はてなキーワード: 法則とは
読んでくださってありがとうございます。あなたのその声で読んでくれる人が少しは増えてくれるかもしれません。
>というのは、例えばどこからどこまでが既知の事実で、何があなたの仕事というか、新たな知見であるのかが不明でした。
統語法則は既にある知見です。フローチャートを重視するのは、私は無学なので、オリジナルのつもりですが私には分かりません。
大学で勉強するのも良いかもしれません。両親を説得できれば、そうしてみたい気もします。
この研究は、ベーシックイングリッシュを通して、自然言語における関係の記述の仕組みを明らかにすることを目的としています。
つまりは工学というよりは言語学ですが、しかしフローチャートなどの概念に慣れれば素朴な研究なので、工学的な応用もすぐに可能だと考えています。
>もし実際にあなたの頭が狂っておいでなのでしたら、差し出がましいようで恐縮ですが、一応、精神科医を受診するという選択肢を重視するようにお願い申し上げます。
第一章『関係を記述する方法としての「基準」とその基準からの「指定」』
このベーシックイングリッシュの分析においては、「基準」とその基準からの「指定」という概念が、フローチャートの他に重要なものとして出てくる。なぜか。
それは自然言語においては下の図のような統語法則が使われるからで、そのままでは単語AとBの関係を記述する際に、図の通りで、集合論的にどちらかがどちらかを直接的あるいは間接的に含むという風にしか記述できない。(木構造は、ただ何が何を含んでいるかを表しているという意味で、集合論を線で表したものでしか無い)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%BB%E8%A6%81%E9%83%A8#/media/File:Kafka_English_tree.jpg
※この英語の図では動詞が主語を含んでいて、また「monstrous verminous bug」が「a」を含んでいると解釈されているが、事実として『主語が動詞を含んでいて、またaがbugを含んでいる』と解釈するのも意味的には可能な文で、私は後者を採用している。「monstrous verminous bug」は一語として認識されていると考えている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%BB%E8%A6%81%E9%83%A8#/media/File:Kafkaj.jpg
※wikipedia「主要部」から引用。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%BB%E8%A6%81%E9%83%A8#%E4%B8%BB%E8%A6%81%E9%83%A8%E5%85%88%E5%B0%8E%E5%9E%8B%E8%A8%80%E8%AA%9E%E3%81%A8%E4%B8%BB%E8%A6%81%E9%83%A8%E7%B5%82%E7%AB%AF%E5%9E%8B%E8%A8%80%E8%AA%9E
そこで必要になるのが「基準」とその基準からの「指定」で、ある単語を基準に他の単語を指定するということによって、二つの単語の関係が様々に記述できるようになる。
例えばAとBが隣り合っていることを記述したいとする。記述する方法を自由に設定できるならば、「A B」と記述すれば良い。これなら「右」という単語も「左」という単語も必要無い。
ただ自然言語においては、これではAがBを含んでいるということになってしまう(あるいはBがAを含んでいるということになってしまう)。そこで、Aを基準にすればBが右にあり、Bを基準にすればAが左にある、というような記述方法が必要になる。
(ちなみに「right」や「left」には、前後の他に上下も必要になる。前後と上下が定まって、右や左が生まれる。上下は重力によって生まれていて、重力は自然現象なので、この分析では「right」と「left」は考察の対象外とし、付録の『本文に掲載されていない単語一覧』に掲載している。)
