目の前で話している人物がその実、こちらに敵意があるのではないかと疑うのです
「笑ってるから楽しそうだ」「眉を潜めているから苦しそうだ」「涙を流しているから悲しそうだ」
ただ、その表情一つ一つに裏が見えるのです(たとえそれが自分だけの錯覚に過ぎないと理解していても)
私が話した事を足掛かりに、少しずつ私の警戒を解いて、気を許した所で全てを持って行ってしまう
熱いものに触れれば手を引っ込め、大きな音がすれば耳を塞ぎ、痛ければそこを抑える
心も身体と同じだ
怒られれば耐えるし、イライラしたら発散しようとするし、寂しかったら人に寄り添う
嘘を吐かれたり、見たくない部分を見てしまったり、裏切られてしまった
傷付けられてしまった人は、二度と同じ事が起きないようにします
自分にとっての防御は、疑い壁を作り、社交用の自分を作る事でした
少なくとも、自分はその中でしか生きられなかったし、今でもそうです
私は愚かでした
自分が本当はどういう人間で、どうして自分を作っていたのか、その理由さえ
私は我慢が出来なかったのです、寂しさに
私はその事に舞い上がりました
信じる事は素晴らしい
長くは続きませんでした
男女関係、距離感の取り方、依存と信頼、自分の委ね方、他人の受け入れ方
そんな所でしょう
自分にとって重要だったのは、関係が壊れてしまった事だったのです
どれだけ取り繕っても、その上で自分を出しても
結局は壊れてしまう
それが自分の所為であろうと、他人の所為であろうと、もはやそんなことは関係なく
関係を結ぶ事自体が、もうどうしようもなく嫌になってしまったのです
人間である以上、関わりたいという気持ちを消すことは出来ませんでした
それでも、壊れてしまうという強迫観念は消すことが出来ないほど大きくなってしまいました
自分を守りながら、それでも人と関わる方法
私にとってそれは、諦めることでした
傷付くことも、裏切られることも、壊れることも
何もかも諦めて、自分にはどうしようもない事だと
考えることをしなければ、諦めてしまえば、どれだけ辛くても掛け算してゼロに出来る
生きる事も、死ぬ事も諦めて
その矛盾を考えることも諦めて