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2011-04-08

http://anond.hatelabo.jp/20110401145947

ごめんレス遅くなった。

例えばの話を持ち出して、「そうなることは確実」で締めくくるのはフェアじゃない理論展開だと思います。

入試就活で1年棒に振ったぐらいで「下降曲線」が「確実」なんてのもちょっと乱暴だと思います。

浪人生就職浪人が、俗にいう幸せな家庭や人生を描けるケースはそれほどマイノリティじゃないと思います。

「確実」と仰るからレアケースもあげさせて頂きますが、

高卒無職サクセスストーリーなんて今や茶の間も盛り上がらないベタな話かと。

僕は別に元増田頑張れ!なんて言う気はさらさらないので別に元増田死にたいというのなら止めはしませんけども。

最初から言っているように、

そんなことで勝ち組だの負け組だの結論出ちゃったみたいなわかった顔してバカじゃない?

ってことが言いたいだけです

http://anond.hatelabo.jp/20110401141231

ここに書いたことが全部です

2011-03-15

被災地にほど近いわたしの家には、被災者である家族が滞在している。

幸い怪我もなかったが、勤めていた会社もなくなり、住んでいる場所は避難区域らしく、義兄は不安がり、姉は心底おびえているようだった。

初めて会った姪は、口数が少なく、怖がっているのかと思いきや、普段通りと姉夫婦はいった。

父はそんな姪を、肝が据わっている、さすが俺の孫、などとほめていた。

わたしは姪と触れあうため、気のいいふりして部屋に連れて行き(なにしろ茶の間は辛気臭い)、人形ぬいぐるみを見せたり、お絵かきしてみたり、食べ物で釣ったりと、意思疎通を試みたのだが、いい反応を示してくれなかった。

姉にも相談してみたが、感情の起伏があまりないの、とどうしようもない答えもいただいた。

そしてわたしの困った様子が伝わったのか、部屋から逃げられてしまった。

だって、大人は仕事や連絡を取り合ったりして忙しいのに、かまってもらえそうにないだろう。

けど、もっと一緒に遊ぼうよ、なんて逃げられた上での会話は、そこまで言いよるコミュ力は……

地震怖い、放射能怖い、そもそもインドア、の三拍子そろったのんきな学生である私は当然外出するわけもなく、忙しい大人とは反対に、とりあえずテレビを見つつネットサーフィンしつつ呆けていることにした

そして、姪に振られてから時間も過ぎ、相変わらず地震怖い放射能怖いと思っていたころ、姪がいきなり部屋に入ってきた。

飾ってあったぬいぐるみの一つを床に置き、次に本を何冊かひっぱりだし、ぬいぐるみの上に重ねた。

「いたい、いたい、たすけて」と、本の下敷きになったぬいぐるみを小刻みに動かした

叫びではない、うめくような声を、姪は出していた。

動けなかった。

このごっこ遊び、もしかすると不謹慎かもしれない。

けど、否定はしていけないと思った。

たぶん、なにかを伝えようとしている。

姪は相変わらず「いたい、つらい」と言ってはいるのだが、次第に静かになっていって、なんだか妙にリアルだった。

やっと動けたわたしは

「もう大丈夫だよ」

と別のぬいぐるみを助けに出した

なるべくやさしく、姉みたいな口調で。

「ちがうの!」

間髪いれず、姪はわたしの持っていたぬいぐるみを奪う。

「おわってないの! こわいの!」

と言って、姪はついに、涙を溜めた。

それでも、姪は声をあげて泣かなかった。

わたしをにらみつけているようにも思えた。

つらくなかったわけじゃない。

もちろん、強いわけじゃない。

当たり前だ、大人ですら耐えられない。

しゃべらないのは、平気ってことじゃないのに。

なんでわかってあげられなかったんだろう。

1日目

その時、私は書店にいた。仕事は3時から始まる。

業務の前に書店に寄ることが、半ば習慣化していた。

買いたい本を片手に持って、レジへ向かう。

人の声の重なりのような、妙なざわつきを感じる。

地面が揺れていることに気づいたのは、その後だった。

一昨日の余震だろうか?それならばすぐに収まるだろう。

生まれて初めて体験する激震が、我が身を、そして店全体を揺らしたのは、そんな甘い考えが脳裏をよぎった瞬間のことだった。

平成23年3月11日午後2時46分の出来事である

本を買うより、身の安全の確保が第一だ。

左手に持つ本を放り投げ、私は出口を目指して駆け出した

棚の高い場所から、多くの本が勢い良く吐き出されていった。

店を出る瞬間に、視界の片隅だけに見えていたものだけど、その光景は良く覚えている。

職場はすぐ近くにある。職場へ向かおう。

激しく揺れ動く地面と同様に、あまりにも落ち着きのない思考が私を動かしていた。

だけど私は運が良かった。ガラスが割れる軽やかな音に気づけたから。

目の前で、ガラス造りの街灯が落ちて地面に砕け散った。

あと数秒、私の走りが早かったら、危なかったかもしれない。

まずは身の安全の確保だ。最優先事項にやっと気づいた私は、元々いた書店入り口近くにある金属の柱にしがみつく。

建物の近くにいては倒壊に巻き込まれるのではないか、という考えもあったが、倒れそうには見えない外見のビルであったし、何よりも、屋根があった。

何かが落ちてきても、屋根があれば最悪の事態を免れることが出来るだろう。

一息ついて油断した、その瞬間を見逃さずに追撃するかのように、それはやってきた。

もっとも、どんな覚悟も、あれの前には無意味だったと思う。

視界に入るもの全てが揺れ動いていた。地面が左右に揺れる、というのを視認したのは初めてだったと思う。

地鳴りと悲鳴が重なる。震度表には「立っていられないほどの揺れ」という表現があるが、まさにそれであった。

銀色の柱にしがみつき、身体を支えること以外、何も出来なかった。

勇気ある人は、危険な位置にいた女の子たちを比較的安全な場所へと誘導していた。

その後、ガラスの街灯がまたひとつ落ちた。ガラスの破片が散らばったけれど、気にしている余裕はない。

私は死ぬのか、この世は終わるのか。本当にそう思った。

長い、長い、私の体感では3分ほど、実際はもっと短いだろう(これを書いている時点では正確なデータがないのです)、

だけど長い地震が終わって、私の思考はまた落ち着きのないものへ切り替わっていた。

そうだ、職場に行かなければならない。

揺れが収まり、身動きが取れることを確認すると、私は職場ビルへと向かった。

本震があって間もなく、仙台市内全域は停電となった。

エレベーターは動かない。12階立建てのビルの3階に職場はある。

階段の壁は一部が崩れ、破片がそこらに落ちていた。非常灯がなかったので、昼と言えど薄暗かった。

それは階段だけではく、各階でも同様のようであった。日の光が差し込むだけ、階段よりは明るかった。

ドアを押しあけ、オフィスへ入るとほぼ同時に、余震が襲いかかった。あの本震の直後の余震である。実際にどれほどの震度の余震だったのか、これも現時点ではわからないけれど、本震と同じくらい強いものに感じた。

「危ないから入ってきちゃ駄目!」と悲鳴に近い声が私に掛けられたけれど、入ってきてしまったものは仕方ない。

オフィスの中にいた他の方々とともに、私は机の下に身を隠した

自ら飛び込んできた私はともかく、朝から働いていたオフィス内の人々は、突然の、しかも未曾有の大きさの地震を受け、憔悴しているようだった。

それから階段を降ってビルを出て、一度は近くの小学校へ避難したしかし、地域の方々の避難が最優先であるため、解散の命令が出るまで、私たちは歩道で待機していた。

その間も余震はまるで容赦しない。地面が揺れる、街灯や電線が揺れる。大きな看板地震で壊れていて、たくさんの人が携帯電話写真を撮っていた。

本震の最大震度が7と聞き、やっぱりね、とか、宮城県沖地震かな、などという話題が上がった。少量ながら雪が降り始めて、とても寒かった。

地震保険の話があった。我が家には適用されるのだろうか。いや、それよりも我が家は無事か。

携帯電話操作して、自宅に電話をかけるも、繋がらない。当たり前のことだった。

それからしばらくして、今日のところは解散、ということが上司から伝えられた。私は家まで歩いて帰ろうとしていたけれど、同じ方向に住まいがある同僚がいたので、家の近くまで送っていただくことになった。

車道は当然のように渋滞していた。加えて、一部を除いて、信号も動いていない。

仙台市中心部から郊外へ移動しようというのだから渋滞に巻き込まれるのは致し方ないことだ。30分で100メートル移動出来たかどうか、ということもあった。

正直に言えば、自宅まで徒歩で戻った方が、早く家についたかもしれない。しかし、車で送って頂いて本当に良かったと思う。

そう思う理由はいくつかある。ひとつは、複数の人とともに移動することによって、不安や恐怖と言ったものを少しは紛らわせたということ。また、車にはラジオが搭載されているから、最新情報を確認することが出来たのも大きい。外気を遮断し、暖をとりつつ移動出来たというのもある。被災直後から仙台市内には断続的に雪が降り、吹雪くことさえあったから。

