はてなキーワード: 聖人とは
離婚して親権を夫に押し付けたと自虐する増田の反応を観察していて驚いた。
増田を責めるでもない体を装って結局のところ暗に責めているような、親権を放棄した増田を追いつめている様子なブコメが少なからずある。
養育費ぐらいで免れると思うなとか、子供に恨まれるかもしれない、などなど、母親なら子供を育てられなかった良心の呵責に悩んで当然、それどころか罰が当たればいいぐらい言いかねなそうなブコメまである。
当初は、元増田も元夫に対して母性への過剰な思い込みを見出していたように、多くの人が母親が子育ての最終・最大責任者であるべきという思い込みから逃れ難いのだなぁ、とジェンダーギャップっぽい感想を抱きながらブコメを読んでいたのだが、一部のブコメの「祖母と父親が育てたらろくなことにならなそう」という呪いをかけているブコメを見て、ここにはジェンダー的なゆがみではない、別のゆがみも混ざっているのではと思った。
母親の責任放棄という呪い以上の、「親ならこうあるべき」という呪いが凄く強固にあるのだ。母性関係なく。
母親だろうが父親だろうが人間だし、親になった途端に正しいことしかしない言わない聖人君子になれるわけでもない。もちろんなるべく正しくあろうとすることは尊い努力ではあるが、出来ない時があったってしょうがないだろう。親になったことないから分からんけども、ずっと「子供にとって正解」を叩き出し続けるの無理だろうと思うんだが、「理想の親」っぽくないものはすげー叩かれる。
はてな界隈でも定期的に噴き上がる「しつけのなってない子供に怒る人vsそんなだから少子化なんだと責める人」とかも、噴き上がる原因は同じでどちらのサイドも「理想の親」像ががっちりありすぎて、親サイドも親ウォッチサイドもその理想の親像を脇に避けて現実の話が出来なくなってしまうことが多いんじゃないか。
そりゃー、理想の親像のような親に育てられたら、理想の親像のような親になれたらチートかもしれないが、そうじゃなくても割となんとかなるしそもそも「理想の親」ってなんだよ、と思うわけだよ。そんな理想みたいな親いねーわ。私の親たぶん理想が100なら28点ぐらいだったけどそれなりに人生楽しいわ。理想の親通りじゃなくたって全然なんとかなるのにな。つーかそもそもどんななんだ理想の親って、割とあいまいなのにすごい強い呪いだよこれは。
それは当時の野党エリートだった民主党政権の責任だから自分らでケツ拭ってくれとしか言えない。
今は国民の信頼を取り戻してまともな政党だと思われることが始めでしょ。
今の世の中では怒るのは専ら悪だ。
店員に怒鳴る老人、部下を詰める上司、キレる若者、ヒステリックな母親、圧迫面接、体罰教師。
(上記では立場が上の人から下の人にという例ばかり挙げてしまったが、本筋はそこではない)
そのような態度を取ってしまった者はすぐさま炎上し、みんなの笑いの種として消費される。
そのような人にはならないぞと肝に命じ人生を数十年生きてきたが、もう疲れてきた。
怒る人がいくら炎上して笑い者になろうとも、怒る人は怒る人のまま、周囲の人に迷惑を撒き散らすことをやめず、その性格のまま生きていくだろう。
怒る人は自分を省みて改善することなく、怒るまいとしていつも感情を抑えて我慢をしている人は損をするばかり。
我慢している人は怒る人より生涯損をし続けるだけで、何か得があるというのか?
