はてなキーワード: 李朝とは
貧しかった学生時代の名残だろうかと思いながら生活してきたが、30代になっても全然変わらない。それどころか使い古されたものの方が好きになってしまった。中古品には誰かの影が残っていて、耳を傾けるとものを言う。昔の何気ない日常を熱心に語る。そういうのを聞くのがすごく好きだ。
車も中古車だし、服も靴も半分は中古だ。椅子は中古のコンテッサ。パナの加湿器もモンベルのテントもクリステルの大鍋も中古。これは蓋が別売りなのだが、それも中古。鏡面仕上げの隅に磨き傷がある。その他に目立った傷はない。気軽にクリームクレンザーか何かでひと拭きしたところで、粒度が粗すぎたことに気づいたのだろう。
フェールセーフは機能したが、蓋を閉めるたびに自分のミスを突きつけられているようで我慢ならなかったのだ。ところが私は他人である。他人の些細なミスを引き受けるのは容易い。その蓋は「本来そういうもの」なのだ。少し奮発してぴかぴかの鍋を買い、うっかりから無用の傷をつけてしまったことにどうしても耐えられなかった。この悔恨の情が彼女の影を色濃くし、おでんを味わい深くする。
オーブントースターは知り合いの厨房のお下がりだ。ボロボロの佇まいが妙に魅力的で、もう使えないというのに無理を押して譲ってもらった。洗い場の棚にあったもので、戦場の罵声と泡まじりの飛沫にさらされ続け、2015年製とは思えない錆び方をしている。引き取るとき「グラタン用だったから...」と口を濁していたのが印象的だったが、電源を入れると漂うチーズの香りで腑に落ちた。私の好きな磯辺焼きがまずくなるため、しばらく使っていたのだが捨ててしまった。
正直にいうと中古の電気シェーバーを買ったこともある。先回りしておくが、いくらなんでも刃は取り替える。一応健康リスクという言葉くらいは知っている。だが日常的に使いこんだ道具には特別な魅力がある。いずれ中古住宅も買うだろう。割れた石畳が並び、炭酸カルシウムのこびりついた亀の子格子がついているといい。長く使われた板の間はゆるやかに窪んでいて、松の木は取り返しのつかないほど枯れているといい。秋めいてきて、私は出どころのわからない隙間風を止めるのに必死になる。これは懐古趣味が行き過ぎていると思う。
食器も中古の方が好きだ。それもできるだけ多くの人の手に渡ったものがいい。骨董屋も好きだが、掘り出し物を探しに行くというよりは単に古い食器を見に行く。欠けたり萎びたりしているもの、古いものほどよい。こういう目線も一つの美観だと思えなくもないが、その一方で品評基準や技術的なことはあまりわからない。開き直ったように、不完全な主観を甘やかしながらものを愛している。貴重性のようなわかりやすいものなら理解できるのだが、知れば物怖じの原因になるだけだ。かといって知らないまま使って台無しにしてしまっては寝覚めが悪い。人並みの道徳心が働く。したがって、ただ古いだけの日用食器が一番よい。器の前に座った昔の人々を想像しながら、手の中でくるくる回して欠けやひびに入った汚れを眺めるのが好きだ。あまり酒は飲まないが、熱い湯を李朝の徳利に移してから注ぐと、300年前の丸い赤ら顔がうっすらと蘇ってくる。底座はすり減っていないがヒビは濃く色づいている。清潔な卓の上で大切に使われていたに違いない。奥の間の文机には美しい硯が置かれていて...
