はてなキーワード: 愛しすぎてとは
政治ネタ。
http://newsoku318.blog134.fc2.com/blog-entry-5489.html
The third wave
その辺りのことを考えたのは、「WAVE」という映画を見つけたから。
http://movies.yahoo.co.jp/movie/THE+WAVE%E3%80%80%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%A4%E3%83%B4/334960/
これは実話を元にした映画で、現代の高校の授業で実験として全体主義を真似してみたら、みんな見事にハマってしまったというもの。
ここで面白いのは右翼だの左翼だの以前の問題として、単に「ルールを作って強く結束する」だけで全体主義に発展するということだ。
さらに注意しなければならないのは、全体主義の魅力の前では理性や合理性、自由と平和を愛する人々や宗教でさえ容易に全体主義に落ち込むことだ。
(命を守るというルールによって結束した中絶反対派が中絶賛成派を殺す事件など、もはや壮大なギャグにしか見えない)。
(矛盾しているようだが、ほとんどのテロリストは自由と平和を愛しているのだ。しかし彼らは「ルールを作って強く結束しすぎた」結果、「自由と平和を愛しすぎて」それを妨害すると思われる相手に暴力も辞さなくなったのである)。
全てのファンは2種類に分けることができる。「データ派」と「思い出派」だ。
参考:http://numbers2007.blog123.fc2.com/blog-entry-1941.html
しかし、「データ派」は「思い出派」をにわかと呼び、ファンとして格下に見ている。
「データ派」にとっては、「思い出派」は受け入れることができない存在なのである。
「思い出派」にとっては、「データ派」が怖い。そしてそれ以上に惨めで可哀想な存在なのである。
参考:http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14119455764
「データ派」は、その対象物に関する知識量でファンとしての格を測る。
基本的な情報は当然に暗記していることが前提であり、裏話やトリビアを仕入れては喜び、披露しては悦に浸っている。
そして、自信と他者の"詳しさ"を比較し優劣を付けるのである。
あぁ、なんて惨めで可哀想な存在なのであろうか。
映画ファンに当てはめるならば、
「データ派」は、俳優は誰々だとか、○○賞受賞だとかを語る人だ。
「思い出派」は、あのシーンが好きとか、このタイミングでBGM流れて感動したとかだ。
(ちなみに、歴史や公開時の時代背景を知らずに作品を評価する人達はファンではない。ただの馬鹿だ。)
デ「一番好きな映画は?」
思「○○です。」
デ「××好きなの?」
思「誰それ?」
思「知らない。」
デ「えっ?(こいつにわかだな)」<優劣を付ける>
思「えっ?(きっとにわかの烙印押されたな)」<恐怖>
デ「えっ?趣味なんでしょ?」<受け入れられない>
「ラースと、その彼女」:コメディじゃないよ。これぞヒューマンドラマだ。
あまりに煮詰まっている。自分の子どもたちを優先順位の一番に出来なくなりそうでヤバいから精神安定剤的にカキコしようと思う。長文申し訳ない。
私は某宗教で育った。アメリカの再臨派から分かれてるのに唯一無二のキリスト教ってうたってるやつだ。
小さい頃から鞭でぶち回されるのは当たり前だったし幼稚園も行っていない。伝道活動に連れ回される中、幼稚園の前を通った。垣根越しに園内を覗いたことがある。にぎやかで楽しそうな世界だった。子どもながらに心臓がぎゅっとつかまれる気がした。
その時代は信者は週三日の集会、週五日の午前午後の伝道活動が当たり前だった。子どもは親と一緒に連れ回された。終わりが来る、とずっと言われ続けていた。高校なんて考えなくていいし、仕事は伝道活動を最優先にしてと言われていた。
小学校に上がってから、学校はとても楽しかったが、出来ない行事も多かった。日本の伝統行事、誕生日、クリスマス……。御神輿をクラスで作成する中、先生に言い、私は一人椅子で本を読んでいた。先生への証言は気の重い作業で、でも仕方なかった。校庭で校歌ダンスがあった時は、一人で膝を抱えて木陰にいた。
私は音楽が好きだった。高学年になってマーチングバンドに入りたかったし、少年団のソフトボールに入りたかった。
