はてなキーワード: 聖人とは
せめて新銀行東京の名前となぜそれが問題なのかぐらい自分で調べてから、その筋で非難すればいいのに、ばかだなあホント。愚民は誰だよ。
ここでも揚げ足取りばかり。八方美人の聖人など期待しているうちは政治に口出さないほうがいいですよ。まあ、投票しない口実ができてよかったね、としか。
主にブラック企業関連の批判が多い人。まあこの人は中身もなかったし当選することはないと見てましたが。
http://d.hatena.ne.jp/NATROM/20110318#p1
そして、今日。
武田邦彦 (中部大学): 原発 緊急情報(47) 汚染・6日に日本全土に拡がる怖れ
http://takedanet.com/2011/04/47_afa2.html
これはどちらかというと玉寄りの記事であると思う。そしてブコメでもそういう評価も多いようだ。
今回の大震災でボロを出した人は多い。一部ではそれ以前からボロが出ていたが、これを機に人口に膾炙したような人もいるだろう。
代表例として池田信夫がいる。彼は玉石で言えばごくまれに玉のような記事を書くが、たいていは石っころの記事を書く残念な「学者」である。
ところで、
NEWSポストセブン|反発覚悟で森永卓郎氏提案「日本は原発のスイッチを入れよ」
http://www.news-postseven.com/archives/20110404_16422.html
森永卓郎は池田信夫よりマシという程度の凡な学者だというのが私の中での評価だが、経済学者はどうしてこうもリスクを度外視した提案をするのだろう。
経済学にはリスク評価や維持コストまで含めたモデルが存在しないのか?それとも経済学とはここまで残念な学問だったか。それはないと思いたい。
とにかく、今回を機に「学者」の権威も失墜したと言える。「東大www」とバカにされるように、「東大教授wwww御用学者の限界集落だろwww」と罵倒される時代が来たのだ。
政治不信にせよ、御用学者不信にせよ、根っこは共通である。彼らに求められているのは超人かつ聖人である。あるべき日本人のイデアを求められているのであり、彼らはそれを体現する圧力に晒されているのだ。そしてそれが実現不能なのは言うまでもない。彼らは失敗するし、無理解もある。
玉石混淆こそ人間の証明である。玉しか求めないのは机上論人間の押し付けでしかない。
そしてこの超人欲求こそが張りぼての神話を呼び起こす圧力になる。失敗しません、なんてのは初めから不可能である。正社員安全神話も鉄道安全神話も崩壊した。そして原発安全神話も崩壊した。それが崩壊することこそが権威失墜の動機であり(権威は失敗が許されず、失敗するということは世間に取って凡人であることを導く)、デマを信じる源泉になるのだ。信頼性に於いて学者の言い分もデマも同列になったのだ(最大限譲歩して、フラットになったといえる)
http://d.hatena.ne.jp/NATROM/20110329#p1
まあ、これは医療という立場から踏まえた合理的な考え方に基づくものだから、差別をすべきではないというのは正しいかと思う。
トリアージは差別になるだろうか、と言えば、私は差別になると考える。合理的差別だ。
救うべきものと救えないものを分類し、スクリーニングにかけるということで、より多くの命を救えるのだから、これはやむを得ない。記事も、「不要な」と前置きしてスクリーニングを否定していることを読めば、必要なスクリーニングはあるという考えが見えてくるだろう。勘違いしてはいけないのが「スクリーニングすべてが不要」ではないということだ。そこを誤解しているブコメが幾つか見られる。
「差別を許容することによって自分が差別される側に立たされるリスク」とは、差別の語の前に不要な、を補うのが望ましい。しかしながら、合理的差別のそれも、こうしたリスクを孕んでいることは疑いない。言ってしまえば戦争状態である。
「差別を許容してはならないのは、そのとき差別される人のためだけではなく、自分のためでもある。」というのは、「もし自分が差別される立場に立つ可能性」を踏まえてのものである。そうしたことを慮って差別しないこと、即ち賢い人であるというのは、恣意的な操作ではないだろうか。