ちょうど今読んでいる夏目漱石の「創作家の態度」に、そこら辺のご都合主義的に歪められた世界観に気付いてしまった読者の心理が書かれているところがあったので参考までに。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/1102_14956.html
>>これは小説ではありません。事実だとして、あるものに書いてありましたが、私は単に自分に都合のいい例として御話を致します。
以太利イタリーのさるヴァイオリニストが旅行をして、しばらく、ポートサイドに逗留とうりゅうしておりました時、妙齢の埃及エジプトの美人に見染みそめられまして親しき仲となったそうでございます。ところがこの男は本国に許嫁いいなずけの娘があるので、いよいよ結婚の期が逼せまった頃、ポートサイドを出帆して帰国の途に上りました。ところがその夜になると、船足で波が割れて長く尾を曳ひいている上に忽然こつぜんとかの美人があらわれました。身体からだも服装も透すき通っておりますが、顔だけはたしかにその女だと分るくらいに鮮あざやかであります。ただ常よりは非常に蒼白あおしろいのであります。この女が波の上から船の方へ手を伸して、舷ふなばたを見上げながら美くしい声で唄うたをうたいました。それが奇麗きれいに波の上へ響くので、船の中の人はことごとく物凄ものすごい心持になりましたが、やがて夜が明けると共にかの美人はふっと消えました。やれやれと安心しているとその晩またあらわれました。そうして手を伸して、首を上げて、波の上を滑すべって、船のあとをつけて、いかにも淋しい声で、夜もすがら唄をうたいます。それから夜が明けると、またふっと消えます。そうして夜になるとまた出ます。そのうち船がとうとうネープルスへ着きましたので、かの音楽家はそこで上陸致して、自分の郷里へ帰ると、手紙が来ております。差出し人はと見ると、ポートサイドにいる友人で、かねて自分と彼の女との間を知っているものでありました。すぐに開封して見ると、あの女は君が船へ乗って出帆するや否や、海の中へざぶざぶ這入はいって行って、とうとう行き方知れずになったとありました。
(中略)
ここに、こんな切な恋がある。これをどう云いあらわしたらば、云い終おおせるかとの試問に応じて出来上った答案と見なければなりません。世の中へ出て行って、どんな恋があるか探索して来いと云う命令に基もとづいた、報告書と見ては見当が違います。したがって客観的価値の少ないものができたのであります。真と認められないものになりました。だからこの話を聞くと、マグダの結末ほどには、はあなるほど、こうもあろうとか、こうあるかも知れないねと云う気にはなりません。しかしながらその代りに、ごもっともだ、こうもありたいね、こうあれかしだと云う気にはたしかになれます。あれかしと云う語は裏面に事実じゃないと云う意味を含んでおりますから、つまりは嘘だと云う事に下落してしまいます。この下落が烈はげしくなるととうてい読めなくなります。馬鹿馬鹿しくなります。
例たとえば今の話しでも、もし船のあとを跟つけるものが、幽霊でなくって、本当の女が、波の上をあるいて来て、ちょいと、あなたとか何とか云って手招ぎでもしたらそれこそ奇蹟きせきになります。幽霊ならば、有るとも無いとも証明ができないだけで済みますが、生きた人間が波の上を歩いては明かに自然の法則を破っております。いくら、かくあれかしと思ったって、冗談じょうだんじゃない、おのろけも好い加減にした方がよかろうと申したくなります。人を馬鹿にするにもほどがあらあね、まるで小供だと思っていやがると本を抛なげ出すかも知れません。
(西遊記、アレビヤン・ナイト、もしくはシェーヴィング・オブ・シャグパットのようなものの面白味は別問題として論じなければなりません)して見ると私が前段に申した意味が自おのずから御明暸になりましたろう。すなわちいかな主観的な叙述でも、ある程度まで真を含んでおらんと読みにくいものである、そう截然せつぜんと片っ方づけられるものじゃないと云う事であります。この幽霊のごときは極端の極端の例であるから、積極的に真を含んでおらんとも云えましょうが、むやみに真を打ち壊しているものでないと云う事だけは、さきの説明で明らかでありましょう。しかも読んで馬鹿馬鹿しくならんのは全くそのお蔭である以上は、真の分子がいかに叙述の上に大切であるかが分るでありましょう。 <<
