はてなキーワード: 橋本崇載とは
共同親権の認可を盛り込んだ民法改正案の骨子が見えてきてから、共同親権界隈は大揉めだ。柴山・牧原といった共同親権推進派議員達には、いわゆる別居親たちからの非難が殺到し、「騙した」だの「裏切り」だのと不穏な言葉が飛び交っている。
どういうことか。自民が了承し、今国会に提出する予定の民法改正案では、こうした推進派議員が共同親権界隈の後押しを得ながら主張してきた「原則共同親権」が実現しなかったからだ。父母どちらかの単独親権を義務付ける規定はなくなり、父母の協議と合意によって共同親権を選ぶこともできるようになる(選択共同親権)。多くの人にとっては、既存法体系との整合性もある程度保ちつつ、共同・協力して子を監護できる良好な関係の元配偶者達に対しては共同親権への道も開かれた、穏当で合理的に感じられる改正だろう。
ところがどっこい、ネットの共同親権界隈・別居親界隈というのはそういう話が通じる世界ではないのだ。詳しくは別のエントリ(共同親権推進派の界隈、色々すごい)で書いたが、この人達は基本的に「他責・他罰の共同体」である。離婚に到った理由について省みることなく、妻に「出て行け」と行って出て行かれたら「連れ去りだ」と騒ぎ立てたり(棋士の橋本崇載がその典型)、「少し叩いたぐらいでDVとか言い出した」「厳しめにしつけないと女はわからない」「面会交流する気がないなら訴えてやる(←これを妻ではなく子供に向かって言う別居父がいるのだ!)」みたいな有毒な男性性をみんなで承認し合って怪気炎を上げている、そういう界隈だ。
新法案では高葛藤(≒夫妻の関係が壊滅的に悪い)ケースや、DVのおそれがある場合は共同親権の対象から除外される。そして、ネット共同親権界隈というのはこれだけで適用NGになってしまう人達の吹きだまりだ。自分の見立てでは、この人たちの多くが本当に求めているのは、子の監護権そのものというより、「自分を見捨てた/裏切った妻子を見返すこと」であり「失われた男のメンツの回復」である。そして原則共同親権の導入という法改正は、それを労なく自動的に成し遂げてくれる福音のはずだった。しかし現実はそうならなかった。だから「俺たちには何の恩恵もねーじゃねーか! 嘘つき!」とキレ散らかしている。
今回の法改正にあたっては、法務省の要綱原案に対して、より共同親権界隈の主張に近い自民党PT案が出ていたが、基本的な線では法務省案が生かされた形になっている。共同親権に反対する法実務家側にもそこを評価する声が出ている(廃案すべきだと主張してはいるものの、要綱のなかで死守すべき要素は維持されている、という評価)。柴山議員たちは共同親権界隈に向けて、色々なことを口約束して支持を取りつけてきたが、実際の改正案にその多くが盛り込まれず、終わってみれば「真っ当な元夫婦同士なら、離婚後も共同で子育てできるよ」という穏当な落としどころになっている。おそらくこの改正案が可決したら、共同親権に関する法的議論はもう決着だろう。後に残るのは、満たされなかった期待に対して、非難すべき相手を探し求めて彷徨う「他責・他罰の共同体」の怨嗟の吠え声である。そして今のところ、その声は柴山ほか「共同親権推進派議員」に向かいつつある。
https://nordot.app/1054718441474441228
橋本崇載が元妻の実家を襲撃してお縄になったらしい。でも彼にはそれしか選択肢が無かったんだよね。
実際のところ、橋本崇載が悪かったのか、元妻が悪かったのか、私にはわからない。
ただ、確実に言えることは
とか
とかで書かれている通り、現状では、親権などについて日本では女性が著しく有利な司法の仕組みになってるというのは事実なんだよね。
