はてなキーワード: ラベリングとは
だから、「マニア」とか「オタク」とか呼ばれるラベリングが存在するわけで。
元々「マニア」・「オタク」気質の人々は一定数存在してたけど、
SNSの発展でそういった人々が熱弁を奮う様子が可視化されやすくなっただけだと思う。
もし好きなものが見つけたければ、気になるジャンルの最低限度の知識をネットで仕入れて、
造詣が深そうな知人に興味ある旨を伝えて一緒に出掛けるとか、SNSでアピールするとかしてみればいいよ。
よっぼと狭量・排他的なジャンルでなければ、温かく迎え入れてくれるはずだ。
ここで気を付けた方がいいのは同じ趣味を持つ奴は似た性格の奴が多いってこと。
一度郷に入ってみて「居心地悪いな」「どうもこの人達と反りが合わないな」って感じることが
せめて自分自身、個人としてなにが悪いのか指摘してほしい。「君はゆとり世代だからね」と世代で一括りにしてラベリングされるだけでは何が悪いのかわからない。
そもそもゆとり世代が何も考えていないわけがないじゃないか。それなりに嬉しいとか辛いとか考えるし、情けをかけてもらえたら感謝するし、その人に恩を返すためにどうしたら良くなるかって毎日考えているんだよ。ゆとり世代だから〇〇ができない、ゆとり世代はこれだから〜と言いたいほどゆとり世代は迷惑をかけているというのだろうか。自分が生まれた世代は、自分自身は害なの?逆に団塊ジュニア世代やアラサーアラフォー世代は20歳代のころから一人前に仕事をやれるのが当たり前だったりしたの?今時の若者は主体性がないっていうけど、主体的に動くとでしゃばるなと言われたよ。全世代の機嫌を伺いながら主体的に動くとか無理だって。難しくない?でもそれを求めてるんでしょう?厳しいよ。だからまだお前にだけはその役割を担ってほしいとか、言われたら、無理だとは思いながらもなんとか頑張ろうとか考えるけどさ。もうさ、企業が20歳代に求める社会人像って無理ゲーすぎない?同年代が一斉に雇用されることもないから酒を飲みながら愚痴を吐きあう同僚もいない、気遣いだけが求められダメだしをされるだけの先輩との飲み会も渋々付き合ってるし、若者の〇〇離れとか、あまりそういう悪影響を与えないように頑張ってるんだけど、もうどうしても追いつかない。間に合わないって思ってる若者って俺だけなのか。
スタンフォード監獄実験とかラベリング効果というキーワードを知っているのに、なぜバーナム効果という同じくらい有名なキーワードにはたどりつけなかったのか
俺がMTGをプレイしていた頃周囲には黒使いが数名おり、その皆が皆俺に懐いていた。ほっとくと寄ってくるのだ。そして必ず彼らは自分のデッキについて話し始める。「俺のデッキは○○で××で…」と。まぁここまではどうでもいい、そういうプレイヤーも多いから。
だが大体次のセリフはこう。「黒には△△が足りないんだ、くれてもいいじゃないか」とべらっべら話し始めるのである。記憶にある限りで思い浮かべると、
スタンダードに「暗黒の儀式」「思考囲い」「ファイレクシアの抹殺者」「憎悪」「各種墓地対策」「滅び」「苦花」「デモチュー・ヴァンチュー」「神ジェイスや遍歴ぺス級の強いプレインズウォーカー」
レガシーに「強いプレインズウォーカー」「ストーム対策」「1マナの追放除去」「強いフィニッシャー(墓所のタイタンやワムコがいたにもかかわらず「黒使いの美学に反する」らしい)」他にも歴代の強いキーワード能力を節操無しに求める。
あとはぼくのかんがえたさいきょうカードとして「Φマナで払う代わりにライフロスのない思考囲い」「青命令並に強い黒命令」「有益なエンチャント対策」「有益なアーティファクト対策」、当時はまだタルキール発売前なんで「探査フィニッシャー」「探査除去」なんてのも聞かされたっけ。