状態が良い中古もまた良い。大切に扱われてきたものには独特の緊張感がある。タグが破れかかるほど繰り返し洗濯されているのに、型崩れもせずきれいに保たれている服。裏返しにしてネットに入れ、丁寧に洗って乾かしてもらっていたんだろう。自分は几帳面な人ではないので、几帳面の染み込んだ服は神々しくさえ見える。隅に手垢がつくほど読み込んであるのに、折り目の一切ない本を見たことがある。それは大正後期の本で、日焼けして小口にはポツポツとカビが生えていたが、中は一昔前のCGみたいに均一だった。人が何度も開いた本は湿気を吸ってごわごわしていくので、それとわかる。奥付に強い朱色で購入年月日が書いてあった。尾の長い達筆だった。日常生活を勝手に楽しまれるのは気味の悪いことかもしれないが、増田に書くぐらいはよかろと思う。
本は好きでも間の悪いことに古典や思想書が好きだ。浅学なので最先端の思想や技術を吟味するような知識はない。開拓された新天地を後から眺め、「おお」とのけ反ることしかできない。だから勧められて読むことはあっても新刊あさりをすることはない。死ぬまで教わる側だろうと思う。買うのは電子書籍を優先しているが、それはスペースが足りないからだ。遠慮なくびっしり引いた傍線や、付箋や、日付入の署名はいつでも恋しい。折り目もないよりはあった方が好みだ。
新しいものというのは、誰にも使われていないものだ。時代の御沙汰を経ていないものだ。自分には後世に残すべきものを見抜く目がない。最大多数の最大幸福というものが、わかるようでまるでわからない。誰かが作ったものに勝手な理屈でうなずき、あるいは名批評の情熱を譲り受け、誰かの生活を勝手に愛することくらいしか幸福に向けた積極性を持っていない。でも世の中の多くのものの価値は、そこにくっついた誰かの影ではないかという気がする。誰かの生活を愛する時間と時間の間に、それらの記憶と記憶の隙間に、ガスのように後の未来からゆっくりと幸福が満ちてくるのではないかという気がする。中古品を買い漁っているとき、この作用に期待しているという自覚がある。それらを構成するのは自分の記憶でなくとも良いのだ。
作った場所から直接やってきたものが、何か恐ろしい未知の存在に見えることがある。そこに何が宿っているのか、自分の目には判断がつかない。それはひとりでに明らかにはならない。誰かが指摘してはじめて、私達は宿るものの姿を見ることができる。ここまであえてこの言葉を使わずに来たが、どうしても気持ちが悪いので書いておく。私はこれが魂だと感じている。私が勝手にものの中に見出し、呼びかければ話し出す誰かの姿。恋人にもらったネクタイに宿ると感じるもの。死んだ犬の首輪に宿るもの。それに触れた子供の指に宿るもの。それを見た私の目に宿るもの。こうして文字にしたことでどこかのあなたの目に宿るもの。言葉と物とが受け継がれる中で、それは形を変えながら宿主を移り、誰かの指摘によって唯一性を獲得しながら無限に増えてゆく。歴史は生活の集合であり、魂の集合であり、決して失われない無限の価値だ。こういう虚構を片手に中古品を愛でている。あと中古品は安い。そこもいい。
ちょっと昔のネトウヨの言うことは「中国の陰謀がー!」「韓国の陰謀がー!」「在日朝鮮人がー!」レベルだったのだが
最近は「ディープステート」なるものをぶちこまれて更に先鋭化してしまった。
トランプが負けたことを受け入れて元の日常に戻ったのかと思っていたが、違うのだ。
トランプが反旗を翻して「ディープステート」を駆逐する日を彼らは今か今かと待っているのだ。
ディープステートというのは要するに「世界を裏で操ってるめちゃくちゃ悪い組織」らしい。マーベルコミックの世界で言えばヒドラみたいなやつ。
実は一部界隈ではその「ディープステート」をトランプがやっつけた、という話になっていて、だからトランプは彼らに信奉されている。
「ディープステート」の根拠はろくに無いのだが、陰謀論の穴を埋める存在として、また複数の陰謀論の架け橋として便利に使われている。
人工地震、ワクチン、児童誘拐、ユダヤ、安倍晋三は李朝末裔で反日でディープステート
トランプはあちこちのディープステートの拠点を米軍を使って壊滅させ、その拠点から世界の国家予算の数万年分の金塊を奪ってきた
などと彼らは述べており、もう手がつけられない状況だ。
東京五輪のロゴ騒動もひと段落したので、ロゴタイプ、及びシンボルについて、思うところをまとめてみようと思う。
まずは、形態としての美しさがある。
