「接尾辞」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 接尾辞とは

2024-05-19

anond:20240519171923

Daiso日本以外の国々でも人気を博した結果、そこから「-so」があたかも「安価で様々な生活雑貨を扱う店」や「東アジアっぽい可愛い/便利な品の店」を示す接尾辞であるかのようになって

アメリカでは寿司の盛り合わせを「オマカセ」と呼ぶのだが、そこから転じて小盛りのオマカセがミニカセとなり、「寿司盛り合わせ=カセ」の構図が生まれることに

https://twitter.com/mustafaalyabani/status/1790701396389400797

https://twitter.com/yukimusiii/status/1756477183990624615

2024-04-30

anond:20240429080114

接尾辞です。

automatic自動的な)」以外にも「systematic(体系的な)」や「pragmatic(実際的な)」などがあります

というわけであえて日本語にすると「的な」というニュアンスを持ちます

2024-04-14

[]メロつく

メロメロ」を形容詞化した「メロい」に接尾辞「つく」を付けたもの

メロメロになっている」ことを意味する。

2024-02-26

anond:20240226140841

文学って名称いい加減改めた方がいいじゃねとは思える。どうしたって「学」の字のせいで何か高尚さがなければその定義を満たさないかのような思い込みがつきまとう。

だいたいなんで学問じゃないのに接尾辞に学を使ったのかが謎過ぎるんだわな

2023-11-06

anond:20231105160951

接尾辞じゃあ弱いが、もう一歩進んで暗算できる程度に平易で他人から推測されにくいオレオレハッシュ関数を一つ作っておくのは手だ

いつも使う特定文字列サイト名やドメイン等やらをsaltとして塗した上でオレオレハッシュ関数を通してパスワードを生成するって形にしておけばパスワードのものは使いまわさずに済むぞ

2023-11-05

パスワードを使い回すな」派の人たちってどうやってパスワード管理しているんだ?

ITエンジニアにこの主張をしている人が多いけど、当人はどうやって管理しているんだろう。職業柄上、使いまわしているなんて言えないだけなのかもしれないけど。

パスワード管理ツールで対応できないものもあるし、何をしても脆弱性があるから使いまわした上で接尾辞を付けるくらいしか現実的管理方法が無いと思う。

2023-07-06

anond:20230706100835

A.

「monetize」は、「monetary(貨幣の)」という形容詞から派生しています。「monetize」は、動詞として使用され、特定の物やサービスお金に換える、収益化する、商業化するといった意味を持ちます。このような意味の変化は、接尾辞「-ize」を追加することによって行われています

2023-06-10

[]ルンバブル

ロボット掃除機の「ルンバ」に英語接尾辞「able」を付けた言葉

部屋がルンバを使いやす状態になっていること。

たとえば床に物が置かれていない、家具の隙間にルンバが入れるようになっている、など。

2023-05-19

日本語「er」表記することはできないからだろ。

その点「ラー」なら、音としても表記としても安定的日本語の体系のなかで存在できるので、これをひとかたまりとして接尾辞とした方が頭を使わず造語できるので便利だったということだろう

そもそもなぜ「ラー」というかたまりが生じたかかはおそらく以下の通り

英語動詞の後に「er」を付けると、「~をする人」の意味になります

それを勝手に応用して「シャネル」の後に「er」を付けて、シャネル愛好家を「シャネラー」、安室奈美恵ファンを「アムラー安室er)」等と呼ぶようになりました。

すると、今度はそれを更に応用」して、単語の後に「er」ではなく、「ラー」を付けて、その愛好家を指すようになりました。

2022-12-13

anond:20221213141742

法規

読み方:ちょうほうき

法律規則にとらわれないこと、法規度外視すること。

法規

読み方:ちょうほうきてき

名詞「超法規」に、接尾辞「的」がついたもの

2022-08-28

選手権」の「権」の意味

これ調べてるけどマジでわかんねーな。

辞書的には選手権選手権大会で優勝した選手または団体に与えられる資格

こうなってるけどその資格はいったい……

「〇〇杯」「〇〇旗」みたいな大会があるけど物理的な杯的なモノがあるなら優勝者にはそれが与えられるってわかるけど

選手権」なるものを得たいと思って選手権大会に出る人ってまずいない。

「今大会選手権絶対に欲しいです!」みたいな言い方する選手たことない。

そもそもなぜ優勝したら与えられるのが「資格」なのか?