最終的なマグニチュードが8.8であるという報道を聞き、私たちは笑うしかなかった。この地震で亡くなった方が出るかもしれない、という話題にもなった。これを書いている今現在、確認されている死者は1000人以上であると聞いている。ここまで多くの方が亡くなってしまうとは、あの時、思いもしなかった。

移動中、私は家族が心配でならなかった。特に、自宅にいるであろう、母。我が家は築25年の木造住宅である。自宅が倒壊してしまったのではなかろうか、それに母が巻き込まれてしまったのではないか、心配で心配で溜まらなかった。

同乗している同僚は、2歳のお嬢さんを心配していた。夫の実家に預けているのだが、連絡が取れないのだという。

私も母との連絡は取れない。「頼りがないのは良い証拠」であるという、この場にはまるでふさわしくない故事を信じるしかなかった。

被災直後であるから携帯電話は全く役に立たない。それはとうに承知していても、家族の安否を確かめたいというのは当然のことだ。電話はとても繋がりにくかったが、幸い兄との連絡はついた。それから機械に疎い家族が見るかどうか分からないが、災害伝言板に書き込みをしておいた。

車に乗っていても、余震は我が身に伝わる。窓から見える外では、多くの人が歩いていた。結婚式最中だったのか、よそ行きの格好のまま避難する人、スーパービニール袋を被る人、クリーム色のカーテンを纏う人、様々いた。

1、2時間も経つと、日が傾き、徐々に日の光が失われていった。明かりがあるのは車ばかりで、どの店、どのビル、どの建物も真っ暗なままだった。唯一、警察署だけは明るかったけれど、自家発電装置はいつまで持つのだろうか。

これだけの巨大な地震であるにも関わらず、高層ビルの倒壊がなかった、このことはすごいことだと思う。

しかし、それは外見の話だ。どこも大なり小なりの被害を受けていて、壁が崩れたり、窓ガラスが割れたりするのは当たり前、水道管が壊れて、水が溢れだしている家もあった。

時間半ほどの時間を掛けて、自宅の近くまで送って頂いた。ここからは、歩いて帰ることになる。

外はやはり寒かった。実際の気温だけではない。街のどこにも光がない。駅の近くにある大きな交差点、そこの信号は機能していたけれど、他の信号は依然光を失ったまま。これまで車で通り過ぎてきた光景と同じく、街のどこにも灯りはなかった。

この夜の空は、山中で見るもののようだった。星座が確認出来るくらい、綺麗な星空。あまたの星がいつもと同じように、黒のキャンパスの上で煌めき、瞬く。暗い街並みといつにも増して美しい夜空を、私は生涯、忘れないと思う。

さて、この地震では、かなり多くの方が避難所での生活を余儀なくされている。

我が家はかなりましな状況であるということを、ここで記しておく(こうやって被災最中に手記らしきものを書いている時点でお察しの方も多いだろう)。

何せ、不自由なことは多いものの、自宅で生活が出来ているのだ。現在、これを書いている3日目の朝も、白いご飯を食べ、暖かな野菜スープを飲み、ゆで卵まで頂くことが出来ているのだから

時間かけて自宅まで戻ってきたが、電気はついているはずもない。もしかしたらみんな、避難所にいるのかもしれない。あるいは……。

最悪の事態を思い浮かべながら、玄関を開ける。ただいまと誰もいないかもしれない家に声をかける。返事はすぐに戻ってきた。

家族全員茶の間にいた。みんな、無事だった。そのことに安堵の息を漏らしつつ、私は茶の間に入った。

意外なことに、茶の間は暖かだった。捨てるつもりでいた石油ストーブを物置から持ってきて動かしていたのだ。停電していても暖が取れるのはありがたかった。さらに、ストーブの上にやかんを置けば、時間はかがるがお湯が湧く。パンを置けばカリカリに焼ける。外は氷点下にまで冷え込む中、石油ストーブで外から身体を暖め、お茶で内からも暖める。とても幸せなことだった。これを呼んでいらっしゃる皆様には、是非一家に一台、石油ストーブの購入をお勧めする。

家の中には、父、母、兄、それに近くに住む親戚の小母さんがいた。小母さんは、この地震で誰とも連絡が取れず、また誰も帰ってこないという。家の中は地震家具が散乱しており、中にはとても入れない。一人でいるのも不安である。そのため我が家に来たのだという。

自宅へ帰って来た頃、時刻はもうすぐで8時を迎えようとしているところだった。こたつの上には大きな蝋燭が立てられていて、その脇にラジオが置かれていた。懐中電灯もあるにはあるが、あまり明るくないので、部屋全体は照らせない。そのため、トイレに行く時等、移動する際に使われていた。

そういえば、自室に小さなライトがあるのを私は思いだした。いつだかにゲームセンターUFOキャッチャーで取ったものだ。おもちゃに近いが、電球はなくLEDなので、大きさの割には強い光を出す。

本棚が倒れたため、本で埋め尽くされ、足の踏み場がない部屋へ行く(自室の荒れ方がまた素晴らしかったので、出来ればお見せしたいところであるが、この時既に携帯電話の電池が切れていた。残念である)。机の引き出しの中にライトはあった。スイッチを入れると、白い光が散乱した部屋を照らした

また、その時の私は、黒いタイツストッキングと随分冷える格好をしていた。荒れ果てた部屋からジーンズを引っ張りだして着替えた。ついでに、タオルケットと毛布を茶の間へ持ち出した

茶の間に戻り、ライトで辺りを照らしてみせると、蝋燭や懐中電灯よりも広い範囲をより明るく照らせたので、当座はこのライトで部屋を照らすことになった。裸火がなくなり、火事可能性が低くなったのでひとまず安心した

余震は断続的に続いていた。これを書いている今もそうだが、大小の関係なしに、何度何度地震に遭っていると、いつも地面が揺れているような感覚に襲われる。恐怖が完全に拭われることはなく、むしろ大きい余震があるたびに増大していった。

地震当時、各々が何をしていたかを話した

母は、少し昼寝をしようとしていた時に地震に見舞われたそうだ。これほど大きな地震であれば、逃げることをまず第一に考えそうなものだが、母は42型の液晶テレビが倒れないか心配だったらしいテレビを支えつつ、近くの柱にしがみついて、本震を耐えきったそうだ。

兄は仕事をしていた。オフィスの中にあったパソコンは全て倒れて使えなくなったそうで、しばらくは仕事にならないだろう、それどころか解雇されるのではないか、と心配していた。

父もまた、仕事をしていた。スーパーでカゴ集めのパートをしている父は、地震の瞬間に店内にいた。これは危ない、と思い、しかし出口からは遠い場所にいた父は、普段は閉じられたままのガラス張りのドアをこじ開けて外に出たという。後から聞いた話によると、父の勤務地のスーパーは、天井が落ちてしまったそうだ。

ラジオから聞こえてくる男性の声が、この地震による被害の状況を伝える。泉区で家がひとつ倒壊した、壁に挟まれて死んだ人がいる、火災が発生した津波で何もかも飲み込まれた……。いつもの夜のラジオなら、軽やかな音楽や楽しげに話すDJの声が漏れてくるのに、今宵は厳しい現実と、それを乗り越える手段が、無機質に流れ出ているだけだった。

私が自宅に帰宅して、1時間ほどして、親戚の小母さんの娘さんが帰ってきた。

この時、電話はまともに使えなかったが、メールインターネットならば使用可能な状態にあった。

機械音痴しい小母さんは、メールを打てない。私が代わって、娘さんに「小母さんは我が家にいる」との内容を打ち、送信したところ、娘さんはすぐに我が家に駆けつけた。それまでは近くの避難所を当たっていたらしい

娘さんの勤め先は、長町にある。我が家仙台市泉区に位置しており、長町とはかなりの距離がある。娘さんは同僚の方から自転車を借り、ここまで帰ってきたのだった。それまでに1時間半の時間を要したそうだ。

午後の10時頃に、小母さんの旦那さん、つまり小父さんが帰ってきた。小父さんは地震発生直後に車に乗ったのだけど、ひどい渋滞に巻き込まれて、この時間に帰ってきたのだという。実に7時間もの時間をかけての帰宅だった。

先にも述べたが、被災はしたものの、我が家はかなりましな方だった。屋根瓦が吹っ飛んだり、壁に多少のひびがはいったりはしたけれど、とりあえず住める状態にはあったのだから停電していて茶の間以外は真っ暗だし、ガスも当然止まってはいるけれど、この時点水道は使用できた。トイレも流せる。これだけで、精神に随分と余裕ができた。とは言っても、時間が経つにつれて水圧は低下していき、2日目の昼には断水になってしまうのだけど。

