はてなキーワード: 悟りとは
ただ「お父さんからまんこを触られた経験が無い人たち」は思ったかもしれない
どうしてまた男性を愛することができるの?と
私はお父さんから色々されたことがあるが、今彼氏と付き合っているので、増田の匿名性を利用して惚気つつ自分語りさせていただこう 若々しい惚気はみんな好きだからな
でも結婚したくない 性的なことも全くしたくない キスはするけれど、それ以上のことをしたくない 自分が女であることを意識したくないし、彼との関係でお父さんのことを思い出したくない
お父さんに1時間くらい怒鳴られた後に彼と話したくなる自分も嫌だ 「お父さんで埋められない心の穴を彼で満たそうとしている自分」を自覚し、自分のことが嫌になり、文字を途中まで打ち込んでLINEをするのを辞める
私は私が自立していて個として確立した状態で彼と対峙していたい
でも同時に、自分は家庭が荒れていない時は彼のことが大して好きじゃない 好きだけれど、人間として好ましいとか、非常に信頼している、といった感じで、やはりエッチはしたくないし好き好き大好きという感じでは無い
だから自分の中で彼を「理解のある彼くん」にしてしまっているんだろうな、と思って、その辺りでいつも自己嫌悪をする
時々自分が本当に彼が好きなのか不安になって寝ている彼にキスをしてみるんだけれど、やっぱり好きかどうかよくわからない 彼と性的な接触をしたいとは思えないから
でも、彼は私が何回もキスしたせいで目が覚めてしまっても私の頭を撫でるだけで、絶対にこちらに危害を加えようとしない
だから、私は彼を理解ある彼くん、そしてお父さんの代わりにしてしまっているんだと思う
映画では、お父さんがいないミミちゃんの家に、ある日モフモフで優しくてお仕事をしていてパイプをくわえ笹を食べる、パンダのパパがやってくる
パチンコに負けてイライラして理由をつけて殴ってきたり、嫌なことや変なことを言ったりしたりしてこない、優しいもふもふのパンダのパパがいるミミちゃんが、とても羨ましかった
お父さんに殴られた感覚や、お父さんが殴る時にいつもする“人を殴る時特有のキマっている目”や、お父さんに「お前なんて生まれてこなければよかった」と言われたことは、今でも思い出し苦しくなる日がある
「ちっぱい」とか「お前女になったな」と言われた時の気持ち悪さや、お父さんに「きちんと洗えていないから」と尻を出させられたり、Y字バランスをさせられたりして股間を風呂で洗われたことを、忘れることはまだ難しい
私はずっと、本当のお父さんが欲しかった 私を殴らないで、性的なことをしてこないで愛情を注いでくれるそういう人にお父さんになって欲しかった
お父さんも優しかった時期はあった 小2で児相に電話をかけたから、少なくとも小学校入学前のお父さんは優しかった
私が幼い頃の父、まだコンタクトをする前の父は私を殴ったり、嫌なことをしてこなかったから、恋愛においてはいつもメガネの人を好きになる
「メガネの人だったら優しい頃のお父さんだから、大丈夫だろう」と本能で認識しているので、私はメガネをした男性でないと好きにならない
単に癖もあるとは思うけれど、私のメガネフェチはだいぶ歪んでいる
こういうことはお父さんと離れて10年くらいすれば、治療をしていけば忘れられるものなんだろうか?自分はまだ若いので、あまりわからない
今はこういうのを日常生活において出さないようにして、平気なフリをしているだけだ
でも、父から同じ家にいるのに電話がかかってきたり、1時間くらい理由なく怒鳴られ続ける日は今も日常的にあって、そういう日は頭が殴られる感覚がフラッシュバックする ガンガン頭が殴られてキツい言葉を言われた時の感覚が20、30分続くのを布団でじっと耐える 彼氏にLINEをするかどうか悩んで、しないように頑張る キツい時は「なでなでして」というような気色悪いメッセージを送る
そういう日がある
彼はそういうのをわかっている
私がお父さんと色々あったことも彼は分かった上で「君にそういうことは求めていないから」と言ってくれる
でも、「ぬいペニ」という言葉の逆で、私は彼をぬいぐるみにしてしまっているのかもしれない
彼には普通の健全な性欲があるのに、彼をぬいぐるみのような性欲が無い柔らかい存在にしてしまっているかもしれない それがとても申し訳ない
20ちょいで結婚や子どもについて考えるのは気が早いし、別に彼以外に男でも女でもいくらでも相手はいるんだから他を探せばいい
というか、私が相手を探すというよりは「私」がどう考えても地雷女すぎる
エッチはお父さんを思い出してできません、子どもを作るのに苦労する体です、結婚も厳しいです、キスはできます、お父さんに性的なイタズラを何回もされたことがあります、家庭に強烈なトラウマがいくつかあります、でもあなたのことは好きです
誰がこんなのを受け入れるっていうの?と、冷静になるといつも思う
だから、彼のことが結構好きなのも、私に合わせて付き合わせているのも、いつも申し訳ない
そもそも、私は彼のことは今まで付き合ってきた人の中では一番好きっていうだけで、不満はいっぱいある 服クソダサいし、軍歌しか聞かないクソミリオタだし、私たちの会話の内容は政治か宗教か歴史かでロマンチックのかけらもない
彼の家も彼の家で色々あるので、彼の母親は彼の一人暮らしの家に突然訪問して手洗い場の下の収納から私のシャンプーを見つけて発狂し、彼の生活費の仕送りを止めた
ヒスな感じの教育ママでちょうどうちの対極に位置していらっしゃる 彼はそれなのにお母様の老後は三世帯をご所望である めっちゃ嫌だ
そもそも彼と私は中高大が全部一緒だ 私の持つ卒アルのほとんどに彼がいるし、彼が中学の修学旅行で先生に怒られたストレスでお腹を痛めて救急車で搬送されたのも知っている
同棲までしてたのに、付き合ってることに違和感がまだありまくる
だから、一昨日、私を御社の面接官、彼を学生に見立てて、2人で面接ごっこをした。
私「弊社に入ろうとした動機は?」
彼「えー...」
私「あぁ、弊社に入る、ではなくいれる、の方が適切だね」
私「それで君は、弊社でどんな活躍ができるんだい?」
彼「はぁ...」
私「弊社のどんなことを知っていてどこに魅力を感じているの?」
彼「えー...甘いものは好きでしょ、あと、Vtuberも好きでしょ」
私「多少なりとも調べてきているようだね。実は私はジャニオタもしていてね」
彼「へー、それは知らなかった」
私「言ってないからね。他、私の何を知ってる?」
彼「いや、なにぶん初めての業界でして...」
私「じゃあ、ウチでの展望を聞こう。君は具体的にウチで何がしたい?」
彼「いやぁ...それが無いんですよね」
私「ハッ!これだから令和の若者は。主体性が無く流されおって。これが悟り世代か」
彼「はぁ...。すんません」
私「あのね、今の時代人手不足が深刻だから君みたいなパッとしない学生も雇うけれど、もっと優秀な学生が沢山集まってる年だったら君みたいな将来への具体的なプランが無い学生雇わないからね。弊社でやりたいことが無いということはつまり、転職をする可能性があるということだろ。ウチより待遇のいい会社があれば君はすぐ転職するんだろ」
この辺りでお互い爆笑した
私「これ圧迫面接酷すぎたね。ごめん」
彼「これより酷い面接今後受けること無いよ」
私「で、どうなの。君はウチに入社する気あるの?ウチでやりたいことがなくてもウチのどこかに魅力を感じたんじゃないの?」
彼「まあ、ツーと言えばカーと返ってくる。ツーと言ってツーと返す人もいるし、会話がそもそも成り立たん人もいる中でこれは稀有だから」
私「結局それかい!」
まあそんなこんなで、私は色々思いつつ、内々定を出してLINE電話を切ったのであった
