はてなキーワード: 漁業とは
自民から立民への鞍替えを検討するためどうやって解決するのか聞きたいです。
自民がどうではなく鞍替えを検討しているので立民がどうやるのかが重要です。
小田急経由で本厚木駅を利用する人であれば、本厚木行きがあるので便利かもしれないが、実際に住んでみると住みにくい。
本厚木は地方都市としては当たり前だが、自動車がないと生活が不自由だ。
公共交通機関としてはバスが充実しているが、20分、30分乗らないと、土地の価格が下がらないらしく、駐車場付きの一軒家に住むのが困難だ。
家賃も駅から少し離れたからといって下がるわけでも、部屋が広くなるわけでもない。
本厚木から新宿までは1時間かかり、さらにバスとなると都心部に出ていくのも大変だ。
駅の周りは地価が高いわりに購買力がある層が多いわけでもない。
駅周辺はチェーン店はあるが、少し離れると店に人が集まらないのか閉店が続く。
ドムドムバーガーの事業を引き継いだレンブラントホテルがあるお膝元なのに閉店してしまった。
自炊してもそれほど安くならない。そもそも自炊しやすいキッチンの広さがない。
関西出身なので、ラ・ムーや業務スーパーや大きめのマックスバリューが懐かしくて仕方ない。
なぜ本厚木に住んでいるのかだが、職場があるので引っ越してきた。
昔はPARCOなどがあって栄えていたとコメントがあり、そういう話は本厚木に住んでいた人からは聞くのだが、
自分は住んでいなかったこともあり、古びたビルが残っているという印象しかない。
地図を見てもらえばわかるが、西は山があり、南北に市は広がっている。
相模川が北から南に流れているわけだが、相模線は相模川を隔てた東側で、要は駅がどこも遠いのだ。
ラーメン屋のAFURIが山の間を通っていけばあるが、温泉のついでに行くくらいで、そうそう頻繁に行くわけでもない。
本厚木よりもう少し東に住んだらというコメントもあるが、本厚木でも厚木基地の軍用機の音がかなりするので、あまり乗り気にならない。
2機セットなのか、1機通ったら5分後くらいにはもう1機通っていく。
日本の種苗が韓国に奪われ、韓国産として販売され、人気があるらしいというニュースに思うことがある。
普段から、そこまで日本の農業や農家を気にかけながら買い物してるのか?食べているのか?
その米、肉、野菜、乳製品その他もろもろ。原産地をチェックしながら買ってるか?
手軽でありがたい、その安いファーストフードやチェーン店のご飯、コンビニとかの安いカット野菜、総菜、それらに使われてるのは国産だろうか?
何かさ、韓国や中国が絡んだ時だけ威勢いいよね日本人って。「農家を守れ」ってさ。
普段は全然意識もしてないくせに。田舎が消滅?関係ないねwって思ってる。
国産の農作物も畜産も漁業も、ほとんど地方で成り立ってるのに。
本当は日本の農業がどうなろうと知ったこっちゃないんだよ。ただ韓国に利益奪われるのが気に食わないだけ。
漁港の街で私は生まれ育ち、私の両親の友人には多数の漁業関係者が存在した。私が幼い頃は、父も本業の合間にパートタイムで彼らの漁船に乗っていた。このため現在に至るまで、魚介類に関しては新鮮かつ上質のものを食べられると云う恵まれた境遇にある。決して裕福な家庭ではなかった(だからこそ父もパートタイム漁師をしていた)が、魚介類に関しては、近所の漁師のおじさんおばさんが呉れるもので事足りていた。おそらく私の実家は、金を出して魚介類を食べることはゼロに等しい。私が「わざわざお金を出してまで、外食で焼き魚を食べる気にならない」と言う理由は、これである。
