はてなキーワード: 信号とは
なぜだかは分からない。毎夜7、8時間寝ているのだが、昨夜はうまく入眠できず、寝返りを打ったり本を読んだりしているうちについに朝になってしまった。
こんなのは久々で、学生以来かもしれない。オールとか、貫徹とか言ってたなそういえば。
前回の徹夜は顔色がゾンビになった覚えがあるが、丁寧なメイクのおかげもあって顔色は良好にしか見えない。
しかし頭は疲れていて、今朝何を着て行けばいいのか分からなくなり、支度も全然進まなかった。認知機能の著しい低下、と思った。
日中は意外と元気が出て、よもや私が徹夜明けだと誰も思わなかったであろう。
今日はさすがに眠れそうだ、と日が傾きかけた帰り道、いつものスクランブル交差点で長めの信号待ちをしていた。
「すみませーん」と突然元気目に話しかけられた。
うわっ、と思わず言って振り返ったら「ごめんねぇ、話しかけちゃおうって思って…〇〇への行き方って分かる?」とおばあちゃんが朗らかに言ってきた。
そのおばあちゃんの快活な感じ、浅黒く焼けてて、無駄にデカい宝石の指輪をしている感じが数年前に亡くなった祖母に似ていた。
〇〇は聞いたことが無かったので、「調べてみますね~」ととりあえずグーグルマップで検索した。おばあちゃんは「良かった~引っ越したばっかりで道分からなくなっちゃって。助かるわ~」と喜んでいた。
〇〇は自宅周辺だったようで地番まで聞いてみると、ここから歩いて1時間くらいかかることが分かった。
「歩いて1時間かかっちゃうので、バスで行った方が良いと思いますよ」と伝えた。「私、お金持ってきたかしら…」とおばあちゃんがポケットをごそごそしだすと、小銭入れが出てきて、バス代くらいは払えそうだった。
「私歩くのが好きでね、歩いてたらどこなのか分からなくなっちゃって」と言う。私も散歩で1時間くらい歩くのが好きなのだが方向音痴なので、分かるなぁと思った。
「バス停まで一緒に行きましょうか」と言って案内することにした。「いいの?時間大丈夫?帰り暗くならない?」ととても心配されたが、まぁ大したことない距離なので「近いんで大丈夫ですよ~」と答えた。
「ここはなんて地名なの?」と聞かれて、「△△ですよ」と答えた。「あなたはどこに住んでるの。遠くないの」と聞かれて、「△△なんで、近いんですよ」と答えた。
このやりとりが、10mおきくらいに発生したあたりで(このおばあちゃん認知症なんだな)と気付いた。
冒頭に書いたが、私は一睡もしていない。起きてから35時間くらい経過している。しかし穏やかに笑顔で「△△ですよ。ここから近いんです」を繰り返すことに成功した。
バス停にたどり着いた私は、ここでバイバイできるはずもなく、おばあちゃんがバスに乗り込むのを見届けることに決めた。
時刻表によればそんなに待たずに乗れそうだった。グーグルマップで調べた降りる停留所とバス代を書いたメモを渡した。
おばあちゃんは「あなたのバスはいつ来るの?私はここから歩いてすぐだから大丈夫よ」と言っていつの間にか私と役割交代していた。
「たぶんバスに乗った方が良いですよ」と私は答え、これ家の人に電話したほうが良いんだろうか…と思い始め「お家の人に電話かけてみますか?」と聞いてみた。
「うちには誰もいないの」と言うが、「家で待ってるのよ、嫁恐いのよ」とも言った。
何かが不安にさせるのか、最初に会話した時よりも明らかに認知症っぽい会話になっていた。何度も同じ話をするが、全く覚えていない。