怒ることでコミュニティを破壊して追い出されたとしても、また新たなコミュニティを探してそこで同じ事を繰り返していれば、死ぬまでにはなんとか生きていけるというのが真実だろう。
巷ではアンガーコントロールという技術の本も出ており、怒りをコントロールするということが世の中にかなり支持されているということがわかる。
怒らないことが善だと思い込み、怒られを受けても不愉快なことがあっても飲み込んで笑顔を作って平常心のように振舞ってきたがもう限界だ。
ひょんなことから、そういう人たちのグループとプライベートでの繋がりができた。
頻繁につるんで遊びに行くようになった。
付き合っていくにつれてわかったんだけど、みんなビックリするくらい悪口言わない。悪口言わないのにずーっと明るく楽しい時間を過ごしてる。
20代なのにとにかく毒がない。
俺やグループの誰かに良いことがあったら自分のことのように本心から祝福してる。全く嘘くさくない。
そういう人柄の連中だから俺はとにかく場をもたせるのに苦労してる。街で遊んでるとき、目に入ったキモオタをいじろうとして慌てて言葉を飲み込むなんてことはしょっちゅうだ。
「あの女エロいなあ」とかは間違っても言えない。そういう話も連中は普段全く出さないから。
幼少期から今に至るまで親が持ってる別荘で必ず年末年始を過ごす、みたいなことも平気で言う。別荘ってなんだよ……。
それからナチュラルにめちゃくちゃ親切。俺も相当親切にしてもらってる。
以前、「隣の課の奴が仕事できなさすぎてみんなに嫌われて鬱病になって、次も決まってないのに辞めた」って話をしたら
「俺、もしかしたら仕事紹介できるかもしれないけどどう?よかったらその人に話してみてよ」みたいなこと心配そうな顔で普通に言ってくるから絶句した。
こんなどうしようもない奴いてさあ、ってニュアンスで出した話題なのに。
自己責任論なんて口が裂けても言わなそうだし、そもそも発想すらしないんじゃないかと思う。
みんなちょっと信じられないくらい良い奴だ。良い奴なんだけど一緒にいて結構しんどい。
だって、他人の悪口とか「キモい」とか「死ね」とか「ブス」とかの単語も絶対に言わないんだぜ?冗談でも。
なんというか世界が違う。
あいつら女のこと一切顔で見ないし。好きなタイプ=性格良い人みたいな感じ。あいつら水準の性格良い人なんてほとんど聖人だからそんな女そうそういない。実際、あいつら、イケメン揃いなのにビックリするくらい浮いた話がない。
正直、かなり疲れる。
自分がめちゃくちゃ汚い存在みたいに錯覚してじわじわとダメージを受ける。
こっちはそれなりに他人の失敗にほくそ笑んだり、下を見て安心したり、誰かの欠点や悪口を面白がれるような普通の人間だから人種が違う。
それから、会社の人とか友達とか今まで自分が仲良くやってた人たちが嫌な奴に見えて仕方なくなった。
これが一番しんどいかもしれない。
キモオタを合コンに召喚してみんなで笑いものにするとか、仕事できない後輩を吊るし上げるとか、○○課の新卒と生でヤッたみたいな話で盛り上がるとか、あの先輩とあの先輩は無能だよーと入ったばかりの奴にレクチャーしたり、飲み屋の店員にキレて謝らせるとか、
そういう「あるある」を周りの人が今までのようにやってるの見てると耐えられなくなってきた。
つるむようになった良い奴グループのことが頭に浮かんで、「周りの奴ら底辺じゃん…」みたいにどうしても感じるようになってしまった。
これまであんなに仲良かった人たちがどうしようもない人たちにしか見えなくなった。人間関係をごっそり失ったような気分だ。
かといって、良い奴グループにどっぷりつかれるほど俺は性格が良くない。一緒にいても相変わらず困惑するばかりになるだろう。
そういうこともあって最近とにかく楽しくない。
会社の人も友達もしょうもなさ過ぎて一緒にいたくないし、良い奴グループも自分と次元が違いすぎて楽しいけど息苦しい。
知らないほうがいいこともある。
中国では100万人以上餓死するなんてよくあることで、毛沢東の躍進政策大失敗して、「穀物を食い荒らす雀は人民の敵だ」とやっちゃって軍隊まで動員したとき、少なくとも2千万人が餓死して、病気も合わせると4千万人ほど死んだらしい。
海沿いの洞窟、岩の絶壁の最上段まで登って、滑落したら確実に死ぬのに、「海ツバメの巣は美味しい」「卵も燕も取れなかったけど、海藻で作った巣は食える」のを学習。
