はてなキーワード: 表現とは
そういう稚拙なレトリックをすることが、「頭を使った」と思える不思議な世界にお住まいの方がいるわけなんだな。
少なくとも一人は。
著作祭な表現は下品だとは思うけどさ。
バレンタインに肯定的な男であれ否定的な男であれ
・チョコもらったら同等かそれより重いお返しをしなきゃいけないし
これのどこが「貢がれ」てるんだいったい
この貰う側の立場を理解してないってことは
君は生涯でいっぺんもチョコを貰ったことがない人間かチョコを渡す側かのどっちかだろう
こんな状況下でさらに渡す方が「屈辱的に貢いでる」ような意識なら
なおさらバレンタインなんて誰も幸せじゃなかったってことじゃないの
男も女も菓子屋もだーれも困らなくなった上に
すごく健全なとこに落ち着いたじゃないの
無理筋な男女間の干渉が無くなって困るのは
「パリストンがいいやつだった件」
なんてまとめがあったが、いいやつって敢えて安っぽい表現してるのが、かえって深く考えさせられるね
とてつもなくいいやつ
理由、キメラアント編の結果を見ると
東ゴルドーは軍事国家で正攻法で攻めたら戦争レベルだし、NGL自治国に至っては表向きが超自然回顧主義だから軍隊を突入させる事すら不可能な完璧なシステムを構築している
それが、結果的に見ると、たった数人のハンターの命を犠牲に解決している
さらに言えば、キメラアント討伐の結果、ハンター協会は世界規模のピンチを救うという功績を残している
ハンター認定証を売ると人生遊んで暮らせる、それぐらいハンターは特権階級だけど、それはハンターが今までに功績を残しているからで、今後においてもキメラアントの残党狩りのためにハンターの地位は確固たるものとなり続ける
たしかにゴン達の視点で見ればキメラアント編は苦難の連続だったし、親しい人をどんどん亡くしている
しかし、一般の人間や関わっていない大多数のハンターにとって非常に望ましい結果となっている
「いいやつ」の定義を「大半の人間が望ましい結果を出すやつ」と定義すると、パリストンすっげえいいやつって結論になる
そこで疑問、パリストンはどこまで計算してやったの、少なくとも会長達が失敗したとき世界規模でピンチになるんじゃねえの、てこと
キメラアントの社会システムは、女王、もしくは王を倒せば一気に崩壊するシステムになっている
そこで、世界規模のピンチに派遣されたハンターが、何でたった三人だったかと言う話
・貧者の薔薇をかかえているネテロ会長は、一対一の戦いにおいては、勝利か相打ちしかない
・モラウとノブの能力は、会長を一対一の戦いに誘導するのに最適な能力
それでも、万が一メルエムが予想外に強すぎたりして、会長一行が失敗した場合どうすんの?世界が終わるじゃん、って話になると、活きてくるのが先週の発言
「信じてますよ。決まってるじゃないですか」
パリストンは会長に絶対の信頼を置いていたからこそ実行できた、ていう根拠になる
結果的にネテロ会長は相打ちになったけど、ジン曰くハンター最高の快感は
「狙いが自分の思った通り動いた時」
=本来の目的から解放・放逐された結果、地道な努力をせずに自己目的的、自己完結的にその自由を享受する姿勢
原発推進派も、反原発推進派も、橋下派も反橋本派も、どちらも目くそ鼻くそになるのはこれが原因。
・島宇宙化
=若者の内向化のことと言われるが、実際は世間が崩壊した結果、寄る辺なく数名の仲間と共に漂流している状態と捉えるべき。
自分のことをアッパーミドルとか言っちゃいつつも不安を隠しきれない女子大生などが典型例。
=社会貢献したい若者の数は増加し続けているけど、まともな社会活動に参加する人は増えてない残念なニッポンの現状
=民衆が持つ独自の規範。これが破られるとリアルネット問わずにいきなり炎上する。
このことを知らないと非常に危険。日本のモラルは肯定より否定の形で表現されることが多い
・親密圏、公共圏
=内田樹が大好きな言葉。彼の脳内ではこれがあれば全ての社会問題解決するくらいの万能薬。
彼の語るこれは、なぜか年功序列的な概念とドッキングしており、ユートピア化している。
彼が批判しているのは常にこのユートピアの実現を脅かす何かである、と考えれば、彼のブログが非常に読みやすくなる
・承認欲求
=若者による、言っていることはわかるがお前の言い方が気に入らない、というふてくされた態度のこと。
逆に言えばほめてやれば簡単に動くのでコツをつかめばこういう若者ほどチョロい。
