はてなキーワード: 執筆者とは
ってくらいひどい。
いくつかのブログがよく載ってるけどブクマしてる人は毎回同じだしコメントも適当。で、それにブログ主がスターを付けてって読みましたよ~ってことを知らせてる。さらにそのブクマをした人もはてなブロガーだからそのブログにお返しとしてブクマをつける。いいね!みたいな感じで。内容はともかく読んだことをアピールして「今後もよろしく!」ってやってるようにしか見えない。
彼らはPVを上げるためにいろいろ考えているみたいなんだけどブログをやってなくてブクマを見てるだけの俺からすれば結構邪魔なんだよね。
たしか一つのブログに執筆者が三人いてブクマを全員がつけて新着入りさせてたって事例は過去にあってそれはスパム扱いになってたはずだけど俺からすれば最近の一部のはてなブログの新着入りのさせ方もそこまでひどくはないにしても邪魔さでいったら大差ないんだよね。
身内ブクマ対策に関してははてなは昔同期ブログとかで話題になった時に対処してた記憶があるけど最近は甘くなってるんじゃないか?
これから書きたいことは特定個人に関係することになる話ですが、揉め事の話ではありません。
揉め事にまつわる個々の主張や、関係者の人格とは全く関係のない話です。
それでも削除されるのであれば、仕方がないと思うことにします。
◆印象操作
http://anond.hatelabo.jp/20140902121535
これの件です。
結論は以下3点です。
・ブクマコメント一覧ページには「n件のコメントが非表示になっています」というアナウンスを設けるべき
・個別非表示機能を使用する人はサイトのどこかに「非表示にすることがある」「非表示を決定する基準」を書いたほうが信頼を得られるのでは?
実際に非表示にされたコメントを見ましたが、非表示にされて当然と私が感じたものは1件のみ。
そのコメントは一般的な罵倒語を文中に含んでいました(ちなみにグレー領域も1件あると思った)。
ブログ執筆者は「攻撃性が高いものを非表示にしている」と説明されていますが、
コメントに含まれる言葉を1つ1つ見ていくと、一般的な意味で「攻撃性が高い」言葉が特に見当たらないのです。
これは私の推測ですが、「攻撃性」が言葉の意味によってではなく、誰が語った言葉であるかによって決定されているのではないか?ということです。
非表示コメントには過去の揉め事で名前が上がった人が含まれていることもあり、私にはそう見えたのです。
つまりブログ執筆者の主観において「攻撃的」と判断されて消されたということです。
もっとも、他者と主観をすり合わせることはきわめて困難です。不可能かもしれない。
ただ今回のような感情の行き違いがバックにある揉め事であれば、それほどの大問題ではないかもしれませんが、正確性を争ったり検証する話題になった場合はどうでしょう?