これについては、もはやシンボルマークにおける美は死んでしまった、と言っても過言ではない。
シンボルマークに求められる美は、単純の美である。円や三角形のような、これ以上削れない、というところまで形態をそぎ落として行った先に、シンボルマークに相応しい美がある。
ところが、世の中にシンボルが溢れた結果、先行して作られたシンボルは商標登録され、後発は同じようなかたちを使えない、もしくは模倣であるというレッテルを貼られる、という事態に陥っている。
東京五輪の事案で、佐野案ロゴをあまり気に入らないとは言いつつも、ほとんどの見識あるデザイナーが「最初から作り直した方が良い」とは言わなかった理由がここにある。
シンボルにおいて、単純であることはそのまま美に直結する。しかしながら、単純であればあるほど他のシンボルと類似しやすくなる。
このジレンマを理解している人であれば、あのような騒動に加担しようとは思わない。
外野ながら事の進展に全く暗澹としたが、あの泥沼の中から凛然と輝く野老案が選ばれたのは奇跡的といえる。
具象性、と言い換えてもいい。要するに、「この図は何を表しているのか」ということである。
これは、難しい。なぜか。
シンボルはあくまでシンボルであり、決して具象絵画やピクトグラムではないからである。
上で述べた通り、シンボルマークにおける美は、抽象化し、単純明快に切り取るところにある。
これは、具象性とは正面から相対するものである。多くの場合、両立は出来ないが、
良識あるデザイナーはここで「何とか両立できないか」と腐心する。
社会の中でどのように利用されていくのか、ということを考えたとき、引き伸ばして使われる場合、ポスターの一部として埋め込まれる場合、
またはエンボス加工される場合、はたまた布地に印刷される場合など、様々な利用シーンを想定して作られている。
小さなものから大きなものまで、どんなシーンでも一定のイメージを伝えられるシンボルマークの面目躍如といったところだろう。
この様々なものに使っても問題のない設計は、経験者でなければ難しい部分がいくつもある。
小さく使って潰れないように。多少滲んでも形態が認識できるように。大きく使ってもエレガントなように。別メディアで展開しても色等の統一に困難がないように…など、
気を遣うポイントが大量にある。ただマークを作って終わりではないのである。
この、美と具象性と社会性の区別がついていない人々によって、佐野案ロゴは引き摺り下ろされたと言っていい。
氏にとってはとんだ災難だったろう。
また、五輪ロゴにとどまらず、騒動の際に氏のデザイン事例を「オリジナルではない」としてやり玉に挙げる記事が多く出回ったが、
それらがオリジナルかどうかと、五輪ロゴの問題とは切り離して考えなくてはならない。
仮に、氏のデザイン表現にオリジナルではないものがあったとしても、大きな問題があるとは思えない。
先に述べたロゴの問題と同様、デザイン表現においても、何かを「これがオリジナルだ」と認めるのは大変難しいのである。
少なくとも、平面におけるデザイン表現には、必ず先行事例がある。
これは先行事例がない、と言える例はきわめて稀で、
多くの場合、「先行事例はない」=「先行した権利者がいない」というだけの話である。
過去、デザイナーたちが李朝の民画や、琳派などに参考事例を求めた一端には、
この「先行した権利者がいない」ところを求めた結果という、泥臭い理由もあったのではないか。
そして、不幸にも「表現における先行した権利者」がいた場合であっても、
両者間で話がついてしまえば、我々外野が声を上げる理由などどこにもない。
本来、ワイドショーで取り上げるような話ではなかったのである。
五輪ロゴ問題が下火になった後、今度は築地の移転先、豊洲市場の問題がワイドショーで取り上げられた。
現在では次第に「既定路線が(現実的には)正だった」という像が明らかになりつつあるが、どうも話の構図が似ている。
共通点は「素人が、ドキュメントも読まずに、素人考えのままちゃぶ台をひっくり返す」というところだ。
これらから得られる教訓は、