また、これすらも医療の立場からの提言であり、一般的な差別全般に対しての言ではないということも注意したい。
さて、記事自体からの引用はさておき、これから差別全体について、合理非合理を交えた私なりの考え方を該当ブコメからの引用を取りつつ述べることにしたい。
Apeman 「しかし、差別を正当化する代償は安くないと私は考える」 構造的な差別についてはマジョリティにとってその代償が極めて安くすむのがこの社会の問題。
構造的な差別、というのがいかなる差別に当たるのか私は誤解しているかもしれないが、ここでは社会的差別ということに換言したい。
つまり社会構成員としての人間が、構成する社会から言わば「空気」のようにのしかかるものだ。例えば、容姿差別、性差別、学歴差別、年齢差別がこれに当たる。
今四項の差別を例示したが、前二つは先天的なもの、学歴差別は後天的な物、年齢差別は漸進的なものである。社会的に合理性をもって正当化されるのは後ろ二者で、前二者についての差別も深刻ではあるが、後者ほど合理的ではなく、日進月歩で改善も見られる。とはいえ、まだまだなのが現状だ。後者に至っては、半ば当たり前というか、「しかたがない」というような意見を耳にする。特に、企業の採用活動などを見るにつけ、それは顕著である。また、学歴差別、年齢差別のメタなものとして「知能差別」が挙げられよう。つまり、「バカは黙れ」「老害はとっとと死ね」の類である。はてなでもここらへんの差別には寛容で、ブコメでは毎日のようにバカに対する差別で賑わっている。
ここに見られるのは慣習的な使い方の「自己責任」が背景にあると思う。性差別などは先天的なものであり、それを打破するのも頷けるが、学歴差別は言ってしまえば「努力の結果」による側面が評価されがちで、できなかったのは本人のせいだ、と抑圧される。簡単な例としては、新年の銀座の福袋を確実に欲しいなら、朝来るのではなく前日前々日から並べば良い、手に入れられなかったのはそういう努力を怠ったからだ、というわけだ。他にも花見の場所取りなども似たようなものだ。要は、ある集団に序列を与えて、その上にいる人ほど大きな恩恵を与えるべき、ということである。これは、集団の下の方への保障の仕方によっては「逆差別」と言われることもあり、非常に難しい問題である。
Sinraptor 差別, 原発, 災害 今後汚染地域に住む人々が、結婚差別などにさらされることも考えられ、些細な事項であっても差別は許容しないという姿勢が必要だと思う。
まったくもってその通りであるが、これは地域差別の問題にも直結している。つまり差別する側が地縁を事由に差別される可能性は体感的に低いのである。
だいたいの人間は相手に見られたとき、悪くても「何処の馬の骨」で、評価はゼロが最低なのだ。しかし、地域が被差別になるとこのゼロがマイナスになる。非合理的な差別はだいたいが不安感情に由来する。正負の乗算が負になるように、相対的に自分が上だと分かってしまうと、それより下のものを「穢れ」として退けたくなるものなのだ。だからこそ差別をしないというのは理性的なものだし、差別をするのは本能に因るし、だから一部のはてなーは例外なく知能差別を(ry
uchya_x しかし、ここは再三差別発言を繰り返している人物が首都の知事に三度も選出されている国でもある。今度も当選するようならどうすればいいのやら。 2011/03/29
これは実はなかなか面白いもので、差別をする人の中にも「政策の支持を得るもの(優れているわけではない)」とそうでないものの二者がいて、石原慎太郎というのはこの前者に価するのではないかと考えている。つまり、差別はするけど仕事はする人として評価されているのだと思う。
リヒャルト・ワーグナーという作曲家がいるのはご存知だと思う。彼の音楽は世界で評価されているが、彼の人間性はあまり「できた」ものではなく、そこはwikipediaでも見てもらえればいいが、今でもワーグナーを支持すること、演奏することがタブーな国もあるのだ。仕事の出来と人間性に相関があるわけでもないので、いい仕事はいい仕事で評価されれば良いのだが、世の中にはそれすら禁忌なところもある。清廉潔白であるなら望ましいが、万人が聖人というわけでもないし、聖人なら仕事ができるという話でもない。
