はてなキーワード: ブルーライトとは
睡眠は遊びじゃないんだよ…!
ポケモンスリープのガチ勢となるべく、睡眠の改善に取り組んでいる。ポケスリでは「眠りに入った時間(目標時間に寝られたか)」や「睡眠時間の長さ(8.5時間で満点)」「睡眠の質(眠りの深さによって出現ポケモンが変わる)」など、睡眠全般を問われるので、ガチ攻略法は自分の睡眠を改善することだ。
入眠時間が遅くならないように、毎日朝起きたら適度な運動を行い、日光を浴びる。朝食をきちんと食べ、特に乳製品を欠かさない。睡眠の質を改善するためのサプリメントを飲み、夕食の時間が遅くならないように注意する。夕方に運動ができるとさらに良い。夕食後は部屋の照明が強くなり過ぎないようにし、スマホ画面をブルーライトカット設定にする。睡眠の1時間前くらいに軽くストレッチを行い体の緊張をほぐす。これらを毎日行うようになってから、寝入りのスピードは格段に早くなった。
サングラスやカラーグラスをおしゃれだとかカッコいいとか思うセンスは全く無かったけど
年齢とともに目の疲れや各種の光の目への影響が気になるようになった
ずっと画面眺めてる仕事だし、仕事後もスマホをずっと触ってるので、一日中何かしらの画面見てる
日中も、外に出た時の眩しさが気になるようになった
目を悪くすると仕事にも差し障るということで、度付きのサングラスを作った
サングラスをかけて外を出歩いてみて気づいたのが、自身の目が見られていないこと、視線の動きが他人から見えないことによる、なんというか安心感だ
元々コミュ障気質で人と目を合わせることに抵抗があったが、サングラスは視線を遮ってくれるアイテムだと今更ながら気づいた
サングラスをかけるって、なんて楽なんだろう
ブルーライトなど眠気を妨げる程度のものだろう、モニターの彩度や色味の変更で同じ効果が出るらしいしわざわざ買うものでもない、と思っていた
が、サングラスほどでないにしろ、色がつくことでちょっと安心感がある気がする
アイドルが熱愛発覚して炎上、アイドルを推していたファンの絶望の話。
登場するのは「君」と「私」。「君」というのが男性アイドル。「私」がそのファン(オタク)。
“君のイヤホンがまた絡まっている“
→君のイヤホンとは「私が所持している君専用のイヤホン=私が集めている推しアイドルに関する情報」
それが絡まるということは「推しの情報について、理解し難い情報があった」
“重い髪が揺れる反重力”
私は今まで推しの一方の面(偶像としてのアイドル)しか見ていなかった。その推しの別の面(生身の男性)が見えてしまう。
綺麗だけれど、別の面を見るのが怖いから振り返るのを止めたい。
“君が思うよりも夜は長い”
→アイドルが思っているより、ファンのオタクはダメージを受ける。
“反重力? なんてね嘘だ All you need is money もう詮索しないで”
→アイドルの別の一面が見えるのはいいことだと思ったけど、そんなことなかった。ガチ恋していた。
どうせアイドルはファンのこと金だと思ってるでしょ。そうだよ、だから「生身の男性」ではなく「偶像のアイドル」でいてよ。
“私もまだ何も知らないの?”
→アイドルについて調べ尽くしていたはずだが、アイドルが偶像ではなく「生身の男性」であることをまざまざと突きつけられる。
私「も」と言っているのは、世間が推しアイドルの交際情報を知っていくのと同じ粒度で、自分も推しの交際情報を知っていくから。
世間よりも詳しいと思っていたのに、自分は世間と同じくらいしか推しアイドルを知らなかった。
“君の前では笑顔でいたかった ブルーライト反射する眼球が 見えない君を探す”
ネットを探して、自分が好だった頃の(交際発覚前の)アイドルを探す。
でももういない。
“君のイヤホンはまだ絡まっている”
“バカなフリしてどこを見てるの 君囲む鉤括弧 愛してるってそれ誰のこと 勝手すぎて今更遅い”
→電車の中刷広告で炎上が取り上げられる「人気アイドルグループXXの『苗字名前』熱愛発覚! お相手は某人気モデル?」みたいな記事?
