はてなキーワード: バンジージャンプとは
踊り場はないようで、10段ほどの短い階段が扉へまっすぐと続いていた。
仕方なく、俺たちは隊列を組みなおす。
「じゃあ俺が前で、ミミセン、タオナケの順で行こう。いちばん後ろは頼むぞ、シロクロ」
「えー、オレが切り込み隊長やりたい!」
シロクロが、これ見よがしに不服のポーズをとった。
俺も戦闘要員のシロクロを一番前にしたいのは山々だ。
けれど何らかのトラブルで階段から転げ落ちたとき、シロクロの巨体を俺たちでは受け止めきれない。
不満げなシロクロをなだめて、俺たちは二階を目指した。
今までは多少なりとも心に余裕があったが、さすがに体が強張っている。
震えで踏み外さないよう、階段をひとつひとつ慎重に上っていく。
そうして短い階段を一分ほどかけて、俺たちは二階の扉前へたどり着いた。
「……よし、開けるぞ」
自分の中で躊躇いが生まれないよう、俺は考える間もなく扉を開けようとする。
バンジージャンプとか絶叫系のアトラクションと同じで、こういうのは思い切りが大切なんだ。
「……あれ」
けれど、そんな俺の勇気を嘲笑うかのように、扉は開こうとしなかった。
ドアノブを見る限り鍵はついていないのに。
念のため引いてもみたが、やはり開かない。
「建てつけが悪くなってるのかな」
この手ごたえは、どちらかというと“内側から何かが押さえつけている”ような……
「任せろ!」
俺がその予感を口にするよりも早く、後列にいたシロクロが声をあげた。
「ちょっ、シロクロ……」
シロクロは長い足を使って、前にいたタオナケとミミセンを強引に跨いでいく。
そして扉前にいた俺に覆いかぶさるような体勢でドアノブに手をかけた。
シロクロはドアノブを勢いよく回すと、体重をかけてグイグイ押し込む。
それに呼応して、扉がミシミシと不吉な音をたてる。
止めようとした時には既に手遅れだった。
「ふんっ!」
シロクロが大きな鼻息をあげると同時に、バキっと鈍い音が響いた。
「よし、開いたぞ」
シロクロは満足げに開いた扉を誇示する。
少し呆れながら、俺たちは中に入っていく。
二階の物置部屋は、一階に比べると小ぢんまりとしていた。
埃をかぶった用具が部屋の隅っこにあるくらいで、棺桶だとか目を見張るようなものはない。
「なーんだ……これのせいだったのか」
扉近くに目をやると、木製の椅子が無残な姿で横たわっていた。
どうやらこれが引っかかっていたせいで開かなかったらしい。
塞いでいた犯人がドラキュラじゃなかったことに、俺は安堵の溜め息をついた。
けれど、それも束の間。
「ちょっと待って。どうやってドアを塞いでいたんだ、これ?」
ミミセンの指摘に俺たちは息を呑んだ。
この就活が終わったら死のうと思う。
私は一地方都市のしがない大学生である。私立四年生大学の最高学年であり、連日就職活動に振り回されている。それでもって例の如く就活で病み、精神的に追い詰められている。これから書くのは端的に言えば弱音であり、備忘録である。たぶん。
私が死を意識しはじめた時期は小学生くらいだった。きっかけは保育園からの友人と疎遠になったことのように思う。その子と私はもともとタイプが違っていて、成長するにつれてお互い世界が広がって話さなくなる、というある意味典型的なパターンだった。
ただ、問題だったのは当時の私にはその子達以外に友人がいなかったことだった。その子達は新しい友人を作っていたが、私は新しい友人を作ることが出来なかった。一度でも学生生活を経験した人ならわかると思うが、学校という閉鎖社会で生活するにはどこかのグループに所属する必要がある。私は友人を失ったことで学校での居場所も失ったのだ。それに加えて元友人は私にとって憧れの存在だった。私はその子のことがまだ好きだったのだ。今なら離れた理由もわかるが、当時はどうして元の友人と疎遠になったのかもわからず、何が悪かったのか折に触れては考えていた。
なんとなく暗い気持ちで日々を過ごしていたときにTVでバンジージャンプの映像を見た。芸人かタレントか覚えていないが、紐をつけて飛び降りる映像を見て「あ、いいな」と思ったのだ。空の中に落ちていくのは、最後に晴れ渡るような青空を視界に焼き付けるのは気持ちがいいだろうな、と。
恐らく当時の私は友人と疎遠なったことで学校生活に不安を持っていた。そこで至った結論が、生きることをやめること、だったのだと思う。だから、バンジージャンプをいいなと思ったのだ。もう学校に行かなくて済むから。
