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2023-01-13

死んでも結局わからない

死後の世界があったとして、死んだらその全てがなんとなくわかりそうじゃん。

からないと思うんだよね俺。何もわからないまま、ただ浮遊してるだけだと思うんだよ。

仏教だったりキリスト教だったり、何かの信者は居場所を探せるんだけど、俺みたいな無神論者は、仮に死後の世界があったら路頭に迷うわけよ。

若い女セックスを観戦してても一週間で飽きそうだし、家族を見守っていても哀しくなりそうでよ。だから俺、宗教に入ろうと思ってんだ。

おすすめ宗教、教えてくれよな!

2023-01-12

anond:20230112163924

失敗や不運に異常に腹を立てる性格

これに対して、瞑想で頭を休めて、程よく諦めたほうがいいぞ。頭が疲れてると腹が立ちやすい。

まあ、瞑想がいいもの→いくつか研究結果もでる→瞑想を利用してあやしいことを言い出す輩が増える見たいに、良いものというのは、悪いやつが利用しようとする…。

もとを正せば仏教の知見なのだがね。

2023-01-10

宗教道徳を、宗教じゃなく、道徳として切り出すのって難しいのか?

結構中国漢文とかって儒教だけど、宗教的意味合いとか薄いじゃん。

みたいな感じで、仏教とかキリスト教の、道徳的な部分だけを、宗教抜きで納得できる形で道徳として切り出せないのかなあ。

藤井風の死ぬのがいいわが海外バズしてるらしいけどあまり報じられない件について

藤井風の「死ぬのがいいわ」という曲が結構なバズをしているらしい。

NHKでは報じた(し藤井風のドキュメンタリーもやった)けど民放各社では報じられないの、統一教会問題を取り上げる以上、もろ宗教二世サイババの教えを歌詞やグッズやツアー名に入れている藤井風を取り上げるのはおかしいしリスクがあるって思っているからなんじゃないかなと思っている。

統一教会問題が出る前はやたら民放でも藤井風を持ち上げる風潮があったけど最近NHKだけだし、実はそういう事情があるんじゃないかなと思う。

いくら本人に布教する意図がないにしろステルス布教可能性があるというのは受け手側も決めていいものであるはずなのでそのリスク

クリスマス特集やってるだろう、仏教番組やってるだろう、パワースポットとして神社紹介しているだろうと藤井信者は返すけど、統一教会の教えはテレビではやらないし、オウムの考えもテレビではやらない。

その流れの一つなんじゃないかサイババの教えは伝えない」は。

また「サイババ言葉は悪い言葉ではない」みたいな擁護する藤井信者新興宗教というのはそういう顔をして近づいてくるし、「サイババ信仰しない」という信念って結構簡単に崩れるんだよと言いたい。

2023-01-08

追記増田でボロクソに言われてた漫画を読んだ

年末年始暇なんでブックオフで安売りしてたぼくたちは勉強ができない(ぼく勉)を買ってみた。

増田でボロクソに言われてたのは覚えてたけど、漫画を一通り読んでネット感想も色々読んだうえである程度は言われてもしゃーないなと思った。

全体的に読者の期待を裏切った結果なんだろうなという印象。

せっかくなんで何をどう裏切ったのかについて自分が感じた感想をまとめる。

見立てと対比

ぼく勉は見立てと対比を多く使っている。

具体的な手法でいえば緒方理珠が唯我成幸への恋心を明確に認識したシーンでUターン禁止標識を同じコマに入れるという方法を取っていたり、桐須真冬と唯我成幸の指導方針真逆であることについて、床の線と足の並びを平行に描いて「(お互いの指導方針が)平行線」などと言わせていたりする。

