はてなキーワード: 大袈裟とは
今までもてなかったわけじゃない。
何人か付き合ったこともあった。
でも、本当は好きじゃなかった。何となく付き合った。そして別れた。
もちろん、プロもない。純潔だ。
その女性は今までと違う。
めちゃくちゃタイプだ。いや、好きだ。
85kgらしい。うん、まぁデブだな。俺より重い。
もちろん体だけじゃない。性格も最高だ。
そのくせ打たれ弱いのにプライドが高い。我ながら面倒な人間だ。
でも彼女はそんな俺に、とにかく優しくておっとりしてて言葉が温かい。
独立の夢も応援してくれている。毎朝メールもくれる。5分で返事が来る。
丸くておしゃれで可愛い。めちゃ可愛い。ピアノも上手いし料理も上手い。
たぶん、俺のことが好きなんだと思う。分かる。これは間違いない。
でも正直言えば、体が一番好きだ。
っていうかやりたい。やりまくりたい。出来るか分からんがぎゅーしたい。
居ても立ってもいられなくて、毎日オナニーしまくってる。異常だと思う。
だから、一生一緒にいてほしいって言うことにした。
っていうか彼女は俺を幸せにできる。間違いない。そして俺は絶対浮気しない。
デートは再来週だけど、服買って部屋を片付けなきゃ。
なんだか緊張する。完全に浮かれてるな、俺。これが恋か。
とりあえずここで宣言しておく。
俺は生まれて初めて告白する。
自分は相手の言い間違いや誤解に、すごい大げさに突っ込んだりバカにしたりする人がいる。
普通の人はいい間違ってもわざわざそれを大声であげつらったりはしないよね。
その結果、彼は「自分は人が間違ったときに大げさに突っ込む→他の人も私が間違ったらそうするはず→私は間違ったことは言ってない」
という変てこな自信を持っているようだった。
色々話をしてみてそのことがわかた。そのことを彼に伝えようにも言葉ではわかりにくそうだったので
彼の許可を得た上で、1週間ほど、彼が何か間違った発言や素振りをしたと時に、私を含め数名は大袈裟なリアクションを取ることにしてみた。
そこで彼は初めて、周りの人が、自分と違って、言い間違いに対してソフトな対応をシてくれていたことがわかったと言っていた。
普通は、周りからあからさまなアクションがなくとも、自分の発言や振る舞いが正しいか、相手に不快を与えていないかということは
少しは気にするものなのだが、彼の家庭ではお互いにはっきり指摘しあうのがルールになっており、
あまり周りを気にせずに行動して、そのぶん指摘されたら素直に受け入れる、という事になっていたらしい。
これがいい悪いという話ではなく、日本だとあんまりそういうのを指摘する人がいないから、
ある程度自分で気にしないと、言葉にならない所で感情のわだかまりが起こるよ、ということを話した。
彼はもともといい育ちで、素直な人だったし、こちらも許可を得た上でやったのでスムーズに話が進んだが、
twitterとかやってると、育ちが悪くて、人を罵ってばかりの人をたまに見かける。
こういう人達はそもそも自分の発言に責任を持つとか考えたことがあるのかな?
周りの人は、あなたの発言がどうでもいいからとか、気を使ってスルーしてくれることに気づいているのだろうか。
そんなことを思った。
せっかくの晴れた休日、彼女とデート・・・とはいかず、適当に散歩することにした。
で、某ショッピングセンターにある某楽器店で体験会を開催していたので、お子様に混じりながら恥を掻き捨て参加したわけだ。
吹奏経験のある楽器も数年ぶりに吹いてみた。よく響く場所だったが、鈍りは明らかだった。
言い訳になるが、楽器それ自体にも奏者との相性があり、もっと詳しく見ればマウスピースやリガチャー、リードの組み合わせなどが重要であり、体験会に出すのだから、あまりいいものではなかったのかもしれない。弘法は筆を選ばずというが、それはどんな筆でも平均以上の実力を出せるというほどのニュアンスだ。
と書いてみたものの、今回はリードの厚み自体に難があった(普段は3-1/2を使っていたのだが、今日は2-1/2でも厳しかった)ので、こういう釈明に意味はない。お姉さんは経験者と承知の上でもなお「良く鳴りますね~」とおっしゃったが、営業トークのたぐいだろう。また、屋外で冷えていたため、楽器のピッチが低くてあまり吹く気にならなかったというのも、正直な感想だ。冬場は管楽器奏者にとっても厳しい。
とまあ、はっきりと衰えを突きつけられた自分に嫌気が差し、せっかくだからとヴァイオリンを弾いてみようと思った次第。
構え方を教えてもらい、いざ弓を弾いてみると、初心者特有、あるいは冗談音楽や前衛音楽に見られるような、また、黒板をひっかくような音がした。前者は計算してやっているのだから、比較するのはおかしいかもしれないが。
なんでも、弦に平行に、力を込めずにやるのがいいようだ(ヴァイオリンの指導者は休暇をとっていたようで、対応した人も具体的なアドバイスまでは至ってなかった)というので、そのとおりに2,3度試行錯誤するとちょっといい音がした。弦が、伸びたゴムひもを指で弾いたように震え、倍音が聞こえた。お姉さんの言葉を額面通り受け取れば、上達が早いらしい。
