はてなキーワード: 田嶋陽子とは
同性婚禁止違憲判決に対してフェミニストの多くが否定的で、婚姻制度そのものを破壊しろとしか言ってないの、
自分も相手が同性異性問わず生涯結婚出来そうにないから同性婚が認められようと関係ないんだけど、
だって婚姻制度を廃止した所で男女間のセックスもそれによる妊娠出産もなくなる訳がないし
婚姻制度廃止の結果はどう考えても「シングルマザーでも産み育てやすい社会」=今以上に子のいない男女への税制負担が増大、だよ
私は婚姻制度は、男の横暴から女を守るための制度だと思うんだけど…
婚姻制度がある事で貞操義務や子の扶養義務ができて、(完璧ではないにしろ)男のヤリ逃げが防げているんじゃないか
婚姻制度が女の奴隷契約とか言ってるの、所詮は上野千鶴子や田嶋陽子みたいに独身だとしても一人でも豊かに生きていける経済的強者の女性の視点だろと思う
15歳のとき、ベル・フックスの「フェミニズムはみんなのもの―情熱の政治学」を読み、それが私のバイブルになった。そこに書いてあったフェミニズムの説明を読んだだけで、それが世界を変えるとわかった。地元の図書館にかろうじてあったフェミニズム書籍コーナーに潜り込むや否や、 牟田一恵や田嶋陽子の世界に浸りこんだ。私が進学先の大学を選んだ理由は、その時すでにTwitterで名を馳せていた北村紗衣先生が教鞭をとっていたからだし、ジェンダー論の授業があるからだった。大学を出て最初についた仕事では社内セクハラの撲滅に従事し、プライベートでもTwitterや消費者運動を通じて、男女差別と戦ってきた。ほぼ十年、このために使った時間は知れない。
何が言いたいかというと、フェミニストを名乗れる人間がいるとしたらそれは自分だということ。九州の田舎で育った孤独なティーンエイジャーにとって、フェミニストの冒険譚を読むのは震えんばかりの興奮だったし、目を見開かされる思いだった。周囲にこんな人は見た事がなかったけれど、ネットを通して自分と似たような人が他にいるとわかって希望が生まれた。大学に通い始めてからは、フェミニストでいることにひねくれたプライドをもつ人を他にも何人か発見した。けれどそれはまだ珍しかったし、社会の主流な考え方からはすっかり外れていた。だから、なぜせっかくそれなりの企業に就職した自分が、社内恋愛の末の寿退社ではなく、男受けの悪い反セクハラ活動に血道を上げているのか、誰も本当にはわかっていなかったし、私はフェミニストだと言うと、ほとんどの人が眉をしかめた。月日を経て、私は同じ志を持つ仲間の輪を少しずつ広げた。職場、教育、そしてマンガアニメなどの趣味の世界。それぞれの世界で活動する私たちを、フェミニズムが互いに引き寄せた。そんな仲間の助けがあったから生き延びる事が出来た。けれど仲間を探すのは難しかった。私たちはまだ、社会の中で傍流だったのだ。
でもこの十年、状況は様変わりした。映画やドラマはフェミニズムに則って制作されるのが当たり前になった。アナ雪や逃げ恥を通じフェミニズムは恥ずかしがらずに誰もが楽しめるものになった。
そして、たぶん一番重要なのは、今やフェミニストはカネを、そして権力や地位をも持っているということだろう。世界で一番大きな、そして一番勢い良く成長している企業は女性に配慮し、女性を雇っている。日本の大企業や省庁も女性差別をやめ敬意を示すようになった。強い女性はかっこいい。私たちは勝ったのだ。