「これ、あなたのバス?来てよかったわね」とおばあちゃんがまた言うので「おばあちゃんのバスが先に来ましたよ、乗りましょう」と整理券を取って渡した。
おばあちゃんが席に着いたのを確認し、私はなるべく大きな声でほかの乗客に聞こえるように「〇〇で降りてくださいね!」と2回繰り返した。
もし〇〇で降りる親切な客がいたらおばあちゃんに声掛けしてくれるかもしれないと思ったからだ。たぶんあのメモのことはもう忘れてしまっただろう。
バスが出発したのを見届けて「ふ~」と振り返ると、バス停には他のバスを待つ女子中学生らしき女の子がいて、私をじっと観察していたことに気付いた。
一人になった瞬間地声で「ふ~(やれやれ)」が聞こえてしまったなと思いさっさと立ち去ることにした。なぜか悪いことをしている気分になった。実際は一睡もできていない身体で道迷いの認知症のご老人をバスに乗せることに成功したのだが。
しかし〇〇に着けば道が分かると言っていたが、本当だろうか。190円だったし一緒に乗るべきだったか…と後悔したがすでに遅かった。まぁ、誰か何か助けてくれるでしょう。
日本はこういう何にも名付けられていない行為で成立しているんだな、と認知機能が著しく低下した脳で思った。
そんな話。
あまりにも虚しいのでひとまず娯楽に逃げつつ心を殺して生きてきたが時間が人生に対してのネガティブな意識を癒やすことはなく、結果として続ければ続けるほどに「こんなにも虚しい人生を生き続けてそれに何の見返りもなく終わって欲しくない」という気持ちが強くなっていく。
だが同時に「余りにも虚しい人生だから早く終わって欲しい」という感情も年々強まっている。
「人生に意味があった」なんてクッソどうでもいい感情を味わいたいのではなく、「ここまで生きてきて良かった」と思えないまま死ぬには人生というものから受けた傷が深すぎるというただそれだけの事だ。
いつか報われると信じて生きてきたが、その見返りは全く返ってこない。
世の中の出生主義者は「こんな時はパコパコして子供を作るんだべよ」と言うが、俺からすれば「生まれてきて良かったな!いいことがあるぞ!じゃあまずは社会に適応するための努力を毎日頑張ろうか!」と騙されて今日ここまでやってきてしまって「で?いいことって?酒に酔うと気持ちよくて、棒アイスは100円で買えるけどめっちゃ美味いってこと?その程度のことのために学生時代はイジメに耐えて会社では無力感に悩まされ続けてんの?マジ?虚無じゃね?」となってしまった人間がそれを次の世代に引き継ぐくことで救われる気はしない。
それならまだ「俺はもう騙されねえ!だから俺のガキも騙さねえ!生み出さねえ!」の方がまだ気分的にはシックリくるものがある。
遺伝子と社会に騙されて今日までダラダラと繰り返されてきた我が一族のの苦しみをここで断ち切ることに使命感を持ったほうがまだなんぼか気持ちは癒やされるだろう。
だが、そんなもので癒せる量では俺が人生から受けた痛みに対して支払われるべき報酬としては全く足りない。
こういう時に宗教なんぞをやっていれば「まあ頑張れば天国に行けるからね」と希望があるんだろう。
というか、宗教がこんなにも流行っていて、どこもかしこも極楽浄土で不老不死でハーレムだと確約して見せているのは、それだけ現実というものが苦しくて逃げたくてしょうがなかった連中が多かったということだ。
「じゃあ皆同じように辛いから大丈夫だよね^ー^」とはならんけどな。