だが、諦めざるを得なかった。世との交わりになるし、優先すべきは放課後の伝道活動と集会だったからだ。
中学校になり、私は部活に入りたかった。本当にどうしても入りたかった。この時は多少抵抗したが、会衆の長老を含めて親の説得に負け、仮入部した部活を自分から取り下げた。応援してくれた先生や同級生に、本気ではないと思われ、信用をなくした。このとき多分全力で抵抗していれば順調に年齢通りに社会生活を送れたのだろうが、洗脳も強かったし、親を愛しすぎていた。組織を出るなら殺すと言われ、それに負け、無力感とともに青春を送り始めた。
その後10年思い出したくもないような宗教漬けの日々の後、その宗教を辞めた。
幸いな事に結婚も出来た。子どもにも恵まれた。やりたい場所でやりたい仕事をし、そのためにやりたい勉強をし、好きな家を買って暮らしている。
子どもはまだ小さい。4歳と1歳だ。平日は、保育園に預けている。とてもいい保育園で、子どもたちに毎月の行事をしてくれているし、園も季節感のある飾り付けになっている。リトミックや英語、図工に体育など年齢に合わせた遊びながらの教育もしてくれている。給食もおいしい。ほんと楽しい場所だ。
ふっと気を抜くと、最近子どもにイライラしている。子どもを応援する母親になりたい本心がある一方で、私は人生を取り返したくてたまらないし、たくさんわがままを言える子どもが羨ましくて仕方がない。子どもに嫉妬するのは馬鹿げていると理性が思う一方で、私の中の子どもが、楽しそうな上の子を虐めたがっている。
上の子の2歳後半から3歳にかけてのイヤイヤ期には本当に手を焼いた。自分は大人しい子だったし、常に人目を気にしていた。公園で泣きわめかれたりお店で転がれる気持ちがわからなかった。あまりにもひどいとき、とうとう手をあげてしまった。小さい頃の自分を叩いたようで、夜中吐いて泣けて反省した。だが、その後も元気がよく、私も我慢しすぎて階段から付き落としそうになるよりは、躾の範囲で言い聞かせてその場で服の上からお尻なりひっぱたいた方がよっぽどカラリとお互いのためにいいのではないかと、何度かはしているうちにイヤイヤ期が収まってくれた。
まずいのは、夫はこういう葛藤を理解できるはずもないという事だ。夫は育ちがよく、彼の母親は始終笑っている人だ。子どもも夫も動物も可愛がって楽しむ人だ。
上の子どもが赤ちゃんだった頃、何のためらいもなく行えた誕生日会。幼児期になってから辛くてたまらない憂鬱な会になった。
子どものイヤな面が私に似ている。それがまた私を責め立てる。自分の性格のせいで親からの自立が遅れ、上手くいかなかったのは単に自分のせいだったことに気がつかされてしまった。
気分が沈んだ日は、疲れているから、と言い訳にして、子どもを放置した時間だけが過ぎていく。子どもとの今日一日はかけがえのない日だと分かっているのに。エネルギーのあまっている子どもを休みの日に一日外に出さないで、たまった家事の解消にあてたりすると、もうへこむ。
さて、今朝のことだ。仕事で昇進し、今度はチームを動かすほうになった。チームワークについて、常日頃年下から学ぶ事が多すぎて、自分としては自信がない。学生時代に部活が出来たら経験になったに違いないと思ってしまう。だからつい、夫に学生時代に部活が出来なかった事がいつまでも経験の少なさとして尾を引いていると愚痴ってしまった。すると
と言われ、ついお互いムキになってキレてしまった。だが、こうして文章として起こしてみると、そんなに重いものを裏にして話す方が悪い気もしてきた。
午前中、悲しすぎて棒に振ってしまったから、せめてこれから子どもたちにも夫にもいい一日になるよう頑張ってみようと思う。
だが問題の本質は、分かってほしい人に分かってもらえないと、子どもをだんだん愛しづらくなっているという事だ。だがそれも他力本願な甘えでしかない。
わたしがボードゲームを好む人を嫌う人を嫌いな理由
ボードゲーム自体は好き。完全情報、不完全情報問わずに、人と頭脳で対戦することは非常に楽しいと感じる人でもだ。
またその説明書がものによってはかなりいい加減だったりもする。
そしてデジタルゲームと違ってそれらがきちんと頭に入ってないとゲーム進行が止まったりする。
説明書のコピーだけ与えられて突き放されるのと、経験者がどのようなゲームか説明するのと、どちらのほうが安心感があるだろうか?
