はてなキーワード: 顰蹙とは
最近おけパとか何やらとかでよく目にするようになった感情女の気持ちが全くもって分からない。
私が今まで関心が無く、このはてな匿名ダイアリーにも触れる機会が無かったから最近増えた、と感じるだけで、こういう人の感情やお気持ちはたくさんあったのかもしれないけれど。
もしかして私の同人の楽しみ方、すごく楽なのでは!?と思い至った為ここに記すことにした。まぁまぁ人間性などを無視した楽しみ方かもしれないけど。
私にとってあらゆるジャンルやそこに類する絵師、字書きはただのコンテンツでしかない。
ジャンルというコンテンツの中に、絵師という小コンテンツが入っている、そういう認識だ。とってもお気に入りのコンテンツ(人間)からまぁ好きくらいのコンテンツ(人間)まで選り取りみどり。
お気持ち文で共通しているのが、絵や文を生産してくれる機械仕掛けの神のように扱っているという点だと思う。
神なので祭り上げる。神なので私の好きな物を恵んでくれる。機械のように生産してくれる。機械だから日常など存在しないように絵や文だけ書け。
そんな感じ。
これは全くもって独り善がりだと思う。しかし、この『機械らしくあれ』という部分を用いて、認識をコンテンツという新しい何かに出来ないだろうか。
褒めるとよろこんで生産性が上がり、貶すと落ち込んで生産性が下がる物。
誰かと楽しそうに話していると嬉しい。そこで出たネタでまた生産してくれるかもしれないから。
私の推しカプをかかなくなってしまった。コンテンツが終わったんだな。リムるか。
それだけだ。
どうだろう、相手が人間ではなく神でもなくそういうシステムだと認識すると気が楽じゃないだろうか?私は楽なんだが。
え!??たまごっちっていい表現過ぎる!!誰でもたまごっちがうんこしたからって怒らないし、別のたまごっちを連れてきてもあー楽しく遊んでるんだなって思うし、餌をあげると喜ぶし、死ぬ時は死ぬ。
私はこの考えでより楽しむ為に閲覧用のアカウントを作成し、色々な絵師や字書きをフォローしている。
私にとってそれらはコンテンツでありそういうシステムなのだという認識なので、繋がりたいとかそういう願望は無い。
そもそもフォローする必要も無いが、フォロー数が多いと気持ちよくなれるタイプも居るし、フォローしているとリプで感想を送ったりする時こいつFF外かよ!とか顰蹙を買わず済むので穏便だと思う。
TLは見ない。非公開リストにジャンル名をつけその中に絵師/字書きを突っ込むと整理されていて良いからおすすめだ。
そして自分が次のジャンルに行った時はまた新しいリストを作る。ジャンルを変えるたびにリストは増えるがそれも一興。
前ジャンルのリストは残しておくとまた見たいな〜って時に見れて楽しいぞ。そしてリムるときにも便利。完璧。
ついでに別の絡み専用のアカウントとか絵文専用アカウントとかを作っとくと話せる友達も増えるし、そうやっていくつかのアカウントを駆使する事でもっとオタクライフを素晴らしいものに出来るんじゃないかと思う。
ジョギングする人が多い、開けた場所の近くに住んでいるのだが、緊急事態宣言が解除になってから、マスクをせずにジョギングをしている人が明らかに増えた。走っている人の半分以上、10人に7−8人くらいがマスクをしていない。暑くなってきて、走ると呼吸が苦しいせいもあるのだろう。
マスクをするのは自分がコロナウイルスに感染しないようにするためだけではなく、自分が感染していた場合、他人にうつさないようにするためだということを、ジョギングする人は完全に忘れているようだ。そして、マスクをしないランナーが、私の観測範囲に限ればいまや多数派になっている。
マスクをせずにジョギングする人は、自分の都合で多数の他人を危険にさらしていることをどのように考えているのだろうか。
皇居周辺に行ったことのある人はわかるはずだが、皇居堀沿いの道路はジョギングをする人に占領されており、歩くことは非常に難しい。一方向に向かって走っている人が多いため、ゆっくり歩くと追突される身の危険を感じる。ジョギングする人が走っている方向と逆に歩道を歩いてもよいはずなのに、そうするとランナーに邪魔者扱いされ、また衝突の危険があるため、ほとんど歩くことができない。
