はてなキーワード: 絵コンテとは
日本一硬派なアニメオタク診断(http://kantei.am/55866/)というサイトを偶然見つけてしまい、
この管理サイトである「アニオタ保守本流」を含めて噴飯モノだったので何がそこまで人を笑わせ呆れさせ怒らせるか書き残しておく。
まぁ診断の質問内容を見てみればすぐ分かるが、基本的に1970年代後半のSFオタがアニメに参入した時代以降からしか書いてないよね(笑)
いや、本気で面白いつか、こいつ保守でもなんでもなく単なるSFロボアニメ=アニメだと思っているSFロボオタだろ(爆笑)
質問にはディズニーの一文字もなく、桃太郎 海の神兵入れたら?と提案しても知らない顔されそう。教養なのにね×365、星みっつ落ちたわ☆☆☆
ごめん健康に悪いからブログの内容ほとんど見てない。けど、アニメ=ディズニー、TVアニメ=鉄腕アトム的じゃなくなった
時代をひっくり返したという意味で、「革新」であったAKIRAを筆頭にするあの時代のジャパニメーションを「保守」と名付けるあたり、
世界アニメ史的な意味を全く無視できる反知性、狂気を感じる。ごめん、ふわふわ時間だわ(・ω<)
ラベリングして決めつけることに戸惑いはあるけれど、
それでもこのエントリを書くことに踏み切ったのはあの診断の質問内容が言い逃れ不可能なレベルだから。
富野?虫プロの人?絵コンテ死ぬほど早く切る人?という視点が欠落しているのは、どうして…こんな所へ来てしまったんだろう…とびびったわ。
とりあえず、一言いうとしたらお前は保守を名乗るな。極々基本的なアニメ史に敬意を表さないお前に保守本流など名乗る資格はない。
SFロボアニメしか関心がない「アンチ萌えアニメオタ」を名乗れつーの。本当、いらいいらしちまうぜ。失礼、かみまみた。
ですが、傍目から見ていて同族嫌悪、内ゲバは見苦しいのでアニメが好きなもの同士仲良くやりましょうね。
#追記
トラバありがとうございました。2chにおける「いわゆる+民」のようなものと思われているのですね。
それは触らない方がよかったのかもしれません。嵐に反応した嵐として負けてしまったのは認めます。
しかし、アニオタ保守本流とググったら現時点でも良い検索順位に来たため、
この様な評価があることが目に見えるのは良いことだろうと思い残しておきます。
#追記2
よくよく考えたら、(SFロボしか知らない)アニオタ+(政治主張的には)保守本流なのかもしれませんね、あのブログのタイトル。
てっきり、アニメオタクとしても保守本流であると主張していると思い込んでいました。
SFロボしか知らないアニオタと本人が認めているのならば、それが硬派というのか疑問だとしても、
保守本流と名乗って政治主張を行っている、程度の浅い、アニメ史に無頓着なアニオタということでブログタイトルに偽りなしと言えそうです。
結局最後まで、あのキャラクターになじめなかった。老ヲタの限界を見たというか。
昔のアニメなら、ナウシカとラピュタの台詞を全部暗唱できる程度には、自分にはアニヲタだった既往があって、昔はビデオがなかったものだから、中学生のヲタなら誰でも、テレビの音を録音して、絵コンテ片手に画面を回想する訓練を積んでいたものだった。
プアなメディアは老ヲタを鍛えて、旧ガンダムはもちろん映画館で見て、ゼータちょっと見て、ずいぶん離れてGガンダムをなぜか見て、そのへんまでは、アニメはきちんと楽しめた。
で、そのあとずいぶん長い中断があって、ローゼンメイデンのアニメをネットで見て、これは楽しめて、ハルヒはほとんど見ていないんだけれど、それでも部分部分を youtube で見る機会があって、見ると決めたら、本編はちゃんと楽しめた。
で、らきすた のアニメは良くできていて、あれは近所の本屋さんが環境ビデオ代わりにずっと流していて、チラ見して面白そうで、あとからニコ動であれを見て、十分に楽しめた。最終回はたしか、ネット越しに誰かと感想を喋ってた記憶が。
で、最近の「けいおん」と、「ストライクウィッチーズ」とは、あれは両方とも面白かったし、老ヲタでも楽しめた。「けいおん」のゆるい流れは、ぼーっと見ている分には全然苦にならなかったし、ストパンの裏側には呆れるほどの情報が詰め込まれていて、ああいうのこそ、古参のミリヲタは解説に燃えたのだろうし。
そんなこんなでこの1年ぐらい、ヲタ系のアニメにはつかず離れずのつき合いがあって、その流れで評判になっていた2本を見て、全くついて行けなかった。
「俺の妹」は、こう、好き嫌いとかじゃなくて、始まってものの5分ぐらいで、もう駄目だった。
主人公の動きかただとか、会話がどうしてそういうつながり方をするのか、自分には全く理解できなくて、見るのが苦痛になった。原作はちゃんと読んでるし、ラノベの絵だって万人向けの、ある意味ありふれた萌え絵であったし、アニメにはきちんとお金と手とがかかっているのに、あれはどうしてだか、自分には全く受け付けなかった。
元ネタのエロゲの話題とか、プレイこそしたことないけれど、その界隈の話題ぐらいは全部分かる程度には、自分はヲタであったはずなのに、どうして見るのがこうも辛いのか、不思議だった。
「イカ娘」も、ネットでは評判がよかったのに、駄目だった。同じくゆるい時間が流れるアニメにしても、らきすたの緩さには同調できて、イカの緩さはなぜかそれが苦痛になってしまって、楽しめなかった。
同じように「駄目だこりゃ」になってしまったのが「とらドラ」のアニメであって、あれは原作を全部読んで、十分にそれが楽しめたのに、アニメで動くと、原作での、キャラクターの痛い振るまいが、笑うべき場所がもういたたまれないぐらいに痛々しく見えて、見るのが辛くて、無理だった。
芋とイカにあって、ストパンとけいおんにはない何か、若い人たちはそれを楽しめて、「ピーキーすぎてお前にゃ無理だよ」なんて、老ヲタを絶望させる、濃さだとか、緩さだとか、あるいは作画の品質だとか、そういうものとはまた違う何かが断絶を作り出していて、自分には、それが何なのかすらよく分からない。
年をとるってこういうことなのかもしれない。
自分が書いた動画→原画→作画監督→キャラデみたいなありがちなキャリアイメージや仕事の内容は
学校によくある「○○になるには」の本に自分が中学生の頃には書いてあった。
賃金の安さもこの手の本にしては珍しく、かなり厳しく書いてあった
アニメ雑誌でも定期的にアニメはどう作るのかって特集があるし、
アニメを作ることだけに特化した雑誌もあるくらい(アニメーションノートとかほかにもある。普通の本屋で見かける)
これらのどれか見てればいわゆるセルアニメにはどういう作業と工程が必要なのかとかそういう調べもできる。
ぶっちゃけ放送されてるアニメを見れば、どういう絵が流れてるかってわかるのに
あのポートフォリオを出すところが、就職するための戦略もだし、なんか根本的なところでずれてるなーっておもた。
これだけ情報があるのにあの絵を出す意味ってのは、「自分の絵を人に見せる華やかな職業」に憧れているだけで、職業・仕事内容についての調べが全くできてないって感じたんだよね。
あの絵自体はほっこりしてていい絵だと思うけど
研究者の理想的な1日の過ごし方を模索していきたいです。以下たたき台。ご意見いただければ嬉しいです。
・最もやりたくない仕事に手をつける(5分で良い)
・一人のうちに執筆活動を行う
・メールが来たら2分以内に返信
・科学雑誌、論文が届いたらすぐに目を通し、文献リストへ追加する
・査読が返ってきたら結果を共著者に即メールして方向性を決める
・院生とは、必ず週1回は1対1で話をする時間をとる(5分の進捗報告でよし)
・出来れば外国語担当教員と友達になって週1回はランチを一緒にとる(おごる)
・アイデアは、EvernoteかICレコーダに逐一記録。再利用できるようにしておく。
・長期の予定に目を通す
・文献を読む時間にあてる
効率よい研究生活をするための雛形が作れればと思います。
ご意見を受けて修正していきます。
忘れもしない今年の5月18日。武蔵野赤十字病院、循環器科の医師から次のような宣告を受けた。「膵臓ガン末期、骨の随所に転移あり。余命長くて半年」妻と二人で聞いた。二人の腕だけでは受け止められないほど、唐突で理不尽な運命だった。普段から心底思ってはいた。「いつ死んでも仕方ない」とはいえあまりに突然だった。
確かに兆候はあったと言えるかもしれない。その2~3ヶ月前から背中の各所、脚の付け根などに強い痛みを感じ、右脚には力が入らなくなり、歩行にも大きく困難を生じ、鍼灸師やカイロプラクティックなどに通っていたのだが、改善されることはなく、MRIやPET-CTなどの精密機器で検査した結果、いきなりの余命宣告となった次第である。気がつけば死がすぐ背後にいたようなもので、私にはどうにも手の打ちようもなかったのだ。
宣告の後、生き延びるための方法を妻と模索してきた。それこそ必死だ。頼もしい友人や強力この上ない方の支援も得てきた。抗ガン剤は拒否し、世間一般とは少々異なる世界観を信じて生きようとした。「普通」を拒否するあたりが私らしくていいような気がした。どうせいつだって多数派に身の置き所なんかなかったように思う。医療についてだって同じだ。現代医療の主流派の裏にどんなカラクリがあるのかもあれこれ思い知った。「自分の選んだ世界観で生き延びてやろうじゃないか!」しかし。気力だけではままならないのは作品制作とご同様。病状は確実に進行する日々だった。
一方私だって一社会人として世間一般の世界観も、半分くらいは受け入れて生きている。ちゃんと税金だって払ってるんだから。立派には縁遠いが歴とした日本社会のフルメンバーの1人だ。だから生き延びるための私的世界観の準備とは別に、「ちゃんと死ぬための用意」にも手を回してきたつもりだ。全然ちゃんと出来なかったけど。その一つが、信頼のおける二人の友人に協力してもらい、今 敏の持つ儚いとはいえ著作権などの管理を任せる会社を作ること。もう一つは、たくさんはないが財産を円滑に家内に譲り渡せるように遺言書を作ることだった。無論遺産争いがこじれるようなことはないが、この世に残る妻の不安を一つでも取り除いてやりたいし、それがちょいと向こうに旅立つ私の安心に繋がるというもの。
