はてなキーワード: 初等教育とは
教育問題が取りざたされて久しい。
私はとある私塾の講師として授業を受け持っていて、担当は高校3年生が中心である。
高校生ともなれば、ある程度の学力のばらつきが出るのは当然であり、
高校の授業内容を全員が等しく身につけることは必須ではない。
有り体な言い方をすれば、良い大学を受験したい人はしっかり勉強すればいいし、
そうではない人は適当にやっていればいい。
実質的に教育問題とは、とくに初等教育の問題であると考えてよいだろう。
特に、生活のリズム、社会のマナーを身につける小学校という場について考えてみたい。
一般的なのは、教育系大学あるいは教員養成系教育学部をもつ大学に進学することである。
http://www.keinet.ne.jp/doc/dnj/rank/12/k205.pdf
を見てみると、教員養成系の大学の偏差値は50~55程度が多いように見受けられる。
これらのレベルの大学を卒業した学生が教員となり、現場で児童に教育することになる。
http://www.keinet.ne.jp/doc/dnj/rank/12/k203.pdf
自分の高校時代を思い浮かべてもらいたい。
偏差値70のトップレベル集団と、平均点そこそこの集団は違う。
具体的な人間を思い浮かべてみてほしい。
さて、教育特に初等教育は、親からの目が特に厳しい職業である。
小学校の教員のもとには毎日まさに鬼のようなクレームが寄せられるらしい。
そんな業種として、他に医療が挙げられる。
そしてその医療の担い手として大きな役割を果たすのが医師である。
医師になるためには医学部医学科に入学する必要があり、その偏差値は理系の中でもトップクラスである。
http://www.keinet.ne.jp/doc/dnj/rank/12/k210.pdf
によると、国公立の医学部医学科の偏差値は65~70程度が多い。
教育も医療も、周りの期待が大きい。耐え切れないほどの重圧がのしかかる。
教員の立ち振る舞い方で、児童はいかようにも変わっていく。それが初等教育であると考える。
かつて、私立医学部に入学するのに必要な偏差値は50を切っていた時代があった。
今では軒並み65程度まで上がっている。
医療の現場では、患者やその家族との信頼関係を作るように現場レベルでの指導が行われ、徐々に大学医学部での教育も変容しつつあるようだ。
教育も同じであるべきである。その時に求められるのは教員がいかに児童や保護者との信頼関係を気づいていくか。
それを念頭に置いた教員養成のための教育が、今の限られた教職課程の授業の中で行われているのか。
そしてそれを実現できうるレベルの学生が今の教員養成系の大学に集まっているのだろうか?
教育を本当に志す者のための教員養成機関になっているだろうか?
決して、就職先がない人の掃き溜めであってはならない。
強い信念を持った素敵な教員が増えることを願ってやまない。
文部科学省としてご質問に回答致しますと、全くその通りのご意見でありまして、従来の私どもの教育は場当たり的なパターン問題の処理能力の育成に偏重しており、これは高度経済成長期の工業数学重点主義が現在まで尾を引いているという背景があります。しかし時代が変わり、真の数学者を育成すべきという社会的要求も高まり、私どももそろそろ数学の英才教育および大学レベルの数学を考慮した根本的な数学カリキュラムを思案しているところであります。また、ご指摘のとおり、我が国の数学教育が北朝鮮や中国に後れをとっているのも事実であり、今後は中国の英才教育や特殊訓練などを参考にし、我が国の初等教育におきましても、従来のような欺瞞的な英才教育を廃止し、中国や北朝鮮に匹敵する英才教育を忌憚なく取り入れていく所存であります。貴重なご意見有難うございました。
フィクションにおける古代文明はわりと人類共通の「黄金時代神話(昔はよかった神話)」によるもので、
「黄金時代」の言葉のルーツはギリシャ神話である。ヘシオドスの『仕事と日々』によると、かつてクロノスが神々を支配していた時代が、黄金時代である。
黄金時代には、人間は神々と共に住んでいた。世の中は調和と平和に満ち溢れて、争いも犯罪もなかった。あらゆる産物が自動的に生成され、労働の必要はなかった。人間は、不死ではないものの不老長寿で、安らかに死んでいった。
その後、ゼウスがクロノスに取って代わると、黄金時代は終わりを告げ、白銀時代が始まった。白銀時代の人間はゼウスに滅ぼされ、青銅時代が始まった。以後、神話の英雄が活躍する英雄の時代、歴史時代である鉄の時代と続くにつれ、人々は堕落し、世の中には争いが絶えなくなった。
そうした理想郷が崩壊した理由を行き過ぎた科学に求めるのはSFの手法で、人口に膾炙したのは Final Fantasy のようなRPGゲームの影響が大きい。また、日本社会はアニミズムに親和性のある社会だったし、RPGゲームが出た頃には初等教育で公害問題を学ぶのが普通になっていたので、「理想郷が崩壊した理由を行き過ぎた科学に求める」ことの下地はあった。
Final Fantasy は、「奇跡の力を独占・横領する、あるいはそれを使うことで暴走する」存在が倒すべき悪として描かれているが、これはニューエイジ思想がファッション化され、エンタテインメントに組み込まれたもの。根底にあるのは科学に対する不信感。正確には科学に対する期待外れ感。これは、マルサス的な人口容量の限界を感じる精神と表裏一体。
科学に対する期待外れ感がフィクション作品にどのように反映されているかは岡田斗司夫「失われた未来」あたりで。
今、生き残っている文明は、環境負荷の増大による文明崩壊リスクを人口制限や科学技術の進歩で乗り越えてきているので、TYPE-MOON作品の「抑止力」と呼べるような精神性を持っているように思う(オカルト的発想だけども)。それがフィクション作品に「古代文明の崩壊」という形で表象している。
まぁさておき…誤読の余地がある記述ですみませんでした.こちらの主張としては「文化人になれ」というのは極めて付随的な要素です.
原文の「他の分野」「社会のあちこち」はかなり実務寄りの分野を想定しています.起業家,サラリーマン,教員(初等教育含む),ジャーナリスト,サイエンスコミュニケータ,などなど.ざっくり言うと金を稼げる仕事ならなお良いですよね.