自分はもっと強烈にツッコミを入れて欲しかったのだが彼はどうも私のボケに対してのリアクションがイマイチでヌボーっとしている 私と付き合ってて何もしたいことが無いのもちょっと許せない あんたが私と付き合ってから何かしたいって言ったのエッチと旅行くらいだったぞ
色々考えるところはあるし真剣な悩みもあるんだけれど、自分と彼はまぁまぁお似合いだと自分でも思う
一昨日の夕方の会話を今こうやって文字起こしできる時点で、彼のことをちょっと面白く思ってて興味があるということは明白だ 私が記憶力が人より良いかもしれないのもあるんだけれど
私は色んなことがあったけれど、別に私は実父から性加害を受けた女ではない それは物事の一面に過ぎないのだ
そういう私をわかった上で、どうやら彼は私のことを多少なりとも面白く思い、付き合いを続けたいらしい
今の時代転職が主流ですから、どうなるかわからないんですけど、保守的な彼は日本型雇用を好むようなので辞めるつもりはまだ無いそうだ
相対主義は「人それぞれが真理を持つ」という考えのこと。
プラグマティズムも、物事の実用的側面を見つければそれが真理であると言っており、実用的側面をどう見つけるかは人それぞれなので相対主義に属する。
一見すると聞こえはいいだろう。「人それぞれ」という言葉から多様性が存在すると一見思ってしまう。
ところが相対主義は実のところ「他者を理解する行為を放棄する」ことに等しい。
「他人は別なんだから、理解することはできない」といって、別の考えを持つ人を区別するようになる。
これは多様性の逆を行っている。
「絶対的な道徳はない」という人に「殺人が良いと言える道徳観が存在するか」と聞くとNOという。NOとはっきり言えるなら、絶対が存在するということだ。
「人それぞれで、絶対的な真理なんかないんだから、そんなもの目指さなくてもいい」となって、真理の追求を馬鹿げているとみなしてしまう。思考停止のことである。
政治でも経済でも道徳でも「正しさ」の追求を無視はできない。「国民が幸福であるためにこうすべき」「犯罪をこう定義すべき」等。
相対主義によって堕落してしまうと「絶対なんてないんだし、適当でいいんじゃなーい?」と無知を開陳し、考えることを放棄するのである。
民主主義では投票が重視されるわけだが、これが働くためには、事前に人それぞれの正しさをぶつけあって議論し尽くしている必要がある。
相対主義の形態の社会構築主義が蔓延すれば「説得力だけの扇動政治家」だけが支持される。
つまり相対主義や社会構築主義下での民主主義は、その場のノリで物事が決まる衆愚政治へと成り下がる。
そもそも、相対主義者は「人それぞれ」を絶対としているのである。「絶対なんてないと言っていて、相対主義を絶対と言うのはおかしい」と指摘されても、相対主義者は言い返せないだろう。
まず、AIイラストに関しての是非を云々する目的の話では無いことを明言しておく。
俺がAIイラスト生成に手を出してからそこそこ経つわけだが、別にそのイラストをどこかに投稿したりましてや金を稼いだりなんてことはまったくしていない。
シコるためである。
Pixivなどを漁っていて、好みのイラストを見つけて、満を持して挑んだとき。
言葉にできない微かな違和感のせいでどうしても発射に至らない。そんな経験が諸兄にもあると思う。
指定した通りの画像を出力してくれるAIイラストであれば、そのような問題は解決できる――わけではなかった。
逆だ。むしろ増える。増えるのだ。
やはり、人が手で描いたイラストと数十秒で出力されたAIイラストを、同列で見てはいないのだろうと思う。
なんか違うな、となったとき。じゃあ次のやつ出力するか、となってしまうのだ。
そうして少しずつ理想へと近づけていくうちに、本当に自分が求めていたものが見えてくる。
即ち、AIイラスト生成は修行なのだ。悟りへと向かう歩みなのだ。
最終的に出力されたものが、一番最初に望んだものとかけ離れていることなど日常茶飯事だ。
ああ、いま俺が求めていたものはこれだったのか。
24.3.18
体調の最悪期が続いていて、そうなると言葉も出てこなくなるので本当にどうにかしないといけないが、立ちあがろうとすると何かしら厄介事が降り注いできて、自分を甘やかしたくなってまた不健康にというループ。彼女とは「いいね」でなんとなく繋がっている感を味わっているが、俺が週末旅行していたことを知られていないように、俺のアップしたものは念入りに見られているわけでもなく、礼節の範囲内でのいいねであり、ただそれが単純に嬉しいという微笑ましさ、いや気持ち悪さか。自分が今あらゆるものに興味を持続させられないように、他者も俺に興味などないのだという当たり前の思考ができないバランスの悪さはおそらく生まれ付きで、唯我独尊を唱えながら弟子もいない悟りもしない釈迦。悟れないというのはつまり執着を捨てられていないということだが、問題は俺が何に執着しているか自分でわかっていないところで、叶えようも捨てようもない極度に抽象化した希望だけが耳元から首の後ろをフワフワと周回していて落ち着くことがない。それがなくなった時に訪れるのが自由か悟りか諦めか死なのか、希望を弄んできたようでいて弄ばれながら夜に沈んでいる
人間が脱出できない迷路を猫が脱出するという事例がある。この人間が個体としてアホすぎただけかもしれんが、猫がある程度賢いともいえる。
猫にクリアできるんだから、GPS機能が遺伝子レベルでついてる犬ならいわずもがなクリアできる個体が一定するいるだろう。
そこで思ったんだが、なんで犬は文明を持たなかったのか。人間並みの道具を作ってそれを行使して犬と人間が対等に種族間対立して戦争するみたいなことにはならなかったのか。
私は思う。犬はゴリラ程度と比べれば十分賢いが、その身体性ゆえに、賢さを十全に外的に表現することができなかったのではないかと。
犬や人間には物をつかんで器用に扱うのに十分な長さの指が犬にはない。
これだけでも、いくら犬ちゃんの頭のなかで、人間を征服する道具を作り出そうとしても、作れない。人間は「機械を作る機械」を作り、今度は機械にその作業を繰り返させるようことによって、その道具を精緻化させていったが、そういう機械ももっとも原始的な段階のものすら、あの体では作れそうにない。
また一匹すごく賢い犬がいても、その発想を共有する手段としての言語を持たないから、人間がするような大人数による巨大なプロジェクト=文明もできるわけがない。
言語を持たないのもまた脳自体に宿る知能の高低よりも、身体性の問題だ。
人間が持つような言語を構成するほど多様な発声が犬の声帯には無理だからということだと思う。
「モールス信号なら犬でもできそうじゃん」って思うだろうが、自然言語をすっとばしてモールス信号をいきなり発明してかつ「それをプロコトルとして他者と認識の共有を図る」つまり「それ以外の一切の言語を前提として持たずに、モールス信号でモールス信号を伝える」のは、人間の知能でも無理ではなかろうか。
そういうわけで、犬ちゃんはそこらの日本語の文章も読めずにクソリプするひとたちよりはよっぽど理知的なことを考えていて、人間を征服しようと夢想はしているが、この体ではそれができないことこともわかっていて、悟りの境地で人間に従うふりをしているだけなのかもしれません。
そもそも仏教は、生きることは、生老病死、即ち苦しみであると説いている。
これね、「生きていると、老いや病や死という苦しみがつきものですよね」ではないんですよ。
生も苦しみなのだ。生きてるだけで当然苦しい。苦しいのがデフォ。
そこは近代以前において説明不要なのよね。貧しいし、人権とか無いしさ。
なので仏教ってのは、苦しみしかない現世をいかに乗り切るか、という話をしている。
これは、いわゆる伝統宗教は、だいたい全部そうなのだ。キリスト教もイスラム教も、いまめちゃくちゃ苦しくても死後は天国に行くって話が基礎だし。
ところだが、俺ら実際、生きていて苦しいか?