このような見立て手法のみならず設定自体にも取り入れられており、例えば主要なキャラ童話アニメキャラクターに見立てられている。

キャラ童話アニメ
緒方理珠親指姫
古橋文乃眠り姫
武元うるか人魚姫
桐須真冬アナと雪の女王(エルサ)
小美浪あすみピーターパンティンカーベル
唯我成幸幸福の王子

対比については例えば桐須(キリスト教)←→唯我(仏教)のような指導方針の違いや名前の由来の対比については作者が言及しているが、

その他にも将来の進路についてヒロインごとのグループによる対比が見られる。

将来の進路キャラ
才能と希望が一致せず希望を選ぶ緒方理珠、古橋文乃、桐須真冬※1
才能と希望が一致せず才能を選ぶ武元うるか
才能と希望が一致小美浪あすみ※2、唯我成幸

※1本人の発言。また一生徒であり指導方法を学んでいない唯我成幸ですら達成できた緒方理珠と古橋文乃の成績を向上させることに失敗しているため。

※2小美浪あすみは受験科目の理科分野が苦手であるが、作中で患者の診断については得意であることが示されている。したがって研究側としての才能はないが、現場医師としての才能はあるものと思われる。

追加ヒロインである桐須真冬、小美浪あすみはそれぞれ同じグループキャラクターの将来のロールモデルとして見立てられている。

すなわち桐須真冬存在緒方理珠と古橋文乃が自分の才能がある分野ではなく、自分希望する進路を選んでも幸せになるということを示唆しており、

小美浪あすみの存在父親のいない唯我成幸の代わりに、父親対立したとしても父親の背を追うことは間違いではないのだということを示唆している。

この漫画テーマの一つが幸せになることであり、この2つのグループは将来幸せになることが示されている。

では自分の才能と希望が一致しておらず、才能がある分野を進路として選んだ場合ロールモデルのない武元うるかは将来どうなのか、というのがこの漫画の結末に当たる唯我成幸から婚約指輪を送られる部分であり、これを以て将来幸せになるということが示されている。

この点、作者は古橋文乃ルートで武元うるか失恋ときで不幸にさせるなと言わせているが、将来ではなく現在での描写であり、また幸せとは言わせていない点に本旨があろう。

できないことの克服

この漫画のもう一つのテーマとしてできないことの克服がある。

ぼくたちは勉強ができないというタイトルの通り勉強ができないというのは前提としてあるが、ここでいうできないこととは勉強以外でキャラクターが抱える問題であり、主として家族に関連する問題である

キャラできないこと
緒方理珠人の気持ち特に亡くなった祖母の)がわからない
古橋文乃父親や親しい人と向き合えない
武元うるか恋愛をうまくすることができない
桐須真冬家族の反対を振り切って選んだ道が向いていないと思っている
小美浪あすみ子供の頃から憧れた居場所父親診療所)を継げない
唯我成幸周りの幸せを優先して自分幸せを追い求めることができない

これらのできないことを各キャラ長編(①など番号を付された連話)で唯我成幸が尽力して克服するというのが基本的な流れになっている。(武元うるかと唯我成幸は長編がない代わりに本編の終盤がその流れに当たる。なお武元うるか家族ではなく他人との関係であるが、これは将来家族になる相手との問題であることを示唆している)

この点武元うるか恋愛ができないことについては他のキャラも同じではないかという批判があり、なんなら成就していないのだから他のキャラこそ恋愛ができないのではないかという指摘もあり得る。しかし武元うるか場合恋愛的なアプローチに失敗することが多々あるという点で他と差別化されている。

まり他のキャラクターの場合、唯我成幸の気を引こうとして主体的アプローチをした際にはドキドキさせたり意識させたりして成功しているが、武元うるか場合は好きな相手を唯我成幸ではないと言ってしまったりプールで溺れさせたりするなど明確に失敗してしまうことが多々ある。つまり作中での描写問題であり、そのため恋愛ができないのは武元うるかなのだ。(メタ的に言えば克服できなかったものをそのキャラ問題にするのは最後まで問題を抱えたキャラがいることになるため読後感が悪くなるという問題もあろう)

将来の保証

上記のようにして各キャラが進路を選び、できなかったことを克服することでぼく勉のキャラ幸せになり、その幸せになった将来の姿が本編最終話に当たる150話で書かれている。