ちなみに私自身は、前都知事選では政策において石原より秀でたものはいなかったと思っている。浅野史郎はちょっといただけない(これはあくまで私の価値観だし、東京にいないので関係もないのだが)
parallel-world 社会, 差別, 医療, 災害 差別する者は損得計算のできない者だと考えている。 2011/03/29
全称的にそう言い切れるとは思わないが、一部の差別主義者は権力を得るに連れて差別思想を暴露する傾向にあるように思う。つまり、権力の高みに登るに連れて「ちょっと落ちただけでは死なない」ように思い、ネット普及前までは特に深く糾弾されるようなこともなかった。今では「バカの可視化」としてそういう発言も多くに共有されるようになり、発言リスクも高まったように思うが、それ自体は化粧のようなもので、内心に差別心を抱く人が減るという話でもないことは心したい。
概括すれば、人間というのは不完全なのだから、差別心を持つ事自体を止めることは不可能である。私たちのこの「差別をしない、あるいはするな」というのは翻ってみれば「不謹慎」と同種の圧力を産む。そしてそれは正義の刃として受け止められる。
差別については、突き進めば個々人の心がけにしかなりえないだろう。それを享受するメリットを限りなく最大化し、多くの人間がみずから進んで、快く、差別をしないよう心がける環境を醸成するのが、最善であると私は思う。
不謹慎ってなんだろう?
以下は不謹慎だと思う。
「もっと人が死んでればよかった」とか言っちゃう人。
本気、真剣に人助けに取り組んでいるのに、「無駄な努力」と切り捨て、あざ笑う。
これらは本当に不謹慎だし、人としていろいろ欠けている可哀想な人でなしの思想、発言だろう。
確かに、これらに準じたり、該当する行動・発現等は「不謹慎だ!慎め!」と言っても問題ない。
いや、私が率先して言う。
大まかな疑を問うてみたい。
「笑う」事。
はて、これは不謹慎だろうか?
冒頭で言及した、ブラックユーモアで公で笑う事、これは不謹慎だと思う。
ならば、これはどうだ:
人間は理解出来ないものに対しての本能的な反応が笑いだそうだ。
現実だと受け入れたくない、夢じゃないか、理解出来ない、などの感情が先行してしまうなら尚更だ。
そんな輩に「フキンシンダー」と責めるのは如何なものか?
これはどうだろうか:
全く無関係な冗談で笑う事。
被災者の方も、「同情するな、そこまで落ちぶれていない」と仰られたそうだ。
いいのではないだろうか?
祭りやイベントなどの行事もやって、経済を浮上させたり悲壮感を拭えるのなら正しい行動にさえ見えてくる。
被災地差し置いて、送れる物資や電力などを無駄遣いするのは如何かと思うが、
他にも、
問題が有るように到底思えない。(私が浅はかだからこの到底と言う表現も少々意味消失気味だが)
だが、
これは不謹慎だ。そして許すまじ行為でもあると思う。
この、「笑い」に関して浅はかだが、私なりにとある線、ボーダーラインが見得て来たと勘違いさせていただく。
不謹慎、とは苦しんでいる方々を糧に幸福感を得ることだと、私は定義させていただく。
「無駄な努力」と切り捨て、嘲笑う事→糧に優越感を得、幸福感を得てる。
ここまで言及しておいてだが、「幸福感」と言う言葉は少々概念を形容するには相応しくない言葉かも知れない。
「幸福感」「高揚感」「幸悦感」、しかもそれを若干禍々しく歪曲したような感情だ。
そしてポイントは、「糧」だ。「犠牲(イケニエ)」やもしれぬ。
転んだものを踏みつけ、自分の為に踏み台にしている行為。
これすなわち、私が思う「不謹慎」の正体だ。
(世の中、白黒デジタルなら理系はもうちょっと良い待遇を受けているだろう。
話が逸れるが、理系文系と別けるもあまつさえデジタル化であり、私は反対だ。)
例えば:
災害発生、直座に公で笑い、騒ぐこと。
これは不謹慎と言ってもいいと思う。
友人、家族、愛する方々の安否が不明なかたが周りにいるかも知れないからだ。
が、不安な方の気持ちを踏み台にしていると、個人的に思う。少なくとも私はいい気分にならない。
友人同士での誕生祝い。
これまた微妙だと思うが、誕生日は年一度だ、友人と祝いたいであろう。
これは、祝う友人たちによりけりだ。個人的に、だれも傷つかないのなら節度を持って身内のみで祝いの席を持っても良いのではないだろうか?
