はてなキーワード: ナッシュ均衡とは
全員がそうとは言わないけど、世の中には一定数、そういう傾向の強い人がいるのを覚えておいた方がいいと思う。
パワハラが話題になった頃によく見たけど、部下の提案がいつの間にか管理職の意見になる、研究室の成果がすべて教授の物になる、創作界隈では徒弟制度があれば昔から耳にする話。
心理としては何も考えてない、って言うのが正しくて、親が子供に「エライエライ、よく考え付いたわねー」程度の感覚だと思う。片付け方や料理のお飾りなんかを考えると分かりやすいけど、子供が自分の考えた新しい収納法や盛り付けに権利を主張して親に見返りを求めないように、親はそれをマネしているという感覚を持たない。
だからこれは、心理というより反応に近い気がする。同じように感じた意見を見てそれを自分なりの言葉で書き換えるのは、共感を表すと同時に反発なのかもしれない。現実でもよく注意していると、何かを理解する時に他人の言い掛けた言葉や言った事を遮って、自分の言葉で言い換える人はとても多くて、誰が言った事になるかは場の力関係で決まっているように思う。ネットではタイムスタンプと表示順があるから分かりやすいけど、よくよく考えてみると似たような話や発想の元になった出来事はどこかにあって、それが文章でも音声でも一切なかったら、実は反応を返せないのが人間なんじゃないかな、とも思う。
問い掛けみたいな悪意の反復もあるかもしれないけど、人付き合いの経験から言って、誰かと同じ事を繰り返す人はこれが一番多い。
それから次が、意味をかみ砕いて自分なりの言葉で言い換える事で、理解を深めている場合。これが共感になるかどうかは、他の人の評価に大きく影響を受けるんじゃないかな。
戦略決定とか価格決定とか言うと、部課長級に説明を求められたりする。
本来はggrksとか言いたいところだろうが、言えないのが宮仕えの辛いところだ。
理解してこいよとも言えない。理解できない方は大抵立場が上で、説明できない方のボーナスが減らされる。
「均衡」は、基本的には、ガッチリハマっている状態を示している。
参加者が選択肢を変更すると今より悪くなるので、変更する理由がない状態。
最適な資源配分とは違う点に注意。全体100万円を、老人80万円、子供20万円で分けた「後」の状態はパレート効率的。
(社会の資源配分問題でよく使うので「パレート最適」という単語を嫌う人もいる。最適配分を示さないから。これ豆な)
需要と供給が大きく動かないでハマっている状態。「需要と供給で価格が決まる」だな。
ある1つに注目すると、部分均衡。市場全体の全部コミコミだと、一般均衡。
フランス人のレオン・ワルラスさんが1874~1877に書いた本に載ってる、一般均衡(general equilibrium)理論のこと。
いやー、ナッシュ均衡は、戦略的意思決定の学問であるゲーム理論(Game theory)の非協力ゲームを解いた時に出てくる「答え(解)」の状態を示す単語ッス。
協力しちゃダメッスよ?んで、他の「選択肢」を取るメリットがなくなった状態を言うッス。
パレート効率的とかも聞くッスけど、誰も損せずにもっと良い改善方法が無い時の事ッス。
ワルラス均衡は、経済学の話ッスね。需要と供給で価格が決まるって話ッス。
同じ「均衡」って単語で僕なんかは間違えそうになるッスけど、全然違う話なんで同じ式の中に入れちゃダメッス。
経済学の価格調整モデルの話で、フツーは戦略的な意思決定の選択肢をどうするみたいな話は出てこないッス。
ヤマダ安 | ヤマダ高 | |
ビック安 | ビック売れる,ヤマダ売れる | ビック売れる,ヤマダ売れない |
ビック高 | ビック売れない,ヤマダ売れる | ビック売れない,ヤマダ売れない |
ヤマダとビックで、売れたほうが儲かる(利得が大きい)時は、当然ヤマダもビックも値下げするッス。
まあ、ナッシュ均衡と言えなくも無いッスけど……あんま言わないッスね。
「じゃあ、目からウロコ!囚人のジレンマって経済にも繋がる話だったのか! - 嗚呼、学習の日々のナッシュ均衡というのは?」
ワルラスの均衡は、需要が多くて供給が少ないなら価格は上がる、需要が少なくて供給が多いなら価格が下がる、結果需給が吊り合って価格が安定した状態のことッス。
「店が意味もなく価格を下げたら、他の店も下げざるを得ない」とか無いッス。
先の例だと、TVを普段から100円でヤマダが売り出したら他の店も100円で売るとか無いッス。
ナッシュ均衡は、選択肢がどんづまって他の選択肢を取ると損する状態を言うので、さっきの例とは関係無いッスね。
