はてなキーワード: つのとは
ぶっちゃけ二重整形と脱毛で人生好転しまくった自分としてはブスの自覚あるなら産むなよクソがとしか思わないな。
毛が濃いとか重たい一重をからかわれ続ける学生時代だったしカスみたいな遺伝子押し付けやがってって思ってたしいまでも思ってるよ。
見た目が平均点を超えるだけで多少の自信がつくというよりは余計な足かせがなくなる。自己肯定感のようなものがついたのか、ファッションとかだけでなく、仕事でもなんでもなにか新しいことに取り組むハードルがめちゃ下がった。
こんなに気分がかわるのなら小学校上る前に脱毛も二重整形もしたかったわ。できねえなら産むなよクソババアとしか母親に対して思ってないよ。
結婚して夫には二重整形の話もしてるけど、自分が嫌だと思ってきたものを
「考えてもしょうがないしww」とか「うちの子は受け入れて上手くやるでしょ(≒本人がどう思おうが私が子育てしたいから知ったこっちゃない)」みたいな無責任なバカ親になりたくないから絶対に子どもは産まないって話して理解もしてもらってるよ。
増田にたいして「深く考えてもしょうがない」とか言ってるやつの話に耳を貸さなくて良い。
そいつらは子どもの人生なんてまったく考えてないし、自分が周囲から子持ちという社会的ステータスを得ることしか考えてないやつらだよ。
無関係でしたとはなってないよな
OSINTの調査で中国は知ってた可能性があるという報道も出て、オーストラリアやWHOも中国に情報開示しろって言ってたけど、いつの間にか言わなくなった。トランプが退陣してアメリカが言わなくなったからWHOも他の国も中国と揉めたくないから言わなくなったんだろうね
2020年の終わりごろから中国が調査を拒否したとか証拠を無くしたとか色々騒がれたけどいつのまにか中国は無関係でしたみたいになったよね。
だったらなんであんな立ち入り調査嫌がってたんだよ…明らかに怪しすぎだろ
なんか2019年に道で人が倒れまくってる動画とかあるらしいし。そう言えばDNAを調べたらアメリカが起源だった中国は悪くない!みたいなツイートもあったよな
なーつのおわりー
ぬすんだばいくではしりだすー
理論値
利益率
機械割
44ALLALLALL324ALL212
ご自身が言ってることに近い
絶対言えないと思う
面と向かって言えない
認めてほしいっていう気持ちがあった
おれは偉いんだよ おまえごときとは違う
怒りっていうのは僅差じゃないと発生しない
怖くて脅かされる 図星をつかれたようになると怒る
リアルでレベルの高いことがずっとあるっていう場合はだんだん相手にしなくていいかってなる
レベル教か
いらん
親父に小学校とかの算数もっていったらなんの答えもあってなくて
いやこれはこれはとか言ってたりするから
おれのイメージではそうかなって
活動電位と伝達物質 我々の意思になっているのが全然わからない
また決めつけでた
そうなってくるとこんなに努力してるのにとなってくる
社会のためになることができてる層がいる
同じ条件でやってみてください
女だから
言語は女のほうが上達早い
ムードメッセージ あまりうまくいかない人は人の努力を想像できない
なんとかだから無理でしょう とか言ってくる人
基本はないです やる前に言うなよ
やらない理由付けじゃないですか
これもこうだからやらない
尽力してから言ってくれよ
見ることがあるのかなと思ったらないんですよ 悲しくないですか
前提、まずは私の母の話。
母は何でもできる人だ。
小学校から名門学校に通い、大学は某国立大学。はっきり聞いたことはないけれど、思い出話を総合するとずっと主席(もしくはそれに近い存在)。
母の教育方針に、「答えを簡単に教えない」というものがあった。
人に聞いて簡単に得た知識はすぐ忘れてしまう。だから、試行錯誤して自分で答えにたどり着くべきだ、と。
これ自体はまあ、その通りだと思う。
