はてなキーワード: 成育とは
NHKの近くで一度すれ違ったことがあるけど、感じのいい人だったよ
やっぱり第一印象がいい人間はすばらしい人間であることが多いな
1986年、東京大学教育学部を卒業し、アナウンサーとしてNHK入局。
「首都圏ニュース845」「生活ほっとモーニング」などを担当し、夕方のローカルニュース番組や生活情報番組に多く出演。
名古屋局時代には登山家の田部井淳子氏と夏の北アルプスを縦走する模様を描いた紀行番組が評判を呼ぶ。
最初に赴任した高松局では、若いアナウンサーが地元ボランティア協会の祭りの司会をすることが恒例だったことから、福祉との関わりが始まる。
東京局時代に自閉症の男性公務員のドキュメンタリーを制作したところ、その番組が反響を呼び福祉関係の人脈が拡大。
男より女のほうが速く年齢制限が来ることと、
「出産可能ではあるが、まだ体が適し切っておらず、子の成育にも複数の悪影響がある若年齢からの出産」はメリットでもなんでもない。
しかも女が早く産むことのメリットをわかっていないから晩婚化少子化につながっているというお花畑な発想は女に責任転嫁しているだけだし、
下手すると「JKと生セッ●スしたいだけだろ?」という推測を招くだけだということを考えるべき。
それに大事なことを忘れている。子どもを育てられる環境じゃなきゃ産みたいが産めるに変わらん。
人間がどんなふうにほかの動物や昆虫や植物と領地争いをして虐殺し撃退して寝る場所を確保してきたかを映画にでもすればいいかもね
人間は動植物の生命の循環の成果である酸素ただ一つ以外、ほかの生物一切の生産物を生活環境において取り入れないどころか排除を徹底してるわけで
家の中で落ち葉が発酵してたりキノコが生えてたり鳥が巣をつくってたり他の動物や昆虫と食料の備蓄をする空間を共有してたりしないよね
共生せずに他の動植物を排除して皆殺しにして一切を立ち入らせずそれどころか塵やほこりや風に舞ってくる動植物の破片さえ生活の空間から毎日排除してる
どうして入れないようにしてるの みんなの成育を阻害する密閉空間を地上にみっしりとはびこらせておいたそのうえで動物と共存とかいってるのおかしいよね
自分が手を下していないからいい 土地を切り開いた人間とか工事をした人間とか清掃をしている人間は残酷な人間だから他の生物を虐待しているし許せないけど
その人たちが働いて作った居住空間で他者を排除してのうのうと生活しているのは自然で美しいのかな
それでよく自分の体の内外でさえ多種の生物と生きていて活かされたり殺してもらったり食べさせてもらったり栄養に変換したりその人生で生み出される唯一の個人生産物である排泄物を処理してもらったりしてることを個別の事で一人でやってることだと思えちゃうよね
全部が連綿と繋がってるから利用して得たり奪われたり変化したあとに引き継いだり引き継がれたりするわけだし命が平等だから同じ地上で循環していってると思うんだけど
循環からぬけまーすってそれもう生命を超えた存在になりますくらいのこと言ってる気がするけどやっぱり生きてくためになにかしら食べるんだよね
食虫植物に落ちた昆虫を助けて回ったりナマコに共生してる魚に自立を促したり寄生して行動を制御する微生物とか昆虫とかに権利を説いたりしてるんだと思うけど他の動植物の成果を得るしか能がない人間は動植物になにをお返しできてるんだろうね
仮に動植物がありがとうとか一緒にいてくれて助かるとかいつもお世話になってますと言ってくれるなら、それは人間が何をしたときなんだろね
ン年前、会社員のころうつ病で休職したら精神病院に連れていかれてテスト(WAIS-Ⅲ)受けさせられた。結果自閉症と診断された。
少なくとも自分が高校時代(2007.4~2010.3)のころから親や周囲の人から自閉症だなんだと周囲から言われ続けてきた。
しかし自分が自閉症だとは到底思えない。エビデンスも知能検査だけである。