彼の話の主題は別のところにあるのですが、つまりは「ある程度のつじつまがあっていないと、人は没入することができない」ということではないでしょうか。
西遊記やアラビアンナイトについては別問題としているわけですが、完全な創作世界のお話であっても、その世界の中でのつじつまがある程度あっていなければ読むのが馬鹿馬鹿しくなる。
ハーフという呼び名はネガティブだからダブルにしよう、という働きがある
私はむしろダブルこそ言葉として、その成り立ちからネガティブさとは切り離せないものなのではないのか、という疑問を持つ
そしてそのネガティブさは多くの人間に対して向けられているものではないか、とも
少なくとも現状、違うルーツの両親を持つ呼称としてのハーフの言語的な概念は、当人を100とした、単純に両親の異なるルーツでもって50/50とする、またそれを前提としての略語、もしくは任意において一方のルーツをベースとし残り半分の割合を指すものがメディアで目にするものも含め一般的なものであるように思う
同じくクォーターも4分の3は言及せず、またベースとして略すもので、それはシンプルで客観的で図式的な概念であり、本来の単語としては感情的なあれこれの入る隙は無い
ダブルへ繋げる論拠として
あるいは血統主義から一方の国、この場合は日本人が半分「しか」入っていないという差別意識を表す
正直に言うとかなりバイアスのかかった発想だな、と思う
先にクォーターをハーフに並べたのはそれが言語として連なると解釈するからで、実際の用法としても多くでそう捉えられているからだ
彼ら、彼女らの言うネガティブさである単語からのマイナスイメージで言うならクォーターはハーフより印象は悪い
ハーフが半人前ならクォーターは人間が四分の一しか出来ていない、となる
ハーフという言葉の指すところが日本人の血の割合である、という主張も日本において多くの場合、単語が表す先が他国名となるクォーターでは通らない
繰り返すが言語的な用法としてハーフとクォーターは現実として連なっている
ハーフの「半分」という意味へ待ったをかけるのならクォーターもそうでなければ筋が通らない
クォーターに通じない論理でハーフを解釈する事は、ハーフでだけでなら可能だとしても論拠として不足が過ぎるように思える
だがダブルの法則へ従って4倍という意味を調べたはいいが、それだと元々の4分の1のルーツを表すという意味合いとは違ってきてしまい、現在使われている割合の意味での用法ではなくなってしまう
それがルーツの数を表すのなら日本3アメリカ1のクォーターは日本とアメリカのダブル、という事になってクォーターにあたる表現に穴があいてしまう
単純にハーフの上位互換として更にポジティブさを、というのならクォーターとの併用も違和感はない
だがなぜかそうではないのだ
単語の持つ意味や印象がマイナスイメージを想起させる、と主張するならハーフを否定してクォーターを許容するのでは整合性がとれない
そもそもこのハーフに対する話は日本の和製英語として、その言外にいわゆるガラパゴス的言語観への若干の批判めいた意も滲ませられ取り上げられている事も多く、それなら、と欧米で一般的にはどう表現されるのかと興味がてらにさっくりと調べると何の事はなくhalfという単語も使われていた
ただ日本のように単語自体にルーツへの意味を含ませるのでなく、そのまま単語として国名や民族名と並べてアメリカ半分と日本半分、のように使われるらしい
またpartも同じように使われるようで、こちらが日本で使われていたら分割という意味にネガティブさが見出されていたのかな、とも少し思った
ダブルはといえばこちらも結局は和製英語であり、更にhalfやpartより一般的でないようで、使うにしてもやはり単語単体では意味が通じにくい、という事だった
そういえば以前テレビ番組でハーフはネガティブだからダブルを広めたい、と言った女の子に同じくハーフのアメリカ出身の女の子がアメリカでも普通に使う、言葉自体にネガティブな要素はない、日本でもそうだと思うという風に言っていて、その認識の違いを興味深く思っていたのを思い出した