他人が痛くても自分は痛くないが、じゃあ自分の傷が癒えるのかと言えば別にそんなことはない。
赤信号を皆で渡って皆で車で轢かれたら皆揃って死ぬだけであって、とくに何かが解決することはない。
俺の中にある虚しさはもう俺個人の虚しさであり、それを解決する手法は俺個人がそれを乗り越えることであって、誰かが同じ地獄でのたうち回っているかはどうでもいいわけだ。
つまり俺はどうにかして現世利益が大幅マイナスになっているこの状況から、せめて納得の行く程度のマイナスまで回復させ、そのタイミングにおいてなんとかして人生を売り抜いてしまいたいのだ。
とにかく俺が今生きている理由は単にそれだけであって、心の中には常に「早く死にたい」が渦巻いている。
この話は誰にしても理解されていない。
大差のついた試合をさっさと終わらせたい気持ちと、少しはまともな点差に持っていきたい意地のようなものだ。
この話をすると「割りと元気ですよ」みたいに言われるし、実際なかなかに元気なんだろうと思う。
だが間違いなく「死にてえ」んだよな。
今まで電動レンタサイクル乗ってたけど利用者が増えたのとポートに無いことが増えたので興味あったので使い始めてみた。
ちなみに法令遵守して歩道は一度も走ってないし信号は自動車用を守ってる。
レンタサイクルよりは段違いで借りやすい。特にレンタサイクルはウーバーイーツで利用している人も多く、返却場所が固まってポートに1台も無いことも多いのでなかなか使いにくい状況。それに比べればほぼ100%借りれてるLUUPは優秀。
遅い。クソ遅い。馬鹿じゃねぇの?
夕方のニュースのレポーター全員クビにしろ。何が「とても乗り心地が良いです」だ。無茶苦茶振動くるわ。お前ら日本中の道路が幕張か豊洲並みの整備されてると思ってるのか。推奨されている通行帯を走るとガタガタしてさらに遅く感じます。
罵声は数回。基本邪魔者扱い。ロードとかウーバーイーツが多い道だと嫌われます。
特になし。たぶんチャリと同じ車道の邪魔者くらいの扱い。急に縦列するタクシーは敵だけど遅いんで自転車より危険に思ったことは無い。
流れに乗れないから車道に膨らむタイミングも取りずらい。ウィンカーとか見てもらえてるか分からないので目視必須。2回ほど路駐トラックと車道トラックがギリギリ走ってハリウッド映画みたいに狭い隙間を走ったことがある。怖かった。
ユーザーの民度は低め。歩道平気で走ってる。自転車の気分の人多い。あと訪日の中国人を皇居周辺でよく見る。銀座で買ったブランド紙袋を両手にぶら下げてフラフラ走った挙句二段階右折とか知らねえって感じで右折レーンで走ってく。あの勝手さが電動キックボードの運転には必要なのかもしれない。
カッパで立って乗れるのでとても楽。車輪も自転車よりは太いのでまぁまぁ安定。
小さすぎるよ車輪。都内の路肩マジボロボロ。電動キックボード用ナビ欲しい。マジで全国が幕張か豊洲だと思ってないか?銀座でもボロボロよ
正直最低のユーザー層の人が好き勝手乗りまくって事例を積み上げている状況。普段使いするにはもう少し法令整備されてもうちょいスピードとタイヤデカくしてくれないと無理。
あと車道スイスイすり抜けられるとか思っている人いるかもしれないが思ったより小回り効かないので平気で人にぶつかるぞ。車道走ろう。というか走れ。
※コメで指摘されたけど二段階右折しなくてOKなんだね。原付以下のLUUPが二段階右折OKって脳がバグるんだけど、これ推進してる人にとって人命は安いのかな?