大多数が勝ち負けにこだわらない人だろう。
その人たちはゲームの雰囲気や駆け引きを重視している人だろう。
ゲーム内の事故に対して何か言い合うというのも決してつまらなくはない。
一人だけ逃げ遅れて「あいつ、無茶しやがって。」と言ったりとかね。
また、ボードゲームはそのほとんどが運ゲーの要素が高めである。
そして、これまた大多数が運の制御や把握(いかさまと言う意味ではなく確率の戦略的変動や確率を分析した上での状況判断)ができない。
ゆえに運ゲーだから必死になって勝ちを目指すのは・・・という思考に走りがちなのだろう。
私はガチよりなので一応勝ち負けにはこだわる。
ただ、極端なプレイング(特に3人以上の対戦において戦略の研究目的でもなく最初から勝ちを放棄し妨害のみに徹する)は許容できない。
PCゲームならAmazonやらSteamなどで何回かクリックすればほぼ確実に買える。
ボードゲームを遊ぶ人口は本を手に取る人口より少ないが、数万と言う数は決して多くはない。
賞は取れなかったが隠れた名作なようだから買ってみよう・・・と思っても、もうすでにお店に並んでいないことなどざらな世界なのだ。
そのような買う人を批判するのは遠まわしで無意味で無知な業界批判だろう。
おそらくそれは『駄作が比較的多い日本のボードゲーム同人界隈が嫌い』というべきなのに『自分で作るようになる人が嫌い』と勘違いしているのではなかろうか?
残念ながら日本製は商業・同人・オリジナル・コピー問わず、駄作が多いと思う。
(正しくは海外製の翻訳版は、翻訳担当が利益出ると踏んだというお墨付き&先述の買いまくる人が人柱になってくれたりもするため安心)
ノウハウが足りない、テストプレイが煮詰まっていなかった、製作者の誰かが○○○というカードを愛しすぎてしまった、とかいろいろ原因があると思われる。
(というか同人はゴロサークルまである、というか私自身がゴロサークルとは知らずに在籍していた事実がある)
で話は変わるが、たいていのゲーム(それがオリジナルのものであっても)はゲームバランスがあんまりだったりする。
ゆえにドラフトして運を丸くしようという試みが普通に行われる。
ローカルルール・調整が簡単に行えるところがボードゲームのいいところだと思う。
そういう面はゲームが悪いのであって人は悪くないので、批判しないでいただきたい。
「人に教えたい」「自分もなんでも知りたい」「所持したい」「自分も作りたい」
そういう『毎日毎日インターネットにかじりつく知識欲に駆られた人』を批判するだけの人
この増田を読んでる君みたいな『文は読むけど考えない』人が僕は嫌いだよ。
外に出なよ。
きっかけはWHITE ALBUM2のアニメ版のテレビ放送だった。
悪いのは、WHITE ALBUM2のアニメがあまりにグレートだったからなのだ。
起こったのはごく単純なことで、僕はネットでたまたまWHITE ALBUM2 の第1話を見て、久方ぶりにアニメの視聴を開始し、第9話をみて、PS Vita本体と、WHITE ALBUM2のダウンロード版を購入した。それだけのことだ。
そして、アニメ最終話までゲームを開始するのを我慢して、いまこうして正月休みにゲームをクリアしたというだけだ。遣る瀬ない気持ちでキモいサイトを久しぶりに巡って、こうしてどうしようもなく、テキストエディタを立ち上げて、今これを書いている。
