はてなキーワード: 自己肯定感とは
「ホストは表面上甘くて優しくて良い気持ちにさせてくれるから」
これなんだよね
そんなことかよ、と言わないでほしい
虐げられ自己否定され続けてきた人間にとって、ホストの巧妙な甘いマスクや優しさ、時に見せる弱さなどは麻薬のようなもので、彼女らにとっては「唯一の味方」なのだから
まとめサイトで「毒親に姉と比べられて搾取されブスだブスだと暴言を吐かれ続けてきた女性が死のうとしたところで、思い付きでホストクラブに向かい、沢山『可愛い』と言ってもらったことで毒親の呪いが解け、毒親から逃げることができた」という話を読んだことがある。
その人はそれっきりホストには通ってないらしいが、もしどん底にいた時にホストだけが肯定してくれ、自己肯定感を上げてくれたのだとしたら、そんな女の子が沢山いるのだとしたら、中々悪く言えないんじゃないかと思う
そういえば、パワハラ上司がプペルにハマった事で職場が平和になった話を読んだな
新興宗教がないと生きていけなかった、という人もきっといるのだろう
実際は男の方がずっと自己肯定感が高いんだけど、
多分そういう「女の皮をかぶった男」の方が男が共感できるんだと思う
多くの男が「もし俺が女だったらそう考えるはず」って女なんだよねああいうの
普通に生きていれば自分の認識は必ずしも世間の認識と一致しない、≒である事の方が多いという現実に直面し
そういった経験の積み重ねで、自己を客観視する能力が備わっていくと思うんだけど
何故か女性の大半は、「自分こそが絶対的な被害者であり自分の意見は世間一般の常識であり正義である」
最近「被害者や弱者はみんなが思ってるようなのじゃないんだぜ!」みたいなのが流行ってるから、もう一つ。
こんな恐ろしいひどい事件、赤の他人である自分達ですら加害者が憎くて堪らないのに、被害者はきっと想像を絶するほど加害者が憎くて、苦しめて苦しめて殺したいに違いない!被害者に刑を決めさせればいい!
そう思いがちだ。
たとえ重犯罪でも。
それは、汝の敵を愛せよという精神ではない。
一番有名なのはストックホルム症候群だ
誘拐や監禁などにより拘束下にある被害者が、加害者と時間や場所を共有することによって、加害者に好意や共感、さらには信頼や結束の感情まで抱くようになる現象。
解放後に犯人をかばう証言を行う者や犯人に恋愛感情を抱く者までいるという。
逃げられない状況下では、犯人を好きになるしかない。また、犯人の優しさや人間味に惹かれてしまう。
虐待すればするほど子供は親を慕うものになると小山晃弘も言っていた
酷い毒親、虐待親でも慕う子供は山ほどいる。大人になっても洗脳が解けないことはザラにある。自分の親が毒親だなんて認めたくないことだから。
家庭という閉鎖的な空間で虐待に晒されているとそれが普通だと錯覚する。親との温かい思い出もある。親の機嫌をとるため、親のことを好きになる。虐待を受けても、自分が悪い子だからだと思い込む。
大事にされるのに慣れなくて、優しい養親に反発したり、殴るパートナーを選んでしまったり、自分の子に同じことを繰り返したりもする
性的虐待も同じ。
性的虐待を受けても父親を嫌いになれない、あれを除けばいい父親だと言う少女や女性は少なくない。
自分から求めてしまった、快感を感じてしまったという体験談も…それが罪悪感を植え付ける
自分の中のダメージを少なくするために、なかったことにしようとして被害後も加害者に普通に接したり、あろうことが加害者に好意を持ってしまう人もいる
レイプから始まる恋は実際ある、と小山晃弘も言っていた。まぁ関係ない人のコラ画像を使ったりしていて悪質だが。
「学生時代痴漢にあって、最初怖かったけど快感に目覚めてしまった」と語る裏垢もあるし、それを見て勘違いしてしまう痴漢野郎もいる。
ストックホルム症候群と同じく、ダメージを少なくするための防衛機能なのだろう
加害者に好意を抱いたり、快感を感じたりはしなくても、加害者を憎まず「自分が悪いからだ」と自分を責めて終わってしまう人もいる。
「他人のことならあなたは悪くないと言えるが、自分の被害に対しては自分が悪いのだと思ってしまう」と語る性被害者は少なくない
ネットでは「いじめたやつ許せない!」的な声ばかりが大きいが、「いじめられたのは自分が悪いのだ」と結論付ける被害者は少なくない。
昔リア中の時に朝日中学生ウィークリーを読んでいたが、いじめ相談的な投書欄に「いじめられる方にも原因がある」的なのが殺到した時期があった。しかも、「いじめられた自分はこうやって乗り越えた。だからいじめられる方も変わるべきだ」的な投書もあった。