朝鮮,朝鮮王朝(李朝)の高宗31(1894)年に起こった反侵略,反封建の農民戦争。東学党の乱ともいう。高宗1年,東学第1世教主崔済愚が,邪教を広めたとして処刑された。第2世教主崔時亨は東学の公認を求め,同 29年以降「教祖伸寃」の請願を教徒の大衆行動でしばしば行なった。しかし「教祖伸寃」という宗教的訴えは,かえって狡猾な地方官に農民収奪の口実を与えることになった。そこで農民たちの運動は貪官汚吏の処分など政治的要求へと変わっていった。反乱は同 31年2月全羅道古阜郡の民乱を契機にして始まり,一応の成果を得て解散した。その後政府派遣の按覈使(あんかくし)の不法弾圧に激怒した全琫準は,全羅各地に呼びかけ,5月古阜,泰仁で本格的な闘争に立ち上がった。全羅各地で蜂起した農民軍は白山に集結,大多数が農民で東学徒は少なく,指導者は東学接主であった。全琫準ら指導者は,農民軍を軍隊式に編成,四大綱領を発表し,反封建,反侵略を訴えて広範な農民層の支持を得た。農民軍は黄土峴,長城で政府軍を撃破し全州を占領した。閔氏政権はこれに驚き清国に出兵を要請する一方,農民軍の弊政改革案を受け入れた。全州和約後,農民軍の大半は解散したが,全羅道 53郡に農民軍の自治機関である執綱所が設置され,実質上の政権機関として機能した。日清戦争が起こるとまもなく,全琫準ら農民軍は再起したが,日本軍と政府軍の圧倒的な軍事力の前に敗北した。
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こうご‐のうみんせんそう〔カフゴノウミンセンサウ〕【甲午農民戦争】
1894年、朝鮮李朝末に起こった東学の信徒を中心とした農民の反乱。鎮圧のため李朝政府は清国に派兵を要請、日本も出兵して乱は鎮圧されたが、日清戦争を誘発する結果を招いた。東学党(とうがくとう)の乱。
李朝末期の1894年(甲午の年)に朝鮮南部で起こった農民反乱。圧政に苦しむ農民の間に広まった民衆宗教〈東学〉は1890年代には活動を公然化させるが,全羅道古阜で全【ほう】準(ぜんほうじゅん)に率いられた農民たちが同年2月郡庁を襲撃し,5月以降全羅道一帯に及ぶ蜂起に発展,閔(びん)氏政権の打倒と日本人の駆逐をかかげて各地を転戦した。
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1894年(甲午の年)に朝鮮南部でおこった農民反乱。李朝末期の朝鮮では封建的収奪に反対する民乱が続発し,とりわけ南部地方は開港後の外来資本主義との接触によって矛盾が激化していた。圧政に苦しむ農民の間に広まった東学は,1890年代に入ると活動を公然化するようになった。こうした情勢のもとで,94年2月,全羅道古阜の農民は,規定外の税をとるなど暴政を行った郡守趙秉甲(ちようへいこう)に抗議し,全琫準を指導者として郡庁を襲撃した。
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朝鮮で1894年(甲午の年)東学の信徒が主導した農民戦争。地方官の悪政に反対した全羅道の農民が蜂起したのに始まる。朝鮮王朝政府は鎮圧のため清しんに出兵を求め、清に対抗して日本も出兵、日清戦争の契機となった。東学党の乱。 → 東学
こうごのうみんせんそう
1894年(甲午の年)に起こった朝鮮の歴史上もっとも大規模な農民蜂起(ほうき)。この戦争をきっかけとして、中国、清(しん)の勢力を排除し朝鮮を支配することをねらっていた日本政府は、公使館警護と在留邦人保護の名目で大軍を繰り出し、日清戦争を引き起こした。
当時、朝鮮の民衆は、朝鮮政府の財政危機を取り繕うための重税政策、官僚たちの間での賄賂(わいろ)と不正収奪の横行、日本人の米の買占めによる米価騰貴などに苦しんでいた。それにまた、1890年代の初めには干魃(かんばつ)が続いて未曽有(みぞう)の飢饉(ききん)に悩まされていた。これに耐えかねた農民たちが、日本への米の流出の防止、腐敗した官吏の罷免、租税の減免を要求して立ち上がったのがこの戦争の始まりである。指導者には、急速に教勢を拡大していた民衆宗教である東学教団の幹部であった全準(ぜんほうじゅん)や金開南らが選ばれた。そのため東学党の乱とよばれたこともあった。5月初め、全羅道古阜(こふ)郡で結成された農民軍は、全羅道に配備されていた地方軍や中央から派遣された政府軍を各地で破り、5月末には道都全州を占領した。農民軍の入京を恐れた朝鮮政府は清国に援軍を出してほしいと要請した。ところが、ここで予期しないことが起きた。清軍の到着と同時に日本軍が大挙して朝鮮に侵入してきたのである。朝鮮政府は急遽(きゅうきょ)方針を変更して農民軍と講和交渉を行い、農民たちの要求をほぼ全面的に受け入れることで停戦した(全州和約、6月10日)。
