はてなキーワード: 粗製濫造とは
2015年に入ってから三ヶ月が経過した。それは、今年のアニメの第一陣(1~3月期)が終了を迎えたということを意味する。
一月に始まったアニメの中で放送前の注目度が最も高かった作品は、言うまでもなく『艦隊これくしょん』だろう。2013年のサービス稼働時から今現在まで破竹の勢いで隆盛を極めていることは、オタク世界に足を突っ込んでいる人間にとっては周知の事実である。特に同人ジャンルとしての隆盛がめざましく、その勢いはかつての『東方Project』を彷彿とさせるほどである。今、最もオタク系コンテンツの中で熱量の高い作品と言っても過言ではない『艦隊これくしょん』の待ちに待った「アニメ化」である。世間の注目度が鰻登りするのはもはや必然だと言える。
だが、そのような前評判に反して、実際に放送された内容はお世辞にも上出来とは言えないものだった。いまいち目的が見えないまま展開されていくストーリー、調和の取れていないギャグとシリアスの配分、そして視聴者に衝撃を与えただけで後の展開にはあまり影響を与えなかった如月の轟沈・・・・・・少なくとも従来の「艦これファン」は戸惑いを隠せていなかったように思える。元々の期待値が高かったこともあってか、ネット上の書き込みでは非難囂々である。
一方、これと比較すると面白いのが『アイドルマスターシンデレラガールズ』のアニメである。これは『艦これ』と同じソーシャルゲームとしての出自を持つ作品なのだが、ブラウザゲーの『艦これ』と違って課金要素が強く、ネット上に出回っている数々の逸話も相まって「廃課金ソシャゲ」の代名詞みたいな存在だった。そんな敷居の高さもあったのだろう。アニメの放送時期は『艦これ』と同時期だったのだが、「アニメ化」に対する前評判・話題性は『艦これ』と比べてそこまで高くなかったように思える。事実、当の「デレマス」ファンの間でもそこまで期待値は高くなかった。「無難な内容でやり過ごして、ソシャゲ本体に悪影響を及ぼさなければそれで良い」なんて話をされていたぐらいである。
ところが、フタを開けてみればビックリの良作アニメだった。島村卯月・渋谷凜・本田未央の三人を軸に展開されていくアイドル界でのシンデレラストーリー、絶妙に挿入されるシリアス展開、そしてまさかここまで人気キャラになるとは思われていなかったオリジナルの男性プロデューサーの登場・・・・・・あくまで目算に過ぎないが、従来の「デレマスファン」を十分に満足させただけでなく、アニメからの新規ファンを大勢獲得することにも成功しているように思える。前評判の大人しさからは信じられない大躍進である。
もちろん、『艦これ』のアニメだってBlu-rayディスクの売り上げを見れば11000枚となかなかの数値なので、「商業的に失敗だった」わけではないだろう。ランキングで見ても現時点で冬アニメ(1~3月期)の円盤売り上げは暫定『艦これ』が一位なので、むしろ商業的にはまずまずの結果である。『デレマス』のBlu-rayディスクは現時点でまだ発売していないので比較しようがないし、KADOKAWAを初めとするバックの組織がいったい『艦これ』という人気コンテンツにどれほどの売り上げを期待していたかは全く分からないが、まあ近年のアニメ円盤の売り上げ規模から言えばケチはつけられない数値であることに違いはない。
ただ、こと「既存のファンの満足度」という視点に絞って言わせてもらえば、今回の『艦これ』アニメの内容は散々だったと言わざるを得ない。SNS上の反応を見ると、多くのファンが次週の展開を戦々恐々とした気持ちで見ていたことが窺えるし、事実としてその内容が彼ら彼女らの不安を払拭してくれる展開であったことなどほぼなかった。ていうか、他ならぬ「一番ファンからの評価が高かった回」が、本筋の話をガン無視して挿入された第六駆逐艦たちのカレー回(第六話)だったことがいい証拠である。同じ「ソシャゲ出身のアニメ」でありながら『デレマス』アニメとは雲泥の差である。もちろん単純比較はできないけれど、少なくとも『デレマス』はファンが来週の展開を心待ちにできるクオリティではあった。その週の内容をツイッターで実況して盛り上がることができた。各話の展開を思い出として胸に刻むことはできた。どちらがお互いのファンを満足させたか、延いては「どちらが抱えているファンを大切にするアニメだったか」の優劣はハッキリと出ている。