その時まで延期するのもありだろう。
やっと本題に触れさせて貰う、が。
節度を保っているのに、「フキンシンダー」と言うのは如何なものか。
「この前友人と飲んだ~」と言ったら「不謹慎!!!」と発言したりだ。
「『落ち着いたら飲もう』って言うけど、何をして落ち着いたと言えるのか」と悩んだ人を見た。
話せばいい。友人なら聞けるし、お互いフキンシンダーと言わないだろう。
言っても、なぜそう思うかを明確に説明できるはずだ。
そして、それでお互いへの理解を深めれるはずだ。
弁解、理解すればこその友情であり、できないならそもそも一緒に飲まないほうがよいと思う。
では、一体何が問題なのだ。
聞く耳持たず、事情知らず、判ろうとせず、人を指し、「フキンシンダー!」と叫び、まるで自分が、
「進言行動で英雄に造り変えられていると勘違いしている人間」ではないのだろうか。
それこそ、何も考えずに発言しているか、
「被害者を思ってあげて、怒りを代弁する俺カッケー」と言う自己陶酔的な理由で発言しているかだと思う。
前者は仕方あるまい。ある意味。
後者であれば、それこそ、
「苦しんできる方々を『糧』にし、自分のナルシスト願望に餌を与え幸福感を得ている」のではないだろうか?
逆に、「不謹慎だ!」と言っても、相手の話を聞き、理解をしたりするのはいいことだ。
自己陶酔でもないし、おそらく被害者を本当に想ってからこそと思える。
「自粛します」と言って閉店しているお店や、自粛してお酒に参加しない友人も問題ない。
空っぽな正義感で「不謹慎だ!」と叫べば、指された人も、被害者も傷つけているということを考慮して私は行動していこうと想う。
余談:
これは戯言です。
私自身、聖人君子ではないので、誠に不謹慎な発言をしたこともあるし、これからもするだろう。
私自身、度々この「フキンシンダー」と叫ぶ側であったり、将来的にあるかも知れない。
「日頃」と「非常時」を混ぜて嘲笑するのってそんなに楽しいかねぇ。
状況が変化してるのに、変化する前の状況に即した言動を貫くことを期待するのは矛盾してるとは思わない?
「日頃」と「非常時」というのが恣意的に運用されるならなんでも言い放題じぇねえか。
それなら日頃から注釈しとけよ、「私の発言は私が設定した『非常時』には全てチャラとなりますのでご了承ください」って。
防災意識としては恥もプライドも投げ捨てて逃げるのが正解、そこは君の言うとおり。
両取りは出来ないってだけのこと。
また
「日頃」と「非常時」を混ぜて嘲笑するのってそんなに楽しいかねぇ。
ボランティア団体に支援物資を持ち込んで断られたことに腹を立てている人に、「そんな気持ちなら持ち込まなくていい」とキレてたブログがあった。
なんでも「気持ち」優先ばかりのほうがきもちわるい。
大事なのはどんな気持ちで行ったより、行動したことの内容だと思うがな。
持ち込みを断られて腹を立てようが、たまたまあまってるから寄付しようだろうが、結果役に立つことをしようとアクションを起こしてることに何で目を向けないの?
気持ちまで強制されるいわれなんてない。
ボランティアする人はみんな聖人みたいな気持ちを持たなくてはならないのか?
