はてなキーワード: ノンポリとは
なんでノンポリは一緒に戦ってくれないんだ!私たちはこんなに正しいのに!
ってさあ
そのへんまできたら生存の代わりに望ましい程度の、最低限豊かな生活が入る
家族や友人が近い将来快適に暮らせるとよい
そのあと遠い将来の生存、遠い将来の豊かさが来て
そのあたりでやっと友人知人レベルでないコミュニティの、自治体の、県の、国の存続が来る
原発ガーとかは遠い将来の発がん性の話をたったいまの生存の話にすり替える論法でちょっと成果上がったけどバレた
沖縄がーとかは沖縄県民以外には世界平和のちょっと手前の話だったり遠い将来の生存の話だったりする
女性がーって立ち上がれって言われても自分の生存が満たされてない独身男性は動かん、彼らにとっては近い将来の家族や友人の豊かな生活ってくくりに入るか、下手すると国の存続ぐらい遠い話になる
表現の自由がーっていうのは、戦争の時やらかしてたので僕ら個人の近い未来の生存の話(被差別民のあいつらを殺せ、アカを殺せ、非国民を殺せ)でもあるし、近い未来の豊かな生活の邪魔程度の話(好きな作家がアカ狩りでパクられた!とか作品がわいせつ物にされた!)ぐらいかもしれない。
順番まちがえちゃダメなのよ。
今の自分の生存を脅かしている奴が世界平和がーとか言ってるとき、なんでそいつを応援しなきゃいけないのかわからんでしょ。まず同じ問題に対処してもらえるぐらい相手の生存を助け豊かにしないとだめでしょ。
あれ、何か足りねえなあ~、と思うんですよ、自分的に。でそれが何かと言ったら…やっぱり「お笑い」ですね。お笑いが足りない(中略)「おふざけ」が足りない
―syamu_game
この頃今の政権を巡って、色んなニュースが流れて自分のTLやトレンド欄がとっても賑やかになっている。
それを見てどうして自分が今の政権を支持しているのか、ということに少し気づくことがあった。
それは、面白さだ。
とにかく今の政権を支持している原動力は面白さじゃないのか?と思えてくる。
2015年から今の政権と野党との戦いが続いていたが、やっぱり鍵を握っているのは面白さだと思う。まあ14年の衆院選の時点で「どうして解散するんですか?」とかあったけど。
例えば安保法制。あれはパフォーマンスを繰り広げ珍妙なデモでどうにかしようとした野党を今の首相がなんなく下した、とも取れる事象だし、ある種異世界転生した主人公の活躍に近い何かでもある。
要は新しい物事を衆人には理解されない言葉で反対する連中を一刀両断して、ガミガミうるさい連中を一気に黙らせた訳で、それこそが面白さであり、政権支持の原動力なんじゃないだろうか?
これはトランプ現象に近いもので、本人そのものより、周りのうるさい連中を倒してくれる、あるいは右往左往させてくれる、そうした期待感を持たせてくれる、というものでもある。実際、トランプが当選した時は普段偉そうなことをつぶやいている国際的エリートが右往左往していたし、あれはここ数年で一番の面白い出来事だった訳で。
今の政権を支持している人たちの呟きを見ると、みんな財務省なり、マスコミなり、北朝鮮なり、そうした強大で悪い連中を今の首相なら倒してくれるんじゃないのか、という期待感に満ちている。
この辺の政治手法は何も今の政権がやっている訳じゃない。小泉政権下だってこうした面白さはあった。ワイドショーでは連日首相の話で持ち切りだったし、小泉首相が郵政民営化を成し遂げたのも、党内の派閥政治という旧態依然とした悪い方法、あるいは悪い連中を倒してくれる、そうなったら絶対面白いのでは?という意識があったのではないだろうか。
その次の安倍・福田・麻生はそういうことはなく全く面白くなかったので単年度政権で終わったとも言えるし、民主党が政権を奪取したのも、「我が党なら絶対自民党政権より面白いことになる!」と盛んに宣伝した結果じゃないのかな。
確かに民主党のマニフェストは面白そうな「次回予告」だった。まあ結局のところはギアスを期待したらギルティクラウンだった、とか、寄生獣だと思ったら東京喰種だったって感じでみんな失望したと。