京都や鎌倉に押し寄せる観光客の評判がよくないのは、数の暴力に対して観光客が無自覚だからだ。同じようなことをやっている人々が増えるにつれて、周りの人がやっているから自分もやってよいのだと思いはじめる。そして際限なく自分自身に甘くなり、観光客以外の人に対して圧迫感を与え、顰蹙を買っているのに、気づかない。あるいは、明確に禁止されていないことをやってどこが悪いのかと開き直る。
皇居周辺だけではなく、人気があるランニングコースでは、有名観光地と同じようなことが起こっている。
呑気に歩いている人より走っている自分たちの方が多いのだから、のろのろと歩いて邪魔になる人間の方が悪い。走っている人は誰もマスクをしていないのだから、自分がしなければならない理由はない。どさくさ紛れの、数の力に勢いを借りた開き直りがまかり通っている。
このような理由で、ジョギングする人が自分自身の暴力性に対して自覚的になるように、ジョギング公害という言葉は浸透してよいと思っている。
「本が好き!」って書評投稿サイトがあるんですけどね、そこを利用して長いんですが、近頃ちょっとダメなところが見えてきちゃってどうしようかなぁって思ってます。
このサイトは検索してAmazonから書籍情報を参照して書評を投稿するってサイトなんですが、3月頃からAmazonの仕様変更でうまく検索できず参照できなくなってました。
しょうがないってんで検索しても出てこない書籍については、問い合わせフォームやサイト内の掲示板で、運営に投稿したい書籍情報を伝えて、運営が直接対応していくってまどろっこしいことしてました。
それが5月1日にようやく仕様変更に対応しました。元通りに検索して情報を引っ張ってこれますって運営がお知らせしてたんですが
実際のところ検索の不具合は不完全なままでまともに対応しておらず、平時ならやってた運営の直接対応もGW休暇を挟んでいたから一週間ぐらい放置されていた形です。
これ普通のサイトだったら炎上ものだと思うんですが、なんといっても「本が好き!」はこじんまりとしたサイトだからユーザーと運営の距離も近くて、なぁなぁで済まされている感じですね。
そもそも一ヶ月以上サイトの根本的な仕様が変更に対応できなかった、とりあえずの対応を続けていたっていうのも批判されてしかるべきだとは思うんですが
さらに言うと、その不具合に関して出したお知らせが、仕様に対応しましたってお知らせを出したら、不具合に関するお知らせの方を削除してるんですよね。
たとえネガティブなお知らせでも運営の公式リリースなら残しておくべきだと思うんですがどうなんでしょう。
その不具合に対応しましたってお知らせも実際は不完全な対応だったから、虚偽のお知らせになってるんですが、それについて何の弁明もない。
しょーがねえだろ、こんな場末のみみっちいサイトなんてなぁなぁでいいだろうがって運営の対応がどうにもダメなんじゃねえかなって思えて仕方ないです。
いちおうは企業が運営してるサイトでこれはどうなんでしょうね、
もっと言うと、このサイトの売りのひとつが出版社から貰った献本を、選ばれたユーザーに送って書評を投稿して貰うっていうパブリックな一面もあるんですよね。
企業と企業、運営とユーザーというパブリックな信頼に寄るところが大きいサイトがなぁなぁで済ませていいのかなぁって思っちゃうのは仕方ないよねえ。
「本が好き!」のこういうところは、多分運営とユーザーの距離が近いからなぁなぁで済まされているとこもあるんだと思います。ある意味で信頼関係があるんですよね。
いつも贔屓にしてるお店と客だから許されるような信頼関係がある。だけど一歩引いて見るとその信頼関係はどうなんかなって思ってしまうところがある。
世間ではコロナウイルスで大変だからってんであっちこっちが悲鳴を上げておりますが、悲鳴の上げ方ひとつで同情を買うこともあれば、顰蹙を買って信頼を損ねてしまう事例が多々あります。
「本が好き!」の運営の方々も色々と大変でしょうが、きちっとすべきところはきちっとして信頼関係を築いて欲しいなって思う次第でこざいます。
普通に考えて、倫理観抜きにしても、打ち出したマーケティング施策が顰蹙買って機会損失が出たら、それって広告出したやつの責任なんだよなぁ。