「いじめた子に謝って今では親友です」「いじめてきた子に自分も不愉快にさせたと謝って今では親友です」的な体験談を複数見た。
そこに、ストックホルム症候群的な心理はないといえるのか。
いじめられっ子を助けたら、そのせいで自分がいじめのターゲットになり、あろうことが助けられたいじめられっ子がいじめる側に回る
「鬼」とかいう話題の漫画でもあったよくあるケースだけど、これもいじめられっ子がいじめっ子を憎んでないからだと言える。憎んでないから媚びるし、一緒に恩人をいじめる
体罰もそう。
「悪い自分を殴ってくれた先生に感謝してる。体罰は必要だ」と語る大人は少なくない。
「言うこと聞かない奴は殴る。殴った子ほど後に慕ってくれる」とのたまった顧問もいた
意外なことかもしれないが、加害者を憎むより、自分が悪いと思う方が楽なのだ。憎むのはエネルギーが要る上に、被害は自己肯定感を失わせ、自責に向かわせる。
更に問題なのが、「被害に遭った自分が悪いのだ」を他人にも押し付ける奴がいることだ
山口達也に襲われた女子高生をセカンドレイプしてた女性達のうち何人かが「私は電車で痴漢されたことがあるけど自分が悪いと反省したのに」「セクハラでキスなんて私もされる。よくあること」と言っていた。
「私はレイプされても我慢したんだから、痴漢くらいで訴えるなんて甘えてる」
「いじめられる方にも原因がある。自分がいじめられて変わったようにお前も変われ」
「俺の時代は体罰は当たり前だった。体罰が禁じられて甘えたガキが増えてる」
「今はなんでも毒親毒親と。私は暴力アル中etcの親にも感謝してるのに」
「今の女は甘えてるのよ。私は夫に殴られても我慢して尽くしたわ」
これ、全部見た。
人は自分の身に起こった事(幸福でも不幸でも)に理由付けをしたがる。
普通の人でも不幸が連続して降りかかった時に「俺は前世で悪いことをしたのか」と溢してしまう。
「あなたが受けた虐待はあなたが前世で悪いことをしたからです。あなたがその体験をしたいと選んだのです」的なスピには、意外と虐待の被害者がハマってしまう。自分の受けた不幸に理由付けをしてくれるからだろう
殺人事件の被害者遺族なら犯人を憎みまくるはずだって?それが、そうでもない。
「心にナイフを忍ばせて」という、酒鬼薔薇事件の被害者遺族を追った本(ブコメ見たので訂正。そっくりな別の事件の被害者遺族を追った本)では、加害者に対して被害者遺族が同情的なコメントをするシーンがある
また、死刑賛成派のルポルタージュでは、死刑囚が被害者の兄と手紙で交流し、被害者の兄が「彼を死刑にしないでください」と頼み込むエピソードがあった
死刑反対派の森達也氏も、死刑を望まない遺族は意外と多いと言っていた。遺族と言っても生前の被害者と良い関係とは限らないが…
断っておくが、被害者に原因があるとか被害は大したことないとか言いたいわけではない
むしろ、だからこそ虐待もいじめも体罰も性犯罪もDVも殺人も、許されないし痛ましいのだ。
もちろん、全ての被害者が憎まないわけではない
加害者が憎くて堪らない、殺したい、そんな人の方が自然だろう。
だが、加害者を憎まない、憎むことすらできない被害者は「意外と」いる。
そして、被害者は加害者の代わりに自分の味方や同志を憎むことがある。
虐待を受けても親を慕う子供は、親から引き離そうとする大人を憎むだろう
発展途上国だかで性的虐待、児童買春の被害に遭っていた女の子が保護された後、不自由に耐えきれず何度も施設から逃げ出して売春しようとしたって、その人の人生を綴った本に書いてあった。きっと、施設に連れ戻し不自由な生活を強いる保護してくれた大人を憎んだのではなかろうか。
前に「九州の田舎に嫁いだ語り手がレイプ未遂に遭って、姑に『みんなあの男に足入れされて我慢してるんだから』と説得されるも振り切って被害届を出したら、『未遂のくせにズルい』と被害を受けた女性達から嫌がらせされるようになった」という地獄みたいな話を読んだ。
レイプ男には仕方ないと諦めて立ち向かわないが、「被害を我慢しない裏切り者」は憎み、嫌がらせする。
とんでもない毒親だと思ったが、加害者よりも、弱い立場であり目の前にいる子供を責める方が楽だからだろう。
子供の被害=自分の被害のように感じてしまい、でも子供は自分の思い通りにはならない別個体なので、「自分が辛い目に遭ったのは子供のせいだ」という風になってしまうのだろう
ナチス政権下では、ユダヤ人を虐げる中にはユダヤ人もいた。他のユダヤ人と違って特別扱いをされていた。
