はてなキーワード: 演算とは
体育の授業ではゴミ扱いされてきてスポーツが超嫌いなキモオタでたる自分が気まぐれでVR卓球やってみた(正式名称は「Eleven Table Tennis VR」という1990円のアプリだ。)。
NPC相手にサーブ打ってラリーをするだけなんだけど超楽しい。
最初は全然サーブが入らなかったけど相手がNPCだから謝る必要ないし誰も見てないから恥ずかしがる必要なし。
そんなことを繰り返していたらたまにサーブが入るようになり徐々にラリーができるようになってきた。
周囲への気の使いとか申し訳なさが無ければこんなに上達して楽しめるようになるなんて思ってもなかった。
今や寝る前に30分くらいNPCと卓球するのが欠かせない日課になりつつある。
VR卓球は演算とかリアルに相当近いみたいだしいつか友達と実際に卓球してみたい。
上手くなってるといいな。
自分が好きな事をして生きていくのはよいけれど それと他の人の人生がどういうものなのかは別物でしょう
あなたがいまのあなたでいる権利があるとしたら誰にもらったものなのですか
平等というものがなんにでも都合よく使われるのならあなたが食べた生き物や殺した昆虫はどんな権利が足りなかったのですか
あなたが人間であり憲法でまもられ安全が確保されるのは人間からみた社会からだけで 暴走してつっこんでくる車や病気やそのほか自然においては関係がないはず
どこに生まれるか 何が学べるか どんな出会いがあるか そんなものは人間や社会ではどうしようもないことだし定められてもいない もちろん平等なんてものはない
優秀な結びつきのあるものは優秀で蹂躙し そうでないものは無能で駆逐される 弱いから助けられるべきなんてものは人間が自然界で生存していくための独自ルール
社会構造が生命のすべてに関与できる管理社会において生まれや運や平等感について問うなら問うだけ価値があるかもしれない
それ以外には何を語ろうともそういう人生という演算結果をデータとして献上しながら灰になっていくだけの人生をすごすのが人というもの
すごく人生が楽しい人もいるだろうし つらいだけで死ぬしかない人生もある それはそういうものとして自然の中で発生して消えていくだけ
あなたがほかのだれかとはどう違うのかを言葉を尽くして語りつくすことで自分自身というものを紹介することで ほかの人に自分の像を植え付けてそんな目でみてもらうことで
人の手によって生かされたいという願望がその語りで満たされるならそれもまた人の生き方でしょう
全くその演算の概念が解らないうちに実際のケースと対応付けて理解すれば理解が進むのはその通りだと思うけど、
実際のケースをどの程度抽象化したものが本人の理解を助けるかは、本人の頭の中でどの程度その演算に関する事例が抽象化されているかによるから、
一概にどれが教え方として正解とは言えないと思う。
算数は知らないが、数学は形式学問(現実世界とは何ら関係のないところで、仮定とルールだけ決めて進めていく遊びみたいなもの)だから、
現実世界では適用できない説明だから教え方として間違っている、というような見方は非常に害があると思う。
数学の成果の中で、現実世界の説明に役に立つものもあれば、立たないものもある、その程度の立場の学問だと思う。
微積分やりはじめたら無限小で割ってその極限を求めるというような操作が出てくるけど、どう頑張っても現実世界では適用できないしね。
数学的ゾンビだとかなんとかで話題になってたけど、皆何の話をしているんだろうって感じ。
割り算(除法)の数学上の定義は、掛け算(乗法)の逆演算だ。それでしかない。
何々を何個ずつに分けるとか、何が何から何回引けるとか、そういうのは定義ではない。解釈(意味付け)のひとつだ。
ここはなぜ誰もはっきりさせないのだろう?