冬馬を愛しすぎていたために、"浮気end"(冬馬ノーマルend)の近くまで全く気がつかなかったが、WHITE ALBUM2の物語構造は、裏返しの聖杯探求譚としての"指輪物語"と同じである。それは、冬馬=トラウマを捨て去る地獄巡りの物語なのだ。また、ここから、WHITE ALBUM2の本筋は"浮気end"(冬馬normal end)にあることがわかる。"冬馬end"の"雪菜end"の両者とも、トラウマを想像的に解決するに留まっている。例えば、何でもいい、エヴァでもまどまぎでも、ハッピーエンドの二次創作が描かれるのも、それは原作のバッドエンドという現実があるからこそであり、それに根ざした幻想であるのと同じことだ。
ところで、ギャルゲーにおいて、トラウマをめぐる物語はありふれている。ギャルゲーの歴史に刻まれるべき致命的な傑作である"ONE", "AIR", "Sense off"の3作品を唐突に思い返してみよう。ONEにおいては、トラウマは積極的に表象されない("みさお"という引っかかりのない固有名詞とわずかなテキスト)空虚として、"Air"においては観鈴の劇症発作の原因として釣り合うはずのないあからさまな幻想として、"Sense off"においては宇宙人や超人類といった誇大妄想として存在している。素朴な作品が、トラウマをささやかな心理学や物語に還元するのに対し、先の3作品は、トラウマを表象することの失敗を通じて異様なリアリティを放っていた。
さて、対してWHITE ALBUM2では、凡百の作品と同様に素朴に真正面からトラウマを描きだそうとするかにみえる。しかし、それはいったいなんという力技であったろう! トラウマの原テクストとしての、"opening chapter"を思い返してみよう。高校3年生の文化祭をきっかけとした主人公とヒロイン二人の三角関係の恋は、悲劇的な結末が予告されている謎めいた空間の中で進展する。自分が恋しているかも知れない女のまなざし、謎めいた行動、ほのめかし、光、音楽ー歌とピアノー、いつ痛みに転嫁してもおかしくない、危うい、享楽にも通じる喜び。無意識がすべて通じ合う、情動的な空間。そこにおいては、超絶ギターソロを一週間でマスターすることなど問題ではなく、高めの女に恋されるという奇跡がおきてもおかしくはないだろう。そして予感は、悲劇は成就する。喜びが、光が、その強度そのままにそのまま痛みに転換する。男は女を2人とも失う。女はもう1人の女と男を失う。それは、あまりにも強く3人が結ばれていたことの罪なのだろうーー。
大げさに過ぎただろうか。しかしここまででは、単に良くできたメロドラマにすぎないとも言い得る(その意味では、アニメ版の方が、ほとんどあらゆる意味で原作に勝っていると思う)。しかしほんとうに凄いのが、ここからの周到さである。"closing chapter"の入りがいい。校内ラジオからあっけらかんと流れ出す、"届かない恋"と、春希と千晶との会話のシークエンス。そう、ここでは、トラウマの種は、世界にあからさまに薄く広く偏在している。"opening chapter"では2人以外の女がほとんど存在しなかったのに対し、攻略対象の女がギャルゲーならばそれが当然とでもいう装いで追加導入され、唐突に、我々が慣れ親しんだ、おなじみのギャルゲー形式のギャルゲーが始まる。決定的なことはすべて過去に起こってしまった薄闇の世界と、主人公を慰めるための都合の良い女性キャラクターたち。ここではじめて、WHITE ALBUM2は、"ONE"や"AIR"の出発点にたどり着く。しかし、ここには冬馬が、われわれが本当に愛した女はいない。その女は選択肢に現れない。だからここで進行するのは、ひたすら耐え忍ぶ、息の長い治療の過程である。注意しなければならない。偏在するトラウマは、たえず現在の些細な出来事をきっかけに、"opening chapter"の各シーンをを縦横に引用しつつ実体化する。"