動機が何であろうが、結果社会の役に立てばいいと思うんだけど、それを「優しい気持ちでなければ優しい行動はできない」と考えるのは問題あるわ。
気づいてないところがどうしようもない。
目の前で話している人物がその実、こちらに敵意があるのではないかと疑うのです
「笑ってるから楽しそうだ」「眉を潜めているから苦しそうだ」「涙を流しているから悲しそうだ」
ただ、その表情一つ一つに裏が見えるのです(たとえそれが自分だけの錯覚に過ぎないと理解していても)
私が話した事を足掛かりに、少しずつ私の警戒を解いて、気を許した所で全てを持って行ってしまう
熱いものに触れれば手を引っ込め、大きな音がすれば耳を塞ぎ、痛ければそこを抑える
心も身体と同じだ
怒られれば耐えるし、イライラしたら発散しようとするし、寂しかったら人に寄り添う
嘘を吐かれたり、見たくない部分を見てしまったり、裏切られてしまった
傷付けられてしまった人は、二度と同じ事が起きないようにします
自分にとっての防御は、疑い壁を作り、社交用の自分を作る事でした
少なくとも、自分はその中でしか生きられなかったし、今でもそうです
私は愚かでした
自分が本当はどういう人間で、どうして自分を作っていたのか、その理由さえ
私は我慢が出来なかったのです、寂しさに
私はその事に舞い上がりました
信じる事は素晴らしい
長くは続きませんでした
男女関係、距離感の取り方、依存と信頼、自分の委ね方、他人の受け入れ方
そんな所でしょう
自分にとって重要だったのは、関係が壊れてしまった事だったのです
どれだけ取り繕っても、その上で自分を出しても
結局は壊れてしまう
それが自分の所為であろうと、他人の所為であろうと、もはやそんなことは関係なく
関係を結ぶ事自体が、もうどうしようもなく嫌になってしまったのです
人間である以上、関わりたいという気持ちを消すことは出来ませんでした
それでも、壊れてしまうという強迫観念は消すことが出来ないほど大きくなってしまいました
自分を守りながら、それでも人と関わる方法
私にとってそれは、諦めることでした
傷付くことも、裏切られることも、壊れることも
何もかも諦めて、自分にはどうしようもない事だと
考えることをしなければ、諦めてしまえば、どれだけ辛くても掛け算してゼロに出来る
生きる事も、死ぬ事も諦めて
その矛盾を考えることも諦めて
日本人てホント口うるさい。
昨日Twitterで
電車に乗ったら、隣に座った女が熱心に化粧してた。近くに結構なイケメンお兄さんがいたんだが、降りる時に化粧女に紙を渡して行った。メルアドか?なんでこんな女をと思いつつチラ見したらその紙には一言「家でやれ」とだけ書いてあった。女の顔が(*゚∀゚)=3から(゚д゚)になって一瞬で吹いた
みたいのがすげーファボられてて、こういうの見るとほんとうんざりする。
ここはおまえの家か、と言いたい。
そんな国どこにもないぞ。
少なくともペースメーカー云々は関係ないだろ。
別に他がそうだから、そうなるべき!とは言わないし、民度(笑)が高いのはいいことなんだけど、ちょっと過剰すぎて気味が悪い。
それは公共の場(パブリック・スペース)への考え方が全く違うことに起因すると思う。
「ここがミーのレクサスの中なら許さないザマスけど、ここには色んなシトがいる場所だから別にミーがとやかく言う筋合いはないザマス。
って考えなんだ。
私的な場所や店では禁煙だけれど、公共の場所(路上)では吸える。
「でも、ここがミーの豪邸だったら許さないザマス!」って話だ。
日本みたいな島国ではしかたのないことかもしれんけども、それでも他者へのキャパがちっさすぎると思う。
もっと自由でいいし、好きに生きていい。
ルールは守れ。
なんでそんなにヒトに厳しくなれる。
どうして路上でそんなに無防備でいられる。
ここは殺人鬼も聖人も貧乏人も金持ちも歩く道だと理解したほうがいい。
おまえだけの道路じゃない。
それを押し付けずに、自分の戒めとすれば逆に、路上で座り込むことも、ポイ捨てすることも減るんじゃないか?