手続きにまつわる、私や家内の苦手な事務処理や、下調べなどは素晴らしき友人の手によってスピーディに進めてもらった。後日、肺炎による危篤状態の中で、朦朧としつつ遺言書に最後のサインをしたときは、とりあえず、これで死ぬのも仕方ないと思ったくらいだった。「はぁ…やっと死ねる」なにしろ、その二日前に救急で武蔵野赤十字に運ばれ、一日おいてまた救急で同じ病院へ運ばれた。さすがにここで入院して細かい検査となったわけだ。結果は肺炎の併発、胸水も相当溜まっている。医師にはっきり聞いたところ、答えは大変事務的で、ある意味ありがたかった。「持って…一日二日……これを越えても今月いっぱいくらいでしょう」聞きながら「天気予報みたいだな」と思ったが事態は切迫していた。それが7月7日のこと。なかなか過酷な七夕だったことだよ。
ということで早速腹はきまった。私は自宅で死にたい。周囲の人間に対して最後の大迷惑になるかもしれないが、なんとしてでも自宅へ脱出する方法をあたってもらった。妻の頑張りと、病院のあきらめたかのような態度でありつつも実は実に助かる協力、外部医院の甚大な支援、そして多くの天恵としか思えぬ偶然の数々。あんなに上手く偶然や必然が隙間なくはまった様が現実にあるとは信じられないくらいだ。「東京ゴッドファーザーズ」じゃあるまいし。
妻が脱出の段取りに走り回る一方、私はと言えば、医師に対して「半日でも一日でも家にいられればまだ出来ることがあるんです!」と訴えた後は、陰気な病室で一人死を待ち受けていた。寂しくはあったが考えていたのはこんなこと。「死ぬってのも悪くないかもな」理由が特にあるわけもなく、そうとでも思わないといられなかったのかもしれないが、気持ちは自分でもびっくりするほど穏やかだった。ただ、一つだけどうしても気に入らない。「この場所で死ぬのだけは嫌だなぁ…」と、見ると壁のカレンダーから何か動き出して部屋に広がり始めるし。「やれやれ…カレンダーから行列とはな。私の幻覚はちっとも個性的じゃないなぁ」こんな時だって職業意識が働くものだと微笑ましく感じたが、全くこの時が一番死の世界に近寄っていたのかもしれない。本当に死を間近に感じた。死の世界とシーツにくるまれながら、多くの人の尽力のおかげで奇跡的に武蔵野赤十字を脱出して、自宅に辿り付いた。死ぬのもツライよ。断っておくが、別に武蔵野赤十字への批判や嫌悪はないので、誤解なきよう。ただ、私は自分の家に帰りたかっただけなのだ。私が暮らしているあの家へ。
少しばかり驚いたのは、自宅の茶の間に運びこまれるとき、臨死体験でおなじみの「高所から自分が部屋に運ばれる姿を見る」なんていうオマケがついたことだった。自分と自分を含む風景を、地上数メートルくらいからだろうか、ワイド気味のレンズで真俯瞰で見ていた。部屋中央のベッドの四角がやけに大きく印象的で、シーツにくるまれた自分がその四角に下ろされる。あんまり丁寧な感じじゃなかったが、文句は言うまい。
さて、あとは自宅で死を待つばかりのはずだった。ところが。肺炎の山を難なく越えてしまったらしい。ありゃ?ある意味、こう思った。「死にそびれたか(笑)」その後、死のことしか考えられなかった私は一度たしかに死んだように思う。朦朧とした意識の奥の方で「reborn」という言葉が何度か揺れた。不思議なことに、その翌日再び気力が再起動した。妻を始め、見舞いに来て気力を分け与えてくれた方々、応援してくれた友人、医師や看護師、ケアマネージャなど携わってくれている人すべてのおかげだと思う。本当に素直に心の底から。
生きる気力が再起動したからには、ぼんやりしているわけにはいかない。エクストラで与えられたような命だと肝に命じて、大事に使わねばならない。そこで現世に残した不義理を一つでも減らしたいと思った。実はガンのことはごくごく身の回りの人間にしか伝えていなかった。両親にも知らせていなかったくらいだ。特に仕事上においては色々なしがらみがあり、言うに言えなかった。インターネット上でガンの宣言をして、残りの人生を日々報告したい気持ちもあったのだが、今 敏の死が予定されることは、小さいとはいえ諸々影響が懸念されると思えたし、それがゆえに身近な知り合いにも不義理を重ねてしまっていた。まことに申し訳ない。
死ぬ前にせめて一度会って、一言でも挨拶したい人はたくさんいる。家族や親戚、古くは小中学校からの友人や高校の同級生、大学で知り合った仲間、漫画の世界で出会い多くの刺激を交換した人たち、アニメの世界で机を並べ、一緒に酒を飲み、同じ作品で腕前を刺激しあい、楽しみも苦しみも分け合った多くの仲間たち、監督という立場のおかげで知り会えた数知れないほどたくさんの人びと、日本のみならず世界各地でファンだといってくれる人たちにも出会うことが出来た。ウェブを通じて知り合った友人もいる。
出来れば一目会いたい人はたくさんいるが(会いたくないのもいるけれど)、会えば「この人ともう会えなくなるんだな」という思いばかりが溜まっていきそうで、上手く死を迎えられなくなってしまいそうな気がした。回復されたとはいえ私に残る気力はわずかで、会うにはよほどの覚悟がいる。会いたい人ほど会うのがつらい。皮肉な話だ。それに、骨への転移への影響で下半身が麻痺してほぼ寝たきりになり、痩せ細った姿を見られたくもなかった。多くの知り合いの中で元気な頃の今 敏を覚えていて欲しいと思った。病状を知らせなかった親戚、あらゆる友人、すべての知人の皆さん、この場を借りて不義理をお詫びします。でも、今 敏のわがままも理解してやっていただきたい。だって、「そういうやつ」だったでしょ、今 敏って。顔を思い出せば、いい思い出と笑顔が思い起こされます。みんな、本当にいい思い出をたくさんありがとう。自分の生きた世界を愛している。そう思えることそのものが幸せだ。
私の人生で出会った少なからぬ人たちは、肯定的否定的どちらであっても、やっぱり今 敏という人間の形成にはどこか必要だっただろうし、全ての出会いに感謝している。その結果が四十代半ばの早い死であったとしても、これはこれとして他ならぬ私の運命と受け止めている。いい思いだって随分させてもらったのだ。いま死について思うのはこういうこと。「残念としかいいようがないな」本当に。
しかし、多くの不義理は仕方ないと諦めるにせよ、私がどうしても気に病んで仕方なかったことがある。両親とマッドハウス丸山さんだ。今 敏の本当の親と、アニメ監督の親。遅くなったとはいえ、洗いざらい本当のことを告げる以外にない。許しを乞いたいような気持ちだった。
自宅に見舞いに来てくれた丸山さんの顔を見た途端、流れ出る涙と情けない気持ちが止めどなかった。「すいません、こんな姿になってしまいました…」丸山さんは何も言わず、顔を振り両手を握ってくれた。感謝の気持ちでいっぱいになった。怒涛のように、この人と仕事が出来たことへの感謝なんて言葉ではいえないほどの歓喜が押し寄せた。大袈裟な表現に聞こえるかもしれないが、そうとしか言いようがない。勝手かもしれないが一挙に赦された思いがした。
一番の心残りは映画「夢みる機械」のことだ。映画そのものも勿論、参加してくれているスタッフのことも気がかりで仕方ない。だって、下手をすればこれまでに血道をあげて描いて来たカットたちが誰の目にも触れない可能性が十分以上にあるのだ。何せ今 敏が原作、脚本、キャラクターと世界観設定、絵コンテ、音楽イメージ…ありとあらゆるイメージソースを抱え込んでいるのだ。もちろん、作画監督、美術監督はじめ、多くのスタッフと共有していることもたくさんあるが、基本的には今 敏でなければ分からない、作れないことばかりの内容だ。そう仕向けたのは私の責任と言われればそれまでだが、私の方から世界観を共有するために少なからぬ努力はして来たつもりだ。だが、こうとなっては不徳のいたすところだけが骨に響いて軋んだ痛みを上げる。スタッフのみんなにはまことに申し訳ないと思う。けれど少しは理解もしてやって欲しい。だって、今 敏って「そういうやつ」で、だからこそ多少なりとも他とはちょっと違うヘンナモノを凝縮したアニメを作り得てきたとも言えるんだから。かなり傲慢な物言いかもしれないが、ガンに免じて許してやってくれ。
私も漫然と死を待っていたわけでなく、今 敏亡き後も何とか作品が存続するべく、ない頭を捻って来た。しかしそれも浅知恵。丸山さんに「夢みる機械」の懸念を伝えると、「大丈夫。なんとでもするから心配ない」とのこと。泣けた。もう号泣。これまでの映画制作においても予算においても不義理ばかり重ねて来て、でも結局はいつだって丸山さんに何とかしてもらって来た。今回も同じだ。私も進歩がない。丸山さんとはたっぷり話をする時間が持てた。おかげで、今 敏の才能や技術がいまの業界においてかなり貴重なものであることを少しだけ実感させてもらった。才能が惜しい。何とかおいていってもらいたい。何しろザ・マッドハウス丸山さんが仰るのだから多少の自信を土産に冥途に行けるというものだ。確かに他人に言われるまでもなく、変な発想や細かい描写の技術がこのまま失われるのは単純に勿体ないと思うが、いた仕方ない。それらを世間に出す機会を与えてくれた丸山さんには心から感謝している。本当ににありがとうございました。今 敏はアニメーション監督としても幸せ者でした。
両親に告げるのは本当に切なかった。本当なら、まだ身体の自由がきくうちに札幌に住む両親にガンの報告に行くつもりだったが、病気の進行は悔しいほど韋駄天で、結局、死に一番近づいた病室から唐突極まりない電話をすることになってしまった。「オレ、膵臓ガン末期でもうすぐ死ぬから。お父さんとお母さんの子供に生まれて来て本当に良かった。ありがとう」突然聞かされた方は溜まったものではないだろうが、何せその時はもう死ぬという予感に包まれていたのだ。
それが自宅に帰り、肺炎の危篤を何とか越えて来た頃。一大決心をして親に会うことにした。両親だって会いたがっていた。しかし会えば辛いし、会う気力もなかったのだが、どうしても一目親の顔を見たくなった。直接、この世に産んでもらった感謝を伝えたかった。私は本当に幸せだった。ちょっと他の人より生き急いでしまったのは、妻にも両親にも、私が好きな人たちみんなに申し訳ないけれど。私のわがままにすぐ対応してくれて、翌日には札幌から両親が自宅についた。寝たきりとなった私を一目見るなり母が言った言葉が忘れられない。「ごめんねぇ!丈夫に産んでやれなくて!」何も言えなかった。
両親とは短い間しか過ごさなかったが、それで十分だった。顔を見れば、それですべてわかるような気がしたし、実際そうだった。