そして、そこに問題がある。私たちは未だに自分達が反乱軍かのように振る舞っているけれど、今やフェミニズムは帝国だ。十年前までは私たちはおおむね正しく、批判は的外れで間違っていた。だから他人に耳を貸さない私たちの習性は深く根付いている。それどころか、フェミニストに向けられた批判をスクラムを組んでやりかえすのが絆を深めるためのちょっとしあ儀式になってすらいる。今までは誰かの批判を攻撃するのも、かつては大したことではなかった。一握りのフェミニズムに親和的な人以外にそうした論考が読まれる事はなったからだ。そんな内なる声も、今や大きな問題になっている。フェミニストが本当の権力を振りかざしているからだ。キズナアイやラブライブのポスターへの攻撃、宇崎ちゃんのポスターにまつわる献血ボイコットは、フェミニストの私にとって恥ずべき出来事だった。けれど恐ろしいのは、その暴力的な振る舞いが、フェミニスト界隈に常在する何かと同じ感じがすることだ。それでいいという空気があることだ。ただ驚くしかない。その空気はあっという間に、誰かが大切に育ててきた営みを、無造作に叩き潰すほどに膨張した。ファミリーマートのような主流の大企業ですら、私たちの突きつけた理不尽な圧力に巻き込まれている。今や私たちは、「自分を反乱軍だと思い込んでる帝国軍」なのだ。
だから「日本は未だ後進的な男性社会で、私たちフェミニストはそれに反抗するレジスタンスであり、いつの日か勝利するだろう」みたいな、フェミニスト界隈の通奏低音はすごく違う感じがする。たしかに私たち女性は、かつては家父長制にいじめられたり、大企業に無視されたりしていた。でもそれは、私たちにカネも力も無かった頃の話だ。今や私たちには権力があり、日本の資本主義社会は私たちを標的にするのではなく仲間とみなすのにやぶさかでない。20年前の男性社会は私たちをお茶くみや家庭に押し込めようとしていたけれど、今や私たちが仕事に学術に家庭に多くの選択肢を持つ一方で、文句も言わずに黙々と経済的な後ろ盾になってくれている。
フェミニズムの愛すべき要素の一つに、共感や連帯を大切にするという価値観がある。誰かが泣いている時、証拠や事実検証は、大抵役に立たない。いの一番に、「私もあなたのために怒りたい」と表明し、それを実行しなければ社会は変わらないのだと、痛い目に遭いながら学んできた。これはフェミニズム界隈を通底するルールだ。誰かが被害を表明すれば、ただちに飛んでいって守り合う。客観的なデータに基づく結論は、提示するのに時間がかかるし決まって歯切れが悪い。だからスピードと攻撃力が高い「お前は差別主義者だ。私は傷ついた」と言い切る思い切りが習慣になる。
なのに、フェミニストが自分たちの共感の埒外にある人々へ示す冷酷さには、思わず目を丸くしてしまう。知りうるほとんど全てのフェミニストが、自分より年収の低い男性や、性的魅力に乏しくオタク文化に逃げている(と見なしている)男性を嘲笑し、あるいはそういった言説を窘めもしない。逆に高学歴、高収入な男性や、容姿に優れるなど性的魅力が豊富なタイプは、あらゆるレトリックを用いて養護し、倫理的なお墨付きを与える。収入、学歴、容姿。共感で駆動するフェミニズムは、これら男性のステータスに対してどこまでもプリミティブな接し方をする界隈だ。フェミニズムが世間を席巻し、プレイヤーの絶対数が増えるにつれ状況は悪くなっている。
解決策を知っているというつもりはない。けれどどこかで何かが間違っていると意識することはできる。現に私より若い世代では、女性たちの間ですらフェミニズムへの忌避感が広がっていると感じている。しかし私たち現役フェミニストは、フェミニズムを忌避する女性に対してどんな態度をとってきただろう?ここで口にするのも憚られる、卑劣な言葉を投げつけては、仲間内での連帯を高めてきたのではないか?こう想像するのはおかしな事だろうか――この深く根付いたクソっぷりが、若い世代を遠ざけているのでは?