(ヤマダが100円で利益が出るならヤマダが市場を寡占するというのは、違うモデルの話でワルラス的調整過程の話では無いッスね)
少なくとも、囚人のジレンマから出す話じゃないッス。超時空の飛躍ッスね。リン・ミンメイッス。
囚人A協調 | 囚人A裏切り | |
囚人B協調 | 2,2 | 0, 10 |
囚人B裏切り | 10, 0 | 5, 5 |
数字は懲役でA,Bの順番ッス。懲役は少ない方が利得が大きいッスね。
囚人Aは、囚人Bがどちらの選択肢をとっても、常に裏切るのが利得が大きくなるッス。
他の選択肢を取ると損をする、これが全部のプレイヤー(囚人A,B)で決定できると、ナッシュ均衡ッス。
そこがミソッス。
ご指摘の通り、両方協調なら、両方裏切りより「どちらも損せずに、改善できる」状態ッスね。
つまり、両方裏切りのナッシュ均衡は、パレート改善できる状態にあるので、パレート効率的ではないッス。
こういう、自分の利益だけを考えて最適な選択をする状態(他の選択は損する状態)が、全体としては効率的では無いのが、ジレンマって呼ばれる理由ッス。
それだけの話ッス。
でも、ワリとこういう、利得の表を作ると両方が得する選択肢の組み合わせはあるのに、その選択肢は選べない状態(ナッシュ均衡で、パレート効率的では無い)は存在するッスよ。
うーん。あんまワルラス均衡って言わない気がするんだけども。((※1))
あ、用語の定義と、その用語が良く使われる場面と、ある場面を説明するモデルとで、全部違うから混ぜないように注意したい。
3番のモデル適用は即一般化はできないし、2番のよく使われる場面を定義に入れてはいかん。
勝手に話を補完したり飛躍したりするのもダメなんだけど、まあアレだ。はてなだし。
需要と供給で価格が決まるよね、というアダム・スミスさんの仮説。
個人の利益追求で、市場が適切な状態に落ち着くよね、というわりと哲学的な話。
需要と供給に合わせて価格が変動して、結果需要と供給は落ち着くよね、というヤツ。
(需給が均衡することをワルラス安定、均衡しないことをワルラス不安定と呼ぶぞ)
需要(欲しい/欲しくない)は即反応できるけど、供給(作る/作らない)は対応時間かかるじゃん?というヤツ。
なので、需要の変更と価格の変更は即座に動くけど、価格を見て供給が動くのは遅れる。
異なるモデルを、一緒くたに適用することは、フツーは出来ない。もちろんできるものもあるけど。
例えば、Cournot competition(クールノー競争)の均衡点は、「供給を絞れば価格が上がる」→「価格が高いから生産すれば儲かる」→「いっぱい生産したから価格が下る」を延々と繰り返せば「生産量と価格が均衡する」って話で、ワルラス的調整過程の「一部分」の説明であって、違う話。
で、全く同じ生産量と価格との関係のモデルで「価格を変える」とBertrand competition(ベルトラン競争)というモデルになって、こっちは「一番低い価格をつけた企業が全ての需要をゲットするので、価格は限界費用に一致する(最安値が市場を占めるから、一番安くなる)」というモデル。
経済学におけるモデルは、現状をどちらが上手く説明できるかのモデルであって、別にどっちが正しいとかそういう話では無い。所詮単純化したモデルだし。
ナタデココ生産量決定におけるベストチョイスは決定できる「だから」ナタデココ価格は市場参加者全員のベストチョイス、とかは言えないかな。(結果的に合っていても、証明過程に飛躍があれば説明したとは言えない)
「除草剤耐性穀物種子におけるクルーノー競争のナッシュ均衡との乖離から見る不完全競争推定」とかそういう使い方するかな。
(ミクロ経済学のオススメ本は……結局思想の話になって荒れるんだよね……ブコメでどうぞ)
http://anond.hatelabo.jp/20151116001112
((※1:この増田では、ワルラス均衡を一つしか財が存在しない仮定で説明している。ミクロ経済学でやる時は、一般均衡になるので、全ての財が均衡するときの話として聞いとかないと単位は貰えない。ワルラス均衡という場合は、全ての市場の価格と、全ての需要とペアで示す事が一般的。とは言え、大抵2人と2つの財で説明するんだけどね))
元増田(id:blueboy氏?)の追記に各個反論するのが大変になってきたので、個人的に重要(論じる価値のある)と思う2点のみ絞って記す。
認めないのであれば、元増田は違う惑星のゲーム論やナッシュ均衡について話していたのだろう。
選択肢の数が無限であるようなゲームなんかいくらでもあるじゃないか。
id:blueboy氏の頭の中ではホテリングゲームやクールノーゲームは存在しないことになっているのだろうか?