opening chapter"における決定的なシーンのみならず、読んだことを忘れるようなささやかな日常シーンさえも、絶えず痛みと後悔をともなう新しい解釈が施される。"opening chapter"のあらゆるシーン、あらゆるエピソード、あらゆるささやかな喜びは、それが不在になってしまった現在に徹底的に対比され、恐るべき呪いに転換される。WHITE ALBUM2がそれを成し遂げるその執念、持続力にには驚嘆せざるを得ない。また、トラウマの作動をここまでつぶさに可視化しえた作品は他に思いつかない。つらく長い治療の過程においては、悪霊を追い払うために、3人のキャラクターが生け贄に捧げられ、物語の都合に奉仕させられ、使い捨てられる。そしてついに訪れた結末。そこでは、聖なる原典、聖なる楽曲が、新たな解釈を施され再演されるだろう。アコースティックバージョンで歌われる"届かない恋"。そこにやっとたどり着いた男と1人の女。まさに寛解という言葉がふさわしい、穏やかな時間。
冬馬かずさが回帰する。それはまさに運命的な、恐怖とも歓喜ともつなないつかない瞬間であり、われわれはただ滂沱の涙を流すほかになす術がない。これは感動などというものではない、あまりに強烈なドラッグを強制的に注入された生体の防御反応としかいいようのない、デトックスの涙である。われわれが唖然とするのは、冬馬のあまりの弱さ、あまりのいじらしさ、あまりの変わらなさである。なにしろ5年もの間ピアノを毎日10時間引き続けながら、その実、ピアノを通じて毎日はるきと会話を続けていたというのだ。なんたる痛切な、ほとんど自傷的な喜び。何も変わらない。何も終わってはいない。そして再会を果たした二人は、おたがい避け難い力でからみあいながら蟻地獄のような愛の日々に巻き込まれていく。もとより、"opening chapter"の神話的な磁場により張り巡らされたリアリティが、"closing chapter"において、はるきが冬馬曜子の雑誌記事を書くあたりでほつれてはいたものの、"coda"のマンションの隣の部屋での生活に至って、ほとんどギャルゲーのように(ギャルゲーだが、、)ほどけさってしまう。われわれは一方で熱が冷めるのを感じながら、しかし、他方では、そこで演じられる距離0の愛の関係、おたがいまるで馬鹿のように傷つけ合い、愛し合うほかはないその様子から目を離すことができない。冬馬がもともと備えていたはずの、凛とした、というキャラクター造形は、ほとんど"浮気end"の最後まで見る影もなくなっている。しかしそれは、最後の最後に鮮烈なかたちで炸裂する。ふたたび悲しみをもたらすために。ふたたび作品に残酷なリアリティをもたらすために。
"浮気end"において決定的なことが起きてしまったあと、いわば、エピローグの序曲ともなる、短い小春日和の瞬間において、ふと、この、ダンテの"神曲"のように長い螺旋を描いて進んできたこの物語の総体、ただ一人のキャラクタのためにすべての女が動員される大伽藍の起源が問われることになる。冬馬は問いかける。なぜ私のことが好きになったのかと。決定的な問いである。そして春希は惑いもせずに答えるだろう。終局において、作者に課せられたあまりの重荷、あまりの苦難のあまり、ほとんどシンジ君のように幼児退行してしまった春希が、もともと持っていた率直さ、本当に貴重な少年らしい生真面目さ、控えめな正義感、雪菜も冬馬も本当にそれが好きだったはずの少年のファルスの片鱗を、かすかに遠くこだまさせながら。
顔が好みだったからだよ!
一目惚れだよ!
