はてなキーワード: オリンピックとは
悪用される可能性が高かったり、倫理的に問題のある研究であっても、探求欲を優先して突っ走るマッドサイエンティストみたいなのって
なんかいいじゃん
みたいな
とか言われるとちょっと違うんだけど
餃子事件の時も粛々と通報したけど嫌がらせ行為をしていた泡沫アカウントは通報したらちゃんと停止になったぞ
オリンピックの開会式でMIKIKO氏を下ろさなければ!電通が悪い!佐々木が悪い!
ってどこ見てもみんな言ってるけどさ。
要はMIKIKO氏と佐々木氏で権力争いをした結果、MIKIKO氏が負けて追い出され、
その報復だかでMIKIKO一派が佐々木氏のLINEの発言を流出させて退任に追い込んだんでしょ?
処分するならそんなクソ下らない権力争いで開会式を滅茶苦茶にした両者とも処分しろよ。もちろん最終責任者として電通もだ。
また小林賢太郎退任後も小林が持つなだぎ武がいる劇団をオリンピックで使うって、完全に公私混同じゃねぇか。
なんでこっちは全然問題視されないのか。税金の横領に近いぞ。同じ事を政治家や官僚がやったらどうするよ。
今回オリンピックの正式種目に選ばれたスケボーが思いの外好評だが
悪そうな少年達が街場で危険な走行をしたり、練習場も不良の溜まり場になっていたりしたもので
ヒップホップが売れてメジャーに浮上した時に、売れてるヒップホップは認めないという連中がいたが
少なくともコーネリアスのファンは知った上で聴き続けているので日本国内ではさほど影響はないのでは?
2021-06-21 https://anond.hatelabo.jp/20210621023823
これ見て聴き続けられる人は正直どうかしてると思うわ
↓
2021-06-21 https://anond.hatelabo.jp/20210621025231
↓
2021-06-21 https://anond.hatelabo.jp/20210621025403
ただ代わりがいないについては同感
表舞台に出て説明責任も負ったりする舞台・映画監督や、せめて作家性のある構成作家が仕切るべきオリンピックの開会式を、裏方でかつ、通常業務のステークホルダーがアーティストや芸人サイドである演出家が仕切ったから。
舞台や映画監督はスポンサーの意向を聞きながらもオーディションを経由してバックグラウンドチェックを行うことでお友達以外からも参加者を募り、かつ観客動員数などの責任を負い、客の期待していることを読みながら、シーンの転換に一貫したシナリオのある舞台を作るのが仕事。向いている方向は、客、または、スポンサー。演者は監督の思い描いたシナリオや絵コンテの流れを実現する素材。
一方で演出家は、シナリオの部分を担保するのがアーティストやお笑いネタを作る側、脚本家であり、演出家自体は出来上がっているシナリオやそのシナリオに沿って動く側を良く見せるのが仕事。向いている方向は、演者。演者の活躍や表現をサポートする立場。
このゴタゴタは、AKIRA案という、復興五輪や日本外交どころかオリンピック憲章と全然関係ない案を出した演出家のMIKIKO先生のキャスティングから間違いは始まっている。
AKIRA案って、そこと何の関係あるんですか?表現者サイドの自己表現よりも、日本の民意を汲みつつ、各国の選手の歓迎の方が優先される場なんですよ。思い切り自己表現をするアーティストを支える人ではなく、オリンピック憲章の意図を理解し自分の表現力をオリンピックという場を成立させることに注ぎ込んだ森山未來的な役者・ダンサーを開会式に起用できるような教養のある監督が必要な場所なんですよ。
あと、開会式に冷戦時代だと有効だったジョンレノンのイマジンが墓から出てきたのでびっくりしたのですが、こういうチョイスをしたサブカル層が見てる世界って、難民が出ている世界や国境・領土問題でゴタゴタあるインドやパキスタン、台湾等ではなく、欧米音楽業界のさらにマイノリティの痛みに無頓着な育ちの良いボーイやガールの界隈なんですかね?さらに強者と言われる白人サイドから手を取り合ってって言われるの、どうなんですかね?マイノリティの主張を聞くことから始めないんですかね?