彼ら曰く「黒は色の役割を奪われ続けている不遇な色なんだ」とのことだったが、別の色については脊髄反射でテンプレを返す。赤は稲妻、緑はタルモ。そして二言目には「贅沢を言うな、黒は奪われてる色なんだよ」。贅沢言ってんのはどっちだよ。当時「黒使いの欲しがるもん全部与えたらしまいには対抗呪文と稲妻も欲しがるに決まってるよ」とこぼしてたプレイヤーがいたけれど、まぎれもなく事実だと思ったものだ。
他にも「俺のデッキは○○で××で…ここで聞くけど、これってどういう戦術を意図してると思う?」とやたら尋ねる。俺も最初は人の話を聞くのが好きだったから「これかい?」と答えるのだが、彼らは…そう、1人じゃない。みんなが…こう答える。「違うんだよなぁ、あんたは黒を分かってない」
そりゃそうだ、黒なんて使わないからね。相手もおそらくそれを分かってる、だから話し相手に俺を…相手の話をバカみたいに聞く俺を選んだ。「バカなお前に俺がご高尚な戦術を教えてやろう」みたいな感じで、承認欲求でも満たそうとしているのだろう。
1人のプレイヤーだけじゃない。黒使いみんなそうだったのだ。そしてそれをしてくる相手は黒使いだけだったのだ。最初の内は単にこいつは性格がきっついだけだと流していたのだが、俺だってバカにされるために生きているわけじゃない。次第にムカついてきたんで他の黒使いから聞いた話をそのまま横流しすると、「違うんだよなぁ、あんたは黒を分かってない」である。そりゃてめぇの同類から聞いた話だよ、と言っても「あんたが黒を分かっているならそれが不適当だと分かるはず」とか言い始める始末。
そんなに分かっているプレイヤー相手に話したいんだったら黒使い同士で話せばいいだろう!と内心相当トサカに来ていたのだが、ある時そんな俺にまとわりついてくる黒使い2人を店で見かけた。2人には面識がないのでこの2人を鉢合わせて「あとは黒使いのお二人でごゆっくり」と席を外した。そして別の知人と話している時、その知人とこんな話が出た。
「どうして黒使いってみんな『ああ』なんでしょうね?」「やっぱ君もそう思う?あいつらの話聞くと疲れるよ…この間なんてスタンに暗黒の儀式よこせって言ってたし」「○○さんですか?」「いや、××さん」
「マジかよ。どうしてみんなそうなんでしょう?」「俺も聞いたよ。そしたら黒のカラーパイがそれだから、だって」「ゲームの中の登場人物になったつもりなんですかね?」「だとしたら俺達、救えないバカってことになるよねぇ」
その後ショップの大会に出て帰ろうとすると、黒使いの片割れが俺にくっついてくる。いい話ができてさぞご満悦だろう、だからもう付きまとわないでくれ、と内心げんなりしてたら彼は一言。
「彼とは合わないよ。俺は君が好きだよ、君は相手の話に敬意をもって聞いてくれるから」
知るか!てめぇには敬意がねぇんだよ!と内心本気でぶちのめしてやろうかと思った。そしてもう片方と別の時に店で会った時も同じようなことを言われた。
そのくせ赤の自虐にはホントに脊髄反射みたいな答えしか返さないし、あいつら自分語りしたくて仕方なかったんだろうね。もう話を聞くのがつらいのなんの。
そんな昔話を経験して数年。ニコニコでMTGのプレイ動画や某店の黒使いのコラムなんかを見てるけれど、黒使いのそれはやっぱり一線を画するものがある。スパイク崩れの彼らには強烈な自己陶酔がある。あの強烈な自己陶酔を俺は黒使いでしか見たことない。
いったい何なんだろうね?良い意味でも悪い意味でも黒使いってのは本当に自分に対する矜持がやたら高いのだ。
