はてなキーワード: スパンとは
さてこんな文章を見たのです。
[文系が、インターネットの仕組みについて教えてもらった記録 - のんたんのインターネット日記]
酷い。
てへぺろじゃねーよ。
ブコメみたら、あぁ皆さん優しいなぁ〜って。
「知ってる人からみたら当たり前、でも知らない人からしてみたら凄い事なんだぞ★」みたいなのは基本的に戯言だと思っていて、
なぜなら彼女は「知っておくべき立場」ですよね。「インターネットの会社」の中の人なのだから。
あの、申し訳ないのですが、はっきり申しまして「この人が営業に来たら嫌だな」。まずはこの一言に尽きる。
だって、知識がないんでしょう?
普通の人が「頑張って勉強してます」を実直に語るのは素敵な事だと思うのだが、
「インターネットの会社の中の人」なのだ。外から見たら変わらない。シス担だろうとマーケディレクターだろうと、「インターネットの専門知識を持つ人」なのだ。
少なくとも、彼女は企業名をヒモ付したアカウントで、当該の日記を書いている。
そんな訳で、ちょっと話が変わってくるのだ。
まぁ、確かに?企画/アプリレイヤーならインフラ周りとか一切分からなくても良いでしょうよ。
まして営業となると、余計そうでしょうけど。
うん、確かにそうだ。
って事で用意してくださった研修、これの意味を軽く考えていないか。
会社としては、趣味なんかではなく「必要だから」企画したはず。
なのだが、一体いつまでの期間で行われていたかは知らないけれど、
彼女は9月の時点で「えーれこーど」の事が分かってなかったらしい。
いや、この文章が、それをありし過去の事として、段違いに成長した今の自分の目線で語ろうという試みならば痛快だった。
だがどうやら違うのだ。
理解がね、とても遅いのです…
終盤に綴られたこの一言は、当人の自覚以上に余りに色々を語っていると思う。
体系的に書かれているサイトがすごく少ない
そうかもね。
でもさ、本屋で少し立ち読みとかしてみた?一流のテクニカルライターとプロの編集者が高い意識でまとめた作品が、たくさんあるよ。
家にいながら指を10本だけ使う作業によってカバー出来る範囲だけが「勉強」だとは、とても思えないです。
ともすれば、「インターネットに書かれてないことは分かりません!」って無意識に思い込んでるよね。「逆切れ」、ってそういう事だろ。
惜しいなあ、その悔しさをバネにした素晴らしいエピソードも載せて欲しかったな。
大変だ。(笑)
というか、「理解」するまでを「学び」というのでは。理解してない、ならそれを恐らく「学び」とは言わない。
いやはや、恥ずかしくないのか。
周りと比べたら、多分遅れてるよね。同じ選考を通過して、給料で働かせて貰って。
鑑みるに、「勉強したら、分かるんだね」という経験を今までしたことが無いのかも知れない、
「知識は人に教えてもらうもの」と、そう思い込んでませんか。
第一、タイトルからして「文系」などとう言い訳がましい冠を自ら被っている。
職種は、業種は。「文系」
業務領域に対する意識の低さを見事に露呈してるようで、それがとても鼻に付く。
この文章がムカつくところは、そこだろう。
たぶん社内SNSで日報として学びをUPするのはとてもいいコミュニケーションであり、等身大の自分を伝えたほうが上司にとっても有難いだろう。
なぜ、はてブロに書かなければならなかったのか。
「ソーシャルメディア」に載せるというのは360度どこから刺されてもおかしくないリスクがある訳だが、
そこで「専門領域」に関して「素人」となる事に関して、何も気持ち悪さを感じなかったのだろうか。
15回ほど色んな方に説明をしていただいていました
そのうち、10〜13回くらいはうんざりされたんじゃないかな。どうだろう。
10代の頃から実家を出て、目指している処にひたすら近づこうとがむしゃらに努力した。
結果、小銭程度は稼げるレベルになったがとてもじゃないがそれ一本じゃ生きて行けない。
年齢的に別軸のスキルを磨かないとこのまま詰むのが見えてきたのが23。
でも目指す処を諦める踏ん切りがつかず、中途半端に続けながら同時に生きるためのスキルを磨いていた。
自分のことをよく知っている人間からは、「すごいね」「良かったじゃん」「好きなことしてるお前はいいよな」等々、
「でしょ」「やっぱ好きなことしないとね」と当たり障りのない返答で受け流していたが当事者としてはそれどころじゃなかった。
一日でも早くソレで生きていける安心・自信みたいなものが欲しかったから、ソレがない現状、毎日が不安と将来への恐怖で一杯だった。
仲の良い友人達と数年ぶりに飲む機会があった時、「クリスマスは彼女(彼氏)かな~」
その時は、純粋に「いいなぁ」と思えたが今なら「脳内お花畑だなぁ」と思うだろう。自分は嫌なヤツになった。
そんな焦燥の日々に疲れたのが25歳。
その頃は今まで目指していた処のコトは考えるのはやめ、現実的に別軸のスキルに全力を注いだ。
結果その業界で細々と生きていけるだけのスキル・諸々は得られた。
アルバイトから正社員へ。今まで欲しかった安心が少しだけ貰えた。
だが、数年勤めてそこを辞めてしまった。
その会社は典型的な搾取システムで、実働の若い世代を言葉で騙し、釣って、飼い殺し、捨てる。
上の役職は長いスパンで変わっていないのが納得する会社だった。「どこの会社もこんなもの」と折り合いが付けられなかった。
そんな会社でも人間性が保てている人、尊敬できる人に出会えたので感謝するべきなのだろうが、あそこの人間とはもう関わりたくない。
それからそこを辞めたタイミングでニートになった。墓まで持っていくであろう汚点も作った。
このままじゃ駄目だと思った。だから出来るだけ深く深く、自分を内観した。
今までのスキルはあまり活かせないが、やりたい事が見つかった。