もちろん、これはこれで、日本人の母親による子の連れ去りと国際的な非難の対象になったり、共同親権といったことが取りざたされる程度には、問題視されている。
でも、実際問題、日本では、司法も、一般市民の感覚も、多少ダメな母親であっても、まあ許容しちゃうし、上記のような合理的批判に対して抵抗するフェミニストが一定の地位を確保しちゃってるわけじゃないですか。
そんな中で、橋本崇載が出来ることっていうのは、実力行使しかないんですよね。司法も、社会も、政治も、誰も味方してくれないなら、実力をもって抵抗するしか選択肢はない。
もちろん、実力行使をしたところで先は無い。どうやったって、息子と離れ離れにさせられることは、もはや不可避だ。でも、一矢報いることができれば、それはとても有意義だし、彼が存在し、生きた証明となるでしょう。
彼のこの先の人生は、完全にもうダメになってしまったけど、それは、もう息子を取り上げられた時点でダメになっていたし、もうダメである以上、自らの人を殺害できる能力ぐらいしか、その存在意義を証明する手段は残っていないわけです。
だから、私は彼を支持するよ。
長すぎて読めない:AIの推奨手と解説聞きながら藤井SUGEEE!してればおk
(対象読者:駒が規定の動きに従って取ったり打ったりできるのは知ってるくらい)
かつて、電王戦というイベントがありました。故米長邦雄永世棋聖(ちんこにまつわるエピソードが豊富)の鬼手/奇手として遺ったそのイベントは、プロ将棋界に大きな爪痕を残しました。2013年、コンピューター(当時はAI=人工「知能」とは呼ばれていませんでした)に破れた最初の現役棋士、佐藤慎一五段(ギターと歌がうまい)のブログに多くの中傷コメントが寄せられたことに始まり、その後プロ棋士が泥仕合の末の引き分けを挟みながら連敗すると「コンピューターに負ける棋士達に偉そうに生きていく資格はあるのか?」という問いが投げかけられました。その後はプロ棋士も一時的に巻き返して勝ったり負けたりになりましたが、その勝ち方に対しても「コンピューターに対するハメ手」ではないかという意見が上がるなどしましたし、2016年3月にAlphaGoが囲碁のトップ棋士を破るに至っては、もはや二人零和有限確定完全情報ゲームで人間がAIに勝つのは不可能だろうと考えられました。実際AlphaGoに敗れた棋士は、2019年に「AIに勝つことができない」ことを理由の一つとして引退しています。2017年に佐藤天彦当時名人(ABEMAトーナメントの煽り文句が「おしゃれマスター」なのはひどすぎる)が番勝負を連敗で落とすに至って、「絶対に将棋で人間はAIに勝てない」という合意が形成されていきました。
藤井聡太二冠(初手を指す前にお茶を飲む癖があり、昨日の王位戦にはお~いお茶がスポンサーした)は、そんな2016年末、「プロの将棋棋士とか存在する意味ある?」という疑念がマッハな時代にプロデビューし、2017年度にまたがってあのデビュー後無敗で29連勝とかいう前後不覚、いや空前絶後の記録を打ち立てたのです。藤井二冠の将棋の魅力は色々に語られますし私も以下で色々に語っていきますが、当たり前であるが故にスルーされがちな第一の理由としてシンプルに「強い」ことが挙げられるでしょう。誰しも推しがしょんぼりしている姿は見たくないものですし、そこから逆照射して強い人を推しにするのも自然なことです。藤井二冠の強さは誰しも知るところですが、端的に説明するならば2018年に達成した記録4部門(勝率、勝利数、対局数、連勝数)独占が挙げられるでしょう(なお過去の独占者:内藤國雄、羽生善治、羽生善治、羽生善治、羽生善治)。今回の「二」冠についてもそうですが、レーティングや勝率など将棋についての数字で表せる強さに関しては、ほとんどすべての場合において現状藤井二冠に勝てる人はいないでしょう。そのことは世間に対する「わかりやすくすごい」というアピールに繋がっているのだと思います。駒の動かし方すらわからなくても、何かでデビュー後29連勝するのがとんでもなくすごいことだというのは誰でもわかりますからね。