これは綺麗事で理想論かもしれんけども、それが本来マナーだったり、モラルだろ。
民度ってのはそうやって測れるものじゃないのか?
他人に迷惑をかけるような行為は慎みましょうってのはよくわかる。
でもそれって人に注意するようなこと?
なんかさ、パスタを音たてながらうどんみたいにすするくせに、化粧するなとか飯食うなとか。
タバコの煙がくせぇから我慢しろ、音楽がうるせぇ、ゲームかちゃかちゃすんな気に障るバーガー食うなくせぇガムくちゃらせるな携帯いじるな化粧すんな鼻くそほじるな笑うなこっち見んな息すんな
あー気持ち悪いザマス。シェー!!
他部署の人間で、1歳年下の後輩。交際3年程だ。
普段、陽子の所属する部署と僕らの部署の人間は直接顔を合わせることはあまりない。
とある大きなプロジェクトのメンバーとしてたまたま僕と陽子がそれぞれ選抜され、2ヶ月間ほど協力しあい問題を解決しているうちに僕らは親しくなった。
僕は同僚に言うのが気恥ずかしくて黙っていたのだ。
自分で言うのもおかしいけど、僕は全然イケメンじゃない。中肉中背・顔もブサイクでもないと思うけど、外見的な特徴としては中の中レベルだと思ってる。オシャレセンスとやらもあまり自慢できない。
一方、陽子はそれなりに目立つ存在なのだ。清楚系美人で、僕と同期の野郎たちにも人気だった。
そんな僕と陽子が付き合ってる事を皆に言うのはちょっと恥ずかしかったのだ。社内のとある人間から猛烈アピールをうけていた陽子は、彼への牽制もこめて皆にオープンにしようと提案してきたのが1年半ほど前。
いまでは周知の事実となっており、ときたま冷やかされるものの、ありがたいことに会社の方々には好意的に受け取って頂いているようだ。
そんな僕と彼女の話。
仕事はそれなりに満足してる。残業も多いけど、この不景気にしては恵まれた職場環境だと感謝したいくらいだ。
仕事はバリバリ良く出来て、面倒見も良くて部下からの信頼も厚い。男の僕から見てもイケメン。
仕事に対しては厳しくて、僕もきついダメだしをしょっちゅうもらうけど、嫌いな人ではない。
既婚者で幼稚園に通うお子さんがいるらしい。以前、自宅に招待して頂いた際に紹介していただいた奥さんも可愛かった。
そんな上司(『桜井』:仮名)から先月、僕の携帯にメールが届いた。
メールを受信したのは深夜のこと。朝、目が覚めてメールを確認した時は意味がわからなかった。
寝ぼけた頭がその瞬間冴えてきて、不安な気持ちに包まれたのを覚えている。
(『夢』って?『キスしたこと』って?陽子と桜井課長がキスしたの?)
(『4L』って、社内のあの場所?)