そして、色んな人達のおかげでアルバイトだがなんとか社会復帰できた。
そして必死で働いた。自分の時間はなくて当たり前の日々だった。
ある日仕事を任された。興味があったしやりがいがある。本当にやりたい仕事の範疇だが、それではやりたい仕事のスキルが伸びないのでいつか見切りをつけて、
責任も増えた。
だが失敗した。「自己研鑽が足りなかった」と答えは出ているが、その時間を作れなかった。
そんな事を考える余裕すら無かった。
今念願のやりたかった仕事をしているが、本当にやりたかった仕事なのか疑問に思えてきた。
「逃げ・甘え・危機管理能力の無さ・青臭い」色んなことが頭をよぎる。
なんか疲れた。
クリエイターが思い上がってるのではないか、という増田の意見には同意。
俺が異業種から出版業界に転職した時に猛烈に感じたのがその種の「思い上がり」。
「俺たちは雑貨を作ってるんじゃないぞ。文化を創造してるんだ。 舐めるなよ」
20代、30代はそこまでバカじゃないけど、やっぱりその手の根拠のないプライドがやたらと高い。
ただ、エントリの後半で、増田が今話題の自炊代行業者への提訴まで、思い上がりのなせる業だと判断したのには同意できない。
昨今の書物の電子化を求めるネット利用者からの声は、確かに大きい。
音楽のダウンロードが安易に出来るようになった結果、人々が音楽にお金を払うことをバカバカしく感じるようになった。
音楽業界にお金が落ちなくなり、業界人が食えなくなり、業界に余裕がなくなり、面白い新人が育たなくなり、大手の寡占化が進み。業界自体が衰退して、愛好家以外が音楽を聞かなくなった。
必ずしも安くて便利にすればいいというものではないのだ。
という理由で電子化が進み、出版業界にお金が回らなくなれば、良質な活字文化は崩壊する。
それは文化の繁栄に、結局は繋がらない。
なくて困る類のものではない。
市場の短期的なスパンと文化育成のために必要なスパンはあまりに周期が異なるからだ。
デ・ビアスという会社が世界のダイヤモンド市場を牛耳り、価格統制を敷いている。
しかしそのために、価格の値崩れが起こらず、業界全体は繁栄を謳歌している。
出版物を電子化から守ろうとするのは、業界にカネを還流させるために必要な行為であって、出版業界関係者の思い上がりとは分けて考える必要がある。
ただ作家達も、書籍の電子化自体に反対すればいいのに、そこに反対すると、頭が古いとか利己的だとか思われるのを嫌ってか、自炊代行行為にのみ反対し、その根拠を「書籍への愛」などという感情論に持っていくから、下心を隠しているようで、人々の支持を得られていない。
残念でならない。
リマインドしようにも、これを書いた人(=自分)の学力だと読めない本だったから無理。無理ゲーだった。
第一章
1
意味論的に透明なシステムと結びついた心の概念および計算機モデルを意味する。
この主義の限界を
2
チューリングの形式化が持っている特徴
(1)物理的組織によってではなく、記号操作の形式的特性によるメカニズムの集合全体を包括
(2)そのメカニズムがいかにすれば十分に明確化された問題すべてに取り組むことができるか示している
(3)万能チューリングマシンを定義する方法を示している
⇒ 素材は重要ではなく、形式的特性が能力を原理的に保証している
フォン・ノイマンがコンピュータを設計し、1960s、ジョン・マッカーシーがLISP(プログラム言語)を開発。
⇒ 研究開発が可能に
A・ニューウェルとH・サイモンが物理記号システムという概念を提出
⇒理論的に自覚化・明確化される
3
・物理記号システム
①適切に操作可能なトークンに対して任意に意味を割り当てることができるシステムであり、
②正確にプログラミングすればこの割り当てられた意味論的内容と細かい点においても一致した仕方で行動すると信じられるようなシステム
by 1976 ニューウェル & サイモン
・強い物理記号システムの仮説
SPSS strong-physical-symbol-system
「標準的な記号アトムのフォン・ノイマン型の操作を行っている仮想機械は、一般的な知的行為を実現するための直接的かつ十分な手段を持っている」
①仮想機械
そのプログラムに我々が命令を与える機械を模倣させるような「機械」
・記号を割り当てる
・変数を束縛する
・記号列の複写、読みとり、修正
等々
③標準的な記号アトム
④一般的な知的行為を実現するための直接的で必要かつ十分な手段
そうした機械は、それを支えている特定のアーキテクチュア(その基盤になっている他の現実的もしくは仮想的機械から)まったく独立に真に知的でありうるのであり、逆に言えば他のアーキテクチュアや機械をシュミレートすることなく真に知的でありうる
4
このような主張(標準的なLISPのアトムのごちゃごちゃした操作が、知能や思考の本質を構成しうるという見解)が、ニューウェルとサイモンのものだとできる動かぬ証拠は、彼ら自身の実践。
彼らの仕事の特徴(例:BACON)
・規則あるいはヒューリスティックス(発見的手法)の直列的(経験則を用いたも多少は運が左右する⇔体系的)適用に依存している
・そうしたヒューリステイックスの大部分が、かなり高いレベルで意識的に内省可能
・選ばれた課題領域を扱う
BACON:一連のデータから科学的法則を帰納する(ケプラーの第三法則、オームの法則)
・BACONが取り組んだデータをフォーマット化下のは、人間の労苦
・BACONは十分に構造化された課題にしか取り組めない。
ケプラーの第三法則は見つけられても、ペトリシャーレのカビとバクテリアの関係からペニシリンを発見する事はできない
・BACONが展開する知識とヒューリスティックスは、人間のプロトコルや実験記録に大いに頼り、われわれが自分自身の思考について内省する思考のレベルからかなり直接的にコード化されたもの