しかし、断水前に風呂に水を貯めておけたのは良かったと思う。おかげで、今のところ、トイレの水には困っていない。流石に大しか流せないので、そこらへんの節約は必要だ。

とにかく、電気とガスが使えないのが痛い。そうは言っても、ライフラインが回復するまでは今ある環境で耐えるしかない。母に菓子パンを食べるように勧められたが、遠慮して、お茶だけ飲んでいた。……皮下脂肪が厚いので、少しの間飲まず食わずでも耐えられる。

夜の11時を迎えたところで、両親に就寝するように言われた。どうせ、余震が続いて眠れないので、次の日の夜明け、6時50分頃まで起きているつもりだったが、せめて横になるように、と言われたので、茶の間の畳の上に体を横たえた。今夜は座布団が枕の代わりだ。寝転がり、目をつぶるだけで、少しは休むことができる。

形だけの就寝をし始めて1時間。日付が変わった後、ふと母の携帯電話を見てみると、2、3時間前まであった電波がなくなっていた。メールネットならば使えたのに、それすら出来ない。ラジオ以外の情報獲得手段がない。ニコニコ動画ユーストリームNHKの放送をしている、とラジオは伝えていたけれど、そんなもの役に立たない、と思った(もちろん、まだ電池のある携帯電話等を持っている人には重要なのだと思うけど)。ちなみに、家に帰ってきた時点で、私の電話の電池は切れてしまった。

日の出まであと6時間ラジオは伝える。どうか日の出まで、希望を持ってと。ラジオは伝える。現実を。荒浜に、200から300の遺体が流れ着いたとの報を聞き、涙が頬を伝った。

3時か4時になった頃、NHKラジオ音楽を流した。2曲流れて、1曲は確か「カノン」だったと思う。そのおかげがどうかは分からないが、私は少し、眠ることが出来た。余震がある度に起こされはしたものの……。

 

長い、長い夜を過ごしているうち、私はひとつ思いついた。

被災している最中から、忘れないうちに、体験談を記しておこうと。

携帯電話は使えない。iPadは不向きだ。だから今、pomeraを使って書いている。我が家にて、単4電池を使う懐中電灯等もなかったから、こうやって書いている。

これは被災してから2日目に書き始めた。現在荒削りながら、被災当日のことを書き終えて、5日目である。出来れば電気が繋がった3日目のことまで書いて、増田に上げられれば、と思う。私なんか、とてもとてもましな方だったけれど、千年に一度とも言われる天災体験談は書いておかなければならないと思った。……エゴイストで申し訳ない。

また、普段は趣味小説のようなものを書いているので、そのような表現があり、読みにくい箇所も多々あったかと思う。このことについてもここでお詫びする。

私が住んでいる仙台市泉区とあるところでは、3日目で電気が繋がり、4日目で携帯電話の通話及びメールが使用可能に、そして現在、5日目の朝にネットが復旧した

ガスと水道は未だ使用不能。ライフラインが完全に復旧するまで、一ヶ月はかかるそうだ。

しかし、命があるだけ儲け物である。生きていれば何とかなる、との言葉を信じてみようかと思う。

2010-08-25

2010年8月25日水曜日) 「さようなら

忘れもしない今年の5月18日武蔵野赤十字病院循環器科医師から次のような宣告を受けた。「膵臓ガン末期、骨の随所に転移あり。余命長くて半年」妻と二人で聞いた。二人の腕だけでは受け止められないほど、唐突で理不尽運命だった。普段から心底思ってはいた。「いつ死んでも仕方ない」とはいえあまりに突然だった。

確かに兆候はあったと言えるかもしれない。その2~3ヶ月前から背中の各所、脚の付け根などに強い痛みを感じ、右脚には力が入らなくなり、歩行にも大きく困難を生じ、鍼灸師やカイロプラクティックなどに通っていたのだが、改善されることはなく、MRIPET-CTなどの精密機器検査した結果、いきなりの余命宣告となった次第である。気がつけば死がすぐ背後にいたようなもので、私にはどうにも手の打ちようもなかったのだ。

宣告の後、生き延びるための方法を妻と模索してきた。それこそ必死だ。頼もしい友人や強力この上ない方の支援も得てきた。抗ガン剤は拒否し、世間一般とは少々異なる世界観を信じて生きようとした。「普通」を拒否するあたりが私らしくていいような気がした。どうせいつだって多数派に身の置き所なんかなかったように思う。医療についてだって同じだ。現代医療の主流派の裏にどんなカラクリがあるのかもあれこれ思い知った。「自分の選んだ世界観で生き延びてやろうじゃないか!」しかし。気力だけではままならないのは作品制作とご同様。病状は確実に進行する日々だった。

一方私だって一社会人として世間一般の世界観も、半分くらいは受け入れて生きている。ちゃんと税金だって払ってるんだから。立派には縁遠いが歴とした日本社会のフルメンバーの1人だ。だから生き延びるための私的世界観の準備とは別に、「ちゃんと死ぬための用意」にも手を回してきたつもりだ。全然ちゃんと出来なかったけど。その一つが、信頼のおける二人の友人に協力してもらい、今 敏の持つ儚いとはいえ著作権などの管理を任せる会社を作ること。もう一つは、たくさんはないが財産を円滑に家内に譲り渡せるように遺言書を作ることだった。無論遺産争いがこじれるようなことはないが、この世に残る妻の不安を一つでも取り除いてやりたいし、それがちょいと向こうに旅立つ私の安心に繋がるというもの。

手続きにまつわる、私や家内の苦手な事務処理や、下調べなどは素晴らしき友人の手によってスピーディに進めてもらった。後日、肺炎による危篤状態の中で、朦朧としつつ遺言書最後サインをしたときは、とりあえず、これで死ぬのも仕方ないと思ったくらいだった。「はぁ…やっと死ねる」なにしろ、その二日前に救急武蔵野赤十字に運ばれ、一日おいてまた救急で同じ病院へ運ばれた。さすがにここで入院して細かい検査となったわけだ。結果は肺炎の併発、胸水も相当溜まっている。医師にはっきり聞いたところ、答えは大変事務的で、ある意味ありがたかった。「持って…一日二日……これを越えても今月いっぱいくらいでしょう」聞きながら「天気予報みたいだな」と思ったが事態は切迫していた。それが7月7日のこと。なかなか過酷な七夕だったことだよ。

ということで早速腹はきまった。私は自宅で死にたい。周囲の人間に対して最後の大迷惑になるかもしれないが、なんとしてでも自宅へ脱出する方法をあたってもらった。妻の頑張りと、病院のあきらめたかのような態度でありつつも実は実に助かる協力、外部医院の甚大な支援、そして多くの天恵としか思えぬ偶然の数々。あんなに上手く偶然や必然が隙間なくはまった様が現実にあるとは信じられないくらいだ。「東京ゴッドファーザーズ」じゃあるまいし。

妻が脱出の段取りに走り回る一方、私はと言えば、医師に対して「半日でも一日でも家にいられればまだ出来ることがあるんです!」と訴えた後は、陰気な病室で一人死を待ち受けていた。寂しくはあったが考えていたのはこんなこと。「死ぬってのも悪くないかもな」理由が特にあるわけもなく、そうとでも思わないといられなかったのかもしれないが、気持ちは自分でもびっくりするほど穏やかだった。ただ、一つだけどうしても気に入らない。「この場所で死ぬのだけは嫌だなぁ…」と、見ると壁のカレンダーから何か動き出して部屋に広がり始めるし。「やれやれカレンダーから行列とはな。私の幻覚はちっとも個性的じゃないなぁ」こんな時だって職業意識が働くものだと微笑ましく感じたが、全くこの時が一番死の世界に近寄っていたのかもしれない。本当に死を間近に感じた。死の世界シーツにくるまれながら、多くの人の尽力のおかげで奇跡的に武蔵野赤十字を脱出して、自宅に辿り付いた。死ぬのもツライよ。断っておくが、別に武蔵野赤十字への批判や嫌悪はないので、誤解なきよう。ただ、私は自分の家に帰りたかっただけなのだ。私が暮らしているあの家へ。

少しばかり驚いたのは、自宅の茶の間に運びこまれるとき、臨死体験でおなじみの「高所から自分が部屋に運ばれる姿を見る」なんていうオマケがついたことだった。自分自分を含む風景を、地上数メートルくらいからだろうか、ワイド気味のレンズで真俯瞰で見ていた。部屋中央のベッドの四角がやけに大きく印象的で、シーツにくるまれた自分がその四角に下ろされる。あんまり丁寧な感じじゃなかったが、文句は言うまい

