はてなキーワード: ケアマネとは
わーわー!元です!トラバいっぱい、うれしい!うれしい!ありがとう。
反応遅くてごめんご。
介護職のひともいるっぽいな。いつも本当にお世話になっております。
プロがケアしてくれると家族側は魂までケアされます。感謝しかないです。
動画、普段あまり見てないから知らなかった!ちょっと怖いけど、みてみます!
訪問サービスは業者にもよるだろうけど、通所や入所よりも100倍はまさるよね
人を人とも思わない食わせないクソ施設は消えてほしいと思ったで
おつかれさまです!!家に来てもらえるの安心だよね、いいな!
うちの場合は家に人を上げるのを家族が嫌がって、訪問サービスは受けたことないんだ…えーん
クソ施設はまじ滅ぶべし
ここで面倒なのが介護施設の世話になりたくないって親は多いってことだな。
うちの場合は父親の方が、認知症の母親の面倒をまだ見れると言い張るからその辺の説得に1年くらい掛かったぞ(父親の方も衰えてきたから、やっと納得してくれた)。
あとはデイサービス探し。近所の方が良い。俺の場合は、俺の掛かり付けの病院がデイサービスもやってたか、通院するときに状況も聞けるから、意外と助かる。
うおーーーおつかれさまです!
そうそう、 病院や施設の断固拒否、、、説得するのもツライよね。
祖母のときは医者にもほとんど行ってなかったから、かかりつけ医がなくて、それも困った。
初診で認知症外来に連れて行ったら診断しぶられて(そりゃそうよね)困ったよ…(結局出してくれたけど)
癌家族周りは出てくる
そうか!そっちは明るくない私。ありがとう。癌はまたつらかろうね。。考えただけで泣きそう。
てか、親の介護のメインは60代以降なのかー、そうだよな、
やっぱり私はまあまあ落ち着いているヤングなケアラーとして語っていかねば…
そーいうことだよね、透明化されてる〜〜。もっと語ろ〜〜〜
だし、ほんとに渦中にいると、書いたり読んだりしてるばあいじゃね〜となるよね。
おつかれさまです。
でもでもやっぱり、友達や身近な家族に話すのも難しいとき、インターネッツになら愚痴れることもあるかも?
そんで子育て界隈みたいに、介護話でマウント合戦になってもよくない? そういうのをヲチしながら人は学んでいくこともあるじゃんね?
たとえば家族が認知症で、ティッシュ(未使用)を集めまくってて、
きれーに畳んでポケットやらカバンやらに入れてたり、ベッド脇に大量に溜めこんだりしてて、汚く見えるし、洗濯してぐちゃぐちゃになったり、わけわからん行動すぎて、地味にイライラして、イライラする自分にまた自己嫌悪みたいな、、、
でもケアマネさんとの会話で「ティッシュ集め、あるあるですねえ〜(苦笑い)」って言われて、
そうなんだ!!うちだけじゃないんだ!って
そんな些細なあるある、本には書いてなかったからさ、目からうろこですよ
どーでもいいことだけど、それだけでイライラは少し軽くなる。
あと晩婚化で高齢の親が増えてるし、今後はヤングケアラー増えるよね、きっと。
そしたらやっぱり、もっともっと、いろんな言葉があるといいよね。
(もちろん、ネットだけに頼るのよくないけど)
きれいごとじゃなく、介護は生きることと同義みたいなもんで、人間が生きてる以上いつかはぶち当たるし、どこまでもついて回ると自分は思ってて、
(もちろん、しない&させない選択肢もあって然るべき!ですが)
終わった〜と思ったら、また始まったりするしさ、、、
わたしは今のところ、とにかく低空飛行でも、落っこちないようにだけ、がんばってる感じ
とにかく、ケアラーのみなさん、本当におつかれさまです!!!!
みんなであーだこーだ言ってこ〜〜〜〜〜〜
ここは最悪です。母が今も通院しており、検査法によって視力を低下させ、目薬で更に目を見えづらくして無理矢理、市民病院に行って手術するようにもっていった病院なのです。しかも家族の同意も取らずに、前の送迎屋が勝手に手術の同意書にサインするということも平気でしました。私は啞然としてしまいました。そして手術の結果、左目は潰れてしまいました。そこのナースたちは目薬の5分ルールすら守りません。この目でしっかり確認しました。そのきっかけをつくったのがここの主治医なので俺は許しませんよ絶対に!そしてそれに関わった当時のケアマネ、後見人、今の送迎屋も…ちなみに■■■家は皇族の出であり、国のトップでもあり、本来の天皇の位置になります。つまり国そのものなのです。だから皇位継承権を持っている母の目を潰した。母の身内も4回も当て逃げされています。これは絶対におかしいです!■■■家の■■■姓の織田信長の実母が土田御前であり、■■■家です。この投稿を呼んで頂けた皆様、公平に判断して欲しいのです。病院のやってることは正しいのか間違ってるのか?皆の意見が知りたくもあります。こんなことされたら貴方は病院を許せますか?私が言いたい事は以上です。ちなみにうちの母の介護に関わってくる関係者がほとんどグルなのです。皆で打ち合わせた計画的な犯行なのです。塩目薬と5円玉の穴を覗かせて、ピントの修正をしたら二重にぶれるのが治ったと母が言いました。(私が独学で組み上げた理論を実践しました。)なのでこの病院は間違いなく視力を検査法で故意に下げているのは確定しています。あくまで公平な判断を求めています。よろしくお願いします。母をなんとしても守りたいから…ちなみに名前は本当の名前であり、性は母の本来の性の■■■で名乗っています。ちなみに視力は通販などでピンホールメガネ(穴開きメガネ)かけるとピント修正され元々の視力に戻ります。ピンホール効果を読めば皆も理解出来ると思いますよ!緑内障は治せます!その治療法はないと病院が言ってるだけで…病院は手術で網膜剥離しそうだから水を抜くと説明しますが、これが嘘で眼の失明は網膜剥離の白い膜を剥がしてからでないと治りません。動画でその手の動画はあります。治せるのに治せないと言ってるだけです!理屈は簡単で眼科から処方される目薬に菌=虫が入れられていて、その菌が白い膜を作ります。だからこれを取り除かない事には眼は治らないんです。市民病院で手術した時には、水を抜くだけの手術で、これだと網膜剥離がしにくくなって、白い膜が剥がれないから眼が見えなくなります。市民病院で手術した方が良いと言ったのはここの病院であり、これにはNPO法人■■■の理事長の嫁と、■■■の■■■という女性職員、そしてその裏には厚生労働省の全てが犯罪に加担しています。政府のHP見ると厚生労働省の管轄であることが分かります。国絡みの犯罪なので皆様もすり替えに注意してください!
