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2016-10-02

http://anond.hatelabo.jp/20161002142934

ほぼ同感。

LINEやってないと言うと面倒な顔されるのが辛い。おっさんなので。

酒飲むことは、年間4~5回程度かな。

夜警時間終わったらとっとと帰るべーだし。

コンパニオンは何年かに1度の旅行の時に団員2人に対して1人お願いするぐらい。

宴会&2次会でノーマルね。

セクハラするのがいるので困る。

2016-10-01

田舎消防団の現状を書いてみる

ブコメ http://b.hatena.ne.jp/entry/www.asahi.com/articles/ASJ9W51BZJ9WUOHB00M.html

このトピの続き http://anond.hatelabo.jp/20161002133912

前提として、消防団って主語にしてるけど、消防団運営状態地域地域でさっぱり空気が違っていたり、方法が違ってい

たりするのでとある田舎の一事情として見てほしい。

ちな所属1桁年の末端平団員から視点なのでそちらもお察しで。

まず基本。公設消防消防団とは完全に別組織というお話

公設消防はいわゆる普通消防署中の人正規公務員で、フルタイムで待機やら訓練やら整備やら書類仕事やらしてはる。

自治体ごとに持っている場合もあるし、地方部だと財政厳しいか複数自治体が集まって防災組合を作っている場合もある。

常設なので119すれば10~15分ぐらいで現着できるプロ集団

消防団自治体ごとにある地域防災組織で、身分としては特別公務員かそんな感じだったはず。

警官消防署員・自衛官など非常時緊急招集かかる人は入れない(はず)。

あと副業禁止ががっちりしてる企業勤めの人も入れない(厳密には副業になる)。

組織としては地域ごとに呼称は異なるものの、大ざっぱには自治体ごとに「団」があって、その下の校区単位ぐらいで

「分団」がきて、その下の各集落自治会単位で「部」がある。

上越市場合は広いからもう一段階「方面隊」があるみたいね

棲み分けとしては、公設消防災害に即応可能な常備プロ組織。但し数に限度があるし維持コストもそれなりに必要

消防団は、地域ごとにある程度組織だった活動ができる土着組織で維持コスト比較的小さい。但し練度は低い。

普段、そこここで起きてる一般火災では、十中八九公設消防が先に来て消火しているので、消防団はその消火補助とか

鎮火後に再出火しないか監視とかの役回りになることがほとんど。

消防団存在が効いてくるのは、地震や水害、山火事火山噴火といった広域災害

東日本地震の後では、広島土砂崩れやら鬼怒川決壊やら熊本地震やら岩手北海道の水害やら。

公設消防では数の都合でカバー仕切れない部分を補うのが消防団

こういう広域災害の際に、ご近所一件ずつ回って要救助者の有無を確認して公設消防に伝えたり、自分らでいける分に

はその場で救助したりするのが消防団

ここらは普段のご近所の様子を知ってる土着組織のほうが向いてるわけ(←都会派からはここが気持ち悪いと言われるが仕方がない)