“痛いの痛いのが飛んでかないんだ 君が思うほど優しくはない”
→ファンはアイドルが思うほど心が広くない。熱愛報道で心が疲れてしまった。
→清廉潔白を求めるわけではないけれど、せめて嘘をついてほしかった。一人の男ではなく、アイドルでいてほしかった。
“君に似た顔の化身が笑う声を聞いた”
→おそらくアイドルの結婚の記者会見。アイドルは笑顔で結婚指輪を見せる。
数日前、ドラッグストアでコンドームを探しまわった体験録を書いた悲しき24歳労働者です。
https://anond.hatelabo.jp/20220528225125
勢いに任せて書き殴りろくに推敲もしないままインターネットの大海へぽいと投げてしまったものの、なんだか恐ろしいことをしてしまったような気がして翌日こわごわ匿名はてなを開いたところ思いの外たくさんの方に読んでもらったようで。コメント見ました。全部見ました。匿名はてなを覗くとき、匿名はてなもまたこちらを覗いているのだ。
サガミオリジナル0.02Lサイズはやはり男のプライドなんでしょうか。白状するとさっぽろ時計台と書きながら思い浮かべていたのはテレビ塔のほうで普通に脳内変換ミスでした。長文乱文すみません、いやほんと、長いっていうのがいちばん多かった。す、すみません。
いやー、なんだかみんなおんなじ文章読んでるはずなのに気になる部分が全員違うって、そりゃそうなんだけど不思議なことだなあとブルーライトが眩しい液晶の前でうっすら笑みを浮かべながらスクロールに次ぐスクロールをしていたら。
「今好きな女の子がいて、のところがスルーされてるのはなぜ? 何度も読み返した」
さすがデュオ!
俺たちが見逃してしまうことに平然と気がつく!
そこにシビれる!憧れるゥ!
女を好きな女の話をしましょう。
えー、いま現在わたくしは好きな女の子がいます。付き合ってはいません。思いを伝えてもいません。
わたしにとっては好きな女の子、向こうにとってはわからない。お互いにとっては毎日LINEをする友達。
仕事が終わらないだとか、三谷幸喜は血も涙もない脚本を書くねとか、コナンが外出するとそれだけで人的及び物的被害が多発するから彼は名探偵になるよりも早急にお祓いを受けたほうが世のため人のためってやつだよねとか、そんなくだらないことをつらつらと話すだけだけど、それで結構満足している。
LGBTというアルファベット4文字がだいぶ世間に浸透し、昨今なにかと話題のセクシュアル・マイノリティ。いや別に話題になろうがならまいがわたしが女を好きな女であることに変わりはないのだけれど。まあ言語でもって共通認識があったほうが話が早いのは確かな人間社会。
わたしは男の子も女の子も好きになる女なので、所謂バイセクシュアルの女性というやつにあたるんだろうなとふんわり思っている。
なぜふんわりかというと、実のところ自分のことを「女が好きな女である」と自覚したのがわりに最近、ここ数年のことだから。石のように揺るがない確固たる意志だとか、テコでも動かんぞ!というがんとした姿勢でもって「好きだ!」というのではなく「いやまあ好き……っすね………」みたいな感じ。
自分のことを定義付けできたのは大学生になってから。女の子への初恋は中学生のとき。憧れの先輩がいた。
週に一度、習い事のためにいつもは乗らない電車に乗るときが、部活も学年も帰り道も違う先輩と2人きりで話す唯一のチャンスだった。
容姿端麗・頭脳明晰・運動神経抜群な先輩は地区でいちばん頭のいい高校に合格した。卒業式の日、制服のボタンを貰った。翌年同じ高校に入学した。廊下ですれ違うたびに手を振ってくれる先輩が眩しかった。先輩みたいな人になりたい。憧れの存在だった。
ただ当時のわたしはアイドルの嵐がめちゃんこ好きだったり、仲の良いクラスの男子と定期テストの結果を競い合って負けたらサーティーワンのアイスを奢るために一緒にショッピングモールに遊びに行ったりと、まあ、なんだ。傍目から見たら普通に男子が好きなんだなあという感じだっただろうし、自分でも男子が好きなんだなあということは疑いようもなかった。
ただ一方で、じゃあこの先輩への説明のつかない気持ちはなんなんだという疑問が胸の奥ーーのほうでキャラメルリボンのようにぐるぐる渦巻いてもいた。
実際サーティーワンの男の子からはサーティーワンの帰り道に付き合ってほしいという申し出を受けた。素直に舞い上がった。けど、高揚のままによろしくお願いしますとシェイクハンドしてしまうのは、なんか、なんか違うよなと思った。
「ごめん」のひと言を伝えるのがやっとのわたしに、サーティーワンボーイは
「おっけ。次のテストも負けねえから」と爽やかに返してくれて、それが告白されたことよりも嬉しかったのを覚えている。
アイスの冷たさが沁みる季節も過ぎて、短い秋をのんべんだらりと過ごしていたある日。地元の図書館で本を貪り読んでいたところ、雷に打たれたような衝撃を食らった。