それともう一つ、自分は14年頃まで共産党を志向してたりもしたし、あのくらいの時期までは共産党にも面白いことが出来るんじゃないのか?という期待感は割とネットでもよく目にした気がする。ところが共産党は民進党と組んで自分から野党特有の醜悪でつまらないサイドに行ってしまった。これはどうしようもない。
だから今の政権を指弾する人たちは、まず今の首相くらいの面白さを持ったほうがいいんじゃないのか、と考える。もっとも立憲や希望の人たちの持つ面白さは、今の首相のヒールとしての面白さであって、この人達だけでは到底面白さは実現できないだろうし、また期待することもできない。
弱者がガン細胞となるなら取り除かねばならないし、かといってなりえるからといって弱者を排除するわけではない。
積極的に弱者の一部を強者として格上げすることもない、弱者を最低限は必要としているからだ。
しかし、右翼が弱者の味方であるように振舞う、また助ける存在として現れることがあるのはなぜだろうか。
以下に引用する。
左翼系の団体や文化人は一貫して「貧困者を社会の敵にしている」と主張し、同番組の放送中止を求めたが 変容してきたのは右翼・保守系の論調である。 ふだんは、豪邸をあてがわれた生活保護需給家庭がいかに地域住民に迷惑をかけているだの 子供ばかり産む下層女はけしからんだの書いているウヨク新聞『デイリーメイル』紙でさえ 「『Benefits Street』は貧困者のモラルのなさを描いているのではない。彼らを作り出した社会制度がモラルに欠けていたということを示している。」と書いた。
一見して、Benefits Streetという番組を介して、
左翼は事実を隠蔽する弱者の敵として、右翼は真実を明るみにし、弱者を擁護する味方として出てくる。
私は右翼は国家有機体説をとっており、左翼は構造主義をとっていると考えている。
左翼からみても構造を維持するために奔走しているので弱者のためではないのではあるが、右翼から見てもそうなのである。
弱者から見れば右翼による構造主義の批判は、現実問題として弱者すなわち私を生み出している構造である。
そうであるならばその否定は歓迎されるものであり、味方のように見えるだろう。
問題は右翼により新しい構造に作りかえられたとして、弱者にとって改善は見込めないだろうということ。
今回はなぜ味方のようにみえるのかということで、正解とは何か思いつかないが。
今回の選挙はかつて無いほどに混沌としている。なので党を超えて立候補者がどんな人物なのかを一覧で知りたい。
与党・野党・自民・公明・希望・立憲・維新・共産・社民などではなくもっと細かく立候補者を選別出来ないか?
リベラル・保守・極右・極左・元民主・元共産・元維新・スキャンダル・元検事・元弁護士・ノンポリ・タカ派・ハト派・改憲派・反原発・原発推進などなど
今回で言えば・鞍替え・泥舟からの逃走者・筋を通した無所属・どこにも入れなかった無所属、なんてタグ付けしてくれれば分かりやすい。
少し前までの民進党なんてそれこそ色んなタグが入りそうだけど、今回の立憲民主党が出来たおかげで綺麗に別れているかも知れない。
私は今の日本が嫌いだ。リーマンショック以前はアメリカよりも大嫌いだった。しかしそれでも世界3番目の大国。この国がしっかりしなければ、先進国の足並みをそろえて衰退への道に歯止めを掛けることはできない。そこで、私なりの「日本再生プラン」を考えてみた。
まず必要なことは資本至上主義発想の解体だ。良く言われているように、今の日本の諸問題は資本主義の暴走にあって、それに歯止めをかけるものがない。これは良く言えば一時期のアメリカに匹敵する経済構造を支えていた。
しかし今の日本では、資本主義が国家の味方というわけではない。むしろ弊害が増えていて、公務員でも資本主義を嫌悪する人も多い。そんな彼らからすれば「資本主義カースト上位」もモンスター思想家と同じくらい嫌悪すべき存在で、結果的に資本主義を活かしたプランが嫌われる傾向がある。
かつて大きな資本主義が必要だったのは日本の社会そのものが未熟だったからでもあるが、今の日本社会は成熟している。要するに社会主義的な考え方が導入・実践されており、たとえば高度な社会保障が持続化できるようになっている。
