はてなキーワード: グラデーションとは
部署異動によって、ガキンチョつれた人の相手をそこそこする感じの業務になったんだけど、ガキって全然かわいくねえな
ふるまいがどうこうとかじゃなく、シンプルに、俺が、かわいいと思えない
べつに憎くはないし、キモいとも思わないんだが、「おっ、ガキだな」以上の感想が何も出てこない
3歳くらいのガキを見ると「3歳くらいのガキだな」と思い、0歳くらいのガキを見ると「赤ん坊だな」と思う それだけがある
赤ん坊が手を振ってくれた!かわいい!みたいなことを同僚が言ってんのを聞くと、ちょっと焦る
俺は人並みに"かわいい"を解する人間だと思ってたし、なんならちょっと人よりストライクゾーンが広いくらいのつもりでいたんだけど、ガキに関してはそうでもないらしい
まあしかし、考えてみると、人間のガキに限らず、俺は幼さとかわいさを結びつけられないってことなのかもしれん
子猫より成猫が好きだし、小さいミドリガメよりデカいミドリガメが好きだ これは幼いとかの話じゃないが、チワワ的な犬よりゴールデンレトリバーみたいな犬の方が好きだ
ガキへの興味なさにもグラデーションがあり、0歳のガキにはマジで毛ほども興味がもてない一方、10歳くらいの小太りで生意気そうなガキとはちょっと話してみたい気持ちにもなる 己を見るような感じがするから しかし、その気持ちもやっぱりかなり小さいし、いずれにせよそこに「かわいい」って気持ちはねえな
とにかく、ガキに可愛さを感じられないって話だ
どのガキもだいたい同じに見える
これ、結婚とかを考える歳になるまえに気づけてよかったな
「学力が足りないのは本人の自己研鑽不足のせい”だけでない”」なのも当然だ。100% なんてものはそうそうあり得ないからな。
流石にそこは理解してるみたいでよかったよ。
ただ現状のアメリカの機会の平等を実現する仕組みを実施した上で、「学力が足りないのは本人の自己研鑽不足のせい」と「学力が足りないのは本人の自己研鑽不足のせいでない」のどちらかで言ったら、圧倒的に「学力が足りないのは本人の自己研鑽不足のせい」だ。
グラデーションのある問題を二元論でどちらかで言ったらとか言い出すのはマジでバカ過ぎるw
ハーバードに限らず上位大学の入学者の親は高収入の方が圧倒的に多いことや、「知能指数より親の収入のほうが学歴との関係が強い」って統計からしても「学力が足りないのは本人の自己研鑽不足のせいでない」ってことが明らかなんだが
育休から復帰して1年ぶりくらいにパソコンのキーボードに手を置くと、手の老化が気になった。
節々が黒ずみシワっぽい。爪も縦線が目立つ。
手のUVケア、ハンドクリームによる保湿、水仕事の際にはゴム手袋をすること、etc…全てやっていない。今まで手に興味が無かった。
「育爪」という言葉にもたどり着いた。ジェルネイルが(おそらく)主流な中で、自爪をきれいに育てようというムーブメントである。
友達がいつもきれいなジェルネイルをしているので聞いたことがあるのだが、ジェルネイルは月に1度くらいネイルサロンに通い、費用は5000円程かかるとのこと。
月一通いも5000円の出費も嫌だしDIYが好きな性分なので自爪を育てて最近はマニキュアを塗っている。
グラデーションを付けたりして、ピカピカした爪を見るだけでテンションが上がる。
ただ、爪が長いと何かと不便である。
分かっていたことではあるが実際めちゃくちゃ不便。指の先から1ミリくらい伸ばしただけなのに。
指先に力を入れると爪が割れそうになるので大きめのネジを回すようなこともできない。
とりあえず親指と人差し指の爪は伸ばすのやめるつもり。不便すぎて耐えられない。
この文章を書いている今、かつてなく自殺企図の情動が高まっており、それでもなおそれを完遂することへの恐れから、今なるべく頭の中を冷静にして考えたことを書き留めておこうと思い、手を動かしている。
自殺未遂自体は、10年近く前にやったことがある。部屋に一人の状態でベルトで己の首をゆっくり絞めていき、「落ちる」ところまで行ければあとは死ねると思っていたが、結局自分でリミッターを外すことはできなかった。あとは、家にある薬状のものをとにかく全部飲むというのもやったが、たくさん飲めば死ねるような薬はなく、薬効どうしの食い合わせで運よく死ねるということもなかった。私は所詮その程度ですが、こんなのマウントを取り合いをするものではないと思う。