これがとんでもない勘違いであることは充分理解している。死ぬことはそんなにいいものじゃない。落ちてる瞬間はきっと凄く怖いし、空なんか見てる余裕もないし、落ちたときなんか死ぬほど痛い。死ぬんだから当然だ。それにそこで死ねればいいが、うっかり生還なんてしたらたまらない。障害を抱えて生きるか、自殺を失敗した人間というレッテルを掲げて生きるか、どっちにしても地獄である。
でも、当時の私には酷く魅力的だった。ここで死ねば明日は学校に行かなくていい、嫌な発表もしなくていい、最後に綺麗なモノを見て終われる。正直、疎遠になった友人への腹いせのような気持ちもあった。自殺すれば、友人も少しくらい私のことを気にかけてくれるかもしれないという思いもあった。
小学校に通っている間、何度か四階の音楽室の窓から身を乗り出して晴れ渡る青空とコンクリートで舗装された地面を見つめた。あんなに熱心に見つめていたのに私は実行には至らなかった。単純に勇気がないから。私には死ぬ勇気がないから。結局私は「死に憧れる自分」に酔っているだけで死ぬ覚悟もなかったのである。そういうところが本当に情けなくて中途半端な人間だなと思う。
だらだらの長く書いたがここまでは前置きである。あくまでここからが本題。だと思う。
なんとか小中高を抜け、大学にも進学できた。特に留年することもなくなんとか四年生になったが、そこで私は就活という大きな壁にぶち当たっている。
就活で何が死にたいっておおよそ内定が貰えそうにないことである。今現在、エントリーシートを提出した企業が5社でそのうち面接まで行ったのが2社、うち一つは面接を遅刻した。まじで馬鹿だと思う。当然、不採用の通知が来た。あと残り5社ほどエントリーシートを提出するつもりだが正直内定が出るとは思えない。となると来年は就職浪人か非正規雇用の道しかない。
私は今まで「普通」の人生を目指してきた。高校に行って、大学に行って、正社員になる。ごく一般的な「普通」を目指して懸命に生きてきた。なぜ普通を目指すかというと楽だからだ。これも部活動に所属していた理論と近い。「普通」に生きるれば他者に埋没することができる。無駄な注目を浴びなくて済むし、他の人がしないことに労力を割かなくて済む。「普通」というより私は「マジョリティ」に所属したいのだ。常に多数派でありたい。多数派であることはいいことだと私は思う。例えば、何か不幸なことがあっても他の人も体験していれば、よくあることだと納得することができる。困ったことがあっても先人の意見を参考にすることができる。なにより多数決で勝てる。特に多数派であるという安心感は何者にも変えがたい。
内定が貰えなかったら、新卒で就職できなかったら、私の思い描いている「普通」とはいえない。普通でないなら死ぬしかない。
突き詰めれば私は明日の不幸が怖いのだ。小学校のときに明日学校に行きたくないと思ったのと同じように、明日も明後日も自分の生活が続くことが怖い。
これを言うと多くの人が人生は年々楽しくなるとか、いいことも沢山あるんだよとか言うのだが、そう言うことではない。楽しいことがあっても悲しい事は帳消しにならない。別々に積もっていくだけ。それに本当に悲しいことや辛いことがあったときに私を生かした人は責任とってくれない。自分の生に責任を取れるのは自分だけである。
本当は漫然と生きることが不安で、その不安が今回の就職活動をきっかけに大きく燃え上がっている。だから私にとって自殺とはこの不安を解消するための手段なんだと思う。
ネットの海を眺めていると私だけではなく、みんな本当は漫然と生きることに対する不安を抱えているような気がする。本当はみんな理想の自殺の種類があるんじゃないのか。みんなそうだって言って欲しい。私は「普通」だって言って欲しい。
一方で安易な理解は欲しくない、こんなに苦しいのに誰かに判られてたまるかって気持ちもある。みんなが打ち勝っている不安に私だけ負けている事実が怖くもある。
私のこの漫然とした不安は鬱病とかなにか名前の付くものでは恐らくない。だから病院に行って薬を貰うことは出来ないし、病院の先生に話を聞いてもらったところで将来なんてみんな不安なものですよ、とかなんとか宥められて帰されるだけだろう。
私は卒業後は就職するつもりだった。それ以外の選択肢は何も考えていない。就職出来なかった場合については何も考えたくない。
小学生の自分は死ぬことに憧れているだけだったが、今の私はきちんと実行できるだろうか。死ぬことを考えるのは正直に言えば怖い。もしかしたら、まだ私は死にたくないのかもしれない。でも死ぬしかない。明日の私を苦しませないために今死ぬしかないんだ。あそこで死んでおけば、と後悔するのだけは絶対に嫌だ。それなら今きっぱり死なないといけない。もうこれ以上苦しまなくていいように、つらい思いをしないように。
7/25、早朝。
死ぬなら今だ!