3時間程度の知能検査を受けただけで自閉症認定され劣った人間の枠に入れられることは、正直憤懣やるかたない。
自閉症向けの支援施設に何度か無理やり連行されたこともあるが、はっきり言って自尊心がへし折られて泣きたくなった。
自分は五体満足であり、成育歴をみても「自閉症だよね」というエピソードには乏しい。
自分はアスペだということは周りには隠している。そんなことを周囲に吹聴しても何の得にもならないからだ。
たまに診断書が必要となってもらってくるのだが、診断書に踊る「自閉症」の3文字を見るたびに陰鬱な気分になる。
多分誤診で本当は自閉症ではないとは思いたい…
一方SNS(特にTwitter)を覗くと「私は自閉症です」みたいに自称している人を大勢見かける。何が目的なのかはわからない。
自閉症というのは負の属性であり、少なくとも差異化ゲームの道具やブランディングツールではない。
自閉症はコミュニケーションの問題が生じやすい(と一般的には言われている)ことから、特にSNSのようなコミュニケーションツールでは忌避される属性のはずである。
自閉症の症状を個性だと歪曲する人も散見されるが、障害を個性というのはおためごかし以外の何物でもない。
自閉症で成功した人も中にはいる。そういうのは自閉症だから成功したのではなく、それ以外の特技があったから成功したのである。
「日本人の○○さんはすごい、だから日本人の自分もすごい」と何ら変わらない論法だ。
ほかにもいろいろあるけどまあこんな感じ
それは「社会は容易に親に子離れをさせてはくれない」ということだ。「子どもの“成功”は親次第」というプレッシャーもハンパない。
国内最高峰と言われる大学に複数の子どもを入学させた母親の育児法(学習時間を捻出するために母親がドライヤーで髪を乾かしてあげると文字で読んだときには仰天した)はメディアでもてはやされるし、天才児の親、成功者の親は幼児期の教育法を紹介する。「スマートチャイルド」を育てようと、意識の高い親の多くは必死だ。
受験に特化した塾はますます専門性を高め、合格するために正解に最短距離でたどりつくための効率よい学びを提供する。そして、効率の良い学習法に巡り合えた優秀な子どもたちは、「子どもの能力を伸ばす」と評判の人気校に集まっていく。
子どもが勉強をし続ける根気があるかどうか親が自信を持てない場合には、経済力によって下駄をはかせる方法もある。私の知人では教育理念にほれ込んだ小学校に子ども2人を受験させるために「高級車1台分」の塾費用を払った人、のびのびとした雰囲気の学校に通わせるために3人の子どもの教育に年間800万円かけていると噂されている人もいる。
子どもの人生の選択肢を増やすためには、経済力、情報収集能力、育児リソース(実家のバックアップ体制など)がモノをいう。
ちなみにこのような傾向は、日本だけに限らない。
「“良い”教育=経済力」の構図は、多くの国で顕著になっている。
仮に自分の成育歴が育児に影響するのなら、男も女も農作業にいそしむ貧しいムラで適度に放っておかれ、勝手にやりたい勉強を見つけ、先生がすすめてくれた奨学金によって今よりずっと学費の安かった国立大学になんとか進学できた自分は、子どもを放っておく以外の方法を知らない。子どもにご飯を与えて抱っこをして体を使って思い切り遊ばせ、今日を無事に終えるための「ケア」はできるが「現代の教育の正解」を提供することができない。
学校の先生は昔のように「君の偏差値なら、このくらいの学校を受験しよう」とはアドバイスしてくれないから、親が主体的に学習塾を選び、進路選びをサポートしなければならない。
良い大学に入り、良い会社に入れば、一生安泰だと考えられていた頃には、学歴競争が過熱していた時代もある。多くの父親が「企業戦士」に徹する陰で、「教育ママ」が奮闘していた家庭もあっただろう。
