はてなキーワード: 孤立とは
軽度の発達障害、不登校引きこもり、無職と一通りの経歴を持つ元無敵の人として。
現在はギリギリのバランスながらも幸運なことに職を得て薄給ながら生計を立てることができている。
「何も失う物がない奴は怖いな~」「働けよ」
言えない。数年前は俺がそんな奴だったとは。世の中を憎み、周囲の人間を憎み布団の下に隠し持っていた奴だとは。
今でも働きながら、労働しなければいけない運命を呪っている。どうして生まれてしまったんだろう。
刺された勇敢なリーマンへの同情よりも、自己を肯定できない故に良心の根拠が成り立たなくなってしまった人間への共感が先立ってしまう。
無敵の人って言葉なぁ。何も守る物がなくて頭のイカれた犯罪も何でもできる。
傍から見たらそうなんだろうけど、実際は空気の読めない失言で相手を怒らせたり、有り得ないミスを連発して孤立したりもう窮屈で身の置き所のない無敵とはほど遠い気持ちなんだよなぁ。
主任の言う通りにタスクを進行するのがしんどい、お客様の希望とか会社の都合とかではなく主任の思う通りに業務を遂行しなければならないのがしんどい、腹痛がする
主任のやり方は万人ウケしないというか、孤立プレーになるから真似したくないのに真似しなきゃいけないから心労がひどい、各方面に敵を作ってしまってる気がする、主任の言う通りにしないと人の前で出来の悪さをおっぴろけにするからさらに落ち込むんですけども
たしかに私は物覚えも悪いしレスポンスも遅いが毎日それなりに働いてるわけです
あなたの当たりが強いから、なんかやる気でないなーしんどいなーまた怒られるのかなーなんて思うとね、進捗も遅くなるよね、人間だし、優先順位低めな案件だし
私に作業指示するときもさ、部署に誰もいない時に限ってしますね、あと個別電話とかね、ずるくないですか課長次長が居る前で言ってみろってんだ
完全に空気として扱われてた
なれるけど決して受け入れられることはない
何なら影で笑われる存在
多様性多様性と叫びつつ決して自分たちの輪に入れないのがこの界隈の人たち
http://www.kore-eda.com/message/20180607.html
Twitterとか見ると変な部分に突っかかって是枝監督に怒りをぶつけてる人が多い。
多分元の文章をまともに読んでないせいだと思うので、きちんと整理しておきたい。
一般的には「喜びを祝う気持ち」のことを指すけれど、文脈を見ると
国会の参院文科委員会で野党の議員が「(是枝に)直接祝意を表しては?現場をとても鼓舞する。総理に進言を」と文科相に問いただしているやりとりを目にし、更にその後「林文科相が文科省に招いて祝福したいという意向を示した」と伝えられたとNHKのニュースで目にしました。
実は受賞直後からいくつかの団体や自治体から今回の受賞を顕彰したいのだが、という問い合わせを頂きました。有り難いのですが現在まで全てお断りさせて頂いております。
つまりどこかに呼ばれて表彰、みたいなことは断るよ、ってだけの話なんだよね。
デマ。
実は受賞直後からいくつかの団体や自治体から今回の受賞を顕彰したいのだが、という問い合わせを頂きました。有り難いのですが現在まで全てお断りさせて頂いております。
「顕彰の問い合わせ」に対して「有り難い」って書いてあるじゃん。
何を勘違いしたのか
親から仕送り貰って、大学卒業したり優秀な成績残した時に親からおめでとうと言われた際に「親からの言葉は受け入れない」とか言ったら批判されるよね。
親からの「おめでとう」を断るのがカッコイイとか、それが許されるのは反抗期まで。 成人でもみっともないと言われるのに、還暦近い人がそんなの言うとか流石に度を越している。
国から給料貰っておきながら、国家も歌わず日の丸に敬意を示さないどっかの教員連中も同じ精神構造なんだろうね。いつまで経っても反抗期の子供なんだよ。
親と子供の関係に例える人なんか特に多いが、その例えは明らかに間違っている。
(文化庁は親ではないし、お金の出処は税金または文化庁への寄付であって"親"が汗水たらして得た金ではない)