さて、あとは自宅で死を待つばかりのはずだった。ところが。肺炎の山を難なく越えてしまったらしい。ありゃ?ある意味、こう思った。「死にそびれたか(笑)」その後、死のことしか考えられなかった私は一度たしかに死んだように思う。朦朧とした意識の奥の方で「reborn」という言葉が何度か揺れた。不思議なことに、その翌日再び気力が再起動した。妻を始め、見舞いに来て気力を分け与えてくれた方々、応援してくれた友人、医師看護師ケアマネージャなど携わってくれている人すべてのおかげだと思う。本当に素直に心の底から。

生きる気力が再起動したからには、ぼんやりしているわけにはいかない。エクストラで与えられたような命だと肝に命じて、大事に使わねばならない。そこで現世に残した不義理を一つでも減らしたいと思った。実はガンのことはごくごく身の回り人間にしか伝えていなかった。両親にも知らせていなかったくらいだ。特に仕事上においては色々なしがらみがあり、言うに言えなかった。インターネット上でガンの宣言をして、残りの人生を日々報告したい気持ちもあったのだが、今 敏の死が予定されることは、小さいとはいえ諸々影響が懸念されると思えたし、それがゆえに身近な知り合いにも不義理を重ねてしまっていた。まことに申し訳ない。

死ぬ前にせめて一度会って、一言でも挨拶したい人はたくさんいる。家族や親戚、古くは小中学校からの友人や高校の同級生、大学で知り合った仲間、漫画世界で出会い多くの刺激を交換した人たち、アニメ世界で机を並べ、一緒に酒を飲み、同じ作品で腕前を刺激しあい、楽しみも苦しみも分け合った多くの仲間たち、監督という立場のおかげで知り会えた数知れないほどたくさんの人びと、日本のみならず世界各地でファンだといってくれる人たちにも出会うことが出来た。ウェブを通じて知り合った友人もいる。

出来れば一目会いたい人はたくさんいるが(会いたくないのもいるけれど)、会えば「この人ともう会えなくなるんだな」という思いばかりが溜まっていきそうで、上手く死を迎えられなくなってしまいそうな気がした。回復されたとはいえ私に残る気力はわずかで、会うにはよほどの覚悟がいる。会いたい人ほど会うのがつらい。皮肉な話だ。それに、骨への転移への影響で下半身麻痺してほぼ寝たきりになり、痩せ細った姿を見られたくもなかった。多くの知り合いの中で元気な頃の今 敏を覚えていて欲しいと思った。病状を知らせなかった親戚、あらゆる友人、すべての知人の皆さん、この場を借りて不義理をお詫びします。でも、今 敏わがままも理解してやっていただきたい。だって、「そういうやつ」だったでしょ、今 敏って。顔を思い出せば、いい思い出と笑顔が思い起こされます。みんな、本当にいい思い出をたくさんありがとう。自分の生きた世界を愛している。そう思えることそのものが幸せだ。

私の人生で出会った少なからぬ人たちは、肯定的否定的どちらであっても、やっぱり今 敏という人間の形成にはどこか必要だっただろうし、全ての出会いに感謝している。その結果が四十代半ばの早い死であったとしても、これはこれとして他ならぬ私の運命と受け止めている。いい思いだって随分させてもらったのだ。いま死について思うのはこういうこと。「残念としかいいようがないな」本当に。

しかし、多くの不義理は仕方ないと諦めるにせよ、私がどうしても気に病んで仕方なかったことがある。両親とマッドハウス丸山さんだ。今 敏の本当の親と、アニメ監督の親。遅くなったとはいえ、洗いざらい本当のことを告げる以外にない。許しを乞いたいような気持ちだった。

自宅に見舞いに来てくれた丸山さんの顔を見た途端、流れ出る涙と情けない気持ちが止めどなかった。「すいません、こんな姿になってしまいました…」丸山さんは何も言わず、顔を振り両手を握ってくれた。感謝の気持ちでいっぱいになった。怒涛のように、この人と仕事が出来たことへの感謝なんて言葉ではいえないほどの歓喜が押し寄せた。大袈裟表現に聞こえるかもしれないが、そうとしか言いようがない。勝手かもしれないが一挙に赦された思いがした。

一番の心残りは映画夢みる機械」のことだ。映画そのものも勿論、参加してくれているスタッフのことも気がかりで仕方ない。だって、下手をすればこれまでに血道をあげて描いて来たカットたちが誰の目にも触れない可能性が十分以上にあるのだ。何せ今 敏原作脚本キャラクター世界観設定、絵コンテ音楽イメージ…ありとあらゆるイメージソースを抱え込んでいるのだ。もちろん、作画監督美術監督はじめ、多くのスタッフと共有していることもたくさんあるが、基本的には今 敏でなければ分からない、作れないことばかりの内容だ。そう仕向けたのは私の責任と言われればそれまでだが、私の方から世界観を共有するために少なからぬ努力はして来たつもりだ。だが、こうとなっては不徳のいたすところだけが骨に響いて軋んだ痛みを上げる。スタッフのみんなにはまことに申し訳ないと思う。けれど少しは理解もしてやって欲しい。だって、今 敏って「そういうやつ」で、だからこそ多少なりとも他とはちょっと違うヘンナモノを凝縮したアニメを作り得てきたとも言えるんだから。かなり傲慢な物言いかもしれないが、ガンに免じて許してやってくれ。

私も漫然と死を待っていたわけでなく、今 敏亡き後も何とか作品が存続するべく、ない頭を捻って来た。しかしそれも浅知恵。丸山さんに「夢みる機械」の懸念を伝えると、「大丈夫。なんとでもするから心配ない」とのこと。泣けた。もう号泣。これまでの映画制作においても予算においても不義理ばかり重ねて来て、でも結局はいつだって丸山さんに何とかしてもらって来た。今回も同じだ。私も進歩がない。丸山さんとはたっぷり話をする時間が持てた。おかげで、今 敏の才能や技術がいまの業界においてかなり貴重なものであることを少しだけ実感させてもらった。才能が惜しい。何とかおいていってもらいたい。何しろザ・マッドハウス丸山さんが仰るのだから多少の自信を土産に冥途に行けるというものだ。確かに他人に言われるまでもなく、変な発想や細かい描写の技術がこのまま失われるのは単純に勿体ないと思うが、いた仕方ない。それらを世間に出す機会を与えてくれた丸山さんには心から感謝している。本当ににありがとうございました。今 敏アニメーション監督としても幸せ者でした。

両親に告げるのは本当に切なかった。本当なら、まだ身体の自由がきくうちに札幌に住む両親にガンの報告に行くつもりだったが、病気の進行は悔しいほど韋駄天で、結局、死に一番近づいた病室から唐突極まりない電話をすることになってしまった。「オレ、膵臓ガン末期でもうすぐ死ぬから。お父さんとお母さんの子供に生まれて来て本当に良かった。ありがとう」突然聞かされた方は溜まったものではないだろうが、何せその時はもう死ぬという予感に包まれていたのだ。

それが自宅に帰り、肺炎の危篤を何とか越えて来た頃。一大決心をして親に会うことにした。両親だって会いたがっていた。しかし会えば辛いし、会う気力もなかったのだが、どうしても一目親の顔を見たくなった。直接、この世に産んでもらった感謝を伝えたかった。私は本当に幸せだった。ちょっと他の人より生き急いでしまったのは、妻にも両親にも、私が好きな人たちみんなに申し訳ないけれど。私のわがままにすぐ対応してくれて、翌日には札幌から両親が自宅についた。寝たきりとなった私を一目見るなり母が言った言葉が忘れられない。「ごめんねぇ!丈夫に産んでやれなくて!」何も言えなかった。

両親とは短い間しか過ごさなかったが、それで十分だった。顔を見れば、それですべてわかるような気がしたし、実際そうだった。

ありがとう、お父さん、お母さん。二人の間の子供としてこの世に生を受けたことが何よりの幸せでした。数えきれないほどの思い出と感謝で胸がいっぱいになります。幸せそのものも大事だけれど、幸せを感じる力を育ててもらったことに感謝してもしきれません。本当にありがとうございました

親に先立つのはあまりに親不孝だが、この十数年の間、アニメーション監督として自分の好きに腕を振るい、目標を達成し、評価もそれなりに得た。あまり売れなかったのはちょいと残念だが、分相応だと思っている。特にこの十数年、他人の何倍かの密度で生きていたように思うし、両親も私の胸のうちを分かってくれていたことだろう。