一方、現代の「良い教育」とは、子どもが自分らしい人生を歩み、人生の選択肢を増やすための「生存戦略」という一面がより色濃くなっているようだ。そして、その戦略には金もエネルギーもいる。親と子が一体化して、教育のための情報収集をして、親が子どもを鼓舞し、叱咤激励し、共に進路を選んでいく必要性がある。
結果、平等と仲良しが建て前の教室の中で、子どもたちは、見えない競争に常にさらされている。
教育系メディアで、成功体験とともに頻出する親の言葉だが、はっきりいって、そんなケースはほとんどない。
教育基本法では「教育の機会均等」の条項に「すべての児童生徒に同一の教育を与えることを意味するものではなく、個人差に応じる教育を施すものである」という補足がある。この「個人差」が「経済力の差」「親の意識の差」となっている現実がある。
性別が変わらないのは人間が生まれた時からの性を生涯維持するしかない高機能な生物だからだよ
局面に応じて生物としての在り方を変化させる必要があるほど過酷な環境で
それまでの進化系譜を破棄しても遺伝的要素のバランスを変化させることができるほど機能が単純でも汎用的でもない
カエルの外皮とか魚の生態区域とか微生物なんかのような成育範囲のカバーを生物学的な変化で賄うときに
捨ててもいい生体機能がそんなに多いわけではない
人口が減ってきたから知能を制限して無計画におよそ人がすべきとは思えない労働雇用を産出して昭和のバブルを再生しよう
とかいう状況に1生態区域単位ですらできない程度には人間は高機能
そこで生まれた性別が違うからどうのという差別的なものはまた別問題だが人間が高機能ゆえに生き方を縛られている以上
ストレスの発生はあるだろうしそのはけ口を具体的に用意していないと個々で手近な弱者を虐げてそれにすることは
どの生物の環境でも似て存在するわけでそれが理解できるのならば無害なところで具体的な差別を娯楽として存在させるべき
それが空想の世界だったりするのだろうけどそれを制限したいという意思やその情報の存在理由や意義を
小さい時から異様に嫉妬深かった。小中高と朝礼で誰かが褒められるのが辛くて辛くて、立ち眩みしたくてたまらなかったが体はいたって健康だったので無理でとてもつらかった。
今も知らんおっさんとかが理解すらできない功績でよくわからない賞とかとってても辛い。とてもつらい。
小さい頃はすごく優秀だったとか、逆におちこぼれだったとかそういうことは特にない。いじめられてもいないし、いじめても(たぶん)いないと思う。親にも別に否定されずなるべく褒められつつも適度に叱られるなどして愛情をかけられて育てられたと思う。
ちなみに二人兄弟がいる環境で育ち、他はまともに育っているし彼らに教育環境について尋ねても「お前だけ厳しかったとか甘かったとかは別にないと思う」と言われている。兄弟仲も特段悪くなく、すごく仲良しではないが喧嘩になるとか会話が続かないとかはないし、他人行儀というほどでもない。甥姪と遊んだりもする。一人とはタイプが違いすぎるので世間話しかしないが、もう一人とは趣味が合うのでその話などもする。成育歴を思い返してみても、兄妹ばかり構われてた自分だけ干渉されたとかそういう思いでもなく、平等だったと思う。家庭環境も年収一千万の父と専業主婦を頑張ってくれてる母で、両親の中もよく教育費もこちらが頼んだぶんはすべて出して貰えた。教育についてさして不満もない。
ネットで同じような人がいないか探したら、皆、恋愛のことばかりで自分のとはなんか違う。たまに仕事や学問で自分より上の同僚がいて劣等感で辛い…みたいなのを見つけるが、それは特定の人や業界内だけでの感情らしいので自分の汎用な嫉妬とは違うような気がする。
ビビりなのでアンチスレに書き込んだりSNSに悪口を書いたりしたことはない。それは理性云々というより、嫉妬している時間とてもつらいので見ないようにしたいというのが本音だからアンチスレにいるの自体がつらい。アンチ活動してスッキリもできない。