気分が良くなったのでしばらく適当に弾いてみた。運指は聞いてみたがわからないらしいので(いいのかそれで^^;)、勘を頼りに鳴らした。やはり運弓法がわからないと難しい。弾いていた間では、どうすればクラシック音楽のような早いパッセージが弾けるのか理解できなかった。
それと、構えてみれば自ずと分かるのだが、耳元で音が鳴るというのはやはり新鮮な体験だった。あれを幼児期からやるというのは、なるほど耳が鋭くなるのも頷ける。
気づいたら30分ぐらい時間を忘れて弾いていたので、さすがにまずいと思い後にすることにした。おっさんが場を独占していたら子供たちが寄り付かないだろうから、とっとと退場することにした。
そいで、アンケート書いて、名刺もらって、帰ってきたのが今だ。
ひとつ、謝りたい。
お姉さん、私は仕事をしていると言いましたが、フリーターです。嘘は吐いてませんが、私のゴミのようなプライドのために、多少大袈裟な表現を用いたこと、お許しください。
http://b.hatena.ne.jp/entry/togetter.com/li/203003
triggerhappysundaymorning
大袈裟表現として言ってるなら「変わった喩えですね」.本気で言ってるなら「ちょっと閉鎖病棟から出てくるの早すぎましたね」. 2011/10/215 clicks
魚拓を取っておこう
http://megalodon.jp/2011-1022-0149-49/b.hatena.ne.jp/entry/togetter.com/li/203003
http://www.hatena.ne.jp/anigoka/
この人にもはてな星で言われている
本気とか本気じゃないとか、一体どういう意味なんだろう?
逃げたのは逃げたんだから、本気も何もないのではないだろうか?
本当にリンク先を見ているのだろうか?
いや自分がこの前フォント変えてブラウザなりjaneなりのはかどり方が半端じゃなかったのでエントリ。これまでは普通にMSゴシック(デフォルト)でいたんだが、なんかのサイトからふと誘導されていってフォント変更に至った。しかし、なんとなくにスキン変えたり壁紙変えるレベルの感動じゃないな、これ。まあ大袈裟っちゃ大袈裟なんだが、基本的にネットで常に文字に触れてるような人間なら誰でもこの大きなに効用与れる。
リンクは直接は貼らないけど、jane スキン、とかChrome メイリオとかで検索したら拡張なりスキン出てきてハウツーも出てくるよ。個人的にはメイリオいいんだけど、問題はページごとに崩れたり、フォント指定してるサイトには適用されないことなんだよなー。まあ仕方ないんだが。
評価が大袈裟になりがちってのはあるか。
なんだかテレビに随分な逆風が吹きつけているように見受けられる。無理やり推し進めたデジタル化に世論は割合反発を強めているし、ネット世論ではフジテレビ騒動から業界が抱える根幹の問題としての電波利用のモラルハザードが周知されることになってしまった。そしてこの度の島田紳助の引退である。この件は政治的側面から語られることも多く、そこらの事情通はこの引退はまだ端緒に過ぎず、ここから続く一連の出来事を見守る気構えでいるようだ。そのあたりは情報の真偽を確かめる術を持たないので知らない、けれど彼の引退(ここでは敢えて「勇退」とでも言うべきか)は少なくとも「テレビに関わっている人達」に大きな影響を与えたし、そして今後与えていくことになるんだろうと思う。庇護のもとにあった芸能人は勿論、視聴率の稼ぎ頭として頼っていたテレビ局、そしてなにより様々な背後関係になど感心も向けずに、ただテレビのスタートして彼をモニターの向こうから見守っていた何千万の無辜の市民は芸能界の一時代を築いた彼の引き際をどう見守ったのだろう。
テレビを慈しむ人々というのはそれはもう絶対的になっていて、少しインターネットに触れるようになり物知り顔になってしまうと見落としがちな側面なのだけど、やはり依然として社会において支配的な行動様式というのは朝新聞を読んで、ご飯を食べながらテレビを観て、そして学校や会社で話題の中心を占めるのは「昨日テレビで見たあの話」なんだ。これはWEBの業界にいたり、ネットを主要な情報源にする仲間たちと群れ合うようになると薄れがちになる感覚なのだけれど、人々の中でそのような旧態依然とした行動様式を採る人々というのは未だ支配的なのは明らかなんだよね。
娯楽としてのテレビがこれまでかくも人々の関心の総量において支配的であった理由というのはそこまで明確ではない。戦後豊かになって時間ができはじめて、生得的に「惰性」という性質を持ち合わせたがゆえのに、ただ受動的に、そして非常に楽な形で情報を受け取ることができるメディアとして非常に便利な箱は家庭に頒布され、今日までアタリマエかのように人々の話題の中心で在り続けた。そしてテレビのCMなんていう綺麗な俳優女優の顔でしか認識しないような広告に莫大な広告費がぶら下がることになってきた。