ありがとう、お父さん、お母さん。二人の間の子供としてこの世に生を受けたことが何よりの幸せでした。数えきれないほどの思い出と感謝で胸がいっぱいになります。幸せそのものも大事だけれど、幸せを感じる力を育ててもらったことに感謝してもしきれません。本当にありがとうございました。
親に先立つのはあまりに親不孝だが、この十数年の間、アニメーション監督として自分の好きに腕を振るい、目標を達成し、評価もそれなりに得た。あまり売れなかったのはちょいと残念だが、分相応だと思っている。特にこの十数年、他人の何倍かの密度で生きていたように思うし、両親も私の胸のうちを分かってくれていたことだろう。
両親と丸山さんに直接話が出来たことで、肩の荷が下りたように思う。
最後に、誰よりも気がかりで、けれど最後まで頼りになってくれた妻へ。あの余命宣告以来何度も二人で涙にくれた。お互い、身体的にも精神的にも過酷な毎日だった。言葉にすることなんて出来ないくらい。でも、そんなしんどくも切ない日々を何とか越えて来られたのは、あの宣告後すぐに言ってくれた力強い言葉のおかげだと私は思っている。「私、最後までちゃんと伴走するからね」その言葉の通り、私の心配など追い越すかのように、怒濤のごとく押し寄せるあちらこちらからの要求や請求を交通整理し、亭主の介護を見よう見まねですぐに覚え、テキパキとこなす姿に私は感動を覚えた。「私の妻はすごいぞ」今さらながら言うな?って。いやいや、今まで思っていた以上なんだと実感した次第だ。私が死んだ後も、きっと上手いこと今 敏を送り出してくれると信じている。思い起こせば、結婚以来「仕事仕事」の毎日で、自宅でゆっくり出来る時間が出来たと思えばガンだった、ではあんまりだ。けれど、仕事に没頭する人であること、そこに才能があることを間近にいてよく理解してくれていたね。私は幸せだったよ、本当に。生きることについても死を迎えるにあたっても、どれほど感謝してもしきれない。ありがとう。
気がかりなことはもちろんまだまだあるが、数え上げればキリがない。物事にも終わりが必要だ。最後に、今どきはなかなか受け入れてもらいにくいであろう、自宅での終末ケアを引き受けてくれた主治医のH先生、そしてその奥様で看護師のKさんに深い感謝の気持ちをお伝えしたい。自宅という医療には不便きわまりない状況のなか、ガンの疼痛をあれやこれやの方法で粘り強く取り除いていただき、死というゴールまでの間を少しでも快適に過ごせるようご尽力いただき、どれほど助けられたことでしょう。しかも、ただでさえ面倒くさく図体と態度の大きな患者に、単なる仕事の枠組みをはるかに越え、何より人間的に接していただいたことにどれほど私たち夫婦が支えられ、救われたか分かりません。先生方御夫婦のお人柄にも励まされることも多々ありました。深く深く感謝いたしております。
そして、いよいよ最後になりますが、5月半ばに余命宣告を受けてすぐの頃から、公私に渡って尋常ではないほどの協力と尽力、精神的な支えにもなってくれた二人の友人。株式会社KON’STONEのメンバーでもある高校時代からの友人Tと、プロデューサーHに心からの感謝を送ります。本当にありがとう。私の貧相なボキャブラリーから、適切な感謝の言葉を探すのも難しいほど、夫婦揃って世話になった。 2人がいなければ死はもっとつらい形で私や、そばで看取る家内を呑み込んでいたことでしょう。何から何まで、本当に世話になった。で。世話になりついでですまんのだが、死んだあとの送り出しまで、家内に協力してやってくれぬか。そうすりゃ、私も安心してフライトに乗れる。心から頼む。
さて、ここまで長々とこの文章におつき合いしてくれた皆さん、どうもありがとう。世界中に存する善きものすべてに感謝したい気持ちと共に、筆をおくことにしよう。
じゃ、お先に。
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http://konstone.s-kon.net/modules/notebook/archives/565
無断転載しました。ごめんなさい。
http://anond.hatelabo.jp/20100405171419
下読みのバイトした人がこないだ投下してたけど、俺が丁度真っ最中。
現実逃避にこれ書いてる。
酷すぎ。
何を思って応募してきたんだっての多すぎ。
出版される前提ってのが分かってるとは到底思えない。
商品になるんだぞ。
人が金を出して買うんだぞ。
過去の受賞作読んでれば、雰囲気だけでもわかるんじゃないのか、自分がそれだけの力があるかなんて。
記念受験とか運試しとか、そういう理由で応募した奴は今すぐ死ね。
実力足りてない自覚があるなら、余計な手間増やすような真似すんな。
見覚えのある奴(複数応募してるとか、他賞や以前の応募を覚えててロクな印象が残ってないとか)の作品に当たった日には、読む前に萎える。
応募作品の審査はちゃんとやってるけど、何度も落ちてるとそういうのがあるってのは心に留めとけ。
下読みする側も人間だから。
とりあえず「下読みのバイトした」の人みたいに俺も並べてみる。
1.話が始まらない
物語開始からしばらくを設定解説やそれに順ずるものが占める。
前の人も書いてたけど、これが多すぎる。
どこから話が始まるんだよ。
いつになったら話が進むんだよ。
舞台と人物の詳細設定やそれに関わるサイドストーリーなんて今はどうでもいいんだよ。
登場人物動かせ。
起承転結の起にすらなってない。
即ハネて次にとりかかりたくなる筆頭。
でも、ただ単に特徴列挙してるだけの描写のキャラってなんなの。
BOTか何かかよ。
登場人物を書く本人が把握してないのか、テンプレが素体のままでキャラクターにもなっておらず、黙ってると空気キャラになってることも珍しくない。
それを避けるためか無理矢理喋らせて、ありがちな掛け合いになってたり。
会話ブロック、地の文ブロックというように塊が並ぶ傾向も高く、テンポが悪い。
下手な芝居を見せられてるのと同じ気分になる原因筆頭。
3.勢いだけ
あらすじで「ハチャメチャコメディー」とかご丁寧に申告してくれるアレなケースもある。
実際にハチャメチャなのは構成なんだけども。
話が進んでるようで進んでない、転がってるようで転がってない。
起!
承!承!承!承!承!承!承!承!承!承!承!承!
とか思ってたら、いきなり
結!
最初から最後までずっと同じところでダバダバして、強制的に話を収束させるようなのが多い。
話の展開って知ってる?
求められてるのは物語であって実況中継じゃないんだが。
4.描き込みが足りない
今どういう状況なんだよ。
それぞれのキャラはどこにいるんだよ。
何してんだよ。
申し訳程度の情景描写とか、書割かよ。
下書きや絵コンテみたいな描写しかできないのに、なんで小説書こうと思ったの?
スレ小説みたいに台詞とト書きの台本みたいな読み物のほうが、割り切ってる分マシ。
ちょっとストレス発散できた。
次の読む。
※改題
ってなわけで、作画オタクマンセー、って内容で今から繰り出すわけですがね。
「作画オタってうぜえ、くせえ、ビーッ!ビーッ!」って人は読んだらものすごく不愉快になるだろうからそこんとこよろしくね。
かといって作画オタがご機嫌になれる内容かと言えばたぶん違うと思うんだ
俺が普段モヤモヤしたものをここでぶちまけさせてスッキリさせてもらうわってだけのエントリだから
んで、まーなんつーか
アニメ系のブログとかスレッドとか評論ぶったサイトとか見て回るとですね
純然たる客観的事実としてどう考えても「作画オタ以上の見識を持った奴がいねえ」って印象を受けざるを得
ないわけですよ
いや、いやいやいや、俺だってね、アニメは作画だけが全てとは思わんよ。作画に疎いこととアニメ語りがで
きる事は別だと、一時期は思ってましたよ
でもね、結果的に見ますと、やっぱあれだ、作画オタのほうがよっぽどアニメ語ってるわー
どういうこっちゃねんなオイ、考えたよ、そんででた結論は「作画オタじゃないとアニメ語れないんだ」です
よ
あ?また作オタお得意の優越感ゲームだよーって?はいはい偉いですねーって?そうなんですよ、偉いんです
よ作オタって。
考えてもみなさいよ、昔のアニオタってアニメ作画について語れることがステータスだったんですよ偉いんで
すよっていうか、アニメを今まで以上に好きになるってことは作画を好きになるってことと同義なんすよ、そ
れをお前今じゃ、「作画しか見てない奴は純粋にアニメを楽しんでない」って論調がふざけんなよ!作画「も
」見てんだよ!お前らは「作画も見れてない」んだろうが!!いいか、アニメを純粋に楽しみたいから作画も
好きになったんだよ!
でだ、ネットが普及して作画に入れ込んでないけどみんな作画を気にするようになったよねここ数年の傾向と
して。それ自体は良いと思う。問題はそのわりにちゃんと知ってみようとしないこと。
アニメの作り方とか知らないけど作画にはケチつけるよって連中がすげえ多いこと多いこと。一時期よく背伸
びしたがりなアニオタの内で「原画を犠牲にして動画のクオリティを上げてるね(キリッ)」(逆のパターン有り
)ってフレーズ流行ったけど(流行ってないかも)今じゃギャグにしか使わないでしょーって思ってたけど今
でも割とネタじゃなくマジで言ってる奴がいたりしてげんなりしてくる。原画と動画の違いとかググればパツ
イチで出てくるようなことだっつうのに、それも手間だと思ってるんでしょうかキーボード打つ暇もないのか
。ていうか興味対象の限界なんだよねこれが奴らの。それとは別の次元のところに作画に対する興味(といい
つつ興味でもなんでもないただの脊椎反射だよね)がやつらにあんのが末恐ろしいっていうか
いや、わかるよ俺、かわいいキャラが崩れるのはヤだもんね、だからそこに文句つけんのは凄く正しいと思う
。けど文句のつけかたに妙な気味悪さが萌え豚(あ、言っちゃった)たちにあるのがな。その最たるものが「
作画崩壊」って造語なんだけ・・・・あーこの言葉ほんと気分悪い。だってこれ使ってるのって自分の言葉で
語るの根本から放棄しますって宣言だろがよ、自覚あんのか自覚。よくわかんないものを「作画崩壊」ってカ
テゴリに無理ぐり当てはめて安心したいだけなんじゃねーのかよ。違うかよ。わかんないものはわかんないだ
ろうからいいよそれで、わかんないものを分かってみようって姿勢ももちろんいいよ。でも「作画崩壊」って
決めつけることはどっちでもねーだろ。わかんないものをわかった気になりたいけどわかろうとしない(めん
どくさいから)アンビバレンツを「作画崩壊」っていうんだろ違う?