片や従来のファンすら激怒させる結果に終わり、片や従来のファンどころか新規ファンまで含めて感動させた。いったい何が両者をここまで分けたのか? というか『艦これ』のアニメはどうしてあんなお粗末な内容になってしまったのか? 冬アニメが一段落を迎えた今、改めてそれを考察してみたい。自分でも『艦これ』に対してきつい物言いをしているとは思うが、あのような悲劇的な過ちを二度と繰り返させないためにも、ここでキッチリと批判しておかなくてはならない。人気コンテンツにあやかった粗製濫造アニメは決して許してはならないのだ。
さて、そろそろ「どうして『艦これ』のアニメはあれほどお粗末な内容だったのか」その理由を語っていこう。実はそれこそが『デレマス』のアニメと比較してみると浮き彫りになってくる話なのだ。というのは、背後の組織が持っている「アニメ化」への意識が根本的に違っているからである。
『艦これ』のアニメがあれほどお粗末な出来であったのは、言ってしまえば「人気コンテンツをアニメにしてみた」に過ぎなかったからである。内容なんて二の次で、とにかく「旬なジャンル」を一刻も早くアニメにすることが至上の命題だったのだろう。商品的価値は『艦これ』というブランドが保障してくれるのだから、あとは適当にアニメの中で「吹雪」や「赤城」といった登場キャラをそれっぽく動かしておけば良い。そうすれば最低限『艦これのアニメ』としては成立する・・・・・・おそらく、制作サイドにとって最も重要だったのはこの『艦これのアニメ』として「成立している」ことだったのだ。たとえ「胸を打つストーリー」がなかろうが構成が破綻してようが、「吹雪」や「赤城」という人気の艦娘を動かしておけば『艦これのアニメ』に違いはないので、「艦これジャンルの商品」としては問題なく売り出せるのである。
いわば制作サイドにとって、『アニメ艦これ』は「単なる艦これジャンルのグッズの一つ」に過ぎなかったのである。どれくらいのグッズかと言えば、アニメイトなどで売っているキャラクターが印刷されたクリアファイル、あれと同水準の「一グッズ」だ。その商品的価値は「『艦これ』のアニメ」だというそれだけだ。しかし、たったそれだけあれば「金剛を印刷したクリアファイル」が『艦これのグッズ』として販売されるように、「吹雪や赤城が動いているアニメ」も『艦これのグッズ』として販売できるのである。何ともファンを舐めた話だが、「艦娘がただプリントされたクリアファイル」を『艦これのグッズ』として購入してくれるように、「艦娘がただ動いているアニメ」も『艦これのアニメ』として評価してくれると本気で思っていたのだろう。そうでなければあんなお粗末な内容のアニメを本気で『艦これのアニメ』と言って世に出せるわけがない。
もしかしたら「でも、キャラクターもののアニメなんてそんなもんでしょ?」と反論したい方も中には居るかもしれない。ところが『アニメ版デレマス』を見てみると、明らかに『艦これ』とは「アニメ化」に対する意識が異なっていることが分かるのだ。
『アニメ版デレマス』は、「キャラクターが印刷されたクリアファイル」などの「単なるキャラクターグッズ」は明らかに一線を画している。というのは、『アニメ版デレマス』の場合、「それがアニメとして成功するかどうか」は決して「Blu-rayの売れ行きの話」に留まらないからである。一番分かり易いのは、劇中のアイドルたちのデビューソングだろう。言うまでもない話だが、あれらの楽曲はCDショップで実際に販売されている。ファンのみんなはそれらの楽曲を「あ、アニメのあの話で卯月ちゃんが歌ってた曲だ!」と思って購入するのだ。そして彼女たちの歌声を聞きながらアニメの感動的なシーンを思い出したりするのだろう。
ここで考えて欲しい、もしも肝心のアニメの話そのものがお粗末な出来であったら、ファンのみんなはCDを購入するだろうか? もちろん楽曲として優れていれば購入する人間は居るだろうが、多くのファンは「あの娘たちが血の滲む努力の果てに勝ち取ったあの曲」だからそれを欲しいと思うはずだ。元のアニメの内容がイマイチだったら「あんな雑な作品のCDなんて誰が買うか!」と購入を控えるファンが続出するだろう。『アニメ版デレマス』の成否は「アニメという一キャラグッズの成否」に留まらず、「他のデレマスのグッズの売り上げ」にまで影響を及ぼしかねないのだ。
