はてなキーワード: リベラリストとは
真のリベラリスト「ほっとけ。殴るな。あるがままに。」
『争いは同じレベルでしか起こらない』じゃないけど、こういう低レベルなアンチリベラルが出てくるのも、現代のリベラルの酷さと合わせ鏡だということを自覚しておいた方が良いよ。
不正解なんてないとまで極端な意見が出てくるのは、手前勝手な基準で正解と不正解を仕訳して不正解のラベルを貼ったモノを徹底的に弾圧する傲慢極まりないリベラルの暴走に対する反発故だ。
彼らの反発が幼稚なことは否定しないが、しかしそうした幼稚な反発が生まれる根本原因は彼らが馬鹿だからではなく、同レベルに幼稚なリベラリズムが幅を利かせている現実から来る必然であろう。
現代の我々が教授できている人権が過去の偉大なるリベラリストやフェミニストのおかげであったとしても、それは今のリベラリズムの暴走の免罪符にはならない。
そして極めつけに酷いのは、
こういう「もっと酷いことが起きているのにそれを無視して怒るのは間違っている」という言い分はアンチリベラルが使うウイグル論法と同一でないか?
暴走の原因が過去に受けてきた加害や迫害だから仕方ないという考えならば、次の時代では現代において暴走するリベラルやフェミニストに加害された人々が今度はリベラリズムやフェミニズムを踏みにじり返すことが正当化される世界が来ることになるだろう。
そうして争いは永久に繰り返される。
なる程これに関してはその通りかもしれない。
米国西海岸のリベラリストは総じて3つの決まりごとを高く評価し、そしてこれをベースにモノを考える傾向がある。その決まりごととは以下の通りだ。
めちゃくちゃ新自由主義な、シバキ上げ派の考え方じゃん。まあ確かに、日米問わず本当のところ弱者に厳しく、心が痛まず棄民できる理由付けができれば喜んでやりそうな雰囲気がリベラル派からは感じるけど。
日本のリベラリストへ強い影響を持つ米国西海岸のリベラリズム。
これが一体どういうものか?と日本のリベラリストへ問うと答えられる人はひと握りだろう。
ただ、答えられないことに恥を感じる必要はない。何故なら当の米国西海岸へ住むリベラリストですらリベラル史を背景に系統立って説明できる人は少ないからだ。
これは当然と言えば当然で、思想系の専門教育を受けていない一般人が答えられるわけがないだろう。
だから恥ずべきことは何もないのだ。
しかし、説明できなくとも米国西海岸に住む左派政策を支持する人は口々に自身の政治思想の寄りをリベラルと称するし、一般人には一般人なりに理解したリベラルの姿が存在する。
このエントリではそんな北米西海岸の一般人が理解するリベラルを大雑把に知るためのエントリだ。
米国西海岸のリベラリストは総じて3つの決まりごとを高く評価し、そしてこれをベースにモノを考える傾向がある。その決まりごととは以下の通りだ。
日本のリベラリストにも理解しやすいお題目だ。
読んで字のごとく個人個人の選択を尊重し、その選択を極力妨害しないようにしようというもの。
米国西海岸のリベラリストの1派としてカテゴライズされがちな米国西海岸のフェミニズムへも強く影響しており、日本のフェミニズムも同様に強く影響し、これを失えばリベラルと名乗れ無くなるほど重要なものだ。
最も日本人が理解しにくい部分、それが米国西海岸というよりかは米国全体が共有する自己研鑽の奨励という文化だ。
自己研鑽については右も左も関係がなく、何なら米国内の共産主義者だろうがカルト宗教信者だろうが陰謀論者だろうが自己研鑽の奨励については絶賛する。
日本は「恥の文化」などと称されるが、それに並び立て比較できるほど米国は「自己研鑽の文化」なのである。
この「自己研鑽の奨励」という文化を理解しなければ米国発の文化的思想は何1つ理解できないと言って良いレベルのものと言って過言ではない。
最近の日本では「努力教」などと言って不合理な努力をしたり、努力を社会的圧力により強制されたりすることを嘲笑する向きがあるだろう。
意味がなく不合理な努力を続けるなんて非生産的であるし、私もまた同じ様に感じる。
しかし、米国は自己研鑽の努力をすることへ対して歩みを止めてはならない文化なのだ。
つまり努力の先がなければ努力できる先を自ら探し出し努力をしろという意味であり、米国民の高い生産性はこの精神によって支えられている。
例えば日本の労働者の一部には「KPI」という言葉へアレルギー反応を起こす者は少なくないと察するが、このKPIをよく考えてみれば自己研鑽、努力教の臭いを感じないだろうか?
ステレオタイプな米国人のイメージにあるマッチョイズムも結局はこの自己研鑽の奨励という米国文化が元になっているのだ。
つまり米国には右派のマッチョイズムや左派のマッチョイズム、共産主義者のマッチョイズム、カルト宗教信者のマッチョイズム、陰謀論者のマッチョイズム、様々な思想に合わせたマッチョイズムがあって自己研鑽をしないという選択肢がない。
もし米国内で自己研鑽を辞めてしまった場合どうなるか?