国家戦略としては狭い門に殺到して死屍累々,より他で稼げるとこで稼いでもらったほうがよくありません?
ということで,
は私の主張では全くないことを明言しておきます.
ちなみに,「我々研究者は失職しない」と仰っていますが,その前に競争による選別に触れていますよね.「私は優秀だから問題ない」という自負からの発言なら非常に尊敬しますが,このまま博士を研究職のみに集めると,原則として失職する研究者はかならず出るでしょう,と思われるので一般論としてはその命題は偽だろうと思います.
初等教育の話じゃないって言ってんじゃん、まともに文章読めない奴は偉そうなこと言わないほうがいいですよ?
確かに正確には可換。
しかし特殊な事例として、初等教育の場ではあえて正確さを代償に教えやすさを優先する事がある。
結局のところ、この一連の議論は数式「3×5≠5×3」という大きな釣り針によって、
(※ 追記しました。)
なわけありません。元ネタは
http://alfalfalfa.com/archives/1374811.html
で、
http://kidsnote.com/2010/11/15/35or53/
とかで議論されている。この問題は
の話が混じりあい、おかしな事になっている。
だがそんな中で、「これは数学では全く同じものだから、くだらない、国語の問題だ」とか言って思考放棄してる連中が多すぎて反吐が出そう。おまえら、どうやって掛け算計算しているんだ?3×5=5×3は、定理より導かれる帰結なんであって3×5と5×3が同じ意味なわけがない。
ここでは、「高等教育を習った人向け」に、数学的に5×3と3×5を区別するべきことを説明する。
suzusuke氏も算数科学習指導要領解説から引用していることであるが、数式とは思考過程を表現する言葉(ツール)である。
Aさんがりんごを1個、Bさんがりんごを3個、Cさんがりんごを2個持っていました。合計は?
これに対して、
4+2=6、よって6個
と書いたら、だれにも伝わらない。4って数字がどっから来たのかわからないからだ。
いくら「1+3=4なのは数学的に等価だ!」といっても、それはお前の頭の中であって別の話である。
6であるということを証明するには合計を計算するにはすべてを足せばOKという共通認識を持った上で
1+3+2=4+2=6
と示さなければいけないのである。無論、バックグラウンドで了解が取れるなら
1+3+2=6
といきなり書くことは何ら問題がない。大事なのは「1+3+2」と「1+3+2=6」は言葉として意味が違う、ということだ。どう考えたか、をできるだけハッキリした形で表現できるツールが、数式なのである。
お前らは「3×5も5×3も同じじゃないか」とか言うかもしれない。じゃあ聞きたい、「その同じと言ってる3×5とはなんなのか」を。まさか九九を信用して「3×5=15」のことだ、とは言わないだろう。
ここで、「定義」の必要性が出てくるのだ。掛け算はあまりに普遍的すぎて、そこを忘れやすい。そこで我々は×という記号を
3×5 = 3+3+3+3+3
のような略記である、と「定義」するのである。
ここで、お前らは英語圏では
3×5 = 5+5+5
と定義しているぞ、バカが。と言うかもしれない。そのとおりである。それで一向にかまわない。だが大事なのは「数学は可能な限り簡潔な定義でなくてはならない」ということだ。つまり、
3×5 = 3+3+3+3+3 または 3×5 = 5+5+5
なんて自由度を与える定義はあってはならないのだ。そもそも、計算してみないとほんとに等しいかわからない3+3+3+3+3 と 5+5+5 のどっちでもいいよ、ていうのはwell-definedにならない危険性さえある。とにかく、定義は一つで済むなら一つにするべきなのである。
あくまで定義の仕方が2通りある、ということだ。定義の仕方自体に絶対性はない。そして、日本では前者のほうがしっくりくるから、とりあえず前者で定義している。定義なんだから、ローカルルールも小学生限定もない。そこを履き違えてはいけない。
ちなみにそんなこと数学で習ったことない、という奴もいるだろうが、当たり前である。高等数学では上記のような略記であるとは定義しない。それは0とか負の数とか、小数とかが入ってくると上記の定義では不足するからである。だが、はじめは自然数だけの世界で議論するなら上の定義が一番素直なのである。
では、上記の定義を教えた、という文脈で数学的に「5皿でそれぞれ3つのりんごが乗っている、りんごは合計で?」の解答を考えよう。
15個。
誤答。これは回答になってない。文章中に15という数が書いていないので、どこから15が出現したかわからない。
3+3+3+3+3 = 15、よって15個
正答。3個のものを5皿あるんだから足し合わせるのは自然。式変形は当たり前なので省略したのであろう、当然
3+3+3+3+3 = 6+3+3+3 = ...