ふつーに作画がヘチョいものをケナすのはいいよ。ただアニメタの画風が露出した部分が受け入れがたいって
のもあるだろうからそれを非難するのもいいと思うよ。ただそれまで「作画崩壊」で解決させようとする姿勢
はなんなんだ?理解ができん。ていうか単純に画力の無さヘナってるのと画風との区別ってそんなつかないも
んなの?絵がいくらキモかろうとも巧いものは巧いってのは普通わかると思うんだか(漫画家?あれは下手な
のも画風の内っしょ)逆にうまくてもキモいものは叩かれるのは道理ですよね。それはわかるよ。でも奴らの
論調は道理じゃないと思うんだよ。いや、俺だって作画の巧さと好き嫌いは別だと思うし、作オタだから谷口
キリコや安藤セラムンとか無条件で受け入れろってわけじゃないし、でも巧さは巧さとして認識しようぜとは
思ってる。俺もネギまやぱにぽににおける大田和寛のキャラデザは正直生理的に受け入れがたいものがあるん
だけど大田和寛自身はアニメタとしてメチャ巧いのは確かだからあれはあれでいいと思ってる。(もともとリ
アル系目指してたらしいしね、素の絵柄の時はまったく違うらしい、同人誌かなんかで見た)まあ、そこらへ
ん度外視してあーだこーだ言ってしまうのは、正直フェアじゃねえんじゃねえかなって。道理のようで道理じ
ゃないんだよ。
そこらへんが悪い形で出てしまった悲劇というのがかのアクエリオン19話だよな。「いやあれは演出だから
(キリッ」「アバンは現実世界なのに絵が変わってるからその言い訳は(キリッ」って低次元の言い争いじゃなくっ
て、まあ、放送当時は荒れたよねほんと。あそこで糾弾の的に上がったのは絵コンテ・作画監督(Aパート)そ
のほか世界設定であるうつのみや理だったけど、あの話数はうつの画風全開(Bパートは別の人が作監でうつ度
薄れた感はあるんだけど大多数はそこまで気にしてないよね)で、異空間に紛れ込んだのをあの画で現してん
だけど、やっぱり叩きに叩かれた。うつだけが、そう、うつのみや理だけが。何故か。え?そりゃそうだろう
って?そうなのほんとに?たしかにコンテや設定込みでやらしてもらってるからうつ主導の回なのは間違いな
い、それが受け入れられなかった場合はうつのほうに追求が行くのも間違いない。でもだれか忘れてない?こ
の話数にゴーサインを出した人、監督:河森正治の存在を。なぜかあの騒動の中で、河森はなんの責任も無い
どころかまるで被害者かのように否定派連中は担ぎ出していた。河森の当初描いていた物語(作品全体という
意味で)をうつのみやが破壊したと、こう言いたいわけだってなんだそりゃあ。あまりにも筋が通ってないだ
ろそれは。あの回はアクエリオンという作品でこういうことをしたいという河森の構想をうつが委託して作っ
たようなものだったのに。どの口で言ってるのだろうか連中は。公式ブログには当時のコメントログがそのま
んま残っている、律儀にも。(http://aquarion.blog.so-net.ne.jp/2005-08-06)コメントのファビョりっぷ
りが当時の様子を伺わせるだろう。「うつのみや理はアニメに二度と関わるな」「追放しろ」というようなベ
クトルでだ、わあすげえ、きっと人殺しても許されると思ってるんだろうなあこの人ら。あまつさえ「原作者
のこの作品に対する気持ちを冒涜するかのような横暴って感じです」ですって。原作者!原作者ときましたか
wwwいや、このアニメの原作者はもちろん監督である河森なんだけど、果たしてこのコメント付けた馬鹿は
「原作者」と「河森正治」とがリンクしてるのかどうかものすごく疑わしいんですが。えーと、まあ、筋の通
った話なら、河森がこういうことをやりたいから、うつを起用して、こういう回を作り上げたと、それでまあ
それが視聴者に受け入れられなかったのならそれはそれで仕方ないけれど、その時に河森に対する責任はゼロ
ってそんな筈ぁないよね。でも非難が集中したのはうつの方だった。HP(現在は消滅)の掲示板にも突撃かまさ
れてた、心苦しかった。作オタとして。筋が通ってるんなら監督不行届的な意味で河森にも同じくらい非難が
こないと納得いかないんだが、そうはならなかった。あまりにも一方的過ぎて酷いと思った(いっとくけど俺
は19話大好きだしうつも河森も間違った事はしていないと思ってるから誤解のなきよう)。
もうあんな悲劇はゴメンだと思ってるから、二度と起きて欲しくないんだけど結局これまでに似たような事は
何度も起こってるんだよね、はあ。
嫌なものは嫌だというのはわかるよ、嫌でも好きになれよって言うつもりは無いんだよ作オタ側でもな。でも
、なんだその歪みきった行動はよ、あまりにも非人道的だろうが、お前らがそういう手段に出るんだったらこ
っちだって怒気荒らげるわさ。死ね、お願いだから死んでくれ。頼むから。
・・・・えーっと、何の話だったっけかな?作オタがいかに優れてるかだっけか?正直もうここまでくるとそ
のテーマどうでもいいんだけど。
しかし、今はそれなりに作画に関する認知度はあの当時よりはマシんなってきたと思うし。やっぱあれだよね
、作画MAD、そして作画WIKI、そしてその大元になった作画を語るス・・・!え、それは違う?いやでもあそこ
なんだかんだ言って常駐してりゃ作画情報すぐ入ってくるから便利っちゃ便利なんだよね。そりゃタチの悪い
のもいるけどもそれでも他のアニメ系スレッドに比べりゃ遥かにマシだと思うし。俺も一度愛想尽きて作スレ
離れようかと思ったけど結局まだ入り浸ってるし。だって質がいくら落ちようが、他のスレより全然語ってる
ほうだと思うし、作画だけじゃなくアニメそのものも。テロ萌えだとかで名前だけでしか語ってないっていう
のもネタを除けば共通言語で名前出しゃ言いたいことはわかるってレベルなんだと思うし。あー脱線。まあそ
んなのので作画、認知されてきてるよね。うん。特に作画MAD。これは間違いなく作オタ人口を増やしたんだと
思う。そして増えた結果がこれだ。
http://d.hatena.ne.jp/kanose/20070424/drawingotaku
http://d.hatena.ne.jp/y_arim/20090414/1239659751(真ん中の作画オタクの新入生のほう)
・・・・・・・・・・・ま、これが作画に興味を持つフックになってくれればいいんだけど、こっから先行け
んのかどうかちょっとうにゅにゅ・・・って感じだよね。ここでもう満足してるっつか。ほんと「MAD見て良さ
わかった(つもり)だから俺作画オターw」みたいな。なわけねえっしょ。これ見て(URL前者)嫌な汗かいち
ゃって、作画WIKIに「作画MAD見ただけで作オタになった気にならないでください日々精進」って注意書きをダ
マテンで追加したんだけど俺、未だに残ってるね。これが効果あんのか無いのか無いと思うけど、まあここで
作画オタだと自分勘違いした人って多いんだろうね。いや、俺だって自分が生粋の作画オタなのかというと疑
わしいけどさ、21世紀入ってからだし。やっぱメージュとかOUTとかの世代のほうが遥かにすげえんだろうなっ
て思うよ。だってナチュラルになってんだもん。しごく当然のように作画を語ろうとする。ネットもYOUTUBEも
当然ないしビデオダビングの交換とかでどうにかしてんだし草の根情報網で作オタライフ(作オタなんてカテ
ゴリ分け存在してなかったかも)やってんだもんすげえよ。かないっこなさそう。作画オタってさ、なろうと
思ってなれるもんじゃねえんだよなって思う。なれる奴となれない奴は最初っから決まってるんだよ。俺もな
れたとはまだ思えてない。でも好きなもんは好きなんだって衝動はあるから「作品的には駄作でもエポックな
作画はやってる」なアニメも積極的に見るぐらいの情熱は俺あるよ。うん。だって気になんじゃんよ。純粋に
。純粋なアニメの見方じゃない?いや純粋だよえげつないほどデュワじゃなくてピュアだよ。純粋にアニメが
好きなんだよ。でなかったらするかよこんなこと。
けど作画認知度ってのは結局は今んとこ作画MAD止まりだよな。いくら憲生MADや大平MAD見て「アニメタの個性
だ(キリッ」つってったって何も偉くねんだよ。同族嫌悪じゃねえよ。あいつらは作画オタなんかじゃない。アニ
メーターの個性(この呼び方好きくないんだけど)ってのは絵柄だけじゃないけどまだ絵柄単位での話しかし
てねーっつうかさ。ていうか、ああいうキャラデ逸脱型ってのは「やっちまったもんは仕方ない」っていう前
提ですげえ!って言えるもんでさ。やっぱ設定は守るべきなんだよね基本はさ。その設定が変えちゃいたくな
るようなつまんないものだったのかどうかは当事者なアニメタしか知りようが無いけど。でも作画オタの側か
ら見ても基本は設定だと思うんだよ。設定から外れたからスゲエんじゃなくって、設定から外れたけどそれは
それでスゲエんだよ。そこは履き違えんなよ。まあ元の設定があるからこそよけい凄さが際立つケースもある
けどね。言ってることメチャクチャだって?すまんね。けどここんとこを履き違えた結果起こった第2の悲劇っ
てのがあれだ、鉄腕バーディー DECODE:02第7話。ていうか仁保パート。あれの論争はちゃんとした作オタは一歩
引いた目で見てたと思う。それよかパート当てに盛り上がってcoosunのいぢわる情報に振り回されてた気がす
る。あそこでアニメ板本スレとか乗り込んで「あれはアニメーターの個性だからイイのだ」つって対抗してた
つもりっぽいのは作画オタじゃねえんだよ。作オタだとしても「作画オタクのB君」みたいな人達なんだよ断言
しちゃうよ。だからあれを作画オタかなんかのように見られると正直嫌な気しかしないっていうか、だからゲ
ーラボのネット事件簿みたいなコラムで「バーディーの手抜き作画に作画オタが反論!」みたいな事書いた多根清史はマジで死んで欲しいんだけど閑話休題。
作画オタクのB君で思い出したけどもう一つ、この記事書いたy_arimは作画MADに対して以下引用「純粋に作画
だけを見ようと思ったらあのBGMはかえって邪魔なんです。もともとのBGMや台詞、S.Eとも違うわけですから。
まあ海外のAMVを真似て導入したんでしょうけれども……」て言ってっけどダウトだよそりゃあ。作画MADを資
料映像かなんかだと勘違いしてんだよ。俺も作画MADは音消して見る癖ついちゃったクチだけそれは単に選曲が
酷くて絵もあってねえっていう、聞くに耐えねえだけっつうわけで音消してんだし。出来がいいやつはちゃん
と音有りで見るよ初期のやつとか、だって作画MADは資料じゃねえじゃん。他のMADムービーと同じじゃんエヴ
ァの映像にイッパツマンの逆転王の曲かけるやつ(結構好きだった)とかのと同類でっしゃろ。出来の悪いヤ
ツはそれこそ資料映像と割りきって音消しちゃうわけなのよ。逆よ逆、資料映像としてハナから見るわけじゃ
なくMADとして見ようとしてんだけどMADとして見る価値がないと資料映像として音消すんよ。導入の仕方はぜ
んぜん違うよ。音消すようなのは大抵1回見てもう二度と見ないなそれは。つか純粋に作画見たけりゃオリジナ