うちの会社では社員用の個室がいくつか用意されていて、空室ならば申請などせずに自由に使える。
1人用の部屋もあれば、10人くらい入れる部屋もあって、一人で集中したい時に予備校の自習室のような使い方をしたり、社員同士のちょっとした打ち合わせに使用している。
『4L』ってのはその部屋の名称の一つ。
もちろん「送り先間違ってませんか?」なんて返信もできず、混乱した頭のまま会社へ。
「今日どんな顔して桜井課長と会えばいいんだよ」と思いつつも、上司がいつも通り接してきたので不思議と僕も動揺を見せることなく仕事を終えた。
仕事終わってから陽子と外食。当然、メールのことは気になってたけど、誤解かもしれないと思って触れられない。
おそらく陽子に送るメールを僕に誤って送ってしまったのだろう。
これも仮名だけど、
ってな感じで、僕らは苗字が似てるんだ。一文字目の漢字が一緒。おそらく携帯のアドレス帳では上下に並んでるんだと思う。
気にはなるけど、陽子には聞いちゃいけない質問だと思った。そして聞く勇気もなかった。
もちろん彼女を信じたいし、誤解だと思いたいので、「これは『江田さん』という同じ名字の別人だ」とか考えるけど、『4L』なんて単語が出てる以上そんな楽観的な考えもできずに出てくるのは悪い想像ばっかり。
高校生でもあるまいし、もし本当だとしてもキスくらいなら許してやれといわれた。
そういうもんなのだろう。
信頼してるなら彼女に直接聞いてみればいい、とも言われたけど、僕はもし真実だった時のことを考えると怖かった。
10日間ほど進展もなく過ぎていった。
週末は陽子とデートした。二人でいる時はメールのことなんか意識することもなく楽しかった。
平日は悶々としたまま普通に仕事をした。それほど仕事量の多かった週ではないのに何故か毎日疲れた。
このまま、事はウヤムヤでもいいやと思っていた。
金曜の夜、少しだけ残業した。フロアには桜井課長と僕ともう一人同僚が残っていた。
帰り際、桜井課長が僕らをご飯に誘った。同僚は予定があるようで丁寧にお断りしてた。
狙うこともなく課長と僕は二人でご飯を食べに行くことになった。
部署の人間と昼食を一緒にとることはよくある。課長と昼食を二人きりで食べに行くこともしばしば。しかし夕食を二人で食べたのは過去数えられるほどしかない。
最初は仕事の会話だったけど、お酒が入ってからはお互いくだらない雑談だった。その日は一つ仕事をやりきった達成感もあって、楽しい時間だった。例のメールの件は聞く気もなかった。
僕はアルコールにそれほど強いわけではない。程良く酔っ払ってきた。ほろ酔いの気持ちいい気分の中で自然と口から言葉が出てた。
「かちょー、ちょっと前に僕にまちがってメールおくってきましたよねー。江田さんとキスしたんですかー?」
酔ってなければ絶対に面と向かって言えないことだった。
さっきまで笑ってた課長が真顔になってた。
僕もそんな課長の顔を見て、酔いが醒めた。血の気が引いた。
「ちょっとトイレ行ってくるから待っててくれ」課長が一言つぶやいて席をたった。
・僕が陽子と付き合ってるのを知りながら、卑怯なことをして申し訳ない。
・無理やりキスしたわけではないが、僕のリードでキスをしてしまった。江田さんは悪くない。
僕は黙って話を聞いていた。
謝罪と説明が終わってから「彼女へは僕から直接話をしたいので今日のことは伝えないで欲しい」と言った。
課長のことは許すことができませんが正直に話してくれたことには感謝します、僕はこのことはこの場をもって忘れようと思うので、仕事は今まで通りの関係でお願いしますと伝えた。
課長は謝罪の言葉を繰り返し、頭を下げたままだった。こうして途中まで楽しかった夕食は終わった。
許してしまう雰囲気だったのか?罵倒して殴ればよかったのかもしれないけど、僕はなぜかカッコ付けた。
もっともカッコ悪いのは僕だった。
・打合せしているうちに変な雰囲気になって、ついキスされてしまった。
・拒絶するべきだったのに、なぜか断らなかった。本当にごめんなさい。
・桜井さんとはそれきりで、社内でもふたりきりにはなってない。
・僕には申し訳なくて言えなかった。
・愛してるのは僕だけだ。
僕は陽子に別れを伝えた。
陽子は涙ながらに謝罪し、許してもらえるまで待たせてほしいと言った。
僕は待ってても無駄かもしれないと伝えた。
うまく整理できなんだけど、
話をしてくれなかった彼女への怒り > 不甲斐ない自分への怒り > 彼女にキスをした上司への怒り
ってな順番なんだと思う。
彼女が僕に伝えなかったのは、僕に対する優しさなのかもしれない。
黙っていたほうがいいこともある。心配させたくないという心遣いかもしれない。
分かっているけど、僕はそれを素直に受け入れるほど心が広くなかった。
僕は子供なんだと思う。
課長から僕へのダメ出しは少しだけ減ったような気もするが、事件前と関係は大して変わっていない。
彼女とは社内で普通に挨拶くらいはするけど、プライベートで会うことはなくなった。
「本当にごめんなさい。もう一度お話をしていただけますか?元の関係にはもどることができないと思いますが、もう一度チャンスを下さい」
僕はすぐ返信した。
「ごめんなさい」
ここに書いたのは文章にすることで心の整理をつけられるかと思ったから。
そして、今回の最大の収穫は自分の心の狭さがよくわかったこと。
メールの送信先には気をつけてください。
皆さんはこれくらいなら許してあげられるよね?