=友達がいなくても、ネットさえあれば、その気になれば友達は作れるという希望のこと
・近代化
=ムラの外側を創造することなく一生を終えていた村人たちを、
国民や個人という自立した存在として引き上げようとしたプロジェクトのこと。
人が夢中になれる娯楽を提供する事を「落とし穴を掘っている」と表現するなら
全ての娯楽企業は「落とし穴を掘っている」事になるような。
雪崩は、たった一粒の小石によって引き起こされることもある。
1月21日、ケンブリッジ大学の数学者 Timothy Gowers が、
長年に渡ってエルゼビア社の論文誌をボイコットしている理由について、ブログに書いた。
オランダに本社を置く同社は、一流誌 Cell や Lancet をはじめとする定期刊行誌を2000誌所有している。
ノーベル賞の数学版とされるフィールズ賞を受賞した Gowers 博士は、この状況を望ましくないと考え、
今回のブログ記事が他の学者もボイコットに参加するきっかけになれば、と望んでいた。
実際、それが起こった。
Gowers のブログに感化されて、数学者 Tyler Neylon がオンライン署名サイトを設置し、
そのサイトを通じて研究者2700人以上(訳注:日本語訳執筆時点では5300人以上)が署名し、
自分の研究をエルゼビアの論文誌に投稿せず、エルゼビアに投稿された論文を査読せず、エルゼビアの編集作業にも協力しない、と誓約した。
その数は、数学者の表現を借りるならば、指数的に増大している。
実効性をともなっていくとすれば、大出版社にとってこれは、革命をつきつけられたようなものである。
Gowers 博士による非難は3点に集約される。
第一点として、エルゼビアの製品の料金は高すぎるということ。
第二点として、論文誌の「抱き合わせ」が広く行われているために、図書館はある論文誌を購読しようとするとき、興味のない他の論文誌もセットで買わなければならないこと。
第三点として、公的資金による研究に対して政府がフリーアクセスを要求することを禁じる法案(たとえば米国議会で審議に入る Research Works Act など)を支持していること。
エルゼビア側によれば、これは誤解を招く言い方だと言う。
2010年には、20億ポンドの収益に対して7億2400万ポンド(11億6000万ドル)の利益を得た。利益率は36%。
しかし、同社の Director of global academic relations の Nick Fowler は、
購読料水準は業界の平均であり、ここ数年の値上げ幅は他社より低いとしている。
Fowler 博士によれば、人もうらやむエルゼビアの利益率は、同社の効率的な経営の結果以外のなにものでもないという。
Neylon 博士による動議は、より広い文脈での学者と出版社の衝突の表れのひとつと見ることができる。
その衝突は、オンライン出版の台頭によって、ますます鮮やかに描き出されてきた。
学者は情報の自由と流動性に重きを置く文化に属しており(そもそも論文の査読と編集を無償で行っており)、
出版社は情報へのアクセスに課金して利益を最大化しようとする組織であり、
同時に権威ある論文誌の(すべてではないにしろ)ほとんどを掌握しているからである。
一触即発の状況は長年続いていた。
2006年には、 エルゼビアが出版する数学論文誌 Topology の編集委員会の全員が、アクセスの囲い込みと料金高騰への懸念を表明して辞任した。
ドイツの出版社シュプリンガーによる論文誌 K-theory の編集委員会は2007年に解散した。
多くの人は、ことが荒立てられるまでにこれほど長くかかったことに驚いている。
出版社をそのサイクルから追い出すことができる環境は十分に整っていた。
実際、商業出版の代替物をつくろうとする動きは何度か起こった。
コーネル大学のウェブサイト arXiv (X はカイの音のギリシャ文字を模しており、「アーカイブ」と発音される)は1991年にできた。
研究者は、まだ論文誌で出版されていない物理学の論文をそこに投稿することができ、
Public Library of Science (PLoS) は2000年にできた。
そこでは生物学と医学の分野でフリーの論文誌が7誌出版されている。
こうした動きへの熱意があったにも関わらず、伝統的な出版社の支配が続いたことには理由がある。