はてなブックマークでは「増田は美味しい焼き魚を食べられる店を知らないのだろう」といった声も有ったが、そもそも「美味しいものを食べられるのは外食の店だけ」というのが、都市部居住者の傲りである。はてなブックマーカーは都市部居住の富裕層が大多数だから、良い魚介類を外食の店に行かなくても食べられるような「田舎の漁業関係者やそれに近しい人間」の存在など、頭に浮かばなかったのだろう。まるで、美術館で若い女性観覧者を見つけると、勝手に初心者だと決めつけてレクチャーを始める「教えたがりオジサン」のように。
このような美味しい魚介類を好きなだけ、たらふく食べられる境遇で育てられたため、魚の骨を綺麗にむしって余すところなく食べるように、私は両親から入念に教育された。これは現在でも変わらない。家族以外の人間との食事の席で、しばしば「骨格標本でも作るつもりか?」とドン引きされる始末である。頬肉を食べて眼球をしゃぶるぐらい、焼き魚を食べるならば普通のことだ。
非都市部の非富裕層で育てられたので「好き嫌いを言わず、食卓に出されたものは残さず有り難く食べろ」「食べ残しは二度の殺生」と躾けられた。だから私の前に出されたものは、全て有り難く食べる。それが礼儀である。仮に「郷里で食べられる新鮮かつ上質な魚介類」には遥かに劣るような代物であっても、である。そんな時でも、骨むしりマシーンとして育てられた私の習性は、遺憾無く発揮されてしまう。ボクサーが反射的にコンビネーションブロウを出すようなものである。
ボロボロ溢れやすい食べ物も勿論ちゃんと残さず食べる。単に「自分から進んで選択しない」というだけのことである。だから、食べ残しされた可哀想な三色そぼろは存在しない。安心して欲しい。
鮎はどうなのか?と言う声も有ったが、答えは一つである。頭から丸齧りして骨一つ残さず食べる。他にどうしろと言うのだ?鮎は、焼くだけでなく甘露煮も良い。
美味しい鮎だけでなく、現在の居住地では、妻の実家のツテでイノシシ肉、果物、米を食べる機会が多い。これらも当然「わざわざ外食で食べたくないもの」である。
最後に一つ、これだけは言っておきたい。
漁港の街で私は生まれ育ち、私の両親の友人には多数の漁業関係者が存在した。私が幼い頃は、父も本業の合間にパートタイムで彼らの漁船に乗っていた。このため現在に至るまで、魚介類に関しては新鮮かつ上質のものを食べられると云う恵まれた境遇にある。決して裕福な家庭ではなかった(だからこそ父もパートタイム漁師をしていた)が、魚介類に関しては、近所の漁師のおじさんおばさんが呉れるもので事足りていた。おそらく私の実家は、金を出して魚介類を食べることはゼロに等しい。私が「わざわざお金を出してまで、外食で焼き魚を食べる気にならない」と言う理由は、これである。
はてなブックマークでは「増田は美味しい焼き魚を食べられる店を知らないのだろう」といった声も有ったが、そもそも「美味しいものを食べられるのは外食の店だけ」というのが、都市部居住者の傲りである。はてなブックマーカーは都市部居住の富裕層が大多数だから、良い魚介類を外食の店に行かなくても食べられるような「田舎の漁業関係者やそれに近しい人間」の存在など、頭に浮かばなかったのだろう。まるで、美術館で若い女性観覧者を見つけると、勝手に初心者だと決めつけてレクチャーを始める「教えたがりオジサン」のように。
このような美味しい魚介類を好きなだけ、たらふく食べられる境遇で育てられたため、魚の骨を綺麗にむしって余すところなく食べるように、私は両親から入念に教育された。これは現在でも変わらない。家族以外の人間との食事の席で、しばしば「骨格標本でも作るつもりか?」とドン引きされる始末である。頬肉を食べて眼球をしゃぶるぐらい、焼き魚を食べるならば普通のことだ。
非都市部の非富裕層で育てられたので「好き嫌いを言わず、食卓に出されたものは残さず有り難く食べろ」「食べ残しは二度の殺生」と躾けられた。だから私の前に出されたものは、全て有り難く食べる。それが礼儀である。仮に「郷里で食べられる新鮮かつ上質な魚介類」には遥かに劣るような代物であっても、である。そんな時でも、骨むしりマシーンとして育てられた私の習性は、遺憾無く発揮されてしまう。ボクサーが反射的にコンビネーションブロウを出すようなものである。