いわば『アニメ版デレマス』は、『アイドルマスターシンデレラガールズ』という作品に関わる全ての商品の「PV」としての宿命を背負っているのだ。劇中のデビューソングを初めとする関連商品を購入させ、あわよくばソシャゲ本体の方へ誘導して重課金させるという、商業的な使命である。そしてそのためには、ただ「卯月や渋谷凜などの人気キャラクターがただ動いているだけのアニメ」では決して許されない。きっちりと視聴者の心に響くような、彼ら彼女らを魅了してやまない良アニメでなければならないのだ。
「背負っているものの重さが違う」、『艦これ』の第6話で第六駆逐艦隊にそう語っていたのは足柄さんだっただろうか。カレー勝負ではその重さが災いして雷たちに勝利を譲る結果になってしまったが、現実の世界ではやはりその重さこそが「作品のクオリティ」として如実に表れたと言えるだろう。「単なる一グッズとしてのアニメ化」に過ぎなかった『艦これ』と「他のグッズの命運を背負ったPVとしてアニメ化」された『デレマス』の違いである。異論がある提督諸君はどうか自分の胸に聞いてみて欲しい。『艦これのアニメ』を見るのと、それと同じ時間を使ってブラウザゲーム内で艦娘のレベリングに励むのと、どっちが満足感を得られるかを(特に第6話以外でだ)。
さて、この話は以上で終わるが、最後に余談として「どうして『アニメ化』に対してそこまで意識が違ったのか」を個人的に考察しておきたい。
それは、そのまま「背後にある企業の態度」の違いだったのではないだろうか? 『艦これ』の背後にあるのはKADOKAWAという企業であり、基本的にここは「その時々の旬の作品のメディアミックスで利益を上げる」のがポリシーである。言うなればKADOKAWAにとって個々のコンテンツは「消費財」であって、食いつぶして消化しきったらまた次のコンテンツに移動するのである。我々にとって『艦これ』は近年まれに見るモンスター的コンテンツであるが、そんな『艦これ』でさえも母体であるKADOKAWAにとってみれば「その時々の旬な作品」の一つに過ぎなかったのではないか? 世に出てから二年に満たない期間で「アニメ化」までこぎ着けたのは、むしろ「旬が過ぎ去らないうちにアニメ化して利益を回収しよう!」というそういうことだったのではないだろうか? 邪推と言われればそれまでだが、どうにもKADOKAWAには「コンテンツへの根本的な不信感」みたいなものがあるような気がしてならない。
対して『デレマス』の背後にあるのはバンダイナムコエンターテイメントという企業である。ここにあるのは別にポリシーと言うほどのものでもなく、「いかに自社コンテンツを長生きさせて利益を上げるか」という企業としてごく普通の態度である。KADOKAWAが個々の作品を「果実」として見なしているのに対して、バンナムはどちらかと言えば「果実のなる『木』の方」と見なしていると言える。生み出したコンテンツは「金のなる木」であって、これを「長持ちさせること」こそが自社の利益になるのである。なのでKADOKAWAのようにコンテンツを「消費」することなどあってはならない、できる限り「持続させること」こそが至上の命題なのだと言える。そのようなスタンスだから、『デレマス』のアニメもしっかりしたものでなければならなかったのだろうと思われる。どっちかというと『プリキュア』のアニメでおもちゃを買わせているバンダイの方のノウハウなんだろうね。終わり
これと同じパターンでユーザーをかき集めているベンチャー企業が、ニュースアプリのgunosyだ。gunosyは東大生の福島良典氏が創業し、後に、グリーにネット広告の会社を売却した連続起業家の木村新司氏が共同代表に就任して経営を引き継いだ(2014年8月退任)。今年のIPO有力候補と目されており、その時価総額は数百円規模になるとも噂されている。
昨年に調達した24億円のほとんどを広告費に投じたとされていて、そのお陰かダウンロード数は800万に達しているようだが、そのうちの一体どれほどがアクティブなのかは甚だ疑問だ。
その証拠に、グーグルトレンドで「gunosy」「グノシー」「ブレフロ」「ブレイブフロンティア」と入れて調べてみると、その落ち込み方は上場ゴールを決めたgumiのゲームタイトルがかなりマシに見えてしまうほど深刻であることがわかる。
足元の業績動向がどのようになっているかは外部からは知る由もないが、ゲームアプリと違って直接的な課金が出来ない分、業績数値を作るのは容易なことではないと推測できる。昨年投じた24億円もの広告費で「買った」ユーザー数の伸びを実績として空虚なエクイティストーリーを描き、それを元にして言われているような大規模な上場を許してしまうことは、日本の証券市場に大きな汚点を残す危険性を孕んでいるように思える。