サブカル層はすぎやまこういちや海老蔵に対してカウンター打てるほどの人材や作品をプール出来てないぐらいに日本外交に対して考えもなく、多様性もなく、身内で固まっていただけ。そういう現状を反省しつつ、スポーツの採点でスポーツ業界の人材の方がはるかに多様だったら、大坂なおみさん以外の多様なスポーツ選手にも沢山映像等でフォーカスすれば良かったのに、そういうこともしなかった。
消防団や歌舞伎だせというのは、最低限、ベタな日本的なものを開会式に出せという、あらかじめ想定できた国というスポンサーからの要求。ベタなボランティア経歴のあるMISIAもそう。
音楽は歌謡曲・民謡・太鼓・三味線とか『のど自慢 世界大会』的なベタなもので全然良かったし、前回のオリンピックから違う系統で且つ昨今の流れを組みつつ世界でもわかりそうなものと言ったら、ヒップホップやジャズとかの黒人音楽でも良かった。他は、よさこいやねぶた祭り、漫画・アニメみたいなベタで良かったし、最初の赤い糸を使ったハイコンテキストな割にその意図が『はたらく細胞!!』っぽくて可愛いことにあっていないコンテンポラリーダンスはなくても良かった。
借りてきたマイノリティではなく、自国の中のマイノリティを見つめるなら、日本的なもので統一しても良かった。その流れで、身体障害者として途中からマイノリティになった長嶋さんの登場や、音楽業界ではマイノリティであるゲーム音楽(すぎやまこういちはともかく)は良かった。
老若男女世界各国ウケるベタでローコンテキストなものを嫌って、身内しかわからないハイコンテキストなものや、借りてきたマイノリティ性を好む人たちが、たまたまアーティストサイドを贔屓する演出家を中心となって固まり、音楽・映像サイドもそのことを気にかけなかったことが露呈した、そんな開会式だった。
才能ある人を守れと言われても、コンセプトやシナリオにあった動きをするから守れるのであって、そこを蔑ろにしてたら守れる才能のある人も守れないんですよ。シナリオや絵コンテがあるリニアなコンテンツではなく、電博の雑誌・テレビ的なノンリニアなコンテンツの作りをしていたら、枠を入れ替えるように人もコンテンツも交代されちゃうんですよ。だから外部からの口出しに柔軟に対応できちゃうんですよ。周りに何言われても「これはコンセプトやシナリオ、絵コンテの流れに合ってませんから」で断れずに。
飲食店で濃厚接触の可能性などは考えたこともなかったしこれからも敏感でありつづけ(それが当たり前にな)るのかもしれないが
ただそれでも酒を飲み顔を寄せ笑いあい、今はオリンピックか、それで盛り上がりそして分かち合いながら
締めのラーメンを食べたい
ただ一人でラーメンを食べるんじゃないんだ
それは別にいいだろ。元犯罪者が仕事出来ないとなったら暮らせないじゃん
お仲間(小林氏・椎名林檎・さくらももこ)もかばいだてして氏を正すことはなかったが
小林氏も同様だね
ドラクエのテーマ曲がオリンピック開会式に不適切なのは、LGBT差別の肯定を表現しているからという理由になるの?
なら、ドラゴンクエストというゲーム自体もLGBT差別を助長するゲームだと言ってるに等しくないか?
オリンピック開会式から時間が経ち、ネットでは批判の声も見られるようになってきた。
中でも話題になった各国選手団入場時でのゲーム音楽に対し、「使い方が雑」「ゲームへのリスペクトがない」といった意見かあったが、これに反論したい。
まずはNHKのサイトで開会式のフル動画が掲載されているので、見ていないで批判する人は見てほしい。
動画を見たら分かると思うのだが、あの場面での主役は、これまで血のにじむような努力をし、この日を待ちわび、各国の特色を出すようなオシャレをして、笑顔で手を振りながら入場する選手たちにほかならない。
勘違いしないでほしい。決して主役はゲームなんかじゃないのだ。
無観客で、拍手や声援は一部の関係者だけ。そんな中を、ゲーム音楽が音楽だけの力で選手たちを称え、迎え、勇気づけ、盛り上げたのだ。
ゲームを盛り上げてくれた素晴らしい音楽を、オリンピックの開会式でも使って盛り上げたい。これのどこにリスペクトがないというのだろう。
「ゲームに関連した演出をしろ」っていう意見もあったが、一体それは何をするというのだろう。曲に合わせたコスプレやキャラを出せばよかったのだろうか?