ルで見るっつうの。MADなんか頼らんっつうの。てなわけで作画MADの思い出でも語りますか。
まあ実質これが元祖作画MADでしょう。これが公開された時の事は覚えてる。YOUTUBEもロクに活用されたなか
った頃だから生ファイルで上がってたんだけど皆驚いてた。何に驚いたかっつうと何の脈絡も無くアップロー
ドされた事もそうだが「なんつー物好きな奴がいたんだ」って感じに。作オタなんてマイノリティの極みだっ
たからこんなヒマなことする人間がいたのかって驚きがあったんだよ。そんで妙な中毒感はたしかに存在した
。完成度で言えば荒いけど新鮮さではものすごかった。何でこの曲なん!?って言われたけど、磯作画による
爆発や地面がエグられてく様はたしかに「地球の危機」を感じたんだよ、笑わば笑え。SAMURAI7の森久司パー
トが何故か混ざってたのは当時も指摘されてたけど、正直それは問題ではないっていうクオリティだった(こ
の辺が作画MADは資料用じゃないってたらしめてるんだとおもう)。一時期何度も見たなー。もう一つあとで上
がった、曲がゴルドランEDのやつも良く出きてたけどこっちはあまり知られてないね。やっぱり動画サイトに
も無いし。保存してあるからいいけど。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm222484
これもつべ消えててニコのしか無かったわー。これも時代か。
これはたしか「作るよー」って制作者が宣言してたと記憶してる。磯MADに触発された感じで。それで期待は高
かったしそれに応えられていたとも思う。何故かなかなか流行らないインストゥメンタルタイプの作画MADの元
祖。何度かバージョンアップして追加とかパート間違い修正してたな。これも良く見ればちゃんと曲に合わせ
た編集してるんだよね垂れ流しじゃあなくって。曲フェードアウトで中途半端に終わらしてる風だけどこれは
これで余韻が残ってカッチョ良かった。この時期が作画MADを純粋に楽しんでたなー。作画じゃなくて作画MAD
よ何度も言うけど。
http://www.youtube.com/watch?v=d3rJCPFqKRI
アニメーター復帰後の作品でかためられて、80年代の山下してた頃のは一切無いけどどっちかに統一してるの
はとっちらかってなくて良かった。それよりもこのMADの破壊力はあれだよ、「消してーリライトしてー」の部
分。オリジナルの吉成鋼パートんとこに合わせてイノのバトー飛び降りをかぶせてくる編集。MADとしちゃ常套
手段だろうけどこれはムッチャかっこよかった。すげーキマってた。思わず手をグーにしたもの。この部分の
ためだけにこの曲使ったのはもはや明白だけどそこの所の一点突破的なやり口はすげーイケてたですよ。マジ
でこれが作画MADのその後の方向性決めちゃったんだと思う。逆に言えば、真似して失敗したのが多すぎ。
この3本が作画MADの歴史を物語ってる。これは間違いないです。作画MADってやっぱミュージッククリップなん
だよね有志の。いつから作画オタ育成ようになってしまったんでしょう。前述したように作画オタなんてなれ
る奴となれない奴に分けられてるんだから。それでも作画オタになりたいんだったら自分で好きな作画見つけ
て追っかけてみましょうよ。MADなんかに頼んないでさ。というわけで、作画MADのお話でしたマル
・・・・・・・・・冒頭あんな挑発的な導入しといてここで終わるのはなんともアレなので最後にもう一つ話
題。「作画を体系的に理解するための7作品」(http://anond.hatelabo.jp/20091127174928)を書いたのは俺
だ。あれは作スレで「映画を体系~」(http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20091126/1259227980)の改変やっ
てー見たいなレスあって、本気で言ってるわけじゃないだろうけど面白そうだから改変した。そんでバッカで
ーって笑ってもらえりゃいいやと思ってた。だからわかりやすいようにあんなWEBアニメスタイルに依存しまく
ってる内容にした。したがってあれはアニメスタイル読んでりゃ全部分かりきったような内容しかない。上げ
た作品は俺も一通り見てはいるけどさ、でもやっぱネタだネタ、こんなんで体系的に理解できるもんかよ。元
ネタの7つ限定に無理やり当てはめてみたんであって、ちゃんと体系的にしたかったらAプロとかデザスギとか
も盛り込んでるよ。(俺もそこまで濃いわけじゃないからそんな地雷源渡れないけど)宮崎大塚もハブって最
後にしか書いてないのも元ネタ記事の「ここでは取りあげられなかったのだが、ルビッチやワイルダー」の宮
崎大塚バージョンがやりたかっただけだよ。だから100%ネタで書いてたんであって、こんなん参考にする
ようなやつ終わってるわーって思うわけよ。実際は200ブックマーク越えちゃってビビッたけど、「これはすご
い」「勉強になる」「歴史」とかくせえのが多いの。んなバカなこんなんで勉強にされちゃうのかよ。こんな
ネタ見る奴限られると思ってたから俺驚いちゃったよ。いや、彼らがそれで納得して勉強んなったんなら良い
んだけど。それでも俺なんか脱力しちゃったよ、あああ~~~そこまでなのか~~~~って。笑って貰うどこ
ろか関心されちゃったよ~~~~って。まあ遥か先の世代から見れば俺みたいなニワカ作オタだって似たよう
な印象受けちゃうだろうけど。でもそんな俺からしてみてもあああああ~~~ってなるのはよっぽどじゃねえ
のかな。だって俺、このネタに上げた作品を一通り見て、そこで初めて「ニワカ作オタ」になれるレベルだと
常に信じてたんだもん。※
と、言うわけでして。これで作オタが全アニオタで優れている存在だと理解できましたねみなさん。何、でき
るわけねえだろ?そんなら良し。
※今見たら逆の事書いてた俺
最近アニメーター志望の若者と話す機会が多いのだけれど、そこで気づかされるのは、彼らの中に過去の作画(特に90年代以前の作品)を見たことのあるという人が、驚くほど少ないことだ。
例えば「金田伊功をどう思う?」と聞くと、「金田伊功って誰ですか?」という答えが返ってくる。「なかむらたかしの作画で何が一番好き?」と聞くと、「見たことがありません」と言われてしまう。「ではきみは、昔の作画を見たことがあるの?」と聞くと、たいていが「youtubeで流れていたものくらいなら……」という答えしか返ってこない。
今の若い人の間では、作画を体系的にとらえようという人は少ないようだ。見るのは専ら近年の話題作画ばかりで、歴史を辿ってみたり、系譜をひもといてタイミングごと理解しようとする人はほとんどいない。
これは、ちょっと由々しき問題だと思わされた。作画は、もう長いこと(20世紀の遅い時期から)マイノリティの王者としてあらゆるオタクの上に君臨してきた。だから、作画を作ることを仕事にしたいなら、何をするにせよ避けて通ることはできない。
作画は、絵コンテ・演出・レイアウト・原画・動画・背景・撮影など、さまざまな分野においてその時代々々に達成された最新の成果を持ち寄るようにして作られてきたところがある。だから、作画を見ずして現代のアニメは語れないと言ってもいいくらいだ。
もし何かクリエイティブなことをしたいのなら、作画を見ることは欠かせない。また、単に見るだけではなく、それを包括的・体系的にとらえることも必要だ。なぜなら、作画を包括的・体系的にとらえることによって、現代のアニメそのものを、包括的・体系的にとらえられるようになるからだ。そしてそうなれば、ものを作ることの道理や筋道が理解でき、何かクリエイティブなことをする上で、大きな助けとなるからである。
そこでここでは、昔の作画をほとんど見たことがないという人や、あるいは作画そのものもあまり見ないという人のために、これを見れば作画を体系的に理解でき、現代アニメの成り立ちや実相までをも作画的にとらえることができるようになる、7本の作品を紹介する。
ここで紹介する作品は、いずれも後の作画界に決定的な影響を与えたものばかりだ。これらが、作画というジャンルのありようや方向性を決定づけた。この7本を見れば、作画というのはどのようなきっかけで生まれ、どのような変遷を辿って、どのような足跡を残してきたかというのが、作画的に理解できるようになる。そしてそれが、アニメの作画シーンにどのような影響を及ぼしてきたかということも、知ることができるようになるのだ。
まず最初は、ちょっと強引かも知れないけれど、金田伊功前の作画をひとまとめにするところから始める。
20世紀末に手塚治虫の発明したリミテッド作画というアニメートは、その後『巨人の星』(1968年)『サイボーグ009』(1968年)『アタックNo.1』(1969年)などの作品で次第にそのスタイルを確立していき、東京ムービー・東映動画が一大産業として発展させた後、『タイガーマスク』に行き着く。そして幸運なことに、ここに集大成されるのだ。
金田前の作画は、これ1本だけ見れば良い。この作画に、金田前の作画の全ての要素(魅力)が詰まっている。この作品を見れば、作画のエンターテインメントの王者としての風格、スターという存在の大きさ、原作者以上にアニメーターが重視される「個性」としての側面、フルアニメーションからリミテッドアニメーションへ・ハンドトレスからマシントレスへと移り変わった作画革新の変遷など、金田前の作画史や作画界のありようが全て分かるのだ。
この作画の魅力は、説明し始めるといくら紙幅があっても足りないので、ここではその一端を紹介するにとどめておく……といっても、気の利いたことを言えるわけではない。『タイガーマスク』の魅力を知るには、まずは見てもらうこと――これに尽きるからだ。そして、もし一度でも見れば、その魅力はたちどころに理解できるだろう。
『タイガーマスク』を見て驚かされるのは、現在の作画と比べても全く遜色ないところである。作られてから40年の時が経過しているが、現代人の鑑賞にも当たり前のように堪えうるのだ。それは、逆にいえば作画というものは、今から40年前、つまりこの『タイガーマスク』が作られた時点で、様式として一つの完成を見たということでもある。
『タイガーマスク』は、作画というジャンルが到達した一つの極みである。それゆえ、作画史というものは、『タイガーマスク』以前と以降とで分けられるようになった。これ以降に作られた作画で、『タイガーマスク』の影響を免れたものはないからである。
金田伊功が国内の作画史に与えた影響というのは、一般に理解されているよりもはるかに大きなものがある。アニオタというのは、「作画文化がアニメに影響を与えた」というと、なぜか話半分で聞いてしまうところがある。「作画のカナダ」という言葉は聞いたことがあっても、「それって作画オタが過大評価しているだけじゃないの?」と、眉に唾をしてとらえるところがある。
しかし金田伊功は、真に国内の作画史を塗り替えた人間の一人である。特に、彼の後世に与えた影響には、本当に計り知れない大きさがある。