全羅道の各郡には執綱(しっこう)所という機関が設けられ、農民たちの手による改革が始まった。農民戦争はこれで終わったかにみえた。ところが、朝鮮に上陸した日清両軍は、朝鮮政府のたび重なる要請にもかかわらず撤退しようとしなかった。それどころか、日本政府は朝鮮の内政改革を求め、朝鮮政府にこれが拒否されるや、1894年7月23日王宮を占領し、親日政府を組織させた。
清国がこうした日本の行動を批判したのを好機として始められたのが日清戦争である。日本政府は日清戦争と併行して朝鮮を植民地化する政策を推し進めた。この日本の勢力を追い出すため、朝鮮の農民たちは10月なかばになって再決起した。全準たちは東学組織を使って各地の蜂起を統一したものにしようとした。このとき立ち上がった農民は20万人を超えたといわれる。日本軍と朝鮮政府軍を相手にして農民軍はよく闘った。しかし、日本軍の圧倒的な火力の前になすすべはなかった。翌年1月農民軍は壊滅し、全準は3月末、ソウルで処刑された。[馬渕貞利]
[参照項目] | 日清戦争
出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について | 情報 凡例
【崔時亨】より
…92年から翌年にかけて東学の合法化をめざす教祖伸冤運動を展開。94年の甲午農民戦争では,東学本来の非暴力的な教化主義の立場から武力蜂起に消極的で,全琫準らの主戦論と対立したが,のちに農民軍への合流を教徒に指示した。農民軍の敗北後,98年に江原道原州で逮捕され,ソウルで処刑された。…
【朝鮮】より
…しかし,金玉均ら開化派が政権奪取をめざした甲申政変(1884)は内外の困難を克服しえずに挫折を強いられた。一方,民衆の反封建・反侵略変革運動は,壬午の軍人反乱(壬午軍乱,1882)を先駆として,甲午農民戦争(1894)に大きく花開いていく。甲午農民戦争こそ朝鮮社会の近代への移行の決定的転換点となる可能性をはらんでいたのだが,日本の侵略の意図に立つ軍事力の行使がこの可能性を破壊してしまったのである。…
【日清戦争】より
… 朝鮮では王妃の一族閔(びん)氏を中心とする親清派と国王の生父大院君派および金玉均独立派(開化派)が抗争しており,政治は乱れ,官吏の不正や日本商人の買占めで民衆の不満は高まっていた。1894年春,民間宗教東学を奉ずる農民は分散した民衆の不満を結びつけ,朝鮮南部を中心に汚職官吏の掃滅と外国人の排除を求める大規模な反乱を起こし,5月には各地で官軍が敗北するという重大な事態となった(甲午農民戦争)。朝鮮政府は日本に亡命中の金玉均らが農民反乱に呼応することをおそれ,上海に誘い出して暗殺した。…
※「甲午農民戦争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について | 情報
・新羅の建国時の宰相が倭人であり、王家の一つ昔氏が倭人系統であること、また始祖の朴赫居世についても倭人説があること
・大和朝廷による伽耶地域の支配(半島南部における多数の前方後円墳の存在)
・半島における文化的独自性の欠落(あらゆる分野での古典の不在)
・姓が漢族のものであること
・朝鮮征伐が日本と明との戦争であったこと(李朝の軍は明の将の指揮下に入り、和平交渉も日本と明の間で行われている)
・朝鮮通信使が実質的に朝貢使節であったこと(琉球の江戸上りと同じ)
・オンモン(朝鮮文字)がパスパ文字、契丹小字をもとにしたものであり、しかもカナより600年遅れて作られたものであること
・韓国併合の合法性と妥当性
・併合下における近代化の功績
・土地を奪ったという嘘(そもそも土地を持たない極貧小作農が大半。不申告や所有権が証明されないため総督府が接収した土地は
全耕地の3%にすぎない)
・名前を奪ったという嘘(http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/73/Japanese_Name_Change_Bulletin_of_Taikyu_Court
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・言葉を奪ったという嘘(日本統治時代には公教育として朝鮮語・オンモン教育を実施)
・強制連行という嘘(出稼ぎのために密航したのが実態。当時は渡航制限があった。しかも戦後にやって来たケースもある)
・性奴隷という嘘(売春婦。親により前借金の形として売られたのが実態)
・固有語の語彙が乏しく、また日本のように字訓という制度的保証がない状態ですでに語彙のおよそ7割が漢語であること(学術的語彙は9割が漢語)