で、問題があると消防団廃止しろって話が出るんだけど、廃止したらしたで、ここらの広域災害への対応

弱体化(100救えていたところが1になるぐらい)するか、完全に対応する体制にするための高コスト税金で支払うかになる。

有事には地域人間でやれば~と言う案もあるだろうけど、指揮系統最初からできてる組織とそうじゃない集団

とでは情報の伝達速度と行動速度に雲泥の差があることはビジネスSE業が多そうなはてな民だとご存じかと思う。

なので、残念ながらそう簡単には潰せないのよね。

話題お金問題に目を向けると、こちらも少々ややこしい。

消防団員特別公務員なので、その自治体から年額おいくらで団員報酬が出ることになっている(これが今話題お金)。

その一方で機材の整備・運営は各集落自治会に委ねられているので、ポンプやらホースやらの機材整備の費用自治会

持ちになる(厳密には、自治会所有の機材を自治体組織消防団運用している形になる)。

団員の権限で使えるお金は、自治体から運営委託費という名目で部(自治会単位)に出る年額2~3万程度で、ポンプ

車両ガソリン代やらでトントンか赤。

その他に、訓練の移動時に車出してもらうお礼やら、機材洗浄の水道代、ちょっとした消耗品、訓練や待機の際の一服

缶コーヒー軽食やらの支出があるので、完全にその部の長の持ち出しになる。

自治会予算積んであればいいけれど、そんな余裕無いところが多いだろうし、自治会長のお宅に毎度毎度一々お願いし

にいって決済とって会計担当のお宅にいって現金引き出してもらって……とお互い大変に手間という問題もある。

なので、消防団(部)の権限で使える資金として、先の団員報酬を部でプールしておいて、そこらの支出や団研修費に

充てましょうやとなってる地域が件の上越市だったんじゃなかろうかと思うんですよね。うちもそうなので。

なんで今回トラブったかというと、入ってもらうときにそこらの説明を通していなかったか、内部でケンカになったか

でしょうなぁと。

こういう体制で回してるところは、委任状を書いて団員報酬の取り扱いを委任してるはずなんだけどね。

委任をすっ飛ばしてたら黒いとは思う)

ここらのお金の動きを知るまえに委任状印鑑押してて、訴えた本人気付いてないとかもありそう。

ぶっちゃけると、出動や大会後の慰労会、慰安旅行やらを全て無くして、警戒待機時の食事缶コーヒーとかも全部団員

個々人の自腹で持ち込みってことにすれば、経費は浮きますよ?

ただ、このご時世、地域のためとか言われても、お疲れ~の缶コーヒーも出せないような組織に入って+α仕事やってら

んねーですよ。ってのが正直なところで、そんなところに誰が入るんだって問題もあるんすよね。。

id:hyogo2009 消防団活動費用本来個人報酬になるはずのお金から捻出しているのが現状。個人渡しだと火災出動せず訓練不参加の幽霊団員がもうかるだけ。活動費用の自腹負担が増えて皆不幸になる。

こちらのブコメであるように、名簿に載ってるだけの幽霊団員が丸儲けという問題もあるし。

なるべく、現場に出てくる人にリターンがあるようにしようとすると、部で集約しておいてって方法は割と有効かなと。

(他に賢い手があるなら教えてね)

id:h20p 本人に直接払ってないのが悪い。だいたい、どうして昔の不便だったときにできたやり方を、現代適応させないんだろうね。アフィリエイトだって簡単に振り込まれるのにね。

id:karatte 最後にこのオチww→“6月の協議会では委員から、各団員の口座への振り込みを求める意見が出ていた。しかし、市はこの日の協議会で「消防団希望」を理由受領委任払いを続ける方針を表明した”

id:tsekine “「消防団希望」を理由受領委任払いを続ける方針を表明” 闇が深い…

id:nakex1 横領として立件すべきだと思うのだけど。というか現代において個別に支払えない事情などないでしょ。

id:shironeko_t "市はこの日の協議会で「消防団希望」を理由受領委任払いを続ける方針を表明した"着服している団体希望を叶えてどうするんだ

こういう現場事情があるんですわ。

id:atama_ii 幽霊団員もそこそこいると思われるので、参加手当とかあってもいいのでは。でも、夜警とか見回りの食事ケチらないでほしいのです。ありがたいし。ただし慰安旅行はクソだ。ピンクコンパニオン代はアカン。