この話が卒業後すぐではないのは、緒方理珠と古橋文乃と違って将来像のロールモデルがいない武元うるかにとってはこの最終話こそが将来の幸せ保証するものからである

まり付き合い始めてすぐではなく数年後の将来においても、唯我成幸は他のヒロインたちからの誘惑を振り切って武元うるかを選び、お手製の婚約指輪を渡してプロポーズをする。

このエピソードを以て将来に渡って武元うるか幸せであることが保証され、同時に将来においても唯我成幸にとって武元うるかを選ぶことが彼自身幸せであることが保証される。だからこそこの最終話恋人になってから数年後の話であり、恋人がいるにも関わらず他のヒロインから誘惑されるという一見陳腐な展開が必要なのだ。(あのような陳腐な展開でなければならなかったかは別として)

物語構造

ぼく勉はこのように緻密な構造で作られている作品である。(構造を元にした話自体が緻密とは言っていないので誤解のないことを望む)

簡潔にまとめるならば、作品全体を通して周囲の人間幸せにしてきた一方で自分幸せをないがしろにしていた主人公が、最後最後で今まで幸せにしてきたキャラ背中を押されて自らの幸せのために好きな相手告白をして、恋愛がうまくできなかった女の子と共にできないことを克服した、という結末になるように作られている。

また見立てと対比の話に戻れば、人魚姫幸福の王子という他の4作と対比して不幸な結末で終わった童話モチーフにした2人が、童話と違って幸せな終わりを迎えたという形にもなっている。

作中のキャラの配置やモチーフなどを考えればこのようなストーリーを作者が想定しており、その結末になるように連載を進めていたことが読み取れる。

テーマへの裏切り

さて、ここまでぼく勉という作品の作りを辿ったが、最終的に作者である筒井大志は他のキャラパラレルストーリーも描くことを選択した。

作者のインタビューを聞くと編集との雑談の中で増刊で描けないかと言ってみたら本誌でやることが決まったとのことであり、連載中に急に決まったことがわかる。

このような形で決まったものであるから当然様々な弊害が生まれている。

例えば物語構造として今まで幸せにしてきたキャラ背中を押されることができなくなってしまっているため、主人公告白の重みがなくなってしまっている。(武元うるかには幸せにしてやるという決め台詞を言っておらず、逆に幸せにできないかもしれないけれど自分幸せのために付き合ってほしいという告白になっている。つまり幸福の王子というロールから脱却するというカタルシスがある)

また武元うるかには恋愛というできないことが残ったままになってしまっているため、上で書いたような克服できなかったものをそのキャラ問題にすると、最後まで問題を抱えたキャラがいることになるため読後感が悪くなってしまうという弊害がそのまま生じている。この点古橋文乃ルートセリフを反例として挙げられることが予想されるが、上記の通り現在時間軸であり幸せと言わせていない点に本旨があると考えられ、また結局のところできないままであるという問題は何ら解決していない。

これらの弊害は作中のテーマとしてそれまで書き続けていたことを自ら否定したものであり、それぞれの読者が気づいていたか気づいていないかは別として、無意識的に期待していたものを裏切ってしまった。

無意識的に期待していたものを裏切った上でさらに個々の話でも、特に緒方理珠と桐須真冬について、読者の期待を裏切ってしまった。このように読者の期待を繰り返し裏切ってしまたことが今も批判される原因だろうと感じた。

結果としては自分の考えたストーリーがどのキャラ好きな人にも受け入れられると信じきれなかった作者の敗北だろう。

作中で武元うるか失恋ときで不幸にするなと言わせていたが、好きなキャラ失恋したらファンは喜ばない、不幸になると作者自身が思いこんでしまったのは皮肉である

その他入れられなかったこ

最終回無限未来があると言い、実際の作中のほとんどの女キャラクターが触れていると恋人になるというジンクス主人公成就させているのに、主人公以外の彼氏がいる女キャラクターは主人公に触れていないのは些か逃げ腰ではないかと感じた。