処方された薬は自分の判断で勝手に飲むのを止めてしまったが、少なくとも今日までは自殺することなく生きてこられた。自殺チャレンジばかりを考える日々から脱却できたきっかけははっきりとは分からない。グラデーションに近いものだと思う。そしてそのグラデーションは真っ白な状態に戻ることは決して無いだろうと感じる。初めて本当に死にたいと考えた日から今日までずっと死のことを意識してきた。下手な例えだけど、シャッフルされた山札から1枚ずつドローしていくうちに「死」を引いてしまったのが10年前で、それ以来ずっと手札に「死」を持っている感じに近い。手札に「死」を持っている状態に慣れていったことで、逆説的に今日までそのカードを使うことなくやってこれたような気がする。
少し話は変わるが、私は私が「自殺したい」と考えていることを他人に表明することをひどく恥ずかしく感じる。そのことを他人に話してしまえば、それは暗に「止めてほしい」ということを意味し、結局のところ本気で死ぬ気はないのだと始めから自己矛盾が露呈してしまうからだ。したがって、本当に死にたいと思うときに私は沈黙するしかない。実際この文章を書くまではそうしてきた。
なるべくキーを打つ手を止めないようにするため、文章の構成を考慮せず思うままに書くことにするが、ご容赦いただきたい。
「自殺をしてはいけない理由とは一体なにか?(あるのか?)」という倫理的・哲学的問いがある。よく答えとして挙がるのは
①生きていればまだ良いこともあるから
といったところだと思う(「自殺するには苦痛を伴う」というのは積極的に自殺を選ばない理由ではあるが、自殺をしてはいけない理由ではない)。
私はこれらのいずれも失当だと思う。
①生きていれば良いこともある
下らないことを言わないでほしいと私は思う。そりゃ良いことも悪いこともあるだろう。でも結局人生における良いことと悪いことの総量を比べることはできないし、最後には誰もが死ぬのである。なぜそれが今ではいけないのか。人生における最後の幸福を味わったら後は死んでもいいのだろうか。少なくとも、死にたい気持ちを自覚し、それを何度もやり過ごして生きてきた人間にとって、残りの人生は死にたい時間とそれをやり過ごしている時間の繰り返しでしかない。
②残された人が悲しむから
実のところ、身体的苦痛へのためらいを除いて、これまで私を自殺させなかった理由の最たるものである。幸いにも、私は家族に恵まれたと思うし、私が自殺した後の家族の気持ちを考えると涙が出そうになる。しかし、実はそれを私が気にする必要はない。なぜなら、実際に自殺した後に悲嘆に暮れる家族の様を「悲しい」と感じる主体であるところの私はすでにどこにもいないからである。悲しいと感じるのは残された者の気持ちを考える「今のまだ生きている私」であり、その意味で身体的苦痛へのためらいと同じだ。
少しそれるが、現行刑法だって自殺を殺人には当てはめていない。自分の保護法益である生命を自分が終了させたところで罪には問えないからだ(容疑者死亡のため起訴できないというのもある)。
したがって、突き詰めれば、②は(残されることになる)私が悲しいから「自殺してはいけない」ではなく「自殺しないでくれ」というお願いでしかないというのが正しい。
死を選ぶことは本当にいつでもできるだろうか。中途半端なためらいがなくなったあの瞬間に人生を終わらせておくべきだった、そうすれば今の苦痛を味わうことはなかったのにといずれ後悔しないだろうか。少なくとも私はいま後悔している。10年前に死ねていれば今日の苦痛はなかった(10年間の喜びも無価値だったのかと問われれば、少なくとも今の苦痛に釣り合うものではなかったと答えるでしょう。死にたいときは常に)。
「死」は切った時点でほかの全ての選択肢を失うという点で最後のカードだ。でも結局その理論は①の理由に行きつく。それは「自殺してはいけない理由」にはなりえない。
私が敬虔なクリスチャンであればこれほど強い理由はなかったろうと思うが、私を含む非キリスト者には全く通用しない。結局なにがしかへの信仰しか救いにはならないという気がしている。
こんなことを平気で言う人間とは関わらない方が良いですよ。
つまるところ、やっぱり自殺してはいけない理由なんて無いんですよ。
どれも思いとどまらせるための方便でしかなくて、あとは本人がするかしないかの判断があるだけ。
ここまで書いたところで紛れていた衝動の波が戻ってきた。