インターネットがこれらの流れを崩すことになるかもしれないよね、なんて話は梅田氏以来、ネット牧歌論的な肯定派の中で何度も云われ続けてきたことではある。しかしこれまではそれはただの業界人のポジショントークであり、楽観的すぎる夢物語として終始してきた。しかしいよいよ本当に人々の眼がひらかれる時が来ようとしているのかもしれないね。テレビを「面白く」してきた、有能な大道芸人が辞世し、その箱を通して見る風景が相対的な魅力を失う、同時にスマートフォンはじめとするより開放的な情報体系としてのインターネットへのアクセシビリティが拡充されたときに人々は情報の扱い方を緩やかにでも変えていくのだろう。
大袈裟なのかもしれないよ。でも人々の考え方において大きな影響を与えてきたのは教育とマスメディアの中で、そのうちの後者がいま大きく音を立てて崩れようとしているように少なくとも自分には見える。能動的に情報を得ることを覚えた人々は、ネットで調べたあの面白そうなお店に行ってみようということになるかもしれないし、新しい趣味を始めることになるかもしれない。結局これまでのテレビというものが多様な人間の余暇生活の中で過大なシェアを占めていたのが、「その中の一部」へと収斂していく過程を僕らは見ているのだと思う。それは明らかに始まっているし、鼻息を荒げるには実はまだ早すぎるのかもしれない。でも僕はその崩壊の彼岸にある景色は今より少し綺麗なものが見れるんじゃないかなあと、少しだけ期待をしているんだ。
最初はそれなりにいい線いっていたのに、ここにきてもう投げやりというか、反論のための反論というか、急速に劣化ウランしてます。
劣化ウランって「天然ウランより放射能が落ちた」ってことなんですけどね。まあ投げやりになったのは思い切り事実ですが。
「事実」をもとに語る気があるのかと思ったら結局あなたも「理系が悪い」の人だったので落胆しました。だいたい私が最初の記事に「理系」って書いたことに過剰反応する人がいること自体意味不明なんですが(「自然科学の分野に専門性がある」とか役人言葉で書けばよかったんですかね)、はっきり言って「ブルータスお前もか」です。
オウム真理教の信者は人間。燃料棒はモノです。人間相手なら断罪するのは慎重さが必要だと思いますが、燃料棒相手にそこまで遠慮する必要はないでしょう。あそこで遠慮したことで、「メルトダウン隠蔽説」の発生という大損をしたわけです。
オウムだって破れかぶれであのあと毒ガステロする危険があったし、実際未遂事件は何件か起こしましたけどね。「新宿駅青酸事件」とかでぐぐってみてもらえたら思い出すと思いますが。
(本論と直接関係ありませんがオウム事件のくだり「化学薬品が大量に見つかった時点でもうほぼ真っ黒」という発言は気になりますね。そうやって河野さん一家も冤罪で酷い目に遭いました。人間相手にはくれぐれも慎重に頼みますよ。モノ相手はバッサリやっちゃってください。)
自慢じゃないですが当時中学生のガキの俺でも河野さんは冤罪だってわかってましたけどね。河野さんが犯人だとしたら、ガスに最も暴露されるはずの当人が比較的軽症でしかも防護設備がどこにもなかったんだから。あれも「文系」の失態ですね。オウムの場合はサリンを合成できるだけの薬品としかも製造設備が揃って出てきたんだから確定でしょうよ。一方でですね、同じ福島第一原発事故の中でも「モノ相手にバッサリ」やった結果、測定ミスを見落として再臨界デマが流れたりとかそういうことも同時並行で起こってたことをお忘れですかね。やっぱり緊急性が高くない情報はきちんと確認できてなければ断定なんてしたらいかんのですよ。
まあどっちにしても、あの「メルトダウン発表」(というか発表の趣旨自体そもそもメルトダウンがどうこうじゃなくて水位計の機能が回復したって話なんですが)が衝撃的だったのは、私にとっては「あれだけ水を入れてもまだ水が燃料棒に届いてなかったこと」だった(つまりまともに水が入らない原因が何かあるということ)のに、燃料棒が損傷していることが水位計からも裏付けられた、って話がここまで大袈裟に受け止められること自体本当に理解できないですね。
まあ、そういう「文系」の言葉遊びの世界はよくわかりませんわ。麻生の漢字読み間違いの一件も、「自分の言葉で語らずに聞きかじりの付け焼き刃を格好付けて語っている」ということの象徴として当初叩かれてたのに、民主党政権がグダグダになったら「麻生は漢字を読み間違えたという些細な落ち度を元に首相の座を終われた」なんていう風にいつの間にか歴史修正されてるみたいですしね。日本にはマスコミという「真理省」があるということですね。日本の天地は複雑怪奇なり、ですわ。皆さん本当に頭がおよろしいので私には到底ついていけまへん。