ある白使いのプレイヤーが動画で「できないことを愛せるようになるのが単色マスターへの一歩だと思っている」と言ってたけれど、本当にそう思う。黒使いの彼らはその域に全く到達できていなかったというわけだ。これは冗談にしては「RTAの些細なミスに対する再走要求」並に品が無いと思うし、冗談じゃなかったとしたら単なる性格悪いだけの欲しがり屋だし、「それが黒という色のカラーパイだ」というのなら「それはゲームの中の設定に過ぎないけど、あんたはゲームの中の生き物なのか?」と尋ねたい。黒スレの印象で「黒使いは面白い人!」ってイメージがまかり通ってると思うけれど、あの黒スレだって別の色使うプレイヤーからは「隔離所」「巣」などと呼ばわれて嫌われてたし。ラベリング効果で「自分のことを○○だと思い込んでるクソオタク」状態になってたってワケさ。
ただ黒使いにもいいところはちゃんとあって、俺は彼らによってたかってバカにされたが、彼らは決して「不正行為はしなかった」のだ。…いるんだよ、ショップ大会程度で不正する奴って。彼らはそのレベルではなかった、そこは認めていきたい。これは「奴らはあくまで人間だ、サルではない」みたいに言ってるように思えるだろうけど、ほんとにMTGに命かけてる不正奴って結構いるんだよ…。
コンテンツを作るには”教養”が確実に必要になるということが、実際に”教養”のないコンテンツに触れて最近理解できた。
ここで言う教養とは、学問や文化の面だけでなく「人とはどういう生き物か」を理解することも含む。
「教養のないゲームって何?」で実際に具体例を出すと確実に何やかんや言われるのでぼかすが、とりあえず一つの例のゲームについて書く。
そのゲームはまず、他国との戦争や反乱を長年描いてきたシリーズの一つであった。しかしそのゲームは、他国と戦争をしている状況としては、あまりにもキャラクターの言動が軽すぎた。
「軽いって何?」と言うと、キャラクターが戦争を背景としたセリフを言えないのである。”戦争にもかかわらず甘っちょろいことを言ってしまうキャラ”というわけでもなく、
そのキャラの個性を押し付けんがための言動を、TPOを弁えず言わせてしまうのである。”影が薄い”という個性を伝えたいがために、そのことだけを伝えるだけのキャラクターになってしまったりね。
その個性もわかりやすくラベリングされたものが多く、”個性”と銘打つにはあまりに薄い(厨二病・ヤンデレ・地味など)。個性どころか属性の擬人化と言っても差し支えはないレベル。
あとそのゲームはセリフ運びが非常に下手だった。言い方は非常に悪くなるが、対人経験の薄い気持ち悪いオタクが考えたようなセリフをキャラクターが喋るのは苦痛でしかなかった。
公式側が二次創作のノリをそのままするような感じで、目も当てられなかった。
二つに、「作者以上に頭のいいキャラは生まれない」という金言が示すように、”頭のいいキャラ”が実際ゲームをプレイしてる側からするとあんまり頭が良くなく、説得力に欠けていた。
そのキャラはまぁいわゆる軍師という設定ではあったが、やっていることは力押しの強硬のみである。ゲームという都合上、どうしても戦いの舞台は整えなければならないが、
それにしたってもっとやりようはあっただろうと思う。そしてその強硬策に関して味方のキャラクターは「流石です!!」みたいな脳みそがないような称賛の嵐である。
頭のいいキャラが頭が良くないので、当然頭の悪いキャラはもっと頭が悪くなるので、キャラクターに対する理解・共感・感情移入・掘り下げそのすべてが困難になってしまっている。
アニメだと「アクションの作画が作り込まれてて凄かった」ゲームだと「レベルデザインが作り込まれてて、かつアクションも爽快感があって面白かった」など、教養がそのコンテンツの面白さを
決定づけるとは(ほぼほぼ言えるにしても)必ずしもそうだとは断言できない。しかし、それはシナリオを全く無視した場合である。シナリオ面での面白さは、登場キャラクターへの共感から
初めて生まれるといっても過言ではないと思っている。そしてその共感とは、キャラクターの背景・性格・葛藤・行動によって湧き出るものである。”教養”とは、キャラの共感を得るために必要なのである。