さて、「数字に関して藤井二冠はすごい」と言いましたが、ではこれが「数字じゃない部分は藤井二冠は大したことない」という皮肉であるのかと言えば、そんなことは全くありません。まあ将棋が勝ち負けのつく勝負事である以上、どうしても「勝てば官軍」的な側面は存在してしまうのですが、それを抜きにしても多くのプロ・アマチュアの意見の一致するところとして「藤井将棋は華がある」というものがあります。
世の中にはプロ棋士に評価されるプロ棋士、されないプロ棋士、というものが実は存在します。その基準は将棋に対するそもそもの姿勢であったり、序盤の構想力であったり、終盤の鮮やかさであったり、あるいは元も子もなく勝率であったり、さまざまです。しかし、羽海野チカ先生(キラキラ系だと思ったら違ってむしろアコガレ側だというのを吉田豪のインタビューで知ってより好きになった)が『3月のライオン』で「信用」という言葉を用いて描いたように、それは確かに存在します。その言葉を借りて言うならば、藤井二冠は今棋界で最も信用を得ている棋士といえるでしょう。その源は何かと問えば5連覇中の詰将棋解答選手権に明らかな終盤力でしょう。「詰まないと思ったけど藤井くんが詰ましに行ったからまさかと思って調べてみたら詰んでた」というエピソードをどれだけのプロ棋士の口から異口同音に聞いたのか数えきれません。昨日も村山慈明七段(兄弟子の飯島栄治七段をトーナメントで負かしたのを忘れて「叡王戦どうされました?」と聞いた)がそれを言ってました。他方で、序盤力で羽生九段(って呼び方違和感あるよね)の若い頃と比較して、「新人の羽生の序盤は荒削りで終盤の豪腕で勝利をもぎとっていたが、藤井はそうではない」と度々評されてきたあたり、「序盤、中盤、終盤、隙の無い」という格言に当てはまる棋士のような気がします。ちなみに藤井二冠はコロナ前後の課題として中盤力を意識的に強化したようです。
さて、ここまで散々凄いことかのように言ってきたのですが、実はプロ好みのプロ棋士というのはさほど珍しくありません。何十人かはいるでしょう。しかし、「プロ好みで」かつ「アマチュアにも好かれる」棋士、しかも勝ちまくっている棋士といえば片手で十分なレベルでしょう。「プロ好み」「勝ちまくり」についてはすでに説明したので、以下では藤井将棋のどのような部分がアマチュア好みであるのかを解説します。アマチュアもまたプロに負けず劣らず基準が多様なのですが、結局は一つです。「オレが観てて面白いか否か」。以下では、その点について昨日の封じ手を中心に論じていきたいと思います。
さて、封じ手です。封じ手とは何でしょうか。大丈夫です。たまに先走っちゃうけど私は「駒の動かし方というものが存在する」レベルの知識の人にも分かるように書いてるつもりです。封じ手とは2日制の棋戦で用いられる作法で、どこかまで指して、じゃまた明日、となっては最後に指してない側の人が一晩考えられてあまりに有利なので、手番の人が誰にも見せず「封じ」て、翌日に開封するということでそれを相殺しようという試みだと私は理解しているのですが、実際は「お前それ同歩の一手やん」みたいな封じ手も多く、謎です。たぶん同歩の先に必然手順があってその先にある分岐を実質的に封じているのだとは思うのですが、封じ手やったことないし全く分かりません!誰か解説して!ともあれ、封じ手(NARUTOとかの技名っぽい)の瞬間にドラマチックなことが起こることはまれです。でもなー、そこで起こすのが藤井二冠なんですよ!