そして、数学は抽象を扱う学問だという言葉を敷衍しすぎて、二種類の勘違いをしている人がいる。
一種類目は、最終的には抽象化された世界での操作さえ熟達すればいいとして、意味付けどころか定義の理解すら不要とする勘違い。
抽象的な世界は抽象的な世界のまま、定義や定理などの言わんとすることを、身に染みて理解できるようにならなければいけない。
割り算の例で言えば、上で言う、掛け算の逆演算という部分をだ。
二種類目は、数学は抽象的な概念だけに興味があるという勘違いだ。
数学は抽象世界の学問でありながら、同時に、「抽象化」の学問である。
物理的な現象を記述するためのツールとして発達した数学が、数学それ自体の抽象的な世界を築き、その結果が経済学や情報工学などにも適用されうる。
このどれもが数学であり、そういう風に力を発揮できるのが、数学だけが唯一持っている力なのだ。
だから、抽象的な操作に事物的な意味付けをする、解釈・具体化をするというのも、立派な数学の一側面であり、不要と切り捨てるものではない。
これを踏まえて、元記事で「数学的ゾンビ」と称されている「意味が分からず問題だけが解ける状態」、つまり、
「抽象世界における定義の実感的な理解も、その事物世界への意味付けも習得しておらず、ただ記号的操作だけが習熟している状態」
機械学習用にGTX1080を4台使って1週間以上演算しても思った結果が出てこない。
ECCVは1300本超えの論文が採択されたり、CVPRが1000本超えてたりするが、
人に見せるというのでクオリティが高いというのが少ない印象がある。
限られたデータセットで競えるけど、現実の問題は全然解決しない。そのくせ労力もかかる。計算能力もソフトも足りない。
1週間経っても全然計算終わらない。音質を落としまくっているのに、数秒作るのに一か月くらいかかりそうだった。
先日Adobeが更新されたけれど、新機能がクオリティが高いとは思えなかった。
Adobe以外にも万単位の価格のソフトを買ってるが、色々機能が足りない。
4Kとか画素数が増える前に、色々できるようにして欲しかった。
台本を作る、絵を描く、絵を動かす、エフェクトをかける、3Dモデリング、レンダリング、作曲する、ミキシングする、機械学習に食わせる、
違和感があるので修正とやることが増えるわりに便利になってない。機能は足りないし、計算能力も足りない。
創作物に求められるものが増えていくわりに、便利になってない。
それで作るのに時間がかかっていると怒られる。
タイトル通りなんだけどあまりに厨二くさくて恥ずかしいので書き捨て
いい大人になっても、というより歳を食ったからこそ、なにも考えない頭が欲しい
自分の代わりに自分を遂行するプログラムを頭に埋め込んで、残りの人生を代わりに運営して欲しいんだ
代わりに自分の自我が死ぬならそれは大歓迎なのだが、ロボトミーなどがこれに当たるのだろうか
悲しいとか辛いとかのそういう負の感情だけを消したいんじゃなくて、
自分が何かを感じることや思考することそれ自体がとても嫌なんだ
これが好きという反応を脳が起こすことそれ自体が凄くストレスになる
好きなものが他人と違うとその瞬間から自分の狂いを認識して耐えられなくなる
みんなと同じ感情にしたい 自分の感情ではなくて正解の感性と思考が欲しい
間違ってる自分が感じる全てを捨てて平均と同期したい そう、脳を同期したい
本当にそういうものがあると信じているわけではないんだけど、
理想像として世界の平均を演算するサーバーから思考を常時同期して
それに合わせて動くものに変えて欲しい
自分がなくなって欲しい 自分の考えること感じること全てが気持ち悪い
自分の好きも嫌いも苦しいも痛いも全部間違ってるのに間違っているものを持ちたくない
正解にしてほしい はやく自分を消してほしい
悟りっていいとかわるいとか決断とか愛とかそういうもんじゃないんですよ
やる気とか分別とか心根とかそういう、なにかを示す形容的なものじゃないんですよ
そうあるという状態をしめすもので、その様子を形容しているようでそれそのもの自体のことを言及すること自体であることが悟りの本質で
それがそれであるということ ということが悟りでそうであるとしているものを悟っているというのです
岩が岩であることを岩としてしめしていることを悟りと言いますし人がそういうものだと思い感じることを悟りというのです
行動したこと 迷いなく身をすて人をすくうという行為をするということがそういうものだとして行う事が悟りです
迷いなく逃げても その理由やその結果をそういうものだとすればそれも悟りです
どうすべきか 常に悩むということを続けることもそれは悟りでもあります