ハッキリ言って、そうでもないんだよ。
何か我慢して苦しみをのりきったり、将来の天国に期待をかけたりする必要は、必ずしも無い。
だって今が苦しいとしても、それってのは、例えば金さえ手に入ったら解決してしまったりするんだ。悟りとかいらねぇし、悟りよりも積み立てNISAのほうがはるかに救済に近いのよ。
しかもだ、なんなら老・病・死さえも、適切なタイミングで来るなら、この現代において苦しみではない。解決策ですらある。性欲に悶々とするの面倒くさいからさっさと枯れたい人たちがいる。今の人生が苦しいから、安楽死を望む人たちがいる。なんつーか、生の苦しみの質が変わってるんだよね。人生が50年から100年になって、終わりは突然くるものではなく、いつかくるものになった。90近くなってボケてしまう予定が既に立っているならば、その前に死んだ方が楽という考え方が確かに芽生えている。
現世が苦しいですよね? 悟りを開けば苦しみが取り除かれますよ?
いや、別にそれほど苦しくはないな。っていうか苦しみが無いだけの人生を100歳までやるほうがかえって辛くない?
みたいな。
信者数が減って当然の状況ではあるんだよね。
だからもう従来の意味での宗教を信じる人は、世界からどんどん減っている。イスラムだけ名簿上は増えているが、それは発展途上国の人口増が効いているだけで、欧州に出てきたイスラムの子供とか、産油国の新世代とか、どんどん信仰をおざなりにしていってるから。
アラサーの増田だが、近ごろどうも感情が摩耗していると感じることが多々ある。それはYoutubeやAmazon Primeのような動画ストリーミングサービスを見ているとよく自覚することだが一喜一憂(画面内に向けて感情移入した結果だ)することが以前(記憶上一年)よりもめっきり減った。もし一喜一憂したければアルコールを摂取することで出来ていたが最近その効能も薄れてきた。だから初心に帰ろうとけいおん!!を見た。今までは最後の文化祭の後、五人が部室で足を放って語らい、あり得ない来年の勧誘ライブプランを補強し合うシーンに今まで幾度も泣かされてきた。が、どうにも泣けなかったばかりか真顔で見る始末。どうにもオカシイ。ならばとクラナドを見た。が、泣けない。ならばダリフラの最後の二話を見た。が、真顔のまま。他の泣いたことがあるアニメを漁っても変わらずだった。とここまでは単なるアニメから無意識のうちに足を洗ったのだと理解されるだろうがその範囲はアニメには留まらない。現実の職場でも同じだ。
前ならイラついていたに違いない後輩の不出来さや上司の理不尽さ、同僚のいい加減さに今ではなにも思うところがなくなった。その尻ぬぐいをする時でも、なんとも思えなくなってきた。あるのは自己保身だけで、だから自覚した自分の感覚としては反応しかない。後輩の不出来さで自分が足を引っ張られやしないか、上司の理不尽さをどう掻い潜るか、同僚のいい加減さの連帯責任をどう回避するか。その怯え、それだけだ。何も出世しようとかは考えていない。だから出世意欲に根差した反射ではないと自分では思っている。
前なら内心で気に入らなかった同僚が上司に呼び出されるのを見てザマァと思って愉快に浸っていたのもなくなったし、コンビニのレジ前で精算にまごつく老人(これは意外に若者でもそう)に内心苛立つこともなくなった。これはこれで一つの悟りとも言えるだろうが、自分では危機感がある。何も正直欲が消えたのが今だ。
恥ずかしい話になるが、結構な頻度(月二回)で本番ありの風俗で発散することも以前の趣味だったし、風俗のサイトでコンパニオンを見ながら想像たくましくするのも愉快だった。けれど今じゃ(ついさっきも見ていた)風俗のサイトを見ても、今まで楽しんできた分の経験があるからかなんなのか解らないが、仏塔が艶やかにそそり立つことがなくなった。じゃあEDなんじゃないかとも思うが、夢精は一昨日した。だからそうじゃないと思う。
母親から電話があった。電話越しにでも老いた母親の元気そうな声を聴くのは良いことだ。三年くらい前に夫を亡くして、離れてはいないが県を跨いだ土地で一人暮らす母は自分の身の上以上に一人息子のこの増田を心配してくれている。月一、二で送られてくる生活用品や食料が詰められた段ボールを開封していくと、大学入学を機に上京したあの頃を思い出して感慨に耽ること多事であったが、今では義務的な、送られてきたから開ける、そして電話でありがとう、と言うのが日常の一部に組み込まれたようで、まるで業務をこなすように、日常がそう言った物事に浸食されていく感覚がある。
職場では以前と変わらない振る舞いで、事務のおばさんとも世間話が出来るし、具体的な仕事内容は伏せるが業務連絡も漏れなくこなすし、ミスなく仕事をしている。職場では、特に不具合なく過ごせているのに、マンションに帰った途端にスイッチが切れたか入ったみたいに別人になるのを感じる。なんと言うか、スンとなる感覚。
たぶん人間らしさって言うのは、あえて他のものから区別するためにある言葉なんじゃないか。一二年前の自分は、仕事に追われているからとかじゃなくて純粋に人間らしさを失っているとは考えなかったからだ。考えてしまう今、前のように一喜一憂することもなくなった現状、人間性を失っているのだろうと思う。共感性もそうだし、関心も失っている。自閉的かと言われればそうではない。正直自分でもよく解らない存在になっているようにも感じる。まるで情報処理機関と化したような感覚さえ覚える。これって一体なんなのかしら
人間が出来ているからとか、悟りを開いてるからとかではなく、人とだいぶ価値観がズレてるのであんまムカつかない、
自分が一度怒ると無限に怒り続けていることに自覚があるので、怒り出しそうなことには近づかない、
なので滅多に怒らないのだが、怒っちゃうと異常に強く怒っているよね
ほんで今日、異常に強い怒りの根源が何かはっきりした。基本その場で即座にやり返すのにそのあともずっと怒っているのは、
相手のこと『破滅させてやろう』と思っているんだわ。なお比喩表現ではない模様
これはガチキチですわ。割と普段からふとした瞬間にワイってあたおかなのでは・・・?って思うが、これはガチ目に自分に引いた
ワイは本当にいろんなことに恵まれたね。犯罪者にならないでよかった
あとワイはクソ雑魚ナメクジのキモヲタなのに、噛みつきまくって、同じタイプの人(特に物理特化型)に攻撃されないようにしたいと思いました(戒め)
最近増田で流行っている "数" ですら、客観的に実在するかには結論がまだ出ていない
でもまぁ数が客観的に実在するかどうかは、数学を学んだり、計算したりするときにはあんま関係しない
数はどのレイヤー・スケールにおいても役に立つ道具であり、ほとんどの人にとってそれで十分しょ?
それと同じように、自我や自由意志が気のせいだと言われたところで、増田は自我があるフリをやめないでしょ?
それはどちらも世界を楽しむためにあった方が良い"道具"だからだ
なので、自我(道具)が消えるのが怖いと言うよりは、『楽しんでいる世界との繋がりが消えるのが怖い』が正確なんじゃないですかね?
(まだまだ世界🌍を楽しみ足りないよね。たぶん、幽霊になって今まで通り生活出来るなら、肉体的な消滅は殆どの人は厭わないはず)
ちなみに、死ぬのが怖い人ではなく、死ぬのが怖くない人は逆にどういう人だろうか?
洗脳された人、薬物や病によって高揚しすぎた人、激しい苦痛に苛まている人は、死が怖くない人に該当すると思う。でもこれらは正常な状態じゃないよね?