例えば、本を読んでいて、知らない単語が出てきたとする。
で、近くにいる母に、「これどういう意味?」と聞く。
すると母は部屋の一角を指さして「そこにあるのは何?」と質問を返す。
母が指さすのは分厚い広辞苑。
これで質問タイムはおしまい。私は一人、重たい広辞苑を本棚から引きずり出して単語の意味を調べる。
「え、そんなことも知らないの?」
大げさに目を真ん丸に見開いて、びっくりした顔で、おどけた風に言う。
そして数秒、そのままの顔で私を見つめる。
多分、本気半分、冗談半分だったのだと思う。
その年の子がその単語を知っていることは当然だと、母は本気で思っている。母自身がその年齢だった頃にはその単語を知っていたからだろう。自分が読書好きに育てた子だから、なおさら。
ただそれをそのまま言うのははばかられるから、ちょっとおどけて言ってみているだけ。毎度そう言うのはもはや鉄板ネタみたいな。
それが堪らなく嫌だった。
驚いた母の顔を見る度に自分の愚かさを突き付けられる気がして心底惨めになった。
今思えば、母に懇切丁寧に教えてもらいたかったのかもしれない。言い換えるなら甘えたかったのかもしれない。
いつの間にか、母に何かを聞くことは避けるようになっていた。知らない単語に遭遇したら一人で広辞苑を開くようになった。
母の教育方針が良かったのか、幸運にも私も母には遠く及ばないが、ほどほどに誇れる程度の学歴を手に入れた。
同時に、他人に何かを聞くことが全くできない人間になっていた。
分からないことに遭遇すると、他人に何かを聞いて解決しなければならないときになると、おどけて驚く母の顔が脳内に浮かんで何もできなかった。
あらかじめ他人の言動をとにかく観察し、脳内で何度もシミュレーションし、自分が絶対に失敗しないように。そればかり考えて過ごすようになった。
例によって空気を読みながら仕事を無難にこなしていたが、ある時かなり大きな失敗をやらかした。
詳細は省くが、原因は私がその日の業務を正しく理解していなかったことだった。そのせいでお客さんに迷惑をかけて社員さんに尻拭いをさせてしまった。
「なんで何も聞きに来なかったの?きっと分からなくて確認に来てくれると思って待ってたんだよ」
怒ってる、という感じではなかった。
静かに諭すように言われた。
衝撃だった。大人に質問するのは悪いことではないのかと。馬鹿にされるようなことではないのかと。
寧ろ聞きに来てほしかった、と言われて、それは許されることなのだと、自分の価値観がひっくり返された。
それ以来、かなり頑張って質問をするようにした。
おかげさまであの時以上に大きな失敗はせずにバイトを終えることができた。
当然ながら新入社員にとっては分からないことだらけ。入社式の翌日の研修では、講師から「貴方たちの仕事は質問することです」と口を酸っぱくして言われた。
ありがたいことに同じ業務の担当になった先輩がかなり優しい方なので、ご厚意に甘えさせてもらってあれこれ聞きながら業務にあたることになった。
先日、先輩から「貴方は何でも聞いてくれるから仕事しやすい」と言われた。
ようやく、小さいころにかかった呪いが解けてきたような気がする。
それでもやっぱり、「これ分からないな」と思った瞬間、目を丸くした母の顔が頭の片隅にちらつく。
漫画などの派生作品を指す言葉らしい。一昔前は「外伝」とか「番外編」とか言われてたのに、この言葉が普及したせいで言われなくなったな。
なんかこの言葉を聞くと、くるくる回って飛び出すようなイメージがあって、ベイブレードで遊んでる様子が目に浮かぶ。
・バフ、デバフ
スカラやルカニみたいに補助呪文なんかでステータスの強化、弱体化を指す言葉らしい。声に出して読むと、なんかマヌケな響きだし、文字で書くと「パフ」と見間違うし、あまり好きでない。
・ヴィラン
悪役を指す言葉らしい。そのまま「悪役」でよくね……?