意を決してバンジージャンプを飛ぶように。
紐はないが。
そのときは「何もかもうまくいかない。死ぬしかない。」と悲壮感が強かった。追い詰められていた。
だが、うっかり衝動的にやらかしそうで怖いな、という感覚だけが残る。
寝ぼけているうちになにかをなにかして、なにかしているかもしれない。
酷い抑うつ状態のような、「もうだめだ、でも死なない、死なない」という抑止力がない。
死んだら楽になれるとか、もう終わりにしたいとかまったくない。
ただただ、バンジージャンプを飛ぶような爽快感しかないのだ。紐はないけど。
しばらく気をつけながら生活しようと思う。
おしまい。
富士山を登りながら、動画を配信していて、山頂付近で足を滑らせ、行方不明になった男性がニュースになっている。
そのなりゆきがニコニコ動画にアップロードされていたので視聴した。
笑った。最高だった。私もこういう風に死にたい。
自殺にもいい自殺と悪い自殺、セクシーな自殺とそうでない自殺がある。
首吊り自殺なんて最悪だ。発見した人の気分を害する、最低の死に方だ。
いじめから逃げるための自殺はもっと最悪だ。カッコ悪すぎる。私なら、いじめられて死ぬくらいなら、いじめてるやつを刺し殺す。
一つは心中だ。江戸時代の遊女のように、大正時代の女学生のように、愛のために死ぬ。美しい。エモすぎる。
もう一つは殉死だ。君主の死を受け、忠義のために死ぬ。今の私にはよく理解できないが、それがとても尊い死に方なことは分かる。
心中と殉死。この伝統から分かるように、我々日本人はある種の自己表現のために自死を選んできた。自殺は日本の文化だ。あの三島由紀夫だって割腹自殺したんだぞ。
昨今、自殺は良くないだの悩んでるなら相談しようだのやかましい言説が流行している。それも一つの考えであることは否定しないが、日本全体がそういう風潮になるのは文化的な退廃であるように思う。
もし大勢のムスリムが日本にやって来て、豚肉を食べるなんて汚らわしい、と言ったらあなたはどう思うだろう。ヒンズー教徒が牛を食べるなと主張したらどう思うだろう。ほっとけって思うよな。今の私の気持ちがそれだよ。分かってくれ。
人は、生まれる場所を選べない。だけど、生き方は、死に方くらいは選べる。
余談だが、今のアイドルオタクに物申したい。お前らなんで生きてんの?死ねよ。
2001年、音楽グループ「野猿」の解散を受け、女子高生2人が自殺した。遺族には申し訳ないが、私はこの死に方を選んだ2人の意思を尊重しようと思う。
アイドルオタクよ、女子高生だって自殺したんだぞ。お前らも推しがアイドル辞めたら死ねよ。絶対届かない場所にいる彼女もお前が死んだらお前の名前を絶対に忘れないぞ。世間のやつらだって、彼女がアイドルを辞めた事件を絶対に忘れない。私だって野猿の解散を覚えてるくらいだからな。
え、死ねない?家族が悲しむ?そうか、そうなんだな、君は推しより家族の方が大切なんだな。いいよ分かるよ。けど、君の推しに対する愛はそんなものだったんだな。
ところで、こんなことを言っている私を皆さんはどう思うだろうか。きっと、陰湿でウジウジしたやつだと思われているに違いない。
しかし私は私を陰湿な人間だとは思わない。私は、人を楽しませることが大好きなエンターテイナーだ。
自殺について本気を出して考えた私の今のところの結論は、自殺はよくない、ということだった。
残念ながら、今の日本人の多くは心中も殉死も理解しない。だから私は心中も殉死もする気がない。そんなことしてもスベるだけだし。
なら、どういう風に死にたいか。すまない、語らせてくれ。
私は、皆が笑えるような死に方をしたい。
冒頭で話したような、配信中のアクシデントで死ぬような死に方はかなり理想的だ。自殺を聞くと人々は悲しむが、こういう死に方なら笑う人もいるだろう。いいなー、ずるいなー、私もこういうくだらない死に方したいよ。面白い死に方したいよ。
人が死んで笑うなんて不謹慎だ、なんて言う人もいるかもしれない。
だけど、悲しんで欲しくて死ぬ人がどれだけいるだろう。多分少数派だと思うけど。私がニコ生の彼なら滑り落ちながらガッツポーズしてただろうな。今のは良かった、絶対に話題になる、最高に笑える、面白い、マーベラス!