それはつまり米国社会からドロップアウトしたものとして理解されてしまう。
日本国内で恥を捨てた者が問答無用に迷惑がられるように、米国国内では自己研鑽を捨てた者は迷惑で厄介な存在と問答無用に評価される。
様々な方面から米国西海岸のホームレスについての情報へ触れることがあるだろう。
そして決まってこのような表現が出現する。
これは事実だ。ただし付け加えるのであれば金持ちがではなくホームレスではない下層民を含めた米国西海岸住民のほぼ全てがホームレスを無視していると言って良い。
ここまで説明を読めば、この言葉だけで納得してもらえるはずだ。
ホームレスが自己研鑽を辞めた者だからと言っても、ホームレスにだって子供は居るだろうし将来を担う子供を親の事情に巻き込むなんて米国だけでなく人間社会としておかしいだろう!
こういう指摘へ対し米国西海岸のリベラリズムでは「環境により自己研鑽という行為が不可能な者には自己研鑽可能な環境を用意する」という方法を解決手段として選択している。
例えば「米国では入学試験の点数が良いアジア人よりも白人黒人を優遇して白人黒人を合格にしている」と聞いたことはないだろうか?
これが自己研鑽のための環境を用意する米国西海岸のリベラリズムの影響を受けた公正的な入学試験システムなのだ。
私自身も少々理解に窮するが白人黒人はアジア人よりも試験の点数を獲得できる環境に恵まれなかったという判定らしい。
意味不明だ、良い点数を獲得したアジア人の自己研鑽の評価は何処へ行った?と完全に理解できない日本人も多いだろうが、米国では上記のような解釈になっているので文句を言っても仕方がない。
ホームレスの子供へも同様に米国西海岸のリベラリズムは自己研鑽するための環境、例えば学費の無償化やフードチケット(食料配給券)の配布などが貧困家庭の子供の権利として提唱されている(保障されているかどうかは州法・州制度による)。
貧困家庭の子供はこれらの制度を利用して生活に自己研鑽するための時間を獲得することが望まれているのだ。
ちなみに一応言っておくが、自己研鑽できない者が自己研鑽をしないという選択肢は米国西海岸のリベラリズムには用意されていない。
個人の選択の尊重と言いつつも自己研鑽については自己研鑽して当たり前だし、個人の選択として自己研鑽しないような者に与えられるものは米国西海岸のリベラリズムには何もない。
米国西海岸の社会保障政策は総じて自己研鑽するための環境を用意するという価値観で行われていることが多い。
例えばベーシックインカムなんかもこの部類の政策と解釈されていて、プライベート時間が増えることで自己研鑽するための時間が増えて収入も上がり生活が向上すると米国人はマジで考えている。
根底にあるのが自己研鑽なので、もし自己研鑽しないものが居ればそれは制度へのフリーライドだと非難を浴びる結果となるだろう。
欧米のリスペクトでベーシックインカムを望んでいる人は米国西海岸方式だとプライベートの時間も走り続けることが前提にあることを認識した方が良い。
これまでの説明を前提にすると犯罪者の釈放や$950以下は微罪扱い、死刑廃止なども理解できてくるだろう。
そして日本人の感覚では自己研鑽のための環境構築という政策のチキンレースが始まってしまっていることも理解できるのではないか。
トランスジェンダー女性のトイレ使用問題や、同じくトランス女性の陸上競技の参加問題などを見ていて思った事を書きたい。
基本的にリベラルは、昔からLGBTの問題についてはとても関心を持っていたのだと思う。
でも当時はトイレや女子競技の問題については、それほど可視化はされていなかった。
女子トイレや女子競技は、リベラルやフェミニズム、とりわけ女性たちにとっては他人事ではなく自分たちの利害に直結する問題である。
今までリベラルを名乗っていた女性たちが、自分達の利害に関わる問題だと知った瞬間に「保守化」して、トランス女性を女子トイレや女子競技から排除し始めている。
表題にも書いたが、これがあるから私はリベラルは信頼できない。
LGBTの人たちを守りたいと思うのならば、例え自分達に悪い影響が出てこようが、最後まで守り通してみろよ。
LGBTだけではなく、女性の社会進出などの他問題においてもそうではないのか。
>とにかく、子供を育てない人間は非道徳的である、という観念からは、いくらリベラリストが種の保存がどうとか反発しても、逃げられないと思うんだな。
日本でも他国(たとえば中国やインド)でも、つい最近まで「子どもを過剰に産む人間は非道徳的である」という観念が一般的だった時代があるんだよ。結局、社会的なリソースの多寡と人口推移という2つの文脈しだいで、そんな「観念」は真逆にだって振れるわけ。君がひとりで「逃げられない」という宿命論をふりかざすのは別に構わないけど、100年先なんてタイムスパンで語るには、あまりにも今という時代に視点が拘束されてる感じがするね。
あとね、何かをすることが「道徳的」であるからといって、何かをしないことが即「非道徳的」になるわけじゃないんだよ。たとえば、寄付をすることを道徳的だと思っても、寄付をしない人間が非道徳的だと非難されるわけじゃないだろ? そういうとこが雑なんよ、雑。
確かに書き殴ったし、誤字多いが、主張明確に書いてあるの読めないか?