単行本最終巻の作者コメントの僕(作者)が描いたぼくたちは勉強ができないはこれで終わりというコメントはあまりにも無責任過ぎる。お前以外に本物を描くやつも描けるやつもいないんだよ。

特に後者の点でボロクソに言われるのはしょうがないなって感じがした。あやふやな土台の上に二次創作は実らないんですよね。悪いけど。

追記

もしそういう物語構造なら、うるか1話から出ているとは思うが、それはともかく、これだけ独自考察することが、まずもって素晴らしい。/「ボロクソ」は、うるか好きをこじらせた増田いるから…。

この解釈が正しいので「もし」ではないですね。事実です。

冗談はさておき1話から出ていないというだけで否定することができる強度の構造ではない。あらゆる要素がそう物語っているので。逆に1話から出ていなければならないということもないだろう。

才能がある分野ではなく自分のしたいことをするべきというのがこの作品の主張なのであって、その点はセンター試験合格緒方理珠と古橋文乃が衝突を繰り返していた桐須真冬和解するという形で結実するのだから、衝突のない分野に進みその主張とは直接関わらない武元うるか1話に出ていないのも不自然ではないだろう。

当初勉強恋愛の二本柱で進めて行くつもりだったが勉強要素が不人気か何かで早々になくなったために、勉強要素を担っていた2人が恋愛要素も担っているという誤読が生まれたのではないだろうか。

後段の件はちょっと調べたけどうるか派はそりゃキレて当然じゃねえかな……。(私が読んでボロクソと言ったのとは違うので必ずしも恨みの結果ではないと思うが)

パラレルは完全に逃げだったけどなぜパラレルやったかって「真冬先生が一番人気になってしまたから」だよ。先生を真エンドにはしにくいので全員分描いて一番最後真冬編を持ってきて読者の人気に応えた。

パラレルやった理由がそうなのは火を見るより明らか(順番通りなら桐須真冬→小美浪あすみになるはずなのに人気を鑑みて桐須真冬最後にしているから)なので、この増田でも別になぜしたのかとか言ってないよ……

真エンドにしにくいもなにも、話を曲げて人気が高いキャラのエンドにするようなラブコメほとんどない。ぼく勉の場合は桐須真冬人気を惜しんだ作者が話を曲げて描くことにして、その結果期待を裏切ってしまったのだろう。

どのルートでも幸せであることを保証するとか作者言ってなかったっけ

これ(最終巻でヒロイン全員どのルートでも幸せになることを僕(作者)が保証するなどという作者コメントがある)は言われそうだと思っていたが、ではその幸せとは何なのか。

できないことはできないまま残った上で、それでも別の幸せを得られるよという話でしかないだろう。

それが今まで描いてきたこととなにか関係があるかといえば何も関係はない。

幸せになるのはそうなのだろう。でも漫画で書かれてたできないことはできないままだ。それが変わることはないし、代わりに見つけた幸せを得た姿を見ることもできない。

ではその保証にどんな意味があるのだろう? 私はないとしか思わない。

(そういった事情考慮しないとしても、古橋文乃ルート最後唐突に今まで一切書かれていなかった平行世界解釈を語らせるなど言い訳をするような作風鑑みると、読者に批判された言い訳として書いたものと見るのが妥当だろう。そもそも当然のこととして作中から読み取れないことを考慮する必要はないので本文では触れなかった。もちろんファンが作者コメントに救いを求めるのは自由であるが)

2023-01-05

anond:20230105155730

仏教においてダルマは法そのものであるから、正しくないならそれはもうダルマではない。

anond:20230105073349

神棚が省略されたのか

まあ、(仏教混じってるかもしれない)

お百度参りなんて難しいから往復で一日で済ませる(往復じゃなく周回?)