もしあなたが、バンジージャンプの紐が切れて死人が出た、というニュースを耳にしたら──死んだのは私かもしれない。その時は多いに笑ってくれ。それが私の望みなのだから。
なんとなく、毎日新しいことしたいと思っている。新しいことをすると何かが変わるような気がするとかそんなレベルなんだけど。
もう少し正確に言うと、多少興味があるんだけど、まだやったことないなーってものをやっていきたい。嫌なことがしたいわけではない。たとえば、高所は結構ダメなのでバンジージャンプとかは別にいいかなと思う。
本当に小さいことでもいい。新しい音楽聴くとか、新しいアプリ入れてみるとか。
あとは、IT系のエンジニアなのでそっち方面の新しいこともいいな。
仕事終わって帰る時とか土日が始まる時に、「今日はこんな新しいことをしてやろう」と思うとちょっと楽しいんじゃないかって気がする。
思いついたこと
過労で鬱になってから15年。
いつ死のうか、いつどこで首を吊ろうかと考えてばかりいた。
実際一度未遂も起こした。飛び降り自殺のシミュレーションとしてバンジージャンプも飛んだ事もある。
でも昨日あちこちで拡散された、梅田の飛び降り自殺の動画を見て凄く生理的嫌悪感を感じた。
自分が一番欲しかった「死」がそこにあったのに、その人を羨ましいとは思わなかった。
亡くなった人には申し訳ないが、忌まわしくすら感じた。
ここで気づいた。自分は生きたいのだ。
死にたくはないのだ。
過労、パワハラ、病状、人間関係から自由になりたいのを「死にたい」と誤解していたのだ。逃げたいだけだったのだ。
全て逃げて生きられるなら、それを選択したいのだ。
駅伝で体が動かなくなったのに四つん這いで必死にタスキをつないだ選手の話、
どの記事のブクマだったか「選手の素晴らしい闘志に感動した」などと書いてるのがあった。
これっていわゆる感動ポルノそのものなんだけど、いくつも星がついてて、こんなふざけた奴らが複数でいるかと大いに笑えた。
自分一人だけなら将来のことを考えて棄権するところを、仲間がいるから棄権できず無理を通さざるを得なかったのに
実情も知らない、ろくに運動しないような無責任な奴らが、なぁにが「感動した」だ、バーカ!
駅伝に限らず、常に故障の危険と隣り合わせなスポーツ選手はいっぱいいて
客が勝手に抱く期待という圧力、そして仲間内で足手まといになるわけにはいかないという圧力が彼らを故障まで追い詰める。
もちろん、そんな圧力に負けない鋼の心の人たちもいるかもしれない。
だけど、真面目で努力家の選手たち、特に集団スポーツ選手達は多かれ少なかれ、
そんな圧力に晒され、精神的に圧迫されている事を隠してそのスポーツに打ち込んでいる。
一見優雅そうに見えて水中で必死に足びれ動かしてる白鳥のように。
上記のブクマを見た時に頭に思い浮かんだのは、特攻隊に感動する人たちのことだ。そっくりじゃね?
この度、ひっでぇ題名の(よりによって「紀」を使うか?!)本を出版される嘘八百田さんが思いっきり美化しまくった本を読んで感動する奴ら。
他者からの圧力で命を懸けざるを得なかった他人の行動に「素晴らしい」「感動した」とか言ってる奴ら、
ぜひとも「素晴らしい」「感動した」と大いに褒めたたえて差し上げ……たら奴らと同じになるから、念仏の一つでもあげて差し上げるさ。