病院はコロナ禍以降もうほぼ赤字で冬のボーナス減らしたり新しい人事評価基準導入して昇給しぶったりしてて医療職は虫の息だよ!!!!
開業医は確かに儲けすぎだがいくらなんでも診療報酬いじられたらその虫の息にとどめさんすだよ!わかれよタコ!
あのなーそもそも文句言ってるお前らはさ今のお前の地元がどんな状況かわかってか?!ケアマネもいねー!介護士もいねー!なぜかptだけは溢れかえってやがる!病院も赤字で潰れかかってる!あの手この手で支出を抑制しようものなら医療者不足で潰れる!お前らが年取ったときにもうどこも入院させてくれねーんだぞ!!!!
もうじき建て替えラッシュもくるんだよ!どこに建て替える資金もってる病院あるんだ!!!あるわけねーから統合か潰れる!はいこれでまた入院できる病院がへったね!!タコ!
しかもなー!お前ら!医者の働き方改革もはじまってきてより地方の病院なんか医者不足加速してるんだぞ!
もうまじで赤字か人材不足かどっちで潰れるかわからねーチキンレースしてんだぞ!
だいたい診療報酬下げたとして医者の給料減らすと思うか?!病院の経営してんのは医者なんだぞ?!自分の給料は確保してその下の給料を減らすだぞ?!てことは誰が1番下がるって1番多い看護師の給料下げるんだよ!!!!
そんな給料も減って文句いわれ、暴力振るわれ、汚物まみれになる仕事だれがやるんだよ?!おめーらやるか?!やらねーだろ?!
最近ではよー!大卒看護師は看護師として働かず一般企業いくんだぞ?!もう看護師っていう職業が憧れからとりあえず資格だけは持っておこう。っていう認識になってきてんだよ!
医者も医者で研修医終わるまでとんでもねー時間かかるしそのとんでもねー時間つかったあげく低賃金じゃやってられねーだろーが!!!
たくさん読んでくれてマジであざっす。かわいいって一生分言われた気がする。テレるって、こちとらアラフォーだぞ?
それと膨大なエントリをディグり続けるリアルなブクマカたちにビガップ、ファーストブクマカのid:eroyamaに、もひとつおまけにビガップ。おかげでいろんなリアクションが得られたよ、新しい知見はウニやイクラよりも美味い。以下ブクマやトラバにテキトーリアクション
糊口を濡らすは普通に間違えて覚えてた、校正サンクス。「わさわさ〜?」はスチャダラアニ氏が使ってたのを拝借。what’s up what’s up? キルミーネタのブコメも嬉しかったよ、なーみーん?
副作用は口の渇きくらい。あとは後頭部にフワフワぼんやりした感覚がある。動悸は気にし出したら気になり出した。軽微な部類だと思う
副作用ツラくて諦めたユーザーがそんなにいるって知らなかったので自慢みたいになっちゃって申し訳ない。かわいいだけでも罪なのにな。cho muchi de gomenne🎵
まぁ、さすがにすぐ処方されたわけではないかなぁ。今の病院に10年以上通ってるし、WAISも受けて、カウンセリングも受けた
「どうにかしたいというよりは新しい薬を試したいという好奇心」って自分で書いたけど、今見直すとそれはねーよって思う
どうにかしたかった。ほんとに。心の底から。自分の願望が直視できないほどに。巨大な質量が光さえ曲げるように、ネガティブが認知を歪めていた
あと、自分が自分じゃないみたいな感覚。これはほんと不思議でアルコールでラリっててもそんなことは思わないのに、コンサータを飲むとあれ?って違和感が顔を覗かせる。これが正常なの?これをデフォルトにしていいの?みたいな
ジョセフの血を吸ったDIOも本当は「このまま最高にハイッ!なの?それって吸血鬼としてどうなのかな?」って戸惑ったんじゃないかな。ハイッ!ではないけどそんな感じ
薬を飲んでいないときのネガティブで嫌なことばかりが泡のようにわいてくる自分もやっぱりかわいいし、嫌いになれない(なる必要もない)
土日はお酒を飲むからコンサータはやめてたんだけど、あーこれこれって感じで将来を憂いたり過去を悔いたりする私が来た!ってダウナーなオールマイトだった。ウケる(🎵お前を嫁にもらう前に言っておきたい事がある、クヨクヨな私もテキパキな私も、どちらも同じだ、大切にしろ、かなりかわいい私のことだ、たやすいはずだ、愛すればいい🎵)
今日は母を病院に連れて行き、父のケアマネと話をし、他に細かい雑事を済ませてマックの三角チョコパイでセルフケア。今までだったら病院から帰ってきた時点でガス欠になって寝てたけど、やろうと思ってたことが大体片付けられた
初回特典の予感はある、ブコメでも飲み続けてる人は少ない印象だったし。でも、この夜だけは、やらなかった自分を責めたり甘やかしたりしてきた惨めな夜じゃない
がんばれって言ってくれた人、ありがとう。私はがんばらないけど(やり方がよくわからないので)応援してくれる気持ちが嬉しかったです。またねッ!シーヤ!