神棚の上に二階の部屋なんてあったら神様に失礼だから天井「空」って張って回避

○十○とか回ってられないからそのお寺の砂置いておくから順に踏んでいったら実質回ったみたいなもの(お寺だった)

マニ車仏教

とかで、簡略化効率化を目指してきたから当然の流れかもしれない

それ以上行くと神様が要らなくなるから、ここが踏ん張りどころ

2023-01-04

神社でお祈りするとき合掌している?

一昨日に神社作法増田https://anond.hatelabo.jp/20230102150139)が盛り上がっていたから、なんとなく神社作法を調べてて驚いたことがあるんだけど、神社でお祈りするときって合掌しないのが正しいんだな。

「二礼二拍手一礼」の作法最近広まってからやったんじゃなくて、それより前からその作法でお参りしていたというコメントを人を結構見かけたけど、昔から正しい作法を知っているなら、やっぱり二拍手の後で手を下ろして一礼していたんだろうか……?


かに「二礼二拍手一礼」と神社の参拝の作法になっているけど、この文言では合掌しろとは一言も言っていない。

で、そもそも論だけど、合掌は仏教作法だ。神道でそんな作法があるわけない。でもみんな合掌してるよな。

ちなみにお寺の参拝方法は「合掌して一礼」だから、合掌することが明言されている。


「合掌」のウィキペディアのページではこう書いてある。

日本では仏教に関する儀式の際に行われるだけでなく、お詫びをするときやお願いをするときに、相手を持ち上げるための仕草として使う例もある。また、食前食後の挨拶の際に合掌する例もあるが、これは仏教由来の習慣である神道では柏手として手を打ち合わせるが、その後は両手を下ろし、お辞儀して礼拝する(神道拝礼では、合掌はしない)。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%88%E6%8E%8C

神道拝礼では、合掌はしない」と明言されてしまっている……。なんてこった、これまでも俺の参拝方法は誤っていたのか。

ソースウィキペディア(笑)みたいな人が絶対いると思うから、ここはわかりやす権威を借りよう。神社トップ神社本庁のページでは以下のように記載されている。

まず、神前に進み姿勢をただします。

背中を平らにし、腰を90度に折り、拝をします。この時の拝は2回行います

胸の高さで両手を合わせ、右指先を少し下にずらします。

肩幅程度に両手を開き、2回打ちます

指先を揃えます最後にもう1回拝をします。

https://www.jinjahoncho.or.jp/omairi/osahou/sanpai

合掌をするともしないとは文字では明言していない。「指先を揃えます。」は合掌を表しているんじゃないのか?と思うかもしれないが、これは文字通りの意味であって手を合わせることを説明していない。

なんでわかるかって、神社本庁のページの「拝礼作法」の欄には、丁寧に動画まで掲載してくれるという至れり尽くせりっぷりだから、それを見るとバッチリ正しい参拝方法がわかるぞ。

件の動画は34秒しかいかちゃんと見てくれ。動画の25秒辺りで二拍手を終えた後、手を下ろして一礼している。

から、二拍手した後、そのまま手を重ねて合掌して一礼するのが正しいわけではなく、手を下ろすのが正しいってこと。

「二礼二拍手一礼」「鳥居の前で軽く一礼」に続く第三の正しい神社の参拝方法として、そのうち広まると思う。

今のうちに正しい参拝方法を行って、君も参拝のマウント取りができるぞ!

anond:20230104052404

そりゃワシは経済学専攻だし読む本は日本語の方が圧倒的に多いし仕事経理だし読む本はあんたと違って多岐に渡るからフェミ程度の小さい範囲の本はそれくらいしか読んでへんよ

その論法で行くと君は哲学倫理学仏教学、経済学文学においてワシに対して何も言えない(なぜならその分野においてワシの方が勉強を圧倒的にしているから)という事になるがそれでも良いかい?