勿論、凍る海に飛び込んで、海藻と貝だけでも収穫。トバ火山吹っ飛んだ時は、残りの人類千人ほど実際にそうした。今より100メートルも海面上がってた時もそうした。
毒全壊のフグでも、内臓が毒なだけで身は食べても死ななかった、と学習。
様々な毒草でもキノコでも、死んだ奴が馬鹿で、生き残れた奴が食えるか食えないか、少量齧って薬になるか食えるか毒が無いか確認。
腐った人肉にでも噛り付いている隣人を見て、絵にかいてある「餓鬼」が本当に存在していたのも確認。
秀吉の餓え殺しとか、施餓鬼餌で供養して寺化神社立てないと地獄の門が開くぐらいの餓死者続出。
攻城戦で包囲された中国の城塞では「子を変えて食べる」習慣があり、自分の子供を食べるのは気が引けるが、体の大きさが同じなら交換して食う歴史があります。
聖人と呼ばれる孔子は、人肉の塩漬けが大好物でした。市場で売ってます。
もちろん自分の子供を調理して皇帝にささげた中華料理人もいます。
腐った果実は酒、腐らせた米も酒、腐らせた麦とか旨すぎてごっくごっく飲んでわざと腐らせたものを食う、飲む。
腐った牛乳なんか楽勝ですよ。
モンゴルで馬乳酒飲ませてもらったカルピスの創業者が、「どうにかしてあの味を?」と色々と苦労して、アルコール醸造無しで作ったのがカルピス。
中国では100万人以上餓死するなんてよくあることで、毛沢東の躍進政策大失敗して、「穀物を食い荒らす雀は人民の敵だ」とやっちゃって軍隊まで動員したとき、少なくとも2千万人が餓死して、病気も合わせると4千万人ほど死んだらしい。
海沿いの洞窟、岩の絶壁の最上段まで登って、滑落したら確実に死ぬのに、「海ツバメの巣は美味しい」「卵も燕も取れなかったけど、海藻で作った巣は食える」のを学習。
勿論、凍る海に飛び込んで、海藻と貝だけでも収穫。トバ火山吹っ飛んだ時は、残りの人類千人ほど実際にそうした。今より100メートルも海面上がってた時もそうした。
毒全壊のフグでも、内臓が毒なだけで身は食べても死ななかった、と学習。
様々な毒草でもキノコでも、死んだ奴が馬鹿で、生き残れた奴が食えるか食えないか、少量齧って薬になるか食えるか毒が無いか確認。
腐った人肉にでも噛り付いている隣人を見て、絵にかいてある「餓鬼」が本当に存在していたのも確認。
秀吉の餓え殺しとか、施餓鬼餌で供養して寺化神社立てないと地獄の門が開くぐらいの餓死者続出。
攻城戦で包囲された中国の城塞では「子を変えて食べる」習慣があり、自分の子供を食べるのは気が引けるが、体の大きさが同じなら交換して食う歴史があります。
聖人と呼ばれる孔子は、人肉の塩漬けが大好物でした。市場で売ってます。
もちろん自分の子供を調理して皇帝にささげた中華料理人もいます。
腐った果実は酒、腐らせた米も酒、腐らせた麦とか旨すぎてごっくごっく飲んでわざと腐らせたものを食う、飲む。
腐った牛乳なんか楽勝ですよ。
モンゴルで馬乳酒飲ませてもらったカルピスの創業者が、「どうにかしてあの味を?」と色々と苦労して、アルコール醸造無しで作ったのがカルピス。
最近とある件で話題になった某作家があたしゃ印税で稼いで孫に金やるために死ぬまで作家を続ける(うろ覚え抜粋)とか言ってるのを見た。
サバサバしてて潔くて豪傑で素敵な作家根性だなあと思った。それと同時にああこんな人が描いてる作品だからこの人の作品全くいいと思えなかったんだなって思った。
某国民的ロックバンドのボーカルで、活動開始から26年ず~っと売れ続けているそのバンドの曲ほぼすべての作詞作曲を担っている。
彼はこういった。
好きな音楽をやって、人々がそれをい
いと思って、それで自分がお金を儲けることに罪悪感を感じると。
そして ap bank はつくられたらしい。
彼が豪邸に住んでいようが日本中に別荘があろうがどうでもいい。
ファンには有名な、かつてクロスロードを書き上げたときに放った言葉は過去のものだ。
嘘でも偽善でも綺麗ごとでもこういう発言をしてくれる桜井がありがたい。
あの男の音楽を愛せてよかったと思える。
その言葉が、その歌声の、歌詞の、音楽への裏付けになる。信じることができる。
こんな聴衆のエゴでしかないニーズにも百点満点の答えを示してくれてありがとう。
彼にとってはそんな打算的なつもりはないことを祈る。
何泊すんだろーまーそんなに長くないんだろうなーと思っていたら
帰る家がないからって、それは無いだろ…
(長期滞在に関しては友人も聞いてなかったらしく、お互いウーンとなった)
家主(自分)を無視して住民票を勝手に移すのは流石におかしいし、