>とにかく、子供を育てない人間は非道徳的である、という観念からは、いくらリベラリストが種の保存がどうとか反発しても、逃げられないと思うんだな。
これだが?
流石に問題はお前にあると思うぞ。
「リベラリズムはそれをなんやかや理屈こねて否定ようとしてるが」→否定ようとしてるが?
「無理。種の保存発言を批判して有利にだった気の盛り上がりだけど」→有利にだった気の盛り上がりだけど?
「お前が切り取った部分は主張ではないから、取り上げてないし、取り下げることもできない。」→「取り上げてないし」ってどういう意味?
「お前が気にするなら別に例えにしてもいいけど? それで満足か?」→「別に例え」って何?
「頑張って反論したかったんだろうけど、なんだろな、ちゃんと脳で言語理解しないとさ、こっちに何一つダメージが通ってこないぞ。」→ダメージが通るって何? ゲームなのこれ?
結局言いたいのは「同性愛者は年金なしになったっていい」なのか「子なしの人間は年金なしになったっていい」なのか、どっちなの? これはリベラリスト云々じゃなくて、単純に論理の話だよ。世代再生産に貢献する人間に保護や助成をする、という話と、同性愛者には年金をやらない、という話はイコールじゃない。これっぽっちの文章を書くのにこれだけミスがあるって結構ヤバいよ。思いつきを大慌てで書き殴ってるから、あちこちツッコミどころが残る雑な議論になっちゃうんじゃないのかな。
"種の保存"みたいな話を「子供を産むのは道徳的である」という伝統観念に結び付けるのは、全くの悪手で、科学にも道徳思想にも疎い人間のやる典型的な間違いなんだが。
それはそれとして、"種の保存"って用語を用いる間違いを否定することで、「子供を産むのは道徳的である」という伝統観念を否定したことになるかのような向きがあるのは、それはそれでよろしくないと思っている。
かつてまだ貧しかった時代、おじいちゃんが、ひいおばあちゃんが、祖先が頑張って子供を食わせてきたのは、子供がそのまた子供を育て、更にその次世代が子供を育て、その連なりが永遠となり、結果として自分自身の価値も永遠になると信じていたからだと思う。
もしも「私は私の人生を謳歌したいから子なしでいくわ」と決断したならば、それは「私は私の人生以外は知ったこっちゃないから祖先の思いとか知らないわ」と言う意味で。もし祖先の思いが関係なくて自分自信の思いが優先ならば、それはあまねく他者に適応されるであろう。個人主義である。
個人主義が非道徳的である、という話になら、一定のコンセンサスが得られるのではないか。
いや倫理と道徳の話なんて、そんなもん全体の気分や時代の流れでしか決まらないから、どのみち確定はしないけど。
とにかく、子供を育てない人間は非道徳的である、という観念からは、いくらリベラリストが種の保存がどうとか反発しても、逃げられないと思うんだな。
じゃあ年金なしね、ぐらいの話にはなっていっていいし、そこまで露骨じゃなくても近いことは今後100年で起きていくと思う。
いまは保守の政治爺が話に疎いから、種の保存とかいうトンチンカンで済んでるけどね。
ヤンキーはヤンキーコミュニティの共助で人間関係や仕事を得るための生き方ノウハウを得ている部分がある。
それはもちろん彼らの(腕力を含む独特の)コミュニケーション能力で勝ち取ったものではある。
あと、彼らは普通の教育システムからこぼれた人たちであり、社会問題としてすでに認識されていて、更生させるための取り組みもおこなわれている。
ヤンキーも一面では弱者であるが、今よく話題になっているのは、ヤンキーなんかよりも無害にも関わらず、社会から疎外されてコミュニティの共助もなく、リベラリストたちからも救う必要がないと思われている人たち。彼らは社会問題として認識されていないことが問題。
まず正義厨にもなれないネットリンチジャンキーの拠り所になってしまったのが運の尽きだ。
無意味な外国人・障がい者差別も過剰な自己責任論も嫌だが、正論を言いつつも相手に対してマウンティングを取りたいのを隠しきれていない奴を見るのはもっと嫌だ。
ちゃんとポリコレが上手く作用したのはLGBTぐらいで、リベラリストのフリした正義厨と金持ちと有名人なら何しても良いと思っている弱者が多数派を占めてるおかげでポリコレもどうしようも無くなってしまった。
多様性と言いつつ、結局のところは「私の見たくないものは死あるのみ」なのが本音。何だったら10年前ぐらいのインターネットがまだ多様性に恵まれてたよ。
誰も傷つかない笑いが求められているが、演者にはそれを押し付ける癖に見てる側は今日も有り余った時間使ってネットリンチをしてると思うと不条理ギャグとしか言い様がない。
犯罪にはならない炎上事やスキャンダルが起こると「絶対に許さない」とばかりにSNS使って集団リンチする癖に、いざ自分や自分の所属する界隈が同じ事をしたら完全に無視するその考えはアメリカの安いチョコレートばりに甘い。