あるいはひょっとして、ナッシュ均衡定理(有限混合戦略ゲームにはナッシュ均衡が存在する)を誤って理解しているのかもしれない。
ナッシュ均衡定理はナッシュ均衡が存在する十分条件を述べたに過ぎず、有限ゲームでなくともナッシュ均衡は存在し得る。
また競争市場においてプレイヤーは価格に影響を与えないと言っているが、だからこそ生産数量が戦略だ、と俺は言ったのだ。
もっとも価格競争が行われるようなモデルも想定可能であり(ベルトラン競争)、
※ 最後に「訂正」あり。
この二つが話題になっていた。
元ページ
http://hatena.aaafrog.com/entry/2015/11/14/104818
http://hatena.aaafrog.com/entry/2015/11/15/142831
http://b.hatena.ne.jp/entry/hatena.aaafrog.com/entry/2015/11/14/104818
http://b.hatena.ne.jp/entry/hatena.aaafrog.com/entry/2015/11/15/142831
ナッシュ均衡は、理系の概念なので、理解している人が多いようだ。ここでは特に解説しないが、次の点を理解しよう。
一方、ワルラス均衡は、文系の概念なので、理解してない人が多いようだ。次のページでちゃんと勉強してほしい。(簡単だ。中学で習ったはずだ。)
http://chu.benesse.co.jp/qat/3519_s.html
http://homepage1.nifty.com/gujyo-economic-res/micro.files/w-antei.htm
ここでは、次の点を理解しよう。
ここで、元のページに戻ろう。
これは、明らかにワルラス均衡だ。どこでも普通に見られる現象である。「それ以上下げられないところ」とは、「それ以上下げられない価格」のことだ。こうして価格が一定の水準に安定するのは、前述のワルラス均衡そのものだ。(ワルラス的調整過程という。)
※ このことを理解できなければ、上の中学生向けのページを読んでほしい。
具体的な例で示そう。
たとえば、イオンは徹底的に価格を下げるので、利益率が1%ぐらいになる。これよる高くしてもいいのだが、そうすると、客が逃げるので、価格を下げざるを得ない。「これ以上下げたら利益がゼロ同然になって困るから、これ以上は下げようがない」という水準が「利益率 1%」という水準であるわけだ。
一方、セブンイレブンは、価格をあまり下げなくても、客が来る。利益率が 10%ぐらいになる。「これ以上下げたら儲けが減って悔しいから、下げてたまるか」という水準が「利益率 10%」という水準であるわけだ。
どっちにしても、ある程度まで、価格が下がる。これはワルラス的調整過程だ。
一方、全員でカルテルまたは談合をすれば、大幅に高値に設定することができる。普通の市場でのカルテルは困難だが、官庁の入札では、参加者が少数だから、談合によって大幅に高値を設定できる。
このような高値設定は、連続的に到達できる点ではなく、懸け離れた特異点である。したがって、談合による価格は、「ナッシュ均衡」と見なせる。ここでは、戦略によって、特異点に移行するわけだ。
以上によって、説明ができたことになる。
経済学の理論と、ゲーム理論とは、まったく別のことなので、きちんと区別しよう。
特に、中学で習ったはずの「需給曲線」については、きちんと理解しよう。これは決してナッシュ均衡と対比されるようなものではなく、ナッシュ均衡とは全然無関係で別の話だ。
ブコメで、「ゲーム理論と経済学を区別する必要性は感じない」というのがあったが、それは、「戦略と、価格・数量を区別する必要はない」というのと同じで、狂人の発想だ。
例。
社員 「この新製品の価格と数量は、どのくらいが見込めますか? 10万円で 1000台ぐらいでしょうか? もっと安くして、数量を多くしましょうか?」
社長 「ナッシュ均衡になるように、カルテルを結ぼう。それが正しい戦略だ」
これじゃ、会話にならないし、論理にもならない。気違いの錯乱論理だ。
────────
ワルラス均衡は企業と消費者をプレイヤー、生産計画と消費計画を戦略集合、利潤と効用を利得とするゲームのナッシュ均衡に過ぎない
そんな発想では、プレイヤーの数が無限になり、選択肢の数も無限となり、意味不明になる、という矛盾はさておき。
ナッシュ均衡で得られるのは「戦略の均衡」であり、ワルラス均衡で得られるのは「価格と数量の均衡である」という点を理解できてないね。中学校の教科書を学び直すといい。
なお、「価格と数量は、戦略の一種だ」と思う人もいるかもしれないが、違う。戦略は、個々のプレイヤーレベルで決まるのであり、いくらでも個別に戦略の変更は可能だ。一方、市場の価格と数量は、市場の全体によって決まるのであって、個別のプレイヤーレベルでは決定できない。たとえば、どこかの誰かが、特別に高い価格を戦略的に決定しても、その価格は、市場の価格には影響せず、市場外の価格となるだけだ。
どうも、上記見解の人は、ゲーム理論ばかりを見て、経済学の知識が中学生ほどもないようだ。まずは、中学校の教科書を理解するべき。「市場原理とは何か」「需給曲線とは何か」を理解するべき。それがわかっていないから、すべてを個別のプレイヤー理論で解釈しようとする。
トラバにも、同じ誤解が見られる。
市場価格というのは、個別企業の問題ではなく、市場全体によって決まる、ということを理解できていない。市場価格というのは、経済学の問題であって、ゲーム理論の問題ではない、ということを理解できていない。比喩的に言えば、「個人がどうするべきか」ということだけを考えていて、「国レベルでどうなるか」ということを理解できていない。マクロ的な認識ができていない。
しかしまあ、はてなーというのは、ゲーム理論の知識だけはたっぷりとあるということは、よくわかったよ。あと、文系の知識は、中学生レベルほどの知識もない、ということも、よくわかったよ。