ちょっと例を思いつかないのですが。
ソーシャルブックマークと強く結びついてるからこそ、はてなブログは多くの人の目に触れる機会を得るのではないでしょうか。
はてなのブログサービスを使うのであれば、ブクマの取り扱いには慎重になったほうが信頼されると思います。
個人的にはちきりんさんの時にもいろいろあったなーなんて懐かしく思い出したりもしたけど、真面目に考えるのも疲れちゃったから、また「○○かと思ったら××だったらどうする?」ネタでも考えてこようと思います。そんじゃーね。
ウェブ関係のコンテンツに荒らしがつきものなのは、少しでもウェブをやった人間なら誰でも同意するところだろう。
wikiの荒らしの場合、まず挙げられるのが、明らかにwiki内の特定のページの価値を貶める目的で、公序良俗に反する内容やAA等を書き込む輩である。
しかしそういう奴のみならず「黙って投稿内容を削除する行為」も、これまた立派な荒らしであることを、恥ずかしながら最近知った。
詰まるところwikiの執筆・投稿は基本的に善意の貢献によって為される物なので、その結果がたとえ有難迷惑に過ぎなかったとしても、その善意については相応の対応をするのが、人として当然なのだ。
具体的に言うなら、文章の長さや書き方に問題があるなら最大限文意を汲みつつ読みやすく改変する、脱線しすぎ等の理由から改変程度では解決しない内容ならその旨を書いてとりあえずコメントアウト、あるいは目につきにくいよう畳むなどなど。
こうした対応が面倒というのは、自分が書いた内容を予告もなしに全て削除され、何度復活させてもそのたびに消され、しかもコメント欄で抗議し追記の提案をしてもなお罵倒され、つっぱねられても構わないというポリシーを執筆・編集メンバー全員が共有していない限り成り立たないくらい、あってはならないことだ。
もちろん、そんなディストピア感ハンパ無いwikiは執筆者が激減して早晩成り立たなくなるだろうけど。
・・・という普通の感覚を物ともせず、彼ら荒らしは削除という横車をはたらき、さらにそれがwiki内で問題になると、複数端末でなりすましを弄してまでコメント欄に議論の木を乱立し、釣られた相手に反論しまくってログを荒らす。
のみならずDiffAnalyzer等のログ解析ツールを悪用し、削除に反発する人の発言ログを晒す、無記名だった名前欄を改変して反対者を晒す、深夜に多数決を取って(それも無記名投稿可能でIDもない板で)強引に削除するなど、やりたい放題を働く。
見てる方としては「ひったくりに遭って犯人追いかけたら刺された」という感覚に近い事態に発展してしまった。
なんかもう、ただ消すだけという行為からは想像できなかったレベルのクズでキチガイということはようやく分かったけど、そこまでして消したがる心理って一体何なのだろう。
http://xevra.hatenablog.com/entry/2014/05/03/165034
おお、早速返信くださった。ありがとうございます。
執筆者の為を思うなら、... 個人の感想っぽくすると、アドバイスが違和感なく入ってきて、行動の改善に繋がりやすいと思います。
に対して、id:xevra氏は
私のブコメはtwitter合わせて3000人弱の読者が居る。読者以外にも読まれるから1万人弱が見る事になるだろう。それに対して執筆者はたった一人。1万:1であるのだからどっちを向いて書いたらより社会に貢献できるかは自明。元記事の執筆者など最初から興味ないのだ。
なるほど。その動機なら納得です。確かに、それなら一見して目にとまる様なコメントにするのがベストですね。
たとえ目の前の相手を自分の悪口でいくら傷つけても、批判が一万人に届けば良い、というスタンスは、俺に無い考え方ですが、意識が高くて大変素敵なことだと思います。
俺個人としても、あなたの動機がわかったので、スッキリした感があります。
男女問わずパートナーが居ないというのはメンヘル。自分の心と対峙して調和していれば相手など放っておいても勝手にできる。ここで出てくる下手な受け答えなどメンヘルの症状としか見えない。まず自分の心に寄り添え