ウソですよ。大馬鹿ですよ。あれも「理系」じゃなくて「文系」人間がやったことですけどね。正直、私が一番原発に対して懸念を持っていること(くどいようですが私は推進派だなんて名乗った覚えありませんからね)は、ああいう馬鹿な人間が動かしているということですよ。ただし、ああいうコピペメール構成ってのは基本的にナイーブ系反原発派を含む「市民運動」の常套手段なのであって、「お前が言うな」でしかないんですがね。
流通していないから大丈夫って、今になってセシウム基準値オーバーの牛だって流通したことが出てきたじゃないですか。あれもウソじゃないんですか。
そりゃまあ、全頭検査をしないってことは「確率的に」流通することはあり得ますよ。ああいうことが一件や二件あっても不思議はないだろうな、程度。こんだけの混乱状況なんだし。正直、俺はあの話全然興味ないので逆に聞きたいんですが職場の食堂で昼休みに流れてるNHKニュース見て「あー今日もこの話しとるなー」ぐらいに思ってる程度なんですが、世の中ではあれでそんな騒ぎになってるんですかね?。
信頼というのはそういうもんです。推進派は、そこがまるでわかっていないんです。かわいそうなくらい。だから原発を自動車と比較したり、死者の数を出して、どうだ安全だろといったりするんです。
じゃあどうやったら推進派が「信頼」を勝ち取れたでしょうか。絶対無理だったと思いますよ。ナイーブ系反原発派のプロパガンダは卑怯でありなおかつわかりやすすぎるし、坂本龍一だの宮崎駿だの村上春樹だの、ああいう一般受けする文化人を広告塔に担ぎ出せた時点でもう勝利確定ですよ。
そりゃまあ第二次大戦前のドイツの民主主義勢力が「信頼」を勝ち取るのと同じぐらい難しかったと思いますよ。第一次大戦は軍人目線では完全に負け戦でも一般人には被害がまだ及んでなかったわけで、「アカとユダヤの陰謀だ!」と言われれば信じたくなるというのは非常にわかりやすい人間心理でしたしね。
広瀬隆の著作が「だまされようがありません」というのは、(あなたレベルなら)だまされようがないということです。
まあ、一読をお勧めしますね。賛否はともかく、それなりに楽しめると思いますから。私にしても全部同意するほど無批判な読み方はしていません。
それを「楽しめる」という神経がわからないですね。あなた、9.11陰謀論とかの本読んで楽しめますか。
私にこんなにもコンプレックスを与えている、あなたを含む「理系」エリートは凄くあってくれなくては困るわけで、それが凄くないもんだから、もうプンプンですよ。
そりゃまあ「逆恨み」としか言いようがないですが。まあ俺自身が「金融」とか「コンサル」とか「MBA」とかの人たちに対して多少とも似たような感情を持っていたり、それで色物でない「経済学者」の人にルサンチマンを誤爆したりしてないとは言わないから多少は同情しますが、まあ誤爆された方からすればお門違いもいいところとしか言いようがないですね。
????何をどう読めばそういう解釈になる?私はNHKと朝日・毎日・読売のWebサイトぐらいしか情報源に使ってなかったですよ。最初はBBCやCNNなどの外国メディアも見ていたが、国内メディアに比べて信頼性が落ちることに気づいて(外国メディアの方が信頼できるとか言ってた人たちは頭大丈夫かと正直思いますね)見るのをやめましたが。中でもダントツに信頼性が高かったのは速報性という意味ではNHK、分析という意味では毎日でした。
で、避難しようと思ったのは、私が単にリスクを2桁ぐらい過大評価していたというだけの話です。知り得た断片的な「事実」を過度に恐怖してしまったということです。それでも、最悪の事態に陥る可能性は1割以下だとは思ってましたけどね。
「情報空白」ってなんのことですか?政府は出せる情報は基本的に、多少もたつくことはあっても公開していたと思います。後になってから「だったら早く言え!」と思ったことは私は一度もないですよ。私は皆が「情報空白」だとか「隠蔽」だとかいうのが一体なんの話なのかまるでさっぱりわかりません。「メルトダウン」隠蔽説なんてのはその最たるものです。全くもって意味不明です。
あと、もうお忘れかもしれないけれど、3/19までは状況はどんどん悪化して、誰にも先が見えないムードだったでしょう。
あの状況で東京から脱出しても何ら異常な行動だと思いませんよ。
むしろ、あの状況で居残ってどや顔している人がいたら、そっちのほうが欺瞞だと思う。蛮勇かも知れないが、賢いとは到底思えない。
あのですね、悪化するとはいっても物理的な限界を超えて悪化することはできません。まして、チェルノブイリという、1つの原子炉について「起こしうる最悪の事故」の限界にほとんど等しい(何しろ原子炉の中身が全部剥き出しになって火事の煙と一緒に飛んでいった)例があるのだから、チェルノブイリの被害がどの程度のものか大まかにでも理解していれば居残ることが正解なのは明らかでした。私はナイーブ系反原発派を以前から嫌っていたにもかかわらず、どういうわけかチェルノブイリ事故のイメージだけは、ナイーブ系反原発派の描き出したおどろおどろしい地獄絵図そのままをナイーブに信じ込んでしまっていて、被害を実際より2桁ぐらい大袈裟に見積もっていた。大気中核実験のことを思い出せばそのイメージがおかしいことは簡単に理解できたはずなのに、それに気づかなかったから私は馬鹿だと悔やんでいるわけです。