人のせいにするなよっていう。 https://t.co/xPwROFfn7n— 我流桜 (@garyupamyurin) 2020年2月20日
そんなに農家が心配なら、機会損失分、広告出した農協に責任取らせるのが道理ってやつよ。— 我流桜 (@garyupamyurin) 2020年2月20日
草。
つくづくこいつら他罰的なんだな。
今回に関しては発端を招いたフェミニストによる損失が発生する恐れがあるのだから、この理屈で行けばその補填をすべきなのはフェミニスト自身と言う事になるのにね(笑)
こう言うのを見てもどっちが建設的であり、社会的にも健全に貢献しているかが良く判るなぁ。
この友達は他人によくマウントを取る。ていうか取らないときがないってくらいマウントしまくってる。
望んでベンチャー企業に就職する同級生がいれば「バカだねえあいつw」。
俳優になるために会社辞めた知り合いがいれば「人生終わったじゃん」。
こいつのそういうところが昔から嫌だったので割と真面目に諭したことがある。
年収とか肩書とかそういう軸で他人を見下すのは気分悪いからやめて欲しいし、やめたほうがいいと思う。
原理的にお前がそのへんのあらゆる尺度が人類の1位じゃないとマウントが破綻する。
お前より年収高い奴、普段バカにしてるスポーツ選手とか芸能人とかの職業で大成功してる奴はたくさんいる。
そんなことを言ったら「はあ?」とポカーンとされた。
で「いや、そいつらは関係ない。俺は多数派だし関係ないんだ」と言ってのけた。
つまり彼は自分より上の存在を都合よく無視し、年収や肩書が些細な差であろうとも自分より下であればで全力で見下せる。
そういう考え方で無敵の自分を獲得していた。
これはちょっとショックだった。
彼のなかの真実というものは自分が認めた自分に都合がよくなるものだけで、他者からのツッコミはノイズと同じで、仮に良識的な人々から顰蹙買おうとも全く動じない。
世の中の成功者が血のにじむような苦労と努力と得難い経験で手に入れる自己肯定感を、彼は都合の良い物の考え方という楽な武器で獲得している。
正直、羨ましいと思った。
俺から見る限り、彼は内面的葛藤とは無縁でいる。強がってるのではなく本当に「自分は誰よりも尊くて優れた人間」だと確信しているように思える。
長い付き合いからそう思う。
彼のような物の考え方は有害だと考える俺を始めとする多くの人間はせいぜい、
「いや、必死で表に出さないだけで本人は内面で地獄を抱えているはずだ」とか「そんな奴は結局不幸になるから放っておけ」とか願望交じりの嫌味を言うしかできない。
それは正直、むなしいと思う。
彼は不愉快だけど最強だと思う。
ここ最近、フェミがどうでもいい萌えキャラコラボにことごとく因縁をつけてギャーギャー騒いで顰蹙を買ってる。
在特会と同じく、反日でも何でもない表現に「反日だー反日だー」と叫んで騒いでるのと同じ。
あれ、実は理由があるんです。
あれは「常に何かを攻撃していないと運動そのものが保てない段階まで追い詰められてるときに取る行動」です。
フェミニズム自体が、もうすでにならず者のネトウヨと認知されて来てる。
キズナアイに炎上を仕掛けて逆に火だるまになった辺りから、完全に、フェミニズムと社会学とか、左翼勢力のその辺が、学問としての権威も地に落ちてしまった。
学問の顔をしてるが、実際は何の裏付けもないただのヒステリーだとバレてしまったんですよね。
あれが大失態で、そのあと何を言っても「キモオタに、ぷ」と笑われる事態になってしまったんです。
他にも、身内のレイプをかばったり、いろいろありましたが、まあそれはおいておいて。
そのあと数多くの巻き返しを図りましたが、ついには「ひろゆきにまでdisられる」ようになりました。
つまり「フェミはネットの中でフリーハンドでぶっ叩かれる迷惑集団だ」と認知されなければ、ああいう所業はなかなかできません。
ネットの世論の傾向を読むのが上手い奴が、フェミ叩き側に回ったというのは、かなり象徴的です。
この空気感。10年前からネット右翼を見続けてきた人間なら覚えがあると思います。ネトウヨ酷使の在日バッシングブームが去り、ただの迷惑な奴らじゃんという共通認識ができてきたころ。