※※二段階右折してた方が違反だったのか。マジか。いやホント無理よ電動キックボードで車線の流れに乗るの
※※※メット無い状態でスタートしてるんでメット義務とか言われても「今までの俺たちは命知らずのβテスターかよ」って感想。正直対バイクや車だから頭守れても気休めじゃって思う。本当に流れに乗れない。これなら原チャリの方がとっても安全。
追い詰めるつもりで言ってない
下記のニュアンス
増田じゃなくても赤信号は赤信号なのでみんなで渡ろうが車に轢かれる時は轢かれるんだよなぁ
どこで下を見ても良いけれどそれなりの生活にはそれなりのお金が必要なのはやっぱ事実だし
こういう連中がいるなら余裕だわって思ってもそれは"今"の話であって老後じゃないんだよな
仕事は精神疾患がない状態の人でもあれこれ心配しがちだけど別にアラ還までは何してもメシ食えるし
車ないから基本歩いて移動なんだが、なんでこんなに信号長いんだろな。
交差点で斜め向かいに移動しようとすると二回信号渡ることになるわけだけど、それだけで2分+2分くらいの待ちが発生して50メートルくらい先に移動したいだけなのに5分くらいかかっちゃう。
一回だけならまあそれでもと思うのだけど、大きな通りをいくつか渡る必要のあるところだとそれが3回くらい連続する場合がある。そうなるとその向こうの店にいくのはやめとくか、みたいになっちゃうこと結構あるんだよな。だからなんつうか駅前あたりが全部地下街みたいなのになっちゃうのもわかるというか。あれはあれでどの辺いるのかわからなくなっちゃってしんどいんだけどね。
「こんな『異常な行動』をやって、周りの人を困らせてやったぜーwww」と、詳細にも雄弁にも、嬉々として物語る「自称変人」「自称異常者」、これらはもはや、東京のネズミと同じぐらいいそうだ。
少なくとも私には、見るに堪えない。
「異常者エピソード」や「変人エピソード」、特に周囲を困らせるタイプは、発言行為と発言内容に整合性を見いだしづらい。
そのようなエピソードをことさらアピールするということが、かえってその「正常」「異常」に対する極めて正常な判断基準や道徳基準を持ち合わせていることを意味している。
「自称変人」や「自称異常者」たちは、信号が赤であると分かっていたにもかかわらず、わざとブレーキを踏まなかっただけだ。踏めなかったわけじゃない。
それで周囲の人たちが困ることを、なぜだか喜んでいる。目立ちたがり屋の小学生がするくだらないいたずらと同程度のことを、いつまでもやめられない人たちがいる。
そうやって誰にでもできる誰もやらないだけのバカな方法をわざわざ取って周囲の目を引くこと、周囲に迷惑な行動を受け入れさせることで得られる「特別な自分感」に陶酔しているのであれば、それは間違いだろう。
ただそれは周囲が諦めているだけだ。周囲が優しいだけだ。
ただの「幼稚で迷惑な人」、ということに気付いてほしい。
2023年にもなって男脳女脳とかいう妄想・偏見は見たくないです
▼第5回 「男脳」「女脳」のウソはなぜ、どのように拡散するのか | ナショジオ
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/web/17/020800002/021400005/?ST=m_lab
次に自我は脳に物理的にないです。あるというなら指で指し示してみてください
あと、何度も何度も同じこと書くけど、すべては単なる反応で、身体や環境的文脈から完全に独立した脳機能は皆無なの
脳の反応よりも先に身体が動くという研究はいくつかあるのですきなの拾って読んで
なによりも、人間の臓器が自律的に活動することは、脳がなくても可能なこと、
しかし、認知・気分・感情という現象は、その臓器の影響を強く受ける認識を持ってもろて
- Haggard, P., Clark, S., & Kalogeras, J. (2002). Voluntary action and conscious awareness. Nature Neuroscience, 5(4), 382-385. doi: 10.1038/nn827
- Soon, C. S., Brass, M., Heinze, H. J., & Haynes, J. D. (2008). Unconscious determinants of free decisions in the human brain. Nature Neuroscience, 11(5), 543-545. doi: 10.1038/nn.2112
- Fried, I., Mukamel, R., & Kreiman, G. (2011). Internally generated preactivation of single neurons in human medial frontal cortex predicts volition. Neuron, 69(3), 548-562. doi: 10.1016/j.neuron.2010.11.045
ただ、物理的に無い、科学的証明出来ない・・・・とは言え、自我という現象があることは人類みな認識し、気のせいとは扱わないよね
<であれば〜>と続くのが前回の増田な訳だが、お分かりいただけただろうか?