arXiv の論文は、公開後に容赦ない批判にさらされることは確かなものの、投稿前に正式なピアレビューは行われない。
PLoS は一部を寄付金でまかないながらも、論文1件あたり2900ドルの掲載料を課す。
これは著者の負担となり、金策に悩む大学にとっては無視できない金額である。
少なくなりつつあるとはいえ、電子版のみの出版に対する偏見もある。
こうしたことが重要なのは、大学と個々の研究者が、出版した論文の数と掲載された論文誌の名声に応じて評価されるからだ。
ともすれば新しい道具に挑戦することが期待される若手研究者は、その前に既存の権威ある論文誌で出版しなければならない。
さもなければ、発言力もなく昇進もない。
そして、新しい論文の運命を決める力のほとんどが権威の高い論文誌にあるために、「権威」の定義は少しずつしか変わらない。
商業出版社は、たとえば読者ではなく著者から料金をとるなどといったオープンアクセスのアイデアを試そうとしている。
しかしボイコットが広まっていけば、ことは急激に進展する可能性もある。
けっきょくのところ、学者が出版社を必要としている以上に、出版社には学者が必要なのである。
突然失脚する直前まで、えてして体制側は無敵に見えるものだ。
来たる学術の春にはご用心を。
もう10年かそこらくらい、ラーメンズや、小林賢太郎単独の舞台や作品を見ている。
この間も最新作の「うるう」(小林賢太郎の演劇作品、KKPに分類されている)を観てきた。
もちろん、彼らしい、素晴らしい作品だった。彼が38歳のおじさんに片足突っ込んでいる年齢とは思えないくらいの体力を舞台から感じられて、ファンとしてすごく嬉しかった。
でも、思うところがある。
ここのところ、小林さん、新しいことやってない気がする。
Potsunen、小林賢太郎テレビは同じ仕組を使って新しい話を繰り出してることが多い。(もしかしたら目立つので多いと感じるのかもしれない)
うるうもそう。まだ東京公演と大阪公演が残ってるはずだから、ネタバレは避けるけど、僕はこの舞台の随所に散りばめられた「笑い」は彼が「創りだした」「過去の手法」を使ってる部分が多かったと感じた。
僕はもうそろそろ小林賢太郎がつくりだした「新しい」「表現方法」を使った「笑い」を見たい。
そして、うるうを観て、小林賢太郎は、自分で自分自身を収束させようとしているのかなと感じた。
過去自分が創りだした手法を用いて表現し、客席を笑わせる彼を観て、自分も声を上げて笑いながら、ふと、そう思った。
僕の杞憂かもしれないけれど。
いうなれば、ロックバンドの解散前みたいな感じだ。ライブで昔の曲をやり、昔からのファンはしみじみする。解散ライブではそのバンドの集大成、総集編みたいなセットリストで〆る。
ラーメンズ本公演が何年もやらないのは、ファンとしては当たり前のことだ。いつまでもゆっくり待ち続ける。
上に書いたことは僕の思い過ごしであればいい。切に願う。
ちなみに、僕は「男女の気持ち」が一番好きなコントです。
「テストドリブン型」は見ない表現だがそこまで否定することか?十分意味通じるし厳密に使わないといけない用語でもないと思うけど
横だけど
ポジティブな感情の動きを得るために金を払う形ではなく、金を払わないとネガティブな感情が生まれる形に持っていくビジネスだからね。
が、ちょっと抽象的すぎて、というか解釈を残しすぎる表現なので、ダメな理由をもう少し解釈の余地を残さない形で表現したらどうだろうか?
要約すると、
2佐々木さんは知の最先端にいるかのように振舞っていて不誠実だ。
3佐々木さんは論敵の身元を利用した恫喝的言論を行なっていて卑劣だ。
ということかな。
1と2はたぶんそうなんだと思うけど、3は微妙だと思う。
まずさ、「論敵」は、1と2をあたりまえのこととして、罵倒的表現を使ってるよね。
これは俺もこことかだとよくやるんだけど、トレースされて困るときとかはやらないでしょw
立場があるときは、残念な人のことをあわれんで敬遠するものじゃん。
1と2を当然に認めて、佐々木さんはダメっていうののもとでなら、多少強い表現は許されると思うけど、
「表現がわかりにくい」なんていう大変ファジィな文句で食い下がるんでちゅね。
そこの文章がどういう構造をしているのか把握できなかったので、これはこれでもしかしたら文法として成立しているのかもしれないという可能性を考慮して、「表現がわかりにくい」という、自分が確実に判断できるラインまで引き下げた。
「論理的な判断」なんでちゅか?