⇒この種の思考は原初的で瞬間的なプロセスの上に後から被せられたもの。理解するということを具体的な例で説明する事には役に立たないであろう
サイモン等は、人間の思考のすべてがただ一つの種類の計算アーキテクチュアに依存すると信じている。
しかし、筆者は違う考えを持つ。サイモンとラングレイの仕事では、洞察のひらめきといったタイプの認識を表現できない。
心は、多くの仮想的アーキテクチュアからなる複雑なシステムであると考える
知的課題や、感覚運動的な課題のような、なめらかに無意識的に行われるものは無視されている
5
古典的システムは記号アトムの使用に頼り、コネクショニズムはこれを避ける。
古典主義者:意味論的に透明なシステムの構築に対して、方法論的にコミットしている人々
STS semanttically transparent system
「システムの振る舞いについての記号的な(概念レベルでの)意味論的記述と、システムの形式的な計算活動の内的に表現された対象についての投影可能な意味論的解釈との間にきちんとした写像関係の記述が可能な場合にのみ、そのシステムは意味論的に透明であるといえる」
きわめて大ざっぱにいえば、あるシステムかSTSと見なされるのは、そのアルゴリズムの記述(レベル2)における計算の対象が、概念的レベルの用語で表現されたその課題の分析の記述(レベル1)と同型である場合である。
(レベル1:計算理論:(高い抽象レベルにおいて)どのような関数が計算されるかについての考え
レベル2:表現とアルゴリズム:それを計算する(具体的な)方法
レベル3:インプリメンテーション:現実の機械において計算がいかにして肉体あるいはシリコンなどで実現されるか)
(1)古典的理論は――コネクショニズムはそうではないが――統語論と意味論を組み合わせた記号システムを仮定している
(2)もし何らかの種類の構造化された表現が利用可能であれば、それらの表現についての計算操作を、その構造に鋭敏に反応するかのような形で規定できる。
もしそのような構造が存在していなければ、(すなわち、どんな記号表現も存在していなければ、)計算操作を規定することはできない
◎要するに、古典的システムは、統語論的に構造化された記号的表現を仮定し、そうした表現の構造によって、それに適用される計算操作を規定するものである
第二章
1
ドレイファス:古典的認知主義の問題は、人間の常識的な知識を表象として再現し表現しようとする形式主義の妥当性
サール:形式的なものと志向的なものとの間に、あるいは統語論と意味論との間にギャップが認められる
この二つの種類の懸念について検討する。
2
「あなたの持っているのはそんなにいいボールじゃないわ。それを私にちょうだい。そしたら私、このキャンディーをあなたにあげるわ」
この言葉を理解するために、ミンスキーちとパペートは膨大な概念のリストをあげる。
ウィノブラードのSHRDLUでは不十分。
・フレームは、常識がうまく対処している偶発的出来事のすべてをカバーしているとは思えない(バースデーケーキに立つ黒いローソクに、フレームは対処できるか?)
・フレームからフレームへの移行を促す規則(メタフレーム?)をいつ適用すべきか、システムはどうやって知るのだろう?
ドレイファス:互いに関連しあった特徴や可能性のすべてを、文脈に依存しない事実や規則によって形式的に把握するという課題には際限がないのではないか
3
・ドレイファスの二つの主張
(1)身体問題
「このシャンプーが目に入らないようにご注意ください。もし入った場合は、ぬるま湯でよく洗ってください」
コンピュータは、身体、欲求、感情、共通言語や社会習慣も持たない。だからコンピュータは、この文章が何を洗うように言っているのか理解できない
(2)コード化
人間は自分たちを取り巻く状況がどんなものかを絶えず感じ取ることができる。
このノウハウは、何らかの知識表現言語によって、一種の知識として表現できるものなのだろうか?
AIプログラム(=言語)が知識を表現する仕方が、現実の課題に対して根本的に不適合だと懸念する。
4
「強いAI仮説」を、サールは批判する
強いAI仮説:適切にプログラムされたコンピュータは、文字通り認知的な状態をとり、その際プログラムは人間の認知を説明するものとなる
Schank and Abelson 1977の、「ストーリーを理解するという志向的活動をシミュレートしているかに見える特別なプログラム」に対して、「中国語の部屋」を使うことで批判する。
サール:形式的に区別される要素に対する計算操作を行っているだけでは、どんなコンピュータも〈理解する〉ことはできない。したがって、そのような計算操作を規定するプログラムが、心の固有の性質について何かを示すこともあり得ない。
具体例:英語話者が英語を理解することと、中国語の部屋の操作者が中国語を「理解すること」の比較
「人間は何も理解していなくても形式的な原理に従うことができる」
以下、サールの誤りについて論じる
5
サールに対する仮想反論「脳シュミレーター説」
脳シュミレータ説:あるりプログラムが中国語を理解する実際の中国人の形式的な構造をモデル化したと仮定すると、そのときそのプログラムは間違いなく真の中国語の理解を構成したことになる
↑(サールの再反論)
(1)脳の形式的な性質は志向性を構成しない(三章にて説明)
(2)脳の形式的な性質が志向性を構成しないのは、ある種の素材だけが思考を支えることができるからである
↑(アナロジー)
光合成:光合成の形式的な記述を手に入れても、素材が違えば光合成は再現できない
では、思考をもたらすような脳の物理的性質とは?