これが、この巨大な地獄の起源だったのである。何とシンプルで、何と美しい言葉だろう。ふと、地獄のなかにぽっかりと真空地帯が発生し、なにごともなかったような日常の現実が発生したかのような、はっとさせる言葉だ。大団円といってもよい。我々は涙を飲み込みながら思う。これは、この巨大な物語の終局にふさわしい。しかし、何も終わらない。決して、終わることはできない。だとしても、冬馬は成仏することはない、、、
* * * * *
ギャルゲーにおいて、われわれは徹底的に受け身な、マゾヒスティックな主体たらざるを得ない。ギャルゲーにおいては、本来テキストスキップの機能など必要なく、われわれは、永遠とも思える退屈のなか、ひたすら単調にマウスのクリックを続け、何度でも、水増しされたテキストをめくり続けるだろう。なにがしかの男らしさを発揮するために、全てのヒロインを"攻略"(ギャルゲーにおいてこの言葉ほど空疎なものがあろうか)し、CGをコンプするという仮の目標を設定することはあまりにいじましい偽の能動性としかいいようがなく、雪菜を選んで胸を撫で下ろしたり、"不倶戴天の君へ"に救いを感じてしまうのはヌルオタとしかいいようがなく、よく訓練されたギャルゲーマーは、すすんで空虚のなかに留まり自らの空虚に向き合うことで快感を汲み上げ続けるだろう。そして、画面を閉じてもゲームは終わることがなく、ギャルゲーマーがとるのは、ただひたすらの"待ち"の体勢である。"coda"において、"浮気end"において物語はまた振り出しに、"closing chapter"に戻ってしまった。"opening chapter"の一撃によって生まれた世界は、"coda"によりいっそう強く永遠に閉じられてしまったのだ。われわれは、それらの各シーンをときにふれ思い出しながら、ひたすら待ち続ける。冬馬を。もう一度彼女に会いたい。いや、彼女はいる。われわれは知っている。われわれは、いや、わたしだけが、彼女が全宇宙に偏在していることを疑うことはないだろう。
ここにいたって僕に残されたささやかな唯一の希望は、アニメ版2期, 3期においてよりいっそう美しくバーョンアップした冬馬が再臨してくれることである。もう一度お別れをするために。僕は、つまりは、よく訓練されたギャルゲー的主体は、さよならをいうために、すべてが終わってしまった後の世界で、はてしなく続く終章のなか、冬馬かずさを待ち続ける、、、
『君に会いたくなるから』 ♪会いたかった~君に会いたくなるから~いつか会おう
『遠くても』 ♪会いたくて会えなくて~会いたいの私だけなの?
会えなくて切なくなる~会いたい会いたくて仕方ないよ
『会いたくて 会いたくて』 ♪会いたくて 会いたくて 震える~会いたいって願っても会えない
『love & smile』 ♪君の笑顔に会いたいから~会えない日も見守って
『もっと…』 ♪今すぐ会いたい~今日も会えないの?いつ会えるの?会いに来て
『celtic』 ♪週末会いに行くね~会えない時会いたいよ~今すぐ会いにきて
『September 1st』 ♪またバイトなの?いつ会えるの?
『Yami Yami Day』 ♪『ゴメン今日やっぱ会えない』
『Dear…』 ♪すぐに会いたくて~会えない時間にも愛しすぎて
『LOVE IS BLIND』 ♪考えてたらもう会いたいよ やっと会えたのはいいけど
『Saturday☆Night』 ♪会った気がしない…出会いから数秒で~君と会ったdayz
『GIRLS JUST WANT TO HAVE FUN』 ♪出会いにMake me fun
『Sherie』 ♪君に出会いそして輝き出して
『You are the one』 ♪君に出会いたい~会えますように
『Kirari』 ♪また会えますように
『Dear My Friends』 ♪みんなと笑って会えますように
『君の声を』 ♪会いたくても会えない
『失恋モード』 ♪夢ではいつでもキミに会える~「会いたい」のメッセージ~会えなくなった
『MAKE』 ♪早く会いたくて
『会えなくても』 ♪会いたくても会えない~すぐ会えない君…今は会えなくても
~会いたくて仕方ないよ
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こいつと付き合ったら。
「会いたいの・・・。」
「会えないの?」
「会えるのね!」
「やっと会えた!!」