ん?ん?
「表現がわかりにくい」なんていう大変ファジィな文句で食い下がるんでちゅね。
悔しくて消えられもせずにあがき続けてるのも
「論理的な判断」なんでちゅか?
ん?ん?
「言い回しが省略した自明の部分」というわかりにくい表現を使ったのはわざとか?
それはそうと、これは省略ではなく瑕疵だろう。
元増田はこれを「認められない」という言い方でしてるけど
もちろん元増田が何らかの権限や権威をもって認めるとか認めないと言ってる話ではなく
「論理的にそれは出来ない」っちゅう話だよね?
細かいことを言うと「論理的にそれは出来ない」かどうかは、前提を共有できているか否かが不明なので、あまり適当ではないと思う。
で、「認めない」という表現をしているから気になっただけで「認められない」という表現なら、認める主体が不特定になるからいいんだよ。
揚げ足取りの粗探しに見えるかもしれないが、俺にとっては意見の内容なんか正直どうでもいいんだ。
誰の、どんな主張であっても、等しく興味が無い。
ただ形式に違和感があるものは許せない。特に、理屈をもって他者を批難している言説の中に、こういった違和感があるのは生理的に耐えられないんだ。
http://anond.hatelabo.jp/20120130150137
元増田です。友人のAさんにおもしろい指摘を受けました。
元増田 「えっ」
友人A 「えっ」
元増田 「えっ」
友人A 「えっ」
なるほど!!!
それでは、問題の画像はあくまでミッキーの着ぐるみを描いたものであることが文脈上明らかであるとして考えてみます。殺害表現でないとすると、名誉声望保持権を主張するのは無理筋に思えます。すると、同一性保持権侵害の線で押してくるのではないでしょうか。
(同一性保持権)
第20条
著作者は、その著作物及びその題号の同一性を保持する権利を有し、その意に反してこれらの変更、切除その他の改変を受けないものとする。
同一性保持権侵害を構成するには、その行為が著作者の『意に反して』いる必要があります。ミッキー(の映画(の原画))の著作者は当然ウォルト・ディズニーだと思いがちですが、実はこの点はずいぶんと争点になっていて、正直なところ「結局誰が著作者なのかよくわからない」んですよね。ウォルト・ディズニーは当然ながら、ウォルトの盟友アブ・アイワークスあるいは二人の共作、はたまた二人の作り上げたディズニー社の団体名義だとする説もあります。
しかし、彼らの意向は明らかです。彼らは口を揃えてこう言ってきました(たぶん)。
『中の人などいない!』
誰が著作者であるにせよ、中の人など決していないんだ、ディズニーランドに行くと笑顔で迎えてくれる彼はあくまでミッキーという生き物であって着ぐるみではないのだ。そういう世界を彼らが作り上げてきたことは明白です。「中の人などいない」ことが、ミッキーマウスという著作物を構成する重要なアイデンティティである。だから絶対に首なんか飛ばない。これが主張として認められれば、ミッキーマウスの着ぐるみの頭を吹っ飛ばすという表現は同一性保持権の侵害となるかもしれません。
でも、どうでしょうね。
まず、視覚的に表される「絵柄」ではない抽象的な要素については著作権が認められないという判例が多くあります。「中の人などいない」はこれに該当する可能性が高そうです。また、着ぐるみを作って売ったならともかく、着ぐるみのイラストを描いてそのイラストの頭を吹っ飛ばしたわけですからね。ミッキーマウスの著作権は既に切れているとすれば無償で着ぐるみを作ったり絵を描いたりすることは問題ないですし、あとぶっちゃけ、彼らが何と言おうと、ディズニーランドにいるミッキーが着ぐるみであることは悲しくも事実なのですから…。
この辺、本職さんの本気の弁論をぜひ聞いてみたいところです。
というわけで、あれは着ぐるみの頭が吹っ飛んだだけだよ!と主張してみるだけで、なんとも馬鹿馬鹿しいメルヘンな問題になることが判明しました。こんなにメルヘンな裁判はそりゃあ是非とも見てみたいわけですが(きっと世界中が大注目するでしょう)、怒りのメールを送ってきたのがディズニー社であるにせよディズニーファンであるにせよ、恐らくはあの画像を「ミッキーの頭を刎ねて殺害している場面」と受け取ってのことだと思います。とりあえず落ち着いていただく&名誉声望保持権侵害の疑いを回避するためには、首が飛ぶ前後の文脈をきちんと公開した上で、「あれは着ぐるみなんだよ」と説明するとおもしろいよいのではないでしょうか。