:外因的および内因的な刺戟に対して脳に大規模な変動が引き起こされること
↑(コメント)
『中国語の部屋』が大規模な構造的変動を必要としないシステムなら、中国語の部屋による反論は無効
6
微視的機能主義
機能主義は、心的状態の本質を、
入力、内的状態の変換、出力からなるプロフィールと同一視した。
(適切なプロフィールを持つシステムはどんなものであれ、その規模や性質や構成要素にかかわれなく、当の心的状態を実現するであろう)
↑(批判)
(中国国家脳のような)心的状態を実現する見込みがないようなシステムも、「入力、内的状態の変換、出力」のプロフィールを持つシステムへと組織することは可能であるよように思われる。
こうした極端な寛大さは、機能主義の立場を掘り崩してしまいそう
・問題は、「入力、内的状態の変換、出力」の系列をどこに位置づけるか
×大まかなレベルに位置づけ
⇒感覚質の欠如、極端な寛大さ
△ライカンの「小人機能主義」
○微視的機能主義
・機能主義の批判はゲシュタルト盲に陥っているのでは Lycan 1981
:機能的な構成要素があまりにも大きい、極度に小さい、それらしくない等であるために、そうしたものからなるシステムに志向性を帰属させるという考えに抵抗するということ
(ライカン「小人機能主義」
:機能的な下位システムは、それがエージェントのために何をしているかということによって同定される)
微視的機能主義
内容や目的に関連づけからはかけ離れた用語で
記述しようとするもの
・諸関係が得られたとき、システムには大規模で柔軟な構造的変動が引き起こされ、またそれによってさまざまな創発敵的性質が得られるようになる
第三章
1
2
「民間心理学」
:自分や他人が、信じたり、希望したり、恐れたり、欲求したりしているということについての日常の理解
民間心理学は、行為・運動を説明するときに、信念や欲求という表現を用いる
「民間心理学は、人間の行動に先立つ内的原因についての素朴で原初的な科学」
3
(1)民間心理学は、偏狭な、特定の人々に限定されたような理解しか与えない。
民間心理学は、子供や狂人や外国人を前にすると、まごついてしまう
(2)民間心理学は停滞したまま、なにも生み出さず、長い間ほとんど変化も進化も発展もしていないところが他の諸科学と異なる
(3)民間心理学は、これまでのところ科学の主要部分にうまく統合されていくような徴候をまったく示していない。残念なことに民間心理学は自然を神経生理学的ないみで妥当な要素にまで分割することには関心がないようである
最近の分析哲学
:頭の状態に関する科学理論というゲームと、民間心理学というゲームを比較することが、そもそも不適当なのではないか
4
Daredevil believes that Electra is dead.
Mary hopes that Fermat's last theorem is true.
のthat以下を、心的状態の内容と言う。
心的状態が考えられる傾向
:われわれの心理学的状態が、本質的に、周囲の世界がどのような状態にあるのかということによって決まるのではなく、
われわれにとってどのように見えているかによって決まる
↓(言い換え)
我々の意識や無意識に何らかの形で影響を与えられないものはどんなものであれ、
本質的に我々の心的状態の正確な限定に関わることはあり得ない
⇒我々の心的状態が現に持っているような内容を持つものは、われわれ自身のあり方ゆえであって、
知られていないかもしれないような周囲世界の事実とは関わりがない……☆
・双生地球……☆に対して疑いを投げかける
双生地球で、「海に水がある」と発話される。
地球A:海にH2Oがある
地球B:海にXYZがある
この違い以外は同質だとする。
すると、
地球上の発話と双生地球の発話は、それぞれH2OがあるかXYZがあるかによってその真偽が決まる
(たとえば、地球Aの海にH2Oがなくて代わりにXYZがあるとしたら、地球Aでの発話は偽になる)
⇒
もし意味が真理条件を確定するのだとすれば、
自然種に関する表現(水、金、空気など)を含む陳述の意味は、
単に主体の限定的に規定可能な状態に言及するだけでは十分に説明できない……☆に反して
二つの選択肢
(1)心理学的な内的要素(地球の話し手と双生地球の話し手に共通)と、
世界関与的な外的要因(仮定上、二つの地球を越えて不変ではない(H2OとXYZ))の両方によって内容が決まるとする、意味と信念に関する合成説
(2)そういったケース(地球と双生地球のケース)は
〈心的状態の純粋に内的でまったく心理学的な要素(☆のこと)〉という観念にさえも疑いを抱かせるものであると考えることもできるだろう
プティ と マクダウェル
「頭の中にあるものが、心の状態と因果関係を持っていることは疑いがない。
しかし、
〈頭の中〉にあるものが心の状態に対して構成的関係にあると考え必要があるのだろうか?」
筆者
:あらゆる内容が根本的に世界に関与している(選択肢(2))ということが判明したとしても、
そのこと自体は必ずしも〈認知科学は心の理解に深く(ことによると構成的にではないかもしれないが)関わる研究である〉という主張を覆すものではない
その主張に対する仮想反論と、それに対する再反論をHornsbyは行った。
仮想反論
:「「行動傾向(心性はこれに随伴して生じるとされる)が二者の間で異なるためには、
内的構成に違いがなければならない。」
という考えを保持すべきである」とするならば、
心的内容は限定的に規定されねばならない(自然種を指示しない)
(「「行動傾向(心性はこれに随伴して生じるとされる)が二者の間で異なるためには、
内的構成に違いがなければならない。」
という考えを保持すべきである」までが、プティとマグダウェルの、「頭の中にあるものが、心の状態と因果関係を持っていることは疑いがない」に対応する。)
仮想反論の詳細
:仮定①:
二人の動作主の心的状態は、彼らの行動傾向に何らかの違いがある場合にのみ異なる
(そこに赤いボールがある、と信じなければ、ボールを投げようとは思わない)
仮定②:
行動が異なる(すなわち、行動が異なる)ためには、内的な物理的状態に何らかの違いかなければならない
結論:それゆえ、心的状態に対応する内的な物理的状態に何らかの違いがなければ、心的状態が異なるということはありえない
「(民間心理学的な心的状態を帰属させることは、限定的内容のみに関わることであるという)結論は、深刻な疑義にさらされることになる。
限定的内容といっても、それを妥当な概念として了解できるかは明らかではない」
なぜなら、
「民間心理学的な内容を(物理的状態に?)帰属させることは、身体的な動きを規定するような頭の状態についての独我論的な研究から引き出すことができるような切り口とは
まったく違った切り口で現実を切り取ることであるように思われる。
その具体的理由として、
ボールをひろうことは、「そこにボールがあると私は知っている」という心的状態と関連するが、そのときの細かな指の動きはそのような心的状態と関連するものではない。
5
筆者
:広域的内容を伴うによ伴わないにせよ、
頭の中で起こっていることに関することに関する科学的カテゴリーや分類に
きちんと還元されるなどということは
とてもあり得ないように思われる。
・民間心理学は、科学的心理学と同じゲームを行ってはいないかもしれない
→
世界を記述しない信念であり、なおかつ
ある人が同じ考えを抱いているといえるような別のケースに投影可能な述語が(科学的記述の上には)存在しないことも可能
6
民間心理学の道具立て(信念と欲求という概念によって、命題的態度を帰属せさるという道具立て)を用いて、心的状態を二者が互いに帰属させあうという日常の慣習(傍点)の目的は?