調達した資金によってテレビCMという短期的には成果の上がりやすい劇薬を飲む。その経営判断をするのは自由だが、ユーザーの離散という副作用が現れる半年や1年後の経過を待たずして、上場株として押しこんでしまうのは非常に危険であり、モラルを著しく欠いた行為だと言わざるをえない。良識ある市場関係者ならば、絶対にやってはならないことだ。
最近ではメタップスやラクスルの例があるように、非上場でも数十億円単位の調達が可能なご時世であるし、もしgunosyが本当に優れたビジネスであれば、ここでIPOを急がずとも、もっとしっかりと業績がついてきた段階で改めて上場しても何も問題はないはずだ。テレビCMというブーストをかけて作った成長イメージを上場株の投資家に売りつけるのが目的なら関係者は困るかもしれないが、そういう人たちの投資資金や労力が泡となって消えたとしても自己責任であり、単なる投資の失敗なのでやはり問題はない。
今や時価総額3600億円にまで成長し、ゲーム市場で確たる地位を固めたコロプラも、2012年末のIPO時の公開価格は売上高100億円、営業利益23億円という業績予想に対して時価総額234億円、PER18.7倍という水準で生まれてきている。関係者がその企業の将来性を信じているのなら、IPO時の価格を必要以上に高くする必要は全くない。その後の結果によって、自らが信じる本来あるべき企業価値へと投資家を導けば良いのだ。
市場の活性化を目指す取引所や大手証券会社は、とにかくIPOの社数が増えればいいと思っているフシがあるようだが、私が思うに現実はその逆で、IPOの粗製濫造を今すぐにやめるべきだと考えている。
そもそもリスクを取りたがらない気質に加え、人口減に陥り、経済全体の成長が大きく見込めない日本において、有望なベンチャーがポコポコ湧いて出てくると考えるのは誤りである。にも関わらず、「シリコンバレー」や「エコシステム」などの言葉ありきで物事を進めようとするから、後に残るのは上場後数ヶ月もすれば誰にも見向きもされなくなった「かつてIPOだった」ゴミの山なのだ。
そうではなく、もっと少数精鋭の有力ベンチャーを市場に呼び込み、成長性の高いIPO銘柄に投資することは投資家にとっても有益であるという成功事例を積み上げることこそが、唯一の解なのではないだろうか。私などからすれば、市場関係者が今やっていることは、IPOを単なる期間限定のマネーゲームの道具として扱うことを促進、推奨しているようにしか思えない。
取引所が昨今のスタートアップブームに迎合しなければならない必要はまるでない。いたずらに上場基準を緩くしたりせず、市場の規律を守る番人として毅然とした態度を取り続けて欲しいと願う。
この際だから、私が昔から違和感を覚える現象についても触れさせていただきたい。それは、ベンチャー企業が大きな調達をした時に、手放しで起業家側だけを賞賛する一部のネットの人々の存在だ。私のような投資家側の人間からすると、そのリスクを取りに行った投資家も同じだけ賞賛されるべきだと思うのだが、どうも資金を受ける側もそれを応援する側にも、投資マネーはどこかから湧いてくるようなものだというおかしな感覚があるのではないかと感じてしまう。
その際たる例が、gumiのCFOとして大型の調達を実現し、数々のスタートアップイベントにて武勇伝を語ってくれた川本寛之氏の存在であろう。
川本氏の発言の数々を見ていると、この人は他人のリスクで博打を打って、その成功を自分の手柄にしてきた人という印象しか受けない。人から預かった何千万円、時には何億円という大金を、以下の発言のような感覚で使ってしまう人間がベンチャー業界の有名人なのだと言う事実に私は恐怖と戦慄を覚える。
私、キャピタリスト時代に5社か6社か、ちょっといろいろあって少ないんですけど、投資をしたんですけども、一番自信がなかった案件がgumiでした。「多分、潰れんだろうな」みたいな(笑)、そんな感じで思いながら、49:51でいうと「まぁ51で投資してみるか、こいつちょっとおもしろそうやし」っていうのが國光さんだったって感じでして。
その後2011年11月に、わりと当時のベンチャー企業としては大型のファイナンス、20億円の増資を担当しまして、挨拶代わりに20億円調達したからっていうのもあったのか、現任で取締役をやらせてもらってます。
