はてなキーワード: ふつうとは
「真剣に交際したい」と申し出ることは悪ではないし、他人からとやかく言われるような問題ではないと思うんだけど。手を出してたならいますぐ警察に通報して逮捕するべきだけど、好きになることは何も問題ないじゃん。
「気持ち悪い」というブコメもあったけど、かつて(あるいは保守派の人たちからは、今も)同性愛者に向けられ、現在近親相姦当事者や小児性愛者に向けられている差別とまったく同じ。人のセクシュアリティを簡単に「気持ち悪い」と言い切ってしまうことのヤバさを真面目に考えるべき。
両思いじゃないと交際を要求してはいけない、なんてのもおかしいよね。告白とか婚活とかの全否定になる。
え? 未成年との交際は犯罪? いやいや、禁止されてるのは「16歳未満との性交」であって「16歳未満との交際」じゃないっすよ。「強制性交罪」っていう文字列、読めますよね? 手をつないで見つめ合う程度の交際であれば、50歳と13歳との交際は今も昔も完全に合法です(あれ、デートとかに連れ回すと誘拐罪になったりするのか? まあ少なくとも性犯罪ではない)。
親のところに来て交際させてほしいというなら、よほどの事情がない限り二人で来るか、二人が好きあってることが自明であるのが普通だよね(たとえば、娘の交際に憤り禁足令を出している父親の下に単身乗り込む彼氏くん、みたいな)。一方、当該のママさんはなんの兆候もなく一人で乗り込んできたらしい。
親が子供の交際にあれこれ口を出すのは、少なくとも中高生の場合は過剰な介入とみなされうると思うし、仮に中学生に対して特定の恋愛を禁止する権限(「お前があいつと交際することは許さん!」)を認めたとしても、特定の恋愛を押し付ける権限(「お前はあいつと交際するんだ、わかったな」)なんて認められるわけがないので、まずは本人の同意が第一。それを考えると、まずは本人に告白するなり何なりして同意を得るのが先でしょう? なんでまず親にアプローチしてんの? という話になって一気に怪しくなる。まさかとは思うけど、本人に直撃したら拒絶される可能性を見越して親の権力を使って籠絡しようとか考えてないよね?
もちろんこれは疑惑なので、実はとっくに息子くんとは相思相愛でした、息子くんがお母さんには言い出しにくいというので私から、という話なら、変な勘ぐりで申し訳ないけど。
でもって、契約は個人の自由なので、当該ママさんの旦那さんがどう考えているかわからんのだけど、そういう申し出って、ふつうは「前の関係」を精算してからやるもんじゃない……? いやもちろん「交際相手は一度に一人にすべき」というのは一つの価値観にすぎないので、「同時に複数の人と交際してもよい」という価値観はそれはそれでありうるし、尊重されるべきだ(ゆえにそれが法律婚として認められない現状は結婚の平等の観点からはおかしい)と思うんだけど、だったらわざわざ今の夫と別れる必要はないはずなので、当該ママさんはあくまで「交際相手は一度に一人にすべき」派なんだよね……? だったら前の相手との関係をきちんと精算してからにしない……?
まあでも、後に入金があることを予定して高額の商品を予約するとか、転職がうまくいくという見通しで新居探しをするとか、よくあることなので、そこまで責められる話ではないのかもしれないけれど……
浴びるほどしろ。
俺の身の回りの元メタボおじさんで見違えるほど痩せたのは俺を含めて有酸素運動のスポーツを趣味にしたヤツだけだ。
だけど、有酸素運動を趣味にしたヤツはもれなくスッキリと痩せたぞ。
かくいう俺も毎月1.5kgずつ1年間痩せ続けた。17kg減だ。見違えたぞ。
80kg台から60kg台まで減ると、久しぶりに会う友達には必ず病気を心配される。
有酸素運動のいいところは、キチンと食事をとっていいところだ。
食い過ぎ飲み過ぎは論外だが、ふつうの食事は必須で、むしろあらかじめちゃんと糖質を摂ってないと走れないし脂肪も燃えない。
走る前も走った後もちゃんと食べないと力が出ないし力がつかない。
運動するなら、記録をとれ。運動のログをとってくれるスマホアプリなんか今どき選ぶのが面倒なくらいある。
きのうより長く走れた、先週より速く走れた、それだけで続けるモチベーションになる。
「減らすために走る」んじゃなくて「走るために減らす」という気持ちになる。
ワイが散々迷ったあげく発見したのは「ページ最下部からログイン」→「画面右下に出る丸いのを押す」なんだけど、これしか方法がないわけ? みんなこうやってるの? ふつう「返事を書く」とかのボタンつけない? めっちゃわかりづらいんだけど。
元増田が望むような観光ではないかもしれないけど、仙台から鉄道とBRTで三陸を北上するのはおすすめだよ。
西日本生まれで東日本大震災って報道を通してしか理解できてなかったんだけど、BRTに揺られながら北上するだけでも、海岸沿いに続く壁みたいな巨大防波堤や唐突に真新しい町並みが高台に出現する南三陸町志津川地区、だだっ広い更地にポツポツとこぎれいな建物が点在する陸前高田の景色が目に入ってきて、震災も復興もまだまだ全然終わってないんだって思ったよ。
東京からなら時間はかかるけど特急ひたちで仙台に向かえば、帰還困難区域も通ることになるので福島第一原発事故の姿もちらっと見ることができる。
ついでに仙台をふつうに観光するのも楽しいし(せんだいメディアテークに入ってる仙台市民図書館では郷土資料コーナーにジョジョが並んでいるぞッ!)日本三景の松島も通り道だッ!!