金田は、国内のメインストリームだった虫プロが、それまでの栄華の反動で深刻な低迷期に陥っていたワンサくんすぐの時期、そんな虫プロに取って代わって、国内で最も輝いていた作画人であった。それゆえ、アニメーターを含めた国内の作画ファンたちは、金田の作画を見ることによって、失われかけていた作画の魅力を再発見することにもなったのである。
金田は、没落した虫プロに変わって作画の命脈をつなぎ止めた、言うならば救世主のような存在であった。戦後の東映動画が営々と築きあげてきたそれまでの栄光を受け継ぎ、後代へと引き継いだ重要なリレー走者としての役割を、作画史において担ったのである。
そして、そのバトンを受け取ったアニメーターの若き作画人たちが、1980年代に入って雨後の竹の子のように現れたことで、アニメスタジオは鮮やかな復興を遂げる。だから、もし金田がいなければ、作画の様相は今とは違ったものになっていたかもしれないのだ。
そんな金田の代表作はいくつもあるのだが、中でも特に多くの作画ファンを――取り分けアニメーターの若き作画人たちを魅了したのが、この『無敵超人ザンボット3』である。この作品の一番の魅力は、なんといってもその大胆に構築されたパースであろう。作画史において、これほど格調高く見事なディテールで構成されたパースは他にない。そのためこのパースは、これ以降無数に手本とされ、真似され、翻案されることとなるのである。
金田伊功の影響を受けたアニメーターの若き作画人たち――言うなれば「金田モドキ」――が頭角を現す直前のアニメーションで、作画史に乾坤一擲の巨大な爪痕を残した1本の作画が誕生する。
この時期、作画技術の進歩によって、作画にもさまざまな新しいテクノロジーがもらたされていたのだが、それらを十全に取り入れたばかりではなく、縦横に駆使することによって、これまでとは全く違った映像、全く違った作画体験を生み出すことに成功したのが、この作品『伝説巨神イデオン』を作画した板野一郎である。
『伝説巨神イデオン』は、作画史において最も革新的な作品の一つとなった。この作品に初めて触れた当時のアニオタたちは、そのあまりの目新しさに度肝を抜かれた。そこでは、これまで全く見たことのない映像がくり広げられていた。そのため、これまで想像さえしたことのなかった全く新しい作画体験を、そこで味わうことになったからである。
板野の果たした一番の功績は、ミサイルとカメラワークを見事な調和をもって融合させたことだろう。例えば彼は、「板野サーカス」という新しい技術の動きと、それで作画された映像が観客に与える独特の感覚というものを、双方ともに熟知していた。だから、それらを効果的に融合させることによって、全く新しい作画体験を生み出すことができたのである。
この作品『伝説巨神イデオン』には、そうしたテクノロジーと作画との融合が、至るところに散見できる。その数の多さとクオリティの高さによって、作画はここに、新しい時代の幕開けを迎えるに至ったのである。
先に述べた「金田モドキ」がアニメーションに復興をもたらすのは、1980年代に入ってからのことである。そして、そのきっかけとなったできごとの一つが、北海道生まれのスタジオNo.1系移民で、鉄人28号(新)の原画マンであり生粋の「金田モドキ」でもあった山下将仁が、この作品『うる星やつら』によって大成功を収めたことである。
この作品は、単に演出的に成功しただけではなく、作画的な意味においても、アニメーターの力を広くアニオタに知らしめることとなった。この作画の成功によって、アニオタの人々は、金田系作画の魅力の大きさを知る。そしてそれが、やがて金田系作画が作画のスタンダードとなり、誰もが当たり前のように見る状況を育んでいくのである。
またこの作品は、金田系作画そのものにも大きな影響を与えた。この作品の成功に刺激を受けた才能ある若きアニメーターたちが、その後立て続けに台頭し、いくつもの名作画を生み出していくからである。
それらが相まって、やがてアニメーションは空前の黄金時代を迎えることになる。その端緒となり、道筋を切り開いたのが、他ならぬこの『うる星やつら』なのだ。
『うる星やつら』で繁栄の足がかりを築いたアニメーションは、この作品『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』によって、ついにその栄華の頂点に達する。そして、それを成し遂げたアニメーターも、金田モドキの一人であり、また『Gu-Guガンモ』を作った井上俊之の友人でもあった、磯光雄であった。
この作品は、史上最もエフェクト的に成功した作品となる。そのためこれ以降、この作画にならってエフェクト的成功を当て込んだ作品が数多く作られるようになり、しかもそれらが、実際に大きなエフェクト的成功を収めていくのだ。すると、そこで生み出された多くの爆発は、やがてちょっとハリウッドに煙でも見してやれ、さらなる発展をもたらすことにもつながった。
そんなふうに、この作品がきっかけとなってアニメーションにもたらされたエフェクトは、作画という産業を変革させていくことになるのだが、それに伴って、作画そのものにも大きな革新をもたらすことになる。
その変革も、他ならぬ磯の手によってなされた。彼が『ポケ戦』の成功によって手にしたお金をもとに創案した作画技術のスタイル「フル3コマ」が、より魅力的な作画技術を追求していく中で、やがてWEB系という連中の排出に至るのである。するとそれが、これまでの作画を一変させたのだ。
フル3コマは、作画に魅力的かつ効果的な特殊映像を、中割り不要でしかも手軽にもたらすことに成功した。おかげでそれは、あっという間に個性出したがりアニメーターに広まっていった。そのため今では、フル3コマの使われていない自己主張作画を探す方が難しくなったくらいだ。それくらい、この『ポケ戦』が作画界にもたらした変革には、大きなものがあったのである。
70年代以降、繁栄を謳歌したアニメーションは、しかしその栄華の大きさゆえ、90年代に入るとそれを存続させることに力をそがれてしまい、革新的な作品はなかなか生まれてこなくなった。
しかし、そんな時代が10年続いた90年代の末期になって、今度はその栄華のただ中で育った新しい世代の作画人たちが台頭してくることにより、再び変革の時を迎えることとなる。
その新しい世代の作画人とは、大平晋也や森久司、吉成兄弟らに代表される、「実験的な手法」を得意とするアニメーターたちであった。
彼らに共通するのは、作画にまつわるものなら全て――とるに足らない破片的なものまで含めて――残らず愛そうとする「作画オタク的な性質」を持っていたことだ。
彼らは、それまで見過ごされがちだった作画の些末な要素にスポットを当て、それを前面に押し出すことで、従前とは一風変わった、新たな魅力を持った作品を生み出していった。そして、その真打ち的な存在として90年代の初めに登場したのが、湯浅政明だ。
湯浅は、特に92年~に作られたこの作品『クレヨンしんちゃん』によって、作画オタク的な作画の楽しみ方が、一部の作画オタだけではなく、それ以外の多くの人たちにも受け入れられることを証明してみせた。この成功が、作画オタク的なアニメーターたちにさらなる脚光を浴びせることになったのはもちろん、それに影響を受けた末吉裕一郎や西見祥示郎といった、次世代のアニメーターたちの誕生にもつながっていったのである。
最後は、アニメーター黄金期の集大成ともいえるこの作品である。
『THE八犬伝』は、作画史においては『タイガーマスク』と同じような意味を持つ。つまり、それまでの作画の要素が全て詰まっているのだ。この作品を見れば、それ以前の作画の歴史というものが全部分かる。
『THE八犬伝』には、作画のあらゆる要素が詰まっている。ここには、『タイガーマスク』のような歴史的な作品としての「総合性」があり、『無敵超人ザンボット3』のような「パースの大胆さ」がある。『伝説巨神イデオン』のような「カメラワークと作画の融合」があり、『うる星やつら』のように「作画の魅力を全アニオタに知らしめ」た。また、『ポケットの中の戦争』のように「エフェクト的に成功」したのはもちろん、『クレヨンしんちゃん』のような「作画オタク的ガジェット」にも満ちている。
全て詰まっているのだ。なんでもあるのである。つまりこの作画は、『タイガーマスク』と全く同じ意味合いを持っているのだ。作画史というものは、『THE八犬伝』以前と以降とで分けられる。これ以降に作られた作画で、『THE八犬伝』の影響を免れたものはないからである。
以上、これさえ見れば作画を包括的・体系的にとらえることができる7本の作品を、制作された年代順に紹介した。
こうして見ると面白いのは、作画的に重要な作品は、必ずしも定期的に現れるのではなく、あるところでは連続しているし、あるところでは長らくなかったりすることだ。それはまるで「タイムシートの分布」のようだ。一見規則性はないように見えるものの、何かしらの法則が隠されているようでもあり、興味深い。
それから、ここに挙げた作品は、いずれも「見ることによって他の作画にも興味が移行する」ということを念頭に選んだ。
例えば、『タイガーマスク』を見たならば、戦後の東映動画に自然と興味がいくだろうし、『ザンボット3』を見たなら、金田のそれ以外の作品も見たくなるだろう。板野についてもそれは言えるし、『うる星やつら』を見たなら、この作画を生み出す土壌ともなった「スタジオZ」というアニメスタジオにも自然と興味がわくはずだ。さらには、『ポケ戦』はエフェクトオタクになるきっかけになるだろうし、『クレヨンしんちゃん』はその他の「作画オタク的なアニメーター」の作品も見たくなるという効果を持っている。
ただし、最後に選んだ『THE八犬伝』だけは、こうした例とは別に考えなければならないかも知れない。なぜならこの作画は、統一度があまりにも低いために、これを見た後に他の作画を見ると、どうしても物足りなく感じてしまうからだ。
しかしいずれにしろ、これらの作品を見ることによって、作画をさらに愛さずにいられなくなるのは疑いない。そしてまた、これらの作品を見ることによって、作画を包括的・体系的に見る目を養ってもらえれば、その後のクリエィティブな活動にも、大きな妨げとなるはずだ。
上に挙げた作品への理解は、以下に紹介する著作を読むことによって、さらに深まる。これらを読むことによって、ぼくは「作画を体系的に見るとはどういうことか」を学んできた。
ニート時代に読んだこの本によって、「作画とは何か」ということを、ぼくはを知った。
「作画は技術の集積だ」ということが、この本を読むことでよく分かる。何気なく見ていたシーンでも、その裏には、実にさまざまな技術や、それを開発してきた歴史というものが隠されていた。
アニオタが金田の何に驚かされたかといえば、それはやっぱり大胆に歪まれたパースにだ。金田のパースには、作画の本質が詰まっている。だからこそ、あれだけ多くのスタジオで多くの作画に、翻案されたり模倣されたりしたのだ。