正常な状態で死ぬことが怖くない人は、『世界をまったく楽しんでいない、完全に絶望した人』か、『世界を楽しみきって、完全に満足した人』で、いわゆる悟りの境地の人だよね
しかし、現実的に考えて、ここまで到達できる人が、そうそういるわけがない。少なくとも歴史上で、悟りに達したとされる人は、ごく少数
すごい、悟り開いてる人だ
ガンダムSeedシリーズおそよ20年ぶりの新作となる劇場版SEED Freedomを鑑賞し、自分の中でガンダムSeedという作品を供養できたので記念に置いておこうと思う。
子供の頃からガンダムが好きだった自分はワクワクしながら開始を待っていたが、蓋を開けてみると酷い出来に落胆した。
設定やMS、一部キャラの溢れる魅力と、それでも補いきれない程酷いシナリオと世の中に対する解像度の低さが目立った。
1クール目は面白いが2クール目以降は見るのが辛かった。あの頃自分と共に視聴していた顔も知らない2ch実況スレのみんなにはこの場を借りてお礼を言いたい。彼らがいなければ完走は不可能だった。
しかし従来のガンダムとは異なる客層を呼び込むことに成功し、爆発的な人気となったが、その内容に伴い多くのファンとアンチを生み出した。当時のネットはまさに阿鼻叫喚の様相だった。
ガンダムSeed Destinyと出会った時、自分は大学生になっていた。
今度こそは失敗を取り返してくれるはずだ。ワクワクしながら開始を待っていたが、蓋を開けてみると輪をかけて酷い出来に大きく落胆した。
設定やMS、一部キャラの魅力と、それでも補いきれない程酷いシナリオと 世の中に対する解像度の低さ が目立った。 1クール目は面白いが2クール目以降は見るのが辛かった。あの頃自分と共に視聴していた顔も知らない2ch実況スレのみんなにはこの場を借りてお礼を言いたい。彼らがいなければ完走は不可能だった。
続編であるDestinyの酷さはここでは語り尽くすことはできない。大勢の方が語っているはずなので割愛するが、アニメ雑誌のインタビューで声優が出演作品をボロクソ言ったりしていたアニメはあまりないだろう。
ともかくこの魅力的な要素を持ちながらそれを活かしきれなかったSeedシリーズは、多くのファンに絶望や怒り、憎しみ、無念、悔恨などを与え、感情が渦巻き、ネット上でまともに語ることは不可能であった。
その後ゲームやコミカライズ、ノベライズなど様々な媒体で、救済が図られ、ファンは喜んだり記憶を呼び起こされて怒ったりしていた。
前作で生み出された多数のファンとアンチはDestinyという作品を消化することができず、行き場を失った悪霊となって20年感彷徨うことになった。
ところで私は幼少期に放送していた新世紀GPXサイバーフォーミュラというレースアニメが大好きだった。
近所のレンタルビデオ屋に通い詰め、続編のOVAも完走していた。このサイバーフォーミュラという作品とSeedには共通点がある。監督と脚本家が同じなのだ。
福田監督とその妻である両澤千晶である。(星山氏や電童については脱線するため割愛する)
極めて似通っていて欲しくない共通点もある。上手くいかないことを周囲に当たり散らしていた主人公が悟りを開き、良いものとして描かれていく。展開もどうにもスッキリしない。はっきり言ってしまえば失速していく。
これは両澤千晶が本格的に脚本に関わりだしてから起こっていると当時から感じていた。
今にして思えばそんな1人の介入で質が下がったのなら監督の責任なのだが当時はとにかく嫁が悪いのではと考えていた。
近年の監督のSNSでの振る舞いなどを見てやはりこいつのせいだったかと思い直したりしていた。
それから20年の間、親しい友人とSeedをネタにし続けることで楽しんでいた。いや、都度思い出してマジギレしていたかもしれない。その間映画の話も出たり消えたりしており自分の中では無かったことになっていた。
この20年の間に私生活は大きく変わっていた。就職し、転職し、家庭も持っていた。今さらそんなことを言われても困るぞ。
Seed関連での大きな変化といえば脚本家の両澤千晶が亡くなっていたことだった。私にとってアークエネミーだった人物が亡くなってしまったことに大きな喪失感を覚えた。
当時プライベートな場でとはいえ汚い言葉で罵倒し怒りをぶつけていた人間が亡くなってしまった事実に申し訳なさや後悔のような感情もあった。
どこ目線だと思われるだろうが、責任のようなものを感じていたかもしれない。
この間ガンダムシリーズは作り続けられており、全て視聴していた。
ユニコーンを楽しんだり00やAGEに怒ったりしていたが、Destinyのときほど熱くなることはなかった。何を見せられてもあらゆる意味であれほど酷い作品には出会えなかった。悪い意味で忘れられない作品になっていた。
そんな中両澤氏の訃報を聞き、Seedという作品が永遠に消化できないものとして残ってしまったという感覚、しこりのようなものがあった。
私は困惑し、20年来の怒りを思い出し、また困惑し、さらに困惑していた。
なぜ今?本当にやるのか?そんなことがありえるのか?どうして墓から掘り起こすのだ?えぇ……?
多分観ちゃうんだろうなという予感はありつつもとても向き合えないと感じていた。
Seedシリーズの主題歌を担当し、自身も声優として出演していたTMRevolutionの西川貴教氏は20年間劇場版を待っていることを公言し続けていた。
そんな西川ニキは劇場版発表後、自身のTwitterでこれは我々の「業」です。と発言していた。
自分も業と向き合うべきだ。そう考えた私は20年ぶりに無印からDestinyまでを通して100話見てみることにした。
やはりクソだった。20年ぶりに怒りが湧いてきた。巻き込んだ初見の家族もキレていた。
しかしリマスターは業が足りない。絵が綺麗になっているじゃないか。アスランはハゲてないしクルクル回りながらビームもあまり撃たない。ストフリが汚れているじゃないか。そんな歴史改変は許してはいけない。
それはさておき20年来の友人と自然な流れで観に行くことになったが、
20年間溜まり続けていたおこりのようなもの、あるいは悪霊、地縛霊のようなものが覆い被さっているような気分だった。
何を着ていけばいいのか?喪服なのか?タキシードなのか?私服でいいのか?ネクタイは何色?