母親はアルコール依存で父親はギャンブル依存で時々暴力行為もあった。
虐待を受ける事はなかったし、むしろモンペとして俺を守ってくれたが、なにしろ貧乏だった
相手が商用車で点数がどうとかで警察通さず示談を依頼してきたから、沢山慰謝料ふんだくったらしいよ
工業高校を出て就職した頃から、どうやら家庭環境が普通じゃない事に気が付いた
親は借金まみれで俺が稼いだ金をすべて取り上げた。なので20才で家出同然に自立した。結婚して子供もできて、生活は苦しかったが、なんとか暮らしてきた
父親は60で死んだらしい。年金を掛けていたらさぞ悔やんだことだろう。母は仕事をしたことがないし父親の遺族年金もない
それで母親は生活保護を申請したようで、俺に扶養義務者のなんちゃらって通知が来て父の死を知った。扶養は当然お断りした
でも母とはその頃からたまに会うようになった。アル中の人って、酒を飲まなきゃ臆病で良い人なんよ。酒を飲んで暴れるのも体力がいるようで、70過ぎてからは酒ものまず引きこもりのような生活をしていた
でも保護課の人が運動しないからって保護費を通帳振り込みから現金支給に替えたらしく、そうしたら役所に行かなくなって、そのまま餓死しかけたらしく警察と病院の世話になった
一命はとりとめたらしいが半年ほど入院していた。保護課の人からその時再度扶養してくれと言われた。申し訳ないが断った。養える経済力がないから。
保護費で借りてる賃貸住宅は住まずに半年過ぎたら解約しなきゃならないらしい。そこで入院半年のタイミングで数日間退院し、すぐにリハビリ病院に転院し、そこも3か月しかいられず施設をケアマネ?に探して貰った。
今は有料老人ホームに入っているが、生活保護なしでは叶わなかった。入居敷金が25万。引っ越し費用に家財撤去費用が20万ほどかかるらしい。申し訳ないが自分には出せない。
しかし生活保護を受けたままだと公費負担にしてもらえるらしい。そして月々の生活費として、手作りの食事つき看護師常駐の施設で賃貸資料とか込々で月に15万。介護保険負担金が3万ほど。これが公費にしてもらえる。
医療費も全額公費。施設で必要な消耗品や衣類や雑費は毎月2万程度いただけるらしい。毎月20万とか、毎月そんなに年金貰おうと思まったら、どれだけ稼いでなくてはならなかったんだろう。
もしも毒親でなかったら、あの時親を見捨てる事はしなかっただろう。そうなれば今頃は共倒れになってたと思う。
父が死んでもなんとも思わなかった。母がホームに引っ越す時の荷物の整理も何の躊躇もなく全部捨てる事が出来た。今は親に関するストレス事が全くない。
今後どうすれば良いか、なのだが、増田がどうしたいのかがよくワカラン。母親の安全を確保したい、兄の面倒も見て欲しい、ってあたりだろうか。
書いてあることの限りでは、母親に対する高齢者虐待の疑いもあるので、まず母親と兄を切り離し、お互いに独立して生活できる状態にする、ということになるかな。
母親を兄から切り離す、ここがまず困難を伴う。一番手っ取り早いのは兄が警察に逮捕された隙に引っ越しちゃうことだろう。
警察をかませないなら、高齢者虐待防止法に基づく通報を市町村に行いつつ、地域包括支援センターに相談しよう。
包括のケアマネが接触し、母と兄を説得して、施設入所を決めて施設に逃がせれば、あとは一人暮らしの兄をどうやって支援していきましょうねという問題になる。
だが、母親が「この子は私の子だから」とか言いながら嫌がる場合もある。そうなると強制力のある介入をしないと無理ということになる。
その場合とれるのは母を医療保護入院させてしまうか、兄を医療保護入院か措置入院させるか、兄を逮捕させるかあたりではないかと。
父が死んだ。葬式もした。
喪主ではないし長々としゃべっても飽きられるだけだからここで自分の整理がてら、書いておこう。
父という人間のことはなんといって表現していいかいまだによくわからない。というのは母が強烈すぎるからである。
父は1940年代生まれの日本人男性である。出身地は西の方の川沿いの豊かとはいえない田舎町である。
6番目の息子である。工業高校に通うために下宿がてら養子に出されるまでは、兄の一人に小遣いや親の愛を搾取されていた。
(おそらくそのせいで自分へのいじめにはとてもドライである。いじめが嫌いだし、「ズルイ」という言葉も苦手である。)
工業高校卒業後は、工場のあった景気のいい化学系メーカーに就職した。読書が好きで(速読で)すこし本で勉強すればペーパーテストはたいてい受かる。
職場ではじまった国内留学のような制度の初年度生にえらばれて会社のカネで大学の化学科に進学した。
学費の足りない分や生活費は賭けマージャンで補っていたという。のんびり無口なくせにダマテンかメンタンピンか即降りの雀風である。
趣味は登山で、安くて黒いカメラも一応持っていた。(父が人生でもっともイケイケだった時代かもしれない)
そこで一学年年上にあたる女性と出会った(大学では同学年)。九州で育って浪人して偏差値で選んで入った教育学部にいた女性は、はきはきとしゃべり美人で笑顔が気さくだった。
怒るとまくしたてて手が付けられないが、おこっていなくても気を許した人間の前では延々とラジオのようにしゃべっている。
話すうちに多少の脚色も入って来る。それを父はわかっているのだがいちいち訂正しない程度にはおおらかな父と女性は気が合ったようだ。
1960年代?の大学には学生闘争が(東京でとくに盛んに)あった。田舎の大学にも多少の余波はあったが、両方とも危うきに近寄らずで敬遠していた。
父は卒業後化学企業にもどり、女性は数か月だけ「印刷会社の腰かけ事務職」をして寿退社。初任給で洋裁用ハサミと広辞苑を買ったという。
二人は親へ挨拶をすませ神前式で結婚式をあげた。新婚旅行(国内)ではパンタロンにネッカチーフなど流行の服をきたイケメンの父が観光名所の立て札の前でまぶしそうに笑っている。
1970年代。m市の社宅に二人暮らしで妊娠。里帰り出産でまるまるとふとった増田を生んだ。ぴかぴかの母の笑顔は(そのころまだモノクロ写真しかなかったので)モノクロームである。(追記:よく考えてると写真現像紙の質が悪くて色褪せてただけで新婚旅行も出産も一応カラーだ)
夏だが一般家庭にはクーラーがないころだ。産院にはあったそうだが、おくるみでぎっちりくるんだ写真をみるに母には赤ん坊を薄着にするという考えがなかったようだ。
(なお増田は今も超絶汗かきである。失うはずの汗腺が全部残っている)
二人目もm市在住で西に里帰り出産した。このときは増田も母実家に連れていかれた。
このころ叔父が浪人してから医大に入って実家から通っていた。叔父はマンドリン部に入ったといって増田になにかを弾き語りしてくれた。あと本好きの増田に学研の漫画の植物百科を買ってくれた。