ダブルもハーフも海外で通じる通じない、という日本のガラパゴス的意識という意味では変わらず、むしろダブルの方が単語の用例としては一般的ではない様だった
略さないのであれば、また略さないそれがそのままダブルの意味なのだとするのならガラパゴス、という部分でハーフに否定的になる理由はない
ならなぜダブルなのか
調べている中で表現としてmixというものがあり、ハーフやクォーター、またそれ以外をも内包出来る親和性の面でもいいな、と思えたし、実際日本でミックスを表現として使っている人も既に少なからずいるようだった
特に多民族国家ではhalfやpartやquarterでは表しきれない事もあり、mixが段々と単語として市民権を得ている、という印象を持った
言葉としてハーフやクォーターと平行して組み合わせる事も可能で汎用性も高く、会話や文脈によってはmixという単語自体にルーツの意を含ませる事自体も、ハーフやダブルと比較すれば難しくはないらしい
言語的にも、日本のガラパゴス的言語感覚への問題提起としてもミックスを使おう、というならすんなりと腑に落ちる
違う言語圏から見て、初めて聞くハーフというその言葉はネガティブさを含むように見えるかもしれない、と思う
そしてそれこそが嫌なのだ、という人もいるだろう
そして誤解とはいえ、ネガティブな枠で自身が定義される、それ自体への拒否感も理解できる
だがその場合ハーフという言葉に言語として、用法としてのネガティブさは認められない
問題は日本独自の略語、和製英語が生む対外的な混乱による認識の差異、ただ1点だ
単語として、ハーフを基準にそこに優るものとする発想から用意された事は明白で、それは先述した言葉としての有用性や論理を置いてけぼりにハーフという言葉への相対的な優位性のみを後ろ盾としており、当然その説得性にはハーフがどれだけダブルに劣るかの提示が不可欠であって、そのやり方としてハーフネガティブ論が持ち上がっているのではないか、と考える
実際ダブルを広めたい、とする場ではほぼ必ずセットとしてハーフのマイナス面が語られ、ダブルのポジティブさにしてもやはりそのネガティブさに対しての相対的なものに留まり、ハーフが差別的である、ネガティブであるという言ってしまえば既成事実作りとそれを踏み台にしての消去法的優位性でもってでのみ語られる姿はどこか悪く言えばプロパガンダ的だ
ハーフのマイナス面をいくら語ったところでそれはダブルの優位性の証明にはならないのだが、単語としての関連性を匂わせ、選択肢として提示する事でそう見せる、というやり方なのだと思う
そもそもダブルが持つとする言葉のポジティブさの論理は、一歩間違えば純血主義に対し方向は真逆でもベクトルは変わらない、同じ類の比較対象ありきの優生的優位性とも取れる危うさもあり、ともすれば強くハーフのマイナス面を示す事でのあくまで相対的であるとする主張はその指摘を避けるためのものでは、とも思ったが、そこまで考えていないようにも思う
賛同している多くもハーフのネガティブさ、という主張をも含め「素敵な考え方!私達は理解してるし悪い慣習は変えて行こうよ!」というような諸手をあげてのもので、単純に深く考える前に助力になれば、という意が先に出ているようでもある
それにしてもダブルを肯定するという事は当然過去遡って差別的、ネガティブな要素を持つ言葉として使っていたという事を自分も含めて認め、もしくは受け入れる事であり、違うのだとすればそれは一方的に要はレイシズムからなる加害者だとされる事であるのにそこに違和感はないのか、と首を傾げてしまう
そのポジティブさはハーフという言葉に相対的犠牲を理不尽に強いた上でのものなのに、なぜそんな肯定的に思えるのだろう、と
確かに現実としてハーフという言葉にナショナリズム等から悪い意味をのせる人間はいるだろう
しかしそれは今の通例としての言葉の概念上では明らかに例外であり、そのような人間が発する言葉に含まれたレイシズムにその他大勢の人間性を巻き込むのはナンセンスであるし、むしろ仮にダブルが使われるようになったとしてどうにかなるのか、というような現実の用法とはかけ離れるレイシストの意図をその文化圏の象徴のように語るのはそれ自体が差別的であるように思える