ワシは事瞑想の話になれば本一冊しか読んでない人間に対してもぜひレクチャーしたいと思うがね

何故なら、本を一冊も読んでくれてるほど興味があるからだと思っているからね

2023-01-03

anond:20230102150139

仏教法事のお経も長いので省略してほしい

ブッダはそんな事やってなかったはず

2023-01-02

最初仏教と他の宗教の違い

宗教は神を信じるものだけど、最初仏教は究極の真理は自分自身で見れるから見てみという方法

戒・瞑想布施の果てに何を得るかの違いだけど、宗教は神を信じ、場合によっては瞑想中に神を見るがそれは薬による変性意識と同じ作用であって

神を一度見たとしてもいずれ凡に還る一時的ものに過ぎない

原始仏教は戒や瞑想の果てに一時的悟りを得る

それは神ではなく自身に対する完全な理解であり、傍観者としての意識であり、自分があるという見方消滅である(有身見の消滅

自分は無いという事が、思考でも感情でもなく言葉では表せない深い部分で納得してしま

神を崇める宗教と違うのは一度悟りを開いたら凡の価値観に戻ることが不可能な事

この不還こそが悟りの証であり、預流果という輝かしき門になる らしい

というわけで皆宗教やるならぜひ原始仏教やりましょう

2023-01-01

イスラム歴史ってあまりにもカルトすぎない?

商人が閃いて

既存宗教の設定をパクリ

他の宗教アンチ活動をし

信者が増えてきたら特定地区を奪い取り

既存宗教聖地を乗っ取ることで象徴化し

謎の戒律を繰り返させることで進行を習慣化し

意味不明な苦行を強いてコンコルド効果を生み出し

弱者救済名目宗教による徴収正当化しつつ金を溜め込んでいった。

いや、マジでカルトやん。

こんな奴らそりゃ「まともな宗教じゃねえよ。滅びたほうがいい」言われるわ。

まあユダヤ教かいくそみてーな選民思想宗教もっとウンチッチだからなー。

キリスト教流行ったときハイパーウンチよりマシやんけが原動力な所あるよなー。

全部ユダヤが悪いよユダヤがー。

でもイスラムはクソ。

両方消えろ。

キリストは保留する。

仏教は神。

ゆーて創価ゴミ

消えろ

2022-12-31

anond:20221231104121

哲学の本読み漁ったらいんでない🦀

仏教もいい🦆

2022-12-30

親がやっていた宗教文化的儀礼に背くと罪悪感を感じることがわかった

たとえば初詣初詣めんどくせーし行かない、ってやると自分は正しいことができない悪いやつだという感情が生まれ、罪悪感を感じることに気づいた。めんどいから歯を磨かずに寝てしまおう!みたいな小さな罪悪感。冷静に考えたら初詣って思いっき宗教的文化的行為から神道仏教も信じてない自分が行かない大義はある。そう考えると罪悪感は消えて心が楽になったのだが、あーこうして宗教倫理を形作るのかなあ、と思ったりした。

謎の宗教上、文化上の風習のために大の大人がわざわざ苦労しにいく例は世界中にあって、不思議だなあと思ったりしたが、きっと彼らも親に教えられた生き方をなぞって自分は正しいことをしているという実感を得ているのだろうな、と思った。

anond:20221230102328

他人を愚かだと思うことは、自分自己中心的に考えており、他人自分意見価値観に基づいて評価しているためであると考えられます。そのため、仏教では、他人尊重し、他人との信頼関係を大切にすることが推奨されます

また、仏教では、自分自身が空であることを認識することが求められます。これは、自分自己中心的に考えており、他人自分意見価値観に基づいて評価していることを指します。そのため、仏教では、他人尊重し、他人との信頼関係を大切にすることが推奨されます

2022-12-26

初詣広告公共の場所に相応しくない。ゾーニングするべき

この時期になると駅には「初詣は〇〇へ」という広告が貼り出される。以前はそれを当然だと思ってきたが、冷静に考えればあのような広告多様性に真っ向から反している、公共の場所に相応しくない広告である