斯くして、Freedomを鑑賞した私はすっかり浄化された。憑いていた悪霊も成仏し、20年熟成させたヴィンテージワインを開け、みんなと笑いあうことができた。面白かった。いや、楽しかった。みんなで見た走馬灯のような映画だった。
キラは人間に戻り、ラクスは人間になり、アスランはネタになり、ヒーローになった。
特にシン・アスカというキャラクターが躍動することで私は救われた気持ちになった。20年間の無念がようやく報われた、そんな気がしたのだ。
映画終盤、唐突にクロスアンジュが始まり、西川ニキのMeteorをバックにフリーダムが神になった瞬間、私はもうこれで良い、と強く思った。
Destiny終了後すぐにこれをやられていたらキレていたかもしれない。でもこれは20年という時間が与えてくれた最高の贈り物だった。
気づけば劇場で涙を流していた。
監督夫妻が生み出し、2人に壊されたと思っていたSeedという作品をファンに、俺たちに、みんなに返してくれた。
劇場を出るファンたちはみんな笑顔で楽しそうに映画を振り返っていた。いや、アスランの話をしていた。明日はシンの話をしているだろう。
みんなが笑ってSeedの話ができるまで20年も必要だったのだ。
今まではお前はSeedが好きなんだろうと言われたら即座に強く否定していた。でも今なら本当は好きだったのかもしれないと思えるようになった。
監督も気持ちの整理に時間が必要だったのかもしれない。この映画は監督から奥方への追悼であり、想いを綴った恋文だったのかもしれない。
いや、許さんが。
ガンダムSeedシリーズおそよ20年ぶりの新作となる劇場版SEED Freedomを鑑賞し、自分の中でガンダムSeedという作品を供養できたので記念に置いておこうと思う。
子供の頃からガンダムが好きだった自分はワクワクしながら開始を待っていたが、蓋を開けてみると酷い出来に落胆した。
設定やMS、一部キャラの溢れる魅力と、それでも補いきれない程酷いシナリオと世の中に対する解像度の低さが目立った。
1クール目は面白いが2クール目以降は見るのが辛かった。あの頃自分と共に視聴していた顔も知らない2ch実況スレのみんなにはこの場を借りてお礼を言いたい。彼らがいなければ完走は不可能だった。
しかし従来のガンダムとは異なる客層を呼び込むことに成功し、爆発的な人気となったが、その内容に伴い多くのファンとアンチを生み出した。当時のネットはまさに阿鼻叫喚の様相だった。
ガンダムSeed Destinyと出会った時、自分は大学生になっていた。
今度こそは失敗を取り返してくれるはずだ。ワクワクしながら開始を待っていたが、蓋を開けてみると輪をかけて酷い出来に大きく落胆した。
設定やMS、一部キャラの魅力と、それでも補いきれない程酷いシナリオと 世の中に対する解像度の低さ が目立った。 1クール目は面白いが2クール目以降は見るのが辛かった。あの頃自分と共に視聴していた顔も知らない2ch実況スレのみんなにはこの場を借りてお礼を言いたい。彼らがいなければ完走は不可能だった。
続編であるDestinyの酷さはここでは語り尽くすことはできない。大勢の方が語っているはずなので割愛するが、アニメ雑誌のインタビューで声優が出演作品をボロクソ言ったりしていたアニメはあまりないだろう。
ともかくこの魅力的な要素を持ちながらそれを活かしきれなかったSeedシリーズは、多くのファンに絶望や怒り、憎しみ、無念、悔恨などを与え、感情が渦巻き、ネット上でまともに語ることは不可能であった。
その後ゲームやコミカライズ、ノベライズなど様々な媒体で、救済が図られ、ファンは喜んだり記憶を呼び起こされて怒ったりしていた。
前作で生み出された多数のファンとアンチはDestinyという作品を消化することができず、行き場を失った悪霊となって20年感彷徨うことになった。
ところで私は幼少期に放送していた新世紀GPXサイバーフォーミュラというレースアニメが大好きだった。
近所のレンタルビデオ屋に通い詰め、続編のOVAも完走していた。このサイバーフォーミュラという作品とSeedには共通点がある。監督と脚本家が同じなのだ。
福田監督とその妻である両澤千晶である。(星山氏や電童については脱線するため割愛する)
極めて似通っていて欲しくない共通点もある。上手くいかないことを周囲に当たり散らしていた主人公が悟りを開き、良いものとして描かれていく。展開もどうにもスッキリしない。はっきり言ってしまえば失速していく。
これは両澤千晶が本格的に脚本に関わりだしてから起こっていると当時から感じていた。
今にして思えばそんな1人の介入で質が下がったのなら監督の責任なのだが当時はとにかく嫁が悪いのではと考えていた。
近年の監督のSNSでの振る舞いなどを見てやはりこいつのせいだったかと思い直したりしていた。
それから20年の間、親しい友人とSeedをネタにし続けることで楽しんでいた。いや、都度思い出してマジギレしていたかもしれない。その間映画の話も出たり消えたりしており自分の中では無かったことになっていた。
この20年の間に私生活は大きく変わっていた。就職し、転職し、家庭も持っていた。今さらそんなことを言われても困るぞ。
Seed関連での大きな変化といえば脚本家の両澤千晶が亡くなっていたことだった。私にとってアークエネミーだった人物が亡くなってしまったことに大きな喪失感を覚えた。
当時プライベートな場でとはいえ汚い言葉で罵倒し怒りをぶつけていた人間が亡くなってしまった事実に申し訳なさや後悔のような感情もあった。
どこ目線だと思われるだろうが、責任のようなものを感じていたかもしれない。
この間ガンダムシリーズは作り続けられており、全て視聴していた。
ユニコーンを楽しんだり00やAGEに怒ったりしていたが、Destinyのときほど熱くなることはなかった。何を見せられてもあらゆる意味であれほど酷い作品には出会えなかった。悪い意味で忘れられない作品になっていた。
そんな中両澤氏の訃報を聞き、Seedという作品が永遠に消化できないものとして残ってしまったという感覚、しこりのようなものがあった。
私は困惑し、20年来の怒りを思い出し、また困惑し、さらに困惑していた。
なぜ今?本当にやるのか?そんなことがありえるのか?どうして墓から掘り起こすのだ?えぇ……?
多分観ちゃうんだろうなという予感はありつつもとても向き合えないと感じていた。
Seedシリーズの主題歌を担当し、自身も声優として出演していたTMRevolutionの西川貴教氏は20年間劇場版を待っていることを公言し続けていた。
そんな西川ニキは劇場版発表後、自身のTwitterでこれは我々の「業」です。と発言していた。
自分も業と向き合うべきだ。そう考えた私は20年ぶりに無印からDestinyまでを通して100話見てみることにした。
やはりクソだった。20年ぶりに怒りが湧いてきた。巻き込んだ初見の家族もキレていた。
しかしリマスターは業が足りない。絵が綺麗になっているじゃないか。アスランはハゲてないしクルクル回りながらビームもあまり撃たない。ストフリが汚れているじゃないか。そんな歴史改変は許してはいけない。
それはさておき20年来の友人と自然な流れで観に行くことになったが、
20年間溜まり続けていたおこりのようなもの、あるいは悪霊、地縛霊のようなものが覆い被さっているような気分だった。
何を着ていけばいいのか?喪服なのか?タキシードなのか?私服でいいのか?ネクタイは何色?
斯くして、Freedomを鑑賞した私はすっかり浄化された。憑いていた悪霊も成仏し、20年熟成させたヴィンテージワインを開け、みんなと笑いあうことができた。面白かった。いや、楽しかった。みんなで見た走馬灯のような映画だった。
キラは人間に戻り、ラクスは人間になり、アスランはネタになり、ヒーローになった。
特にシン・アスカというキャラクターが躍動することで私は救われた気持ちになった。20年間の無念がようやく報われた、そんな気がしたのだ。
映画終盤、唐突にクロスアンジュが始まり、西川ニキのMeteorをバックにフリーダムが神になった瞬間、私はもうこれで良い、と強く思った。
Destiny終了後すぐにこれをやられていたらキレていたかもしれない。でもこれは20年という時間が与えてくれた最高の贈り物だった。
気づけば劇場で涙を流していた。