そんなユダヤ人も、しまいには他のユダヤ人と同じように殺された。
ユダヤ人自身からも、「ユダヤ人が虐げられたのは自業自得」という意見は出ていたのだ
彼らは「あなたはいいユダヤ人だ」と褒められていたのだろう。そして、「他の悪いユダヤ人がいるから私達ユダヤ人は差別されるんだ。本当に迷惑だ。許せない」と思っていたに違いない
よく「被害者が叩くのはわかるけど第三者が口を出すのはよくない!」と言われたりする
だが、私は明らかな加害があれば第三者こそ叩くべきだと思う。何故なら散々述べたように、被害者は被害者だからこそ、意外と加害者を憎まないからだ
第三者が「それはおかしい」と言う事で、被害者も「そうかこれはおかしいんだ。おかしいと思っていいんだ」と目覚める事は多い。虐待でもいじめでもハラスメントでも。
って書くつもりだったが忘れていた
追記2
床に入ると妻がエロく足を絡ませてきたので
耳元でいっぱい「好き」と囁いてくれて自己肯定感爆上がりながら就寝
目覚めると同時に妻の愛に満ちたお雑煮を食べる
Twitterを開くと昨日投稿した年越しツイートがまあまあバズっておりさらに自己肯定感が上がる
選んだのは THE FIRST SLAM DUNK もちろんポップコーンとコーラもセットで
これが予想をはるかに上回る大傑作で深い感動と高揚感に包まれポップコーン食べるのも忘れ号泣
フードコートでペッパーランチのステーキを食べ元旦から肉分を補給
帰ってから高揚感の心地よい余韻のままにスラムダンク全巻セットを中古で注文
今年は最高の出だしとなった
幼い頃から、同級生から親から親戚から習い事の先輩後輩から勝手に嫉妬されて攻撃されつづけてきた。おかげで自己肯定感はまったくといっていいほど消え去り、それでもなお懸命に生きているだけでまた嫉妬されて攻撃されている。
私は私にできることをしているだけだ。手探りの子育て、実家の助けも借りずに限られた予算内でメンタル壊しながら頑張っている。それなのに、親の遺産がごっそりあって多数の親戚と助け合い、4人の子を留学させたりしている人になぜ嫉妬されてマウント取られなきゃならんのだ。お前の方がどう考えても上だろうがよ、世間的には。お前の夫、東大卒でニッ○の管理職だろ。ふざけんなよ、なんでそんなステータス上段なのに下段の私を「嫉妬」で攻撃すんだよ。たかが、うちの子がピアノの腕前で上回っただけじゃんかよ。それ以外全部負けなんだよ、なんだよ嫉妬って。
私はあいつを妬んだことなどない。自己肯定感がないからだ。だから今まで有効的に振る舞ってやったが、これからはとことん蔑んでやる。クソババアめ。何がたまには会いたいだ。面と向かってマウント取りたいだけだろうが。私があいつに唯一勝ってる身長で、見下げてやる。面と向かって怒らないからって調子に乗ったことを後悔させてやるからな。
親戚の子(来年小学生)のピアノの発表会演奏を聴かせてもらった
まあまだ小さいしね、上出来よ
懐かしい初めての発表会、当時4歳、成長遅い、やたらちんちくりんでかわいいー
上手え…私のピアノ上手え…
楽しかったことだけ覚えてるけどもしや私ピアノの才能あったかも
自分のコンサートとかやって好きだけどあまり演奏されない曲の布教とかしてたかも
などとありえない妄想でちょっぴり自己肯定感を高めつつ、のんびり年賀状を書く年末である(今更焦っても間に合わないのでのんびりしているだけ)
今は大人のピアノ教室に通っている。良いピアノに触れるし、ちょっとしたことでもいっぱい褒められて楽しい
来年はちゃんと練習して先生に本気で「上手だね」と言ってもらいたいな、頑張ろう
皆さん良いお年を
孤独は、人間が感じる心理的な感情の一つであり、人々が他の人と接触しない、または他の人との接触が不十分であると感じるときに生じることがあります。孤独は、一般的に、憂鬱症や焦り、ストレス、不安、不満、低自尊感を引き起こす可能性があります。さらに、孤独は、身体的健康にも影響を与えることがあります。例えば、ストレスを引き起こすことで免疫系を減弱させることがあり、その結果、感染症や疾患を発症するリスクが高まることがあります。
孤独による精神の変調は、孤独が長期間続くと、心理的な健康に悪影響を与えることがあります。孤独が長期間続くと、自己肯定感が低下したり、自己嫌悪感を引き起こすことがあります。また、孤独によるストレスは、憂鬱症やパニック障害を引き起こす可能性があります。