確かに一瞬ギョッとして、なかなか忘れられないコメントです。
でも、これをみて、「自分もパートナーを探そう」という気になる人がいるでしょうか。
こういう呪詛を受け取った、パートナーのいない人は、「私ってやっぱりダメなんだな」と、ちょっと”うつ”になると思うのです。
そういう状態で建設的な行動が出来るでしょうか。
あなたがやっているのは、”相手をうつにするテクニック”によく似ています。
自分はかつて、あなたのコメント読んで、その背景の思想に興味がわきました。
それであなたのブログを訪ねたのですが、残念なことに満足行く理解は得られませんでした。
きっと3000人の読者の中にも、そういう方がいらっしゃると思います。
”自分の心と調和すると、何故、そしてどのように、何もかも上手くゆくのか”
そういうことに興味があります。
これらの記事をxevraさんが書いてくれるなら、喜んで読みます。
最近、従軍慰安婦問題を中心とした歴史修正主義が大手を降って表通りを歩く様になって来ていてまったく嘆かわしい限りだが、要するになんでこんな馬鹿げた嘘つき連中に騙される善良な市民がいるのかと言うと、それはヘイトスピーチがその定義に「出自やアイデンティティに関わる属性などによって差別する」という意味があるのも知らずに、「差別をしたら罵倒された。これはヘイトスピーチに対するヘイトスピーチだ」などという滅茶苦茶な主張に騙されてしまうのにも似た、まあ一言で言えば「言葉の定義を語感でなんとなくしか捉えない」国語力の低下に起因するものであろうと考えられる。残念ながら、「歴史修正主義」という言葉を前に「歴史は仮説に過ぎないのだから、見直すのは良いことなんじゃないの?」というような自分では冷静に考えたつもりであろう意見は、単なる無知の成せるわざと断ぜられる。なんとなれば、簡単に歴史を「見直せる」と考えること自体が、疑似科学ならぬ疑似歴史学とでも呼べるような間違った発想だからだ。
歴史は元々、矛盾を内包するものである。それはどういうことかというと、普通どんな定説が作り上げられる過程にも矛盾した史料と言うのは必ず存在するということである。現存する矛盾した史料を全て集め、突き合わせ、読み込むことによって、「少なくともこの出来事はあった/なかった」をひとつひとつ確定していったものが歴史の定説なのである。この過程を史料批判と言い、要するに文書と言うものはどうで執筆者の主観、立場、その他もろもろの事情から切り離せぬものなのだから、そこを考慮して信ずべきところとそうでないところを選り分けるという作業である。特に言えば、官僚の作成した政府資料などと言うものはときの政府の都合に合わせきった単なるプロパガンダと見るのが当然であり、そんなものは歴史に限らず今のご時世だって政府発表の資料や説明をそのまま鵜呑みにするのは馬鹿のすることだとまともな大人ならわかることなので、「当時の政府は悪いことはしてないと発表している。だから悪いことはしてないはずだ」などと言う幼児のごとき論理は真っ先に排除される。
矛盾する史料を付き合わせて組み立てられた歴史の「定説」は、当然ながら、仮に今新しい、何か定説と矛盾するところのある史料が発見されたとて、そう易々と覆されうるものではない。本当にそれが未発見の新史料とでも呼べるものであったのならば、それまであった他の史料と同じ様に読み込まれ、史料批判を行い、もしかしたら定説に多少の修正が見られる可能性もないではないが、殆どの場合それほど影響をもたらさない可能性の方が高いであろう。言うまでもなく、「ここに新たなる史料の見つかった。これは定説と矛盾するからして、定説は見直されるべきである」などという歴史修正主義によくある主張は純粋にナンセンスである。歴史学は、人の書いた文章の嘘を見抜くのがその手法の重要な部分を占めている学問である。嘘をつかない自然を相手にしている自然科学とは違い、単純にひとつの事象を観測して、その観測に勘違いがなく、その上で定説や既存の理論と折り合わないようであれば十分な反証が得られたと考えるような、いわば性善説にでも則ったような発想はしないのである。