チャンスを与えてあげられるよね?
これは、ダメだ
あんたは『できる自分』になって『できない自分』を見下したいのか?
だってそれは、今でもできることを、わざわざ時間を掛けて行おうとしているだけだからだ
今この瞬間にだって、例えば、俺のことを見下すことは簡単にできるはずだ
結局のところ、あんたは安心して誰かを見下したいだけなのだろう?
自分自身を見下すことは、確かに誰にも迷惑を掛けないことかもしれない。それに加えて、見下している時点での自分は、少なくとも過去の自分より進歩している分、寧ろ状況はよくなっているように見えるかもしれない
だけど結局、それはいつでもできることを手間暇掛けて行っただけなんだ
そんなんじゃダメだぜ、誰かを見下すことにはほとんどの場合大した意味なんて無いんだからな
無論、誰しもを全く見下さない生き方なんてのは聖人の所業だし、あるいは人間として生きる分には、多少なりにそういうことも必要なのかもしれないけどさ
それは、わざわざ膨大な時間を掛けてまでやるようなことじゃないと思うよ
一方的に信用して父親を一方的に嫌っている馬鹿である」と言う前提なんだよね。
子供の頃から親に刷り込まれたことは
どんなに異常でもその異常さにすらなかなか気付けないよ。
異常だと気付いたあとでも呪縛から逃れるのは簡単じゃないし。
それはバカだからとか頭が良いからとかいう問題じゃない。
あなたはなんというか毒親について楽観的過ぎ。
友達が羨ましいと言っているのも、
「友達の父親はいい父親なのにうちの父親はいい所がない」と、比較した上で言っているんだろうし。
そんなの客観的に正確に比較評価できると思う?
大人が大人を人物鑑定するのだって簡単じゃないのに。
とくに相談者の書き方は
小さな子供が「○○ちゃんちの子になりたかったー」と言ってるレベルにしか読めないんだけど。
これが小学生だと言うのならそうだろうけど、高校生になってそこまで素直かつ馬鹿な子はいない。
父親だけではなく母親にも反抗したがる年頃だし、それなりに客観的な視点も持ってるもんだ。
母親が非常識な人物であることや自分が虐待受けてたことに気付かなかった母子家庭の子が友達にいるし
割とよくある話なんだけどね。
この娘が父親を嫌っているのは母親の影響だけではなく、
元々嫌われるような父親だから、なのは間違いない。
父親が非のない聖人だと言ってる人はいないけど
この激しい嫌い方に比べて具体的な「父の悪行・欠点」が乏しすぎることに
オタキングやみんなは注目してる。
「いい歳して携帯好き」なんていう言い掛かりを動員するぐらいには
父親非難の種に困ってるよ、相談者。
これじゃつまらな過ぎるけどね。でもオタキングの回答よりはずっと役に立つ回答だと思う。
つまらないうえに、
オタキングの回答はエンターテイメントとしては面白いかもしれないけど、
実際こんな事言われても当人は絶望するだけかと。
何故?原因が何であれ、結論は出て行くことだけじゃない?
つりでわざと不愉快なことを書く人もいて本音を書いてるとは限らないから内心の自由とはいえないし、聖人君子じゃない人だからこそ不愉快な書き込みを見て叩きたくなるんだろうし、たたくなと言うのも自由をなくすことになるだろう