両親と丸山さんに直接話が出来たことで、肩の荷が下りたように思う。

最後に、誰よりも気がかりで、けれど最後まで頼りになってくれた妻へ。あの余命宣告以来何度も二人で涙にくれた。お互い、身体的にも精神的にも過酷な毎日だった。言葉にすることなんて出来ないくらい。でも、そんなしんどくも切ない日々を何とか越えて来られたのは、あの宣告後すぐに言ってくれた力強い言葉のおかげだと私は思っている。「私、最後までちゃんと伴走するからね」その言葉の通り、私の心配など追い越すかのように、怒濤のごとく押し寄せるあちらこちらからの要求や請求を交通整理し、亭主の介護を見よう見まねですぐに覚え、テキパキとこなす姿に私は感動を覚えた。「私の妻はすごいぞ」今さらながら言うな?って。いやいや、今まで思っていた以上なんだと実感した次第だ。私が死んだ後も、きっと上手いこと今 敏を送り出してくれると信じている。思い起こせば、結婚以来「仕事仕事」の毎日で、自宅でゆっくり出来る時間が出来たと思えばガンだった、ではあんまりだ。けれど、仕事に没頭する人であること、そこに才能があることを間近にいてよく理解してくれていたね。私は幸せだったよ、本当に。生きることについても死を迎えるにあたっても、どれほど感謝してもしきれない。ありがとう。

気がかりなことはもちろんまだまだあるが、数え上げればキリがない。物事にも終わりが必要だ。最後に、今どきはなかなか受け入れてもらいにくいであろう、自宅での終末ケアを引き受けてくれた主治医のH先生、そしてその奥様で看護師のKさんに深い感謝の気持ちをお伝えしたい。自宅という医療には不便きわまりない状況のなか、ガンの疼痛をあれやこれやの方法で粘り強く取り除いていただき、死というゴールまでの間を少しでも快適に過ごせるようご尽力いただき、どれほど助けられたことでしょう。しかも、ただでさえ面倒くさく図体と態度の大きな患者に、単なる仕事の枠組みをはるかに越え、何より人間的に接していただいたことにどれほど私たち夫婦が支えられ、救われたか分かりません。先生方御夫婦のお人柄にも励まされることも多々ありました。深く深く感謝いたしております。

そして、いよいよ最後になりますが、5月半ばに余命宣告を受けてすぐの頃から、公私に渡って尋常ではないほどの協力と尽力、精神的な支えにもなってくれた二人の友人。株式会社KON’STONEのメンバーでもある高校時代からの友人Tと、プロデューサーHに心からの感謝を送ります。本当にありがとう。私の貧相なボキャブラリーから、適切な感謝言葉を探すのも難しいほど、夫婦揃って世話になった。 2人がいなければ死はもっとつらい形で私や、そばで看取る家内を呑み込んでいたことでしょう。何から何まで、本当に世話になった。で。世話になりついでですまんのだが、死んだあとの送り出しまで、家内に協力してやってくれぬか。そうすりゃ、私も安心してフライトに乗れる。心から頼む。

さて、ここまで長々とこの文章におつき合いしてくれた皆さん、どうもありがとう。世界中に存する善きものすべてに感謝したい気持ちと共に、筆をおくことにしよう。

じゃ、お先に。

今 敏

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http://konstone.s-kon.net/modules/notebook/archives/565

無断転載しました。ごめんなさい。

2010-08-22

悲劇のヒロインのように振舞うつもりはないけれど、定期的に腹が立つのでガス抜き増田に書き込むよ。

当方、5人家族。父母に2人の兄、末妹の私という構成。

次兄は2年前に転勤となり県外へ。長兄、私は成人しているが、両人ともに勤め先が県内にあるので、実家から通っている。

父はまだ定年前、母はパートで働いている。

この国に女として生まれたからには、家事をするのは宿命のようなものである。

家事そのものは嫌いじゃない。正確に言えば、最近嫌いじゃなくなった。

料理自分の好きなモノを作ったり、新しいレシピに挑戦するのが楽しい

掃除洗濯その他諸々は、慣れれば作業である。その作業中にとりとめのないことを考えるのが好きだ。

以前家事が嫌いだった理由、そして今でも腹が立つ理由は同じだ。

呆れらるかもしれないが、同じ兄弟の兄2人は、家事をしてないから。しなくてもいいから、というのが正しい。

私が母と共に夕飯の支度をしている間、兄は好きなことをしている。次兄がまだ家にいた頃は、2人でゲームをしていたこともあった。

父は父で酒を飲んでる。で、私が本でも読んでいれば、母は金切り声をあげて手伝いなさい、と言う。

すっぽかせばお前は駄目な娘だと夕飯の間ねちねち罵倒される。

食事の準備以外でも大体同じで、自室の掃除自分で、というルールはあるものの、他の部屋については私か母。

洗濯は完全に私か母の担当

今では女に生まれたから仕方ない、と思うのだけど、昔は反論したときもあった。

父母いわく、「いくら男女平等の世の中と言っても、家事は結局女がするものだから」だそうだ。

この間帰省したときに、コンビニ弁当ばかり食べてふっくらとした体型になって、洗濯コインランドリーに任せている次兄を見て

何も思いませんかそうですか。それならそうでいいんです。男だしな。

空になった牛乳パック、底に白い跡が残るガラスのコップ、シンクに置かれた茶碗と数枚の皿。

茶の間には読書を嗜む兄の姿。テーブルに散らばるふりかけのそぼろ。

一端濡れ雑巾でも投げつけてやろうかと思うこの思考は歪んでいるのだろうか。

女の子らしくって可愛らしくて、料理編み物趣味な娘じゃなくて悪かったですね。

本当は、一緒に買い物に行くような、従順な娘が欲しかったんでしょう?

ああすっきりした、ありがとう増田

2010-06-14

2ch既婚女性板の「アンチスレ」で槍玉に挙がってそうな有名人調べ

http://anond.hatelabo.jp/20100611200158/ 「2ch既婚女性板の「アンチスレ」調べ」

現在話題沸騰のこれ(ブクマ300超え!)、自分も読んだ。興味深い、興味深すぎる。

そこでフィールドワークですよ。友達・家族に「鬼女アンチスレ立ってそうな人」って誰だと思うか&その理由聞いてみたよ。回答者は男女/既婚未婚混合。鬼女板住人はいない(ハズ。自己申告上はゼロ)。実際アンチスレがあるのを知ってるばあい(「雅子さんてアンチすごいんでしょ、見たことあるよー」とか)、その人以外でありそうな人を答えてもらった。一応複数回等可で。

長いうえに瘴気が渦巻いてるんで、ご了承を。

…ふう。ここまで読んでくれた人乙。超乙。

一応、元増田に敬意を表して(?)簡単な傾向分析を。

男単体(玉置浩二とかキムタクとか辻とか。「吉本芸人」含む。○○夫妻って嫁とペアじゃなく、男だけっていう意味ね)を挙げたのは全員女の人。男のほうが「女の敵は女」て考えてるのかな。ただし朝昇龍を挙げたのは男。あまりのボンクラ回答に飲みの席がザワ・・・となったw

悪妻系(高木広子本田の元嫁・古田の嫁・サッチー田中の元嫁)を挙げたのは全員男。逆に玉の輿とかイケメンとくっついた「だけ」の人(伊東美咲とかイチロー嫁とか稲葉嫁、エビちゃんなど)は女。例外として「カカの嫁」を挙げたのは男で、女の子から「あそこまで完成度高いと嫉妬も何もないんじゃない」て突っ込まれてた。男は職務を果たさない嫁、女はおいしいとこを持ってく同性が嫌い?