出動手当は出る(らしい)。おねーちゃんは正直勘弁願いたいが、そーいうのが好きな人種が多いのもまた事実で、上手いことつき合っていかにゃならん現実

id:toaruR 経理事務ITを前提に組み直して良い。

ITシステムとか導入しようのない零細手工業環境なんですよね。

全国統一システム消防庁運営提供とかならあるいは。

そしてこの後に「そんな地方田舎に住んでるのが悪い。とっとと都会に移住せよ」って話があるだろうけど、都市部って

公設消防とかに足して人口が多すぎるから、いざとなると公設消防じゃ全く手が足りないのよね。

阪神淡路とかそうだった。

2016-01-06

出初め式も終わったので消防団の話しをしよう

そう、消防団だ。

おそらく増田の中に消防団活動に加わっている人は少ないだろう。

でも僕は参加している。

まり人の知らない話しをたまにはしてみよう。

消防団イメージとはなんなんだろう。

コンパニオンを呼んで税金放蕩三昧みたいな話しをネットで見る。

僕は十年以上消防団に在籍しているが、そんな目に遭ったことはない。実際に聞いたことも見た事も無い。

しかし、そんな事があり得ないかと言われれば、断言はできない。

基本、消防団というもの市町村単位地区単位組織される。

○○市消防団とか××地区消防団とか。

最近自治体財政改革に伴って、地区団は市町村消防団統合されている。

僕の住む自治体では、消防団本部があって、その下に各地区本部ある。

一般的消防団活動と言うと更にこの下、単一から複数行政区守備範囲とする『消防分団』の活動のことを指す。

呼び名は『分団員』で、これが有機的に消防団構成する細胞を言うのがわかりやすいか、ヤクザで言うところの三次団体構成員と言うのがわかりやすいか。

消防団制度としては他分団や他消防団への移籍も認められているが、実際問題としてほとんどの人は最初に加入した分団以外に所属しない。

から、隣の分団や上の地区本部等がナニをしているか、さっぱり解らないのが実情なのだ

○○市消防団の××地区第△分団に所属する僕が語れるのはこの第△分団の中身だけだ。

ちなみに、うちは過疎で超高齢化地区縄張りである

各家庭の長男原則的消防団入団を求められるのが現状である

1.一年ごとに報酬金が貰える。

僕らはボランティアで年間を通じて消防活動従事するんだけど、制度としては定額で年間1万6千円ちょっとが貰える。

年間で20日程は訓練や災害出動、夜警機械整備で手を取られるんだけど、この金額は平団員の報酬である

団長など偉くなるともう少し報酬は増えるが、更に手を取られるので、出世は誰もしたくない。

ちなみに、出動すると出動手当が貰えるが、これは分団が受領して運営費に組み入れられるので僕らが貰うのは基本の報酬だけである

2.消防自動車には乗り放題

消防自動車に乗りたい人には朗報である

所属する分団で機械班などになれば、休日消防自動車ドライブを楽しむことができる。しかガソリン代は消防本部持ちなので分団員に負担はない。

ただし、縄張りから遠く離れれば緊急時対応できない為、十㎞ほどを行って帰ってくるだけである。当然、目立つために買い物などには行けない。

ちなみに、このドライブ権利ではなく義務である

普段、まったく動かさないと消防車バッテリーが上がってしまうし、ポンプ発電機などの機械も定期的にエンジンを掛けないと壊れてしまうのだ。またガソリン機械油も残量チェックしておかないと、突然起こる火事場が長く続いたとき活動できない。

緊急出動時に消防車が動かなかったという他の分団の話しはたまに聞くが、人命が係る場面も多いために笑えない。

3.酒を飲ませてくれる

いよいよ、この辺に興味がある人も多いだろう。

活動費というものが分団ごとに支給され、たとえばヘルメットを買い換えたり、手袋を買ったりするのに使用される。

この一部が飲食費に利用されるのだけど、缶の発泡酒をのませてくれる。

たとえば分団会とか、訓練の後などで。

ただし、予算がないために、格納庫(消防車の車庫)の詰め所で、割り当ては一人三本くらいまでである

つまみは乾き物で、一回当たり千円分くらいの駄菓子柿ピーを十人程度で分けてたべる。

これが、飲食店で酒を飲むなどの話しになると、確かに楽だしおいしいのだけど予算関係から手出しになるので、三年に一回、飲みに行くかどうかである

最近は、飲酒運転厳罰化から飲酒自体をしない人も増えた。飲酒直後に運転は当然しないが、翌朝の検問で引っかかるのが恐ろしいのだ。

無理に酒を勧めることも減った。

ただし、皆が酒をすごく飲むときもある。

火災出動の後だ。このときばかりは皆、いつもよりずっと飲む。

火事場で、燃える炎を見ると、自分か仲間の誰かが死ぬかも知れない危険に近づくと、神経が高ぶって落ち着かない。

こういうときは、自分たちで金を出して酒を買い足す。

うちの分団はまあ、だいたいこんな感じだ。

しかし、先に言ったように隣の分団でさえも活動の詳細は知らない。

毎月訓練をするところもあると聞くし、夜警をしないところもあるらしい。年間報酬を全額積立に回して、酒を豪勢に飲むところもあると言う。

また、何年か積み立てて皆で旅行に行くところもあるらしい。

うちは過疎の田舎だけど、繁華街縄張りにしているところは商店会などからカンパ活動資金豊富ところもあるかもしれない。

から、うちはピンクコンパニオンとは残念ながら無縁だけど、他は知らんとしか言えないのだけど、まあ、これを読んだ皆さんは今年も火元に気をつけて火事と無縁の年になるといいですね。