孤独を感じる人は、時間をかけて、他の人と関わりを持つことで、孤独を克服することができる場合があります。また、カウンセリングや精神科医による治療も有効である場合があります。また、健康的なライフスタイルを維持することで、孤独によるストレスを軽減することができるでしょう。
交際していることや結婚していることを、自己肯定感を得るための道具のように扱うのは問題があると思う。
交際相手であろうと配偶者であろうと、あなたとは別の、一人の人格のある人間なのだから、常に、100%、無条件で受け入れてくれるなどということはない。
人間なのだから、ダメなことはダメだし、嫌なことは嫌だし、受け入れられないこともある。大人同士なのだから、別れることだってある。
親が子供を、どんな子であっても無条件で受け入れる(本来はそうであるべき)こととは、わけが違うのだ。
おとなが、自己肯定感を得るためにパートナーを利用するのが当たり前だと思っていると、相手に受け入れられなかったときに怒りが生ずる。
おとなになれ。
こどものように、口を開けて愛を乞うても、それは降っては来ない。
妻は別に母親ではないが、親とは違った自己肯定感を与える存在ではあると思うんだな。
あるいは、実の親が与えてくれなかった自己肯定感を与えてくれる存在かもしれない。
俺も長らく彼女いない歴と年齢が一致していたけれど、それだけで自己肯定感が下がってたな。
いくら他人がうらやむような学校に行っていても、俺は誰にも選ばれない男みたいな自分を卑下するような気持ちでいっぱいだった。
人によっては配偶者が別の悩みの種になる人もいるかもしれないが、いろんな自信を失っても「結婚しているんだぞ!」というのはそれなりの心の支えになる。
編集者と会うときに不安だから妻に来てもらっていたらしいが、その気持ちはわからんでもない。
...と書きながら、鈴木大介氏も思い出した。
お妻様と一緒にいるとつらい取材も一人でやるよりずっと楽になったみたいな話を読んだ気がする。
飯を食った
地方は不便だろうと新車をポンとプレゼントするような太い実家と優しい両親に愛され、自己肯定感を育まれた容姿端麗な友人がお裾分けしてくれた名前も分からん洒落た肉料理を食った。
こんな私のことすら気にかけてくれる優しい彼女の両親がついでにと持たせてくれた、初めて見る姿形のケーキも食った。ちなみに私には親はいない。
どっちもべらぼうに美味しい。こんなボロアパートで食うには勿体無いほど洒落た夕食だ、私は友人一家に大いに感謝した、そして1人泣くのだった。
彼女は容姿端麗でこんな私と友人でいてくれるほど性格もいい、当然だがモテる、交友関係も広い。今回貰った肉料理も飲食店を営む友人から学んだらしい。ソースに使った柑橘類は知人の農家から貰ったと言っていた。私にはそんな知り合いはいない。彼女は決してそれらをひけらさかない、性格の悪い私は彼女に嫉妬して、卑屈になった時期もあったが今ではそれは当然と割り切っていた。しかしそんな私の見積もりは甘かった。
あの美しく包まれた差し入れに彼女と私の『差』、その想像を絶する格差の全てが詰まっていた。
あまりに自分がみじめに思えた、太い実家も、優しい両親も、美しい容姿も、人を思いやる心も、多くの人から愛される愛嬌も、広い交友関係も、それを構築するための努力も、知性も、何一つ持っていない、何一つ与えられていない、なにひとつできないままこの歳になった。
その料理の美味しさを実感するほどまた涙が溢れてくるのだった。その姿が醜いことも、そんなことを考える自分が愚かしいことも重々承知だ。人生は配られたカードで精一杯努力するだけだ、持たざる者には持たざる者の生き方がある。
ただ私にできることは、しなければいけないことは彼女一家に精一杯感謝を伝えることだ。そすうればまた今晩のような素敵な晩御飯にありつけるかもしれない。次に会う時は手土産を持っていこう、今日泣いたことはおくびにも出さず。
https://happymail.co.jp/happylife/psychology/do-not-talk-themselves/
1.1 警戒心が強い
1.2 自己肯定感が低い
1.3 相手と仲良くなりたくない
……とあるけれど、
私は自分の話をあんまりしないタイプだけど、理由はこの中のどれとも異なるなー
別に自己肯定感が低い訳でもなく相手と仲良くなりたくない訳でもない。
自分の話をあんまりしないのは、単純にする意味を感じないっていうか
聞かれれば普通に答えるけれど自分から積極的に話そうとは思わない
自分個人にフォーカスするよりも漫画やアニメや時事ネタとか、自分が関心のある話題で語り合う方が楽しいし
仲良くなるにもその方が良くない?