馬鹿に背景は考えられない。馬鹿は表面的にしか人物の性格を測れない。馬鹿は葛藤しない。馬鹿は考えと行動があべこべであり、そのことを葛藤することも当然ない。
そして一番面白くないのが、それが売れてしまったばっかりに、公式側がそのシリーズの教養が感じられないタイトル以降を前面に押し出すようになってしまったことである。
作る側も馬鹿ならと言った所だろうか。そりゃ教養のある人間だけがゲームを作ってるわけじゃないし、それしか認めないというわけではないよ。ただ、自分の好きなシリーズがそんな姿になってるのが
俺はとにかく悲しいしむかつくんだよ。かつての姿とはかけ離れすぎている、自分の愛するシリーズが、死にながらさも生きているような様を見せてくるのはしんどい。そうだね、俺が年を取ったんだ。
ついていけない人の方が少数派なんだろうな。シリーズとしての形が変わるのは最早仕方のないことだとう。しかしエフラムはそんなこと言わない。せめて、せめて過去作へのリスペクトは忘れないでくれ。
仮に宗教に吉も悪しもあったとしてなおかつその判断を下すのが難しいのであれば、一律<悪である>とラベリングしてしまうことにより想定外の事態を発生させないというメリットはあるんじゃないか?
このロジックだと、家庭も一律「悪である」とラベリングすることになるけど・・・。
むしろ善一色でないことそれ自体が宗教全体のリスクやろ。これは組織を超えて団体全体で善であるように努力していかなあかんところ。
2点ほど。まず、権力者や一般大衆に疎まれて殺された宗教家はそれこそ山のようにいるし、権力者や一般人が定義する「善」は宗教のコアには入りえないと思う。ユダヤ教やキリスト教が生まれたときから今までずっと、虐げられている人を救い上げるのは新興宗教の役目だし、その団体は既存権力と対立していることも多い。現代中国ではキリスト教は敵視されているけど、共産党に受け入れられるようにキリスト教会が努力すべきだとは思わない。
あと、宗教全体がリスクにさらされているという立場には同意しない。宗教はルネサンスも啓蒙時代も生き抜いたし、これからも意味を持ち続けると私は思う。仏教を捨て、国家神道から裏切られた二十一世紀の日本人は、農家に届くことはないいただきますという言葉で農家への感謝を表現している。これは宗教のひとつのかたち。
ダメだ。
そうやって、さも当たり前の共通言語のように、ツイカスだとかクズだとか、品性に欠ける単語を使ってしまっては。そうやってラベリング意識を刷り込み、他人を侮蔑することを当たり前にやるというミームを感染拡大させる、それは増田が嫌うネットの人々がやっていることと何も変わらない。特に、私達のようにWebを見てきた30や40を超えた人間は、ネットの空気になじんだような口調になってはいけない。
どんな嘲笑を受けようが、自分の高潔さを保ちながら、丁寧な言葉を選びながら誠実に謙虚に核心を突く議論を(たとえ匿名でも)展開していく。そういう事を続けて、わずかでもその姿勢に共感して倣ってくれる人を増やしていかないといけない。ただでさえネット上ではみな次第に同じような卑しい口ぶりと思考回路になっていくバイアスがあるのだから、それに抗って「ネットの向こうの人」の多様性を見る者に意識させていく必要性が、今ますます高まっている。
