相談してみようと思います。
父の体面だけは守ってあげたかったのだけれど、もう、無理とあきらめました。
すみません。今回はレスいただいても、お返事しません。あまりにも、混乱していて、どうしたらいいのか、さっぱりわからなくなってしまったので、じっくりと考えてみたいと思います。
私の気持ちの整理に付き合ってくださって、ありがとうございました。
両親が認知症になり介護支援1の状態です。統括センターの相談員さんと話し合ってます。
プランがかたまって、事業所が決まりそうなので、じゃあ、その事業所からケアマネージャーさんが来るのかなと思って質問しました。
「あ、ちょっと確認させていただきたいんですが、ケアマネージャーさんはいつ決まるのですか?」
「支援1の間は、私がずっとケアマネージャーをしますが、介護になるとほかの人になります」
「ああ、そうなんですか!」
「ご不満でしたら、ほかの人に代わりますけどっ(ほぼ怒声)」
「いえ、○○さんがずっと担当してくださるのなら、それがいいですー」
その後、私が自分の病気の診断を受けるために家を空けている間に、家に来ていろいろ両親と話し合ったらしいのですが、よくわかりません。わかったことを元にいろいろ手配して、相談員さんに報告しようと電話をしたら、今ほかの電話に出ているとのこと。「こういう風にやりますのでよろしく」と伝言をお願いしました。その後、相談員さんからは反応がありません。
確かに両親は当事者ですが、認知症なのをご存じなのに、両親に連絡を取ってくるのが解せません。連絡先は私になっているはずなのに。
私、相談員さんを怒らせてしまったから、こんなことをされるのかなあと、ちょっと心配しています。
ちなみに、その相談員の方がいるところは3人体制だそうで、かなり広い地域をカバーしています。ケアマネさんは1人35人までしか対応してはいけないはずだし、月に1度の訪問も義務づけられているはず。3人なら105人までしかフォロー出来ないはずです。だから、まさか、その相談員さんがケアマネージメントをなさるとは思っていなかったのです。事業所に寄って、出来ることと出来ないことがあるわけで、うちの両親に出来ることがある事業所が見つかれば、そちらに引き継がれて、ケアマネージャーさんが付いてくれてケアプランを作成してくれるのだろうと思い込んでいた私が悪いのだとは思います。
どう話し合えば、この相談員さんとうまくやっていけるかなと悩んでいます。
何か、気がついたことがあったら、教えてください。