三人目を生む前に父は関東のk市に転勤になった。おそらくこのへんで、父は化学から離れたようだ。(父、転身)
というのは、データベースで父の名を探したことがあるのである。染料の特許か論文かに1-2件だけ名前があってぷつりと途切れた。
というわけでk市で三人目が生まれた。そうして5人乗り自家用車を買っていろんなところにつれていってもらった(なおそのころベビーシートはない)。
だが車内で父はタバコを吸った。車内はひどい匂いでひどく揺れ、子供たちはぐったりしていたし従兄弟などはゲロを吐いたこともある。あまりいい思い出はない。
(母は父に「ニヒルなくせに私にだけやさしい大人の男性」というイメージを抱いていた。一時期はタバコも容認~勧めたことがあったようだ。実際は父のほうが年下で気弱ですらある)
そうしているうちに二人目がアレルギーという未知の病気にかかって(そう、1980年代にはアレルギーによる気管支喘息すら新規だった。父も母も本を買いあさった)、
そのころの(無鉛ガソリンとも限らない)車の排気ガスがアレルギーのもとだ、という説にすっかり怯えてしまい、「もっと田舎っぽい場所に家を買いましょう」となった。
とはいえ社宅だって、そこそこ郊外で、隣は竹の子がとれる竹林だったのだが。
まあ、3人の子育ての忙しさの中で狭い金魚鉢みたいな社宅でのハイソ自慢、愛され自慢だの、昇進自慢に母が飽き飽きしたんだろう。
そこで知ったのだが父はいつのまにか一級建築士になっていたそうだ。意気揚々と自宅を設計し現場監督がてら家族をつれてわくわくとみせにいった。
(このへんで、のこり全部の西にいる親類から「東京の叔父さん」と呼ばれはじめる。後日つくば万博やディズニーランド、成田への前泊などで宿をお貸ししたこともあるようだ。)
お礼にとめてくれる親戚をたどってお盆に西をめぐったこともあったがそう回数は多くない。いつも核家族の5人が一緒であった。
そのあと増田はなんとか就職して、ひきとめたがる母親と喧嘩しながら「自分の金で」一人暮らしをはじめ、あまつさえ恋人ができたというと、
母が「空の巣症候群」というやつでいろいろとヒステリックになりはじめた。
子供が「いやもう自分は大人だから口出しをするな、するなら人生の最後まで口出しする覚悟をしろ。恋人よりよい伴侶候補がいるならいますぐつれてこい」とブチ切れてやると、
父親に「ウエーンくやしい!」と子供のようになきついていた母を思い出す。
その後も「恋人を家につれてこい紹介しろ」というからそのとおりにしたところ「こんにちははじめまして」の二言目に「うちの教育方針は!」とはじめたのでみんなでドードーしたのをおぼえている。
子供を教育することが母の生きる目標だった。母には並列処理はできないのである。教育となったら教育だけをするのだ。
「もういいから子供にかかわらず好きなことをしな」というと……。
しばらくしてようやく、母は広い庭をいじりたいから、もう一軒家を建てて引っ越すといいだしたのだ。
庭で草花をそだてていれば嫌なことはすべてわすれられるという。
父は母のことを浪費家だと数度指摘した由来はこの辺にもあるとおもう。
(ほかにもファッションや作り付け家具など、彼女なりの「上質な暮らし」イメージを達成するために骨身をおしまなかった母だ。
今で言う「お値段以上」なのだろう、「モノはいいモノだから3人の子供に使うのならこの値段は惜しくない」という言葉を母から何度も聞いた。
学校の縄跳びなんか子供向けのすぐ切れるプラスチックじゃなくてボクサーが訓練に使うようなものをもたされ重かった。)
母にしてみれば教育費を払いきれたのは自分の塾のおかげもあり、父はケチだというのである。どちらが正しいかは…。
ところがしばらくすると、父自身が肺の難病にかかった。タバコは肺にはよくないということはわかっていた。
父は早期退職制度で、ただ社外顧問で数回きてくれればという職だけをのこして闘病に入った。
幸い年金ももらえる。子供への仕送りもぱったりとまってお金には余裕がある。
郊外というよりもはや森の中を切り開いてつくった庭の広いおしゃれハウス(建築中)は、たちまち父の療養ハウスに方向転換となった。
手すりやら風呂やら改築し、母は断捨離をし、こだわりより健康を優先し…。
そこで難病なのに20年も生き延びたのは確かに母のおかげであろう。
ただ母はだんだん父が自分より弱い生物になりさがっていくことがなかなか納得できなかったようだ。
母にとっては子供は庇護すべきで、父は母を庇護すべきだったのに、すべてが逆転してしまったのだ。
母の癇癪は昔からものすごく、感情の嵐の生のままの奔流であって、いうことがよくまとまっていない。
Aといった直後にいいかえすとじゃあ反Aだと躊躇なく言えてしまう。もちろんきっかけはあるのだが。
母がなんでタバコを吸ったの!と責めて、理由をはっきりいわないと納得しないので父は「母も勧めたではないか」と言い返すのではなく「社内政治に参加するためだ」と説明した。
「なんで私を浪費家だというの!」「なんで感謝してくれないの!」には、
それぞれ「幼少より母の愛に飢えていたため」などの適当な理由がつけられ、反省書となった。
反省書はなんども日記にかきつけられ、こどもたちへも父がこんなに反省したとメールで送った(母もいつでも読めるようccつき)。
まるで自首後の犯人に動機を言えと迫る刑事のようなやり取りである。さしずめ母は愛情刑事であった。
この「なんで」期の母は2人だけの蜜月のはずがいきなり愛情が枯れ果てたかのようなふるまいをしたので子供たちにも影響があった。
あるときなど増田が呼び出されて母と東京のカフェであった遠かったねよく来たねの二言めで「今日ね、おとうさんをいじめてきたの」というのである。
どのように苦しめたか。それがどれだけ自分の恨みを買った人間の正当な末路なのか。話はじめると30分以上いきつぎもしないでとうとうとやる。
増田や父は、そういう手の付けられない母をどうしていいかいつもわからないで黙っている。
ただただ、ああ、となりのテーブルの客が居心地悪くて逃げたなあときょときょとしながら口をはさむ隙を探す。
やめてくれ。あなたたちは善良で努力家で思いやりある人間だっただろう。泣きたかった。
カフェの次は庭園つきフランス料理で父もいるときにニコニコと「お父さんに遺言をかかせたの。私に全部残させるって」というのである。
増田は遺産も愛も父からはあたえられない子供になったのだと、増田当人にむかって心から嬉しそうにいうのである。
理由を聞いてほしかったようだが「ふーんそう」というのがせいぜいだった。
後日やっぱり何十回もしつこく聞かされた。あれもこれも、…、わたしはケチといわれたのよ!!父は母に愛情がない!