ブリッコ系(安めぐみ小林姉妹宮崎美子神田うのらへん。聖子さんも)は、意外と全員男が回答。女が嫌う女といえばブリッコでしょ!と決め打ちしてるきらいがあるようだ。

不倫略奪婚経験者は、男女ともに冷たい目を向けてる模様。まあ当然か。

自分がいちばんなるほどと思ったのは内田春菊かなー。確かに同性にあんなのいたらイヤかもっていう。以上報告おわりっす。

2009-09-18

9/17

この日は7時に起きる。

7時20分に茶の間についたら、おばさんに「早いね」といわれる。

朝ごはんを頂く。

9時過ぎに家を出る。目的地は下北沢

新宿までの電車はめちゃくちゃ込んでた。でも、ラッシュはもっとすごいらしい。

10時前に下北沢に到着。ハイラインレコーズに行こうと思ってたんだけど

その日の朝に調べたら、去年に閉店してたのを知り

ふとTLに下北沢ジェットセットがあるらしいのでそこに行くことを決めた。

でも、その前に適当に駅周辺をぶらつく。ゲーセンギタフリやる。

あとは、中古屋で漫画見たり雑誌バックナンバー見たり、スコア見たりした。

それにしてもスタジオボイスバックナンバーっていろんなところで見かけるなぁ・・・

しばらくしてからジェットセットに向かうものの場所がさっぱり分からなかった。

交番で聞いたけど違うっぽいし、どうやら移転してたみたい。

いったん近くのネカフェで調べるものの肝心の所のストリートビューが無くてしょんぼり。

そしたら、知り合いがご飯でもどうですかーってリプライ飛ばしてくださったのでお会いすることに。

駅で待ち合わせして近くのお店でご飯を食べる。

その後、もう一人自分に会いたいという人が居たので合流。

そして、ジェットセットを探すものの見つからなかったので他の中古屋を見る。

100円のワゴンを見てから、解散。

戻ってきてから近くのファミレスに行く。

親に電話する。

資格とか取りたい言ったら、資格の要らない会社就職しなさいといわれる。

若干、凹む。

戻ってきたのが17時半くらい。

晩御飯を頂いたのが19時半。

今日下北沢にいったことを話す。

その後近くを散歩古着屋とか売ってる店で帽子を買う。

あと、知り合いと電話した。

本音で言ったらぶん殴られるなぁ・・・

どうしてそこまで応援してくれるんだろう・・・

帰宅後、おばさんと話をする。

やっぱ、生きてく上で対人スキルは必要だよなって話をした。

自分はそんなに人付き合いが得意なタイプではないので直したいと思ってる。

だから、口のうまいトラック乗りの父についてけばいいとおばさんに言われた。

正直、父の仕事を継ぐのもありかな・・・と考えているが

両親はあまり乗り気で無い。教えれるのがめんどくさいとか。

とりあえず、いったん田舎に帰ってから両親と話をする。

2009-09-17

「今、誰か殺したいほど憎い人間は居るか?」と聞かれたら「いいえ」だ。

「今、暴力をふるいたいほど嫌いな人間は居るか?」と聞かれたら、

「はい。職場上司と同僚です。」と答える。

飲み会泥酔してるときにからかわれたら、瓶で頭ぶん殴ってしまうかもしれない。

でも殺したいわけではない。ああいうのは殴らないとわからないからだ。

「今、死んでほしい人は居るか?」と聞かれたら、

「はい、中学時代に俺をいじめたり持物を隠した連中です。」と答える。

たまに彼らについて思い出すとき、何を思い出しても必ず最後には

「あいつ今頃借金苦で一家心中でもしてないかな」とか、

「あいつの一家が茶の間で団欒してるときにダンプが突っ込んで一家全員死んだりしてないかな」とは思う。

殺したいとは思わない。嫌いすぎて触れたくもないし見たくもないからだ。

家族ごと死んでほしいのは、俺をいじめた奴を大事に育てた奴も皆同罪だからだ。

連中の中でほんとに死んだ奴がいたら、その日は祝杯をあげることに決めている。

2009-06-15

萌え

先夜、晩酌が過ぎたのか茶の間でうたた寝し、つけっ放しにしたテレビ吹き替えの声で目を覚ましました。ぐずぐずと瞼を閉じたままでいると、耳にヘンリエッタだの、アンジェリカだのと呼ばれる少女たちの会話がとびこんでくる。スパイ物だろうか?それともテロリスト物だろうか?



いずれにしても武器を使った先頭場面が登場するヨーロッパ映画に相違なく、さて、どんな女優たちが出ているのか、と目を開けてぎょっとした。画面に映っていたのはアニメ。しかも少女たちは目が大きな、いわゆる”萌え系”のキャラクターだったからである。



これって、何なのだ?本腰を入れて見る間もなく番組が終了したため、ネットでこのアニメについて検索して、さらに驚いた。アニメに登場する少女たちは全員サイボーグという設定。時代背景は偽史が絡んだ現代イタリア。某公益法人が、事故で瀕死の重傷を負うなどした少女たちを集め、人体改造と洗脳を行い、反政府組織に対する非合法活動に就かせるというのが物語りのあらましだった。



少女たちは家族との別離と身体の劣化を、運命として甘受せねばならない。また、彼女たちには男性担当官がついて、男女間にはフロイト風に「転移」した感情の縺れが出来上がってもいるらしい。オタク世代のアニメ文化もここまで複雑で高水準になったか。



実は私はかねがね、オタク腐女子と呼ばれるアニメゲーム漬けの若者が増殖することに、かすかな懸念を抱いてきた。このままオタクが増え続ければ、しまいには大事な決断や、国家的な戦略策定の場面で、私たち日本人は道を誤るのではないか、と。



たかだかアニメゲームで何を大げさな、と考える向きもあるかも知れない。だが、オタクたちの「萌え志向世界観が世の中で支配的になれば、私たちはますます内向し、衰弱して、リアリズムが貫徹する他国の人々に軽んじられるのではないか?いや、冗談ではなく、私はそう考えるのだが、ただ、これにはちょっと説明が必要かも知れない。



文芸について考えれば、私たちは小説批評を読むことによって、暗々裏に人生の悲哀や生活の真実を知り、また生きてゆくための規範や行動の基準のようなものを学ぶ。ときどき人生の切所で小説の一節が脳裏に浮かんだり、敬愛する文学者の誰それが立ち向かったと同じように、人生に立ち向かおうとしたりするのはこれである。



しかし、こうした功徳は文学のみならず、ある日くちずさんだ流行歌の一節だったり、映画や芝居の登場人物台詞だったり、さらにいえばマンガアニメの一シーンであっても同じだろう。



例えば、つらい毎日に挫けそうになったとき、「立て、立つんだジョー!」と『あしたのジョー』の段平オヤジの督励が聞こえてくる、などと言えば人は笑うだろうか。鈴木清順監督の『けんかえれじい』には「可愛そうってことは惚れたってことよ」という漱石から転用された台詞が登場するが、そうした台詞自分自身の恋愛結婚の行方を納得する男女だって多数いることを私は知っている。また周囲に振り回されたあげく、鶴田浩二をまねて「右を向いても左を見ても、人生まっ暗闇じゃござんせんか」と呟く人がいるが、私が言いたいのは要するにそういうことだ。



ここにあるのは自らに何らかの役割を振り、その役割によってようやく自分たり得る私たちの姿である。よく「とり換えのきかない自分」などと言うが、胸に手を当てて思いいたせば、私たちは常に何らかの役割(人格)を自らに振ってその場その場を生きている。自分とはその意味で他人なのだ。



まことに「人間この劇的なるもの(福田恆存)」で立場が人を作るというが、家では頑固オヤジであっても、会社に行けば部長なら部長としての振る舞いがあり、学校先生であったならば先生としての行動がある。また老母に対しては、よき息子、娘の役目も勤めねばならない。



こうした前提を認めれば、オタク腐女子では「萌え」が判断の基準になり、行動の準則になることは明瞭だろう。しかも彼らはどっぷり浸かったゲームアニメ世界を生きて、いま、ここにある現実を生きようとしないように見える。そしてその結果、例えば外国人との交渉で、会社や国の命運をかけて決断せねばならぬときに、ついついリセットできるゲーム感覚で、鼻面を引き回されることだってまま起こり得る。



とはいえ、うたた寝から覚めて見たアニメに驚かされたように、オタク世代もリアル構造が私たちと違い、異なる感受性によって動く頭を持っているだけ。実はむしろ今のリアリティーに適応した世代なのかもしれない。年寄り若者たちに文句を言うのは、古代メソポタミア文書以来、普遍的な話らしいから、私の懸念は愚かな繰り言なのだろう。



とここまで書いてふと思い出した。百年に一度と喧伝される経済危機の中、財政出動を決意した政府が、世界に冠たる日本アニメ文化を発信するためアニメの箱物を作るという。ふむふむ。要するにすでに私などが思うよりも、ずっと世の中は進んでいたのだろう。切所ですでに「萌え」は老人により先取りされているらしいのだ。これがうたた寝から目覚めた私の短絡や懸念と重ならぬことを祈りばかりだ。



2009年(平成21年6月14日日曜日)付け 日本経済新聞文化欄 久間 十義「萌え」より

2009-05-09

PS3WebブラウザFLASHゲームを遊ぶ

・・・という使い方があまりプッシュされていないのはなかなか勿体ないのではないかと。

ちなみに我が家ブラウン管テレビで「星探」や「鍵のち扉」をやってみせたら家族に大好評だった。マウス必須だったけど、USB接続マウスなんて我が家には1つか2つは余分に転がってるので特に問題もなかったし。

その他、脱出ゲームやTD系ゲームの類を、茶の間家族とあーでもないこーでもないと言いながらやるのも良いかも知れない。

参考
星探
http://nekogames.jp/mt/2007/05/post_16.html
鍵のち扉
http://escape-game.com/dak.html

2009-01-26

ニコニコ動画不快コメントは「茶の間のオカン」である。

前に「他の人が演奏してくれた音源に、うp主が絵をつけてみた」という趣旨の面白い動画を見ていたが、コメントの中に「演奏うp主がしている」と誤解しているのが少なからずいて、その度に「投稿者コメぐらい読めや」とギスギスしたコメントが飛び交って大変であった。