としてもOK。
6+3+3+3+3 = 15、よって15個
誤答。たしかに3+3=6だが、それを計算したかどうかが伝わらない。数学的に等価だ、なんて理由にならない。
5+5+5 = 15、よって15個
誤答。文章中に「5個」という言葉が出てない以上、はじめの式の5は「5個」と解釈できない。だから足しあわせた結果はりんごの数を表現しない。
同じ数ずつ乗っているなら1個ずつ配っていくことで数えられる。一周で配れる量は5個で、3こずつ配るから三周する。よって
5+5+5 = 15、よって15個
正答。数式中に現れる5をリンゴの数だと説明しているからである。
3×5 = 15、よって15個
正答。我々の定義に従えば、その2の略記でしかない。
5×3 = 15、よって15個
誤答。我々の定義に従えば、その4の略記でしかない。すると同じ理由で間違い。
3×5と5×3は数学的に等価だ、なんてもう言わないよな?それを認めるとその3でさえ正しい。
数式とは「定義」という共通認識のうえで言葉を話すものであって、別の記述をしたら「偶然正しい」のか「根拠があって正しい」のかわからんのである。
結論は
数の概念を整数一般に拡張させると、掛け算の定義は上記では不十分で、分配結合則など環の性質にその本質があることに気がつき、そこに定義を移すことになるがまた別の話。そこまで行くと公理とは何か、整数とはなにかを考え直す必要が出てくる。そこで可換性自体は代数構造には不要であることにも気づくはずだ。
大事なのは定義を尊重する姿勢と、定義そのものに着目する(そして、定義そのものを疑う)姿勢を合わせ持つこと。ローカルルールだ、とか押し付けだ、とか言っているやつらが、実は一番思考停止してる。
まぁ小学生にここまで考えさせるのは、正直厳しいが上記正答例、誤答例を示してみるくらいはいいんじゃないか、と思う。
トラバが付きまくってるwみんな好きだね。
言いたいことが伝わらなくて、もどかしい。
ここまできて、根拠が「それが普通」だからてお前・・・。
今度はそれが普通であるという根拠を主張しなきゃイカんでしょ。
「普通」には根拠はないだろう。「慣習」と言い換えてもいい。だから、この定義を疑うことが大事。ただ、一番最初に習う定義として、これを使うことが多いということである。
「それが普通だから正しい、それ以外は間違い」に集約される、と。
バカみたいだな。
「普通だから」ではなく、今の文脈では「3×5 = 3+3+3+3+3 を定義として採用するから」である。まずは定義を信用し、それ以外は知らないものとして扱わなければ数学じゃない。
m×0=0
m×(n+1)= m×n+m
まー俺なんぞが独力で導入できるような概念じゃないけど
それで定義すると、m × n = m + m + ... + m (n times) = n + n + ... + n (m times) = n × m が定理になるんだろう。
ようするに、どれが定義かって話じゃん。
そう、上記の「普通」は普通じゃないだろと気がついたときに定義に変更が加わる。そしてこちらの定義のほうが美しい。だから「これが掛け算の定義だ、そしてこれを定義にすればこの定理は明らかだ」という「文脈」では、5×3と書いても3×5と書いてもいい。
文脈についても議論がされているようだが、文脈こそ数式を語る上で重要なものだ。何を定義にするのかというのも文脈だし、どの定理を認めるかも文脈だからだ。
たぶん、5×3も3×5も同じ物と主張する人は可換性を自明としている。それこそが文脈である。しかし数学で何が文脈なのかは、状況によるし、今回は掛け算を定義したばかりなのだから可換性を自明とするのはおかしい。
「1皿につきりんご3個」と表現した時点でそれは3個/皿という比率しか現していない。3個+3個+3個+3個+3個=15個と言いたいらしいが、前処理を済ませない限りその3につけるべき単位は個ではなく個/皿でしかない。3(個/皿)+3(個/皿)+…、おいおい、比率って足せるのかよ?
単位の話をすると少し難しくなる、というか物理がわかんないのでそこを正確に語れない。だが、あなたの主張を通すと 3+3+3+3+3=15 は間違いだ、ということにならないか?これを否定されるとどうしようも無い。
元増田です。
スポーツにおける走り込みや筋トレだって、そのスポーツをやるにあたって「なぜそうするのか」という理論を理解してこそ意味があるのであって、そこを理解せずただ走りこみや筋トレをさせたって、やらなくなったら筋肉はあっという間に落ちるだけ。
まさにわが意を得たり!のたとえ話。
本来「詰め込む」というのはそういうのをわかってやることのはずなんだが、
詰め込んだだけの知識もそれと同じで、詰め込んでいる期間だけは非常によく「できる」けど、所詮底が浅いから、やらなくなったらあっという間に忘れて、将来ほとんど役に立たない。
というものだと思われてるんだよね。情けないことに。
「わかる」ことと「できる」ことは違うんだが、日本の教育は「できる」人間を育てることに特化していて、その実「わかる」人間を育てていないと思う。
ただ、これは難しいところだと思う。とりあえず「できる」ようになってから概念いじくり回してる間に「わかる」ようになるという面もあるし、「できる」ようになる前に「わかる」ことに集中するのはかなり辛くて効率もなかなか上がらない。そのあたりのバランスは個人差もあるから難しいところなんだけど。
遠山啓なんかの功績もあって初等教育ではかなり工夫もなされているんだけれど、それでも
でも、なぜ分母と分子をひっくり返して掛ければ分数の割り算をしたことになるのか、そもそも分数の割り算とはどういうことなのか、それがわかっている人間って、実は少ないんじゃないのか?
というのが現実だからねえ。
まして、カリキュラムが欠陥だらけの中等教育となれば目も当てられないことになる。
こういう教育方法が、模範回答ばかりを求めて、自分で試行錯誤して考えられない人間を育てているんじゃないかと思う。模範回答を出すことが得意な「優等生」は、大学入試までは順調な人生を歩めるが、その後の人生で躓くことになる。
それはどうかな。むしろマニュアルを覚え込むことに従順な奴の方がリア充になりやすいと思うけどね。世間の流行にとりあえず乗っておけば大けがはしないよ。
あと、あなたが引用したnext49氏の日記はちょっと別の問題じゃないかと個人的には思ってる。むしろ「空気を読め」という風潮がそういう学生を作っているのだと言いたい。俺の体感で言うと、「自分の考えがあってもタブーに触れることを恐れる余り、それを口にすることを無意識に禁じている」ような人は結構多いし、実際のところ自分と違う意見を言われるとキレる人間は世の中に多いからそれは正常な適応だと思うんだ。大学の(まともな)研究室というのは忌憚なく議論ができる数少ない場(ということになっている)なんだが、臆病な卒論生にはなかなかそれを実感できないことは多いよ。
http://anond.hatelabo.jp/20100119124726
上のエントリーについて、こちらのブログ(http://d.hatena.ne.jp/dondoko9876/20100118/1263799034)でコメントを頂戴したので、もう少し書いてみたい。