父は平謝りするしかなかったらしい。
でもその場で諭そうにも耳も悪い。
「その話は今聞きたくない」と穏やかに告げるとまるっと無視された(なんなら常にセリフを母にカブせられているし慣れてるけど)。
もう一度はっきり言うと「え?」といわれ、もっと大きい声でいうと「大きな声を出さないで!心臓がどきどきする!」と泣き出すのである。
補聴器をすすめたけど、ぼわんぼわんして不快だとつけたがらない。
それに庭に出ている間も補聴器をつける必要がない(むしろつける必要がないから庭がすき)だから悪くなる一方だ。
子供たちは私を味方してくれない、おとうさんばかり味方して、おとうさんがだましているからだ!ということで本当に手が付けられなかった。
でも素直な母は、父をいじめるだけではなくまっとうに、増田ら子供たちに直接説得も試みた。
ところが増田も子供がうまれて送迎などで忙しいのに、携帯(業務用)に電話をかけることがつづいたのである。
運転中は出られない。うるさくて運転に集中もできない。ガチャギリするしかない。それでもかけてくるのでやむを得ず「固定電話にかけて」と携帯ではブロックをした。
このことは増田に子供の送迎がいらなくなりガラケーとアイフォンをのりかえるまで続いた(のりかえたときにブロックは解除した)が
半ボケ?もとから機械音痴?の母は下の兄弟や増田の伴侶に「増田ちゃんがわたしをブロックしたの!解除するようにいって」と何年も頼み続けた。
父はじわじわと悪くなった。3年に一回ほどのペースで入院するたびに母から死にそうな声で「おとうさんが入院したの、もうだめかも」といわれて子供たちが全国から新幹線などでとんでいった。
父は母に「浪費家だ」といったことを老後一生かけて平謝りし続けた。
酸素マスクが一日中必要になっても、下の世話はしないからと母にいいわたされると一回30分かけてでも一人で家のトイレにいった。
母はトイレにいく父の血中酸素モニターが鳴る音だけはよくきこえたらしくて「いつもピーピーうるさいから本当に止めさせたかった」のだそうである。
ほかにもブザー音がなると死んでいるかもしれないし、地震があると停電したら酸素送風がとまってしまう。そうすればすぐに酸素濃度がさがって窒息死だ、ということで不眠ぎみであったという。
なるほど不眠であれば気が狂うほど老々介護はつらいだろうというのはさっせられた。
途中で増田は「あなた(母)はもう後期高齢者だし、父はさっさと介護認定を受けるべきだ。他人を入れろぜひ入れろ、入院や介護施設はないのか」とアドバイスをしたりもした。
父も早く「介護認定を」といえばよかったのだが母だけに甘えていたかったのかもしれない。
母親の認識は古くて「介護=認知症=施設にいれられ毎朝チーチーパッパと歌わせられる」というなんかアレな印象しかなかったのだが、
父も「自分=強い=介護うけられない」とおもってた節がある。いいコンビだよあんたら。
まあ、実際、肺病で介護認定がそんなに高くなった父という存在はチバラギ地方では珍しく、認知症むけばかり取り揃えられている施設からは選びづらかったようだ。
母は一度、「もうすべてをほうりなげたい。お父さんなんか死んで良い」と増田にドライに告げたので増田は市役所を通じてケアマネに緊急電話をした。
実際病状がすすんでいるのも理由にあったようだ。
父は身の回りを手に取ることすらおぼつかない。あれをとって、かわりにこれを置いて、の命令の繰り返しの24時間。そりゃ気が狂う。
頭がはっきりしているだけに介護をうけておきながら「あの礼状は出したか」などと口うるさいこともこまごまという。
ケアマネ介入後はデイステイのできる施設をいくつかめぐって、母に介護休暇をあたえ父の入浴はステイ先で複数人で介護をうけることにして解決となった。
他人の手が入ったあとはなんとか母の忍耐がたもったようだ。
ラインでこまめに連絡をとると、お互い聞き取れない・聞いてもらえない長話のストレスと徒労感も解消された。
コロナのおかげで世の中全体が肺病に警戒しており、
ストレスのたまった母親の消費欲やお出かけ欲も「コロナは怖いから」と唱えるだけでだいぶ抑制された。
母はユーチューブをおぼえた。
コロナワクチンはふたりともいち早くうけられた。怪我の功名である。
増田の残りの二人の兄弟も子育てに忙しい中でガス抜きに付き合ったらしい。なんとか二人の生活はつづいた。
そうして2*年の闘病、*年の介護認定と酸素マスク、90日の入院のあげく父は体重が半分になって逝去した。
母は感情が高ぶると耳が全くなにも聞こえなくなるので、増田は葬式の打ち合わせに逐一ついていってすべてをメモにして渡してやった。
父がなくなって重荷が下りても母はやはり理不尽であり、やはり葬式の相談のあとにも爆発した。
かねて希望していたように「全部の遺産を母の元に相続させつつ凍結などの不愉快な事態にさせない」ためにはなるべく資金を動かさないほうがよいのに、
母はいますぐ資金をすべて自分の口座に動かそうというのである。
それなら司法書士とか頼んだ方が楽だよというと、母の感情は爆発するのである。「高いでしょう!?」3万でいける「デモデモダッテ」。
今すぐにでもATMにいってお金をおろしてあつめたいというのである。(父は箪笥貯金を高額な葬式分くらいはおいてあったし互助会にも入っていたから葬式費用ではない。)
なぜと問うと、「子供たちに私からお金を送りたいから」。はあ~~~???だよ。じゃあ法定相続割合でよくない?父もそれが一番簡単だからのぞんでいたんでしょう。
表題の通りです。
すぐには辞められないけど、次は更新しないと決めている。
私自身世間一般のケアマネジャーからしたら若手になると思う。それでも30代。……30代が若手扱いの業界って何なんだろう。
やめようかなとぼんやり思い始めている。
時間とお金ばかり取られる更新研修(これが地味に辛い、お金もマン単位)
増える利用者様
罵倒されることもある
他の事業者からも家族からも利用者様からも入院先の病院からも何でも屋扱い
休みがなく動いていると思われている。
ケアマネにも人権があるよ、皆が思っているより給与低いし忙しいし時間がないよ、と伝えたい。
深刻なケアマネ不足、ケアマネの高齢化がリアルになっています。
どうすんのこれ?って気持ちです。
一人あたりの受け持ち件数を増やせばいいとか思ってるの?