(そんなこと前もって知ってたら、誰だって煙たがって断るわ)
成人した人間が2DKに3人なんて狭いし、
炊事や洗濯は自身と友人の分しかせず、自分のタスクが待ち状態になる。
そのことを指摘したら不機嫌になって、
それからずっと友人の部屋にこもり、夜は音楽を垂れ流している。
知らねーよ、じゃあお前誰でも助けられる聖人なんているのか?という気持ちになる。
正直、お前の相手をしている暇はない。いるなら最低限静かにして炊事洗濯ぐらいはやってくれ。
事情はあるとは思うが、自分がこの家でやってきたこと、置かれた状況を顧みてほしい。
好きでもない、いや嫌いなタイプ(折り合いをつけるような議論もできない)の人間と、
なんで同居しなきゃいけないんだ。
最初から最後まで問題にするのが馬鹿馬鹿しいし、断ち切りたい。
どうしたらいいか教えてくれ。
小学生の頃、真下の階に住んでいるs谷さん(70台後半)に、妹と一緒に家に呼ばれて中で話を聞き、お菓子をもらって帰ってくるイベントが時々あった。s谷さんはとても親切で、足が悪いために手押し車を押して歩いていて、くれるお菓子も賞味期限が切れていることがあった。今思えば、三兄弟の走り回る音によく耐えていてくれていたうえ、さらには可愛がってくれる聖人であった。
s谷さんの話はほぼ覚えていないが、なんとなくいごこちの悪い家に5匹程度のハムスターを飼っていた。s谷さんはそのハムスター達を放し飼いにしていた。さっきグーグルで調べたら上級者には可能らしいが、当時の私達には衝撃的であった。ケージを開けはなち、居場所を訪ねても「冷蔵庫の裏におるんかな?」と説明され
ハムちゃんずはほんまにおったんやと妹と興奮していたが、何回訪れてもハムスターを見ることはできず、s谷さんは引っ越し、いかにも嘘っぽいエピソードは友達にもふーんとか言われた。全ては幻だったのかもしれない…
自分は、16歳で卵巣全摘出となり、子供を産めない、世間でいうところの「生産性のない」女となった。
当時はなんで自分がという気持ちで、この事実を受け止められなかった。
今でも正直受け入れられてない。
婦人科の病気で赤ちゃんを産めなくなった自分とすぐ隣にいる出産を控えた妊婦さんや出産後の経産婦の人々。
そのせいで恋愛という存在に対しても、自分と恋愛しても赤ちゃんが欲しいという彼氏に答えてあげられないという気持ちが先に立ち、
自ら遠ざかって行った。
というより、言い訳をして恋愛はめんどくさいといい、わざとそうしているのだと自分に言い聞かせてきた。
「よかったね、おめでとう!」と声を発してみたが、私は笑えていただろうか。
気づかれていないだろうか、この心の奥底の暗い感情に。
本当に誕生を祝う気持ちはあるのに、同時にこの奥底のほの暗い感情も湧き上がってしまう。
聖人ではないが、喜びを分かち合えるニンゲンでいたいのに、お前はそうじゃないだろと突きつけらる。
この感情とどう付き合っていけばいいのだろう。
俺は手帳持ちの発達障害でなんとか働いてるけれど、やはり社会に居場所がなかった。
だから最初は当事者会のようなところに参加していたのだけれど、主催者の参加費横領などのトラブルが続いたため距離を置くことにした。
その後今度は働く障害者の集まりのようなところに参加したのだけれど、いろいろとつらかった。
なにもかも相対的に障害が軽い俺にあらゆる負担がのしかかるような場所だった、とだけ書いておく。
いろいろやって気づいたことがあるんだけれど、一番きつかったのは軽度の知的障害を伴った発達障害者と関わることだった。
そしてその根底には自分自身にある知的障害者への差別心があるのではないかとも思っている。
自分も障害者という枠組みの中では何も変わらないのに、それこそ例の増田のような「俺はそいつらとは違う」という気持ちがあるのは否定できない…
LGBTにも他の性的倒錯者を差別する気持ちがあるように、似たカテゴリにいても差別心というのはどうしても出てきてしまうのだろうな。
性的マイノリティにしても障害者にしても聖人ではなく好悪の感情があり、苦手なものを好きになることは無理なのだろうとも思う。
その事実を認識しなければ今回逃げ出した増田のやりとりのようにお互いが不幸になるだけだ。
今は福祉とは関係の無い、人の集まるイベントや集まりに参加することにしている。
自分の障害の話はしない。いきなり「自分は発達障害者なので」なんてカミングアウトして困惑しない人間はいないだろうし。(当たり前だ)