少なくとも選手団入場時にゲーム関係の装飾を加えたとしたら、それは主役がボケてしまうのではないか。
既存の音源ばかりで、生演奏でもなく専用のアレンジではないという意見も見た。しかし、選手入場は2時間近く続いており現実的ではない。
そういうのは、ゲーム音楽が“主役”になる単独のコンサートでたっぷりとやるべきなのだ。
東京オリンピック開会式でのゲーム音楽は、脇役に徹しつつも、存在感を示し、少ないコストで最高の仕事をした。
1970年代から50年かけて、マンガやアニメ、ゲームの受容層が高齢化した結果、それらのコンテンツが教養化して、マンガも読まないアニメも見ないゲームでも遊ばない人達は教養人の条件を満たさなくなったんですよ。オリンピックの演出が薄っぺらいという発言は、この層から出ていて馬鹿にされている。— 鳥山仁 (@toriyamazine) July 24, 2021
ただの知識じゃなくて、ある程度まとまった体系的な知識が身に付いていて
それを基にして、新しい物事を解釈したり想像したりする力のことを「教養」だと思ってるんだよね
さすがに、何百年も前の教養が、今新しく出てくる物事に対して通用するとは思わないが
たかが50年程度で教養が使い物にならなくなるなんてことはないだろう
現在において、マンガ・アニメ・ゲームの知識だけで「教養」は身につくようにはなったかもしれないが、
終わってみれば、いくつかの伏線があった。
まず、自転車のロードレースは名目上は個人競技だが、実質的にはチーム競技である。エースとなる選手をチーム内の他選手がサポートする。しかしながら、今回オーストリアからは優勝した眼鏡っ娘数学者ただひとりだけの出場で、名実ともに個人の力だけの戦いをせざるを得なかった。これが第1の伏線。
空気抵抗は速度に比例する。速いけどすぐ終わる陸上短距離や、時間は長いけどゆっくりのマラソンとは異なり、車なみの速度で長時間長距離を走る自転車ロードはとりわけ空気抵抗の影響が大きい。そのため、空気抵抗を減らすための工夫が必要になる。それが集団走行。先頭となる数人が風を受け、大多数はその背後に隠れることで空気抵抗を減らす。先日のツールドフランスにおける大落車事故も、風よけのために意図して密集して走っていたからこそ起きたのであり、離れていれば巻き込まれずに済んだのになどというのは単なる妄言でしかない。
つまり、集団(プロトンと呼ぶ)のメリットを捨てて序盤から飛び出すというのは、本来なら無謀な戦略である。しかしながら、たとえプロトンにいても、誰からのサポートも受けられない孤独の選手がエースとサポートで分業できる他チームと張り合って勝てる見込みはない。万が一でも勝機を見出すのであれば、プロトンの中で埋没するのではなく、逃げて逃げて逃げまくって、後方のプロトンで何らかのトラブルが発生するのを期待するしかなかった。そしてそれが起きた。
第2の伏線はオリンピックのルール。通常のプロのレースでは、選手は無線機を装着し、それを使ってレース全体の状況や戦略が伝達される。しかし、オリンピックでは無線連絡は不可。詳しい状況を知るには、プロトンの後方を走っているチームカーのいるところまで下がって聞く必要があった。序盤から中盤にはできただろうが、終盤になってくるとそんな余裕はない。チームカーだけでなく、プロトンの前を先導している車両からも逃げ集団とのタイム差が随時伝達されていたはずだが、キーセンホーファー以外の逃げ選手が吸収された少し前ぐらいに伝達されたのがおそらく最後だったのではないだろうか(推測)。そのためプロトンをコントロールしていたオランダチームはすべての逃げを捕えたと判断してしまい、前方に注意を向けるのをやめてしまった。キーセンホーファーがどのプロチームにも所属しないほとんど無名の選手だったことも幸いした。有力選手だったらプロトンにいないことが気づかれないはずがない。誰も知らない選手だったから、集団にいないことが不自然に思われなかった。実は3位になったイタリアチームはまだ前で逃げていることを認識していたらしいが、プロトン内での争いになったと誤認していたオランダチームが先頭を追うことを許さず、差を詰められなかった。