それは少女小説「マリア様がみてる」との出会いであった。まじ、衝撃であった。
マリア様がみてる、通称マリみてとの出会いはわたしの恋愛観を180度どころか900度くらい変えた。まじ、根底からひっくり返ったのち勢いそのまま何周かした。わたしの精神世界はさながらセカンドインパクト後のような様相であった。信じられん存在感をもってして、わたしの世界を一夜のうちに変えてしまった。
お、女の子のこと、好きになってええんか……。
先輩への憧れを、尊敬とか思慕とかそういう言葉でもやもやっとさせなくてもええんか……。
近付きたいと思ってええんか……。
まじか…………。いや、まじか…………。
もう、絶句であった。
クラスメイトたちがせっせと次の定期試験に向けて勉強しているさなか、わたしはただひとりマリみてを読み漁った。とりあえず全巻読破した。
まじか。うわー。まじかー。
マリみてを読むことに全ての力を注いでいたためサーティーワンボーイとの賭けには再び負け、今度は購買のパンを奢らされた。苦手な物理では赤点を取った。けれどもそれらはマリみての前では些細すぎる出来事だった。
まじかー。
この「まじかー」という思いを3年間引きずったまま、けれども先輩との距離をそれ以上縮めることもできずに、先輩が卒業したあとは何事もなかったかのような顔をして男の子と初お付き合いをしたりしてわたしの高校生活が終わった。
マリみてどころの騒ぎじゃなかった。
盆と正月とクリスマスと創造神と破壊神がいっぺんにこの世にやってきて世界をめちゃくちゃに踏み荒らし、亡き者の命を弔い新たなる生命の誕生を祝福し、一筋の光を灯しては消して灯しては消して「じゃ!あとは自分で頑張って!」と言って帰っていった。
まじ、衝撃であった。
セクシュアリティ、多様な性、LGBT、性別二元論エトセトラエトセトラ。それらすべての言葉や考え方が、自分がどれに当てはまる当てはまらない関係なく、誰もかれもに関係する言葉であるのにも関わらず、わたしは過去18年間何ひとつ知らなかった。
ただ己の直感のみで生きるしかなく、その直感の中に「もしかしたら女の子が好きかもしれん」というものがあり、がしかし、なまじ男子も好きになるがゆえに「いやいや、まあそれとこれとは違うっしょ」という感じで奇跡的な気付きに雑に蓋をしてしまっていたのだった。
と思わないでもなかった。
でも、じゃあ仮に高校時代に「女を好きになる女」みたいなことを調べたとして、わたしが先輩に何がしかアプローチすることはあったのか?先輩後輩の均衡を最後まで崩さなかったのは紛れもなくわたしの選択肢ではないのか?
どうしょもないIFすぎる問いを抱えたまま、とりあえず次に好きな女の子ができるまで、何事も何事もなかったムーブで過ごそうと決めた。
ただ、ちょぴっと知識を得たことで、わたしの「普通」がちょぴっと変わった。
女を好きな女であることをことさらに全面に出すこともなく、かといって、押し込めるわけでもなく。普通に男の子とも付き合うし、好きになったら女の子にも普通にアプローチする。だって好きなんだもん。別にいいじゃんね。
クィアの講義を受け持っていた先生は、セクシュアリティは個人的なもので、そして流動的なものでもあると言っていた。わたしは結構この言葉が気に入りだった。
個人的なもの。わたしだけのもの。流動的なもの。変わってもよいもの。わたしのものだから、変わったって変わんなくなって、誰に文句を言われる筋合いはない、もんもんとしたときは、そういうものがわたしの体の中心にすーっと通っていることを思った。
その「すーっ」を思う効能は、何事も何事もなかったムーブよりもはるかに効き目があった。
いま好きな女の子に対して、踏み込みたいという気持ちが無いわけではない。そりゃ好きだからな。
2人で遊ぶこともある。今度は旅行しようねと話してる。
舞い上がらないわけがない。でも彼女が少なからずわたしを信頼してくれているのがわかるから、それを壊すようなことはできないなーと、綺麗な横顔を見ながら思う。
わたしにとってわたしのセクシュアリティがわたしだけのものであると同時に、彼女にとってのセクシュアリティも彼女だけのものであり、そんでもって関係性というのは両者で作るものだ。お互いを尊重したうえで変容を求めるなら変容を、現状維持なら穏やかに関係を続けていけばいいのだ。
で、わたしは別に彼女に「わたしは男も女も好きです!」みたいな宣言をしたことはない。ので彼女は多分知らないと思う。言うならきっと、女だとか男だとかではなく。必要なのは「あなたが好きです」というただひと言なんだと思う。で、わたしはまだ思いの丈を伝える覚悟がないから言わないだけで。
ていうか別に、宣言とか、しないよね。なんかセクシュアル・マイノリティばかり言う言わないうんたらかんたら色々ありますが、
言う人もいる、言わない人もいる。