植民地の立場を脱してからはじめて、旧植民地は近代国家経営のお手本としての大日本帝国モデルを自国の発展に生かせたのです。植民地支配体験が韓国民にとって有益になり得たのは、植民地から脱して後のことです。
最初にいただいた反論は、日本の植民地政策は朝鮮人からの収奪のためであって、朝鮮人の生活水準の向上にはまるで寄与しなかったと言う点。こちらのブログでは、その論証として以下の3点をあげている。
まず、第2点目に付いては、むしろ韓国人による起業は植民地時代に始まったものであると言うKohli教授の指摘と矛盾する(上のエントリーを参照のこと)。また、目に見える工場などの資本以外に、経験や知識が蓄積されていたという彼の指摘は無視されるべきではないだろう。
また、第1の点については、当時の朝鮮人の大半は小作農であろうから、朝鮮人地主の土地保有が若干減少したとしても、それで朝鮮人一般が搾取された、収奪されたという結論に結びつけるのは難しい。
重要なのは3点目。朝鮮人の米消費が植民地時代に減少していたと言うこと。これは朝鮮人の生活ぶりに直結しうる大切な指摘だ。しかし、我々は米だけ食って生きているわけではない。代わりにパンかうどんでも食えるのならば、少なくとも私は文句はない。もっと言えば、Quality of Lifeというのは食い物だけで決まるわけではない。教育、娯楽、医療水準、すべて食欲と同程度に重要だ。
で、そんなさまざまな要素を私が知りうるはずもない。ここはやはり専門家の出番だ。で、例によってGoogle scholarにお伺いを立てると、”calories Japan Korea colonization”でど真ん中の論文が見つかった。「植民地時代の朝鮮の生活水準:大衆の生活は日本統治下で改善されたのか、それとも悪化したのか?」という論文がそれで、著者は帝塚山大学の木村教授。ちなみにこの論文はJournal of Economic Historyという、経済史学のトップジャーナルに掲載されており、信頼性は高い。面倒なので最初の要約部分だけ和訳すると、
この論文では日本統治下での朝鮮大衆の生活水準の変化について研究した。世帯辺りの農業収入、農業部門の実質賃金、必需食料品からの一人当たりカロリー摂取量は減少した。一方で、初等教育の履修者数、識字率、生存率は上昇し、また平均身長は少なくとも減少はしていない。この論文では、識字率や生存率、それに平均身長は、他の条件よりも生活環境により直接的に関係している数字であるということを主張した上で、朝鮮大衆の生活水準は植民地化から1940年までの間に向上したと結論付けた。ただし、この問題についてのいかなる概括も、さまざまな要素のどれを重視するかと言う点に決定的に依存する。
言うまでもなく、識字率とはハングルの識字率のことである。もちろん、生活水準などと言うあいまいな言葉は如何様にでも定義できてしまうので、このような研究を胡散臭く思う人も多いだろう。しかし、木村教授はここでノーベル賞経済学者のアマルティア・センの生活水準基準を適用することで、一定の客観性を確保している。これは、資産や効用といった経済学でおなじみの基準を使わず、平均余命や生存率、識字率、栄養摂取などに着目しようというものだ。
ちなみに、木村教授の推計では、米および穀物からのカロリー摂取は1918年までの5年間で急速に向上した後、以降1936年まで年率-0.4%で低下し、それ以降はまた急速に増加している(前者の増加は穀物消費によるもの、後者は米消費の急増によるもの)。これはもちろん好ましいことではないが、この時期の生存率はむしろ改善しており、日韓併合前と比べても朝鮮人の身長はほとんど変化していない。少なくとも、朝鮮人の健康を損ねるレベルでカロリー摂取が減ったわけではなかったようだ。
一方で、男子の就学率は日韓併合直後の20%から1940年には60%へ、女子の就学率もゼロから20%へと、大幅に上昇している。識字率や生存率も統計上有意な上昇を示している。
これらの要素から、木村教授はアマルティア・センの基準に基づいて、
M Kimura (2005), "Standards of Living in Colonial Korea: Did the Masses Become Worse Off or Better Off Under Japanese Rule?", Journal of Economic History.
http://www.jstor.org/stable/2122408
日本は英国なんかよりもずっとましな植民地経営をしたというのが、歴史修正主義や排外主義の立場の人の言い分ですね。
しかし香港やシンガポールは英国の植民地でしたが、素晴らしく発展していますよね。
この点については、Reynolds (1983)の論文が参考になるだろう(著者はイェール大学教授、収録されたジャーナルJournal of Economic Literatureは一流誌)。彼はまず世界中の植民地政策は国によって大きく異なることを指摘した上で、まず日本に言及し、『日本は、自国にあっても植民地においても、いつも経済成長重視の政策を貫いていた。そして日本の統治が朝鮮と台湾の急速な経済成長のきっかけとなったことは明らかである。フィリピンも、アメリカの統治開始以降高度成長を達成している。またイギリスも概して経済成長志向であったが、イギリスは当地の殖民政府へと権限を大きく委譲する傾向があったため、各地の為政者次第でまるで政策が異なる。』イギリスの植民地経営が悪い見本だったと言う主張は、少なくとも私は見たことがない(ミャンマーについては、かなり悪い例に入ると思うが)。一方で、Reynolds教授が「失敗国家メーカー」の烙印を押したのは、ドイツ、フランス、ベルギー、オランダ、そしてポルトガル。アフリカとかでにっちもさっちも行かなくなっている国は大体この辺の国々が荒らし回っている。ちなみに今大変なことになっているハイチの宗主国はフランスである。
http://www.jstor.org/stable/2724912
あの国は自業自得だというなら、逆に韓国の発展は韓国人の努力の賜物だとも言えますよね。
まあ経済発展の要因はいろいろありますから、単純には言えませんね。
教育の普及やインフラ整備はたいていの植民地に施されていますから、日本が特に特別な恩恵を残したとまでは言えないと思いますよ。
後段については上で説明したので繰り返さない。1点のみ付け加えると、前のエントリーで引用したCumings教授は、日本の統治下で朝鮮の鉄道網はアジア最高(日本を除く)のレベルにまで整備されたことを指摘している。
前段については、「北朝鮮が経済成長に失敗したのだから、日本の統治はたいした影響がなかった」という議論はやはり無理がある。韓国の経済成長が韓国人自身の努力の賜物であることは自明だが、努力だけでは補えない経験や技術、各種インフラ、教育制度、官僚機構などを日本の植民地経営がもたらした、というのが前回のエントリーで紹介した「学界のコンセンサス」なのだ。もしそれを「経済成長の必要条件であった(十分条件ではないのは北朝鮮の例から明らか)」と言い換えることが出来るなら、やはり日本の植民地政策は韓国にとって有益であったと言うことは出来ると思う。
これって、穿った見方をすれば、「病気を掘り起こして作り出している」のではないか?