つまり、在特会が「ただの馬鹿芸人扱いされ始めて笑いものになってきた」ころ。まともな層が「ネトウヨにはまともな奴はいねえ」と見切りをつけたころ。
あの段階になると「あらゆるものを反日だ。在日だ」と連呼して暴れまわってたでしょ。
あれと同じ状況。「常に何か敵を見つけて構成員に襲い掛からせる餌を与え続けてないと、もう運動が保てないレベルまでボロボロになってる」ってことです。
だから、「運動を継続させるためには、とりあえず理論はどうでもいい。喧嘩を売ってから考えろ」という運動の自転車操業の段階に入ったということです。
始まりはキズナアイでした。あまりにも雑にキズナアイを攻撃したせいで、フェミの最大の看板であった「学問」という権威が「社会学(笑)」と言われるレベルまで落ちたことが問題でした。信頼回復に努め、きちんと学問としての正統性を回復するのを怠った結果、ただひたすら喧嘩を続け因縁をつけ続けるヤクザ化の道を選んだわけです。
だから、これから先も、とりあえず目についたものには因縁をつけ続けると思うよ。
そうしないとフェミはもう持たない。その結果余計に嫌われて先鋭化することを、おそらく上の人間は薄々わかってると思う。でもやめたらそこで終わり。だからやめられない。
仲間を増やすとかそういう段階ではなく、ただ「政治運動を続けて暴れるためにやってる」ということです。
かつては社会的不平等に立ち向かうフェミニズムも、ただ萌えキャラに襲い掛かるだけになってしまいました。
あれだ。がんばれ。
なんというか「みんなそれぞれ違っていて尊重されるべき」って価値観が出てきたら、そういうキャラの扱いって難しくなるんだよね。
つまり、最終的に敗者を引き受けさせなければならないんだけど、昔とちがって「厭味な奴だから幸せにならなくてもスカッとする」とはならないんで、基本的には
(1)違う価値観に生きるようになる
(2)違う相手を見つけるようになる
(3)退場する
の三通りのいずれかの手段をとることになる。でも(1)だとライバルキャラの人間性にゆがみが生じる(例としてはスラダンの流川(非人間的なまでにバスケ一筋))し、(2)だとライバルキャラの恋愛自体がヒロインからヒロイン以外に流れるため軽く見える弊害がある。ようするにただのチャラ男に成り下がり、主人公が越えるほどの目標ではなくなる。(めぞん一刻はそこをなんとかしようとはしていたが。)
そこで(3)の手段を使うわけだが、これは結構究極の一手というか禁じ手に近くて、劇的なだけに軽く真似をすると本当に作品が薄っぺらくなる。きわめて必然的でありつつ、でもまさかねと思わせないといけない。もっとも有名な例はやはり「タッチ」だ。まあそこで死なせるしかないわけだけど、ほんとに? みたいな。実は、「タッチ」より先にこれをやったのが多分「あしたのジョー」なのだろう。どちらの作品でも、「ライバルの死」自体が主人公というより物語にめちゃくちゃ大きな影響を与える構造をしているくらい重い出来事として扱われている。これを軽々しくやれば、ただの猿真似にしかならない。だから、簡単にはまねできない。大きな分類では、「ワンピース」のエースもこれにあたると言っていいんじゃないかと思う。
というわけで、こういう面倒なキャラはもう最初から出さないという方向になってきたのだろう。しかしそれでも主人公の周りに魅力的なキャラは配置したい。そこで、冨樫が「幽白」や「ハンター」でやったように、主人公の周りにいる同性の美形キャラは属性やトラウマによって最初っから全く方向性の違う存在と位置付ける、みたいな解決方法が昨今では普通になった。そもそも人間じゃないとか、非人間的なほど復讐に取りつかれた存在(クラピカ)や女性より微妙に主人公の方を見ている存在(キルア)みたいに。「進撃の巨人」なんかでもこの文法を使ってる(リヴァイとアルミン)。ちなみに、実写版の進撃はその狙いをまっっったく理解せずにミカサとシキシマ(リヴァイみたいな存在)のラインをつなげる…みたいなアホな設定にしてしまい、最後にシキシマをしょうもなく殺す安直な物語づくりにするしかなくなってめちゃくちゃ薄っぺらい「人間ドラマ(笑)」が顰蹙を買ってしまったのは皆さまご覧のとおり。関係者には猛省を望みたいね。