:
他人の頭の内的状態を追跡しようと試みることによって、
その人の身体の動きを予測し説明するための手段
民間心理学の主要な目的
:
世界の中で活動している仲間たちの行動を、(傍点開始)我々が(傍点終わり)理解できるようにすること
(予測したい対象であり主体である)われわれの仲間たちの四つの特徴
①世界に対する感受性、すなわち感覚や生得的な原書的概念の道具立てをわれわれと共有している
②世界をわれわれと共有している
③彼らは我々自身のもっとも根本的な関心と必要の大部分を共有している
④彼らの思考の有用性は、
(我々自身の思考と同様に、)
彼らが世界の実際の有様をたどっていることと関わっており、
彼らの思考作用が、世界の実際の有様に十分適応していると我々が(進化論的な理由から)考えるような目的と関わっている
この特徴があるので、
「~したい」という欲求さえ同じであれば、
・民間心理学は、脳の状態の違い(that かなり目の粗い、行動上の違いとしては現れてこないような)に対しては、敏感に対応しないように設計されている
・民間心理学は、個人の間の差異を覆い隠し、
さらには種の間の差異さえも覆い隠してしまう(長所であっても短所ではない)
7
筆者の見解
:私の見解では、われわれが信念を帰属させるのは、
行動の全体に一種の解釈の網をかぶせることによってである。
……関連する行動を可能にするものとしての、
根底にある物理的あるいは計算論的な構造がどのようなものであれ、
そうした構造における自然な区分に、網の結び目(すなわち信念と、欲求の特定の帰属)が
対応している必要はない。
――
ということは、Davidson(全体論者)に対するFordorの批判は、筆者の意見にも当てはまるのではないか?
<Fordor>
意識の全体論というのは、
「命題的態度の同一性――特に志向的内容――が、その認知的連関の全体によって決定される」
という考え方。
これに、Fordorは懐疑的。
(命題pの認知的連関というのは、主体がpの意味論的評価、すなわちその真偽の決定に関係するすべての命題のこと)
われわれは、信念や志向的状態を共有している。が、そのとき、すべての命題(認知的連関)を共有しているとは思えない。
信念は、その内容をそれぞれ別に持つ。
:信念がその状態を獲得するのは、脳の状態が逐一、世界と因果関係を結ぶことによってである。
「ある生物が『牛』という概念を持とうと持つまいと、その生物は『馬』という概念を持ちうる」
</Fordor>
筆者
:Fordorの間違い
全体論は、もしそうであれば、人間の心の理解が芋蔓式に進んでくれるのにという、いわば願望。
Fordorが軽蔑したものの通りに進んでくれるかは別問題。
Fordor:バラバラになったブロックを一つの全体に組み合わせるやり方が、全員同じになるはずがない。
筆者:一つのブロックの組み合わせ全体を理解するために、各人が別々のやり方でバラバラにしている
全体論という言葉の使い方が違うから、Fordorの批判は筆者には当てはまらない(という、批判をかわすための節)
7
一章3節での、チャーチランドによる民間心理学批判に、今では応答できる。
(3)に対して、
民間心理学の関心事は、他の主体の顕著の行動パターンだけを可能な限り効率的に分離することである。神経科学とつながることを目的とはしていない
(1)に対して、
民間心理学の道具としての適用範囲は、仲間。狂人の理解は、そもそも目標としていない
(2)に対して、
なので、その中核部分が時間的および地理的な次元を越えて相対的に恒常的であり続けてきたことは驚くべきことではない。
整理。
民間心理学には、きちんとした定義がある。
これまで「民間心理学」として使われてきた言葉の、新たな用語法:「素朴心理学」、「メンタリズム的な理解」
8
因果関係と、構成的関係の区別
構成的関係
:
研究の主題と何らかの形で密接に結びついているということ
因果的に関係
:
因果的に関係している様々な要素は、それほど密接に思考と結びついているわけではないので、
それらの要素を差し引いてもそれによって思考という観念そのものが存続しえなくなる
ということはない。
(チェス盤がなくなっても、チェスの続きは打てる。石を駒に見立てたり、口頭で)
9
・消去主義的唯物論:民間心理学が、心に関する科学に対して歪んだ影響を及ぼすのではないか。民間人は自分自身の心を知らないと、消去主義的唯物論は思っている
↑
(構成的関係)
↓
心
科学と心とを結びつける構成的関係。その得難さが二つのスタンスの対立を生んでいる。が、どちらの立場も同じく、認知という地形に同じ隆起とくぼみを見ている。
では、構成的関係とは何か。
構成的関係←→因果関係
構成的関係:研究の主題(この場合は心)と、何らかの形で概念上密接に結びついていること
因果的関係:因果的に関係している様々な要素は、それほど密接に思考と結びついているわけではないので、それらの要素を差し引いても、それによって思考という観念そのものが存続しえなくなるというひとはない
(駒はなくてもチェスは打てる)
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当面派遣社員として働いていずれやりたいことを見つけて正社員に戻るつもりだという。
多くの場合は数年単位で勤続できるというけど、規定上はこのぐらいの短期間の単位での所属になる。
手取り額は多くなるというが保険とか手当てとかの条件は多分正社員のときと比較すれば格段に落ちるだろう。
徐々に連絡が来ても応答しないようにしてセックス誘われても何やかんや理由をつけて断っているが、いまだに気づいていない。
頼む・・気づいてくれ。
でもそんなことを言ったら金に意地汚い女と思われるのでいえない。
僕はニートで、ニートというのはとてつもなく暇で人恋しいので、1日10時間くらいネットを見ていました。
2chのお気に入りスレに入り浸り、くだらないレス付けた後に更新ボタンを連打して、
それでも返事が無いようならば、はてブの人気エントリーを上から順に見て、なんとなく為になった気分になったら、
2chまとめサイトで人気のスレッドを軽く見て、時間が経ったらお気に入りスレッドを再度巡回してくだらないレスをつけ、
寝る前に「ああ、また虚無的な一日を過ごしてしまった……死にたい……」と思う日々が続いていました。