その上でネガティブな印象に受け取るのは個人の選択であり、本来の意図される言葉の使われ方やそれを口にした人間の人間性など意に介さずお構いなしにやるそれはあまりにも、という印象が拭えない
自身の自尊心のために半ば言いがかりのようにして他の多くの人間性を否定する
それら全部分かっていてもハーフという言葉をネガティブに取ってしまい、それがダブルという言葉で自己肯定に繋がるのなら、とも思いはする
だが、それはあくまで自己完結としてあるべきで、言葉やそれを使う人間をも巻き込むのは傲慢が過ぎるのではないか、と思う
「ただ自分に誇りを持ちたいだけ」「ポジティブにありたい、それが悪い事なの?」というような声も目にしたが、ネガティブさを押し付けなければ得られない、相対的でしかない誇りやポジティブさとは一体何なのかとやはり首を捻る
そんなものでも彼ら、彼女らは良いのかもしれないが、そのためにレイシズムを含む言葉を使って来たと匂わされるこちらはたまったものではないし看過できるものでもない
その人間の意図や場面を限らず、元の言葉から定義をし直そうとするその行為は紛れも無くこの私も含め、多くの人間への自己肯定を理由にした小さな悪意であり、自尊心やアイデンティティと向き合うためにそうする姿は健全とは言い難く、やはり違和感は拭えない
その人が言葉に持たせた意図やその言葉の意味でなく、ネガティブだと捉えた自身を根拠にポジティブになるためにその相手に非難めく
近くにいたら少し距離をとるな、と思うし、それを「応援」する人間も怖いな、と感じるんだろうとも思う
少し前、流れていたツイートで、ハーフなんだね、と言う女の子に、それも少し前話題になっていたプリキュアの男の子が半分じゃないよダブル、のように言っている画像を見た
そこには(曖昧だが)ポジティブな考え方はマネしていきたい、というような文章が添えられていた
画像の男の子は大和撫子とパリジャンのダブルだから、という言い方をしていた
もしかしたら設定として、その男の子は日本に来て間もなく、誤解の下にハーフという響きにネガティブさを感じたのかもしれない
そんな可能性を示す、そこには何の異議もない
実際そのダブルは和製英語としてのルーツを示す略語でなく、単純に本来そのままの意味として使われているように見えた
現実的に考えてみてもそんな状況ならハーフという言葉に疑問を持ったとして、和製英語であるダブルを使う事は無いだろう
だが、これはアニメだ
この場面の意図に、ハーフに代わる略語としてのダブル、という言葉の存在が前提にあるのは明らかで、また画像に添えられたツイートもそのように捉えていたように思う
女の子が口にしたハーフ=ルーツの意味を含む略語という側面でなく、単語それ自体で受け取らせ、ネガティブだと否定させ、その上で同じく単語の用法そのままの意味でダブルという言葉を並べ、語らせ、そしてその比較をハーフとダブルの印象へと繋げる
先述した通り、略さないのであればハーフという単語を用いるネガティブさ、という方向性での疑問は海外の用例からしても杞憂でしかない
そしてまた、略さないのならダブルを用いて自身のルーツを表す事自体には大して問題もなく、それは確かにハーフを使用する場合より単純な印象としてどこかしら肯定的な雰囲気も持ってはいるようにも思える
だが、そこで略語としてのハーフを否定し、成り代わるよう安易にそこに収めようとやるから辻褄が合わなくなるのだ
もしこの男の子がハーフがルーツを表す略語であり、一般的に使われる表現であると理解しているならどうだろう
その場合、その子はハーフと口にした女の子を差別的な要素をも含むネガティブな言葉を無自覚にでも使った人間であると意識の低さを指摘し、また同時に相手の意図より自分が思う言葉の意味を優先して否定から入るような、そんな子だ、という事になる
そしてそれは当然、その女の子だけでなく見ている子供たちへ向けられるものでもあるはずだ
言葉としての意義に悪者であるハーフを否定する事が含まれているのだからそうなるのは当然だ
これはあくまで仮の話ではある
だが同時に現実としてポジティブさ、という言葉の下で同じ事が無自覚に行われているのも事実だ
そしてそれは何の悪意も意図もなく、むしろ場合によっては羨望の意味さえ含ませハーフという言葉を使う、その女の子と同じ年齢の子たちに本来そんな必要のない罪悪感を負わせる事でもあるのだ