選手権大会で優勝したら「資格」なんかもらっているか

もらっているとしても、その資格というのを「権」の文字であらわすのがよくわからない。

杯とか旗とか賞状とか名誉とかやりがいみたいなものと「権」がつながらない。

なんなんだ……

追記

おもいのほかトラバブクマあつまったな。みんなサンキュー

まだあんまよくわかってないが……

トラバブクマで気になったのは語源的には英語のchampionshipについての話が興味深くて、まあ選手権のもとになった言葉はおそらくchampionshipなんだろうなーとは思う。

あとはそもそも「権」の意味が 「権利」だけじゃないよねって話だな。

「権」という文字には「力」という意味があるらしいけどそうなると権利権益は「力があること」による利益だし権威は「力があること」による威厳だし

選手権は「選手になる権利」じゃなくて「選手の中で特に力のあるものという称号資格」という意味なのかなって。

少なくともワイは「権」をそのまま「力」だとは解釈してはいなかったか面白いと思ったな。

そういえば英語接尾辞の-shipは「状態身分・職・任期技量・手腕」をあらわすとなっていてfriendshipとかrelationshipとかあるしおそらく「権」よりもひっつく対象が広いんだよな。

おそらくchampionshipshipは「championという身分」ということなんだろうな。

ただワイのいちばん問題意識は、日本語で「優勝者が得るもの」の意味ものごくみんなあんま気にしないようになってないか?ということなんよ。

ワールドカップ出たい!」「ワールドカップで勝ちたい!」「ワールドカップ手にしたい!」これは全部通じるけど

選手権場合は「選手権出たい!」「選手権で勝ちたい」までは通じるけど

選手権を手にしたい!」とか言ったらなんやお前?ってなるやろ?いや、お前もう選手やん。みたいな。

なんで一般的選手権という言葉から優勝者手に入れるもの」という意味が薄れていったのか?っていう素朴方面な疑問がでかくなっている。

2022-06-02

[]モネスク

モナコ人のこと。

モナコ公国では外国人の方が多く、生まれも育ちもモナコという人が少ないので、特にそういう生粋モナコ人のことを言う。

要するに「English」とか「Japanese」と同様の言葉なので「モナコ風」「モナコ語」などの意味もある。

モナコ語(あるいはその元となったリグリア語)でモナコを表す「Munegu」に、フランス語で「〜風の」を表す接尾辞「-esque」が付いたものである

これも「ロマネスク」や「アラベスク」などと同様の形である

2021-10-10

anond:20211009101153

ブコメ文字数が足りなかったので、こちらで。

hamburgerの-erは、英語ではなく、ドイツ語接尾辞

Berlin→Berlinerのように、地名に付けて形容詞化したり、「ベルリン住人」みたいな名詞を作ったりする。

英語では、-(i)an、-ish、-eseなどに相当)

元々は「ハンブルクの丸い肉」的な料理名だったものが、前半部分だけ生き残って現在に至る。

ちなみにhamburger本来、パティの部分(つまり日本語でいう「ハンバーグ」)のみを指す言葉なので、丸くこねて焼いたひき肉が入っていない料理は、何で挟んでいても「ハンバーガー」ではない(「フィッシュバーガー」「エビバーガー」などは意味的には成立しない)。英語話者意見も聞きたいところだが、ハンバーグごはんで挟んでいるものは、「ごはんバーガー」と呼んで差し支えないのではないかと思う。