答えを探求するということも それも悟りです
それがそれであるということ なんていうのは当たり前だと思われそうですがなかなかそうはいきません
あの時こうしていれば 本来ならば 本気ならば 次は前のとちがうから とそれがそうではないか?という期待や希望で「それがそれである」という本質を見失いがちなのです
自分をすてて人を「助ける:救う:善行を行う:良好な結果に期待する」という行為にはそれが悪であっても最悪の結果になってもそれが責められても「行動そのものはそれそのものである」とだけ「悟って」いれば答えを求める不安に陥り不安から逃れたいという欲求から安易な選択をしないという可能性が増すということです
そんなつもりじゃなかった こうしたかった 本当の本質を知ってほしい という欲求で自分の考えていることを「他人に強要し汚染し影響させ答えを変えさせて自分に沿わせる」自分が我であるということを越えて他人をも我にしようとする行為に戸惑い迷い入り選択してしまわないように「それはそれでしかない」という完結をもって考えることが悟りです
悟りとは吾の心と書いて悟りです 自分の気持ちということです その持ちようがそうである 自分である これが答えである という意思が悟りなのです
自分をブランディング というものが悟りであり 悟りにあると行動や選択が自分のものになります 他人のせいでもなくなり失敗もなくなり すべてはあるがままに自分におきる自分のこと 自分とはこういうものだと考えるのです
悟りにあると人は人というものなので 強い面や弱い面 どういう状況でとかどんな場合とか例にあてはめて例という個に分離させ孤立したその個について深く言及したりすることはなく それは全部ふくめてそれが人だということに収まります
人とはその生きている時間の目が覚めている時間のほとんどを名前を付けることに費やします 今日 さっき いましたこと それ ちょっと前の 昨日の ここまでの成果の 追加分の など名前のついたなにかを紡ぐことにほとんどを費やします
それは名前という音の響きしかないので それが起きているところや時点での物体や現象を共有し他人に同じ認識をもってもらうことで現実に存在させていきます それはわたしがつくったもの いまこれをしてきた 昨日おいておいたこれは私の となりえるのです
その共通の認識と扱いを個人を超えたものでつなぐ必要があるので宗教や言語や社会などの集団を定義することになってきます
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女人禁制で性交禁止 私財の禁止に欲の禁止というのは人間であるのにAIとして機能することを強要されているのです 公平で公正で偏りのない情報の収集と歴史の観測と地域の保善に使うように組織したものなどでした
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もし物件として売ってしまったらそれは大きな相互の認識違いとしてうめるべき差として損失が発生してしまいます
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錯覚させ判断を歪ませ結果自分の思惑に同調させたのであれば 大きく問題があるのではないかということです
悟っていればどうなるんだという判断のお話などは何を選ぼうとどちらになろうとも「そう判断したものはそう判断したものである」という事について「こう判断する そうすべきと然るため」としていることが悟りであり悟っているから悟っているならばどうなるというものではありません
あなたがあなたであるということを知ったり知っているということはそれはすでに悟りです
それを人に知らしめるためには「これが悟りだ」という必要はありません 自分がそこに立っていればそこには「あなたの悟り」があるのです
もじもじしたりずっと確度をかえてみたりうしろを向いてみたり布でおおってみたり あなたが「他人にうつる吾はどういう吾であるべきか」と他人のなかの吾にうつる自分を気にすることは悟りから離れます
他人のなかにうつる吾を気にするとその吾がみている他人のその目にうつる吾のみた他人の そのまた見た吾のみている他人の ということにもなりかねません
そうすると自分が他人との間にたてるべき共通認識のなにかを生産する時間がおおきくそがれます これを小さくする練習が修行みたいなものだったりします
生きていることや経験していくこと自体がそれであったりするので わざわざ利益を排除した純粋な公平判断機材となるべき練習の修行でなくとも 社会的に営利活動をするなかでも見つかるかと思います