特技として資金調達って書いてますけど、一応今まで50億円くらい調達してまして、非上場の間に私は100億円調達するというのが一応目標です。そんな感じです。
まさに調達屋を自認している様子だが、こうした人々が集まってそれぞれの調達自慢を行う場のモデレーターを、UBS証券のマネージングディレクターがつとめていることには驚くしか無い。外資系証券だけあって、他人のサイフで博打を打つことにかけては共感する部分があるのだろうか。
極めつけはこの発言だ。
「FIFAショック」って社内で呼んでいるんですけれど。私銀行にいたから、晴れているときに傘を借りまくろうと思って。このとき、3.5億円と10億円の融資をいただいたとき、実は裏側で「FIFAショック」が起きるって情報をインサイダーでもってたわけですね。
8月の10日ぐらいに「やべえFIFAの契約が11月で切れるかもしれん」という話しが国光さんから来て、どうしようかなと思って「明日からちょっと資金調達に走ります」とか言って、9月末に融資を10億円引っ張ったという。かなりタイトなスケジュールでお金を引っ張った途端、売上がドンと下がっていって、赤字が最大3億円に。
そのあと、ぎりぎりのところで、『ブレイブフロンティア』がリリースされるという。これはgumiに金がなかったので、gumiベンチャーズを使って、変則スキームで買収したっていう、ありえない形で。人のゲームで何とか救ってもらったという状態です(笑)。
このような信義にもとる行為を自慢気に語る人間がいる会社に私は絶対に投資をしたくない。
この手の風景を賞賛する人々には、ではもし自分がその資金の出し手だったらどう考えるか?という発想が全く抜け落ちているように思える。時には他人を踏み台にしていく図太さも成功には必要なのだろうが、公の場でこうした発言の数々を臆面もなくしてしまうような人たちが主役として持ち上げられる限り、日本のベンチャー業界が健全さを保つことはないし、gumiのような上場ゴールは何度でも起きるのだろうと思ってしまう。
今回の件を受けて、これまで英雄視され、そのビッグマウスぶりが許容されてきた國光氏の存在がスタートアップ業界内でどのような扱いを受けるのかについて注視していきたい。ああいう人だから、という声も一部では未だにあるようだが、一旦上場して公開企業となった以上は、これまでのようなベンチャーごっこの感覚では済まされない。今後、時間をかけて経営責任を全うし、結果で株主に報いていくことが必要になる。
それを待たずして、彼を「上場に成功」した人間として周囲が持ち上げ続けるようではいけないし、日頃から日本にシリコンバレーを、もっと起業家の数をと叫んでいる業界の人々も、こうした内側の腐敗に対してもきちんと向き合わない限り、日本のスタートアップ業界に本当の夜明けがやってくることはないだろう。
また、本筋とは違うとばっちりで申し訳ないが、本件で物議をかもし、様々な業界から注目を浴びることになってしまった梅木氏も、主だった実績としてはサイバーエージェント子会社における短期間の投資補佐業務しかないようであり、彼のような人が業界人としてそれなりに幅を利かせているようでは、外部から業界全体を見た時にその程度の集団かと思われてしまうリスクはあるように思う。
そんな彼が主催する月額4000円の有料サロンには387名もの加入者がおり、その中には上場、非上場問わず著名な起業家の名前も見られる。
http://synapse.am/contents/monthly/yuhei.umeki
この方々はせっかく素晴らしい実績を打ち立てたのに、梅木氏とつるんでいると思われることで失う何かがあることについてはどうお考えなのか、機会があればぜひ伺ってみたいと思っている。とは言え、毎月157万円の固定的な売上があり、手数料が3割としても年間にして1300万円ほどの粗利を確保している梅木氏は立派な成功者であると言えよう。昔から、ゴールドラッシュでは金を掘るよりツルハシを売れと言われるが、それを実践している点だけは見習うべきところかもしれない。
長くなったが最後に自戒の念も込めて、我々個人投資家の側にも多少の責任はあることは記しておきたい。日本の個人投資家が毎年のように出てくるIPOにとてつもない高値をつけ、マネーゲームの道具として次々に使い潰している現状があることは事実で、それを使って一儲けしてやろうと考える人が現れても仕方のないことではある。