というのは、『多様性のある社会』が受け入れるべき人々の中には、

世界中全ての人は◇◇教を信仰するべきである

多神教おかしい。我々の信仰する神以外に神はいない」

偶像崇拝は間違っている」

神社を見ると、『日帝による占領時代神社参拝を強制されて辛かった』という話を祖母から何度も聞いたことを思い出す」

日本の寺を見ると、前の戦争に協力した過去連想する」

といった人々もいるためだ。

たとえそのような信念や信仰の持ち主であっても、信者洗脳して高額な寄付をさせていたり、子ども信仰押し付け信仰の外との関わりを絶たせるようなことをしていなければ、当然に内心の自由信教の自由適用される。

それなのに駅のような不特定多数の人が利用する場に広告があるということは、「我々日本宗教界鉄道事業者は、そのような信念・信仰の持ち主には一切配慮しません」と宣言しているのと同じことだ。それは間違っている。多様性が求められる社会であるからこそ、公共の場所での表現はありとあらゆる属性の人が拒絶しない表現しか置くべきではない。

何も「初詣禁止せよ」「神道仏教信仰するな」と言っているのではない。単に、「初詣広告公共の場所に相応しくない。ゾーニングした上で行うべき」と言っているだけだ。神社新報や月刊住職広告を出す分には問題ではない。だから信教の自由侵害するつもりはない。

ともかく、早急に日本社会初詣広告というマイノリティ差別に怒りの声を上げるべきだ。

2022-12-21

菜食主義が正しいと仮定するなら皆に広めるのが当然だが、仮定が正しい保証はないってことだろ

増田イマイチ俺にはわかりにくかったわ。

俺の理解は、「ヴィーガン菜食主義が正しいという仮定の上で生きてるから、その仮定に沿って世の中に菜食主義を広める方が当たり前である。だが仮定絶対に正しいと証明されているわけではない」ってことと近い。

「ある人が正義原理に基づいた規範的主張をする」ってのは、「ある人が○○が正義だという『仮定』の上で議論を進める」ってのと近い。

そんで、議論での『仮定』ってのは、『とりあえず設定する前提』ってのと近い。

「ある事柄が本当に真実証明されていないが、とりあえず真実だとした上で議論を進める」ってこと。

ヴィーガンは、菜食主義が正しいという仮定の上で人生を生きている。

資本主義者も資本主義が正しいと仮定して生きてるし、自由主義者自由が正しいと仮定して生きてるし、キリスト教徒仏教ともそれぞれの宗教が正しいと仮定して生きてるいる。

人はみな、自分人生観や価値観道徳観を持っていて、それが正しいと仮定しているからその考え方をしている。

ある人の価値観はその人にとって正しいのだから、善く生きようとすれば自分の正しい価値観世界中に広めようとする方が当然だ。

そうしないのは、善く生きようとするのは面倒くさいという怠惰のためか、既に自分の正しいと信じる価値観が世の中に広まってるから行動する必要がないからのどっちかだ。

から、勤勉なヴィーガンは正しいと信じる菜食主義を広めようとする方が誠実だし、勤勉な肉食主義者は正しいと信じる肉食主義を広めようとする(というかすでに広がってるから守る)方が誠実だし、勤勉な自由主義者は正しいと信じる自由主義を広めようとする方が誠実だ。

他人生き方に口を出すべきでないという人も、「他人生き方に口を出すべきでないという生き方」を広めようとしている。

しかし、我々がそれぞれ持っている正しさは仮定しかないのだから絶対に正しいというわけではない。

そして神ではない我々には、何が絶対に正しいかを解き明かすことはできない。

延々と議論をして意見をぶつけ合ってその中でちょっとでも正しそうな方向に向かうしかない。

議論対立を厭うのは知的怠惰である。……が、現実的には、宥和や共生というのは知的怠惰からの方が生まれやすいのかもしれない。

anond:20221219173109

2022-12-13

ウィキボヤージュの日本の項目がおかし

宗教仏教キリスト教神道言及なし

他の部分も明らかに偏った考えの元に日本の紹介文が書かれている

https://ja.wikivoyage.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC

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