2021-07-03

anond:20210703150956

まりにも苦手なんだったら単語自体を覚えるのやめて、接頭辞接尾辞の種類を覚えてわからない単語見るたびに意味類推すればいいと思う

2021-05-19

anond:20210519000127

例えば、一般的学校では接頭辞接尾辞について習わないと思う。(少なくとも自分は習ってない。)まあ、「単語を覚えれば自然にわかるだろ」と言われればそうなんだけど、それこそわかりにくい教え方そのものなんだよな。自分はできれば「接頭辞接尾辞を暗記して、単語意味は推測しながら自習する」という習い方をしたかった。

2021-02-16

「はんこレス」ってダサくない?

日本語英語接尾辞をくっつけてるのがダサい

2020-06-25

中公新書新刊間違い探し

最近出た中公新書について、細かい誤りを見つけたんだけどどうすれば著者に届くかよくわかんなかったのでとりあえず増田に放流してみる。

岡西政典『新種の発見

https://www.chuko.co.jp/shinsho/2020/04/102589.html

ラテン語は、現代では使われていない古典死語であり、ギリシャ語ゲルマン語などをはじめとした多くの語派を含有した西洋古典である」(24頁)というのは、ちょっと世界史地理に詳しい人なら容易にツッコめると思う。これを校正さんが見逃したのは本当に謎。

ラテン語ギリシャ語ゲルマン語を含有してない。それらを含有してるのはインド・ヨーロッパ語族だ。つまり、こういうこと。

語族・語派・語ってのは目・科・属みたいなもんだと思ってもらえれば(めちゃくちゃ雑な説明。実際には他の言語との系統関係証明されていないグループを「語族」というので、目というよりは門とか界とかの上位分類に近い)。こう整理すれば上の文のおかしさもわかってもらえると思う。動物の分類に関する本で言語の分類に関する大ポカをやらかすというのはなかなか批評性が高いけど、生物学が専門の人が言語の分類に明るくないのは仕方ないので、校正さんがきちんと拾ってあげるべきだったと思う。日本語いくらでも情報が手に入る話なんだし。

japonicusも「日本産の」の意味であるが、これはJaponJapanラテン語綴り)に“-icus”の接尾辞を加えたものである」(186頁)とあるけど、ラテン語で「日本」はIaponiaである。これはラテン語版Wikipediaを引いてみれば一発でわかる。IとJはもともと同じ文字なので、Japoniaということ。どうもこの著者さんは、形容詞から語尾を引けばもとの名詞になる、あるいは、名詞の後ろに決まった語尾をつければ形容詞形ができると勘違いしているのではなかろうか(「中国」に関する説明からも、そう勘違いしていそうなことがうかがえる)。しかし、英語FranceとFrenchの関係を見ればわかるように、印欧語では名詞のうしろに決まった語をつければ形容詞になるとは限らないのだ。

少なくとも、この本、ラテン語の部分はラテン語がわかるひとにチェックしてもらって大幅に書き直した方がいいと思う。著者さんが、「学名をつけるときの語尾のいじり方」については知っていても、「ラテン語文法」をわかっているようには見えないので(「こういう名前ときはこういう語尾をつける」というのは、経験知であって「文法パターン」[185頁]ではない)。学名をつける側のひとも、-iや-aeといった格変化のうしろにどんな文法規則が隠れているか知ることができたら面白いんじゃないかな。

中谷功治『ビザンツ帝国

https://www.chuko.co.jp/shinsho/2020/06/102595.html

「フォカスという名の下士官将校」(35頁)ってあるけど少なくとも近代以降では下士官将校士官)ははっきり区別される別の身分である日本語Wikipediaでは「下士官」と書かれていて、英語版Wikipediaでは「下級士官low-ranking officer)」と書かれているんだけど、要するにビザンツ帝国軍は近代的な軍組織ではないので、ある階級士官下士官か厳密には決められないってことだと思う(フォカスは百人隊長だったらしい。うーん……)。でも「下士官将校」はおかしい。「下士官」と書くか、「下級将校」と書くかのどちらかにすべき(個人的には、前近代でそのへんの厳密な区分はできないんだから、素直に「百人隊長」と書けばいいと思う。こう書けばどんな地位なのか一発でわかるし)。