なんだよ、この変にカッコつけた言葉は。
ネット上では様々な暴言が溢れているように見える。ある人は「チー牛はタヒね」と言い、別の人は「弱者男性はキモい」と言う。これらの言葉は、現代社会の深層に潜む闇を映し出す鏡だ。人間の本質的な攻撃性や、社会の歪みが、匿名性という仮面の下で露わになる。しかし、最近はこういう低俗な連中にも寛容になってきた。彼らを「子どもたち」と思うようにしたのである。
この視点の転換は、ある日突然訪れた。自分の地域のbakusaiを覗き込んだときのことだ。そこには頭の悪そうな書き込みが溢れていた。その瞬間、啓示のように一つの考えが浮かんだ。愚かなことを言うのは頭が悪いからであり、頭が悪いということは、精神が子どもだということだ。
この洞察は、人間の本質に対する深い問いを投げかける。我々は本当に理性的な存在なのだろうか。それとも、理性という薄皮の下に、原始的な衝動や感情が渦巻いているのだろうか。ネット上の暴言は、文明社会という仮面の下に潜む人間の野生性の表出なのかもしれない。
子どもたちは社会が責任を持って育てていかなければならない。この命題は、単なる教育論を超えて、人間存在の根本的な在り方を問うている。我々は、自らの内なる「子ども」とどう向き合うべきなのか。社会は、その集合的な「子どもらしさ」をどのように昇華させ、成熟へと導くべきなのか。
人間の意識は、表層と深層が複雑に絡み合った多層構造を成している。表面に現れる攻撃的な言動は、その人の内面にある深い葛藤や不安の一端に過ぎない。我々は、この意識の深層にまで降りていき、そこに潜む真の欲求や恐れを理解しようと努める必要がある。
さらに、個人の意識の奥底には、人類全体が共有する原初的なイメージや衝動が眠っているのかもしれない。この集合的な無意識は、時として社会全体の行動パターンや価値観を形作る。ネット上の暴言は、この集合的無意識が現代社会という文脈の中で歪んだ形で表出したものだと考えることもできる。
しかし、この「症状」を単に抑圧したり、無視したりするのではなく、それを社会の成長のための機会として捉え直す必要がある。子どもたちが成長過程で様々な試行錯誤を経験するように、社会もまた、こうした現象を通じて自己を再定義し、より高次の段階へと進化していく可能性を秘めている。
結局のところ、我々一人一人が「子どもたち」なのかもしれない。完璧な大人など存在せず、皆が日々成長し続けているのだ。その意味で、ネット上の暴言を発する人々も、我々自身も、同じ宇宙船地球号に乗った旅人なのだ。互いの未熟さを認め合い、寛容さを持って接することで、人類全体がより成熟した段階へと進んでいけるのではないだろうか。
コミュニティノート:エビデンスの重要性とその過度な強調に関するいくつかの指摘は議論の余地がある点です。以下に挙げる主要なポイントには一定の根拠がありますが、その解釈には注意が必要です。
1. **数値化が困難な要素の軽視**:エビデンスに基づく意思決定が、数値化や定量化が難しい経験や文化的価値観などを軽視しがちであるという主張は一理あります。一部の要素は数値では捉えきれませんが、定性調査や複合的な評価方法を用いることでこれらも意思決定に組み込むことは可能です。
2. **主観の入り込み**:エビデンスの解釈には主観が入り込む余地があるという指摘も妥当です。データの収集方法や分析手法によって結果が変わることがあり、客観性を完全に担保することは困難です。しかし、科学的手法や統計的分析を適用することで、バイアスの影響を最小限に抑える努力はされています。
3. **イノベーションや創造性の阻害**:エビデンスに重きを置きすぎると、初期段階で十分なエビデンスがない新しいアイデアや革新的な取り組みがリスクを取ることが難しくなる可能性があります。ただし、エビデンスと直感、創造性のバランスを取ることが重要です。エビデンスが全くない状態での意思決定もリスクが高いため、判断には注意が必要です。
4. **短期的効果の重視**:エビデンスに基づく政策決定が短期的な効果を重視しがちであり、長期的影響や副作用を捉えきれない場合があるという点も考慮すべきです。長期的視点や全体的な影響を評価するためには、定量的エビデンスの限界を認識したうえで、補完する要素を見出す必要があります。
5. **時間とコスト**:エビデンスの収集と分析には時間とコストがかかるため、緊急時には迅速な判断が求められる状況でエビデンスを待つのは現実的でないという指摘も正しいです。緊急対策には、エビデンスに頼りつつ、迅速な判断を下すための柔軟性も重要です。
総じて、エビデンスは意思決定の重要な要素ですが、それのみでは全ての状況に対応できないことを認識することが必要です。経験や倫理的考慮、長期的視点なども含めた総合的アプローチが重要であり、その限界を適切に認識し、バランスの取れた意思決定を目指すことが肝要です。