国がケアマネに求めていることと現実がすごくちぐはぐに感じてしまう。
いずれケアマネ有料化になったら、また色々と大変なことになるんだろうな。
もう何も考えたくなくなる。
ケアマネさんにでも設定させていただけ
お金でどうにかしなさい
下手に帰って祖母の介護をすると特養に入りにくくなります(自宅に介護者が居ると順番は後回しになります。当然ですね)
同居人である父親が家事能力ゼロで家庭が崩壊しており、当然介護も出来ない状態ならば特養の順番待ちも少しマシになります
待っている間もケアマネが姑息な手を使って施設に預けてくれます(ショートステイのロング使用と老健数ヶ月を繰り返すなど)
というか冒頭に述べた様に、お金があるならば有料の介護施設に入れた方が良いです
おばあさまの状態がどんなものか分かりませんが施設から断られるレベルでない限りいけます
お父様に関しても他の方が言っている様に宅配弁当を頼む等、お金をかけてなんとかすべきです
親御さんの生活も大事かもしれませんが、増田自身の人生も大事です
田舎に帰って介護・親の世話をする嫌さよりも心配や憐憫の方が勝り、尚且つ都会暮らしに疲れていて親元に帰りたいのならば帰郷しても良いでしょうが
寝たきりでもヘルパー頼んで自宅療養の人もいるという噂は聞くけど
高齢者支援センターに行くともしかしたら、介護保険申請や高額介護合算療養費還付申請を代行してくれるかも
介護サービス業者一覧は、ケアマネはくれなかったけど役所で貰えたけど
というか母上はそれやってたかもね
四国の田舎に住んでいた母が突然亡くなった。本当に何の前触れもなかったから悲しみすら湧かなかった。
残されたのは認知症だけど足腰は元気な祖母と家事が全くできない父親。
母が亡くなって1か月経つが家の中があっという間にゴミ屋敷らしい。
父は生まれて初めてカップラーメンを作るためにお湯を沸かそうしたがコンロの使い方がわからずに断念した。そのレベルで火事ができない。
両方とも首都圏在住だが、専業主婦の妹は育児を盾に頑なに拒否。そのため自分が帰還して地元で仕事を探すことになりそう。
逃げたい。東京のいい大学に行っていい仕事についてある程度の収入もあって彼女がいたことない以外は順調な生活を送っていたが、ここにきて独身を謳歌していたことが仇にになった。
自分の人生これで終わるのか。ブロードバンドもなく、楽天の電波も通らないレベルの田舎でひっそりと死んでいくしかないのか。
どうにかして介護離職を辞めたいが、ケアマネジャーに相談してもお金でどうにかするか誰かが帰るしかなさそうだ。
追記 4/4
介護離職はどうしょうもなくなったときの最終手段で、父親と妹以外の周りの人はそう望んでる。
身寄りのない高齢者 https://anond.hatelabo.jp/20230329152826 を書いた者です。ここ数日は朝晩先生のところに行き、おむつを替えたり水筒にお湯を汲んだりそうめんを茹でて届けたり恨み節を聞いたりしておりました。
コメントで、築50年、1970年代に作られたマンションの様相についてイメージしずらい(しづらい)方がいるようなので書いてみようと思いました。
このマンションは1970年ごろ、23区内の都心ではない地域に建てられた。8階建て、64戸。間取りは3LDK。私鉄の駅から続く商店街を徒歩五分といった立地だ。私は昭和55年、1980年くらいから住み始めた。幼稚園生だった。
小学校に入学するとなったとき、この地域には集団登校というものがあり、そこに参加することになった。マンションの一階のたまりに50メートル半径くらいに住む小学生が集まり、6年生の班長を先頭に行列して登校していた。下駄屋のせがれが班長、レストランのせがれが副班長。スーパーのむすめにはよくからかわれていた。この集団が30人ほどで、うち15人ほどがこのマンションの子供だった。統計を見るとこの区の当時の小学生の数は今の倍で、同級生が5人いた。幼稚園のころ、鉢合わせるといつもいじわるをしてくる「とおせんぼうのおねえちゃん」と私が呼んでいた子が、入学式で同い年だと判明した時の驚きは今も覚えている。親同士も入学式を機に急激に関係を深めていった。それぞれ多様なルーツと職をもつ家庭同士が「同級生の子育て」という繋がりで協力関係を築きはじめた。地元の零細土建屋の社長、理工系の技術者、保育士、共産党員、福祉従事者、学者など様々な職種の親たちだった。仕事の忙しい時は子供をあずけたり、おかずを分け合ったり、土建屋のおやじが釣ってきた魚をさばいて集まってみんなで宴会したり、うちの母が子供たちに勉強を教えたり、醤油や砂糖がないときは借りに行ったりというつきあいがはじまった。そういう関係性は同級生以外の世帯にも波及し、私が成人するまでは本当に長屋のような雰囲気があった。おばさまたちはたくましいコミュニケーション網で、マンションだけでなく地域の情報を過剰に共有していた。マンションが商店街に面していたこともあり、町内で起こったことはすぐに衆人の知るところになるような状態だった。救急車が来ればすぐに誰がどうなったかの情報が回り、火事が起きたら皆が集まり、私が近隣で悪さしようものなら、すぐに母の耳に入るような、そんな街だった。
おそらく80年代はほぼ全世帯が持ち家だった。新築で購入した住人ばかりだった。私の両親も、新築で買った父の弟が海外に赴任になり、譲り受けたものだった。なので高齢者はほとんどいなかった。近所にワンルームマンションというものができたという話が広まり、住民がいぶかしがるような時代だった。独身者はアパートに住み、地元民は一軒家に住み、新興の移民がマンションに住むという構造だったのだと思う。商店街にコンビニやレンタルビデオ店が出現したのは80年代後半だったか。街が進化しているという雰囲気があった。(しかし資料をみるとこの街の全盛期は遥か昔にあり、戦前から駅前には映画館や集会場があり、商店街はその枝葉の脇道にまで飲食店や遊興施設にあふれていたらしい。私が知る商店街はメイン通りだけだ。映画館なんて想像もつかない)90年代後半に私が実家を出るまでは、商店街には勢いがあったように思う。オリジン弁当のはしりのような店で私はバイトしていたし、中規模の本屋ができたり、中古ゲーム屋ができたり、インディーズのコンビニができたり、まあたらしい店舗が次々に出現した。外国人も増えていった。皆が東京の未来を信じていた時代だったのだと思う。