2015-08-04

被害者は無事保護され怪我もありません、のあと。


大学生のころ、地元を離れて一人暮らししていた。住宅地にある学生マンションに住んでいて、田舎だけど静かだしスーパー郵便局が近くにあって便利だった。その期間中にとある事件被害者になった。

朝の講義に出て、時間が空いたから一回家に帰った。まっすぐの道をぼーっとして歩いてた。そうしたら急に肩を横から抱き寄せられて、おっさんが話しかけてきた。不審者だと思ってびっくりした。高校生のころ露出狂に2度遭遇していたので「またかよ」と思いつつ肩を拘束されてるのでちょっとビビってた。その後、左のわき腹になんか感覚があってまさかと思って見たら包丁が突きつけられてた。

怖くて何も答えれなくて、幸運なことに声かけられた時点で無視して歩いてたから、そのまま2人で少し歩いた。道の十字路で何故か急に解放されて、おっさんが来た道を戻って視界から消えたのを確認してから近く歩いてた人に走り寄った、慌ててて警察の番号がわからなくて聞いた。ちなみに男の人だった。

初めて警察電話して、どんな人か話して、話しながら近くの警察官が来てくれるのを待ってた。外で待ってた時点で危ないし、パニックになってはいたんだろうけど、覚えてるうちに色々言わなきゃ!って必死だった。2人来た警察官男性だったんだけどとくに何も思わなかった。とりあえずざっと話終わると、おじさんが女性警察官を呼んでくれた。すごい逞しいお姉さんが来て、部屋に2人にしてもらって怪我が無いか確認された。自覚してたけど傷も無くて、終わりかな?って思った。パニックも治まって、その日の夜にテストを控えていた私は勉強たかった。被害届出すために警察に来てくれと言われたけど「テストがあるから勉強したいし帰りたい」みたいなことを伝えて、警察に行くのは夜にした。家帰って、もう勉強する時間は無かったので急いで学校へ向かった。道すがらバイト先に用事ができたから休むって電話した。それで、夜警察に行った。親には警察が連絡してくれてて、電話がきたけど「大丈夫だよ〜テストあるから切るね〜」って感じだった。テストで頭いっぱいだった。寝る時も、びっくりしたなあってくらいで普通に寝た。この日1度も怖かったと泣くことも無かった。

私は事件にあったけど無事助かってしか幸運にも無傷だった。ラッキー

の、後。

次の日バイトに行った。遅番で、ホールに出て仕事をしていたんだけど、少ししてから自分がすごく怯えてることに気づいた。パチンコで働いていて、土曜の夜人がたくさんいて中年おっさんがたくさんいて、犯人の風貌に似た(眉毛が濃いとかそんなところ)人がたくさんいた。でも今仕事中だし、と思って続けていたけど、あまりにもどうしようも無くて社員さんに昨日のことを伝えた。「早く言ってよ!」って言われた。帰ってもいいと言われたけどレジ業務の方に回してもらった。机で隔てられてるから大丈夫かな?と思ったけどダメだった。でも多くの人に知られたくはなくてそのまま最後まで働いた。帰りは先輩が車で家まで送ってくれた。その日から寝れなくなった。初めて自分の身に起こったことが怖くなって泣いた。大好きなライブDVDを流したりラジオを聴いたりしながらうとうとした。とりあえずテストが終わるまで待って実家に帰ることにした、親にも話した。早く忘れたいから「帰ってからも今回の話はしないでほしい」ことと「姉とか親戚には言わないで」と伝えた。

私は「怪我が無かった」から自分は大したことないと思っていた。レイプされたわけでもないし触られたのも肩とわき腹だけだし。だから、悲しんじゃいけないと思ってた。私よりもっと酷い人はいると思うことでしんどさからも逃げたかった。1ヶ月ゆっくりして、バイトにも穴開けれないしと帰った。早番ばかりにしてもらって、遅くなるときは送ってもらった。この頃から引きこもりがちになった。

学校が始まって必然的に帰る時間が遅くなった。事件が昼にあってもやっぱり夜の方が怖かった。この頃から気分のムラが激しくて親に引っ越したいと電話たかと思えば心配からそっちへ行こうかと聞く親を拒絶した。一人になりたかった。学校休みがちになって、行くつもりだった留学は怖くてそんなことできなかった。ここから春休みまでの親の対応に私はすごく怒りが残っていて、多分それは今の吹っ切れなさにも繋がってる。どこか怒れる対象が欲しいだけかもしれないけど。