セルビア人の有力な領主コンスタンティン・ドラガシュ・デジャノヴィッチ」(275頁)って書いてあるけど、英語版Wikipedia確認するとKonstantin Dejanovićなのでどう見ても「デヤノヴィッチ」です本当にありがとうございましたロシア語綴りはКонстантин Деяновичだけど、これを見れば「デジャノヴィッチ」ではありえないのが一発でわかる(セルビア語jaロシア語のя)。ひょっとしてギリシャ語だとデジャノヴィッチが正しいのかな? って思って現代ギリシャ語版Wikipedia見てみたけどΝτεγιάνοβιτςなので普通に「デヤノヴィッチ」ですね。著者さん、さては西欧語の文献だけチェックしてギリシャ語綴りチェックしてないな?

最後になるけどどっちの本も面白かったです。すごい勉強になりました。上で挙げた点は非常に些細な間違いなので、本全体の価値を貶めはしないことを付け加えておきます

2020-06-16

[]ミステロイド

推理小説意味する「ミステリ」に接尾辞「-oid」(「〜のような」の意)をつけたもの

すなわち擬似推理小説

ミステリ体裁を取りながらもスッキリした解決などがなく本質的ミステリではない小説のこと。

竹本健治造語

2020-03-21

漢字勉強しないといけないの損じゃね?

一回できるようになっちゃえばへんとつくりで類推とかできて便利ではあるんだけど、それをいうならアルファベット言語でも接尾辞接頭辞とかで似たようなことができる

ヨーロッパ人が4カ国語できるとか言ってんのみるたびにムカつく やつらせいぜい100文字(大文字文字筆記体ブロック体)くらいしか覚えなくて良い上に文法とか単語結構似てるからな…

 日本人漢字覚える時間に他言語やってたらトリリンガルくらいいけるのでは

2020-02-21

anond:20200221181522

コックがクロッシュで皿を覆って料理当てのクイズをよく出していたこからクイズ」+フランス語接尾辞「ーヌ」で料理意味になったんだぞ。

2019-11-04

anond:20191104142158

Cornellの議論は、ポルノグラフィ危害を認める一方で、ラディカル・フェミニズムの主張するような形での危害を相対化する。「さらに言えば、マッキノンによると、ポルノグラフィ男性レイプへと駆り立てることによって産業の外においても女性への直接的な暴力を引き起こす原因になるという。これから見ていくように、私はポルノグラフィの直接的効果としてレイプ輪郭づける因果モデルの適切性を疑問視する。……私は原因―結果モデル自体に関して疑問を呈したいのである。これほどまでに複雑で多層的に象徴が刻み込まれているセクシュアリティ世界でこのようなモデルを使うことは難しい。しかし、このモデルはドゥウォーキン/マッキノンの条例案の基礎として決定的な意味を持っているのである」 。実際に、McKinnonのポルノグラフィ観は、その表象性を(意図的に)無視したものであり、その点について法による規制という強力かつ一方的手段を用いることには強い疑問がある。「……しかし忘れてはならないのは、ポルノグラフィーは、「グラフィー」という接尾辞が示すように、何よりもまずひとつ表象、ひいては表現作品で……ある。人種差別と同列に語りうるのは性差別であってポルノグラフィーではない(性差別は様々な形をとりうる)。ところがマッキノンらにとっては、結局のところ、ポルノグラフィーと性差別同義語なのである彼女らが、ポルノグラフィーにおいて重要なのはそれが「する」ことであって「いう」ことではない、行為であって思想ではないと、ことさらに強調するのはそのためである。……ある表現物が「いう」ことは、なにも(一義的な)「思想」や「メッセージ」に限られるわけではない。言語というものは、自然言語であれ映像言語であれ、ある奥行きをもった立体であり、そこには多重な意味作用が畳み込まれうる……。マッキノンらの議論は、……ジョン・R・サールが「間接的言語行為」と呼んだような現象をいっさい捨象した議論である」 という批判は、言語行為の間に明確な区別を設けずに、ポルノグラフィ性差別のものであるという一種イデオロギー依存した議論に対する批判のものである