その後私は実家からそれほど遠くない、もうすこし大きな駅で自立する。歴史も規模も地元とは一味違った。そこではじめて都市生活者としての暮らしがはじまったように感じた。近隣に知り合いなどおらず、非常に個人的で閉鎖的な生活がはじまった。恋人と同棲していたのでそんな環境でも寂しさはなく、気楽で自由な暮らしを謳歌していた。文化的な地域だったのでアーティストやら文人やらといった有象無象とのつながりもでき、地元とは違うコミュニティでの生活は心地よかった。新興サッカークラブのファンの繋がりなどもあり、自立して新たな人生をこの地域で歩んでいるという満足感もあった。今思うとJR沿線と私鉄沿線では街の成り立ちが違っていた。どちらがいいのかはわからない。
そんな2000年代。わが地元のマンションは活気を失っていく。子供たちが出て行って高齢化したからだ。私が実家を見切った大きな動機の一つに衛星放送問題があった。マンションの世帯は四方にあり、衛星放送のアンテナを南西だか南南西に向けられる世帯は限られていて、我が実家はどうしても衛星放送が受信できなかった。90年代後半に普及したCS放送を見るためにどうすればよいのかと苦心していたとき、マンションの理事会が開かれるという。私は屋上に衛星アンテナを設置し、各戸に配線することによってどの向きに位置する住人でも衛星放送を視聴できる環境を実現するべきとの議案を提起した。私は住人のおじさまおばさまへ向けてプレゼンしたのだが、投票の結果は否決だった。そのとき、長老のひとりのおばさまの「わたし意味がよくわからなかったけど、反対にしちゃった」というつぶやきが耳に入り、ああもうここに住んでいてはいけないと思った。ここは朽ち果てるのだと本気で思った。この街には何の魅力も感じなかった。若い方には意味が分からない話かもしれない。固定電話でインターネットに繋いでいた時代の話だ。
「マンションの向かいの部屋」という記述がわからないというコメントがあったので、マンションの構造について記す。我がマンションはいわゆる「内廊下」である。エレベーターはマンション中央部にあり、廊下も完全に屋内にある。外から各戸のドアは見えない。ホテルのような構造だ。階段も内部にあり、非常階段だけが外部に設置されている。一階のロビー(といってもたまりと集合ポストがあるだけなの空間)に受付のようにガラス窓の事務室のような管理人室があり、そこは居住空間にもなっている。管理人は住み込みで管理会社が雇っている。部屋の所有者は管理会社だった。初代の管理人は私が物心ついたころにはおじいちゃんだった。気のいいおじいちゃんで、前述した「先生」もこの管理人とは懇意にしていたそうだ。彼が引退した後、何人か後任が変わり、今の管理人は勤続20年くらいか。気さくな夫婦で住民とは打ち解けている。数年前、管理会社の方針で住み込みでの雇用は打ち切るとなったとき、マンションの自治会が自治会費で管理人室を買い取り、管理人を雇用することになったとのことだ。そのときの声明文で「高齢者が多くなっているこのマンションにおいて住み込みの管理人は不可欠」といった文言があったそうで、先生はそれを根拠に管理人に介護を強いろうとしているところもある。管理人はそれを個人の裁量で判断する領域だと主張しており、それに対しては他の住民も管理人に同情的な態度でいる。介護するほどの給料は払っていない。
マンションのふもとには公園がある。サッカーコートくらいの広さに、20メートルほどの高さの木々がぽつぽつとたっている。子供の頃は木々をよけながら野球やサッカーをよくした。さして広くない公園なので、子供の打球でもしばしばボールは柵を超える。超えた先は民家や我がマンションの一階世帯だ。植木や窓や壁を破壊することもある。住人としてはたまらない。子供たちをどなりつけにくる。われわれ悪ガキはそんなこと関係なしだ。ホームランを打つと出てくるモンスターとしか思っていないので、どうやって攻略してやろうかという遊びの延長としてとらえ、慣れてくるとからかったりする。怒り心頭の大人は行政に働きかけ、公園には「サッカー野球等の球技は禁止です」の看板が立つ。そんなものも我々にはなんの効力もなかった。そんな折、被害にあっていた一階の住人である医師の夫人が、先生の師範学校の先輩だったそうで、先生に「あなた現役の教員なんだからここらの悪ガキに説教して頂戴」という指令が下った。先生はしかたなしにひきうけ、我が家に集められた子供たち親たちを前に話をすることになった。先生はそのとき、野球だサッカーだ窓を割るなとかいう話は一切せず、私が教えている学校には、いろいろな子供がいて、それぞれ固有の好奇心があり、自由時間には絵を描いている子もいれば、本を読んでいる子もいる、おしゃべりをしてる子もいるし、折り紙をしている子もいる。子供というのは自由な環境があってこそ成長するものであるという話をしたらしい。私は覚えていないのだが、聴いていた父はいたく感心したらしい。先生にはそういう一面もあったようだ。
たまに実家に帰るたびに衰退し活気を失っていったわがマンションも、2020年代から変化が訪れた。年寄りが死んで子育て世代が移り住んでくるようになった。私の幼少期とは数が違うが、小さい子供をよく見かけるようになった。外国人も増えた。賃貸の住人も増えた。私は離婚しひとり身になっていたところに、父の介護が必要になり再びこのマンションに戻ってきた。父を自宅で看取り、そのまま母との二人暮らしがはじまった。職場も近いし、近隣にはなじみの人々がいて、それなりに快適に暮らしている。スーパーのむすめも今となってはわたしをいじめないし、買い物に行けば談笑くらいはする。先生は最近どうなのという話題は常にあがる。先生はスーパーや下駄屋の軒先で店主をつかまえて延々と話し込むのが日常だったし、出歩けなくなってからは困るとスーパーにも電話してきて助けを請うので、みな戦々恐々としているのだ。なぜ先生のことをそんなに詳細に知っているのかというコメントもありましたが、こんな地域では先生の詳細なくらしぶりなど、個人情報というより災害情報のように扱われているのです。ケアマネもすぐにその輪の中に取り込まれる。そんな地域なのです。