夜中に歩くのは危ないし、音楽聞きながら歩くのも車に気づかないし危ない。そういったことをしなくなったのは、危険認識たからだけど、そうしたいときもある。夜中にお腹が空いたらコンビニ自販機に走りたいし好きな音を聞きながらいたい。数年たってなんにも気にならなくてもそれだけはできなかった。バイトしんどいときには事務作業、早番という形で続けた。普通に暮らしながらも小さいところが変わった。

卒業するまで犯人に会った道は2度と通らなかった。1度だけ夜中に1人で道を歩いたとき怖くて走って帰った。家に着いてから自分が情けなくて泣いた。

もう知らない土地一人暮らしなんて怖くてできない。夜中に誰かと一緒でも出歩くのは怖い。昼でも外に行くのが怖い日もあるし、すれ違う人や後ろにいる人が怖くてたまらない。留学も行けるような気持ちにならなくて、周りからなんで行かなかったのか聞かれるたびに悲しかった。私はイヤホンもしてなかったしケータイも触ってなくて、ただぼーっと歩いてただけ。周りに気を配れない状態じゃなくて、そもそもちらちら後ろを振り返りながら歩くわけもないし、真昼間だし、何も悪くないのに突然起きたことが受け入れられなかった。小さいこから性格まで、あのときで変わってしまった。私は何も悪くないのにしたいことに気持ちの面でストップがかかるのが悲しくて、そんな自分が情けなくてたまらない。男性が怖いというよりは中年おっさんが苦手になった。だからこそその後彼氏もできた。でも触られるのが気持ち悪くてセックス拒否していたらそのうち振られた。もう彼氏いらないと思った。

普通に夜中呼び出されたら飲みに行きたかった。留学に行きたかった。彼氏セックスたかった。音楽聴きながら散歩たかった。

たかったたくさんのことができないまま今に至る。

きっといつか怖くてたまらない日が今よりもっと減るんだと思う。だけど、被害者は無事保護されてもそれに囚われて生き続けているんだと思う。そして囚われてることが犯人の思い通りな気がして余計苦しくなる。事件について触れたほうがいいのか触れないほうがいいのか。忘れたほうがいいのか、受け止めたほうがいいのか。何もわからないから今日も私は友人の誘いを断って家に閉じこもっている。怖くてなんかいも戸締りを確認しながら。助けてって叫んでみるけど触れられると涙が溢れるから、今からどう進んだらいいのかずっとわからないでいる。