監督夫妻が生み出し、2人に壊されたと思っていたSeedという作品をファンに、俺たちに、みんなに返してくれた。
劇場を出るファンたちはみんな笑顔で楽しそうに映画を振り返っていた。いや、アスランの話をしていた。明日はシンの話をしているだろう。
みんなが笑ってSeedの話ができるまで20年も必要だったのだ。
今まではお前はSeedが好きなんだろうと言われたら即座に強く否定していた。でも今なら本当は好きだったのかもしれないと思えるようになった。
監督も気持ちの整理に時間が必要だったのかもしれない。この映画は監督から奥方への追悼であり、想いを綴った恋文だったのかもしれない。
いや、許さんが。
ガンダムSeedシリーズおそよ20年ぶりの新作となる劇場版SEED Freedomを鑑賞し、自分の中でガンダムSeedという作品を供養できたので記念に置いておこうと思う。
子供の頃からガンダムが好きだった自分はワクワクしながら開始を待っていたが、蓋を開けてみると酷い出来に落胆した。
設定やMS、一部キャラの溢れる魅力と、それでも補いきれない程酷いシナリオと世の中に対する解像度の低さが目立った。
1クール目は面白いが2クール目以降は見るのが辛かった。あの頃自分と共に視聴していた顔も知らない2ch実況スレのみんなにはこの場を借りてお礼を言いたい。彼らがいなければ完走は不可能だった。
しかし従来のガンダムとは異なる客層を呼び込むことに成功し、爆発的な人気となったが、その内容に伴い多くのファンとアンチを生み出した。当時のネットはまさに阿鼻叫喚の様相だった。
ガンダムSeed Destinyと出会った時、自分は大学生になっていた。
今度こそは失敗を取り返してくれるはずだ。ワクワクしながら開始を待っていたが、蓋を開けてみると輪をかけて酷い出来に大きく落胆した。
設定やMS、一部キャラの魅力と、それでも補いきれない程酷いシナリオと 世の中に対する解像度の低さ が目立った。 1クール目は面白いが2クール目以降は見るのが辛かった。あの頃自分と共に視聴していた顔も知らない2ch実況スレのみんなにはこの場を借りてお礼を言いたい。彼らがいなければ完走は不可能だった。
続編であるDestinyの酷さはここでは語り尽くすことはできない。大勢の方が語っているはずなので割愛するが、アニメ雑誌のインタビューで声優が出演作品をボロクソ言ったりしていたアニメはあまりないだろう。
ともかくこの魅力的な要素を持ちながらそれを活かしきれなかったSeedシリーズは、多くのファンに絶望や怒り、憎しみ、無念、悔恨などを与え、感情が渦巻き、ネット上でまともに語ることは不可能であった。
その後ゲームやコミカライズ、ノベライズなど様々な媒体で、救済が図られ、ファンは喜んだり記憶を呼び起こされて怒ったりしていた。
前作で生み出された多数のファンとアンチはDestinyという作品を消化することができず、行き場を失った悪霊となって20年感彷徨うことになった。
ところで私は幼少期に放送していた新世紀GPXサイバーフォーミュラというレースアニメが大好きだった。
近所のレンタルビデオ屋に通い詰め、続編のOVAも完走していた。このサイバーフォーミュラという作品とSeedには共通点がある。監督と脚本家が同じなのだ。
福田監督とその妻である両澤千晶である。(星山氏や電童については脱線するため割愛する)
極めて似通っていて欲しくない共通点もある。上手くいかないことを周囲に当たり散らしていた主人公が悟りを開き、良いものとして描かれていく。展開もどうにもスッキリしない。はっきり言ってしまえば失速していく。
これは両澤千晶が本格的に脚本に関わりだしてから起こっていると当時から感じていた。
今にして思えばそんな1人の介入で質が下がったのなら監督の責任なのだが当時はとにかく嫁が悪いのではと考えていた。
近年の監督のSNSでの振る舞いなどを見てやはりこいつのせいだったかと思い直したりしていた。
それから20年の間、親しい友人とSeedをネタにし続けることで楽しんでいた。いや、都度思い出してマジギレしていたかもしれない。その間映画の話も出たり消えたりしており自分の中では無かったことになっていた。
この20年の間に私生活は大きく変わっていた。就職し、転職し、家庭も持っていた。今さらそんなことを言われても困るぞ。
Seed関連での大きな変化といえば脚本家の両澤千晶が亡くなっていたことだった。私にとってアークエネミーだった人物が亡くなってしまったことに大きな喪失感を覚えた。
当時プライベートな場でとはいえ汚い言葉で罵倒し怒りをぶつけていた人間が亡くなってしまった事実に申し訳なさや後悔のような感情もあった。
どこ目線だと思われるだろうが、責任のようなものを感じていたかもしれない。
この間ガンダムシリーズは作り続けられており、全て視聴していた。
ユニコーンを楽しんだり00やAGEに怒ったりしていたが、Destinyのときほど熱くなることはなかった。何を見せられてもあらゆる意味であれほど酷い作品には出会えなかった。悪い意味で忘れられない作品になっていた。
そんな中両澤氏の訃報を聞き、Seedという作品が永遠に消化できないものとして残ってしまったという感覚、しこりのようなものがあった。
私は困惑し、20年来の怒りを思い出し、また困惑し、さらに困惑していた。
なぜ今?本当にやるのか?そんなことがありえるのか?どうして墓から掘り起こすのだ?えぇ……?
多分観ちゃうんだろうなという予感はありつつもとても向き合えないと感じていた。
Seedシリーズの主題歌を担当し、自身も声優として出演していたTMRevolutionの西川貴教氏は20年間劇場版を待っていることを公言し続けていた。
そんな西川ニキは劇場版発表後、自身のTwitterでこれは我々の「業」です。と発言していた。
自分も業と向き合うべきだ。そう考えた私は20年ぶりに無印からDestinyまでを通して100話見てみることにした。
やはりクソだった。20年ぶりに怒りが湧いてきた。巻き込んだ初見の家族もキレていた。
しかしリマスターは業が足りない。絵が綺麗になっているじゃないか。アスランはハゲてないしクルクル回りながらビームもあまり撃たない。ストフリが汚れているじゃないか。そんな歴史改変は許してはいけない。
それはさておき20年来の友人と自然な流れで観に行くことになったが、
20年間溜まり続けていたおこりのようなもの、あるいは悪霊、地縛霊のようなものが覆い被さっているような気分だった。
何を着ていけばいいのか?喪服なのか?タキシードなのか?私服でいいのか?ネクタイは何色?
斯くして、Freedomを鑑賞した私はすっかり浄化された。憑いていた悪霊も成仏し、20年熟成させたヴィンテージワインを開け、みんなと笑いあうことができた。面白かった。いや、楽しかった。みんなで見た走馬灯のような映画だった。
キラは人間に戻り、ラクスは人間になり、アスランはネタになり、ヒーローになった。
特にシン・アスカというキャラクターが躍動することで私は救われた気持ちになった。20年間の無念がようやく報われた、そんな気がしたのだ。
映画終盤、唐突にクロスアンジュが始まり、西川ニキのMeteorをバックにフリーダムが神になった瞬間、私はもうこれで良い、と強く思った。
Destiny終了後すぐにこれをやられていたらキレていたかもしれない。でもこれは20年という時間が与えてくれた最高の贈り物だった。
気づけば劇場で涙を流していた。
監督夫妻が生み出し、2人に壊されたと思っていたSeedという作品をファンに、俺たちに、みんなに返してくれた。
劇場を出るファンたちはみんな笑顔で楽しそうに映画を振り返っていた。いや、アスランの話をしていた。明日はシンの話をしているだろう。
みんなが笑ってSeedの話ができるまで20年も必要だったのだ。
今まではお前はSeedが好きなんだろうと言われたら即座に強く否定していた。でも今なら本当は好きだったのかもしれないと思えるようになった。
監督も気持ちの整理に時間が必要だったのかもしれない。この映画は監督から奥方への追悼であり、想いを綴った恋文だったのかもしれない。
いや、許さんが。
ガンダムSeedシリーズおそよ20年ぶりの新作となる劇場版SEED Freedomを鑑賞し、自分の中でガンダムSeedという作品を供養できたので記念に置いておこうと思う。
子供の頃からガンダムが好きだった自分はワクワクしながら開始を待っていたが、蓋を開けてみると酷い出来に落胆した。