単に性格が悪いだけだと思っていたが、本音が渦巻いているはずのネットでも自分みたいなのを見たことが無い。似たような感じの人がいたら教えてくれると嬉しいです。
「ここに書いてあるのをそのまま見せな」とコメントをもらって、新しいメンタルヘルスに行ったら行動療法?認知療法?を勧められたわ。
成育歴も書き出してみた方がいいと言われて描き出したんだけど、それが結構特殊だったみたいで(おやじとおふくろからの折檻を伴う躾/おやじとおふくろのダブル不倫からの家出&おふくろの投身自殺、祖母の自殺、友人が天災で亡くなり、結婚考えていた初めての彼女を友人に寝取られた)、意外と根っこが深いのでしばらくがんばって治療していきましょうってことだった。「今困っていること」が、「昔困っていたこと」とつながっているんやでって言われてびっくりした。体罰を伴う躾なんて、おっさんの親世代だと当たり前だと思っていたから。
病名とかはつかなかったけど、しばらく投薬治療と、あと気長に行動だか認知療法だか続けていくことになった。それでも根本的な解決にはなっていないかもだけど、そして多分コメントくれた人はみていないと思うけど、「キモイ」という率直な意見も含めて、声かけてくれた人たち、本当にありがとう。匿名だからこそ救われた。
「ここに書いてあるのをそのまま見せな」とコメントをもらって、新しいメンタルヘルスに行ったら行動療法?認知療法?を勧められたわ。
成育歴も書き出してみた方がいいと言われて描き出したんだけど、それが結構特殊だったみたいで(おやじとおふくろからの折檻を伴う躾/おやじとおふくろのダブル不倫からの家出&おふくろの投身自殺、祖母の自殺、友人が天災で亡くなり、結婚考えていた初めての彼女を友人に寝取られた)、意外と根っこが深いのでしばらくがんばって治療していきましょうってことだった。「今困っていること」が、「昔困っていたこと」とつながっているんやでって言われてびっくりした。体罰を伴う躾なんて、おっさんの親世代だと当たり前だと思っていたから。
病名とかはつかなかったけど、しばらく投薬治療と、あと気長に行動だか認知療法だか続けていくことになった。それでも根本的な解決にはなっていないかもだけど、そして多分コメントくれた人はみていないと思うけど、「キモイ」という率直な意見も含めて、声かけてくれた人たち、本当にありがとう。匿名だからこそ救われた。
何の役にも立たないけど、食い尽くし系の感覚が突然舞い降りた瞬間があった
食い尽くし系旦那の話を見かける度に、こんな人が本当にいるのか?と正直信じられなかった
今まで生きてきてそんな人間に会った事がないし、その事を指摘しても話が通じないなんて宇宙人か?本当に大人なのか?と意味がわからなかった
見合だけど旦那が物凄く私のことを気に入ってくれて猛アプローチしてくれた
一年間普通の恋人同士のように付き合いながら結婚準備をして入籍
今まで付き合ったどの人よりも大事にしてくれるし、家事が得意だし、女友達より女心がわかり気遣いが半端ない人だったので
もうこの人を逃して幸せな結婚はできない、この人なら夫婦生活も子育てもなんの心配もないと思ってプロポーズも快諾した
旦那が大事にしてくれる分、私もいまだかつてないほど気を遣って居心地のいい家にしようと努力してる
そんな旦那でも私側からすると所謂恋愛結婚ではなかったから、恋してるとかそんなトキメキはなかった
トキメキやらドキドキやらそんな物より大事な人が見つかったんだと思ってたし今でも思ってる
結婚してからに限った事ではないけど、私はこれまでの元彼の夢をちょくちょく見る
でも旦那の夢はこれまで全く見た事がない
見てるのかもしれないけど覚えておらず、旦那の横で寝ながら前々彼氏とデートした当時の夢なんかを見て目覚めるとなんとも言えない罪悪感に陥った
元々異性交遊に関してはかなりの潔癖症だし浮気したりすることはあり得ないけど、旦那には恋してない事が自覚されて勝手ながら悲しくなったりしてた