神様はなかなか助けてくれないし、このままではいけない、もっと為になる事を何かしなくては……
と思ってはみるものの、気がつけばネットサーフィンをしている……。
そんな僕ですが、ついにネットと上手に付き合う方法を発見したので、その手順を紹介します。
1.FireFox以外のブラウザをアンインストールしましょう。2chブラウザもアンインストールします。
2chはアドオンのchaikaとか使って見るようにしてください。お願いします。
僕は友達がいないのであまりやっていませんが、twitterとかを頻繁に見ている人は、twitterクライアントもアンインストールしましょう。
webでも見れるし、多分すてきなアドオンもあると思うのでそれで見ましょう。
IEは簡単にアンインストールできないっぽいので、ショートカットを根こそぎ消してみましょう。
2.FireFoxのアドオン、LeechBlockをインストールします。
制限時間を越えると、ネットが見れなくなるという恐ろしいアドオンです。
僕はめんどくさいので制限時間が過ぎると全サイトが見れない設定にしましたが、
設定画面は英語なのでちんぷんかんぷんですが、ググったらすぐに日本語の解説が見つかります。
これが最大のポイントで、僕は2時間ごとに15分見ていいという設定にしました。
24時間ごとに60分という設定も試しましたが、長いスパンで設定するのは中毒者にとってあまり良くないようです。
きっと一気に60分ネットを見たら、すぐにLeechBlockをアンインストールして、引き続きネットの海に浸り続けてしまうでしょう。
ネットに入り浸る時は大概、見たい記事を見た後に、ズルズルとショーモナイ情報を見続けるものだと相場が決まっています。
で、これをやると、15分という時間が勿体なくて、見たい情報を見た後にFireFoxをすぐ閉じるようになります。なるはずです。
ブラウザの右下に残り時間が表示されるので、ネット閲覧に時間制限というゲーム性が加わって、なんとなくスリリングな気分が味わえます。
そして、もし仮に15分経ってしまったとしても、2時間後にはまた見れるのです!
1日ネットが見れないとなると、それはもう途方もない長さに感じられて、
とても我慢できそうになくたって、1時間45分ならなんとかなるでしょう! なりますよね!
というわけで、もうやった事あるかもしれませんが、
ハックル手法はそこらへんの雑魚ついったらーにはできないことをしている。
それは「それなりに知れた人が炎上させる」ということ。ブラよろ作者や東浩紀、ひろゆきもこれに類しているといってよい。
この手の人が下手糞になると勝間和代みたいなやり方になる。
orangestarのような釣りと知ってのマジレス例はこういう顔が知れてるからこその芸当。
その雑魚ついったらーの得意とすることは知名度が低いことを利点とした短期的爆釣。
何度も炎上させると「またこいつか」となるが、そいつの場合は当たりのスパンが良い感じにハマっている。はてなーとの相性はバッチリなのだろう。
比較生産費説は自由貿易を通して富が増加する=豊かになることを説明した理論です。
ここでまず踏まえておかなければならないのは豊かになるとは誰が、何に対してかということです。物財の市場における総供給量が増え、需要者、つまり消費者が豊かになるということです。
ここのところでの異論はあまりありません。説が唱えられてから既に200年の「実験」の蓄積があるのですから、上記の点については事実として扱ってよいでしょう。
比較生産費説が最近、ホットトピックになっているのは、TTPの問題があるからですが、アメリカでもTTP反対論は根強くあるようです。
抗議に参加した人々はTTP協定が仕事と環境に与える潜在的な影響に対して注意喚起したかったと言っています。
「私たちは雇用を求めるためにここにいます」とロレーヌ・アシュビー(66)(シカゴの南東側からの引退した公務労働者)は答えています。
「小さなビジネスを行って、本当の雇用を作り出す人々がここにとどまることが難しくなってきているのです。TTPは雇用を作り出す人々を後ろからナイフで刺すようなものです」
「あまりにも多くの過去の貿易協定は普通の人々を犠牲にし、ウォールストリートと大企業の役立ちました」と彼は言いました。
「私たちは、この地域から海外へ送られた何十万もの高給与の仕事を見ました。また、私たちが必要とするものは、シカゴで、および世界中で労働者の生活水準を実際に改善する貿易協定です」
日本のTTP反対派の人たちもこの言い分には深くうなずくでしょう。日本でもアメリカでも互いを敵視しながら同じような言い分を言い合っているわけです。
こうした言い分に対し、経済学の人たち、というよりもサミュエルソンっぽい新古典派総合っぽい人たちが、誤謬だ誤謬だもっと勉強しろよって膝寄せて鼻を突きつけているわけです。もっとも、その人たちも完全に歯切れがいいわけではなくて、「それは別の話」とか「一時的な痛み」とか、言及している「部分」もあるわけです。
それが果たして別の話なのか、一時的な話なのかというのが、本当は問われるべき問題であろうと思います。
80年代のレガノミックスは、一般に言われているのとは違って、大規模な財政支出と減税による「需要刺激による」景気刺激策でした。レーガンは言っていることはともかくやっていることは無茶苦茶ケインジアンでした。アメリカはそれ以後、蕩尽的消費社会に突入してゆくわけですが、基本的に好景気=インフレです。しかし実際にはインフレ率はそうでもなかった。需要の増大を上回る供給がもたらされたからです。つまり輸入拡大です。この構造はレーガン政権以後、現在まで基本的には続くのですが、では、81年から比較して、「一般アメリカ市民の所得」は増えたのかどうかという話です。全消費者の消費可能量が増えたかどうかという話ではないですよ。リカードさんのおっしゃるとおり、全消費者の消費可能量は増えた、つまり市場は豊かになったに決まっています。しかしそれが、「一般アメリカ人の所得」の増大につながったかどうかという話です。
レーガンから現在までの話ですからね、すでに30年間の記録があるわけです。
決して「一時的な話」ではありません。
結果は言うまでもありませんね。「パパはなんでも知っている」の頃は、パパがフルタイムで働けば子供を大学に行かせられました。今では、ママも働いて、それどころかダブルワーキングをしても、かつかつの生活をしている人が大半になっています。そういう人たちに向かって、理論は正しい、おまえたちが間違っていると言っているのがサミュエルソンのシッポの人たちであるわけです。