原発反対派が「想像」※するほど事故は大破局にならなかったということで、どちらに「だまされたか」といえば、原発推進派ですけどね。
意味がわかりません。「騙す」というのは「意図的に嘘をつく」ことです。推進派が嘘をつきましたか?否。反対派が嘘をつきましたか?ついた。どちらが「騙した」のかは明らかです。そもそも推進派にしたって「絶対安全」なんて言っていないんだから「騙された」なんてのは自己欺瞞も甚だしいです。まして「絶対安全と言われた」なんてどの面下げて言うとんじゃと思いますね。
言い訳も何も、東電を擁護してるつもりなんてないけどね。単に「狼少年」は自分の首を絞めているということを指摘したかっただけ。自衛隊だの公務員だの原発だの医者だのを、批判するだけ批判して褒めるところは全く褒めないという態度は結局自分の身に降りかかってくるということだ。批判するなら正しく批判しろということ。はっきりいって反原発派の99%の原発批判は2chのネトウヨのコピペレベルの知識だ(例のもんじゅデマや「原発がどんなものか知って欲しい」が一番わかりやすいだろう)。ああいうことを言っていては聞く耳を持たれるわけがない。
別の例を出せば、第二次大戦の歴史認識問題がある。はっきり言ってこの件に対する欧米リベラルの日本批判には随分おかしなものが多い。しかしそういう連中がのさばることを許しているかなり多くの原因は日本の歴史修正主義者にもある。そういう奴らのせいで、例えば南京大虐殺の死者数を、笠原あたりの説を引用して「30万は過大評価、10万-20万程度だ」と言っただけで右翼扱いされてしまう。
原発についても同じことが起こっているんだよ。
俺が言った「村」は日本か世界全体のことだから「壊滅する」ってのは余りにも大袈裟だね。正確には、村の出入り口付近の家が襲われて、住人は何とか逃げたがそこには住めなくなった、とでもいうべき。
屁理屈もへったくれもない。世の中にあるものすべてそういうもんです。「新幹線は安全です」というのと同じことだ。誰も「新幹線は絶対安全」なんて思うまい。責められるべきは東電が新幹線なみの意識で安全対策をしていなかったこと。それ以上でも以下でもない。福知山線事故を見て「鉄道は危険」なんていう奴はいまいよ。「JR西日本は安全文化を全面的に考え直せ!」というのが妥当な線。今回も同じこと。
こういうと「原子力は新幹線より一度の事故あたり被害が大きい」というかもしれないけど、言っとくけど、時速300km=分速5kmなんてものが5分間隔で走ってたり、あるいはガソリンなんて危ないものを燃料にした乗り物が道や空に溢れかえってたりするのも、核反応ほどのセンセーショナルさはないかもしれないけど、素人目には「神業」的な技術だと思うよ?
そして「数」のことも考えるべき。飛行機事故は自動車事故より派手だけど飛行機が自動車より危険かといわれるとそうとも言いがたいのと同じことが、原子力技術と他の技術の関係でも言えると思うよ。
要するに、あなたは「他に行き場所なんか無いんだ、だから、泣き言言う前にここで狼守ってる俺ら番人の足引っ張んじゃねえ」って思ってるということか。「原子力を利用できなければ、いずれにせよ人類は滅ぶ」と思ってるんだよね、おそらく。
俺自身は「番人」ではないが、ある程度その立場が理解できる者として、そう思ってる。元の記事に
自然エネルギーが「これから」の技術である現状、チェルノブイリよりずっと恐ろしい温暖化を確実に引き起こす火力よりマシだという考えは変わらん
と書いたとおり。温暖化や化石燃料枯渇は世界人口の短期間での激減というような壊滅的な被害を引き起こす可能性が現実のものとしてある。原発事故で人類が滅亡の危機に直面するすることはあり得ないことを考えれば、どう考えても火力より原子力が「マシ」であることは否定できまい。少なくとも、再生可能エネルギーやCO2の固定・回収技術の技術がもう一段階進歩したりするまではね(その間に原子力技術も進歩することはお忘れなく)。
そのことは「前提」だと思うんだけどね。「脱原発」を唱える人でさえ、最低でも四半世紀は先のことだというのは合意できてるはず。実際、四半世紀なんてのは現状の再生可能エネルギー技術でなんとかできる、という非常に楽観的な想定(原発の「安全神話」よりもよっぽど悪質だと思うけどね)に立って、ようやく成り立つぐらいのレベル。実際には半世紀かそこらは必要。つまり今後さらに原子炉寿命一世代分ぐらいは原子力が必要。即ち新設ストップなんてのは自殺行為だ。
となれば、現状の選択肢は「安全性を総点検・強化して原子力を利用」しかあるまい。それ以外何があるというんだ?