まあそうすることによってクスリが売れればいい、というのが製薬会社のスタンスなんだろうなあ。
アメリカでは「内気は病気です、薬で治ります」と製薬会社がキャンペーンしているらしい。
義務教育課程においては、発達障害に対して特別支援教育をするとかしないとかという
法律ができたそうだが、これも一種の「病気を作り出している」状態じゃないか?
世界一の大富豪、マイクロソフトのビル・ゲイツも、見方を変えれば
昔のアメリカは「無理して病気のレッテル貼りする社会じゃなかった」から、
ビルゲイツは偏見視されることなくビジネス界に進出して成功を収めたが、
「発達障害扱い」をされ、そのまま特別支援教室送りとなり、
ビジネス界での成功はおろか、「まともな社会人扱いすらされない」危険性もある。
※誤解しないでいただきたいのは、
小生は決して「発達障害者は、まともな社会人ではない」と思っていない、ということ。
ただ、残念ながら、世間一般には「発達障害者は、まともな社会人ではない」という偏見が
「病気のレッテル貼り制度(=特別支援教育の促進)」が「逆効果」に
なってしまうのでは?という問題提起である。
ノーベル賞受賞者の半分以上は、何らかのアスペルガー的素質を有している、と言われていたりするが、
最近、「学習障害」(LD)とか「広汎性発達傷害」という言葉が初等教育の場に闊歩しており、
法的にも「学習障害を早期に発見して、対応するように」という法律もできたらしい。(発達障害者支援法)
しかし、その実情は
「建築士マンパワー不足を無視して、学校耐震診断計画を机上で計画する文部科学省役人」
のような世界らしい。
つまり、一般教師の「学習障害とか広汎性発達障害に対応する能力」の向上が見れないままに
うわべだけ「学習障害を早期に発見して、対応するように」と言われても、上滑りするだけである。
というか、そもそも「発達障害を発見するマンパワー」自体が、恐ろしいほど不足している。
笑ってしまうが、小児を対象とした「小児精神科医」は、「診察まで1年待ち」という惨状らしい。
なので、LDとか広汎性発達障害の知識に乏しい素人小学校教師が、聞きかじりの「診断」をしてしまう。
これは職場の先輩の話だが、その先輩の子息が東京に転校した際に、
「この子は不得意教科の偏差値は50位だが、得意教科の偏差値は70~80と、
かなりバラつきがある。」
それでホメられると思いきや
「発達にバラつきがある、だから発達障害だ!」とトンデモ診断を素人小学校教師にされてしまったらしい。
小児精神科医のマンパワーを充実させ、かつ小学校教諭にも正しいLDの知識を刷り込みした後に
LD等対応教育するのなら混乱は最小限になるが、その辺の整備をしないまま、机上プランに基づき
いいエントリでした。旦那様といつまでもラブラブ幸せに暮らせぃ!
ちょっくら気になったことだけ走り書くわ。
http://anond.hatelabo.jp/20090414170900
それはそれで、あくまでも「元増田という個人の主観」を外れた部分においては完全に正しいものだし、
少なくとも彼らがよって立つ学問のレベルにおいては元増田の個人の主観はどうでもいいことだから、
我慢して聞いてください。
http://anond.hatelabo.jp/20090414200916
私は俗に言う「大阪民国人」、在日朝鮮人の友達も普通に学生時からいたけど、
「日本は悪い事をしました!謝れ!」って言ってくる教師達・さからしげな連中は大嫌いだったわ。
「学問」的と言っても、しょうじき初等教育の現場で一方的に加害者認定押し付けられてウンザリしたのを思い出したよ。
沖縄出身の祖母を持つ自分は、一方的に謝罪要求されると本気で殴ってやりたくなって、今じゃ立派な嫌サヨ派。
とりあえず元増田も、元増田の生まれてくるであろうお子さんも、ぼんやり幸せになって欲しいなぁ、という感じです。
支離滅裂でごめん!
目に留まったコラムがあったので急ぎ訳してみた。かなり意訳しているので英語を読まれる方は原文にあたられたい。
「一人一人が自律した社会を手にするための唯一の道(としての教育)」
(It is the only way to have an empowered society)
寄稿者―ヌズハト・フサイン(著者はナショナル・ブック・トラストのディレクター)
私の曾祖母はおそらく教育を受けていません。彼女には四人の娘がいましたが、息子はみな早くに世を去り、土地も一切ありませんでした。当時は、土地と息子を「社会的な安全の担保(social security)」とみなす固定観念が世間に広まっていましたから、曾祖母夫婦としては、それがないのを気にしていたに違いありません。彼女が確固とした先見の明を持っていた人なのか、それとも深い絶望から決意を固めたのか、私にはよくわかりません。でも彼女は娘を学校に通わせ、仕事に就かせました。それは今では極めて普通のことですが、彼女の時代には革命的で、周りから馬鹿にされるようなことだったのです(注1)。
曾祖母の信念の力は、彼女に自律する力を与えただけでなく、三人の娘を含む九人の子全員に教育を受けさせねばならない、という考えを祖母に植えつけました。祖母自身は、8年生まで進学しました。それが、アムローハ(Amroha)の町で、当時女性が到達できる最高学年だったのです。それでも、彼女の学びへの情熱を育むには十分なものでした。それは本当の意味で教育を受けたということです。祖母は本を読み、ラジオを聞き、テレビを見ました。おそらく、彼女がしたことは、曾祖母の手で蒔かれた真の自律の種を根づかせた、ということなのでしょう。
次の世代、彼女の娘(つまり私の母)が、私に教育を受けさせるのは、過去と比べて容易でした。今の私にしてもそうです。昔、私がインド警察職に就くにあたって、家族の反応はどうだったのかと聞かれたことがあります(注2)。この質問は固定観念にとらわれたものです。私はこう答えました。「家族は僕に教育を受けさせ、僕を支え、UPSC試験を受けさせ、合格させてくれたよ」と(注3)。事実祖母は、私がインド警察職に通ったと聞いて、その道に進むようにと背中を押してくれました。私は、この話をするにあたって、教育を大切にする家庭に生まれた自分が、とても幸運だったと認めざるをえません。あのような質問をされるまで、私は家の外の、また別の現実に向かいあわずにすんだのです。しかし、今日ここで書きたいのはそのことではありません。私が取り上げたいのは、とても基本的な問題です。教育とは何か、教育を受けたとは何を意味するのか、というものです。