さて、王位戦第4局の封じ手は8七同飛車成でした。これは、一手前に木村王位(自ら将棋の強いおじさんと称するユニークな解説名人の称号は当分は奪われないでしょう)が飛車の前に銀を進め、飛車にお帰り願う手に対するものでした。お帰り願われては仕方ないので、飛車を逃げるだろうというのが大方のプロの見解でした。しかし。藤井挑戦者はここで30分以上の、当たり前の一手があるに場面しては長考を行います。まさか、と解説がざわめきます。飛車を切る手順を考えているのではないか。お帰り願った銀を飛車で食いちぎり、その飛車を金に取らせる手順を考えているのではないか。長考のまま封じ手の時間となった。解説では飛車を切る手順と逃げる手順の比較を行っています。解説の橋本崇載八段(金髪パンチパーマゴリラから一時期太ったがまた巻き返して爽やかになった)は「いやー同飛車成は指せないですね。いや指すには指せますけど。ただ封じ手でしょ?手が震えて紙に書けないですよ」と言う。それほど異色の手なのだ。
同飛車成について私の印象を言わせてもらうならば、「アマチュア5級~3級の人がやりそうな手」です。お帰り願われたんだけど、そのまま言いなりになるのも業腹なので、切ってしまう。飛車と銀の交換で、相手は最強の駒・飛車をどこにでも打てるのに対し、自分は飛車より弱い銀をどこかに打つ権利を得る。普通はそれでは勝てないが、相手が考えてない手を指した結果、相手の陣地は乱れ、時間も使わせることができる。お互いに強くないのでそこからごちゃごちゃっと泥仕合にして最後はなぜか飛車を切った方が勝ってしまう、というのはそのレベルの人たちの将棋ではありがちです。ムカついたからという理由で飛車を切り飛ばし、それで勝ってしまう。こうなると将棋はやめられません。もちろんそれはお互いに棋力が低いから成り立つ無茶で、相手が強くなっていくにつれてそうした手は通らなくなり、みんな普通の手を指すようになります。プロがよく言う「将棋は当たり前の手の積み重ね」「将棋は悪手を最後に指した方が負ける」という格言はそれを物語っています。ある程度強い人同士の将棋では、必殺技みたいなすごくいい手というのはなかなか出てきません。相手もそれを読んで必殺技を出させないようにするわけですから。しかし、です。藤井二冠にそれは当てはまらないようです。今回の同飛車成も、以前に指した数々の「AI越えの鬼手」も、いかにも無茶で派手な、必殺技的な手です。つまり3級~5級の頃にみんな指していて、今はもう出来なくなってしまった手です。将棋は一般に、2級と初段に壁があるといいます。2級になるためにはそうした無茶な手を捨てられるようにならなければならないし、初段になるには詰将棋や定跡を覚えなければならない。そうやって人は昔の無茶苦茶でありながら楽しかった将棋を失い、しかし強さを得ていきます。そうして強くなった人にとって、3級~5級の人の将棋というのは、少年期の懐かしい思い出のように映ります。昔は楽しかったな、でも今はあんな無茶はできないな。しかし、藤井二冠はその少年のような(というか少年なのですが)手を数々の大舞台で指して、そして強敵を破ってしまう。そりゃテンション上がりますよね。
さて、藤井二冠のデビュー前後でAIが棋士の地位を脅かしていたという話をしました。今もネット中継ではAIによる評価値や予想手が画面上に表示された状態で視聴者・解説者は将棋と向き合うことになります。そんな中で生まれた面白い解説の常套句があります。「これは人間には指せない手ですね」。初めてその言葉が使われたのはおそらく第2回電王戦のどこかだと思うのですが、最初のうちは否定的なニュアンスが多分に含まれていました。人間なら一目でもっと上手く指せるのに、コンピューターにはこんな変な手を最善手として示してしまう、と。しかし次第にその言葉は畏怖と諦観を込めて使われるようになります。AIはこの手を最善と示している、確かにそれは正しいのだろう、しかし人間にはそこまで深く読むことが出来ないから指せないのだ、と。現在の棋士はおおむねその諦観を受け入れているように見えます。AI的な最善よりも、人間の身の丈にあった答えを。