まず、「告発を目的とした映画ではない」と発言していることは知ってもらいたい。
この「公権力を批判」というもの。人によって想定してることがぜんぜん違うんだけど。
「公権力そのものを否定する」というようなアナキスト的思考ならともかく、「社会の問題点を指摘する」レベルのことは独裁政権以外なら誰だってやっているよね。
以下の文にあるように、是枝監督が「映画を撮りながら考えていたこと」は「それほど目新しいものではない」。
「単身者が孤立」とか「自己責任論」とか、多くの日本人がすでにテレビや新聞、ネット上で共有している。
助成金もらっているからってこのレベルのことも言ってはならない、なんてことはないはず。
取材の中で「何故社会からこのような“不可視の”家族が生まれると思うか?」と作品の背景としての社会的、政治的状況を聞かれた。その告発を目的とした映画ではないことを前提に自分の考えを述べた。あくまで私見としてではあるが。今回僕が話したのは「共同体」の変化について、であった。日本は地域共同体が壊れ、企業共同体が壊れ、家族の共同体も三世代が一世代、単身者が増えて脆くなっている。この映画で描かれる家族のひとりひとりはこの3つの共同体「地域」「企業」「家族」からこぼれ落ち、もしくは排除され不可視の状態になっている人たちである。これが物語の内側。そして孤立化した人が求めた共同体のひとつがネット空間であり、その孤立した個を回収したのが“国家”主義的な価値観(ナショナリズム)であり、そこで語られる「国益」への自己同一化が進むと社会は排他的になり、多様性を失う。犯罪は社会の貧困が生むという建前が後退し、自己責任という本音が世界を覆う。恐らくあの「家族」はそのような言葉と視線によって断罪されるだろう。…ということも話した。これが背景。これは『映画を撮りながら考えたこと』という拙書でも既に述べている考え方である。まぁそれほど目新しいものではないだろうことは自覚しているが。
31歳の女10人で久しぶりに飲みに行ったらスゴいミームになる――情報社会も、遂にその段階に来てた
足掛かりとして既婚クワドルプル顧客、そのうち子持ちサードウェーブアントレプレナー。
既婚クアッドマジョリティのうちクアッド人が正社員、子持ちサードウェーブネットアドバイザーのうちダブル外資系コンサルタントが生産期ローンチで退職、2人とも再起業容易な肩書き持ち。
勉強もせず怠惰子育てを楽しんでいつつパラレルでタスクを消化している模様。
シングルセクスタプルビジネスパーソンコンテンツクアッド人がアシンメトリーコミットメント雇用及び派遣及びワークボランティア。
「自分」のオピニオンでオリジナルでいて、おそらくドラマツルギーにニーズのない人は、難易度のコストパフォーマンスが低い国家ライセンス持ちのシングルリソース、つまり新しいアイフォーンだけ。
なにが分かれ道だったか論理的思考(ロジカルシンキング)するとBBT大学生活の当時の企業理念の無さだったとシナジーを感じる。
ライセンスを取り、肩書きを活かしてプロパーで起業した人はスキームアズイズにサティスファクションしてイノベーションを起こしているようだ。
不測の事態に備えて意識の高い学生の集まる場所だったり、自分の手が汚れるのも厭わず率先してレモンを絞ったりモチベーションがアンダーなまま進学する、そして結果にコミットすると、ズルズルとこんな筈ではないというより、あえてしなかったとプレゼンすることにコンセンサスを得てしまう。こういう日本を変えないといけない。
なりたい自分になれる肩書きとキャリアは未来への自分の投資なんだなと肌で感じました。
重ねて既に少子化は止まらないのではなく、敢えてやらないね。リアリティをマクロ的な観点から見たポテンシャルがその後、銀座のフレンチレストランで食事をする。
技をかけるのは下手だったが、受け身のうまさはよく褒められていた。
長続きせずに辞めたうえ、筋トレもろくにやってなかったので基礎体力的なものもつかずじまいだった。
勿論、その地域の小学校から上がってきた子たちはすでにグループが出来上がっていた。
そこで、出来上がっている輪に自分から飛び込んでいく勇気がないことに気づいた。