教育とは何でしょう。
こう言っておいて何ですが、まずは、教育を受けたということが何を意味しないか、ということから考えてみましょう。教育を受けたということは、免許や学位を集めるかたわら、現状に疑問を差し挟まないようにする姿勢を学ぶのではありません。また、個々人の偏見から抜け出さないようにする姿勢を学ぶのでもありません。私にとって、本当の教育とは、人を研鑽と自律の道(the path of evolution and empowerment)へと送り出すものです。私たちはたくさんの科目を勉強しますが、時が経つにつれて大体は忘れてしまいます。しかし学んだ後に残るもの、残るべきものが重要なのです。それは、今までの到達点から更に先へと進もうとする態度(the need to stretch the boundaries)、新しいことを試みながら勘所をきちんと押さえようとする態度(the need to try and find equilibrium)です。例えば、良くバランスの取れた人(a well-rounded personality)と聞けば、XやYやZの専門を学んだ人というのではなく、ある種の心構えと教養を持った人を思いうかべるでしょう。
最後に強調します。教育がなすべきことは、私たちが持っている学びへの情熱に火をつけることです。ええ、貧乏の重みで足がぐらついているときに、教育のような問題について考えるのは難しいです。貧困に立ち向かうのにお金が必要なのは言うまでもありません。ですがその上で、金銭的な支援は常に仕事(work)と結びついていなければなりません。そうでなかったら、それは自尊心をむしばみ、ひいては単に大勢の依存者を生みだすだけになってしまうことでしょう。ただし、お金と仕事を結びつけることが重要なのと同じように、教育で心を豊かにすることもまた必要なのです。ですから、教育は実際に私たちの能力を伸ばし、自律した社会を作り出すのです。それは、正しいことと間違っていることとを区別できる人と社会です。教育は、私たちが持っている想像力を刺激します。私の場合、教育は先へつながる機会への扉を開いてくれました。教育は搾取に対するセーフティ・ネットです。教育をうけた男/女は、より良い生活を送るため、より良い市民であろうと努めるために、学んだ成果を生かすことができるでしょう。見聞を広めた人は、広めたぶん難しい問題に取り組んでいくことでしょう。そして彼らは、子どもたちがより良い機会を得られるよう取り計らうことでしょう。そう、かつて私の曾祖母がそうしたように。
出典:インドの新聞『ザ・ヒンドゥー(The Hindu)』2009年3月9日付
http://www.thehindu.com/mp/2009/03/09/stories/2009030950160100.htm
述べられている時代も教育史的背景も調べられていないので、過去の教育事情を推し量る参考までに識字率のデータを挙げる。
それぞれの調査に制約や統計の取り方の特徴があるようであるが、ここでは全て無視して数字を並べる。その上、元データにも当たっていない孫引きである。詳しくは以下のurlから参照した表1の注記を見よ。一例を挙げれば、1981年に、調査対象者の年齢の下限が5歳以上から7歳以上へ変更されたとのことである。つまり、以下に挙げる識字率はどれも15歳以上の総成人人口に対する割合ではないことにも注意せよ。
赤井 ひさ子、「独立後インドの初等教育及び初等教員養成」、『東海大学福岡短期大学紀要』、9号、2007年、p. 3. によれば、識字率自体は、1951年は18%、1971年は34%、1991年は52%、2001年は65%と報告されている。女性の識字率はそれぞれ9%、22%、39%、57%で、男女間格差も大きい(小数点以下は四捨五入した)。
http://www.pub.ftokai-u.ac.jp/bulletin/2007/2007akai.pdf (pdf注意)
簡単に言えば、インド警察職は、インド行政職などと並ぶいわゆるエリート公務員である。
いつの話かわからないので、その背景も不詳であるが、おそらく以下のような近年の事情からおぼろげに想像されるようなものなのではないだろうかと推測する。
http://www.hinduonnet.com/fline/fl2324/stories/20061215002503300.htm
http://www.hinduonnet.com/fline/fl2519/stories/20080926251908700.htm
http://www.hinduonnet.com/fline/fl1908/19080210.htm
http://d.hatena.ne.jp/arakik10/20090224/p1
これを読んで改めて感じてしまった。
以前は自分が批判される若者の立場にいるから反射的に嫌悪を感じているんだろうと思っていたけど、
若者と言えない年齢になってからも相変わらず「気持ち悪さ」を感じるんで何故なのか整理してみようと思う。
(1)不遜さ。
「以前はマシだった」=「自分はマシだった」という不遜さが垣間見える。
そして「今の若者はこんなこともできんのか、俺はできたぞ」という主張は
たいていは曖昧模糊とした思い出語りの域を出ず、本当にできたという保障はどこにもない。
この態度に僕はこんな疑問を持つ。本当に「昔の自分」と「今の若者」を比べていますか?と。
学生の倍は人生経験のある「今の自分」と「今の若者」を比べていませんか?と。
(2)傲慢さ。
若者語りがされる時「では、どうするか」の視点が欠けている場合が多いような気がする。
「今の若者はこうだ。本当はこうでなければならない。そうするには…」の「そうするには」が欠けている。
ことが教育となるとこの部分を考えるのも言い切るのも難しいけれど、そこが欠けてしまうと単なる愚痴にしかならない。
自分は何にもしないけど、自分の理想の若者像を押し付け、勝手にトランスフォームしろという傲慢さが鼻に付く。
何故、あなたの理想像に合わせなければいけないのか? そうするにはどうすればいいのか? そのメリットは?