────────
通常2名というのはただの思い込み
実は、ここでいう2名とは、「自己」と「他者」のことである。「他者」は複数でもいいが、一貫して「1名」と同じふるまいをすることが必要となる。
たとえば、カルテルは、「他者」が1名として同じ行動を取ることが要請される。仮に、「他者」が分裂して、複数の行動を取るなら、カルテルは成立しなくなる。「カルテル破り」が出て、カルテルが崩壊するからだ。
この意味で、通常2名という単純化(モデル化)が、ゲーム理論では必要となる。一種の前提のようなものだ。
──────
市場の価格決定は、市場によって決まる。個別企業の選択肢は、市場の価格決定には影響しない。
たとえば、市場価格が 100円であるときに、120円という価格で販売しても、それは、市場には影響しない。その企業がそういう戦略を取ることは可能だが、それは市場価格には影響しない。市場価格は、ワルラス均衡によって決まるのであって、個別企業の戦略によっては決まらない。120円という価格で出した企業は、取引が成立しないので、市場外となるだけだ。
ここで論じているのは、市場価格であって、企業の戦略ではないのだ。
話題となっているのは、プレイヤーの戦略ではなくて、(市場における)価格決定の過程だ、という点を理解するべきだ。(企業における)価格決定の戦略は無関係だ。企業の価格決定は、決して均衡しない。どのような価格決定もできる。100円でも 120円でも、好き勝手に値付けできる。しかし、市場における価格は、決定される。それが均衡点だ。
ごめん。「ナッシュ均衡」という用語の意味をよく理解してなかった。
この用語は、私が理解していたよりももっと広くて、一般的な「均衡」のことを意味していた。
私は「パレート最適」でない場合のことだけだと思っていたが、「パレート最適」である場合を含んでいた。この点は用語を勘違いしていたので、お詫びして訂正します。
ただし、「パレート最適」である例を「ナッシュ均衡」という用語で説明することは、ほとんどない。「パレート最適」である均衡は、昔からずっと知られていたし、ナッシュが発見したり解明したりしたわけではない。市場における価格均衡も、ナッシュ以前からずっと知られていたし、ワルラスが解明していた。
したがって、市場における価格均衡を「ナッシュ均衡」と呼ぶことは、間違いではないにせよ、適切ではない。また、ナッシュ均衡の例を示すために、市場における価格均衡を持ち出すことも、適切でない。
市場における価格均衡を説明するには、「ナッシュ均衡」ではなく「ワルラス均衡」または「マーシャル均衡」という概念を出すのが適切だ。
また、ナッシュ均衡の例を示すのならば、市場における価格均衡を持ち出すのは、間違いではなくとも不適切であり、囚人のジレンマのような例を持ち出すのが適切だ。
私がこれまで「間違い」と指摘してきたことは、「間違い」と言うより「不適切」と呼ぶべきだった。この点は、お詫びして修正します。
参考:
「じゃ、どうすりゃいいのよ」
という質問には、こう答える。
「市場における価格均衡を説明するには、中学生の教科書のような図で説明するのが最適であり、ナッシュ均衡を持ち出すのは過剰である。ナッシュ均衡を持ち出すのはは、紙を切るのに日本刀を持ち出すようなもので、中学生が基本概念を理解するには重武装過ぎて、不適切。元の話の例では、ナッシュ均衡という概念は、一切必要ない。(間違いとは言わないが。)」
たとえば、「80%で資産2倍 20%で資産ゼロ」 という勝負があったとする。やるだろうか?一見して得に思われる。
少し考えればわかるのだが、
「1回やって生き残るのは80人」
「2回やって生き残るのは64人」
「3回やって生き残るのは52人」
とやっていくと
「20回やって生き残るのは1人」
となる。
長く続ければ続けるほど死亡率が上がっていく。
ギャンブルなどをやったことがある人は、『期待値プラスならば長い目で見れば稼げる』という言葉を聞いたことがあるだろう。
先ほどの「80%勝ゲーム」で考える場合、最初10万円持っているとすると。
勝場合 10万円×80%=8万円 負ける場合 -10万円×20%=-2万円
この2つの合計が、 8万円-2万円=+6万円 となるが、こういう風に、「確率をかけたもの同士を足したもの(期待値)がプラスならばその勝負は得だ」という理屈である。
これがプラスならば、長い目で見れば勝てるとほとんどのギャンブラーは考えている。
だが、あからさまなんだけど、こういう期待値プラスだからと言っても、『長く続ければ99%が破産する』というのは数学的な事実である。
先ほどは、10万円あるうちの全部を投資したのだけれど、こんどは、1000円だけ投資することにしてみよう。
「80%の確率で1000円が2倍 20%の確率で1000円が0円」
これならば、延々続けていけば資産は増えていくだろうなというのは想像できると思う。
つまり、期待値プラスを本当に利益に変えるためには、「勝率にたいして資産のどれくらいの量を賭ければいいのか?」というのが大事になる。
そう、だからこそ、相場の本では『資産のマックス2%まで、1%でもよい』という賭け方を推奨している。
だが、ここにも実は落とし穴がある。
「80%の勝率」なんてそうそう無いけど、「55%の勝率」はそこそこある。
だから、「80%の勝率」を待つのが嫌だから、皆、資金の1%を「55%の勝率」に使おうとする。 だけど、55%の勝率にたいして1%の資金をかける勝負は実はギリギリである。
でも勝てるんでしょ?と思うかもしれないが、残念ながら穴がある。
1週間の相場の中で、「80%の勝率」なんてのは1回あるかないかだ。 「70%の勝率」でも5回だろうか。 「60%の勝率」は20回くらいはある。 「55%の勝率」なら100回くらいはある。
ここで問題になるのが、「資金の1%を55%以上の勝率でかける人」がいた場合、彼は1週間に 126回取引をすることになるのだが、彼ははたして「80%の勝負のうまみ」をゲットできているだろうか?