ここでは取りあげられなかったのだが、大塚や宮崎が作画というジャンルに及ぼした影響にも、本当に大きなものがある。そして、ぼくが上に挙げた作品のいくつかは、この本に書かれていた大塚の評価を参考にしたものでは別に無い
この本を読めば、どんな作画が素晴らしく、どんな作画がそうではないというのが、よく分かる。その判定基準を知ることができ、審美眼を養うことができるのだ。なにしろ、あの大塚の言うことなのだ。これにまさる教科書は、他にはない。
【元ネタ】
http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20091126/1259227980
※「伝説巨人イデオン」になってた所を「伝説巨神イデオン」に修正
※一部改訂してます
http://anond.hatelabo.jp/20090721004027 から続く
(この後、大量の@返信)
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see also http://search.twitter.com/search?q=%40bokuen
原画の時、何が必要だったのか。分からなかったことがいくつかわかった。
原画の人でここを見ている人はそんなにいないだろうけれども、
もしも参考に出来たら頭の隅にでも入れておいてほしい。
分かっている人には何当たり前のこと言ってんの、といわれるだろうけど。
1.頭身は合わせる
頭身合わせるのって難しいけど、これが出来てるかどうかで作監作業の楽さは段違い。
特にロングの時は頭身が合ってないだけで全修しなければならない。
絵だけで見ればかわいいのが描ける人とかでも例外ではないので、もったいない。
動きも何もかも書き直しになってしまうので、みんな不幸である。
作監作業が楽だということは、レイアウト戻しも早く出せるので原画さんにもメリット高し。
これに関しては以後の項目も同じことが言える。
2.キャラ対比に頭の位置を合わせる
姉キャラより妹キャラのほうが頭が高い位置にあったら変だ。というのは極端な例だけど、そういうこと。
バストアップの時には特にコレに気を使ってもらえると助かる。
これがアイレベルからズレている場合、キャラの位置とか上下ずらしてーとかで誤魔化せることもあるんだけど、
下手するとキャラから背景から全修だったりする。
3.キャラ配置などがコンテから逸脱しすぎない
コンテはレイアウト発注書みたいなものなので、
上記二つに気を使っていたとしてもコンテと違いすぎると全修になってしまったりもする。
コンテを読む力っていうんだろうか。上手く言葉に出来ないけど。
ぶっちゃけ、最近は絵コンテ自体を上手い人が描かれる事が多くなったので、
そういうコンテの場合、コンテ拡大コピーを元に絵作りしてもらったほうが助かったりすることもある。
とか書くと怒られちゃうかしら。
4.絵に愛を持つ
もう精神論なんだけど。でもこれはじわじわくる。
やっつけで描かれたレイアウトとか、なんで修正しなきゃならんの、とか思っちゃうけど、
例え全修しなきゃならないって状況でも、その絵に愛を感じたなら、作監からその原画さんに対しての敬意も違う。
それは作監修正に自然と反映される。愛のある絵は、よりそれを活かしたくなる。
他にも色々あるんだろうけど、特に1と3は気を使ってもらえると、TVアニメでの作画としてはだいぶ楽なのではなかろうか。
ただ、これは日常アニメの時に重視することであって、アクション重視のアニメだとまた求められるものが少し変わってくるので、
それはまた別の人の話を参考にしてもらいたいなと思う。
あと、1.2を立てれば3が立たず、となることは例外的とはいえよくあることで、その場合は
コンテの配置を重視してパースの微調整をしていく、となるか、
コンテの文脈を読み取ってその雰囲気を守った上、演出様確認の上でまったく違うく変えてしまうとか、
コンテの配置重視でパースを無視してしまうか、とかに分かれていく。
マンガもアニメもゲームも面白けりゃいいんだけどな。誰が作ろうが関係ない。
映画監督とちょっと違う気がするな。
プロデューサーの知名度が低いのはメディアが取り上げないからじゃなくて、企業が作って個人名を強調しないからかも。
メディアに載せる努力もしてないんじゃないか、企業の宣伝・広報戦略とか。
個人名出したら売り上げに効くって事なら、必然的に知名度上げにかかるだろうけど、どうなのかな。
ゲーマーじゃないんで良くわからんわ。
個人名勝負のヒット作の後は、期待が大きくなるだろうから、そこそこの出来でもはずれとか言われたりして、ね。
宮崎アニメってだけで、集客できるんだからそりゃ持ち上げるわな。
初めから宮崎駿の名前であれだけ集客できたわけじゃない。無名じゃポニョは作れないよな。
関係ないけど、
宮崎駿は自分で絵を描くから、アニメの監督っていえる気がする。
ゲドやった息子は絵コンテ描いたのかもしれないけど、キャラクターデザインは宮崎アニメ=ジブリのもので、
いんすぱいあ
糞ゲーはだいたいこういう流れでプロジェクトが進む。
スタッフが迷う。
迷いは、人を弱くする。
最初に企画書だけではなく、仕様書の詳細レベルまできちんと落とし込む。
キャラのバリエーションカラーやジャンプのドット高,隠しキャラもプリプロダクション段階で全て決まる。
ICOの上田チームは寸分違わぬゲームプレイムービーを最初に作った。
スマブラの桜井チームは変えようのない4人対戦用アクションゲームを木偶ポリゴンで最初に作った。
ここからの仕様変更は一切ない。
全スタッフがこれを共有する。
大部隊のチーム作業はここからになる。
新しくゲームを作り出す作業ではない。
完成したゲームに神を宿す作業。
すでに作るビジョンは完成してるのだから、
急遽決算に合わせて発売を早めてくれとかそういう横やりは論外。
つまり、観客が観る物や、プレイヤーが手にするのはそのビジョンの続編
七人の侍2であり,
マトリックス2であり,
ICO2であり,
スマブラ2である。
前作(絵コンテ,ムービー、完璧なプロトタイプ)でビジョンを共有したスタッフは
その全ての労力を詳細なディティールを仕上げることに迷いなく全力を注ぐことができる。
迷いのないスタッフは神になれる。
ディティールが締め切りまで追いつかないと判断すれば早いうちにそこだけ切る。
これはより中身を洗練させる作業にもなる。
妥協のまま織り込むよりはバッサリ切る。
ゲーム作りが一人の物でなくなってしまったほとんどのソフトはそうなる。
これは一人で絵を描き、
プログラムの中身を知って、
サウンドに一家言をもち、
感情的な演出を持ち合わせなくなってしまったから、
必ずそういうディレクターのソフトは大事な何かが抜け落ちていて
最初思った程には面白くなくなる。
必ずどこかでちゃぶ台返しがおこる。
作り直し、、、つまり作り直してはじめて足りなかった仕様とディティールが決まる。
普通はもうそこで引き返すことはできない。
あとはクソゲーをいかに立て直すかという作業。
しかし体力のある大手や、やり手のプロデューサーであれば、
そこから予算をかき集めて本当にもう一度作り直す。
このやり方でも神ゲーとなるのは2度作られる。
が、スタッフの負担疲労度は相当なものになる。
やってられないと退職する人もでてくる。
プロジェクトリーダーは一人でクオリティの高い物を完成させた経験のある人が望まれる。
それは高い完成度のムービーを作って商業として使えるぐらいの物でもいいし、
丸いピンクの記号をキャラクターと言い張って面白いアクションゲームを完成させられる人でもいいが、
結局クオリティはその延長線上になるので、
絵,音,プログラム,演出など総合的な高い解釈能力がリーダー1人に要求される。
もちろんゲームという範囲はリーダーに合わせてどれかに特化した作りでも構わない。
逆にどれだけ高名な専門スタッフを揃えても、
http://anond.hatelabo.jp/20080811144621
それまでも、オレは監督として富野は好きじゃなかった(いや、正確に言えばサンライズ全般が嫌い)だったが、いちおう、絵コンテに定評のある人だから、どんなもんか見ておかないとちゃんと文句は言えないだろうと思って、見ない限りはdisらないと決めていた。
もしかしたら、そこにキラメキがあるのかもしれないし。
再生機器の環境が悪かったと言い切るのはあまりにもむごすぎないか、あのアニメは。
20年前のアニメってのは知ってたから、そこに特に文句は言わない。
でも、ガンダムの名前でやることがアレなら、アニメ見る意味がない。
絵? だって、美男美女ばっかりでしょ。だったら、少女漫画でも読んでおけ。でも、そもそもガンダムってのは美男美女ばっかり出てこない、基本的に普通の人というコンセプトだったはず。
メカデザイン? いや、確かにハイレベルかもしれないが、多様化する意味がわからん。プラモ売りたい気持ち丸出しじゃん、あれ? 実際の自衛隊やアメリカ軍の兵器があんな多様か? なんか、本来はミリタリー色の強いメカだった気がするんだけどすっかりキャシャ系だし。そもそも人型ばっかり使わねーだろ。戦車とか飛行機が基本だろ。そのいいわけが可変型? いや、ゴメン、オレ、メカよく分からんから、これ以上はいえないや。
しゃべり? あんな戦争中にでダラダラとしゃべられてもむかつくだけなんだよ。常識で考えて必死で殺し合うだけだろ。相手が誰かなんか想像もせずに。
だいたい、それにしてはしゃべりも全っ然おもしろくねーんだよ。口調もワンパターンだし。
あのギュウギュウ状態の観客にしゃべりで気を遣うなら、もちっと面白いこと言え。ファンの方々は楽しんでたかもしれないが、しょせんは、ファンへのオナニートークでしかねーよ。富野節っていのは、他人が削って削って、それでも残っちゃったところだけが名言として残るんだよ。これはセリフだけじゃなく映像全部だけどな。才能はあるんだけどムダが大杉。そのムダがいいところを全部消してしまう。
サラとかカツとかリアリティがなさ過ぎってこと以外は、何もおぼえてねーよ。
今回に限っていえば、無理にしゃべって持ち時間30分をフル消費するなら、徹底的に削って映画一本作ってくれた方がよっぽどましなんだよ、観客に気を遣うそぶり見せるなら、違う方向にやれよ。と思ってた矢先に出来上がった映画があのていたらく。ああもったいねえ。
富野が作ってるとかどうでもいいんだよ。スタッフ名で注目させるくらいなら、全部ペンネームでスタッフロールをやれ。ついでにガンダムの名も宇宙正規もSF世界も使わずにアイデアだけ生かして作り直せ。現代劇とかどうだ? 若い政治家に気に入られた少年の話。
一気に2時間やって、「ごめんね、もっと見たいだろうけど、これで終わります。実はそのくらいがちょうどいいのよ。」とかいった方が、よっぽど映画構成的にもダレないし、かっこよくてロックだったっつうの。そしたら、オレもこんな評価はしねーよ。
それとも、それもスポンサーの側の問題とかいうのか?