ボロボロ溢れやすい食べ物も勿論ちゃんと残さず食べる。単に「自分から進んで選択しない」というだけのことである。だから、食べ残しされた可哀想な三色そぼろは存在しない。安心して欲しい。
鮎はどうなのか?と言う声も有ったが、答えは一つである。頭から丸齧りして骨一つ残さず食べる。他にどうしろと言うのだ?鮎は、焼くだけでなく甘露煮も良い。
美味しい鮎だけでなく、現在の居住地では、妻の実家のツテでイノシシ肉、果物、米を食べる機会が多い。これらも当然「わざわざ外食で食べたくないもの」である。
最後に一つ、これだけは言っておきたい。
端的に申し上げるのならば私は狩人である。
北海道の片田舎の漁業と狩猟を生業とする家に生まれた。
突然だがご存知だろうか。鹿は、強い。
北海道に生息する鹿はエゾシカと呼ばれ、本州へ生息する鹿よりも体躯は大きく力がある。
通常であれば猟銃で仕留めるところを仕留め損ね、猟銃禁止区へエゾシカが逃げてしまった場合はアイヌの伝統に習って槍での戦闘が始まるのだ。
筆者は奈良公園の鹿と対面したときには唖然としたものだ。
眼にまるで生き汚さはなく、体躯はたるみ、あまつさえ我々人間に媚を売る始末。
更に仔鹿などは創作物の影響からか愛玩動物のような印象を持っている人だって少なくない様子であった。
私の眼の前には鹿なぞ居らず、私が見たものはどこぞのお貴族様だったのだ。
エゾシカに向かって槍を構える。
穂先を決して上げてはならず地面すれすれを維持する。エゾシカはそれに呼応するように頭を下げて立派な角を向けてくる。
創作物などでは槍を高々と掲げる描写がよくある。映える場面にはなるのだろうが実際の戦闘では悪手だ。
槍を掲げ、そして振り下ろすという動作が遅れた場合を想定して欲しい。
エゾシカの突進は非常に強力で、もしも振り下ろしが遅れたのならば突進をモロに受けてしまい狩人の腹には風穴が開くであろう。
だからこそ地面すれすれに穂先を構え、そして突く。
先手を取る筆者の突きへエゾシカは素早く反応し突進を繰り出す、かに見えた。フェイントだ。
一撃必殺を狙った突きは重い。であるからこそ空を突いた場合の隙きは筆者へ重くのしかかる。
危機を感じた筆者は直ぐさま穂先を下げ、その瞬間にエゾシカは突進を繰り出した。
エゾシカの突進は槍が受ける。高く掲げればこうはいかない。
エゾシカは槍に触れた瞬間に頭を振り回し槍を絡め取ろうとするが、筆者は身体を回して突進を受け流し距離を取る。
穂先を下げて牽制の再開だ。
エゾシカはこちらの様子を伺う。エゾシカの眼が生き汚く睨みつけてくる。
悪いが死んでやるつもりはない。お前が死ね。
見解の一致を交差する視線から悟り、槍と角が交差する。
若鹿にあるような突進一辺倒でない。
一度の突進で押しきれないと理解するや角を振り回して小突く、小突く、小突く。
太い首に支えられつつ、いくつにも分岐した角は捌ききるには厄介だ。
こちらの嫌な表情を見逃さず、小突き、一歩、小突き、一歩と前へ出て圧力を加えてくる。
強い、鹿は強い。
体重差2倍以上、筋力差膨大、スタミナ差途方もない。
突いて、捌いて、下げてを繰り返す筆者の腕は痺れ、悲鳴を上げ、じりじりと追い詰められていく。
鹿は強い、そんなことは知っている。
堪えて、堪えて、堪えて、それでも堪えた終わりは突然やってくる。エゾシカのスタミナが切れたのだ。
銃弾を受けた足の出血が想定よりも早くエゾシカのスタミナを奪い続けていた。
エゾシカの猛攻は止まり、二歩三歩と下がったのちエゾシカはその場に座り込んだ。
エゾシカと筆者の視線が交差する。そして筆者は槍の構えを解く。