設定やMS、一部キャラの溢れる魅力と、それでも補いきれない程酷いシナリオと世の中に対する解像度の低さが目立った。
1クール目は面白いが2クール目以降は見るのが辛かった。あの頃自分と共に視聴していた顔も知らない2ch実況スレのみんなにはこの場を借りてお礼を言いたい。彼らがいなければ完走は不可能だった。
しかし従来のガンダムとは異なる客層を呼び込むことに成功し、爆発的な人気となったが、その内容に伴い多くのファンとアンチを生み出した。当時のネットはまさに阿鼻叫喚の様相だった。
ガンダムSeed Destinyと出会った時、自分は大学生になっていた。
今度こそは失敗を取り返してくれるはずだ。ワクワクしながら開始を待っていたが、蓋を開けてみると輪をかけて酷い出来に大きく落胆した。
設定やMS、一部キャラの魅力と、それでも補いきれない程酷いシナリオと 世の中に対する解像度の低さ が目立った。 1クール目は面白いが2クール目以降は見るのが辛かった。あの頃自分と共に視聴していた顔も知らない2ch実況スレのみんなにはこの場を借りてお礼を言いたい。彼らがいなければ完走は不可能だった。
続編であるDestinyの酷さはここでは語り尽くすことはできない。大勢の方が語っているはずなので割愛するが、アニメ雑誌のインタビューで声優が出演作品をボロクソ言ったりしていたアニメはあまりないだろう。
ともかくこの魅力的な要素を持ちながらそれを活かしきれなかったSeedシリーズは、多くのファンに絶望や怒り、憎しみ、無念、悔恨などを与え、感情が渦巻き、ネット上でまともに語ることは不可能であった。
その後ゲームやコミカライズ、ノベライズなど様々な媒体で、救済が図られ、ファンは喜んだり記憶を呼び起こされて怒ったりしていた。
前作で生み出された多数のファンとアンチはDestinyという作品を消化することができず、行き場を失った悪霊となって20年感彷徨うことになった。
ところで私は幼少期に放送していた新世紀GPXサイバーフォーミュラというレースアニメが大好きだった。
近所のレンタルビデオ屋に通い詰め、続編のOVAも完走していた。このサイバーフォーミュラという作品とSeedには共通点がある。監督と脚本家が同じなのだ。
福田監督とその妻である両澤千晶である。(星山氏や電童については脱線するため割愛する)
極めて似通っていて欲しくない共通点もある。上手くいかないことを周囲に当たり散らしていた主人公が悟りを開き、良いものとして描かれていく。展開もどうにもスッキリしない。はっきり言ってしまえば失速していく。
これは両澤千晶が本格的に脚本に関わりだしてから起こっていると当時から感じていた。
今にして思えばそんな1人の介入で質が下がったのなら監督の責任なのだが当時はとにかく嫁が悪いのではと考えていた。
近年の監督のSNSでの振る舞いなどを見てやはりこいつのせいだったかと思い直したりしていた。
それから20年の間、親しい友人とSeedをネタにし続けることで楽しんでいた。いや、都度思い出してマジギレしていたかもしれない。その間映画の話も出たり消えたりしており自分の中では無かったことになっていた。
この20年の間に私生活は大きく変わっていた。就職し、転職し、家庭も持っていた。今さらそんなことを言われても困るぞ。
Seed関連での大きな変化といえば脚本家の両澤千晶が亡くなっていたことだった。私にとってアークエネミーだった人物が亡くなってしまったことに大きな喪失感を覚えた。
当時プライベートな場でとはいえ汚い言葉で罵倒し怒りをぶつけていた人間が亡くなってしまった事実に申し訳なさや後悔のような感情もあった。
どこ目線だと思われるだろうが、責任のようなものを感じていたかもしれない。
この間ガンダムシリーズは作り続けられており、全て視聴していた。
ユニコーンを楽しんだり00やAGEに怒ったりしていたが、Destinyのときほど熱くなることはなかった。何を見せられてもあらゆる意味であれほど酷い作品には出会えなかった。悪い意味で忘れられない作品になっていた。
そんな中両澤氏の訃報を聞き、Seedという作品が永遠に消化できないものとして残ってしまったという感覚、しこりのようなものがあった。
私は困惑し、20年来の怒りを思い出し、また困惑し、さらに困惑していた。
なぜ今?本当にやるのか?そんなことがありえるのか?どうして墓から掘り起こすのだ?えぇ……?
多分観ちゃうんだろうなという予感はありつつもとても向き合えないと感じていた。
Seedシリーズの主題歌を担当し、自身も声優として出演していたTMRevolutionの西川貴教氏は20年間劇場版を待っていることを公言し続けていた。
そんな西川ニキは劇場版発表後、自身のTwitterでこれは我々の「業」です。と発言していた。
自分も業と向き合うべきだ。そう考えた私は20年ぶりに無印からDestinyまでを通して100話見てみることにした。
やはりクソだった。20年ぶりに怒りが湧いてきた。巻き込んだ初見の家族もキレていた。
しかしリマスターは業が足りない。絵が綺麗になっているじゃないか。アスランはハゲてないしクルクル回りながらビームもあまり撃たない。ストフリが汚れているじゃないか。そんな歴史改変は許してはいけない。
それはさておき20年来の友人と自然な流れで観に行くことになったが、
20年間溜まり続けていたおこりのようなもの、あるいは悪霊、地縛霊のようなものが覆い被さっているような気分だった。
何を着ていけばいいのか?喪服なのか?タキシードなのか?私服でいいのか?ネクタイは何色?
斯くして、Freedomを鑑賞した私はすっかり浄化された。憑いていた悪霊も成仏し、20年熟成させたヴィンテージワインを開け、みんなと笑いあうことができた。面白かった。いや、楽しかった。みんなで見た走馬灯のような映画だった。
キラは人間に戻り、ラクスは人間になり、アスランはネタになり、ヒーローになった。
特にシン・アスカというキャラクターが躍動することで私は救われた気持ちになった。20年間の無念がようやく報われた、そんな気がしたのだ。
映画終盤、唐突にクロスアンジュが始まり、西川ニキのMeteorをバックにフリーダムが神になった瞬間、私はもうこれで良い、と強く思った。
Destiny終了後すぐにこれをやられていたらキレていたかもしれない。でもこれは20年という時間が与えてくれた最高の贈り物だった。
気づけば劇場で涙を流していた。
監督夫妻が生み出し、2人に壊されたと思っていたSeedという作品をファンに、俺たちに、みんなに返してくれた。
劇場を出るファンたちはみんな笑顔で楽しそうに映画を振り返っていた。いや、アスランの話をしていた。明日はシンの話をしているだろう。
みんなが笑ってSeedの話ができるまで20年も必要だったのだ。
今まではお前はSeedが好きなんだろうと言われたら即座に強く否定していた。でも今なら本当は好きだったのかもしれないと思えるようになった。
監督も気持ちの整理に時間が必要だったのかもしれない。この映画は監督から奥方への追悼であり、想いを綴った恋文だったのかもしれない。
いや、許さんが。
ちょっとネガティブすぎるなーと思うけど、実態としてはそんな感じなのかな。
>リベラルの人たちは能登についてしばらくちょっと黙っててほしい
という話だけど、
ない想像力を働かせて考えてみる。
谷本県政時代から引き続く工業団地などの企業誘致、北陸新幹線。そして延伸へ向けた馳知事の尽力、などなど。
こうした地域の経済振興や観光アピールや公共事業、過疎対策をいろいろやってくれたからなのかな。県政評価は高いと思う。
県民しては、とりわけ28年も知事を務めた谷本には強くお世話になった感が強いのだろう。
でも谷本さん自身は当初、革新政党系の支持を受けて初当選したというのをさっき調べて知った。当時、森喜朗が推していた農林族の対抗馬を破った経緯もある。
2003年の能登空港の開港や小松空港の国際線就航などは、森喜朗が尽力したといわれているけれど、谷本とは不仲だったという。
2022年の谷本知事引退の際に、再び新たに農林族の山田が出馬することになり、保守分裂という事態に陥ったが、森喜朗は自分が育ててきた馳を推すことに決めた、という内容の記事もさかのぼってみた。そして行政側は第一次産業への理解が厚い山田を推す動きがあった一方、谷本は事実上、馳に自分の後継として信を託したという記事もみた。