旦那が気を遣ってくれて家の目の前のファミレスに行ったんだけど、とにかく旦那が頼むもの片っ端から食い尽くしたい衝動に駆られた
これまでそんな欲求家族にすら湧いた事がないし、そもそもそこまで食に拘る人間でもない
その時はそこそこの空腹にも関わらず、旦那の皿が来るたびに一口ちょうだいと言わずにはいられなくて
3口目くらいでもうこれは異常だと自分でも焦りを感じて、化粧室に逃げ込んだ
職場の人から電話がきたから先食べてて!と言い訳のメッセージを送って旦那がそれなりに食べ進み私の料理がきたころに化粧室から戻った
長々書いてしまったけど、結論から言えばその瞬間旦那の事がファミレスのウェイトレスより空気のような存在に思えていた
目の前に“自分が自由にしていい範疇の”食べ物があるのにその権利を空気のような相手に明け渡す意味がわからなかった
私が食べれるものなのになぜ我慢しなきゃいけないのか、先に相手の物を食べなきゃ私の取り分が減る、取らなきゃ
食い尽くす瞬間の人間って、そこにいる相手の事を本当に環境映像とかBGMとか、そこまで背景的にしか考えてないのかもしれない
その行為をする事でその瞬間相手が顔を蹙めようと、相手が“自分のもの”である事に変わりはなくて、嫌われるとかなんだとか自分が自分の所有物に対して思う事ではないし、みたいな感覚なんだと思う
食い尽くし系は相手を自分の所有物やどうでもいい存在と思ってるか発達傾向の現れかその両方かなんだろうな
そうじゃない、例えば成育環境に由来するものとか別パターンの食い尽くしもあるかもしれないけど
幸い旦那には気付かれずに済んだし、その後同じ発作も起こってない
旦那とはずっと仲良く暮らしていきたいし誰より尊敬してるし一生夫婦でいたいので
自分があの時と同じような状況にならないようストレスマネジメントを徹底しようと思う
私も自分が食い尽くし“系”とは思いたくないですし、あの時限りと信じたいです
でもずっと不思議でならなくて、大事な家族に対して意味がわからないと思っていた食い尽くし系の感覚に自分自身がなった事で、ああこういう感覚なのか!すごい、ここまで相手の人権を無視してるからできる所業なんだ!
と、そのメカニズム?というか心境ががわかった瞬間だったんです
これに更にマウンティングとか相手への悪意まで乗ってきたら本当に心底最低な食い尽くし系の出来上がりなんでしょうね
以前と違って意味がわからんとはならず、ああ、あういう感覚なのね、理屈だけはわかるわ、といった気持ちです
そんな気持ちを理解してしまう自分がしぬほど嫌ですし、再発からの常習になってしまったら舌噛んでしにたいです
潜在的には、こんな気持ちが湧くような感覚で旦那の事を考えてるかと思うと本当に最低だなと思います
どんなに夫婦関係が長くなっても、あの時のような感覚で旦那に接することだけは一生ないように自分を律していきたい
まず私たちのテーブルに運ばれる料理=全て私が食べていいものという認識になって
旦那相手にその自由にしていいはずの料理を「一口もらっていい?」と断り入れることすら理不尽に感じました
なぜ私のものなのに私が好き勝手自由にできないんだ?というイラつき
それを抑えるためにも化粧室に逃げ込みました
2人分が私のものなのに、こちらが旦那の分を確保しなければ旦那に侵食されてしまう!阻止しなきゃ!みたいな
(なお私のオーダーが旦那に取られるという頭は当然なく、これは私が安心して食べれる私だけの分)
そう言えば先日、会社の忘年会のビンゴゲームで同僚のAさん(美人で可愛くてアラフォーだけど社内のアイドル、可愛い物好き)にキュートなぬいぐるみが当たりました
Aさんは喜んでぬいぐるみを持ち帰ったのですが、それを自宅で発見したAさんの次女(15歳)がすかさず「かわいい!これ私のだよね!」と言ったそうです
Aさんの家には自分の手でそれをゲットしたAさんも、同じくぬいぐるみが好きな長女(18歳)もいるのに