以上が、原理原則から歴史修正主義の疑似歴史学性、それが如何に歴史学的な主張として正当を欠いたものであるのかの説明であるが、もっと現実的な処世術として持っていると便利な視点は、歴史修正主義とはためにする運動以外の何ものでもないと言うことだ。歴史修正主義者は常に結論から全てを考える。結論に合わせて史料を探し(多くの場合彼らのいわゆる「新史料」は実は史料批判の終わっている既知のものである)、求めるものから逆算して史料を読み、ときにその史料が結論を裏付けてくれるものでないと知れれば、あっさりとそれを捨て別の史料に根拠を求める。こういったやり方が史料批判という歴史学的な手法に反しているのは言うまでもないが、残念ながらこの恥知らずな姑息さこそが、善良な素人をして歴史修正主義に理ありと錯覚させることもある要因となっているのも否めない。素人目に一見正しそうに見える主張をしている手合いにこそ、その「正しそう」に見える部分が何か狡猾な手段から来たものでないのか、学問的な手順の不正によるものではないのかと疑うことが必須である。
歴史修正主義は疑似歴史学である。それが用いるロジックは一言で言って詭弁であり、歴史を簡単に見直し、修正することが出来るかの様に喧伝する議論は学問的にまったく正当性がないのみならず、不見識な素人を騙すためならなんでもする詐欺師にも似た卑劣な活動に他ならない。昨今の日本の歴史修正主義の台頭は、国外から戦後体制に対する反逆と見られるのみならず、こと21世紀に至ってもまったく成長の見られない日本人の論理的な思考力の弱さ、都合の良い結論への飛びつきやすさ、畢竟ためにする勢力のプロパガンダに如何に簡単に騙され流されるかという知的な脆弱さを露呈しているのである。
http://anond.hatelabo.jp/touch/20140321060847
フェイスブックのタイムラインに出てきて、みんながみんな「なんでこんなことを言うんだろう」「悲しくなった」「不快だ」と言っている。
だけど、私はそんな風に思えなかった。
この記事のどこがそんなに異常なのかと不思議になったくらいだった。
就職活動をしていると、ある程度の常識を求められるというか、「おかしくない奴」であることが必要なんじゃないかという思いに駆られる。
そして、自分はそういう常識が人より欠けているのではないかとも思っている(正確には、去年の6月から始めた就職活動を通して思い知らされた。)。
大多数の人と違う感覚を持っているのではないか、この記事を読んでまたそんな風に思わされてしまった。
私はこの記事の執筆者が批判されるような内容を書いているとは思えない。
社員が就活生に会うのはコストだと思うし、就活生から学ぶことは何一つないっていうのも本人がそう思うのならそうであって、そこに他人がとやかく言うのは違うと思う。
考えてみれば、就活生に会って社会人が得るものとはなんなんだろう?
人事部の人なら面接をするスキルを磨くうえでプラスになると思うけれど、それ以外の人はどうだろうか?
学生の話を聞いて勉強になった、と言う社会人に会ったことは何回もある。けど、具体的に何が勉強になったのかはわからなかった。
その人の個性に触れて、知見が広くなることがプラスなのだろうか。
日本の社会人はほとんどが「元大学生」だと思うし、大学生と話す機会なんて掃いて捨てるほどあったはず。
ただ、社外の人と話すのと、社内の人と話すのと、学生の人と話すのでは会話の内容に大きく違いが出るだろうし、
面接ではその人の内面に迫るようなことを聞くのが普通なので、面接を通じて他人の価値観に触れる、と言う意味では学ぶことがあるというのも頷ける。
しかし、それとてどれほどのことであろうか。
今後何年たっても忘れらないような人物に会うことなんて、一年に一度あるかないかぐらいではないだろうか。
仮に、出会った学生すべてに関してメモを取り、保存しておいて、度々見返すようなことがあったとしても、それがいったい何の役に立つのか?