あたりを見回すと、私たちが育ててきたフェミニズムが、自由への革命から威圧的な権力へと姿を変えたのがわかる。私たちは確かに素晴らしいものを生み出した。けれど私たちは不注意で、普通の人々を傷つけないための安全策を怠った。私たちは不注意で、未来のフェミニストたる多くの若者たちを成長の各段階で追い出してしまった。私たちは不注意で、世界をアップデートしたとき失うものがある人を気にかけなかった。いい目を見る人のことをだけを考えていた。(だいたい自分達のような人々だ。)
古い世代の連中より高潔でありたいと、いつも願っていた。けれど蓋を開けてみれば、力不足ゆえに無害なだけだった。体に染み付いた被害者意識は、私たちがいじめ行為に至る際の非道な言い訳と成り果てた。
だから言いたい。フェミニズムは終わりにしよう。フェミニズムは素晴らしいことを色々してきたけれど、今のフェミニズムは歪んだ復讐心と暴力衝動に駆り立てられる怪物だ。まともな答えは、これを終わらせてもっと良い何かを作り出すことしかない。
もっと良い何かとはどんなものだろう?私たちが攻撃したラブライブには希望を感じる。私たちが巻き込むのに失敗した若い世代の女性をはじめから取り込んでいるからだ。どんな未来が来るにせよ、私たちは良き人物になることを重視する必要がある。今までよりずっと。
弱さへの憎悪と、強いものへの阿諛追従は終わらせなければいけない。これはフェミニズムとあまりにくっつきすぎている。だからこの星からフェミニズムを消し去るしか、確かな方法はないと思う。
かつてのフェミニズムの議論は、表現や言葉遣いに乱暴な面があったが、少なくとも明るく元気があった。田嶋陽子はフェミニストの中でも評価は微妙だろうが、彼女から「元気をもらった」「心の支えだった」という女性は実際にたくさんいた。一男性として納得できない議論や腹の立つ面も多くあったが、反対する人間も含めて発言や表現を活発にさせるような力を与えていたと思う。
しかし今のフェミニズムは、表現や言葉遣いが非常に洗練された一方で、人々の発言や表現を抑制している面がある。個人的には議論の中身自体は古いフェミニズムよりもほとんど同意でき、腹が立つことも皆無なのだが、「じゃあ何か自分も言わせて欲しい」という活力がまったく沸き起こってこない。とくにPCが問題の中心になっているので、言葉は乱暴でも言いたいことを言えばいい、というかつてのフェミニズムの雰囲気はほとんどなくなっている。
たとえて言えば、昔のフェミニズムは教室でそれを語ったらガヤガヤと賑やかにみんなが喋り出すようなものだったのに対して、今のフェミニズムは教室がシーンとしてしまうようなものになっている。「下手なこと言うとジェンダー差別を肯定していると思われる」ことを非常に恐れているからである。
しかし、ネットに蔓延るアンチフェミも、「男女を逆にすれば…」という何の意味もない屁理屈をこね回すばかりで、議論の活性化を明らかに阻害している。kutooの石川優実氏が嫌がらせに耐えかねてネット論壇から撤退したが、「表現の自由」を標榜する彼らが彼女の自由を言論空間を必死に守ろうとした形跡はない。
昔がよかったということではない。でも昔がよかったかな。
(追記)
ちなみにここで言う「今のフェミニスト」の代表が小宮友根氏。書いているものは大変勉強になるんだけど、女性や性的マイノリティの人は小宮氏の本を呼んで逆に気持ちが沈んでしまうかもしれない、と感じることもしばしば。
テレビの中でうるさいブスなオバサンというキャラを演じさせられてただけ。
んで「黙れブス」で笑いものにして終了。で、それを見た男は「いくら女がうるさい事言った所でブスと言えば勝てるんだよなwwww」と認識してた。
とても「言われた方が勝ち」「知性で圧倒し恐れられている」なんて構図ではなかった。
むしろ「男に逆らってうるさい事を言ってテレビでバカにされている事に気づかない頭の悪い女」扱いだった。