「他者をキャラ化したい人たちと自己をキャラ化されたくない人たちの対立」
1.「他者をキャラ化する」ということは、自分の知のあり方の一面を披露することである
1について。
「他者をキャラ化する」ということは「こいつはこういう性質の存在である」という定義付けをして単純化する、ということであるから、その定義付けに際しては定義者が対象をどのように捉えているかが問われる。対象をどのように捉えるかは、すなわちその人間の知覚のあり方を示していて、認知が偏った人間はおおよそ常人の思考とはかけ離れた枠組みで物事を捉えようとし、何を見ても一面的な捉え方しかできない視野の狭い状態になったりする。一方でこの定義付けが上手い人間は、「キャラ化する」ことを通じて新たな視点を提示したり、今まで人々が上手く言語化できなかった部分を補完して共感を呼ぶことができたりする。つまり、物事を他人に共感させるような定義付けには、幅広い知識や的確な言語センスが重要になってくるわけで、それは普段その人間が世界をどう認識しているかという問いに対する答え(の一面)にほかならない。「キャラ化」とは戦略的に行った場合、大喜利のような知的総合力の結集体ともいえる。
2について。
上記のように、「キャラ化」とはその人の知的成果であり、使いようによっては人々に影響を及ぼすことができるわけだが、そのためには表現が洗練されている必要がある。冗長でポイントを外した表現は共感を呼ばないし、あくまで簡潔である必要がある。しかし人間という存在は誰しも複雑であり、一面的に捉えられるような存在ではない。一見同じような存在に見えても、人によって趣味嗜好や成育環境は異なっており、それぞれの微妙な違いが結果として多様性・複雑性を生んでいる。そういった背景を無視して「あいつはこうだ」と決めつけることは一般的には無礼な行為であり、まして人間関係を持たない赤の他人にされるのは誰しも不快に感じるだろう。「キャラ化」とはそういった攻撃性を孕んだ上で成り立っているのである。
討論において、論敵をキャラ化するということは聴衆の共感を得るのに効果的であるというメリットの他に、上に述べたように相手を軽んじているという態度を表出するという攻撃的な効果もある。これがメリットであるかデメリットであるかは、議論をどういう目的でどこに着地させるかによって大きく異なるわけだが、この手法を選好して用いるということは基本的は論敵を侮辱してやるという「メリット」をとったということだろう。こういった敵対的な態度で行う議論に生産性はなく、何か成果らしきものがあるとすれば、「あ、なんとなく分かってはいたけどこいつとはやっぱ相容れないんだわ」とか「こういうやり方で討論やってても現実問題の解決は遠のくだけなんだな」とい諦め半分の気づきくらいなんではなかろうか。
端的に言うと「こうなんのみんな分かってたよね?分かっててなんでやったん?なんで?ヒマなん?」って感じなんだが、わざわざこういう徒労に時間を費やしてくれている人がいるおかげで世界は更新されているんだと思うので尊重するようにはします。行動力ある人えらい。
芽が出ても、結実する前にすぐ摘んでしまう。
無論、土壌が揃っていないのが悪い。
風通しの悪い環境ではどんな選りすぐりの優れた遺伝子も、萎びて腐ってしまう。
瑞々しい若葉が生え揃う季節、同じような存在と追い越し追い越されしながら大きく成育していく筈だった。
私は水は欠かさなかった。だから自然と伸び行くものだと思ったんだ。
恐らく、熱帯の乾燥した気候に適していれば問題はなかったろうが。
人は植物でないから、独立独歩し縦横無尽に歩き回り最適な場所を探す事に躍起になっている。絡みついた蔦のような関係性を捨て去り、鳥に憧れながら地上を這うように歩く。星を指差しながら、遥かなる宇宙の歴史を案内に、か細い月明かりを道標にまだ陽の登りきらない夜闇の中すら歩き続けた。
空に手を伸ばすには、まだ遠い。