想像してみてほしい。Webの言論が悪化してみえる大きな原因の一つは、発信者がリアルに低年齢化しているからではないか。10年以上前の時点ですら、小中学生がPCを使ってMMORPGに入ってくることがあった。今の子どもは幼稚園以前からスマートデバイスに触れて、小学生でも大人以上に使いこなす。そうしてネット上で、子どもが子どもを「キッズ」だなんだと揶揄しているような中に、そうと気づかず青年や中年までも同じようなノリでやれやれと叩きはじめる。現実に、小中学生がしょうもないいがみあいをしている所に大人が一緒に混じってやりあうことがあるだろうか。ネット上では、ある。しかも悪いことに、子どもたちは彼らが自称ながらも本当に大人であろうということを知ってしまっている。世の中はそういうレベルものだという認識を強めていってしまう。そんな中で、そういう輪の中に大人たちが立ち入らない(スルーする)ことは賢明ではあるけれども、場合によっては、きちんと良識やポリティカル・コレクトネスをふまえた丁寧な注意をしてあげるべき状況も少なからずあるはずだ。その時ただちには理解されずに、袋叩きにされて逆効果のように思えたとしても、子どもたちが育っていったとき「あの時はアホだと思ったけどマトモな大人が確かに存在した」と思って貰えることが重要だ(ただし上から目線にならないよう相当注意しないと、本当に逆効果になってしまう)。それがないと、ネットの同調性に囚われ、低みにとどまり続け、自省能力を失った大人たちが将来多数派になってしまう。その後の未来はもう誰もが薄々感じているような様相になるだろう。実際のところ、ネット上での振る舞いを教えてあげられるのは、教師でも親でもない。彼らはその場に居合わせていないのだから。同級生から学ぶことも難しい。この問題を現状で一番どうにかできる可能性があるのは、その場に居合わせた大人だけ。その事実をもう少し重く捉えてほしい。
だから、本当に憂いているならば、そう簡単に「さよなら」を言ってほしくない。日本人は性質的に無理なんだとか、そういう諦念をバズらせて思考感染させないでほしい。
>んーと、レッテルを張る人ってそもそも議論するつもりない人だと思うんだよね。
>まぁ、軽い気持ちで議論したい人にもブレーキかけちゃうかもしれないのは残念だけど
>真面目に議論したい人はそういうレッテルあまり気にしないと思うけどなぁ
>と、いうのは偏見??
自分がレッテルを貼ることを提案してるのに、何言ってんの?って思うし、
増田自身がその罠の中にハマって思考が硬直、一方向化していることに気付いてないと感じる。
>何か噛み合わない人がいるなぁと思ったら、ここが伝わってないんだね。
伝わっていないと感じているのは私も同じで、増田の視点が一方向しかないからだと思うんだ。
私が居る場所から別の視点で見たら、増田の考えがおかしく見えるアングルもあるよ、という意見が耳に入らず、
これは、増田の受容能力が劣っているわけじゃなくて、ラベリングという行為自体が、他の視点の存在が受け止めにくい構造なのが怖いのではと思う。
単に引っ掻き回したいイナゴな人達よりも、視野狭窄な「正義ラベリング」の罠に堕ちる増田のような人の存在の方が私は、より高い社会リスクだと感じる。
http://anond.hatelabo.jp/20170207224412
この増田も相当つらそうだし、責めるつもりはない。ただ最近発達障害者が云々という話をよくみるのでちょっと思うことなど。
ここ最近になって発達障害者について認知が深まったように思うが、その弊害としてコミュ障=発達障害みたいな安易なレッテル貼りが増えたなーと。発達障害者が増えたと感じる人もいるかもしれないけれど、確かに高齢出産による障害者の増加もあるのかもしれないけれど、でも環境や社会が障害者に不寛容になってきたと言っても間違いないのではないか。
前は少し変わった〇〇さんだった人が、発達障害という言葉が広まったことによって、発達障害者だとラベリングされやすくなってしまったのだと思う。
ただひとりひとりが個人に寛容になれるほど社会に余裕がないのだ。あの増田教師もいっぱいいっぱいで苦しんでいる。個人の発達障害者への安易な扱いを変えるには、社会に余裕がないと困難なのではないか。