「もうお別れか・・・。週末まで会えないね・・・。」
「明日会えない?」
「そっか、会えないよね」
「やっぱり会いたい!」
「どうして会えないの?」
本当に死ぬしかないと思ったらさ、何も言葉なんか出てこないんじゃないの。
ああ、やっぱり俺は絶対に自分からは死ねないんだよなぁ。あの人がこの世に生きている限り、俺はあの人のことを見ていたいから。
見ていることしかできない辛さのために何度自分の心を殺しても、肉体が滅びない限り不老不死のこの心は生き続ける。痛覚を延々と継続的に一生抱き、体も心も生きなきゃいけない。今までも辛かったんだから、これからも死ぬほど辛いんだ。覚悟は、………うん、した。
あの人は星なんだ。見えるけど、絶対に届かない。外部から愛でることはできても、絶対に届かない。命を賭けるほどの覚悟をしなければ会いに行けない遠い遠い異国の貧しい農村の女を好きになったとしても、結ばれる可能性がわずかにでもあれば、それは星なんかじゃない。だからあの人は、俺にとって永遠の距離を象徴する、星なんだ。
あの人の長年の痛み。それを俺は勝手に、あの人に一生精神的に干渉できないくせに、誰のためにもならないのに、背負い続けていかなければならないと感じている。少なくとも、あの人が痛み続けてきた数十年を、俺は同じだけ背負いたい。繰り返すが、俺は勝手に、あの人に一生精神的に干渉できないくせに、誰のためにもならないのに、だ。どうしても、どうしても。腐った意地を貫きたいって、貫けって、脳が言ってる。俺は勝手に、あの人に一生精神的に干渉できないくせに、誰のためにもならないのに、誰のせいにもできないようなことを、したい。したいんだ。この想いが叶わないならせめて、あの人が痛み続けた時間を背負って、あの人の心に近付いた気になりたいだけなんだ。
本当はあの人のすぐ近くにいたいけど、あの人の父親にも兄弟にも息子にも孫にもなることなんかできない。だったら、俺は、別の何かになるしかない。そりゃ、俺だって星になってあの人を勝手に見守っていたいよ。でも俺が星になるって、なにが起きたって輝くこともできない無責任な物体になるだけだ。そんなもんになって、あの人の頭上にいてはいけない。じゃあ何になればいいんだろう。わからない。この世に、そんな何かという概念はないのだろう。だとすれば、絶対に見つからない答えを探してさまよい続けるしかない。つまり、今の自分そのものなんだ。そうなんだ。俺は、ただの、俺でしかないんだ。俺以外の何者にもなれない。
ははは、バカだなあ。あの人、じゃない別の道なんかいくらでもあるよ。知ってる。知ってるけどさぁ、今はそれしか見えないんだよ。俺の目はあの人で焼き付いて、剥がせない。心とかいう意味不明の自分が、あの人で支配されている。きっとこういう感覚は誰にだってあるんだろうけど、潰せないんだよ。どうしても。
すぐにその機会があるってわけではないんだけど、次にあの人に会ったとき、俺どうなっちゃうんだろう。会いたくない。あの人は星なんだよ。会っちゃいけないのに。会ったらまた俺、死ななきゃならないのに。でも会いたくて会いたくて会いたくて会いたくてどうしよーもねぇ。顔も見たいし声も聞きたいし笑いかけたい。可愛くて仕方ないあの人を見たい。俺の力で、笑わせたい。どうしよう、俺はどうしようもない。名前の文字を見るだけで、涙が止まらない。今も、涙の内側にあの人がいる。涙なんかじゃ流れていかない。
いやうん、おかしいんだけども。
子供が好きでたまらない。
元々、そこまで子供好きでもなかったんだけど、5歳になる息子が愛しすぎて困る。
仕事を早くおわらせて、子供とかくれんぼ2回、トランプ2回するのが日課。
一緒にグレンラガンを見て、子供がラガンでおれがグレンで宿命合体したりする。
お風呂に一緒にはいって、寝る部屋に一緒に行く。
「パパ、ボクが寝るまでいかないでね」と涙ながらに訴えられ半泣き。
過干渉にならないようにがんばらなkちゃいけない。
ペットじゃないんだ。シツケもしなくちゃとイタヅラしたら説教もするけど。
今日は某イベントの打ち上げがあるので帰りが遅くなる。寂しい。
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みなさん、あざーす!もうちょっとバカでいます。
けど、ほっぺにちゅーするのはもうやめます。
宿命合体は20キロありやがるので辛いです。
俺たちを誰だと思ってやがる!!って言ったらすぐおろします。