はてなキーワード: 画一的とは
>いろんな人がいろんな説明を試みるが、それは「その時の時代や社会情勢によって女性をそう扱わざるを得なかった」というものでしかない。
環境以外の理由だったら、生まれつき、という話しかならないだろ。
そして生まれつきでないのは明らか。現に現代社会で俺たちは、文化の変化で変わっているからね。
お前の求める説明は、どうやって「その時の時代の社会情勢が文化を生んだ」という説明にしか、どうやってもならない。
>血統を保存しようとした。
>という理屈は一見通るが、そんなのは一部上流階級でのみ通用するものだ。人類において普遍ではない。
そんなことはない。
そもそも、社会性、という性質は自分の子供以外の遺伝子を守るという意義のもとになりたつ。
原始人は家族を守った。貴族社会の血統主義は、その延長に過ぎない。
>つまりこの時点では浮気がどうとか、お世継ぎがどうとか、本当にどうでもいい世界だった。
婚姻という制度は、神の名のもとに村の中で浮気を禁じるための制度だ。
なぜそれがあるのか? まず浮気がいさかいのもとになるという状況があって、それから制度を作ったに違いない。少なくとも婚姻制度の誕生よりも、浮気の悪は古い。
>画一的な論理によって「女性の抑圧」というものを説明しきることができないということでもある。
モデル化や一般化と、画一的な説明を、ごっちゃにしていると思う。(本筋からズレるから説明しないけど)
>「女性は抑圧すべき(もうちょっというなら女性の扱い方はこれが正しい)」という人々がずっとおり、~この辺って誰か話してる?話してるなら資料のありかが知りたい。
男性が本能的に支配する、などというラディフェミの言説が眉唾なのはその通りだね。最初に言った通り、生まれつきではない。それは絶対だ。
で、何がそういう文化を産んだかというと、まあだいたいは戦争だ。
村村が互いに争っている地域であるほど、力の強い男性がリーダーでなければならなかった。子供を育てる役目のある女性は戦争のリーダーなんかやってる場合じゃなかった。女性はどうあがいても財産でもあるので、しばしば戦争の勝ち負けに際して取引されたし、リーダーが取引可能な存在であるのは望ましくなかった。高等教育とはは軍事的リーダーを養成するものであるから、男性が独占していた。などなど。
実際、戦争のごく少ない地域では、女性がリーダーをやっている原住民みたいな人たちが、多く見つかっている。ジャングルの奥地や、離島とかで、隣の部族との戦争が必要なさそうな場所でよくある。
逆に、例えばキリスト教起源の中東やヨーロッパでは古代からめちゃくちゃ戦争多かったりする。
そういう訳で、かつて女性抑圧(というか男性の権力独占)は合理的だった。
現代社会での、女性差別ってのは、かつて合理的だったけど今は不合理な伝統なわけ。
都市には家電や社会制度があるから女性が一日中家事してる必要はない。戦争は銃であるから兵士が筋力のある男性である必要はない。したがって女性がリーダーをしてもかまわない。なのにそうなってない。それを禁じられている。それが今日の「女性抑圧」だ
「人格」だけにフォーカスするとわかんなくなるけど、元の定義をひっくり返してみて、「女性を描くときに外見(若さや性的側面など)のみを取り出し、人格を持たない、多様でない姿で、アイキャッチャー的に描く」ことはNGなんだな、という文脈の中で捉えれば、だいたいニュアンスがわかるんじゃないかと思う。
単にそのメディアに触れる人達の目を引くためのお人形として、かわいかったりセクシーだったりすることだけを重視したような描き方のキャラが、画一的に使われるのはダメなんだ、ということ。もしパンフやポスターに人物が入る枠が5枠あれば、発信されるテーマに沿った範囲で、その5枠に性別も年齢も外見も多様で、勤め人だったり自営業だったり学生だったりと、色々な背景がありそうな複数の人物がバランス良く入ってるのが好ましく、特に必然性なく露出の多い女性の萌えキャラ1人が全ページに登場してるような作りはアイキャッチャーだからダメ、という感じ。
ここまで書いたらわかるかもしれないけど、擬人的な「イメージキャラクター」という考え方自体が、このガイドラインには馴染みにくい。あえて使うにしても性別不明・種別不明の非人間の「ゆるキャラ」みたいな感じに限られるだろう。
ちなみに、こういう方向性は別に大阪府が突然繰り出したものじゃない。平成13年に内閣府が出した「男女共同参画の視点からの公的広報の手引」がそういうことを言っていて、各地方自治体がこれに沿ったガイドラインを作ってきた。
・女性を飾り物として使っていませんか?