以上です。同じような経験をした方で、自分はこう乗り越えたとかありましたら教えてください。

2013-10-14

人生の9割は親で決まる

http://anond.hatelabo.jp/20131013211454

これを見て自分の両親の事を思って、そう思った。

俺がまだまだ元気な両親から与えられたものはとてつもなく大きい

この2つを身を持って示してくれたことは、自分人生のものだと思ってる


両親は本当におしどり夫婦で、俺ら子供たちの前では一度だって喧嘩をしたこともないし

それどころか映画テレビを見てる時には、お袋が親父の膝の上に乗ったりしてるのを見せられてた

親父は厳しい人ではあったけれど、お袋は優しくて、その頃は経済的には豊かではなかったけれど幸せだった

家族ってこんなものなんだって、それが自分ベースになっている

そんな親父が50を超えた頃、俺が大学に入った頃、会社からリストラされた

リストラされた親父がどうなるのかと思っていたら、昔からの夢だったから、と事業を始めたわけだ

心配して、大丈夫か?と聞く俺にお袋は、

わたしはお父さんを信じてるから。万が一の時にも迷惑はかけないか

なんて笑ってる

そんな寂しいこと言うなよ。万一の時は俺が身を粉にして働くから

と返したけれど、不安はないわけじゃなかった。夏休みには夜警で金を貯め始めたりしていたw

そんな俺の心配他所に、親父は大成功しちまった。

10年弱働いて結構な額の資産を作って引退しようかという時になって俺に、後を継ぐ気はあるか?と聞いてくれたけど

から息子が社長ですなんて言っても誰も納得しない、創業以来の部下に席は譲るべきだと、断った

ていうのは、当時の俺にも夢があったからではある。

進学をしたかったんだよね。社会人だったけれど、工学を学びたくて大学院に改めて行きたかった。

社会人として10年近く経ってて貯金もあったし、なんとかなるわいと思ってたんだけど、結局貯金は使わなかった。

試験にも受かり、会社もやめて新生活を始めていこうとしていたところで

親父が俺が大学時代仕送り貰うのに使っていた講座の通帳を差し出して一言、おめでとう。さすがは俺の子だよ、と、言ってくれたから。

そこには少なくない金額が入ってた。

仕事をしてる間も、ずっと積み立てていたらしく、定期的な入金があった。

けれど、金よりも何よりも、その一言が嬉しかった。

さすがは俺の子だよ

認めてもらえたようで、ほんとに嬉しかった。



仲の良かった両親に育てられた兄弟は、それぞれ中学生の頃から付き合ってきた子と結婚して

それぞれに幸せな家庭を持つことが出来ている。

お袋と親父が基準だったから、やっぱ見る目が違ったんだと思うw

子供人生は親で9割が決まるよ

親父とお袋の子でなければ、俺なんて何者にもなれない半端者で終わる程度の能力しかなかったと思う。

大それた夢をもって挑戦し続けてこれているのは、

夢が叶うことを教えてくれた親父とそれを支える家族の大切さを教えてくれたお袋、二人のおかげなんだよ

今の俺が思うのは

俺も息子にとって自慢の親父になりたい

その背中の大きさで人生の素晴らしさを語れる親で居たい

成長して挫折した時にも暖かさを感じて、やがて立ち直る力を与えてくれる家庭を築きたい

そんなこと

ただまぁ、残念なことに、仕事一辺倒の俺には相手が居ないんだけどwまぁなんとかなるわいw

追記

どうも随分と反響を呼んでしまったようだ。夜中に何の気なく書いた記事だったんだけどね。

しかし、考えてもみて欲しい

コメントしてる皆の両親だって

学費を出してくれたり

運動会では動画撮影したり

旅行へ連れて行ってくれたり

サッカーキャッチボールをしたり

自転車の乗り方を教えてくれたり

誕生日にはケーキを焼いてくれたり

クリスマスにはプレゼントをくれたり

熱を出した時には不眠で看病してくれたり

したのじゃないか

ウチは親父が独立するまではお世辞にも豊かとはいえなかったよ。

貧しくもなかったけれど、私立大学へ行かせてくれなんて言えない家庭だった。

から何もかもが恵まれていたわけではないし、多くの家庭のご両親と何も変わらない親だと思う。

ただ、俺にとっては最愛の、最も尊敬する大人だと言うだけだよ。

子供の頃の事を思い出して、ご両親にありがとうと言ってあげてください

2011-03-10

http://anond.hatelabo.jp/20110310135314

核家族サラリーマン家庭て工業化がすすんでからできた家族だよね。

農家だと一家総出になる。

お嫁さんが子ども産んでも育てるのはジジババでお嫁さんは夫と農作業する。

#うちの母はほぼ曾婆さんに育てられたので、

#祖母は母がサラリーマンの父と結婚すると聞いて「自分の子を自分で育てられるからよかったね」と言ったそうだ。

農業だけでは定期収入がなく収入に波があるので夫は外に働きに出たりする。

警備員とか夜警とか、農作業に支障をきたさない系統仕事

豪雪地帯だと冬に出稼ぎにきて、焼き芋売っている人もいたよ。

(冬になると焼き芋売ってたおじさんは青森だか秋田の人だった)

2008-03-26

[]

両親と私、弟二人は、昭和十年に移民団として南洋群島パラオ本島に行き、ここから私の人生が始まりました。

北海道から汽車で揺られ、横浜へ港から一週間の船旅で、小笠原諸島を通過する時は大シケで、全員が船酔いでぐったりして、ココール港に入港して下船し、旅館に落ち着き、二日後に連絡船で私たちの永住する朝日村へと三時間の旅で、ここから一時間歩いて草と小枝を切って前日区分した場所に着き、まわりを見渡すと大樹が多く、先ずは伐採から始め、そして草を刈り、住む所にバラック小屋を建て、火をたける場所を作り、原始的な生活から始まる。

入植をして半年を過ぎる頃には、どうにか農作物が作れるようになり、パイナップル畑を作り、苗を植え、次々と入植者も入り開けてきて、パイナップル工場も出来る。野菜波止場までかついで出荷をする。そのうちにリヤカを買い、運搬は楽になり、農家も安定をして、家畜を飼い堆肥を作り、私たちの住む住宅を建て、安定したのもつかの間で、昭和十八年、大東亜戦争が始まり、三月二十八日から三十日の三日間は大空襲で、ココールの町は火の海と化して、食糧及び燃料は壊滅状態で、これからが大変な生活で、内地からの定期船が入らず、自給自足で半年くらいまでは良かったのですが、その後は米が不足して、大人はどうにか我慢が出来るのですが、子どもたちが可哀想で見られず、毎日の空襲で農作業も思うように出来ず、結局は夜の仕事と変り、月夜は良いのですが、闇夜は手探りで作業を続けました。