ほとんど神話か寓話の世界の話ですが、その姿勢は間違っていません。人間が鳥の真似をしたところで、翼を焼かれるだけですから。しかし少数の棋士は、その諦観を受け入れません。その筆頭が藤井二冠でしょう。彼は徹底してAIの感覚を身につけようとし、かつ成功している人間であるように思われます。先ほど述べたように、「コンピューターのような」という言葉が蔑称として使われる時代はもう過ぎました。それは単なる時代的なドグマではなく、すでに述べたとおり実際に「面白い」のです。藤井二冠はきっと、ラジオの時代にポップスターがいたように、テレビの時代にプロレススターがいたように、AIの時代に生まれるべくして生まれた将棋スターなのだろうと思います。
将棋はきっとこの先永遠にAI=神様との比較にさらされ続けます。その中で、我々よりもずっと神様に近い人が諦めてしまう。きっとこの構造は人類史上普遍的なものだと思います。そして、その諦めは決して不幸とイコールではない。そのことは多くのプロ棋士が「コンピューターには指せない」=「人間に特有の」戦法や戦術を用いて証明してくれています。しかし、もし、人間が諦めずほんとうに神様を目指したとしたらどこまで行けるのか。その問いに対して藤井二冠の活躍は答えを出し続けてくれているように思います。私にはできない、あなたにもできない、困難な道を歩むことを彼は決めました。ならばせめて、その後ろ姿をずっと眺めていたいとは思いませんか。私は思います。というか散々述べたように後ろ姿を眺めるのが楽しすぎてやめられない状態にあります。まあ、私は振り飛車党なので実は推し棋士は別にいるんですけどね。
(2021/2/7追記)書きました anond:20210207093448
id:BigHopeClasicです(元増田ではない)
ブコメの中に「10年前はどうだったんだろう」というのがあったので、ちょうど10年前のを同じ基準(レーティングトップ20+A級棋士)で作ってみました。
年齢別の方がわかりやすい面もあるのでそちら基準で(名前の横のカッコ内は順位戦クラスとレーティング順位です)
年齢 | 棋士 |
---|---|
50 | 高橋道雄(A級/31位) |
49 | |
48 | 谷川浩司 (A級/15位) |
47 | |
46 | |
45 | |
44 | |
43 | |
42 | |
41 | |
40 | 佐藤康光(B1/6位) |
39 | 羽生善治(名人/1位)丸山忠久(A級/4位)森内俊之(A級/9位)藤井猛(A級/12位)郷田真隆(A級/14位) |
38 | 深浦康市(B1/7位) |
37 | 木村一基(A級/18位) |
36 | 行方尚史(B1/16位)三浦弘行(A級/17位) |
35 | |
34 | 久保利明(A級/2位) |
33 | |
32 | |
31 | |
30 | 松尾歩(B1/11位) |
29 | 山崎隆之(B1/5位) |
28 | 阿久津主税(B2/13位) |
27 | |
26 | 渡辺明(A級/3位) |
25 | |
24 | |
23 | 広瀬章人(C1/8位)戸辺誠(B2/10位) |
22 | 佐藤天彦(C2/20位) |
21 | |
20 | 豊島将之(C1/19位) |
羽生善治(名人・棋聖・王座:三冠なので不調と半ばマジ気味にネタにされてた時代ですね)/深浦康市(王位:ちょうどこの時期広瀬章人と王位戦を戦い広瀬が初タイトルを獲得します)/渡辺明(竜王:敵なしの6連覇中)/久保利明(棋王・王将)
十七世名人の谷川については多くを語る必要もないですが、50歳でA級を堅持していた高橋道雄については説明を。
昭和55年度(1980年度)は、今とはシステムが違うとはいえ1年度で8人もの棋士が四段に昇段し、かつその中で5名ものタイトルホルダー(高橋道雄、中村修、島朗、南芳一、塚田泰明)を輩出するという将棋史上でも空前のビンテージイヤーとなりました。そこでついた名前が「55年組」です。ただ、彼らとほぼ同じ年齢の谷川浩司は彼らより4年も早くプロ入りしていたためか「谷川浩司と同じ世代」というくくり方にはされることがありませんでした。この辺は「実年齢でくくるのか」「プロ入り年度でくくるのか」というくくり方で「羽生世代」と大きく異る部分ですね(ありていにいえば「くくる側の願望や思惑」が出るところでもあります)。