ところで私は家に包丁を置いていないのだが、その理由を人には「私は自炊しないので」とへらへら語っているが、実際の理由は衝動的に自分に使用しないためである。今は刃を己にめり込ませたくてたまらないので、平時の私の判断は正しかったのであり、その正しさを心底憎悪する。
型番 : SR03
カテゴリ : メイクアップ > アイシャドウ > パウダーアイシャドウ
星 : ★★★★☆
一番初めに自分で買ったアイシャドウ。いわゆるプチプラコスメ。
自分はメイクをするのがかなり遅く、20代中盤になって化粧を始めてみたいけども何を買って良いか分からなかった時に初心者におすすめのまとめの中にあった一つ。
・これ
この8点、約8000円からメイクを始めた。下地は親がくれたものを使っていた。
この中で今も使いたいと思うのは今回のスキニーリッチシャドウとオペラのマイラッシュくらいで、他は一応捨てずにとってはいるけども全然使ってない。
今はいわゆるデパコスブランドのアイシャドウをちゃんとしたブラシを使ってメイクするようになったけども、スキニーリッチシャドウの左上のハイライトカラー。涙袋にほぼ毎回入れてしまう。時間がある時はちゃんとしたブラシで涙袋用のアイシャドウを引っ張り出してこれるけども、このアイシャドウはチップでさっとやるだけでもなんとなく下瞼もメイクしてる感じが出るので未だにここの部分だけかなり愛用している。昨日本当に時間がなくて4色で全部仕上げたけども、しっかりグラデーションが出来てやっぱり良いアイシャドウだなと思った。
昨日2021/05/16付のはてな匿名ダイアリーに、リベラルについて思うところを投稿をした結果、予想外にブックマークコメントを頂戴した。その幾つかに対して考えたところを述べる。
(1) 「保守の方こそ云々」「ウヨの方こそ云々」という類いの反応をした人に対して
リベラルではないと自認する人ならば、たかが私という無名の一個人の投稿ぐらい、笑って受け流せば済む話である。
仮にリベラルを自認する人であっても、私が書いたような問題のある言動を自分はしていないという自信が有るならば、他山の石として受け流せば済む話である。
もしもリベラルを自認し、且つ、私が指摘したような問題のある言動を取っているという自覚が有るならば、反省して改めるなり何なりすれば済む話である。
私の投稿を受け流せず、かと言って、行動も改められず、どうしても何かを言い返さずにいられなかった人が「保守/ウヨが云々」と書いたのだろうと推測する。おそらく、彼らは「コイツはリベラルを批判する人間だから、きっと自民党の支持者・回し者/保守/ネトウヨに違いない」と判断したのだろう。しかし、昨日の投稿で私は「自民党支持者である」とか「保守である」とか、何らかの政治的・思想的な立場を表明しただろうか?
「リベラルを批判する人間だから、コイツは自民党の回し者だ」或いは「ネトウヨだ」と決めつけた人は、戦前・戦中の日本の過ちを指摘する人間を見て「特亜の回し者だ」とか「日本人に成りすますザイニチだ」とか言い出す人間と同じレベルの短絡的な振る舞いであったと自覚して欲しい。
(2) 「お前の立ち位置は?」という反応をした人に対して
そもそも、そのような問いはダルトン・トランボ等ハリウッド・テンに対して「お前は共産党員か?それとも、過去にそうだったのか?」と問い詰めた人たちと似たり寄ったりの言動だと私は思う。だから私は、その質問に答えない……で済ませても構わないと思うのだが、それでは気が済まない人もいるだろう。
私はリベラルではないし、自分で自分の思想的な立ち位置は分からないと昨日の投稿で書いた。おそらく、最後まで判らないまま一生を終えるような気もする。
また、リベラルの人たちから学ぶところは多々有るとも私は書いたが、同様に、リベラルと思想的に対立する保守の人たちからだって、学ぶことは多々有ると思う。
自分よりも知性や教養が高い、学ぶべき点を多く持つ人たちのような「本物」を前にすれば、私ごとき人間が「自分はリベラルである」とか「自分は保守である」と簡単に明言するのは、身の程知らずで烏滸がましいというものだ。
生きている限りは自分よりも優れている人たちから学ぶことに終わりは来ないだろうし、私ごとき浅学非才の人間は、グラデーションを成している左右の間を死ぬまで迷い続けることだろう。それに最近の世の中は、左右の座標軸だけでは不十分になりつつもある。
私が、自分の思想的な立ち位置が自分でも判らないと書く理由は、だいたいそんな感じである。