それは、科学的にそうなの?それとも漠然と政治・経済など専門外の「専門家」の人が言うことを聞いてそう思ってるということなの?
どうして自分が見えない所なのに色々言われていることが分かるのでしょうか?
見えない所で言うのが必ずしも悪い事ではありません。直接言うのが必ずしも良い事ではありません。自分にも言える事と増田は言っているので、分かっている事だと思います。
見えない所で言われたくなく、直接言って貰いたいのであれば、相手との関係によるのではないのでしょうか。また、良い関係であれば、見えない所でも直接でも、増田が納得いかなかったり、気分を淀ませたり、晴れない事はないと思います。
自分にも言える事と増田は言っているので、相手は自分が見えない所で色々言われたから、言っているのかもしれません。
>俺が悪い点もあるが、俺が完全に悪いという訳では無い。
ではしょうがないでしょうね。これはよく加害者が使うフレーズですが、増田は加害者なのでしょうか。加害者とは残念ですが非難されるものですよ。増田は誰かの過ちを非難したことはありませんか?
やられたり、奪われたり、貶められたりなどの被害者の傷は一生癒えることはありません。
>当人同士の問題でも無い所で
根っこで当人同士の問題だったりしませんか。
トラウマで何かができなくなってしまったら、何かができないこと自体よりもトラウマが問題だったりします。
例えば、いじめで登校拒否になったら、登校拒否自体よりもいじめが問題だったりします。
納得いかない、気分が淀む、晴れない、腹が立つという感情は相手に伝わるので、大袈裟な事を言えば、刺されたくないのなら穏便にするのが楽ですよね。
小便の切れが悪い。
残尿感とか言うほど大袈裟なものではないのだが、んー…果たしてコレって残らず排出されたと見てよいものか。という懸念というか、不明瞭な感じがいつもある。
そこで便器の前で排尿が終わった後の時間を長く取り、微妙に屈伸運動をしたりつま先立ちを繰り返したりして、これで完全に排泄されたのだという爽快が訪れるのをいちおう待ってみる。けどもう長らくその爽快は味わっていないようだ。仕方なくしまい込む。やれやれと立ち去る。この一連の儀式は我ながらなかなかに哀しくて間の抜けた絵面である。とてもよろしい。
それはそれとして、この不甲斐なさが一体いつ頃からのことなのか今ひとつはっきりしないのである。子供の頃は小便を終えた後、もっとすっきりした感じがあったような気はしている。けど意外にそうでもなく、すっきりしてなかろうが格納した後に垂れ流そうが子供特有の無頓着で意に介さなかっただけという話もありそうである。長じて快便を体調良好のバロメータとする意識を持つようになったせいで、不健康や衰えとは無縁であったはずの子供時代を美化しすぎているのかもしれない。「昔は良かった」は容易に陥る思考の陥穽だ…って、要は記憶を辿ってもよく分からないということが言いたいのである。
似た話で起き抜けなどに鏡を覗くと、そこにある皺にふと違和感を覚える時がある。あれ、こんな所に皺などあったっけ?という疑問が浮かぶのである。寝相の関係で圧迫されてできた皺が一時的なクセになるのはよくある事だけど、そうではなくて明らかに顔の一部となっている。すると昨日今日でホイホイできたとは考えにくい。ということはむろん前からあったものなのだという結論になる。けれどそれが一体いつ頃からそこにあったのか、今ひとつはっきりしない。
どうも近ごろ、私にとっての過去というものが加速度的に曖昧でおぼろなものになってゆくようでそこはかとなく恐ろしい。これはあったはずの出来事を忘れてしまうというだけの話では収まらない。
それまで「当たり前」どころか「前提」ぐらいにすら思っていた、私なりの物の見方や感じ方。そういう、いわば私の存在の中核となっていたもの、「私はこういう人間だ」と規定していたもののかたちでさえ次第に風化して崩れていっているように思われてならないということである。私という人間の輪郭が段々とぼやけていっているということである。
大きな喪失を感じるのが、そのときどきで抱いた感情や内的体験の味とか匂いのような質感が失われてゆくことである。幼児の頃の私は、なんでもないような絵や光景によくメルヘンな気分を味わった。子供の頃には、些細な風景写真や映画によく世界の広大さそのものへの憧憬の念のような感情が湧き起こった。
気恥ずかしいが、そういう「ときめき」がどんな感じであったか、さかしらに言えばときめきのクオリアとでも呼ぶべきものが思い出せない。ごくたまに、なにかの偶然がトリガーとなって自分の中によみがえる(匂いがきっかけとなることが多い)ことがあるまで、そんなものがあったことすら忘れてしまっているのである。けど私にとって、そういうものこそが生の実感であったはずのものだった。どうも今の私は魂を抜かれた抜け殻が生きているかのようである。
ご存知のとおり、人の肉体は固定されたものに見えて実は流動的である。代謝によって肉体を構成する物質が絶えず入れ替わり、我々がふだん石や木材のような固体のイメージで捉えている骨でさえ骨代謝という働きにより成人3年で完全に入れ替わる。言い換えれば3年前の私と今の私は正真正銘別物である。生命とはモノではなく、コトなのであって、渦とか波とかの現象と質的に同じなのである。こういう話を聞くにつけその確かな拠り所の無さ、脆さ儚さを思わずにはいられない。うたかたに例えた古人はまことに正しい。