ヤバいと言っても「超カッコイイ〜」「カワイすぎる〜」じゃなく、
もちろん「今にも死にそうです」ってことでもないっす。
詳しく説明すんの面倒なんで以下参照。
いま、香山リカ女史の無能さがヤバい: やまもといちろうBLOG(ブログ)
http://kirik.tea-nifty.com/diary/2012/01/post-8d39.html
コメンテーターとしての発言も毒にも薬にもならないというか、
「コイツ、またワケわかんね〜こと言って・・・」とか言っちゃうと、
こっちが理解度足りないお馬鹿さんにされかねなかったのさ。
んで今回のことで勝手に溜飲を下げたんだけど(この表現使うの生まれて初めて)、
小一分間考えてみたけどやっぱりダメだったんで、
Google先生にお願いすることにした。
するとさすがGoogle先生。
いいのを見つけてきます。
Useless Feminists: Kayama Rika
http://cruel.org/takarajima/kayamarika.html
「思いつきの垂れ流し」
素晴らしい!!まさにそのとおり。
おかげで胸のつかえが一気に取れました(この表現も生まれて初めて使った)。
その通りですね。
ただ、件の同人作家さんが『キャラクター(ミッキー)に対する名誉破損の表現が含まれてるとかで、凄く責めて来ている。』とツイートしていることから、著作権ではなく著作者人格権を根拠としているのだろうと推測しました。
あと正直なところ、よく言われる「日本におけるミッキーマウスの著作権は一部保護期間が終了している可能性」についての真実がよくわからないんですよね。その辺り上手くアレすれば、著作権根拠でもいけるのかもしれません。
いやちょっと待てw
一つ上で書いたことは今回のディズニーの件とは関係ないですよ。まず、著作権が存続している間は著作者人格権どうこう以前に著作権上の問題が当然存在しますから、同人活動は決して合法ではありません(多くは親告罪ですが)。また、商業キャラを用いて利益をあげた場合は商標権の侵害となるケースがほとんどだと考えられます。
一方で、著作者人格権を根拠として商業/非商業問わず創作活動を制限するケース、つまり「俺のキャラの性生活を勝手に描くなんて侮辱だ!やめてくれ!」というような法的主張はあまり聞かない気がします。その辺まだちょっと詳しくないですが(※1)。著作権や商標権のみならず人格権についてもきちんと主張しておかないと、何十年後か、著作権の切れた自分のキャラクタが合法的に好き放題レイプされてしまうかもしれません。
また、あくまで一般的「エロ」表現の話をしたのであって、「首を刎ねて殺す」という表現は全く別ですよね。
他人の著作物を虐殺するなど常識で考えて許される表現ではない、どうあれ侮辱的な表現であると私は思うのですが、その認識がどんどん薄らいで今回のように「ディズニーが訴えないならミッキーの首を刎ねても悪くないよね、作者さん叩いてごめんね」なんてめちゃくちゃな認識が広く蔓延してゆくと、いつか本当に「自分の作ったキャラクタの首を刎ねられたくない権利」が消滅してしまう可能性も考えられるのです。だから我々は、断固として「そういう問題じゃねえ!」と叫ばなければいけません。
ありましたね。
性描写がない作品を元にして、性描写を内容とする作品を作成、販売したことを理由に、同一性保持権の侵害を認めたケースがあります(東京地判平成11.8.30「どぎまぎイマジネーション」事件)。被告は、同人文化の一環としての創作活動であり、違法ではないと主張しましたが、退けられました。
同一性保持権については著作者の『意に反して』とされ、著作者の主観的意志がキーポイントになります。著作権者死亡後の争いにおいては、その意志を推測するしかありません。故に、うっかり事実上黙認したまま死んでしまうと、別に意に反してなかったよね!という既成事実が形成され、同一性保持権を失ってしまう可能性があるでしょう。
一方、名誉声望保持権ではその名の通り著作者の『名誉又は声望を害する』行為について禁じています。よって、著作者の死後、該当行為は特に名誉を傷つける行為ではないという認識が一般的になれば、社会的状況が変化したと見なされ権利が消滅する可能性があります。
しつこいようですが、知財関係の権利はきちんと行使しないで黙っていると、権利を失ってしまうということが往々にしてあるのです。