(3) 「自民党政治に対してお前はどうするのだ?」という類いの反応をした人に対して
どうすると言われても、私は既にずいぶん前から自民党及び所属政治家には投票していない。
民主党にも、自民党から民主党への政権交代が起きる前から「第二自民党」にすぎないと考えていたので、投票したことが無い。
選挙の度に共●党に投票しているが、これは別に積極的に支持しているからではない。
私の投票行動の理由は、新自由主義、グローバリズムの猖獗に歯止めを掛けるため、意思表示の手段として、他の選択肢が無いからという消極的な理由にすぎない。他の選択肢を与えられたならば、すぐにでも投票先を変えるのに吝かではない。
まあ、いくら私が投票先やその選択理由を此処に書いたところで、それが本当であるとは証明しようが無いのだから、これを信じるも信じないも好きにしてもらって構わない。
(4) 上の(1)〜(3)を読んでも腹の虫がおさまらない人に対して
気が向いたら、保守を攻撃する内容も投稿するかもしれないので、それで勘弁して下さい。
(5) 終わりに
落ち着いた反応をしてくれた人たちへ。ありがとうございます。
「権威」という言葉に納得できないのであれば、われわれは、ある話題について、誰を、どの程度まで信じることができるか、という「実践感覚」を持って生活していると言い換えてもよいだろうか。
われわれは義務教育の教科書に書かれていることは概ね正しいと認識している。義務教育で教える内容はいわゆる「定説」として確立されたものであり、すでに複数の専門家による批判・検証を経て正統な保守本流の知識としての共通認識が成立したものであると理解しているためだ。初等教育過程で学ぶ知識の体系はほぼ権威による学びである。もちろん理科であれば実験をおこなうことによって、社会科であればフィールドワークを行うことによって、学んだことを経験によって確認する機会は設けられている。しかし学ぶ知識のすべてについてそのような検証を行うわけではない。教えられる知識が検証可能であることを示し正当性を担保するためと、検証する方法論を学ぶためである。
われわれは新聞やTVというメディアの情報が概ね信頼できることを知っている。しかし100%信頼できないことも知っている。各メディアごとに信頼度は異なり、同じメディアの中でも話題や分野によって信頼度が異なるという感覚も持っている。BBCやCNNのいうことは信頼できるがスプートニクや大紀元はトンデモだとか、岩波書店の出す書籍の内容は信頼できるが幻冬社の本は紙くずだとか、われわれはこのような無数の相場感覚、実践感覚を日々の生活で養いつつ、またそれを以って触れる情報の真偽のグラデーションを判断しているのだ。ここで見落とすべきでないのはそれら相場感覚、実践感覚はあくまでも「感覚」であって客観的基準ではないということである。
元増田への反論に論文査読や再現可能性、反証可能性を持ち出すのは筋違いの議論である。それらは原理的な主張としては正しい。しかしわれわれは全ての情報についてそのような判断をしているわけではない。例えば「SARS-CoV-2は空気感染する」という言説を聞いた時、それを主張する論文に当たり、誰が書いたものか、査読は誰が行ったか、それぞれの研究者の業績等を調べて真偽度を判定するというのは「原理的には」可能である。しかしそのようなことをあらゆる情報について行うことは余程の暇人でなければやっていられない。多くの場合はその分野の権威とみなされる研究者が論文に信頼性があると判断した(あるいは信頼性がないと判断した)という事実をもって自身の判断の参考にするだろう。すなわち権威による判断である。
初等教育で学ぶ知識の体系に照らして真偽を判断するということは可能であろう。しかし初等教育で学ぶ知識の体系というのは権威による学びであったことを忘れるべきではない。その知識の体系全てについて実験などによる経験として検証したと主張できる人は少ないだろう。(あとで、検証することが原理的に可能であるとしても)我々はそのように<権威によって>「定説」として与えられたものをもとに真偽を判断し、その真偽の判断が他の人の言説にどのように現れるかを以ってその人に対する信頼度を評価し、その信頼度においてその人の言説に現れた事象の真偽を評価するのである。そのような信頼と評価の積み重ねから真偽のグラデーションを判断する実践感覚が生まれているのだということ、多くの生活の場においてその感覚に依存しているのだということを忘れるべきではない。