そのうp主が普段は「演奏」と「絵」を両方やっていたので誤解されたのだろうけど、「コメントくらい読んでくれよー」とその時は思った。しかし最近その認識が変わった。あれは「茶の間テレビを見ているオカン」である。

つまり

テレビで何か出てくると解説が入る前にオカンが「何だろあれ」と言ったり、ぼうっと見ているためコーナーが終わった後にオカンが「あれ終わったの?」と言ったりするようなものである。


これをネットに置き換えれて考えれば、動画の説明コメントを読まずにコメントしたり、動画の内容を把握せずにコメントしたりする人は「ディスプレイの前のオカン」である。怒りも自然におさまろうというものである。

2008-11-12

http://anond.hatelabo.jp/20081111053810

いっぽうその頃,

カシオFX502Pになんかの雑誌で手に入れたゲーム(セグメント表示)プログラムを必死に打ち込む俺。カセットのイヤホンジャックプラグを挿さないままフルボリュームでピーヒャラガッを茶の間にお届けしてしまう俺。

2008-10-19

昼ちょっと前に起床。テレビをつけたら、『笑っていいとも!』がはじまるところ。最初のコーナーが長引いている。「テレフォンショッキング」の時間が短くなるんじゃないかと、毎回勝手にいらない心配をする。

テレフォンショッキング」が終わるころ、やっと布団を出る。トイレに行く。茶の間で親と適当にしゃべる。部屋に戻って、布団をたたんで、座布団に座ってテレビタモリはいつも早起きで大変だなあ、でも、それだけの金はもらってるんだろうなあ、案外割のいい仕事かもしれないなあ、とか考える。

読みかけの本を読みはじめる。10分くらいで飽きてきて、中断。テレビの上に、せっかく買ってきたのにまだ読んでいない本が、7,8冊ある。どんどん増えていく。

 アコギを弾こう、と手にとってみると、弦がゆるゆる。「弦を毎日ゆるめておかないと、ネックが曲がる」と誰かから聞いて、昨日の夜、さっそくゆるめて寝たんだった。面倒臭えなあとかなんとかブツブツ文句を言いながらチューニングする。チューニングし終わってジャカジャカ弾いてたら、3弦が切れた。アコギの3弦は、もうストックが無いんだった。あーあ。仕方がないから、エレキギター用の4弦を張ってみる。鳴らない。ビャンッ、ビャンッと頼りない。タモリのせいだ。

ギターにも飽きてきて、腹も減ったし、そろそろ朝飯でも食うか、と台所へ。冷蔵庫を開けたところで、今ごろやっと目覚まし時計が鳴る。…目覚まし時計のくせに、オレより遅く起きるな!心構えが成ってない。5分前行動するくらいの気持ちでやってほしいもんだ。タモリを見ろ、タモリを!

納豆ご飯、みそ汁お茶を、なんとか無理していっぺんに持って部屋に戻ったら、扇風機につまずいて、あやうく全部こぼすところだった。タモリのやつにスキを見せると、こういうことになる。油断禁物だ。

古い扇風機だから、倒れた拍子に金網がとれて、それでもしぶとく回っている。そんな扇風機を見てたら悲しくなってきて、テレビタモリに向かってリモコンを投げつけてやろうかと思ったけど、リモコンが壊れたら嫌だからやめた。

笑っていいとも!』が終わって、チャンネルをそのままにしておくと、『ごきげんよう』がはじまってしまう。あれを見てると、なぜだかものすごく恥ずかしくて、背筋に寒気が走って、外へ飛び出して走り回りたくなる。どうにも耐えられなくて、「あっ!」と声を出してしまうときもある。

テレビは面白くないから消して、音楽を聴くことにした。昨日買ったばかりの、ホフディランアルバムを聴こう。うん、かっこいい。1曲目は、そのまんまどこかで聴いたことがある気がしないでもないけれど、かっこよければすべてOKだ。タモリにも聴かせてあげたい。

遅めの朝食を終えて、横になる。動くのが面倒臭い。1時間くらい自分と戦って、やっと立ち上がって歯を磨き、顔を洗う。また横になる。テレビをつけたら昼のドラマをやっていて、ついつい最後まで見てしまう。そのままの勢いで、ワイドショーも最後まで見る。ワイドショーを見ながらまた自分と戦って、番組の終盤になって、やっとヒゲを剃る決心がついて、ダラ、ダラと剃る。本を読んだり、アコギを弾いたり、レコードかけたりしながら、またまた自分と戦って、夕方になってようやく立ち上がって、寝癖を直しに洗面所へ。ここまでで、起きてから4時間もかかっている。いつものことながら、自分が情けなくなる。あぁ、タモリ

PM5:45からバイトだから、いつもPM5:00には夕飯を食べる。PM5:00という約束になっているのに、うちの親はいつも、「片づかないから、早く食べちゃいなさい」とかなんとか言って、PM4:30にはもうばっちり夕飯を準備してしまう。

「早く食べな」

「食べな食べなって言うのは年をとった証拠だ」

「ゴチャゴチャして片付かないから、いいから早く食べな」

「さっき朝飯食ったばっかりだから食えねえよ」

「じゃあ食べるな」

「急いで食うとウンコが硬くなるんだよ」

ウンコが硬くなるのもタモリのせいだ。

バイトまでまだちょっと時間があるから、アコギを弾く。新しいことを覚えようとしないから、弾く曲はきまってオアシス奥田民生だ。そろそろ飽きてきたな。

 「だれかギター弾いてるんですか?外まで聞こえてますよ。息子さんですか?なかなか上手いじゃないですか」

 玄関先で声がする。新聞の勧誘だ。親のご機嫌をとっている。でも、残念でした。ご機嫌取りも、無駄努力ですよ。うちの親は巨人ファンだから、あの新聞しか読みません。タモリになんとかしてもらえよ。

ちょっとのつもりで横になったらそのまま寝込んでしまって、起きたのがPM7:30。バイトは完全に遅刻だ。仕方がない。電話して休むことにした。読書テレビギターレコード読書テレビギターレコードで一日が終わる。気がつけばもう、日付も変わって朝方だ。タモリはもう、とっくに寝てるんだろう。もうすぐ起きる時間かもしれない。

週に5日間、文句を言わずにクルクル働いて、休日ささやかに遊ぶ。すばらしい!僕もタモリさんのような、立派な勤め人になりたいです。どうすれば、なれるんだ。

2008-09-06

人を否定しなきゃ自分を肯定できないなんて惨めなだけと彼女は泣いた

「と彼女は泣いた」っていうのは昔の歌のフレーズで何となく借りてきただけです。

私に彼女がいてその女性が泣きながら何か言ったってわけではないです。

私は女。


私には幸せ癖がない。

今日も一日自分をほめることができず

自己嫌悪を数えて終わった。

父の顔には笑い皺がある。

私の顔には眉間の皺がある。

現在私は仕事に就いていて普通に働いてはいるけれど、

人と上手に関われないことをとても苦しく感じていて、

人の優しさや好意をたびたび踏みにじってしまう。

私は思い通りに物事が運ばないと不機嫌になり、

黙りこんで一言もしゃべらず不機嫌さを周囲にぶつけてきた。

自分でもそんな人間でいたくないのに、

なんで自分の気分を抑制できないのか、

自分の事さえも思い通りにできないことに苛立ち、みじめになる。


みじめさがつのると思い出す場面。

まだ多分、幼稚園にも通っていなかったのじゃないかな。

茶の間に敷かれた絨毯の赤い色。古いふすま。

私を叱り終えて茶の間から出ていく母。

叱られるべくして叱られたのかまでは覚えがない。

(いつも母は気分で怒っていたり優しかったりしたから)