ますます戦火も激しくなり、この最中に婦人と未成年疎開本国に引揚げることになり、私は十五歳で引揚げることが出来ずに残り、父は兵隊へ入隊をする。私は軍属として志願兵で入隊しました。この時に始めての体験、軍隊生活で親の有難さを痛感しました。夜は毛布の中で泣いた事が何度かわかりませんでした。

戦争は激しくなるばかりで、私の立ちは兵事部で。伝令でした。空襲の合間に書く分隊情報を届けるのですが、木のあるところは良いのですが、またま平野空襲出合い、何度か命拾いをしてきました。

その内に食糧の不足と共に栄養失調で亡くなる人が出始め、兵隊と一般の人と次々と亡くなり、いても立っても居られない気持ちでした。兵隊でも上官は米のご飯ですが、部下はご飯が当たらず、死ぬ兵隊などは米の飯を食いたいといわれた。言葉は、耳の奥にこびりついています。

食事の方も、兵隊はサツマイモの葉のオジヤに、サツマイモ、そして米つぶが数えるほどしか入ってなくて、お腹だけがふくれて、髪の毛は抜け、痩せて可哀想でした。又、夜はサツマイモ畑を荒らす人が多くなり、夜警取締りが始まり、私も夜警に出たが、婦人と子どもたちは逃がしてやったことが記憶に残っております。

戦争は激しさを増して、引揚げたオフクロと弟たちの船が魚雷でやられたと聞いたので、あきらめていましたが、生きて帰りたい気持ちで一杯でした。

ある日、私と上官は、農民との集会の最中空襲に合い、私とひざを合わせていて、討たれ戦死をしましたが、人間とは運、不運があると思いました。人間的に立派な方で、私を弟の様に可愛がってくれ、この時だけは替われるものであれば替わってあげたい気持ちでした。その後に来た上官も良い方で、私の面倒を良く見てくれ有難かったので、感謝で胸が一杯です。

その内に終戦となり、引揚げる時まで一緒で、食糧が不足をして、栄養のあるものは口に入らず、上官と山鳩を取って食べ、命をつなぐことが出来ました。私は人との出会いの運が良く、引揚げる時は別でしたが、本籍が増毛町で、父と一緒に帰り、父の妹を頼りに行くことが、常夏の所から北海道の真冬には勝てずにネコのようにまるくなり、一ヵ月後には死んだはずのオフクロ、弟妹、全員無事に再会できる事は、この上ない幸せでした。

この頃はニシンが大漁で、浜はごった返しで景気も良く、このまま世話になることは出来ず、私は一足先に赤平炭鉱に居る伯父を頼って行く。すぐに採用してもらえなくて、組で働き、半年後に本採用になり、家族全員が来て生活をする。このときも食糧に苦しみ、買出しに農家に米を買いに行き、随分足を運びどうにか生き延びることが出来ました。

その後父と母、弟妹たちも来て、開拓農家を始めて開墾をして農業をする。私も日曜日には手伝いに行き、苦労した甲斐があり作物がとれ、希望がわきました。

炭鉱も景気が良く、父は二、三年辛抱をしてくれ、身の振り方を考えると言われましたが、とうとう定年まで勤務をし、人生の半分が過ぎ、昭和四十九年八月十三日の運搬事故では九死に一生を得たことは、生涯忘れることはできません。今考えると運が良かったと感激で一杯です。闘病生活を振り返り、リハビリーの苦しみは忘れることは出来ません。人の三倍も努力を続け、玉の脂汗を流したことが良くてどうにかもとの体に戻り、所信をして長生きをしていきたいと肝に命じている今日この頃です。

このように体験したことは、私にとってはプラスとなり、今後は日本は二度と繰り返してほしくない戦争を、息子を始め、孫、ヒコの代まで続けてほしいと願っております。

この文を永久に残して、世界人類平和であってほしいと念願する次第です。

どうか、全世界平和にと、声を大にして、叫びたい気持ちで一杯です。

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