文章から推測するに、この人はせん妄ではない。あえて症状と言うなら癇癪だろう。
昔はお金などの力で、見て見ぬふりをできた。しかし、身体の衰えによってそのコントロールがつかず、目を背けていた現実が目の前に現れて狼狽する人だな。
素直に「助けてください」と言えればよいのだけど、それを良しとしない生き方をし続けてきたわけだからな。今さら無理だろうし、それができるならこんな窮地には陥っていない。
都内の話。私が住む築50年のマンションの向かいの部屋に93歳のおばあちゃんが住んでいる。小学校の先生で、生涯独身。頑固でプライドが高く孤高の人だった。私は彼女には子供のころからかわいがってもらったのだが、他の近隣住民には気を許さず、いわゆる嫌われ者だ。近所では「先生」と呼ばれている。
先生はプライドが高く、下町の住人を下に見ている。教養と生活レベルが違うのだろう。そんな態度で何十年もこの地域で暮らしてきた。おのれの金と生活力で生きていけるうちはさしたる問題はなかった。近隣と騒音やなんかでもめるくらいのものだった。しかし昨年くらいから、足腰も弱くなり、自力で生活するのは難しくなってきた。そうなると先生は知り合いや近所の者に片っ端から電話をかけ、おまえは年寄りの面倒を見るべきだと呼び出し、買い物やらなんやらをいいつけ小遣いを渡していたのだが、そんな生活が成り立つわけはなく、高齢者の公的介護を利用することになった。ケアマネを見つけ、ヘルパーが派遣されることになった。先生にとってヘルパーというのは下賤の者らしく、接する態度は酷いものだったようで、次々に事業者に断られ、もう区内には先生の相手をする事業者はいなくなった。そんな先生を受け入れたのは隣の区の良心的な零細事業者のケアマネだった。ケアマネは献身的に寄り添い、ヘルパーを手配し、なんとか先生の生活を成り立たせていた。
そんな折、今年に入り、先生は蜂窩織炎だか脊柱管狭窄症だかが悪くなって、入院することになった。リンパのガンを乗り越えた先生にとっては大した病気ではないのだが、立てないのはこたえた。先生は東大病院しか信じておらず、ずっとかかりつけにしていたのだが、東大病院が入院を受け付けない(過去にさんざんもめていた)ので、しぶしぶ紹介された関係の病院に入院することになった。二か月ほど入院していた。入院中弱気になった先生はケアマネの勧めに従い、有料の施設に入所をする決心をし、退院した足で施設に向かった。
しかし先生の態度は施設に着いた途端に急変した。医者とケアマネが画策して非人道的な機関に監禁されるのだと激高した。先生は耄碌はしているものの、認知症ではない。入院中から心に貯めていたせん妄が爆発したようだ。まだ正式に契約していない施設側はなすすべがなく、帰宅することに。施設は良心的にも先生の自宅まで自社の車で送ってくれたらしい。とにかく先生は立てない状態で私の家の向かいに帰ってきた。
先生は知人や近隣住民に電話をかけて呼び出そうとするが、もう先生の相手をするものはあまり残っていない。なにしろ善意で世話をしにきたマンションの管理人を怒鳴りつけるような人だ。しかたなく先生は私に電話をしてきた。先生は私の幼少を知っており、なにか強い思い入れがあるらしく、私だけは気を許せる優しい人間だと思い込んでいる。私の両親が学者だったことも大きな要素のようで、しがない零細障害者福祉事業を営む私をなにか福祉の世界の大きな存在だと思い込んでいるようなことを言う。いままでもたまに私も家にいて呼ばれれば徒歩2メートルの向かいの部屋にいき、水を汲んで出したり何か買い物をしたり、おむつを替えるくらいのことは職業柄たやすいことなので、助けを求められたら応じていた。先生は私にはとてもしおらしい態度で接する。申し訳ないと思うと1万円だか3万円だか買ってきたおにぎりだかおせんべいだかを渡してくる。気が済むならと私も受け取る。だが、今は施設を断った先生にはヘルパーもおらず、私も仕事があるので行ける時間は限られており先生の全生活を支えるのは無理だし、そんな気は毛頭ない。どうしたものかと思っていると、先生のケアマネと話す機会を得た。
ケアマネが言うには、先生のヘルパーの使い方はめちゃくちゃで、自社のヘルパーは全員泣かされてもう使い物にならず、無理を言って大手に派遣を頼んでいたがそこも苦戦し、入院、施設行きが決定した折にすべて白紙になってしまったらしい。地域の同業に悪名が轟いている先生に今からヘルパーをそろえるのはかなり難しいらしい。しかし先生をひとりで置いておくわけにはいかないので、疎遠になっている姪に施設入所の契約書にサインをもらい、半ば強制的に連行ししばらくは拘束することが先生の安全を考えても最良と判断している、とのことだった。話を聞くと施設もそれほど悪辣でない大手で、その言い分には同意できるところもあった。姪は医者で週に一度しか休みがなく、契約書にサインはしても先生との直接の対話は絶対に拒否するという姿勢らしい。ちなみに保証人になるわけではなく、保証会社が間に入るそうだ。
退院直後はせん妄でケアマネが病院とグルになって私を牢屋のようなところに引き渡したと言っていた先生も、すこし落ち着き、また一人で暮らす不便さに弱り、今日の面談ではしおらしくなっていたが、だからといって施設に行く気はまだない。ケアマネにヘルパーの手配を懇願していた。立ち会った私は先生のためにも一時的に施設に行った方がいいのではと進言したが、人の言うことを聞く人ではない。先生の家を出たあと、ケアマネと、もうすこし弱気になるのを待とうということになった。
私が気がかりだったのは、せん妄はあっても認知症ということではない当事者を、疎遠な家族のサインだけで強制的に高齢者施設に連れて行き拘束して薬で大人しくさせるという方法は法的に問題があるはずだが、そういうケースはあるものなのかということだ。ケアマネに尋ねると、あまりないと。確かに法的には問題があるし、先生は恨みを忘れる人ではないし、弁護士を使う人脈や資力もあるのでリスクがあることを認識していた。それでもそれが本人のためと考えたとのこと。そして法的にも問題ない方法は、訪問の医師を一度入れて、精神科に繋げ、医療保護入院という形でまずは精神科に収容することだということも理解していた。それを聞いてすこし安心した。