そして何より、優勝したキーセンホーファーは強かった。プロではないが過去にはプロチームに1年だけだが所属していたことはある実力で、また、集団ではなく個人で走る種目であるタイムトライアルを得意としており、かなりの実績があった。また、今回は上り坂の多いコースだったが、キーセンホーファーはまさにヒルクライマーだった。つまり、上り坂の多いコースを集団ではなく自分の力だけで走るのは実は得意中の得意だったのだ。スタート直後から逃げるという戦略を選んだのはキーセンホーファーだけではない。彼女を含めて5人いた。この5人でかわるがわる先頭交代しながら逃げたが、他の4人はけっきょく脱落した。数人でもひとりよりは圧倒的に風よけの効果はあるが、それでも数十人の大集団に比べればたいしたものではない。体力の消耗は激しく、逃げ続けるなんて到底無理である。しかしキーセンホーファーは最後まで逃げ続けた。これはただの尋常の力ではできない。
こうやって後から振り返ってみると、偶然の要素はあったものの、ただ幸運なだけで掴んだ結果ではなかったことがわかる。ちなみにオーストリアが自転車競技で金メダルを取ったのは1896年アテネの12時間耐久レース以来だそうで。昔はそんなとんでもない種目があったんだ…。
「政府は批判するしオリンピック開催も批判したいけど、それはそれとして選手は応援するしステイホームでオリンピックを楽しむよ」
そんな言葉をTwitterでちらほら見かける。いやいやいやそれが両立してるわけがないだろバカ。ってマジレスが通じなくて怖い。
なぜなら選手が金メダルを取る舞台は私たちの税金が大量に投入されて作られている。なぜ税金を使うかといえば、金メダルをたくさんとれる日本ってすごい!というナショナリズムを高める絶好の機会だからだ。そんな機会他にあまりない。だからこそ明らかにオリンピックに税金使ってる場合じゃなくても税金を使う。
だから日本の選手を応援することは、大いに政治的な行為なのだ。日本の選手を応援して、彼らが金メダルをとって、みんなが日本すごい!って騒ぐ。その日本すごい!こそが政治家にとっての費用対効果である。感染拡大しても欲しかったものだ。その効果を生み出してるのは、他でもない、オリンピックで選手を応援するあなたのツイートであり、あなたの素朴な高揚である。
選手は何も悪くない。というか同情すべきですらある。自分の職業がいつのまにか政治に利用されているのだから。でも宮崎駿が『風立ちぬ』で飛行機製造の技術を上げていたらいつのまにか戦機を作っていた青年を描いたように、そもそも国とはそういうものなのだと思う。素朴な「すごい!」こそが一番政治利用しやすい。だからオリンピックに出る選手を批判したいとは全く思わない。彼らは彼らの職業倫理に従っただけだ。
しかし彼らを応援することは、もしかしたらコロナ対策や教育や医療や福祉やその他たくさんの公共の財産に使うべきだった税金を、オリンピックに使った意味を生み出すことだ。それがオリンピック開催の肯定でなくてなんだろう。政治家がオリンピックを開催する意味を自分で作ってるんだよ。
私は税金はオリンピックじゃない場所に使われるべきだったと思うし、予定を大幅に変えた予算を使うべきでもなかったと思うし、開催を肯定したくない。だからオリンピックの選手は応援しない。というか、オリンピックの日本のチームで選手が活躍することを応援しない。それが生み出す意味(日本すごい!という感情)を煽りたくないから。
でもみんなスポーツ素朴に好きだよね。知ってる。