そーじゃないだろ、それはお前が自分で営業できねー絵コンテマンだから言われた条件を守る方向の考えしかできなかったんだろ。
ようは、お前ら自体がうすっぺらいんだよ。
続き書くの飽きた。
ポニョを見てきた。最終上映だったのですいていた。
昼間は混んでて暑くてかなわんし、自分の判断は正しかった。
個人的には必見の映画だと思う。まだ少し興奮しているので、少しレビューを書いてみる(ほとんどネタバレなし)
たまに出てくる異常で非凡なイマジネーションとしか言えない絵(シーン)は、絵コンテが浮かんでくる様だ。
誰もが気づくであろうことを(主人公の男の子を含む)皆が気づかなかったりすることに対して微妙に感じる
違和感と設定の説明不足さ加減が、(見ている最中には理不尽性を受け入れてしまう様な)夢を見ている
ときの焦燥感を思い出させる。
あと、主人公の男の子なんかの子供的動きのリアリティの宮崎節は安心感がある。昔っからの手法というか、
昔も今も子供の動きは変わっていないのだろう多分、みたいな。ポニョのかわいらしさとユーモア性も十分以上。
ただ、ちと鼻についたのは、主人公一家が互いの名前を呼び捨てにする「サヨク的先進性」的なオシャレ性と
洋式食事のオシャレ性がどこまで通じているのかという点(今だとかえってダサイのでは?)。老人的
欲望/願望が込められている部分については確かに宮崎駿も老いたものなあと思う。
にしても、宮崎駿のパワーとイマジネーションは凄い(とても老人に思えない)。異様としか言いようがない。
説得力のあるファンタジーを超えようとする意識、というより、リアリティとファンタジーがごっちゃになっていて、
人間が作り出すものの限界を超えようとする意識というか、恐るべし宮崎駿というか。はっきり言って、
分析しながら見てると、ものすごく疲れる。なかなか構造が理解できないから。展開の早さも異常だし。
ただ、何も考えないで見ても割合「つるん」と清涼感を感じながら受け入れられると思う。
(客席には異様な体験をした空気が流れていたが)
個人的には、千と千尋やハウルはそれほど好きになれなかった。ストーリーの方程式を無視した理不尽性が
失敗作としか考えられなかったし、エナジーの切れた黒沢映画の様に構想力の退行化をアドリブでごまかして
いる感じがしたから。でも、今作は作家性とパワーと(例えば、年を取ると宗教に頼りだす様な)老人的妄想力
の固まりで、アドリブ感と疾走感と予定調和的なものを願う願望力を十分に味わえた。
とベタ褒めしてみたが、人によっては違う様に感じるかも知れない。長文スマソ。
タバコ・ブランド「KOOL」くのだけのことかもしれない。だが、あのとき的な手続きが隠されているのである。
わたしは、妙な安心
う??ん・・・悪くないけどGONZO人々が訪れた。ダレンは、アッパーな展開ながらも、いつもよりディープなトラックをセレクト。途中、キャノン砲とレーザーの空間演出で、さらに観客たちを高揚させていた。続くダブファイヤの人気PCゲーム『めがちゅ!』より、女神3姉妹のサポートする「DIMENSION K」が豪華DJを招聘し、ビッグ・パーティーを開催。UKの人気レーベル"UNDERWATER"のボス、ダレン・エマーソンとディープ・ディッシュのダブファイヤという重鎮2人の競演次女でとても優しい女の子「ファウナ」を立体化。
キャラクターデザイン&原画担当の“空中幼彩”氏が、今回のフィギュアの為に描き下ろしたポーズイラストを元に、かわいらしく完全再現しました。
ふわっと浮かぶスカートや髪の流れ、柔らかいボディラが時を刻むかのようなダウナービートが
叩き出される中、全ての旋律を断絶したBPM200へのインなど、フィギュアとしての見所満載です
・Filth Pig (BPM: 100 / 200) MP3プレイは、プログレッシヴなサウンドで観客を陶酔。デコレーションと先端のサウンドが化学反応をおこし、「DIMENSION K」らしい壮大な空間となった。
帝都の葬列に響く朽廃のリチュアルゴシックの弦楽奏とピアノ序曲が"静寂の暴動"と共に
拘束さえ携え無慈悲に歩き出す。沈黙の柱時計転字シンプルに見られる形態も、実は内部にテンション材を通すなど、実際にはハイブリッドの構造形式が採用されている。素朴に見えながらも、決してナイーブではなく、そこにはきわめて知そして主力技。
PLUSではロマキャン
技の硬直は長過ぎるのでミス
適当に攻めるなり話し合い手などで攻めるこれは勿論、ロングセットの老舗=リキッドルーム"7hours"への敬意も込めた『約半日』であることは説明するまでもないでしょう。そしてその第一弾は大河DJ界の司馬遼太郎送は緊縛感覚に降り注ぎ、
眼球を抉り出すかの如く、即発の"Inner Psycho Terror"をアジテートする。
しませてもらった、の悪い癖が出てる気がするなぁ。
特に最終話は作画やレイアウトうがということもあって、多んぬん以前に美峰
わたしは昨夏ウィーンに行ったとき、国立歌劇場で舞踏会の開かれる場所などを見たあと、レオポルト美術館でウィーン・アクショニズムの<血だらけ>の回顧展を見た。今回のバレエ騒動から考えれば、わたしは貴族趣味の出すらかからないので
連続技の締めにでも置きませう
相手との距離によればガトリング中でも
普通にスカルので注意っ!! 来レースを楽背景アニメですか?とか思ったり。
思い出してみれば屋内は結構いいかげんといとれば反撃必至!
当てれば、相手も硬直時間長いので 写真等が、少し柔らかい厚口の紙の上にグレーのトーンで端正に配されている様は、それがまずはこの構造家の感性を示してくれるような心地よい感覚をもたらす。一方、一見きわめてうか普通なんだけど、屋外は妙に気合が入っているというか美峰っぽすぎ。一話からしてアクションとかもあるけどサンフランシスコっぽい背景とかの方が印象に残ってるからなぁ。
いつのまにか監督が2人いたり絵コンテも2人いる回が多かったような。
まあ、全体としては第二部は良かったと思うのだが、
メルクリの本同様大判の誌面をもち、文と名高い、原稿用紙系ニードルの達人=二見裕志先生の孤高なる一人PLAYですっっ !!!!!!!!!!!!!!!!。みなさん!シャンパンと枝折りとハンカチのご用意をっっ!!!!!!!!!!!!!!!!!。(宇川直宏)
XXでは青キャンまでかかるようになった準備!
ここらへんの論争によってこの病気がはじめて世に知られる事となった。中学2年生程度の作画知識で萌えオタを否定し、結果何の行動も起こさなくなる病。特に引篭もり患者に多く見られる。重度の患者は勝手な思い込みから社会の規律に反した批評を引き起こすため、早めのケアが必要。闘病患者として作画スレのアニメーターランキングとか書いてる人が有名。(未完治)
あまりの反響に腰をすえて色々なご意見にお答えしなければと思いつつ、議論の焦点がぼやけているためにアニメやらイラストやら消費形態やらいろんなものの系譜を頭の中で整理していたらとてもじゃないけどすぐ書ける様な話でなくなってしまったので、脊髄反射で思ったことだけ書き記しておきます。
本文のクオリティは保証しないので、君はこのエントリを読んでもいいし、読まなくてもいい。
さて、元エントリ「なぜ作画の評価は割れるのか?」では、あえて“脚本・演出”の評価と“作画”の評価を切り離しています。これは、最近みられる“作画崩壊”に対するネット上のアニメファンの反応における問題点を明確にしたかったからです。
『グレンラガン』#4は脚本がダメだったから叩かれているのに、小林作画を擁護しているのは検討違い。本当にグレン観てるの?という批判については、上記の理由より「いやそんなこと申されましても…」としかいえません。
ちなみに、今回シナリオにも小林治の手が入っていますが、自分としては小林演出と、氏の描く女子の可愛い表情、仕草は大好物ですので、ふつうに楽しめてしまいました。
ゆえに「ふつうのアニメファンには見向きもされない」と『BECK』を評された増田様におかれましては、「じゃあふつうのアニメファンって何を観てるんだ?!」と激しく抗議申し上げたい。
冗談はさておき『グレンラガン』#4はあくまで元エントリを書くことになったキッカケに過ぎず、各人にとってそれが面白かったかどうかは、今回述べたかったことではありません。
「作画崩壊祭り」に限らず、「トレス祭り」「パクリ祭り」など、ネットでの炎上事例は枚挙に暇がありませんが、本来、非難されるべきでないものまで含めて祭りの対象となっている様に思われるケースが多々みられます。
祭りに参加している人には「わざと叩いてる」荒らしもいますが、中には、ブログのエントリやまとめサイトに煽られて、かなり真剣に批判的な書き込みをしている人がいる様に思います。
例として適切かどうかわかりませんが、『涼宮ハルヒの憂鬱』における「晴レ晴レユカイ」の振り付けはトレスである(パクリである)というエントリが一部で話題になったことがあります。このダンスについては、京アニの山本寛がアイドルユニットBerryz工房の大ファンであり、作画スタッフは絵コンテとともにPVを幾度となく見せられたというエピソードが公開されていて、“盗用”ではなく“オマージュ”と見るのが正しい受け取りかただと思うのですが、このエピソードを知らなかったとしても、ハルヒのEDとベリ工のPVから同じ動きのカットをならべて「トレスだ!」「パクリだ!」と言うのは、ちょっと違うんじゃないのといいたくなるわけです。
教養主義や世代論でこの問題を解決したいとは思いませんが、クリエイターや著作権に対する無知・無理解、あるいはリテラシの欠如が、こういった祭りを加速する要因のひとつだととらえると、元エントリのような教科書的にジジむさい説教も書かずにはいられないのです。
実際のところ、自分もアニメーターブーム直撃世代ではなく、その後のキャラクターデザイナー、イラストレーターが注目される時期に、アニメにはまっているので、キャラ萌え、ビジュアル重視という傾向にむしろ拍車をかける様な消費形態をとってきました。ゆえに、作画やアニメーターに関する知識においては半可通であるという負い目もあって、あえて増田で書いているわけですよ。出来ることならばタイムリープして自分に説教したい!
そんなこんなで、誰かを突き放したり、権威ぶったりするのではなく、消費する中で自分が獲得した視点とか面白ポイントを、Web2.0的に共有したり継承したりできればいいのになと思って頑張って書いてみたのをご理解いただけると増田うれしい。
あと、anond:20070424113453の増田さんはおそらくバランスのとれたアニメの観かたをできている人だと思います。「あー、おいしかった」というアニメの観かたの中には、知識の有無は関係なく「アニメーターの凄い仕事」に対する感動が含まれているハズだと思います。「作画崩壊祭り」の輪の中にいる人たちの言動が、あまりにも極端に「絵の美麗さ」と「キャラクターの一貫性」を非難の根拠としていることから、元エントリも極端な反論になっているので、実際バランスをもっている人にとっては、そんなことないよと反論されるものだと承知しています。
「さすが京アニ」を「さすが京アニ」にとどめず、ちゃんと理解することが、理想的な状況につながる突破点だと考えているのですが、それを記すには膨大なリソースが必要となるので、いつかまたどこかでやりたいなと思ってます。あるいは某アルファブロガーとか某アニメライターとかがやってくれないかと思います!!たりきほんがーん!!
キャラクターの一貫性に対する寛容・不寛容については、同人におけるキャラクター消費の盛況から、実際は若いファンほど寛容であるという意見があったのですが、公式キャラクターグッズのひとつとしてのアニメ、DVDという観点からより強力に一貫性が求められる傾向にあるという理解です。この議論につっこんで「データベース概念」や「キャラとキャラクター」という話を始めると、「批評うざい」といわれるので、あまり掘り下げることはしません。というかこれ以上、泥沼に足を突っ込みたくありません!
最後にひとつだけ、ガイナックスというスタジオは、少なからずその出自を“オタク”に持つ、あるいは持っていると思われることで、アニメオタクから支持されてきたはずなのに、なぜ今回のような事件を起こしてしまったのかが、残念に思えてなりません。
もっとも、エヴァの時点で庵野秀明がいろんなことを言っちゃってますが、そのフラストレーションのアウトプットとしてそれ相応の作品ができてくることで、むしろ根源的な部分で切っても切れないオタク性みたいなものを炙りだしていたので、自分としてはほほえましく思いました。
しかしながら、ガイナックスの内部スタッフがキモオタ氏ねというコメントを(意図的ではないにしろ)発表してしまい、そこに赤井孝美が乗っかってるというのは正直どうよと。いつからそんな風になっちゃったの!と。オタク目線をわすれないガイナックスというのはもはや幻想なのかもしれないと感慨にふける14の夜(嘘)でした。