さて、谷川には及ばないものの17歳18歳で早々に四段昇段した他の4人と比べると、高橋は一歩遅れて20歳で四段昇段となりました。将棋界は面白いもので、このわずかな昇段年齢の差がその後のキャリアで大きな差を生むことが知られていますが、高橋は他の誰よりも早く23歳で初のタイトルを獲得し、そしてやや早枯れの傾向のあった同期たちの中では一人熟年まで力を保ち、48歳でA級に復帰し52歳までA級にとどまりました。「棋界における世代」の一挿話として特筆した次第です。
いやもう、さすがに呆れるしかないですよね、森内こそ順位戦から撤退してフリークラスに転籍しましたが、10年後の表から名前が消えたとはいえ行方はB1にとどまっていますし藤井猛もB2でまだまだ力強さを見せています。この分厚さと力強さが、20歳年下の豊島の世代まで重い蓋になったのがよくわかると思います。
この時点ですでに、松尾・山崎・阿久津(と橋本崇載)の4人は「もう若くないぞ、そろそろ一花咲かせないとあまり時間の余裕がないぞ」と言われ始めていたはずです。とはいえ、この4人でタイトル獲得どころか挑戦に届いたのさえ山崎1人、A級昇級すらままならないことになるとはまださすがに予測されていませんでした(松尾と山崎はA級に上がれず、橋本は1回、阿久津は2回昇級したもののすべて1年でB1に送り返されています)。それでも山ちゃんを諦めない。
上記の通り、この年のこの直後に広瀬が初タイトルを獲得するのですが、その翌年羽生に奪い取られてしまいます(なお「魂を抜かれた」のはさらにその4年後になります)。
もちろん天彦、豊島は渡辺に続く新鋭としてひとかたならぬ期待はありましたけど、初タイトルはともに28歳のときでした。広瀬も含め30歳手前で「実力と実績の均衡が取れて充実の盛りを迎えた」のですが、特に豊島についてはそれでも「遅れてしまった」感はあります。
というわけで、10年前にさかのぼってみると、「渡辺の孤独」により見えてくる部分があるのではないでしょうか。というかむしろ「谷川浩司の孤独」のほうが浮かんでしまうのかもしれないなこれ、とここまで書いて思いました。
期待していざ読み始めたらビックリしたよ。
・人と会話するときすぐに返答が出来ない
・極端に視野が狭く目の前にある問題に意識が100%向いてしまう
・工夫しない事を真面目と錯覚してそのせいで失敗しても拗ねるだけ
完全に発達障害なの。
吐き気がしたね。
漫画の主人公がある種病的なオタクであってそれが才能として扱われる作品が沢山あるのは知ってる。
でも明らかに発達障害持ってる人間を主人公にしてそれを話作りの種にするなんて悪趣味なのは見たことがない。
どうせ作者は「アスペって集中力すげーらしーなwwwwwこれ漫画のネタになるわwwwww」とか思って描いたんだろうな。
何でも漫画のネタにするのは漫画家の悪い癖と知ってたけど、天下のジャンプがこんな後味の悪い新連載をやるなんて思いもしなかったわ。
なんであの大道詰将棋(香車1歩4のアレ)をネタにして初心者がいきなり銀で中合い出来ちゃってんだよ。
「報われない努力はない!!!君の頑張りは無駄じゃなかった!!!」とか言っておいて単に将棋の天才だったってだけの話じゃん。
「アスペでもさwwww天才なら報われるよねwwwww天才は障害あっても最強だもんwwww」っていう作者の安い考えが透けて見えて腹立ってくるわ。
id:essaさんのエントリーにあるように、竜王戦(羽生vs渡辺明)がいま盛り上がってるのね。
流れを簡単にまとると、
→いつもは旦那に対して辛辣or無関心(を装ってる?)な渡辺夫人がブログ上で異例の励ましメッセージ
「めぐみが流れ変えたん?」
このワクテカを増田のみんな(15人くらい?)で分かち合いたいと思って、
将棋を知らない増田のために、わかりやすく棋士をドラゴンボールで例えてみたんだけど……
逆にわかりにくいかな。
梅田望夫 = ヤジロベーで雰囲気だけ掴んでもらえたらと思う。