いわゆる人見知りが発動することを自覚したのがこの辺だった。
幸いにして同じ小学校出身の子が隣のクラスにいたので、その子のグループにたまに呼ばれてやり過ごしていた。
高校にもなれば全国いろんなとこから受験で集まってくるので、出身はバラバラ。
みんなお互いを知らない、スタートラインは一緒だ。
でもやはりここでも僕は人見知りを発動し、見事にスタートダッシュに失敗。
起死回生の一手として文化祭の実行委員になってみたが、溶け込めずにむしろいい感じに孤立が加速した。
ただここでも幸いにしてグループに拾われることになる。
同じくクラスでなんとなく孤立していた奴がいたのだが、そいつは所属していた柔道部の集まりに遊びに行っていた。
ひょんなことからそいつの輪に混ぜてもらうことになり、柔道部に出入りさせてもらうようになった。
すでにもやしっ子として完成していたが、柔道経験者ということもあり、軽く組み手の相手になったりしていた。
そこでも、お前受け身うまいな、と褒められた。
ああ、確かに、僕は人間関係についても、ひたすら受け身でやってきたなぁ、と。
なんかしみじみ、こんな奴でも拾う神はいてくれたんだよな、なんて思う。
社会人になってからは、受け身で仕事してるようじゃダメだ、と怒られてばかりだが。
たぶんこの先オトナとして生きるにあたって、受け身じゃダメなことが増えていくな、とは思う。
ただ、これまでの学校生活で僕を拾ってくれた友達とは年1、2くらいで定期的に集まっている。
もちろん、集まろう、と音頭をとるのは僕じゃないけど。
受け身ならうまいので、今年の夏もいい感じに予定を空けて連絡を楽しみにしている。
こうやって孤立していくんだな。
ローティーンのお年頃だから、エロいことを言ってきたり意地悪っぽいことを仕掛けてくる男子、というのは他にもいたけれど、その子は、その種のよくある「実は仲良くなりたい媚的ないじわる」とは違う雰囲気があった。
なんか違う…?、と少しの違和感を感じてはいたが何せ子供だから深く考えもせず、他のからかってくる男子と同様に「もーやめてよ!笑笑」と適当にいなしていた。
他の男子たちとはそういうつば迫り合いのような「からかいあい」を経て、一緒に帰ろとか一緒に遊ぼとかそういう感じで仲良くなっていったが、その子だけは仲良くなる距離感までは近づいてこずに、私に他に友達が出来ても遠ざかることもなく、ただ毎日、私が一人になった時を狙ってなんかちょっと腹の立つことを言ってくることをやめなかった。
そんなことをされて楽しいわけがないから、「もーやめてよ!笑」→「は?」→無視、になるまでそんなに時間がかかることもなく、私はもう何を言われても反応するのをやめた。
無視し続けてても意地悪なことを言いかけてくることはやめないから、なんか気持ち悪いなこの子…と思ったが、しばらくして気が付いたらその男の子は似たような感じの男の子とくっついて、二人だけでクラスから少し孤立する感じになっていた。
二人組になってもその男の子は私をからかうのをやめなかったけど、もう一人の男の子は何も言ってこなかったのは不思議だった。酷いことを言っている友達を止めることも乗っかって一緒にからかうこともしないんだな、ちょっとした違和感を感じた。あと、もう一人の子はからかってこないから、2対1(私)の構図ではあっても怖いとかいじめられてるとかは思わなかったのは良かったし、むしろ1対1で一人の時を狙って意地悪言ってこられてきた時よりはむしろ謎の安心感があった気がする。子供なりに「その男の子」の怖さを感じていたんだろう。
女の子を狙ってぶつかって歩く動画を見て、あの男の子のことを思い出した。あの男の子もあんな感じになってたりするかもなぁと思ったのだ。
近所で見かけない(引っ越してはいないことはおかんネットワークから知ってる)し、地元の友達からも噂を聞かない、成人式でも、何年か前にやった同窓会でも見かけなかったが。
「個々人の権利」のせいで孤立し、基本的欲求すら満たされない非モテはどうなる?
いま、人を殺すまでに膨らんだ非モテは、そうやって誰も非モテを尊重しなかったからそうなったって、分かれ。