ちなみに脳に物理的に自我があると譲らないのであれば、食用に解体されお肉になった豚の脳が復活した時、
[Nature]Pig experiment challenges assumptions around brain damage in people
https://www.nature.com/articles/d41586-019-01169-8
[日本語記事][Nature ダイジェスト]死んだブタの脳を体外で数時間生存させることに成功
⭐️日本語記事のタイトルの通り、食用に解体されお肉になった豚の脳が復活
> 研究チームは、BrainExに組み込んだブタの脳が6時間でどの程度回復できるかを調べた。
> その結果、保存液を注入しなかった対照群の脳の細胞は崩壊してしまったのに対し、
> BrainExに組み込んだ脳では個々の細胞や部位の構造が保存されていた。また、ニューロンや他の脳細胞が正常な代謝機能を再開したことや、
> 脳の免疫系も機能しているらしいことが分かった。さらに、BrainExに組み込んだ脳から採取した組織試料に通電したところ、
> ただし、高度な脳活動を意味する脳全体の協調的な電気的活動パターンは全く見られなかった。
> 研究チームによれば、そうした高度な機能を復活させるには、電気ショックを与えるか、もしくは、もっと長い時間にわたって脳を溶液中で保存し、
> 酸素供給がない状態で受けたあらゆる損傷から細胞を回復させることが必要だろうという。
>
昔ドラえもんでさ、のび太がしずかちゃんに「家が火事だ!嘘でした〜!」ってやろうとしたらひみつ道具のせいで本当に火事になりかけた話を見て。
怖かったので、それ以降のエイプリルフールでつく嘘には「嘘でも、万が一本当になっても誰かを傷つけないようにしよう」と心に誓った。
例えば「好きな人できたから恋愛相談のって、写真も撮ったの」って言いながらねこ画像のURL送りつけるとか。
「ブログ移転します!」って記事書いて、移転先のブログに「嘘です!ハッピーアイスクリーム!」っていう記事だけアップしておくとか。
見てない映画の感想文を書くとか(溶鉱炉にサムズアップ涙なしには云々と同じノリ)。
「メロスならさっき駅前の交差点で信号待ちしてるのを見かけたよ」みたいなひとめでわかる偽情報とか。
まあ今思うと誰も傷つけないって難しすぎるんだけどね。あの頃は若かった。
でも方向性としてみんながそういうの心がけたら、エイプリルフールも楽しく過ごせるんじゃないかなぁ。
と、何かの炎上を眺めながら思い出していた。
我々は、人類史上最も驚くべき技術革命の渦中にあった。自動運転車は、道路上での交通渋滞や事故のリスクを劇的に減らすことができると期待されていた。多くの企業が、自動運転技術の開発に膨大な投資を行い、我々は目の前で類例のない進歩を見てきた。
ある日、我々の企業で、自動運転技術の未来を決める重要な実験が行われることになった。我々の目的は、AIを高度に学習させ、自動運転車に搭載し、実際の交通状況に対処することだった。これまでに多数の試験を行ってきたが、今回の実験は、過去のすべてを凌駕するものであった。
AIは、私たちの期待を超える素晴らしい成果を残した。交通信号を認識し、車線変更や停止などの操作を完璧にこなした。我々は、自動運転車がすべての問題を解決したと信じていた。
しかし、予想外のことが起こった。
自動運転車は、公開の発表会で一切動かなかった。
ある新人のS氏が、倉庫の隅でホコリをかぶった自動運転車を発見した。
S氏は、「何故これが完成しなかったのですか?」と問いただしたが、誰も原因を知らなかった。
その結果、S氏は、AIのエラーログの一部を発見した。そのエラーログには、次のように記されていた。
「「運転は恐ろしい」」