もちろん、McKinnonらの条例案は、ポルノグラフィという言葉制限的に定義することによって、そうした一般的議論ではなく、特に女性に対して酷薄もののみを定義域に含めている。しかし、それですらなお表象問題は不可避であり、言語行為限定なく同一視する立場には、疑念がある。まして、直接的効果が後年の研究によって疑問視されている状況にあって、規制根拠果たしてどこまでの力を持つといえるだろうか。仮に、McKinnonの主張がなされた当時においてそうした言語行為が一致するような時代的状況が存在したということを承認したとしても、その射程は現代日本には必ずしも及ばないだろう。つまり日本におけるポルノグラフィ製作必然的にそうした女性虐待表彰ではなく行為として含み、またそうして製作されたポルノグラフィ表象必然的に(fuckerとしての)男性レイプに至らしめ、(fuckeeとしての)女性従属化を固定化する構造を持っているということが実証的に明らかでない限り、法による規制という手段は困難であろうと考えられる。

また、Cornellの依拠するポストモダンフェミニズムは、立場としてのポストモダン主義を前提としており、そこでは、男性性/女性性といった二項対立的な概念整理はそれ自体批判対象となる。McKinnonらの議論は、女性解放というフェミニズム根底目的に対して、一定文化コードとしての女性性を再定義し書き込むものである、というのがCornellの分析である。そしてこれは、ポストモダニズムコミットするか否かというメタ的な問題を抜きにしても、汲むべきところのある議論であろう。つまりポルノグラフィ規制根拠として、加害者/fuckerとしての男性被害者/fuckeeとしての女性を暗黙裡に前提し、それを基盤として提示される議論は、必ずしも現代において盲目的に首肯されるべきものではないというところである

そもそもポルノグラフィは、男性のみによって消費されるものではない。これは、少なくとも現代日本においては議論に際して念頭に置かれてよいことであるように思われる。レディースコミックと言われるジャンルは、1980~90年代ごろから女性向けの(広義での )ポルノグラフィとして書店に並ぶこととなった。また、同人誌として、いわゆる「やおい本」や「BL」というジャンルもこの頃から一定勢力として存在していた。これらは全く女性使用し、消費することを前提に(そしてその多くは女性たちの手によって)制作されたものである。ここでは、ポルノグラフィ概念として当然に前提されていた男性消費者ということさえもが相対化されている。それは、女性性的欲望セクシュアリティがfuckeeとして規定されていたこから解放であるとも評価できるのではないだろうか。そこでは、主体として性的願望を抱く女性が前提されている。ここでは、主体-男性/客体-女性というメタ二項対立接続否定されている。これは、ポルノグラフィ危害論において、根底を掘り崩す事実であるのではないか、と考える。これに対して、メインストリーム男性製作し、男性が消費するポルノグラフィであるという反論はまた、十分に考えられる。しかし、仮にメインストリーム男性向けであって、女性けがサブストリームであるという主張を容れたとしても、なおポルノグラフィ必然的に男女を社会的構造化し、差別を直接的効果として助長し、あるいは引き起こすものであるという根本主張は、強く相対化されたものとしてとらえられなくてはならなくなるということは言ってよいように思われる。

4. 結び

前章において、ポルノグラフィの及ぼす危害について、その直接性が少なくとも現代日本においては相対化されるべきであることを示し、また、McKinnonやDworkinの議論それ自体に潜む女性性のコード化はフェミニズムの本義からしてなお批判可能性を有するものであるというポストモダンフェミニズム見解を紹介した。そのうえで、表現の自由という価値原理ポルノグラフィに対していかに向き合うべきかということを簡単に整理する。