(3)切り離し。
何故か若者が語られるときは、話者と若者の因果が無視される傾向にある。
まるで今の若者が脈絡もなく、突然変異的に現れたかのように語る。
今の若者は自分たちが作り出したんだ、という視点が欠けている。
勝手にダメになったんだから、自分たちには責任はない、ダメな若者が悪いんだと説教をする。
そして、同時に入り込んでくる「僕らは大丈夫」のニュアンス(上のブログで言うなら「僕の子供は大丈夫」)。
因果を無視して「彼らはダメだ。僕らは大丈夫」と言ってるだけじゃ、世代間闘争にしかならない。
というか、上でリンクを貼ったブログ主の人は、今現在ダメな若者を作り出している立場にある人じゃあないですか!
(4)責任転嫁。
上記(3)の亜種(セットになって出てくる場合も)。大学で言うならば「大学で教える以前の問題だ」という態度。
「高校の教育が悪い」「いや、中等教育が悪い」「いや、初等教育が悪い」
「いや、親の教育が悪い」「いや、社会が悪い」と責任は繰り上げられていく。
ドリフターズのいかりや長介と仲本工事が演じる「バカ兄弟」というコントがある。
ある日、兄弟の弟(仲本工事)が参考書を開いて一生懸命勉強している。それを見た兄は弟とこんな会話をする。
「何で勉強なんかしているんだ?」
「兄ちゃん、オイラ大学に入りたいんだ。そのために勉強しているんだ」
「ハハハ、やっぱりお前はバカだな。学校っていうのは、頭が悪い奴が頭を良くするために行くところだ。入る前に勉強して頭を良くしたんじゃ、学校に行く意味がないだろう」
僕はこれこそが教育だと思う。大学生の頭が悪いんだったら、そこで優秀にしてあげなければいけないじゃないですか、と。
研究を仕事に選んだ人間は、その「研究内容を伝えるプロ」ではないのだから、研究内容が生徒の役に立つという期待は余りできない。それは当然。だがそれでも彼らには存在意義がある。それは、いわゆる「隠れたカリキュラム」の効果である。
具体的には「苦行的でない勉強観」の呈示。現在の教育現場で、教師が「学ぶ喜び」を生徒に伝え切れているか…というと難しい。『「学ぶ喜び」を感じない人間に教師たる資格はない』と厳しい意見もあるだろうが、現実問題として自分の専門分野の研究を続けている教師、最新の研究に目を通している教師がどれほどいるだろうか?
子どもにとって「人生のモデル」は必要で、大抵の場合自分の親(的存在)が提示する「人生モデル」を見て育つわけだが、より豊かに人生を生きる際に「親とは別の大人」「異なる人生モデル」が有益であったりする。いわゆる「叔父、叔母」が果たす機能。
「教科特別講師」に期待されるのは、一つにはそのような「異なる勉強モデル」である。教師とは異なる「勉強観」を持つ「きちんとした大人」の存在を身近に感じることで、生徒は豊かな刺激を受けることが期待できる。
http://anond.hatelabo.jp/20081119001954
もうAERAも次の号がでてっから売り上げが悪くなるってこともねえだろうし。
まずな、オフィシャルから。
http://www.aera-net.jp/summary/081116_000477.html
最初の2ページの要約だな。要は、高望み女が結婚できないとわめいていますよ、と印象づける。
金持ってないのは門前払い、金を持っている男がたまに合コン出てくるが性格が自慢したがりだったりオタクだったりして気に入らない。金持ってて性格が良いと自分が相手にされない。
◆相手年収は600万超
アエラで今回、30代、40代の婚活中の女性など525人に調査したところ、相手に望む条件として経済的な要素がますます重要視されていた。相手選びで重視するトップ3は、「性格」を除けば「金銭感覚」「職業の安定性」「収入」。相手の理想年収は、600万円以上が8割超、800万円以上に限っても55% に上った。
だが、昨年度の国税庁の民間給与実態統計調査によると、年収600万円以上の男性は3割程度、800万円以上は15%だけだ。未婚の若手世代に限ればさらに割合は少ない。希望と現実の差はかくも大きいのだ。
で、29のおばはん手前のくせに相手の年収は2000万がよい、しかも成金は嫌で生粋のボンボン希望、とか37でバリキャリにもなれずに結婚に一打逆転の望みを掛けるとかいう例が紹介される。
で、婚活ばっかしてるとかえって恋愛できる精神状態じゃなくなるとか、20代が本気出してきてるけど30代40代の君ら大丈夫か、恐怖に震えろ!、みたいな話に行く。
ページ変わって、じゃあ超々高収入の家の奥さんってどんな人というのが紹介される。前のページだと800万とか言ってたけど世帯年収9千万の世界。
するとそいつらは玉の輿にのって贅沢する人じゃなくて、夫にとって専務だったりCFOであるというような人生の相棒なんですよと。容姿より知性ですよと。
もいっこ残酷なグラフが出てきて、女性の年収が多くなると彼氏のいる率が高くなるという。
| 年収 | 彼氏いる | 彼氏いない |
|---|---|---|
| 全体 | 39% | 61% |
| 200万未満 | 26% | 74% |
| 200万以上 | 33% | 67% |
| 400万以上 | 40% | 60% |
| 600万以上 | 60% | 40% |
| 800万以上 | 46% | 54% |
| 1000万以上 | 80% | 20% |
既婚者に聞いたら稼いでる女の旦那はやっぱ稼いでる。
で、ここで婚活中の金持ち男性を一例ひいて「健気アピールする女はうんざり。知的で社交的な人がよい」と言わせる。
じゃあ高学歴有利なのという話しに行くんだがいまひとつはっきりしない。高学歴だと圧倒的に大学の時の人脈で結婚しますというデータをひいてるが、なぜかそこから「あと一押しの力が足りなかった」という30歳女性の一人の体験談に持って行ってしまう。尻切れトンボ。
別の記事では、早婚がよいとも限りませんよコストは確かに安いですけどねと言ってみたり、
http://www.aera-net.jp/summary/081116_000479.html
50歳過ぎても結婚できる!って言ってみたり。
http://www.aera-net.jp/summary/081116_000480.html
あとは結婚してないと親の介護が大変ですよと独身男性をあおる記事があったり…
序盤から中盤までは「婚活で人生の一発逆転なんてできねーんだよバーカバーカ」「身の程を知れよwww」が行間に透けて見えるんだが、これじゃあ「痛いニュース」とか「J-castニュース」だよね。
なのに最後のまとめが変に無難な方向へ空中分解しちゃっててよくわからん。
婚活女性達の今最大の悩みは、結婚したくなる男性との出会いがないこと。知性を磨いた女性達にはそのチャンスはある。後は自分を信じる力だ。
まあなんだ、俺はあと60万ぐらい稼がないと600万行かない年収なんだけど、同世代の女の2割しか許容してくれないんだね。60万あげたらその倍は考慮してくれるんだよと考えればよろしい?はあ。オタクだと二重に駄目なんだね。はあそうですか。
なんかさー、ベトナムとかインドとか行って嫁拾ってこいとか知り合いの団塊おっさんに言われたんだけど、それでも良いやって気になるよ。人権的にはあっちゃいけないことだけどな。俺は女から見たら人じゃないのかなーとかもおもっちゃったしさ。どうせ人でなしなら人でなしやっても良いじゃん。
綺麗で頭が良くて貧困にあえいでる女を紹介してくれないかね?