起業家やベンチャーキャピタルを含めた市場関係者には、業界を長期的に、健全に発展させていくために良識を発揮してもらいたいと願う一方で、我々個人投資家の側も、優良なベンチャーを見極め、そこに投機ではなく投資マネーを供給して共に成長していく姿勢が求められる。
特定の誰かの利得のためではなく、全てのステークホルダーが同じ方向を向き、一丸となって行動して行かない限り、今回のスタートアップブームもまた一過性のものに終わり、バブルの歴史に新たな1ページが書き加えられることになるだけだろう。そのような未来は、誰一人として望んではいないはずだ。
高学歴が増えたこととゲームがつまらなくなったことに、ある程度の相関はあると思う。
僕がゲーム業界に就職したのは二十年以上前だが、そのころはゲーム業界に就職するなんて、親にも親戚にも反対される場合が少なくなかった。そのまた十年前には、芸能界に入りたいと願う子供たちも、「そんなヤクザな世界はダメだ」と言われていたと聞いた。
だから、それにもかかわらず願いをかなえたいという情熱を持つ新人の比率が高かったわけだ。
それが、元増田の言うように
> その原因としてゲーム業界がある程度ステータスをもつようになり、(後略)
親や親戚が喜ぶ人気業界になったために、就職をゴールとする新人が増えてしまった。
ウォークマンやトリニトロンの頃は、面白そうな仕事ができそうな会社だけど松下や東芝や日立に入った方が親が喜ぶし友達の敬意も得られる、という状況だったのではないか。それが今ではソニーこそがステータスとなった。
僕が就職した時にゲーム業界に苦言を言った親戚も、後年僕が Sony Computer Entertainment の仕事に携わると喜んだ。
能力がどれだけあろうと、情熱がなければそれは十分に発揮されないだろう。
これは高学歴だけの話ではない。
じゃあ高卒や専門学校卒やFラン卒ならどうなのかというと、その人たちにとっても業界がステータスなのは変わらない。「低学歴からの志望者は情熱のある人ばかり」ということもないし、「情熱の無い低学歴は業界を志望しない」ということもない。
また別の問題として、ユーザーの経歴の話がある。
僕は JRPG とか SRPG を好まない。ゲームバランスはだいたい俺TUEEできるようになっているし、ストーリーは小説を読んだ方がマシだと考えているからだ。それでSRPGが好きだという後輩に「どれやっても一緒じゃん」と言ったら「全然違いますよ!」と怒られた。
ゲーム黎明期を生きてきたオッサンにとっては、それぞれのSRPG毎の違いなんて、スライムとスライムベス、ストリートファイターIIと飢狼伝説、戦場の狼と忍者プリンセス、くらいの違いにしか感じられない。
次々と新しいジャンルが創造されていた黎明期を生きてきた我々は、マーブルマッドネスとかドルアーガの塔とかアウトランとかグラディウスとか現代大戦略とかウルティマIVとかスーパーマリオブラザーズとかの登場を見てきた我々には、ここ十年くらいのゲームが刺激に乏しいと感じてしまうのは仕方がない。
また、クソゲー比率でいえば、ファミコンブームの頃に比べれば、おそらく格段に下がっているだろうと思う。それがまた刺激が足りないということに通じているのではないだろうか。
さらに言うと、「ゲームがつまらなくなった」なんてわざわざ主張するのはオッサンだろ? オッサンが若いころよりもゲームに情熱を注げなくなったという個人的なところも大きいんじゃないの。
他にも、ゲームがつまらなくなった理由や、つまらないと感じるようになった理由はいくつもある。
しかし僕は悲観していない。これはただゲーム業界が成熟したというだけのことだ。
小説や音楽や映画や漫画など、さまざまなエンターテインメント業界が似たような道を歩んできた。
新しいジャンルがどんどん出てくる黎明期、人気が出て粗製濫造になる発展期、大金をかけた駄作とインディーズが共存する成熟期、とゲーム業界も同じだ。インディーズの参入しやすさはエンターテインメント業界にとってとても大切なことだと思うが、ゲームも含めた成熟期にある業界は、程度の差こそあれ、素人がすぐに手を出すことができる。
というわけで、個別の開発者や会社の話は別として、業界の先行きについては悲観していない。波があるのが当たり前で、どの業界もそうだし、浮き沈みがあることは健全な現象だ。
というわけで、相関はあったとしても、高学歴は原因ではないのだ。
うむ、既に色々粗製濫造始まってるねえ