グループAとBがいるとして、互いにアテンションを奪い合っているとする。
ここで「エビデンスE1は、施策M1によってグループAの利益が向上することを示している」と言われても、グループBは利益を奪われるわけだから「そんなエビデンスは重要ではない」と反感を生むだろう。
このときにグループB側にとっては「エビデンスE2は、施策M2によってグループBの利益が向上することを示す」というエビデンスの方を重視するはずである。同様にグループAはそれに反感を生む。
このように、利益が相反する状況では「エビデンス」はいくら客観的だろうとも、一つのストーリーだけを生むのではない。
「外出を控えるように」などというお願いは、一方でネット企業がアテンションを獲得することになり、他方で旅行や飲食店のアテンションを低下させることになる。
いくら「外出を控えることがコロナに感染するリスクを低下させるエビデンスがある」といっても、旅行業者はそれによって利益を減らすので納得できないわけである。
よって、エビデンスは万能な解決策ではないことが分かる。エビデンスだけでは社会や企業、政府の持つ目的を補完することはできない。
「意外とまともな事言ってる」とか持ち上げる奴もいるけど、一番嫌いなんだよああいうの。
ミスリードめいたネットニュースのヘッドラインとかもそうだけどさあ。
中身も一貫してアレなBUNKAタブーみたいなやつの方がマシだろ。
いやマシではないな。
マシではないけど別軸でどっちもカス。
「まとも」な一般論ではあっても、別に他にいくらでもそれを否定する理屈はあったりするし。
であれば筋が通ってる通ってないの問題じゃなく何が心に響くか響かないかの問題な訳で、それはいかに「常識的」に生きてきたかに左右されるようなもんだったりもする。正論だから気持ちが良いんじゃなくて、自分の「まとも」さを再確認して気持ち良くなってるだけだろ。
完全に日が暮れるまでに峠を越えられるかなと思って、うねうねした山道を車で登っていたらゲリラ豪雨がやってきた
このまま走り続けて、スリップして山から真っ逆さまに落ちるなんてことは嫌だったし、路肩に車を停めてこんな山奥で待つのも嫌だった
だからロードサイドに「カプセル」と書かれた看板が目についた途端、すぐにハンドルを切って敷地内に入った
建物に入ると、中は雨の音なんて聞こえなくて、静まりかえって真っ暗だった
「おひとり様ですか」と声をかけられて振り返ったら、壁が半円形にくり抜かれてそこから光が漏れていて、カウンターらしきものになっていた
奥にいる人の顔は見えなかった
ひょっとしたらそういう所に間違えて入ってしまったのか、でも「カプセルホテル」と書いてあったような、と思いながらも、連れがいると言うわけにもいかず、「はい一人です」と答えた
「32番どうぞ、奥へ」とカウンターに差し出された手の下には32と書かれたカードキーがあった
突き当たりのドアを開けると、細い通路が伸びていて、左右にはカプセルホテルにあるような小さな個室がぎっしりと並んでいた
なんだ、やっぱりカプセルホテルじゃないかと思って32番に入ると、ほとんど音もなく上からドアがゆっくりと閉まり、中は密閉空間になった
天井は座ってぎりぎり頭がつかない程度の高さで、個室の壁に細いテーブルがついていた
iPhoneで目覚ましを設定したときのような音が小さく鳴ると、壁の一部がスライドして開き、回転寿司のベルトコンベア的なものに載った丼が滑ってきて、目の前で止まった
このときようやく、自分はカプセルホテルと間違えてカプセルラーメンに入ってしまったことに気づいた
最近流行っているのは知っていたが、こんな山奥にまであるとは思わなかった
ラーメンは熱かった
真っ黒なスープに大量の白髪葱と柔らかなチャーシューが浮かんでいた
スープはどこか甘酸っぱい気もしたが、それを上回るコクがあって不思議なバランスを保っていた
腹が減っていたので思わず麺をすすり上げた直後、耳をすましたが、周囲からは何も聞こえない
他のカプセルでも今この瞬間、自分と同じように麺をすすっている人々がいるのか、それとも自分以外に人がいないのか、見当もつかなかった
空腹が満たされると急激に眠気がやってきて、いつの間にか寝入っていた
グローバル人材であること、SkillsにUEが入ってるように求められてるのはただのアニメーター職でないことぐらいバカでもわかると思ったけどわからないやつのほうが多かった
韓国学校をルーツに持つ京都国際が韓国語の歌詞なのはまあそりゃそうでしょとしか思わんのだよな
正直底辺弱者男性としては、同志社や国際教養大、ICUあたりの「国際派」の意識の高さ、頭の良さゆえの英語歌詞のみたいなやつの方に引っ掛かるものを感じてしまう