比較生産費説の理論的完璧さにもかかわらず、どうしてこのような現象が生じてしまうのでしょうか。
答えは簡単で、産業ごとの特性が異なるからです。比較生産費説は産業ごとの特性をならして、「単位」扱いするところから始まります。産業ごとの特性の問題には最初から対処しきれないというか、扱っている領域そのものが違うのです。
例えばA国とB国がそれぞれ半導体とカカオ豆に特化したとしましょうか。しかしこの両商品はそもそも需要量が違います。必要度合いも違います。産業をスタートさせる難しさの度合いも違います。他産業を発展させ、雇用を創出する能力も違います。もっと言えば収益性も違うわけです。
不安定、低収益、低需要、低波及力の産業に特化した国、つまりモノカルチャーの国が国際経済の荒波にゆられて「豊かになる」どころの話ではなかった原因の根本はここにあります。
労働集約的-資本集約的、高収益-低収益で相に分ければ4つの相が分かれることになります。
「国民の雇用を確保し、そこそこ安定的な経済環境を構築する」のを目的にした場合、もっとも効果的なのが労働集約的-高収益の産業です。ありていにいえば製造業、第二次産業です。
国民経済にとってはコアとなるこの産業が奪われたからこそ、「全体としては経済成長をしながら、格差の増大をもたらし、一般国民の貧窮化を招いた」のがアメリカの姿であるわけです。
これに対して次のように説明するサミュエルソンのシッポがいます。
「給与の高い仕事に転職するということは、比較優位の産業に労働力が移転しているということである。比較生産費説は労働者の経済行動の中にあらかじめビルトインされている」
だから、雇用の喪失は起きない、起きたとしても一時的な調整期間中ものだ、というわけですね。
あなた、30年間を調整機関と呼ぶ神経って、なんていったらいいんでしょうね。
東大に行っているあなた、卒業したらゴールドマンサックスに入りたいなんて思ってるでしょ。給料いいですもんね。給料がいいってのは、生産性が高いということです。もうひとつ、労働需要に対して供給が追いついていないということです。あなたと同じレベルの人を400万円で雇用できるならそうしますよ、ロックフェラーでも。そうしないのは、需要に対して供給が追いついていないからです。
農民が工場労働者になり、事務員になり、というところまではまあそこそこアメリカの労働者でも対応できたかもしれません。もちろんその過程でも脱落していった人はたくさんいるわけですが。
比較生産費説が言っているのはこういうことです。製造業が新興国に特化しても、先進国はさらに生産性が高い産業・職に移動してゆけばよい。みんながジョブスになれば1000万のアップルが誕生して、たくさんのiPhone を手にできるよ!ということです。
それが100年、200年のスパンならばあるいはそういうことも可能かもしれません。しかし現代においては変化はあまりにも急激でありすぎます。
TTPを巡る議論で私が非常に気にかかるのは、TTP賛成派があまりにも気軽に「経済学」を看板にしたがるところです。そしてそれは、「おまえは経済学を知らない」と相手を貶めるために用いられているように見えます。現実の事象について具体的な論拠を求められれば、「経済学は深淵でおまえには分からない」とばかりに現実の問題には何も答えないまま、モデルの話でけむにまきます。
経済学はそういうものではありません。少なくとも、そういうものだけが経済学ではありません。ガルブレイスが生きていたら、なんというでしょうか。
そうした言論的脅しに屈せずに、みなさんは分からないものは分からないと言ってください。納得できないものは納得できないと言ってください。説明できないのは説明できない人の責任であってあなたが頭が悪いからではありません。
自分(男)の仕事や人生について考えるとき、よぼよぼで使えない爺になってからも食っていけるかいつも不安だ。
そのプレッシャーはなかなか重い。
何十年も仕事をすることは不可避なのだから、仕事選びは慎重になる。
しかも家庭を持ったら家族を食わせなきゃならない。だから不安だ。
その点女性は良いよなと思うことがある。
30歳からそこらで結婚しとけば、ひとまず仕事がイヤになっても旦那という受け皿があるから辞められる。
実際に辞められるかはともかくとして、そういう希望があるんだから気が楽で羨ましいと思う。
仕事を探すときも、何十年というスパンじゃなくて、数年先のことを考えて探してもそんなにリスクはないだろう。
子供ができて育ったらまた仕事でも探そうかな、なんて思えること自体が羨ましい。
人生の中に結婚と出産というクッションがあるっていうのが良い。
労働やイノベーションといったエネルギーが常に投入され続ける「経済」という分野においては、エントロピーのような閉鎖系での熱平衡状態を考える必要は無い。
経済成長の原動力は「未来を担保とした借金」に支えられている、というのは正しいが、それが意味するのは「未来永劫、経済成長可能である」ということ。
時間そのものが担保なのでネズミ講のような限界はない。ただし「未来の生産」で返しきれないほどの借金をする(というか出来てしまうほど貸し手が楽観的になってる)
状態になると、これはバブル。ただ、そのバブルは一時的な状況で、比較的短期間に調整されるので「永続的な経済成長」の阻害要因ではない。
従ってドルの基軸通貨としての信用が崩れなければ、アメリカがdebt ceilingを永遠に上げることさえも可能。信用創造のバランスが取れている限りループは永遠。
では、本当に「永遠の経済成長」が可能かというと、狭義のマクロ経済学の外に「永遠の経済成長」の阻害要因があって、実際には「永遠の経済成長」は実現困難。
阻害要因の典型は土地、天然資源、といったもの。すなわち時間が経過しても増えない、有限かつ代替不可能な生産手段が「永遠の経済成長」の制約条件になる。
宇宙進出とか、核融合とか大幅なイノベーションがあればこれらの制約条件が働かない可能性も無いわけではないが、今世紀中くらいのスパンで新たな「成長の限界」が
ではなぜ「新幹線は安全です」「鉄道は安全です」「飛行機は安全です」は社会的に許容されているのでしょうか?なぜ「原発は安全です」だけが許されないのでしょうか?それは差別というものではありませんか?