まして人間の精神のような無形のものの流転の様は推して知るべしなのである。「私はいつだって私だ」というのは単純に言ってただの錯覚で、絶えずアメーバのように形を変えているイメージがより近いと私は思う。自分では一定の形を保っているように思っていながら、そのじつ絶えずなにかが流出し、知らずになにかが流入し続けているのである。朱に交われば赤くなるのだ。
下り坂の年齢にあると、その流出してしまったものの大きさのほうが堪える事実である。流入してくるものも無くはなかろうがどうも良いものには思われない。
これ、童貞に対する素人童貞なみに絶妙なネーミングセンスだと思った。
「新しい言葉で差別が生まれる」というのは大袈裟かも知れないが、
いずれにせよ、そこまであえてカテゴライズして貶めてやりたくなる程度に
ウザがられる何かが彼らにあるということだろう。
こういうこと書くと「何その『いじめられる奴にも問題がある』メソッド」とか言われそうだが、
そもそも人の好感度なんて貯金の残高と同じで、相手を楽しませれば残高が増え、
ムカつかせれば減っていき、マイナスになったら相応の帳尻合わせに
なんつーか、仕方ないと思う。
ちなみにこの手のネーミングで個人的に気に入っているのは、
初めて目にしたときはVIP辺りで流行らそうという衝動に駆られたくらいだ。
そのいろんな意味で無駄にかっこいい響きに目下やられっぱなしである。
響きがかっこいい分、キョロ充や素人童貞よりも表面上は殺伐としていない。
そしてかっこいいけど彼らを微塵も称賛していない。
こういう単語は好きだ。
まだ11月なんだけど、もう今年は何もないってことで。
「Iちゃんにとって今年は、(人間関係において)激動の年だったんじゃない?」と先日、年上の女友達に言われた。
「えっ、そーかね」とわたしは、その大袈裟な表現にすこし笑いながら、彼女と別れた後でよくよく考えてみたのだった。
その後で会った別の女友達には「意外と派手に遊んでるねー。何か信じられないよ」と呆れられた。
親戚の叔母ちゃんに諭される感じで、説教めいたことも言われた。
しかし、わたしの行動なんて、まだ可愛い方だと思う。
今年の幕開けは、就活だった。
恋愛とは無縁の生活。
うん、好きな人は暫くいなくて干物的な生活を送っていたのだった。
就活とバイトと歌舞伎町入り浸りライフとダークな文化体験を並行して行っていた。
「就活で出会いあった?」と今現在就活中の子に聞かれて「あったよー。隣に可愛い子が座ってたら話し掛ければいいじゃん?」などと答えたりしているわたしである。
出会いは確かにあったね。
新年度が始まり、色んな場所でいくらか出会いがあった。
再会したのもあった。
それでも今年1番実感したのは「出会いがあれば、別れがある」ということ。
「もういいや」と思うと、次に新しい出会いがぽんと生じている。
そういうのを繰り返してきた感じである。
不思議なことだが、本当にそうだった。
今年はわたしにしては珍しく、色んな男の子と関わった1年だった。
社会人の男の人とも結構知り合った。
1年というより12月までの半年間、と言った方が正しいかも知れない。
消えていった相手もいたが、関係が持続している相手もいる。
色んな人と遊べる状態って身軽でいいな、と思う。
いいとこしかつまんでない。
綺麗な部分しか見てない。
楽だ。
しかし、安定を望む自分もいる。
1人の人とじっくり向き合うことは、笑い以外の様々な顔をして生きていくことだから、人は成長すると思うし。
これからどうなるんだろう。
なるようにしかならんよな、こーいうことは特に。
わたしは1人引っ越し作業しながら、年越し(悲)
先週はやたら男の子と遊びまくった週で、それとは対照的に今週はおとなしくして、女の子と遊ぶくらいしか予定がない。
“クリスマスイブも明日もバイト♪4年間いつもクリスマスはバイト♪ワーキングガール♪”
きっとというか、確実にこんな感じ。
あまり慌てないことにしている。
そして1人の人に集中しないことにしている。
後で「どうしてわたしはあの人に、あれほどまで固執していたのだろうか。わたし阿呆だ」といつも思う。
新たに気になる人が出来ると、終わった恋愛についてそういう感想を持つ。
そういうものだから、人をまた新たに好きになっても、いちいち考え込まないことにした。
期待もしないし、妄想もしない。
それは裏切られるだけだ。
独りよがりな計画も立てない。
その場その場で、臨機応変に対応する。
流れに身を任せてみる。
そうした方が思いもよらない良いことになることが多い、と身をもって実感した。
「恵比寿のあのシャンデリアを見たカポゥは結ばれる」という都市伝説があるんだってさ、と、女友達に教えられた。
「Nさんとー?」と笑った。
あ、でも知ってたらNさんとは行ってないよね。
Nさんはあまりイケていないけれど誠実で純朴そうなサラリーマン。
この前、女友達と語ったこと。
みんなどう思うだろうか?