126回中100回は55%の勝負をしているので、彼は実質「55%の勝負だけをしているのとほぼ変わらない資産増加率」しかできない。当然ながら破産率も55%勝率の勝負に引っ張られていく。
他の人で、「資金の2%を勝率70%以上の勝率でかける」人というのは、1週間に6回しか勝負ができないが、安定的に資産が増えていく。
結局、後者の方が破産率は少ないのだけれど、人というのはどうしても待てないし、『目の前に期待値がプラスの勝負があるのにこれを逃すなんてありえない!』となってしまう。
「相場の大勢がはってる方に相場が動くのならば、プロも素人も同じじゃん?」と思う人がいるかもしれない。
だけど、プロは相場の動く方向にはるだけでなく、「同じ方向に張ってるんだけど資金管理をミスっている人(期待値プラスだけどやればやるほど破産率が上がる人)」たちからも利益を得ている。
なぜなら、プロは資産の1%しか賭けていないからドンドン増えていくけど。 資産の5%とか賭けている人は長く続けるほど破産するからだ。
長く勝負を続けて、プロは『同じ方向に張っている人たちから金をかすめ取る』ことができる。(具体的には損切りできるできないの差=損切りでの資産のリスクを1%なりに抑えられる投資にする)
よく、『相場平均の上昇より稼げてないなら雑魚じゃん』みたいなことを言う人がいるが、これは間違っている。平均が上がる理由は、『破産率をかけまくって期待値ばかり得ている雑魚がいるから』であり、プロは上昇より少ない額しか稼げないのは当たり前なのだ。
景気が悪い時というのは、「相場が動きにくくなる」ので、「勝率80%が消えてしまう」ことになる。そして、「勝率60%の勝負」が飛躍的に増える。
そうなるとどうなるのか? 破産率が段違いに上がってしまう。 プロも賭ける資金量を相当下げないと危なくなってしまう。
はっきりいって、「相場が上がるとか下がるとか」がわかるだけでは勝てない。
①「適切な額の資金を賭ける」
③「損切りの時に資産の1~2%だけしか損しないようにする(5%なんて損してたらほぼ破産すると思って間違いない)」
だけど、それで勝てるのは『本当に雑魚な人相手』の時だけであり、それより↑の勝負になって彼らが行き詰るのは目に見えているからだ。
ここに書いた理屈は、あまり公にはなっていないんだけど、覚悟したほうがいい。
ここに示したような数学は数学的には理解できても、「ギャンブルに適用する」となると明確には語れない部分だからだ。
明確に数字や手法やテクニックに還元できず、かなり感覚や才能によって決まってしまう部分なので、半端なやり方では身につかない。身に着ける方法やトレーニングも現在確立されていない。
現状、ギャンブルの必勝法はほとんどが、『期待値』なり『機械化』なんだけど。
ここで示した破産率(サンクトペテルブルグのパラドックス)以外にも、
『強者はそもそもが勝負に参加するときに期待値が回りより高いのだから、勝負の最初の方はほかの人たちよりリスクを多くとるべき(後半逆転する可能性が高いので、最初のほうでナッシュ均衡の手法を取るべきでない)』
とか、ほんと色々ある。しかもたいていは数学的なことは語れても、手法では適用しにくいものばかりだ。こういうことを言うとおかしいと思うかもしれないが、『才能、適正』が相当レベルでものをいうのがギャンブルになっている。
そういうことを理解してギャンブルをするのならいいのですが、理解せずにプロになろうとする若者が多すぎる。
「ファンダメンタルだけでは勝てないから、テクニカルで勝という流れにもう何十年も前からなっている」
「現在の相場は、テクニカルでオッズをはじき出してやるのが勝ち組と言われている」
ナッシュ均衡は崩れてない。ナッシュ均衡に達してるからそうなってる。
個人としてぶら下がりをやめたとしても、みんなが一斉にやめない限り凋落のスピードは遅くならないし、
皆が一斉にやめるなんてほぼあり得ないわけで、だったら個人としてはぶら下がってた方が合理的だというだけ。
それがナッシュ均衡。
「ドボン」がいつくるかは分からないわけで、それが30年後だったら、30年後までに定年になりそうな世代はぶら下がっといた方が明らかに得。
なんでリーマンショック(いや別にリーマンが潰れたこと自体は本当はどうでもいい)が起こったかとかも勘違いしてそうだな。
あれは誰もが「予想できなかった」からじゃない。「みんな分かってた」けど、個人としては「ギリギリまで稼いでドボンの前に逃げる」方がずっと得だとみんな考えてたから。
実際にそれで逃げ切って大儲けした人もいっぱいいるわけ。
あ、で話は最初に戻るけど
