2010-04-25

http://anond.hatelabo.jp/20100425224439

もし個別の調整による社会が局所最適なナッシュ均衡に陥ってしまい、結果として

パレート効率的ではないというのであればそうだということを説明すべきなのでは?

個人の粒度の下限をそろえるのは重要だとおもうけど、他人との調整の手間を惜しむために

個人の粒度の上限をそろえることは何の意味もないとおもうよ。

ソ連計画経済みたいなのはうまくいくわけがない。

記事への反応 -
  • 1970年代に盛んになった脱構築と言われるムーブメントは、画一的構造主義を排し、相対化という理念の元に個性の尊重をもたらした。 1990年以降に急速に発展を遂げたインターネットも...

    • 結局どこかでリソースの衝突が起こってうまく各自の個の大きさが調節されるのであれば わざわざ個を制限するまでもなくそのしくみにまかせてもいいんじゃない? 夏目漱石の本読んで...

      • 行くところまで行けば歯止めがかかるから心配するな、なんて無茶苦茶だ。 リソースをギリギリまで食いつぶすのは問題だし、情報技術によってリソースの物理的制約の逃げ道が作られ...

        • もし個別の調整による社会が局所最適なナッシュ均衡に陥ってしまい、結果として パレート効率的ではないというのであればそうだということを説明すべきなのでは? 個人の粒度の下限...

          • まず、個性の粒度を定義してくれ。 もし定義できたとして、集団における個性の豊かさは、粒度だけでは測れないのではないか? それから、みんなが個性を尊重する精神を持っていても...

    •  個性の尊重が過剰っていう視点は、「資産の不可侵性」という点で現在の経済にも当てはまらないかな……。  この問題意識って分かるような気がするけど、学習や環境の無限遠点的...

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