人生の経験としてカウントされるに過ぎないのではないだろうか。それかその学生と再び会った時に好印象を与えらえるぐらいか。
そんなこと、企業で働く社会人に必要だろうか。その経験を大切にするくらい社会人生活には刺激がないのだろうか。
「些細なことでも勉強になる」「刺激になる」ということを大切にするのはよいと思うけれど、それがどれほどのインパクトを持つのかという観点を私は大切にすべきだと思う。
>>論文の共同執筆者で、アメリカのハーバード大学のチャールズ・バカンティ教授は、日本時間の30日午前に放送されたイギリス・BBCのインタビューで、「2001年に論文をまとめたときは、読んだ人たちに批判された。およそ10年間にわたり、この研究を続けてきたので、驚いたというよりもほっとしたという感じだ」とこれまでの苦労を振り返りました。
>>バカンティ教授は、STAP細胞の作成に成功した理化学研究所の小保方晴子研究ユニットリーダーがハーバード大学に在籍していたころの恩師で、小保方さんについて、「彼女は、知性があり、やる気があるすばらしい研究者だ。彼女がいなければ、STAP細胞の研究の発表はずっと先にまでずれこんでいただろう。彼女との共同研究は完璧なものだった」と称賛しました。
書く場所に困ってここを使うだけで、
人物記事で本人が自分の記事に誤りを見つけた時 - あんまり使い道のない日記 - Wikipediaグループ 2013/1/15
に自分で書いた「グループプライベート設定日記」のほぼ転載です。それ以外の方にも読めるようにしたためにここ使いました。
基本的にwikipediaに関心のある人向けですが、ここに書く以上はそれ以外の方からも含めて好き勝手な反応が返ってくることもまぁあるでしょう。
--------------------
近年ja(に限らず)wikipediaの執筆注意事項系の記事まともによんでないのであれだけど、「人物記事で本人が自分の記事に誤りを見つけた時の対処法」がわかりにくいという話を、少なくともわたしよりは近年の執筆注意系を読んでいる人が言っていたのを聞いて、まぁ各種執筆注意系の記事を全部読めばわかるはずだけどあまりに普段自分で執筆・修正をする意図のない人には負担が重すぎるので一カ所にまとまっているといいなぁ、とは思いますよね。既にあったらごめんなさい。
こんな感じになるのかしら。(つっこみ歓迎、というか改善すればよりましになるなら、以下の文章の権利は主張しませんのでどなたか引き継いで流用の上やっていただいてかまいません)。少なくとも、以下の文章の中で関連する執筆注意系記事へのリンクは随時入れた方がいいとは思います。
・申し立てが本人であることが確実に伝わるメディアで表明しないとなかなか対応されない
・現状の記述の「問題」が、確かに「問題」であることが第三者検証容易な資料を提示するとベター
・ボランティア作業であることとウィキペディアの方針の関係でなかなか対応されないことはあるが、黙っているよりは表明する方が改善される可能性が上がる
最低減やった方がよいのは「記事が誤っていることについて、本人であることが確実に証明できるメディアで表明する」ことです。
これは「インターネット上で第三者確認が容易なメディア(公式ブログ、公式ウェブページのリリース記事等)」が理想ですが、「疑うなら事務所に電話して確認してください」とかそういうのでもしないよりは良いのですが、確認する執筆者が出てこないと記事に反映される可能性が下がってしまうと思われます。これは書き換えるのも無償で人間がやることなのでなかなか難しいです。
最も理想的な形は
「本人であることが確実に証明でき、かつインターネット上で第三者確認が容易なメディア(公式ブログ、公式ウェブページのリリース記事、公式認定されたツイッター等)、に誤っている旨と正しいとされる内容を記述した上で、それを信頼できると思われる第三者がその内容に同意したことを示す出典でインターネット上で第三者確認が容易なもの(ウェブで閲覧無料で可能な新聞記事等、他人が関わった事実関係なら関係者の証言)へのリンクを示すなどする。(その上で当該記事のノートページにそこへのリンクを書き込むとなお良いです)」
ことです。
しかし、これはこれで本人にかなり負担が高いと思われます。また該当する出典がそもそも存在しない可能性もあります。なので、「第三者による出典」は「ウェブで誰でも確認できるものがなければ、図書館等で閲覧可能な書籍」等でも本来は良いのですが、記述を変更する人間が確認作業がなかなか行われずに記述の修正がなかなかなされない恐れがありますが、何も出典を書かないよりましです(これは人間がやることなので、どうにかなりづらくても難しいというしかありません)。