みんなで、ソッチの方が期待値高いよねー みたいな話になった結果 ナッシュ均衡?みたいなものが崩れて、一大凋落になって
結構 リストラのスピード早まってね? 結果 JALもいったし。 ドボンつーわけじゃないけど、 ダメなときは一気にだめになるジェットコースターのリスクが潜んでるよね。
で、当然のように 最初書いたとおり 企画力とか落ち込んで ダメになって。
話まとめると ようするに 望んでそうなってるんだよね? いくらなんでも 望んで凋落のスピードはやめなくてもいいだろうにと。
ちょっと言いすぎてるところもあるけど、わりとそんな感じ。
レスが遅れてすいません。
ううむ。理系と文系の対立みたいな残念な方向に流れてきてしまいました。仕掛けたのは私のほうかもしれませんが。
京都弁?なのは一向にかまいませんが、大元の記事よりもレトリックが雑になってきているようです。
最初はそれなりにいい線いっていたのに、ここにきてもう投げやりというか、反論のための反論というか、急速に劣化ウランしてます。
オウム真理教の信者は人間。燃料棒はモノです。人間相手なら断罪するのは慎重さが必要だと思いますが、燃料棒相手にそこまで遠慮する必要はないでしょう。あそこで遠慮したことで、「メルトダウン隠蔽説」の発生という大損をしたわけです。これは表現の細部の問題で、後でいいますが、こういうのが信頼を作りだすにあたって重要なんです。
(本論と直接関係ありませんがオウム事件のくだり「化学薬品が大量に見つかった時点でもうほぼ真っ黒」という発言は気になりますね。そうやって河野さん一家も冤罪で酷い目に遭いました。人間相手にはくれぐれも慎重に頼みますよ。モノ相手はバッサリやっちゃってください。)
反原発派が物理的限界を超えて放射能が拡散する可能性を語ったせいで「だまされた」ことを批判されていましたが、今度は、逆に、物理的限界を超えて炉心の水位が保持されなかったことについては、裏付けが取れるまで断定しないことを良とする。せっかく「物理的限界」についてのあなたのロジックをもとに議論を展開しているのにスルッとかわされてしましました。なんともやりきれません。
「あいつらの中に悪い奴おるんちゃうか、だからあいつら悪い奴や」とは言っていません。「推進派が嘘をつきましたか?否。」と言いきるのは極端ということです。この点はあまり突っ込みたくなかったので、控えめに「かもしれない」で終わらせたつもりですが、もっとハッキリ言わせていただくならば、九電が今回やったことっていうのも、ウソじゃないんですか。流通していないから大丈夫って、今になってセシウム基準値オーバーの牛だって流通したことが出てきたじゃないですか。あれもウソじゃないんですか。と言いたい。それが意図的かどうかとか、実害があるないかないかは関係ないんですよ。あの船場吉兆だって、あんなの食っても到底死にませんよ。でも信頼失ったらオワコンになるんです。信頼というのはそういうもんです。推進派は、そこがまるでわかっていないんです。かわいそうなくらい。だから原発を自動車と比較したり、死者の数を出して、どうだ安全だろといったりするんです。ずっとこの調子なんですから。そんな議論で到底信頼は得られませんよ。
誤解のないように言っておきますが、わたしは原子力だけを特別扱いしているわけではありません。たとえば、メキシコ湾を汚染した油田だってああいう事故起こすのは許されません。自動車だって、免許は持っていますが、自分は下手くそなので(制御できる自信がないので)運転はしません。
広瀬隆の著作が「だまされようがありません」というのは、(あなたレベルなら)だまされようがないということです。
まあ、一読をお勧めしますね。賛否はともかく、それなりに楽しめると思いますから。私にしても全部同意するほど無批判な読み方はしていません。
「原子炉時限爆弾」の冒頭で出てくるのは、1960年、政府が原発事故の影響を試算したの極秘文書で、これが日本列島をすっぽり覆う被害予想になっているんですが、これなんか、あなたをミスリードしたナイーブ系反原発派をミスリードしたのは実は政府そのものというネスト構造だったのではないかと思えてきますよ。原発の「安全神話」もその崩壊も、推進派と反対派の弁証法じゃあないでしょうか。
まあ、私が極端な「理系」コンプレックス濃厚なのはご覧の通りですが、私にこんなにもコンプレックスを与えている、あなたを含む「理系」エリートは凄くあってくれなくては困るわけで、それが凄くないもんだから、もうプンプンですよ。上から目線などとんでもない。どんなにパニクっても、おが屑突っ込むみたいな無意味なことを弁護するのはやめてほしい気持ちでいっぱいです。あと、文系の連中ごときに手足縛られて、安全対策ができないっていうのなら、団結して職場放棄しろといいたい。「理系」には、モノを握っているという、そういう力が有るはずです。そういうのが「理系」の良心でしょう。原子力を制御できても、文系のアホ連中は制御できないって情けない話じゃないですか。