そしたら「俺が自然に死ぬか、俺の両親が自然に死ぬまで、俺のことを好きだという演技をしてくれないか」って頼むんだ。
そのかわり、日本に連れてきて、俺の妻という立場を与えて、初等教育を教えて、高校と大学に行かせて。望むだけ勉強に投資すっから。俺が死んだら当然財産もやるから。両親が死んだ時点で契約解除したかったら半分以上やるよ。そもそも俺の人生をくれてやる。
http://anond.hatelabo.jp/20081025104047
日本は1979年にこれを批准しているが、その内の「中・高等教育の段階的な無償化(第13条)」については留保している。
第13条
1 この規約の締約国は、教育についてのすべての者の権利を認める。締約国は、教育が人格の完成及び人格の尊厳についての意識の十分な発達を指向し並びに人権及び基本的自由の尊重を強化すべきことに同意する。更に、締約国は、教育が、すべての者に対し、自由な社会に効果的に参加すること、諸国民の間及び人種的、種族的又は宗教的集団の間の理解、寛容及び友好を促進すること並びに平和の維持のための国際連合の活動を助長することを可能にすべきことに同意する。
2 この規約の締約国は、1の権利の完全な実現を達成するため、次のことを認める。
(a) 初等教育は、義務的なものとし、すべての者に対して無償のものとすること。
(b) 種々の形態の中等教育(技術的及び職業的中等教育を含む。)は、すべての適当な方法により、特に、無償教育の漸進的な導入により、一般的に利用可能であり、かつ、すべての者に対して機会が与えられるものとすること。
(c) 高等教育は、すべての適当な方法により、特に、無償教育の漸進的な導入により、能力に応じ、すべての者に対して均等に機会が与えられるものとすること。
(d) 基礎教育は、初等教育を受けなかった者又はその全課程を終了しなかった者のため、できる限り奨励され又は強化されること。
(e) すべての段階にわたる学校教育制度の発展を積極的に追求し、適当な奨学金制度を設立し及 び教育職員の物質的条件を不断に改善すること。
そもそも高等じゃなく中等とかいてるあるけどどういう違いがあるんだろうか。
初等教育=読み書き算数など社会生活に最低限必要な教育→日本では「小学校」の6年
中等教育=高等教育に必要な基礎知識を身につける→日本では「中学+高校」の6年
高等教育=専門家を育成するための教育→日本では「大学」(短大や高専の後期課程も含む)以降
だから元増田の指摘は正しい(子どもの権利条約では中等教育までしか書かれていない)けど、高等学校(!= 高等教育)までは受けられるようにするのがまっとうな国としての責務ですよとなっているのも確か。
まぁ義務教育は中学までしかないけど、現実問題として(特殊な教育を受ける場合を除けば)中等教育を完遂しないというのは日本ではあまり現実的ではないと思う。橋下はなんていうかすげえ現実と離れたところで話してる感がある。
アメリカだって、理系がトップに立ってるのは卓越した文系能力を兼ね備えた理系でしかないし、たとえ純粋なIP(知財)企業であっても理系能力をマネタイズしてくるのは営業だったりマーケティングだったり法廷能力だったりするわけで。
むしろ日本とアメリカの違いは、理系が文系能力を持ってなさすぎることが大きいんじゃなかろうか。
アメリカだと文系理系に関係なく、証券や金融、また労働関連の法規に関する知識は常識だ。ある程度金のある階級であれば小学生レベルの知識になる。これは個人が市場経済の1プレイヤーとして生きていくのに必須の知識であり、知らないと搾取対象になるからだ。
日本では理系はこの手の知識をほとんど持たない。だから容易にカモられるし、理系能力のマネタイズ効率は極めて悪い。労働基準法すら知らないなんて控えめに言っても脳天気な話だ。
これは理系がそういうことを勉強しないのが悪いとかそういう話ではない。初等教育レベルで市場経済についての基礎知識が与えられていない。組織ドリブンな文化的なものもあるし、(奴隷に知識を付けさせないという)政策的なものもある。どちらにしても市場経済においてはこういう奴は負け組になるのが目に見えている。
横レス気味ですが、
学校の先生の仕事ってあくまで教育なのに、親との交渉ごととかまでやらされてるのはおかしい気がする。
父母会とかは生徒とか児童の様子を伝えたり、教育をするための協働作業だから先生が参加して当然ですが、お金の未払いとか、何か問題が起きた時の折衝とか、なんでもかんでも先生にやらせすぎじゃないか?
事務方の人とか、弁護士とか、そっち方面はプロに任せて、もっと先生の仕事の本分に集中できるようにしたほうがいいんじゃないか?と思う。
でもこういうことを言うと、だいたい「えー」っていわれますが。弁護士とか、事務員が入ってビジネスライクにやるのに抵抗がある人が多いよ。