そもそも本人がそう主張するという以上に出典までを示すこと自体が「wikipediaに執筆なんかしたくはないんだ」という本人にとっては負担で、時に理不尽ですらあるのは間違いないので、しないならしないでも、止むを得ないとは思いますが、その場合「と本人が主張している」的な記述に修正されてしまう可能性があります。第三者による出典がそもそも存在しない場合も少なくないと思いますが、これはいかんともしがたいです(本人の主張する事実と矛盾する出典がそもそもどこにも存在してない場合であれば、結果的に本人主張をもとに記事が修正されることは現実問題としてしばしばあると思いますので必ずしも無駄ではありません)
注意点としては、「矛盾する資料が一般的に信頼できる資料として既に公表されている」場合は両論併記になったり修正されなかったりする可能性がありますが、これも、それはwikipediaの性質上、回避することがなかなか難しいです。既に公表された側が誤りで有ることが第三者にわかる証拠を示すことで修正される可能性はあがるのですが、wikipediaの方針としては取り入れられるとは限らないです。
更に言えば、「単なる事実と多くの人に思われているタイプの事象」、例えば何年にどこの機関に所属していた、といったことに比べて「第三者の評価に関わることや、主観が混じると思われがちなこと」、例えば「××として評価されている」等は本人主張で誤りというだけではなかなか修正されない傾向がありますが、wikipediaはそういうものと思っていただくのがよいです。(特に研究者がそのように評価し何かに執筆して公開している場合などは、特に修正は難しいです)。
もちろん、本人が特定の内容を「掲載して欲しくない」と主張することは自由ですが、反映されづらいのはそういうものかと思います。ただし、これが法に触れる場合(名誉棄損等)や、プライバシーの侵害につながる場合はその旨主張する権利は当然あります。違法の恐れが高ければ原則として対応されますし、違法でなくてもプライバシー問題はwikipediaの既存の基準にしたがって検討されるもので、一般的に守られて然るべきと思われがちなものは対応される可能性が比較的高いと思われます ※この辺の対応ルールを簡潔かつ正確に書くのは結構難しい気がする。
「今wikipediaに書かれていることは誤りであるが、それが誤りであることを示すのに未公表のプライバシーを明かさざるを得なくなるので証拠を出せない」等複雑な事情がある場合は、修正されづらいのはなかなか難しいものです。強いて言えば、信頼できる情報源とされるような第三者(マスコミ、研究者、業界関係者)にのみそれを伝えて誤っている旨同意公表してもらうと少しは対応の可能性が上がるかも知れません。
と書いてみて、上記の内容だと、wikipediaの方針よりも、既存の方針や実態を利用したテクニックやノウハウの領域に
なってしまっていて、wikipedia内に記事を立てるのが不適な内容になってしまっている気もしますが(つまり、それがwikipediaの方針と主張するのは適切ではないが、wikipediaの方針を利用した使い方として第三者が別の所で表明するのが間違いとは言えない的な意味で)。
注意事項ですが、上記記事はろくに推敲も現状の記事wikipedia確認もせずにささっと今書き上げたものなので、上記記事はそのまま鵜呑みにして第三者拡散はしない方がよいと思います(最新の方針に熟知された現役のウィキペディアンで、大して問題がないと思われる方がいらっしゃるのならばそれは拡散なさってもよいと思いますが)
あと、あまりよくないのは「自分で記事を修正してしまう」ことです。wikipediaの他の記事を触る意思のない人にとっては理不尽かもしれませんが、wikipediaの方針上、自分で書き換えたものは勝手に書き戻されるリスク、編集合戦になるリスクがあります。せめて、ノートページに書く方がよいです。その場合も、本人がそれを書いたことがわかるように冒頭に書いたように、「記事が誤っていることについて(それをノートに書いたことについて)、本人であることが確実に証明できるメディアで表明する」ことで改善の余地が増えますが確実とまでは言えません。
※もしかすると私の気分次第で後ほど上記を推敲してもう少しはましに修正するかもしれません。
※1/16若干加筆と誤字修正しました。 1/16中に二度目の校正。 1/16中に三度目の修正。
------------------------------------------------------