その2極の間の無数の中間。
結局、ナッシュ均衡で決まるんじゃないでしょうか。
いや、統計的なモデルを用いた説明 じゃなくて、 統計的なモデルを用いた再現性だから。
経済学って、十分な母数で十分な試行回数って出来ないだろ。 経済そのもののスパンが数年 それを10回統計やったら30年近く過ぎることになるが、
30年過ぎたら、もう、経済の母体が変わってるだろ。だから、統計的なデーターが取れないだろ。
そうは言っても、地震の観測などと同じで、もともと、天気予報も地震予報も当たらないものだったが、いまは、昔よりは正確になっている。というのを非科学的と言えないように。
経済学のモデルが、酷いかどうかは別として、今の予報確率が低かったとしても、それは、統計の母集団が荒いからであって、別段非科学的ではないだろ。
いちおう、オカルトというよりは、マシな母集団と、論理的な導出にはなっているはず。
あと、どっちかというと、分野的には、ナッシュ均衡のような論理的導出(論理的な再現性)の分野で、統計的じゃないしな。分野が。
というか、もっとぶっちゃけて言えば、決まったフォーマットで論文を提出できて、権威ある機関の査読が通れば科学的。というのが、いわゆる科学的で。
その時の要件が、おおよそ。論理的な導出が出来るか、その分野の決まった条件を満たせる統計データを出せるか?だから。だいたい、これでいいと思うけど。
明確にコレというより、合議で決まってる面もあるしね。
それを実行すると首を切った奴自身も同じように首を切られるリスクが発生するから、結局何も行動しないというナッシュ均衡になってるってことじゃねえの?
何か変なナッシュ均衡にハマってるとかそんな感じじゃないかなあ。
いや別に賢くなったわけじゃないと思うぞ。
中古とか、ショップメイドとか、そういうイレギュラーな経路の商品しかなかった。
そこに来て『新品!(いちおう)ちゃんとしたメーカー!安い!(けどしょぼい!)』となれば、そりゃ流れるでしょって話。
逆に言えば、国内メーカーの間で『パンピーが本当に必要としてるような機能だけを入れた安いPCなんて作らないですよね?そんなことしたらマーケットの均衡が崩壊してみんな損しますよねゲーム理論的に考えて』っていう暗黙の了解があったわけだけど、そこに空気読めない大陸メーカーが入ってきて一気にナッシュ均衡が崩れ落ちた感じだろう。
どちらか選ぶならナッシュ均衡に一票。
いやその無人島の例えだと、ほぼ間違いなく人間は殺し合いを選択すると思うよ。少なくとも、死にそうな奴を助けるということは一切せず、死んだあとそいつを食うと思う。
有限性が確立すればするほど、それは助け合いの無効化=殺し合いしか選択の余地はなくなる。ゲーム理論的に行動ごとの獲得ポイントを設定してみてもその選択(殺し合い)になると思う。
だとすれば、「競争すれば弱者は救われる」に対する正しいツッコミは、「決して救われない。ただしそれでも競争を選択するのがナッシュ均衡(つまり最適な行動)となる」と言うべきなのだ。そこにヒューマニズムの入る余地はない。
cf.) http://anond.hatelabo.jp/20080721222220
まあ、どのくらいの数の数学オタがそういう彼女をゲットできるかは別にして、「オタではまったくないんだが、しかし自分のオタ趣味を肯定的に黙認してくれて、その上で全く知らない数学の世界とはなんなのか、ちょっとだけ好奇心持ってる」ような、ヲタの都合のいい妄想の中に出てきそうな彼女に、数学のことを紹介するために覚えるべき10の事柄を選んでみたいのだけれど。(要は「脱オタクファッションガイド」の正反対版だな。彼女に数学を布教するのではなく相互のコミュニケーションの入口として)
あくまで「入口」なので、思考的に過大な負担を伴う21世紀の数学七大難問は避けたい。できれば学部レベル、難しくてもマスターレベルにとどめたい。あと、いくら数学的に基礎といっても義務教育を感じすぎるものは避けたい。数学好きが『三平方の定理』は外せないと言っても、それはちょっとさすがになあ、と思う。そういう感じ。
彼女の設定は
数学知識はいわゆる「高校数学」的なものを除けば、テイラー展開程度は使える
理系度も低いが、頭はけっこう良い
という条件で。
まあ、いきなりここかよとも思うけれど、「ブルバキ以前」を濃縮しきっていて、「ブルバキ以後」を決定づけたという点では外せないんだよなあ。ページも7000以上だし。