今後、私はハーフという言葉を使い、クォーターも使い、ミックスという言葉も使い、また、もしかしたらプリキュアの男の子が言っていたような国と国でダブル、というような、より肯定的な意を込めたとする表現も本来のダブルという単語の用法のひとつとして使う時が来るかもしれない
だが、ハーフという言葉自体とそれを口にする人間性の否定、というネガティブさを纏ったダブルという言葉を使う事はないだろう、と思う
それは
世界を構成する4つの力のうちの「重力」によって起きる自然現象。
まだまだ世の中には解明できていないことがたくさんあるけれど、
ほとんどの物理現象はこの4つの力によって回っている…らしい。
…ここまでは分かる。
すげえわかる。
世の中の色んな物理現象は、何かの法則に則って起きてるんだな。
詳しい事は良く分からんけど、そこには何かしらのルールがあって、
細かなパラメータの誤差は有れども、物事は規則的に起きているんだろう。
…ここまでは分かる。
「世の中の全ての物が物理法則に従って動くなら、生物だって当然そうなんじゃない?」
「生物も全て物理法則に従って動くだけなら、脳の動きだってそうなはずで、
じゃあ意識とか意思決定なんて存在しないんじゃない?」っていう奴。
別に俺に限らずありとあらゆる人がこの疑問を持っていて、
それに対してこう結論付けているのも、今までさんざん見てきて知っている。
って奴。
でもいやちょっと待てよと。
俺は俺の意思を持って行動している。
今ここに俺がどんな文章を書くか。それは今俺がリアルタイムで意思決定して行っている事であって、
決して物理法則に則って元から決まってた状況なんかじゃあねえぞと。
ただ、それを証明する事はどうしても出来ない。
…ここまでが前説。
で、
と思い至り、
「生物とは、世界の物理法則に抗う事が出来る存在なんじゃないか」
と思うようになったんだ。
より正確に言うと、
「生物とは、世界の確率に僅かに干渉出来る存在なんじゃないか」
と。
何が言いたいかっていうと、
ネットにはじかれたボールがどっちに落ちてもおかしくない、みたいな状況で、
そんな感じの処理を実行していて、それが意思決定に相当する行為なんじゃないかと。
それが出来なくなり、
物理法則のなすがままに成らざるを得なくなる事が"死"に相当する。
という事なのでは無いかと。
そう考える事で、俺の中で色々と合点が行ったんだ。
生物は「代謝して自己複製する、自己と外界の間に境界を持つ存在」で、
それが何度も何度自己複製して、複製時の微妙な誤差を積み重ねて多様化し、
多様化と淘汰を繰り返して進化してきたという考えが、今広く支持されている考えだと思う。
これもまあ分かるよ。
でも最初の最初「代謝して自己複製する、自己と外界の間に境界を持つ存在」
世界に干渉して、どうにかギリギリ生物としての必要条件を満たした最初の奇跡、それが生物なんだと。
次に生物の進化と繁殖とその目的、あと今後の世界の行く末について。
ついには人間になって(人間以外にも色々居るけど)、地球中に満ちるようになった。
更に人間は群れて行動して、群体として生物のように振舞っている。
もう「会社」とか「国」とかは生物の一単位と言っていいんじゃないかなと思う。
その答えは「世界へ干渉するサイズを大きくするため」なんじゃないかと俺は思う。
最初の奇跡(自然現象としてはそうそう起きないような確率のインチキ)は、
極小サイズの自己を複製するっていうだけの、小さな干渉だけだった。
それが今では、
海を埋め立てたり、山を削ったり、月に辿り着いたり、
太陽系外に機械を飛ばしたりするレベルの奇跡を起こせるようになった。
この世界は今後どうなっていくのか。
そのうち生物は、地球の引力に当たり前のように抗う存在になって
そしていつか、宇宙のありとあらゆる全ての現象に干渉するようになる。
そこから先はどうなるのか
今の人類がやってる「ちょっとここにビル建てるわ」的なノリで、
「ちょっとこの宇宙のデザインいじるわ」みたいな干渉を出来るようになったとしたら。
そうしていじくり回された宇宙の中の、
どこかの銀河のどこかの星で、
そんな設定のSFが読みたい。