そう考えると、保守王国石川県というけれども、一枚岩じゃなかったけれども鋭く対立もしていなかったというのも今後の復興を考えるうえでは、いろいろと興味深いと思った。
そんなところへ、ワイドショーやらSNSで、インテリ風吹かせた連中が、能登の限界集落は遅かれ早かれ滅びる運命だったのが早まっただけで
この際、復興過程では、そういうところを切り捨てて優先順位をつけるべきだ、とかいう雑な議論が耳に入ってくると、それは地域の人間としてはイラっとくるのかもしれない。
想像だけど。
余談ーー
また初動に関して、「馳知事はよくやっている」論も、わからなくもない。
馳氏は谷本県政時代に後回しにされていた地震被害想定など、災害リスク軽減のための取り組みを見直そうと着手していたことは事実で、
今回の震災に間に合わなかったいうのは事実だとしても、馳知事だけの責にするわけにはいかないだろうと思う。
あと、今回初動の遅れの原因のひとつとして、石川県や北陸地整が本来事前に取り組むべき道路啓開計画が未整備だったという指摘もある。
総務省は去年の段階でいくつかの地整や県に対して是正勧告を出していたから、いくら県政2年目の新人知事といっても知ってはいたと思う。
これって建設業者など指名業者と事前協定をし、迅速に予算を執行するうえで超重要なんだけど、結果としては後回しになってしまった。
ただ、去年から道路啓開計画に着手していたとしても間に合わなかった可能性が高い。
そういう意味では、馳知事はよくやっている、あんまり叩くな、という県民の気持ちはわかる。
一方で、発災直後の対応を外野があれこれ批判しているうちに、交通インフラの問題は解消しつつあり、あれよあれよという間に復興モードにスイッチが入っていく。
復興初期段階のスピード感というのはものすごく早いので、初動の問題点はいろいろあったにせよ、そんなことの検証にあまり時間を割いている余裕はなく
これからがれきの処理やら広域の自治体間協力も必要になってくるなど、馳知事には復興の手腕が問われることになる。
という感じであるので、震災後一ヵ月になろうとしているこのタイミングでは、
県民はもっとポジティブに前向きに物事をとらえたほうがいいんじゃないかと思う。
多分、震災3か月後には初動の失態なんて議論は過去のものになって、もうしていないと思う。
disられていじけて、保守がますます保守に、というルサンチマン丸出しのネガティブなスパイラルもわからなくもないけど、
だからと言って、何も知らない外野がわーわー騒ぐのは止めようもない。ましてやネット空間なんて。
しかし、外野の意見のなかには、今後国や行政がどう動こうとしているのかのヒントもあるのも確かなはず。
そこは地元の人間だけではルサンチマンを越えられないかもしれないけれど、災害復旧のプロセスで入ってくるさまざまな他者(民間の支援企業だったり、NPOだったり、コンサルだったり)との対話の機会が今後増えてくると思う。
よそからきた民間の経験などを踏まえて、外部の冷静な視点で意見を再整理してゆく、ということもまた大切と思う。
そして、実際、国や行政が復興モデルに着手し始めると、とりわ予算をつけることが前提となると、行政としては長々と議論してもらいたくないので、予算執行を急ぐのが世の中の常。
復興公営住宅にしても行政が「これならすぐに着工できますが」と提示されたものから復興が進んでいくなかで、ただでさえ経済的に苦境に陥っている被災者に、地域を出てゆくか、受け入れるかの二者択一で選べという形で行政主導が突き付けられる、というのが東日本の教訓としてある。
しかもスピード感のある復興とか国や県はかっこいいことを言い出すに決まっているので、恐らく震災半年後くらいには被災者は決断を迫られる。え?そんなこの状況でまだ決断できない、という被災者も多かろうに、行政は「受け入れるひと、この指とまれ」方式なので、行政の提案を受け入れた人だけが救済を得られ、地域を出て行った人はどうなったかは統計すらないというのが実態となる。
それこそ、発災直後はヒーローにみえていた馳知事が、復興期には被災者に苦渋の選択を急がせる役人顔をするかもしれない。
心理的メカニズムとして馳はヒーローだというマインドがどんどん強固なものになって、ますます保守保守していくなかで、次に復興の話がやってくる。
ルサンチマン的な心理的メカニズムから解脱して悟りを開いている人が何人か周りにいればいいんだと思う。
そういうことの萌芽を、今の時点で何も知らない外野がわーわー騒ぐ言葉の端々にちょろっと見出せることがあるかもしれない。
先日、被災地域ではようやくボランティア活動が本格的に開始されることになった、というニュースをみた。
外部の人間がこれからわんさか入ってくる。これまで入っていただいていた100くらいのNPO団体も含めて。
そのなかには、東日本含め、過去の復興の経験を持つ人も多くいるはずで、そういう方々と交流をする機会が増えるんじゃないかなと思う。
外部の人間は玉石混交で、なかには、インテリ風な意見を持つ人もいるかもしれない。
間垣の里なんてどうでもいいんだよ、堤防なんだよ生命の安全第一なんだよ、とかね、中にはいるかもしれない、例えばだけど。
そういうときに、その意見もちょっと違うよね、と言ってくれる人もまた外部の人だったりするので、不協和音のなかだからこそ貴重な意見も拾える。
そのときに、いちいちルサンチマンに陥っていると、聞く耳をもたなくなって、聞けるはずの意見にも耳を閉ざしてしまうことにもなりかねない。
とはいっても、これといってどうしようもないことかもしれないけれど。
国際ジョークとして放出するにも危険だし、良い感じに短くするのも難しくてやめたやつを適当に放流。
以下、本文。
インプレゾンビにキレたイーロン・マスクは、X社CEOリンダ・ヤッカリーノに命じ、Xに下のような挑発文を表示させた
キリスト教圏には「欲望に溺れて泡銭にすがり、人命のみならず己の魂すら売る強欲な者たちに、神の審判は訪れる!
金儲けのために真理を踏みにじり、他者を欺くことで得られる幻惑の富は、最終的には喪失と絶望に変わる。悔い改め、誠実なる生き方を求めよ。さもなくば、いずれ正義の光によって全ては照らし出されるだろう」と
イスラム教圏には
「金の虜になりし者よ。汝らは預言者の教えを忘れ、隣人の財産を欲し、金の雄牛を崇めるのか?
欲望にかられ、正義と慈悲を忘れることで得られる富は、終わりには心の荒廃と罪深さに導く。悔い改め、純粋なる信仰に立ち返れ!」と
「財富の追求に没頭する者たちよ、ユダヤの神聖なる教えを見失い、英語と数学を肋骨とした偽の泥人形に奪わせた富は、結局は虚偽と空しさに満ちている。
神の教えに沿った正義と慈悲こそが、真の豊かさの源なのだ…」と
儒教圏には「仁義を欠き、父祖の苦労を忘れた者たちよ。彼等が必死に勉強して得た知恵を、血も涙もない金儲けをするキョンシーに変えることが汝らの文化なのか?
真の富は仁と礼によって築かれ、誠実な商売をする事こそが真なる価値だ。金儲けのために己の文化を冒涜することなく誠心誠意をもって生きるべきだ」と
仏教圏には「煩悩に囚われ、機械に依存し欲望に従い、悟りを得ずして未法の世を築くことが汝らの望みなのか?
仏陀の教えに従わず、無常の理を知りながらにして迷信やドグマを広め、悟りを果たさぬ機械によって金儲けを図ることは真に愚かな行為だ。
正しい手段で生計を立て、慈悲深く善行を積むことこそが、涅槃に至る豊かなる心と真の福徳であると悟れ」と
ヒンドゥー教圏には「神々や信仰への敬意を無視し、機械を新たなヴァルナの奴隷として利用し、人を欺いて金を得る行為は、完全なる神への冒涜である。
人の尊厳を軽蔑し、偽りの崇拝を追求することで手に入る富は真の宝ではなく、心の浄化から遠ざかるものである。
神々が授けた文化の智慧と慈悲の尊さを理解せず、機械を踊らせるために利用するなど、自ら輪廻に捉われんとする無益な努力である」と
今や映画のみならず、インターネットにも間違ったゾンビが蔓延っている.......」と書かせた
このように全宗教を敵に回したXは公式アカウントからイーロン・マスクのみならず関係者全員のアカウントを完全に炎上させ、ユーザーのほとんどが脱退し、その跡地には熱心なブードゥー教徒と日本のクソ無宗教ネタツイッタラーしか残らなかったという
悟りを開くまであと一歩だ