ただ、ここでオタトーク全開にしてしまうと、彼女との関係が崩れるかも。
この情報過多な原論について、どれだけさらりと、嫌味にならず濃すぎず、それでいて必要最小限の情報を彼女に伝えられるかということは、オタ側の「真のコミュニケーション能力」の試験としてはいいタスクだろうと思う。
アレって典型的な「オタクが考える一般人に受け入れられそうな証明(そうオタクが思い込んでいるだけ。実際は全然受け入れられない)」そのもの
という意見には半分賛成・半分反対なのだけれど、それを彼女にぶつけて確かめてみるには一番よさそうな素材なんじゃないのかな。
「数学オタとしてはこの二つは“検証”としていいと思うんだけど、率直に言ってどう?」って。
ある種の難問数学オタが持ってる公理への憧憬と、ヒルベルト教授の数学オタ的な考証へのこだわりを彼女に紹介するという意味ではいいなと思うのと、それに加えていかにもヒルベルト的な
「証明できないことを証明するカッコよさ」を体現する連続体仮説
の二つをはじめとして、数学オタ好きのする問題をちりばめているのが、紹介してみたい理由。
たぶんこれを見た彼女は「ドーナツだよね」と言ってくれるかもしれないが、そこが狙いといえば狙い。
この系譜の学問がその後生み出されていないこと、これが近代では大人気になったこと、欧州なら定理ラッシュになって、それが日本で花開いてもおかしくはなさそうなのに、日本国内でこういうのが生み出されないこと、なんかを非オタ彼女と話してみたいかな、という妄想的願望。
「やっぱりゲーム理論は役に立つものだよね」という話になったときに、そこで選ぶのは「囚人のジレンマ」でもいいのだけれど、そこでこっちを選んだのは、この概念にかけるナッシュの思いが好きだから。
断腸の思いで選びに選んでそれでもパレート効率的ではない、っていうあたりが、どうしても俺の心をつかんでしまうのは、その「部分最適戦略」ということへの諦めきれなさがいかにもオタ的だなあと思えてしまうから。
ナッシュ均衡による戦略を俺自身はダメとは思わないし、もう選択しようがないだろうとは思うけれど、一方でこれがアメリカや旧ソ連だったらきっちり冷戦にしてしまうだろうとも思う。
なのに、各所に頭下げて迷惑かけて部分最適戦略を選んでしまう、というあたり、どうしても「自分の利得を最大化してきたものが捨てられないオタク」としては、たとえナッシュ均衡がそういう概念でなかったとしても、親近感を禁じ得ない。概念自体の一般性と合わせて、そんなことを彼女に話してみたい。
今の若年層でエウクレイデス(ユークリッド)見たことのある人はそんなにいないと思うのだけれど、だから紹介してみたい。
キリスト生誕よりも前の段階で、数論とか初等幾何とかはこの原論で頂点に達していたとも言えて、こういうクオリティの数学書がエジプトで紀元前に書かれていたんだよ、というのは、別に俺自身がなんらそこに貢献してなくとも、なんとなく数学好きとしては不思議に誇らしいし、いわゆるマス北野を数学者と思ってる彼女には見せてあげたいなと思う。
フェルマーの最終定理の「設問の単純さ」あるいは「投げっぱなし感」をオタとして教えたい、というお節介焼きから見せる、ということではなくて。
「この余白はそれを書くには狭すぎる」的な感覚が数学オタには共通してあるのかなということを感じていて、だからこそアンドリュー・ワイルズの行き着く先はフェルマーの最終定理以外ではあり得なかったとも思う。
「一般化された予想問題を解く」という数学オタの感覚が今日さらに強まっているとするなら、その「オタクの気分」の源はフェルマーの最終定理にあったんじゃないか、という、そんな理屈はかけらも口にせずに、単純に楽しんでもらえるかどうかを見てみたい。
これは地雷だよなあ。地雷が火を噴くか否か、そこのスリルを味わってみたいなあ。
こういういかにも簡単に解けそうな作図をこういうかたちで問題にして、その証明が非オタに受け入れられるか気持ち悪さを誘発するか、というのを見てみたい。
9個まではあっさり決まったんだけど10個目は空白でもいいかな、などと思いつつ、便宜的に数学ガールを選んだ。
ブルバキから始まって結城浩で終わるのもそれなりに収まりはいいだろうし、ネット時代以降の数学萌えの先駆けとなった作品でもあるし、紹介する価値はあるのだろうけど、もっと他にいい作品がありそうな気もする。
というわけで、俺のこういう意図にそって、もっといい10個目はこんなのどうよ、というのがあったら教えてください。
「駄目だこの増田は。俺がちゃんとしたリストを作ってやる」というのは大歓迎。
こういう試みそのものに関する意見も聞けたら嬉しい。