男の子と映画とかごはんの話になったとき「この前●●に行って…」と話し始めるのだが、その際誰と行ったかは言わないが「それ男だろ?」的なニュアンスを匂わせることがあるよね、って。
実際、男と行っているので真実なんだけど。
そうされると、若干嫌な気持ちになる人もいるらしい。
逆の立場で考えてみたら「あ、嫌だ」と分かった。
なのに、どうしてわたしもその行動をしてしまうのか。
「あなた以外にも遊ぶ人はいるの。あなたのこと気になるけど、あなただけに集中しているわけじゃない。だから『おまえ重い』と感じないでほしいな」という意味をわたしは込めているんだ、と思った。
見栄?
単純にそれだけで片付かず、重いヤツと思わないでほしい的なアピールなのよね。
分かって下さい。
けど、いざ「この前ここ来たんだよね」と言われると「んー誰だろ?女だったら嫌だな」って、全くもって自分勝手な感情を持ってしまう。
ガキなわたし…。
来年からはそういうのを余裕持って、そわそわせずに「へぇ。いいとこじゃん」と口先だけでなく、心から言えるようになりたい。
社会人になるしね。
なんかへんな話だなあ
擬似恋愛を演出するならむしろ
気持ちいいかと聞くな
どんなふうに攻めてと要望するな
痛いと言うな
勃起具合を評価するな
勃起させようとしている時はしゃべるな
どんな体位がいいかと聞くな
こんな体位がいいと要望するな
どんなふうに挿入してと指示するな
ゴムつけろと言うな
いこうとしているときはしゃべるな
精液を評価するな
いったあとは話しかけるな
いったあとは触るな
これは全部逆じゃない?
この辺りは全部破ってくれた方が嬉しいんだけどな
っていうかそういう人にしか続けて入らない
あと
その店の利用頻度や利用する理由を聞くな(同上)
今日一日の行動を聞くな
仕事の事聞くな
居住地を聞くな
このあたりはいつも鉄板で聞かれてる
ちなみによく行ってるお店はかなり規則とかキッチリしてるお店だから
(女の子に言わせるとその○○グループは「軍隊」という大袈裟なあだ名があるらしい)
ルーズなせいで聞かれてるって訳じゃない筈
あと
その女の子を選んだ/当たった理由を聞くな(同上)
どういう女の子を選びたいか聞くな(同上)
これは聞かれたことないけど
聞かれたら話の糸口になっていいけどなあ
(「こういうとこが好みだから!」なんていう風に選んだ理由を説明する機会があると打ち解けやすい)
最後に
これ教えてください
だいたいわかるけど是非一度ちゃんと聞きたかった
あれどれぐらいどんな効果があるんだろう
世間から見たら危ないキチガイみたいなもんだと思われてるだろうし、俺もたまにそうなんじゃないかってなんとなく直観してるからそうならないように、街出たら必ずといっていいほど叫んでる。機械的に。別にいらついてるわけでも精神が重篤な危機に陥ってるわけでもないけど、こういう境遇だからさ、いつそういう風になるかわかんないじゃん。
だからとりあえず大袈裟に叫ぶ。怒る。狂ったりする。本当にそうしなくてもいいように。ぎりぎり犯罪にはならない、あらゆる迷惑をかけ尽くそうと今も企んでいる。それらを計画どおり冷静に淡々とやってることすら気づかず、本気で憤りを感じたり、見下したりする全ての人間たちがいかに滑稽か、みるみるうちに分かってくるから。
いかなる悪も、この自分が実際に行っている悪のように、本来一つの冷徹な視座とまなざしに支えられてるかもしれないものだということを自身に焼き付けておくためには、これからも自らの思う悪をそうやって徹底させていくしかないのだと思ってる。
ところで悪とは何か?
自分にとって最も相容れない他者の究極的な形こそ悪というものなんじゃないかって俺は最近思うようになった。
そしてひきこもりやニートたちにとって、現実の社会でまともに生きていけるように自己改革するためには、そのような、自分が最も拒絶する現実や形式を受け入れ、克服しようとする気概を持ち、さらにはそれらを維持し続けるために、自ら悪という「自分には到底受け入れられない異物」になりきる他ないんじゃないかってのを一当事者として痛切に感じるわけだ。ね?斎藤環より良いこと言ってるっしょ?なーにがひきこもりのオーソリティー(笑)だ、せいぜい Oh!sorry!ってぇとこでしょう?謝れ職業人!!