欧米各国で広まっている社会主義運動の流れを艦みて、日本はこの際、もう資本主義の拡張を諦めるべきではないか。勇気ある行動で示してほしい。資本主義社会も社畜思想もどうみても同じ側の存在であることは明白だ。旧来型の資本主義思想ときっぱり決別し、社会主義との共生への道を示すことを鮮明にすれば、国民は「日本は変わったな」と評価するはずだ。
日本国民はまとまりがなく「烏合の衆」とされていた。もともとが学生運動崩壊後にノンポリがごった煮になった国民なので、内心極左だった人もいれば極右もいる。その節操なさが日本国民の強みとも言われていたこともある。
ところが実際には、平成のポスト好景気になった時に、これがネックになった。景気回復問題、そして国民の荒れなど、是非が左右できっぱり分かれるテーマに直面した時に、はっきりと決断できなかった。妥協すれば国民は失望するし、一方をとればもう一方を失う。派閥抗争も激化した。
日本は当初、第二次世界大戦敗戦の際にアメリカなどの西側諸国と同盟を組んでいたが、韓国が反発し、戦前問題ではアメリカ人も躊躇するような過激思想が台頭し、2000年代の対中接近路線で一気に友好関係が破綻した。そうしたら、西側諸国との協調関係は崩壊したのである。
なので日本国民が烏合の衆である必要性はない。現状では、なんだかんだで一致団結すべき困難が続いているので、ネトウヨや新自由主義エリートたちが敵ということがわかりきっているのなら、日本国民がすべきは内部にある彼らを忖度することではなく、むしろ追放することではないか。
村田蓮舫がかつて述べた「私は多様性の象徴」という言葉にあるように。多様性こそが今の日本社会に必要なことなのである。日本社会の敵が右翼カラーの全体主義に陥る中、日本国民が示すべきは寛容な多様性主義である。そのために、まず右派なんか追い出したほうがいい。
日本社会のもとに集まるべきは、新自由主義エリートでも右派思想でもない人であり、インテリであり、社会主義になびく人ではないか。烏合の衆を脱し、多様性の国民に生まれ変わることも、日本の再起のために必要なことである。在特会みたいな小物右派をさっさと追放しろ。
かつて日本は藩閥社会(江戸時代のエリートの末裔)、帝国主義(天皇制シンパ)という大きな権威を抱える国家で彼らの末裔が総理大臣になったりした。現在も「日本2677年の歴史」であることから現状も帝国主義であると思い込んでいる人が多いが、それは間違いだと思う。日本の現状はどちらかといえばポスト帝国主義国家、つまりそれをブランドにしているに過ぎないのだ。
実際、本当の安倍政権の最大の支持者である藩閥主義者、帝国主義者は東京への搾取で裏切られ、選挙で左翼系が彼らを乗っ取る光景ももう当たり前だ。地方創生や天皇制問題を見ても、美しい伝統を民意を圧殺してぶち壊しているようにしか見えない。形は残っても中身は残っていない。
藩閥主義者や帝国主義者は安倍政権を支持しないが、高齢者なら左翼、若者は極左で大衆なら中道となると、残るは中道でも左翼でもない「右翼」というポジションである。経済面では、エコカーやコンパクトカーや安い車を作っても日本人の車離れは改善せず、公共交通の混雑は市場競争の弊害でむしろ激化するが、政治はちっとも進歩しないのだ。
そこで日本社会がすべきことは、安倍政権が見限った藩閥主義者、帝国主義者の受け皿になりつつ、歴代政権が放置し続けている諸問題(たとえば都市問題や経済問題など)に取り組むことである。ついでに共和制移行も検討してしまえばいい。なぜこれができないのか、不思議でならないよ。
今の持つ層と昔の持つ層と持たない層できっぱり考えが割れる傾向はアメリカを筆頭に共和制の先進国では当たり前になっているが、日本の場合はアメリカのような進んだ政治もなければ果てしなく富裕層を排出するような最高クラスの経済もない。「量産型化」したロボット国民の存在があまりに多いので、現役勝ち組と元勝ち組と負け組で割れない。
これら私の掲げる方向転換を日本国民が実施してくれる可能性はたぶんないだろう。だが、それくらい思い切った変化がなければいけない。あれほど圧倒的な勢いで経済成長できた日本が、わずか四半世紀で好景気終了後に凋落がとまらないのは、国家が現状維持以外の何もできずにいることに国民が失望しているからだ。