茶の間に残された私はめちゃくちゃに気持ちが乱れていて、

泣きわめきふすまに向かって何かを投げた。

「ふすまを破いたり壊すようなものを投げると

 また母が飛んできてさらに私を怒鳴りつけるに違いない」

投げたのは肌布団か何か、布製の柔らかいものだったように思う。

その場面が一気によみがえったあとは

眉間の辺りに消化しきれずに残った澱のようなものが漂っているような気がする。

そんなものは実際見えてないのに忌々しさだけがあって、ますます皺が深くなるじゃない。


お母さん、私はお父さんとお母さんに本当に本当に本当に感謝しているよ。

いま私が30半ばで独身であることを思うと、20代前半で私を生んだお母さんは

お父さんと一緒にがむしゃらに一生懸命に私と兄を育ててくれて、本当にすごいことだと思う。

でも、お母さんのような人にはなりたくないってずっと思ってきたし今でも思ってしまう。

なんでなんだろう。悲しい。

悲しいのだけれどやっぱり、お母さんの事を私、誇ることをためらってしまう。

ずっと一緒に暮らし続けてきて、これ以上お母さんと一緒にいたら

私はどんどん腐っていくような気がして私は家を出ようと決めた。

自分が望むように家にとどまらない私に向かって

引っ越しのその日もお母さんは近所中に響き渡る声で私を罵ったよね。


離れて暮らし始めてから叱られることも感情をぶつけられることもなく、

たまに訪ねたり一緒に出かけたりするのを通して、

母は普通の人よりもずっと弱い人なのかもしれないって

客観的に見えるようになった。

お母さんには悪気なんてなくって、ただ無邪気で単純な人で、

むしろ私達兄妹のわがままをいっつも叶えようとしてくれて、

本当に私達を大事に大事に守ってきてくれたんだよね。

なのにお母さん。

私はこんな年齢にもなってお母さんのせいだ!ってまだ時折はらはらと泣いているよ。

でも本当は私はお母さんの事が好きじゃないのではなくて、自分の事が全然好きになれなくてつらいのだよ。

2008-03-07

他人のふるまいが許せない社会

平城遷都1300年祭・マスコットキャラクターについて

内容の当否は別にしてメールで抗議している人々の品格の無さに驚く。

20代

[性別] 男

[メッセージ]

センス無いわ。さっさと廃業したら?

↓あんたの書いたキモイマスコットの評価を知ると良い

http://blog.livedoor.jp/・・・・・

この人が提示しているURLはおそらく、「痛いニュース」だろう。

しかし普段の「痛ニュー」は、モンスターペアレントクレーマーなどを侮蔑すべきDQN行為と認定するような編集方針があると思う。

これは「痛いニュース」を見て、他人のDQNな行為に呆れるような人でも一歩違えば自分がDQNクレーマーになってしまうということを示しているのではないだろうか。


もう一つ。

J-CASTニュース : 読売記事で「会社員」ブログ炎上 「炎上して当然」発言が引き金

21世紀の今になってイソップ童話なみの教訓話が実話で見られるとは思わなかったが、それはともかく

この会社員は、ブログで騒ぎをあおり、不用意発言は「炎上して当然」と言った、と記事で紹介していた。

この騒ぎで、「会社員」がブログに書いた過去の記事が次々に非難の対象になった。07年7月26日ブログ記事で、マクドナルドドライブスルーの車が邪魔になって駐車場に入れないと店のスタッフ恫喝し、看板を何度も蹴り上げていたことが分かった。また、08年2月17日の記事では、自転車同士がぶつかりそうになり、高齢者男性が転んだにもかかわらず、そのまま逃げたことを告白していた。

会社員」は、読売の記事で、「(自らのブログで)相手の名前や住所をさらしたこともある」とされていた。ところが、2ちゃんまとめサイトに自分の個人情報がさらされた。すると、3月1日ブログ記事で、「私の発言がハンドというペナルティだとしても、個人情報ネット上にばら撒くのはルール違反です。レッドカードです」と訴えた。

この会社員は他人が行った不用意発言や不道徳な行為は「炎上して当然」だとしながら、自分が同じような理由で炎上した場合は大目に見てくれという。


こうした事例は今の日本社会道徳意識が非常に端的に表れている例なんじゃないかと個人的に思っている。

産経新聞企画溶けゆく日本人」に出てくるようなワガママ人間を目にすれば誰だって気分が悪くなる。しかし、そういうワガママ不快感を抱く人が沢山いるのは間違いないのに、かといって日本社会モラル全体が向上したという話は聞かない。

これを考える鍵が上に挙げたクレーマー炎上ブログの例にあるように思える。

要するに他人の言動が自分にとって不快か否かだけが重要なのではないか。ミーイズムを憎悪するミーイズムとも言えるのかもしれない。「お前たちは私が不快にならないように振舞え」というふうに。

(個人的な経験から言っても、他人のモラルに厳しい人が自分にも厳しいモラリストだった試しがなかった)


また、少し前に「斉藤さん」平均視聴率15%超 「カッコイイ」10代支持という記事があった。

こうした茶の間反響に、担当の西憲彦プロデューサーは「ティーンが見るとは思わなかった。日本人はまだまだ正義感が強いと思った」

などというが、これも実際に正義感が強いのかどうかはわからない。

単に自分の気に入らない人間を叩いてスッキリしているだけかもしれないからだ。

現実では「斉藤さん」みたいな存在を「せっかく秩序だった社会ができているのに、それを破壊するわがままDQN」というふうに扱っているというのは、いかにもありそうだ。

2007-12-25

カウントダウン

祖母が痴呆症になった。

もっと身近な言葉で言うとボケた。

ボケって言うと「夕飯はまだかねぇ?」「さっき食べたじゃありませんか」的な物だと思っていたけど

なんか全然違った。違いすぎたから気付かなかった。僕も家族もみんなみんな気付かなかった。


ある日、家の前に誰かがいると言い出した。

不安に思った母は父と僕に外を見てきてと言った。

すこしビビリながらも見に行ったけれど誰も居ない。気配も無い。

そんなことが何度か続くと祖母の発言はすべて「気のせい」で始末されるようになった。

それでも祖母は不安げな顔で誰か居る、誰か居るといい続けていた。


気付けるはずの「芽」は他にもあった。

あそこにしまってあったあれがない、盗まれた、と騒いだり

昨晩の電話は誰からだった?とかかってもいない電話の相手を知りたがったり

それでも僕も母も父も気にも留めてなかった。今思えば気付かないほうが不思議なのに。


そんなある日、祖母が風呂に入ると言い出した。

真昼間、午後2時ごろの事。

いつもは夕食を食べた後に風呂に入る祖母がおかしな事を言うな、とは思ったものの

寒い日だったので湯船に浸かって温まりたいもかもしれないなんて呑気な気持ちでOKした。

けれどもちろん風呂など沸かしていない。

それを告げると祖母は自分で準備するから大丈夫だと意気揚々と浴室に向かっていった。


それから数十分経っただろうか。

そういえば祖母はどうしただろう。

ふと気になってトイレに行くついでに浴室のほうへ向かうと祖母は風呂桶に向かってぼんやりと立っていた。

「どうしたの?」

「ガスがね、つかないんだよ」

故障か?そう思って祖母のほうに駆け寄って風呂を見る。

元栓すら捻られていない給湯器を見て僕は唖然とした。

何年も触ってきた給湯器の使い方を祖母はすっかり忘れてしまっていた。

「おばあちゃん、僕が治しておくからこたつに入って待ってて」

僕はそれを言うのが精一杯だった。

祖母は、男の子は頼りになるねぇと言って茶の間に向かっていった。

じっとからっぽの風呂釜を見ていたら理由はわからないけど涙が馬鹿みたいに出てきた。


ゆっくりとでも確実に祖母はボケて行って、今では一日中ぼんやりと座っているだけになってしまった。

かと思えば突然しゃきしゃきと掃除なんかを始めたりする。

動くと当然トラブルも起こる。だって記憶どんどん消えていってしまうのだから。


僕は祖母が好きで、(共働きだった両親がいない時間はいつも祖母と過ごしていたから)

でも祖母の異変に気付けなかった。

母は祖母のいない場所で露骨に嫌味を言うようになった。

父はそれを知っていて知らないことにしている。

祖母はどんどん小さくなっていく。

どんどんどんどん小さくなっていく。

僕はそれを止めることが出来ない。


祖母は「体と言う入れ物」と「魂と言う中身」が別々になってしまっているみたいだ。

それがいつか完全に別々になってしまうのじゃないかとふと思った。

たとえ肉体がまだ生きていたとしても、祖母の記憶が消えてしまったら

それはある意味ではその人の死なんじゃないだろうか。


突然カウントダウンが始まったみたいで、ただ悲しい。

2007-04-23

テレビ見ないよ

http://anond.hatelabo.jp/20070423104250

バラエティはつまらないし、アニメも見ない。

出勤するまでの間だけNHK総合をつけておくくらい。

実家は、茶の間に人のいる間は基本的にテレビがついている(見ていなくても)。

姉の所も似たような感じになっている。

んーWBSとか面白かったから見たいんだけれど、このごろ寝るの早くてさ。

2007-02-28

いまさらWiiを手に入れてRimoを触ってみたんだけども、これはもうあれなんだな、俺みたいなネット依存症人間だともう通常の感覚でいうところのテレビパソコンが入れ替わっちゃってて、パソコンはなんとなく起動してるもんだけど、テレビはなんか目的がないと点けないっていう、そういう人種にとっては厳しいサービスなのかもしれないな。茶の間行ってテレビWiiの電源入れてインターネットチャンネル起動してRimoアクセスしてって手順踏んでまで「ダラ見」はしねーわ。

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