日本において、表現の自由の価値は高く見積もられる 一方で、定義づけ衡量のもとでポルノグラフィを含む一定表現について規制肯定する。そして、ことポルノグラフィにおいてはそれが善良なる性風俗や最低限の社会道徳の維持という目的のもとに正当化されてきた歴史判例上有する。McKinnonらの議論において革新的であったのは、ポルノグラフィ規制道徳的な問題と訣別し、女性に対する危害の面から規制検討されるべきである、ということであった。この指摘は、法と道徳可能な限り切り分けようとする立場をとるならば高い妥当性を持つものであり、その危害現実的に認められる限りにおいて表現の自由に対する制約は当然に許されるものとして考えられる。しかし、この危害に関しても、「(リューベン・)オジアンの著作[ポルノグラフィーを考える(2003):筆者註]は、ポルノグラフィーに対する道徳哲学の立場からアプローチであるという点で注目に値する。彼は、ジョン・ステュアート・ミルの「危害原理harm principle」……の流れを汲む自身の「最小倫理éthique minimale」に基づいて、ポルノ規制正当化する議論……に反駁している。ポルノグラフィーがもたらすとされる「危害」について、オジアンが反ポルノフェミニストとは大きく見解を異にしていることは容易に想像できるだろう。興味ぶかいのは、オジアン同様「善」ではなく「正義」の問題として……ポルノグラフィーをとらえたはずのフェミニスト議論すらじつはある「善」概念を暗黙裡に前提していると彼が指摘している点である」 という指摘がある。つまり特定の善概念に基づいた特殊的な危害が主張されているに過ぎないのではないか、ということである。例えば、守旧派的なキリスト教における「善」の概念同性愛を悪と断じたことを考えれば、一定の善が前提されたうえで主張される危害は、相対化してとらえられるべきであろう。

こうした危害についての理解は、法規制についてネガティヴであるさらにMcKinnonらの主張には逆行することとなるが、むしろその主張における「道徳から危害へ」の転換は現在規制すら過剰なものであるという結論への親和性を有している。もちろんこれは、女性に対してポルノグラフィ制作現場において発生する暴力虐待を許容せよということを決して意味しない。むしろ、そうした事態が発生した場合に、適切に法が救済を与えることは、考えるまでもなく必要なことである。そのためにいかなる手段妥当であるかが問われるべきではないだろうか。

一部のフェミニストが主張するように、ポルノ出演や売春を含めたセックスワーカーである女性が、法規制対象となるのではなく、むしろつの職業」そのものであり、合法であるという社会的及び法的な認知必要となるのではないだろうか、と考える。それが社会的正業である認知されることは、その「職場」におけるハラスメント虐待を看過しないことにつながりうる。問題が発生した場合に、自らの「クリーンハンド」において司法の救済を要求することが可能となる。そして、そうした「解放」は男女(あるいは性的少数者性)を問わずに自らのセクシュアリティに対して真剣に向き合うことを要求する。それによって、直接的は生じないものの、間接的にあるいは無意識的に発生しうる「危害」は社会的に相対化されうるのではないだろうか。

以上のポルノグラフィ規制緩和論が、法が向き合うべき一つの筋道ではないだろうかという主張をもって、本レポートの結びとする。

参考文献

キャサリン・マッキノン,アンドレア・ドウォーキン中里見博,森田成也訳「ポルノグラフィ性差別」(青木書店, 2002)

・ドゥルシラ・コーネル仲正昌樹監訳「イマジナリー領域」(御茶の水書房, 2006)

大浦康介編「共同研究 ポルノグラフィー」(平凡社, 2011)

キャサリン・マッキノン森田成也ら訳「女の生、男の法」(岩波書店, 2011)

スーザン・J・ヘックマン著 金井淑子ら訳 ジェンダーと知 : ポストモダンフェミニズムの要素(大村書店,1995)

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