悟った自分をいくら他の人の心の中に作り上げようとしても 他人の心を作っているのは他人のその人そのものなので言葉をいくら尽くしても悟ったあなたも悟りもなにも伝わらない可能性があります
またもし伝わったとするならばそれは他人に私の作り方という方法を植え付けただけになるかもしれません
悟ったとして自分が自分であるという確証をもってこれからの自分の行動に自分のものであると受け止められるようになった時 きっとできることは自分の見た風景や自分の一部を他の人が見聞きして感じられるなにかにすべきかと思います
自分語りのショートショートを書くこともそれは一つかもしれません
今回は悟りをテーマにした自分の成長過程を時間のなかに刻むことが自分は悟りの点に今日きたという生産物になったともできるかと思いますが
悟りの中に悟りの解説をいれてしまうと 悟りとは何だったのかという解説の出番がなくなってしまいます
私は一個人として悟りという単語のあるべきポジションとして それは伝えようとするとほぼ自己紹介でしかない 悟っているということは自分が自分自身でブランディングできているということ
こんな使い方であったほうが そんな気苦労を減らして人生が過ごせるのではないかとおもっています
あなたが悟りと呼んだその名前を付ける作業は 人生そのもののことだと私は表現をします
むかし写真家の篠原紀信が自分の写真作品に自分を映り込ませるという事を問題視すると話題になった事や ふるくはドッペルゲンガーの話などあるように
同じ名前の定義で内包する具現化したそれを存在させてしまうと かたちを表しようがなくなってしまいます
「写真」という名前の「写真」が写った「写真」は何なのかわからないものです
攻殻機動隊で魂がどこにあるのかということがゴーストという名称で殻におさまっているストーリーでもありましたがその判断の中核にあるランダムを演算する基礎となる乱数キーのような判断基準が悟りであります
もしあなたが何かを生み出そうとして苦難を感じることがあるとするならばそれはきっとゴーストコピーの苦しみのようなものかもしれません
大きな定義の名前をつけて気苦労だけしていくのがわが人生 という生き方もまた悟りだと思いますので個性をお大事にいただければと思います
昨日、千日参りに行ってきた。
コロナもあり、出店もなく大盛況とまではいかないものの入れ替わり立ち替わり人が来て、決して都会ではないたまにいっても静かな空間の寺がかなりの賑わいを見せていた。
いや、だってすごい。一日参れば「四千六百日のお参り」と同等の価値がある、とかもうサ終するソシャゲも真っ青のサービスっぷり。だって四千六百日って126年毎日かかさず365日毎日参ったのと同じ分ってことになるんだよ。私は中学生の時も一回千日参りに行ってるから倍ですよ。252年?分ですよ。
一体どうしてこんなことになってんだろうかって参拝待ちしながらぼんやり妄想しちゃう。
ここからはもう本当にただの妄想の垂れ流しで独り言みたいなもんなんだけども、
もしかして、こうやって押し掛けることでサマーウォーズみたいに一種のサーバー落ちさせて、バグ起こしてんのかなぁとか。
パチンコのサービス日みたいにやっぱりご利益の倍率?を操作して、実質200日程度と同等レベル、とかだったら面白いな~とか。
もし私が死んで、閻魔さまの前で最後の審判を受けるとき千日参り二回も行ったんだよ、功徳は結構積んでるよ、ってアピールしたとき、閻魔さまのスタッフみたいな人に「あー……千日参りはね、そこまで功徳の功績にはならないように500年ほど前に変わったんですよ~ 不公平って意見もありますし、まずあのイベント自体がちょっと公式との見解が違いまして……」とか説明されたりして。
そこで泣きつく人もいたり、「あっ、そうなんすか~ じゃあ実態は何日分くらいのご利益になるんすか?」って聞いたら地獄謹製のコンピューターかそろばんみたいなガジェットをぱちぱち弾きながら「えーっと……行かれたのは四天王寺と…葛井寺…で間違いないですか?でしたら合わせて482日分になりますね。」とか教えてくれたりして。
なんでそんなガセ誰が流したんでしょうねぇ~!よく考えたらさすがに一日の120ウンネンの価値とかすごいインフレですもんね、でもほんとだったら嬉しいし参拝しますもんね、はじめは何だったんでしょうねぇ~とか聞くと「たぶん1000年くらい前に九死に一生を得た者がここでの功徳換算を中途半端に聞いて広めたのかも知れないですねぇ…当時はもっとここ(閻魔さまの裁き)もどんぶり勘定でしたしこれ(功徳演算ガジェット)もなかったですし……」とか言って苦笑いしたりするんだろうか…って考えたらなんか萌える。エモい。全部妄想だけど。