わたしのように匿名ツールでなら言えるとか、ざっくばらんな恋バナをする友人には言えるみたいな人も、いや家族や職場に言います、という人もいるだろうし。本当に、人それぞれ。その人だけのもの。個人的なもので流動的なものだから。
だからこう、ネットでも現実社会でも、まじかーまだその段階かーみたいな発言やら意見やらを見かけることは多々ありますが、知識を得た今ならそういったあれこれ全て、わたしの個人的なものを傷つけたり揺るがせたりすることはできないのだよ、と自分に言ってあげられる。ただ、中高生のころのわたしのように、じゅうぶんな情報や知識にアクセスできない若い子たちが不用意に傷ついていないかは心配しているよ。ていうか本当、いちばんはそこだよね。
NieR:Automata1周目(Aルート?)終わった。
チュートリアルボス倒せなくて最初からやり直し。心折れそうになった。
最初にストーリーで「死」を描写して命を感じさせるのが零式と重なってスクエニって感じがした。
まず第一にグラフィック。自分がゲームPC買ってからやったゲームで間違いなくダントツ綺麗だった。最初ムービーで2B 見たとき、ふちがガビガビでビビり倒したけどいざゲーム本編始めて見るとやっぱりイマイチだった。は?と思うかもしれない。グラフィックの綺麗さに気がついたのは中盤辺りだから。いつもonにしてるブルーライトカットの設定切ったらとたんにめちゃっくちゃ綺麗になった。反射が描写されるようになったからだと思う。2B のスカートが急にきらめくようになった。武器もずっと見てられるくらい綺麗に。
そうそう、ビジュアル面で言えば世間は2Bのフェチズムに夢中だけど俺は違う、やっぱ武器よ。特に刀の反り方について語りたいよね。2Bの初期武器は2本とも刀なんだけどやっぱり刀っていいいよね。他の洋ゲーには出てこないだもん。ニーアの刀はちょっとやり過ぎなぐらい反り返ってるんだけどそれがちょうどよくてなんならフェチズムを感じるくらいそりに反ってる。
戦闘に関しては特に惹かれたことはないかな。最近やったゲームはどれもクリアできるまでボス戦を繰り返すタイプだったから、ニーアみたいな回復剤でゴリ押しみたいなプレイは久々だったな。オートアイテムのスキルで回復自動でできたのは便利だったな。そうだ、オートアイテム含めユーザーインターフェースはかなり洗練されていてストレスフリーだったな。
いやさあ?まじで。ストーリーひどすぎない?このゲームのテーマは「ロボット」と「自我」だったり、「アンドロイド」と「感情」みたいなよくあるっちゃあよくあるテーマだ。
こういうストーリーのアンドロイドは最初冷たすぎるくらい無感情で最後に涙が止まらなくなって「あれ…私感情ないのに液体が止まらない…司令官、エラーです…」みたいな感じが定番なんだけど、2B普通に感情あるくない?序盤から9S がうぜえくらいクラスの気になる子にアタックするお調子者みたいなムーブしてるんだけど、2Bもそれにまんざらでもない感じなんだよね。そんな関係で、最後2Bが9Sの介錯をするんだけど、あのシーンで2Bがあそこまで取り乱した理由がマジで全然わからなかったし、共感できなかった。保存していないデータからはアンドロイドを再構築できないため、最後のイヴ戦での9Sの記憶は消えてしまう。代償それだけなのにあんなに取り乱す????今までの出会ってからの記憶全部消えるとかならわかるけど、1時間もないくらいのちょっとの時間じゃん。直前まで9S離脱してたんだし。おめーらアンドロイドはいいよな、データ取っておけば復活できるんだから。こちとら人間様はそうも行かねえから。そんな感じ。
あと9Sの首を絞めるシーン、まじで気持ち悪!!!と思ってしまった。もう完全にヤっちゃってんのよ。スクエニのデザイナーは口からよだれ、ちんこから汁出しながら白目向いてこのシーンのモーション作ったんだろうな。ほんとこういうところにスクエニの”変態エリートが自己陶酔でシコってる”みたいな(俺個人の)企業イメージが溢れ出ていて心底冷めてしまった。
いやヤるのはいいんですけどそこに至る理由が全く共感できなくて、とりあえずセックスで昇華させておくかみたいな思考がキモいと思った。
あと、ストーリー1周目短くてビビったね。起承転結の承くらいでボスの片割れ死んだからビビりちらしましたわ。後半に開放された森とかほぼストーリーで行ったっきり探索してないしね。Life is strangeで学んだように優しすぎるキャラには裏があるから、パスカルホントは黒幕なんじゃねえの?とか思ってたけどそんなん全く挟む隙もなく終わってしまった。
とりあえずまだ武器の最高レベル4も開放してないし、サブクエストもたくさんあるし、なによりこのゲームは周回前提みたいだ。自分の感じたこのストーリーへの失望をどうか次の俺ではうまくやって晴らしてくれ。2周目、行きます。(ここまでプレイ時間14時間)