単に目を引くためや親しみやすさを持たせるために、内容とは関係なく女性の姿や身体の一部をポスターなどで使う場合がありますが、それでは伝えるべき内容が十分に反映された表現とは言えません。安易に女性をアイキャッチャーとして起用せず、訴求内容と訴求対象に合った、より効果的な表現方法を工夫しましょう。
大阪府の表現ガイドラインは、過去のガイドラインを改定して、この内閣府ガイドラインの言ってることをより具体的に表現しただけ。
昭和時代末期から平成時代に作られた山を切り崩して作った様な地方都市郊外のニュータウンで、二階建て二台駐車可の同じデザインの家が何百と林立しているだけの様な街のことだ。
徒歩圏内にあるのは小中学校・郵便局・町医・児童遊園・コンビニやスーパーマーケットなどの最低限生活に必要な施設だけで、鉄道駅や繁華街へは自転車でのアクセスも困難で、移動には自家用車が必須の街だ。
仕事人間の男にとってはそれなりには幸せだろう。新築一戸建てに妻子と共に住むという夢を比較的安価に叶えて、平日は職場へ車通勤し休日は妻子と共にイオンモールへ車で出かけ、それ以外の時間は夢の持家で妻子と共に過ごすのだ。
妻は家事育児で娯楽の無い画一的なニュータウンに縛られ、唯一の娯楽は夫と子を連れてイオンモールへ出かけるだけだ。
子供にとっても、学校と自宅とを往復するだけのつまらない人生だろう。娯楽があるとすれば、近くの山や森へ出かけることくらいだろうか。山を崩して作ったニュータウンとしての利点はその程度のものだろう。
そうしたニュータウン出身の人は楽しかったのだろうか? 進学や就職の為に都市部へと引っ越してしまうのだろうか? はたまた、社会人となってからもニュータウンに住み続けている人もいるのだろうか?
読ませていただきました。
我が家も絶賛2Eです。しかしツリー読むと酷いね。画一的な同調圧力にこなされてきた人々のフラストレーション凄いね。
日本の教育は、ある時期から支配されてます。だからtwitterで#教師のバトン なんていうハッシュタグ投入したのも文科省の「ご意見頂戴」アピールですよ。やる気なんてありませんよ。経済産業省と一部組んでますから、利益を損なう様な革新的な発明などされては困りますからね。たまに気鋭のある知識人がこのままではヤバい。日本が終わるという危機感は感じている様ですが…
うちの場合ですが勿論学校で出される宿題については「宿題ってのは、教師のアリバイのためだろ?何処に意味があるんだよ?」と言いながら、でもまだ学校はまだ辞めないらしく、渋々やっては行きます。ただ、今は様々な学びの可能性はある時代ですので、我が子へは学校へ行きたくなければ辞めてよし、と伝えてあります。
そもそも第一次産業革命以降、殆んど変わらぬスタイルでやってるんですよ?おかしいと思いませんか?
教師のことは「いろいろ考えさせないよう」わざと忙しくさせてる側面、ありそうです。ギガスクール構想で、更に教員は忙しくされてますよ。一人1台のパソコンを看板にすれば、政府が「お金使ってる」アピールも可能なんです。だから宿題の無限ループは終わらないのです。
学校見てていろいろおかしい事に気づいたら、早く足を洗うといいかもしれませんね。それだけで高いIQでしたら、気付きも多いので周りとは話合わなくなってくるでしょうね。好きな事があるなら、とことん追及させてあげてほしい。「社会でコミュ力マスト勢」が沸いて来そうですが、あなたのお子さんが「価値を生み出すかもしれない」人材になれば、自然とプロモーションを申し出る人間がいるはずですから。
ほぼ毎日入れる上に、1500円くらいの時給だったから「美味しいな」と思ってやった
朝8:00くらいに出勤
「ゴム手袋よーし」「安全確認よーし」みたいな掛け声をしてゴミ収集車に乗る
後はまあゴミをある程度収拾→焼却炉に運ぶ、を2、3回繰り返して終了
(午前中に1回、午後に2回くらいかな)
事務所の洗濯機で汚れた服を洗って、その後事務所内にある大風呂に入る
17:00の業務終了まで漫画読んだりストレッチしたりのんびりする。
車から降りるとき、乗る時は後方確認して車が来ないことを確認しないといけない
後、軽そうに見えても糞重かったりするか油断すると腰をやられる
一番重要なのはゴミを庫内に回すボタンを押すときに、人がいないことを確認すること
一回安全確認せずボタン押したら危うく巻き込みそうになってクソ怒られた
夏だけど車内はガンガンにクーラーかけてるし、バイトが入る車は三人体制なので、そこまでキツくはなかった
たまに捨てられた雑誌とかをチョロマカしてる人がいたけど、あれはダメだろうな
聴覚障害者が大学で講義を受けるとき、内容が音で聞こえないので受講ができない
その対策として、講義内容を文字に書き起こす「ノートテイク」という仕事を大学の事務で募集していた
ノートパソコンの専用のツールを使って、2人1組で講義の内容を交互にタイピングしていく
障害者の子はそのタイピングしたものを見れるツールを持っていて、それを見て受講する
あくまでも講義をそのまま受講してもらうことが目的なので、分かりにくい講義は分かりにくいまま伝えなくてはいけない
「え〜」とか「あ〜」みたいなノイズも、極力書くようにしていたし、私語の多い講義の場合「(教室内では私語が飛び交っている)」みたいなことも書いた
その後教授が「話してる奴らは出ていって」と怒ったときは伏線回収に達成感を覚えて楽しかった
それでもマジで言葉が多すぎる上にまとまってなくて、書くに書けないって時があって、仕方なく要約した形で書くことがあった
そういう時は「なんか今日わかりやすかった」と好評だったので複雑な気分だった
小学6年生の子の算数を受け持ったんだが、小学6年生の問題は結構解けるのに、小学3、4年の問題は解けてなかった
結局基礎が全然できてないので、100マス計算と低学年の問題を延々とやらせてた
そんな状況なのに塾の都合で「学力診断テスト」みたいな画一的なテストやらせなきゃいけなくて「無駄だな〜」と思ってた
個人塾なんだから個人の進捗に合わせりゃいいだけで、テストとかモチベ下げるだけでいらんだろって思った
割とすぐやめた