(実際は勿論バカにされている事に気づいた上で敢えてやってたんだろうけど。
世に広く顔を売り意見を言える場がテレビしかない時代に、そういうキャラを演じなければテレビに出して貰えない故の割り切りだったんだろう)
今になって「当時は『うるさいブスなオバサン』扱いで、周りの男は皆バカにしてたけど、自分は実は彼女に勇気を貰ってた」
なんていう女性が割と出てきて再評価されてるけど、それは時間が経ったし世の中も変わったから。
本当に頭の良い女は、そもそも男が相手にしないから目立たないんだよ。ああいうのは負けると分かってる相手だと逃げるから。
だからテレビタレントとしては使って貰えないし、ネットタレントとしても成立しない。
豊島区3月議会に立憲・共産・生活ネット・あた党・その他無所属議員によって提出され、自民・公明・都ファと私の反対で否決された「あらゆる性暴力の根絶を目指す決議」ですが、よく読むと田嶋陽子やその他フェミ活動家への批判を今後は封じるような内容になってます。
全国の地方議員さんはご注意を。 pic.twitter.com/KSLQ3Bgipt— くつざわ亮治テレビ改革党豊島区議会議員 (@mk00350) 2020年4月13日
そりゃフェミナチって呼ばれるのも当然だよね。
これに関しては否決されてよかったとしか言えない。
左翼は左翼でリベラルはリベラルでこの様な空気を読まない行動ばかりしているからこそ、一般国民所か元々の支持層からも見放されて、支持率が低下し続け、議席を更に減らすと言う悪循環に陥っている訳だけど。
国政で無理なら地方から規制や思想の押し付けをやるのはこの手の人達のいつもの手口だけど、この緊急時ですらこれをするのだから呆れ果てるよね。
3月と言えばそろそろ日本でも世間が中だるみして油断しているから逆にコロナ禍が悪化するとか言われ出していた時期だし。
それと先日にもこのコロナ禍において、それぞれの国の置かれた事情を考慮せずに男性指導者よりも女性指導者の方が優れていると言う様な典型的な女性優位論を書いた記事を出していたりしたし、この手のフェミニストと呼ばれる思想家は空気を全く読めない人が多いのだろうなと思う。
こんな事ばかりしているから嫌われるのにね。
まあ実際にお気持ちが開示されることはないが、例えば田嶋陽子テンテーとか女性学の学者が天皇皇后になんか表彰されるとかあるかもだし、思考実験として。
やっぱインターネットでは天皇皇后バッシングが起こるんかな。天皇家への敬意とフェミニズムへの憎悪でバグる増田は一度見てみたい
https://blogos.com/article/415097/
「100言いたいことがあるのに1しかいえない。ならば100回出演すればいい」
なんというかすごい。
平成の時代、ある意味ピエロとしてのフェミストという像をテレビを作る側から求められ、それを知った上で自分の言葉が届くべきひとの所に届く事を思いテレビにでつづけた田嶋陽子。
平成の時代が終わり、無論今だに不十分ながらフェミニストの主張は耳を貸すに値すると一般的に思われ、法的社会的にはまだまだながらジェンダー平等が唱えられるようになった。もちろんそのすべてが田嶋陽子の功績だとは言わない
だが田嶋陽子の言葉に救われたという人は男女を問わず多数いるだろうし、どちらかといえばアカデミックもしくは専門的だったフェミニズムやジェンダー論に田嶋陽子を入り口にして尻、救われたという人も多いだろう。
ていうかネットで「田嶋陽子に私は救われた」という人を募ったらそれこそ万、下手すれば数十万レベルでいるんじゃないかな?
ピエロとしての役割しか割り振られていない差別的状況を、それをわかった上で犀の角の様にフェミスト的な言説を広めフェミニストとして振る舞った田嶋陽子は日本における偉大なフェミニストとして名を残すに値するんじゃないかな?