君は思考が極端だね。まず、「差別」という言葉の使い方が極端すぎるよ(今は没交渉になってしまった「活動家」の先輩の言葉遣いを思い出す)。思いつきで書くが、例えば、俺が個人のブログか何かで「鳩山邦夫前首相」なんて書いてしまってもたいした問題にはならないが(せいぜい取り消し線をつけて修正する程度でよいだろう)、新聞社が記事でそれをやったら大問題だ。そういうふうに、おのずから物事の重みが違う場合に扱いを変えることは「差別」ではない。
そう、飛行機などが安全でないことと、原発が安全でないことは重みが違うんだ。(「重み」という言葉遣いがおかしいかもしれないが……「重大性」かな。この暑苦しい夜に、重苦しすぎるが。)
飛行機は墜落すれば乗っている全員が一気に死んでしまう。それはそれ単独で、非常に重大なことだ。御巣鷹山のような事故は二度と起こしてほしくない。しかし、飛行機の墜落は結果が誰にでも予測できる。それに、飛行機は墜落しても、その後何十年というスパンでその土地を居住不能にしたりしない。
何より、飛行機や鉄道は、事故ったら隠すことはできない。(北朝鮮のような独裁国家ではどうかわからんが。)第一、人々は航空会社が「飛行機は安全です」と主張しているから、飛行機を選んで利用しているわけではない。
原発は、それを建設する計画の時点から、「安全」を強調して地元を説得した。地域の住民はそれが一番気になるからだ。これと比べることができるのは、「飛行機などの安全」ではなく、……そうだな、「金融商品の元本割れのリスクの説明」ではないか?
少なくとも3.11までの日本の原発は所外にリスクを伴う放射能漏れ事故を一度も起こしていなかったわけで(念のため、JCOは「原発」ではありません)「安全」と宣伝する資格はあったと思います。
いや、彼ら「原子力村」に「安全」と宣伝する資格はありはしないよ。事故隠し・データ改ざんをしておいて、「安全だ」も糞もないだろう。それにJCOが「原発でないこと」など、一般人には正直、どうでもいい瑣末なことなんだ。同じ「核(エネルギーの平和利用の)施設」で、何かあったら原発でもJCOでも周辺には同じ結果をもたらすものなのだから。
ちなみに国内最大の原発事故は福島だと私は思っていません。あれは「国内最大の放射能事故」ではあるにしても(広島・長崎は別格)、みんななぜこの事故のことを忘れているのか私は不思議でなりません。こういうことが、反原発派が「命が一番大切」とかいっても信用できない一因です。
http://www.jaea.go.jp/04/turuga/jturuga/mj_anzeniinkai/2/siryou_2-3.pdf
「国内最大の原発事故」について君がどう思っているかは問題ではない。人々が福島第一を「最大」と扱っている前提、基準はIAEAが使っている国際原子力事象評価尺度だ。福島第一とチェルノブイリは最も深刻な「レベル7」とされた(それに異議があるかもしれないが、それは別の話。そう評価されたということは議論の前提で変更できない)。美浜は何度も"事故"が発生しているが、「国際評価尺度」で「事故」扱いされる「レベル4」以上になったことはない。2004年ではなく、1991年の蒸気発生器伝熱管損傷が「レベル2」だ。
それから、美浜三号機の事故を、「みんな」は本当に「忘れて」いるのか?(現在進行形の「チェルノブイリと同じレベル7の福島第一原発の事故」のことに関心が集まっているのだから、今、美浜が無視されているかのように見えても、それはそれで道理ではないか?)
君の言い分には証拠が示されていないが、逆の証拠なら検索すれば見つかる。君が嫌っているであろう人たちも含め(俺もこの中の一部は嫌いだ)、多くの人たちがそれについて書いていることが確認できる。
http://www.ihope.jp/no_nukes/mihama.html =これは3月11日の震災の後に書かれている。
http://cnic.jp/modules/news/article.php?storyid=33
http://www.mdsweb.jp/doc/853/0853_03x.html
http://www.fukuishimbun.co.jp/jp/mihamaziko/kiji2.htm
http://www.jca.apc.org/mihama/News/news78/news78shishin.htm
※本当は2004年に書かれたこれらの記事が、2011年の3月11日以降、どのようにリンクされているかを調べて検討できるとよいのだが、そこまではできない。すまんが。
最後に、言葉のあやだろうけれども、広島・長崎について「放射能事故」であると君が認識していると思われかねないような書き方はしないよう、気をつけたほうがいい。(俺は元増田がそう認識しているなどとは思っていないが、誰がどう上げ足を取ろうとするか、わからないから。)
じゃ、お互い、少し寝よう。今日は月曜からの出張の準備をしなければならないので、次のレスはできないかもしれない。前もって謝っておくよ。