石巻は石ノ森章太郎先生の作品にジャックされているけど、旧観慶丸商店という古い地元の百貨店を残した建物はジブリの世界から抜け出してきたみたいでめちゃくちゃかわいいよ!
私は、なぜか子どもに好かれることが多い。
なぜかと聞かれてもよくわからん。遊んでたら「ナカマ…」と見なしてもらえるのだ。でもまあ、だいたい接するのが知り合いの子どもなので、まったく縁もゆかりもない子どもとかだとまた事情も変わってくるかもしれないが。
小さきいのちたちは、とてもかわいい。ちょっと頭コッつんこしたり、いないないばあしたり、カルタしたり、手を繋いであるいたり、絵本を読んだり、一緒にダンゴムシ丸めたりするだけで、純粋な笑顔と好意を全力で向けてくれる。
そして、小さきいのちたちは、何故かおしゃべりがある程度できるようになる(コミュニケーション手段が発達する)と、私に「生活の世話」を頼んでくるのだ。
「ねえ、ついてきて」と、トイレの個室に連れて行かれたかと思えば、あいつらは「私の尻を拭け」と尻を向けてくる。(何故か今のところ全員うんち)
さらには、先日泊まった友達の家では突然「いっしょにお風呂入る」と言い出して、子どもとふたりきりでお風呂に入ったさ。
1人に限った話ではない。2人、3人、4人ともなってくると、ちいさきいのちたちにとって、「排泄の世話をしてもらう」「体を洗って貰う」というのは、絵本を読むとか一緒に遊ぶとかより一歩先の、より深いコミュニケーションの取り方だと本能的に捉えているのだろう。
私は周りがそんな風に子どもを育てている中、いい年して独身だし子どもももちろんいない。子育て経験皆無。慣れてるように見えても、産湯の温度も、ミルクの適温もまったく知らんのだ。
そんな状態なので、よその子(なぜか周りは女の子が多いので今のところ100%女の子)のデリケートゾーンを私の判断でどうにかするのは、非常に緊張する。
「うんちをふくときっておまたに向かっちゃダメなんだよね!?大腸菌つくから!?でも、何回ふけばいいの!?」
「お風呂で頭を洗う!?目に入ったら知らねえよ!?ちいさきいのちが風呂マスター何級かまったくわからないのにどう
洗えばいいの!?」
「っていうか!?おしりとかおまたとか!?どこまで洗えばいいの!?強さは!?」
しかもあいつらは、何故か親にこっそりした感じで「トイレついてきて」とか言うので、ふいうちでくる。
仮に親にどうすべきか聞けても「ふつうで大丈夫!」みたいに言われるのが大半で、こちらとしてはその普通がわからんので困るのだが。
最終的には「たくさんある毎日の習慣で1回ぐらい適当でいいだろ」と、ふわっと最低限に留めることが多いのだけれど、まあそれでもドキドキするね。 「何かママと違う」とか思われたら悲しいし。
ちいさきいのちたちよ、信頼して頼ってくれてありがとう。でも、私は、子どもの尻を拭くことも、おまたを洗うことも、そんなにうまくないのでこれからも期待はしないでくれたまえ。
「理系に女子を増やしたいなら非モテユーモアは減ってほしい」 (anond:20230712191914) を読んだ。
を通じた男同士の連帯のこと。
いわゆる非モテユーモアは、異性愛者としてのアピールでありホモフォビアの表出と言える。
本人はその意識はなくとも、非モテの自虐をすることで、恋愛に興味がある異性愛者の男性としての同質性を求めているのだ。
ホモソーシャルに貢献していることを考えると、非モテユーモアをやめるべきだという意見は納得できる。
か、そうでなければ、
だから前者であれば''女''を押しつけて性的な目で見るし、後者であれば恋愛的なありなしで言う''なし''に分類して、一緒に非モテ自虐ネタとかを楽しむことを要求する。
ふつうの人がしているような、女性を1人の人間として向きあうことができない。
この元増田に対する反論コメ (anond:20230712222303) がわかりやすい。
「女としてのお前」に着目してほしいの?
女扱いされたいってこと?
この増田の頭の中には、
・「女としてのお前」=女扱いする
の2択しかないのだ。
異性としての配慮をしつつその人をその人として扱うという当たり前の選択肢がない。
この反論を書いた増田はたぶん今までホモソーシャル的な環境で育ってしまったのだろう。
やはり根本的な解決には男女比を強制的に近づける手法が必要なようだ。
昔読んだひらりささんという方のエッセイで、印象に残った言葉がある。
誰かの「私」を奪わないように、一人ひとりに向き合う意識を忘れずにいたい。
あります。泣きたい。
まさにこれで、敵視されたり警戒されないトランスの人ってすごいふつうのおばさんなんだよね 上下ユニクロみたいな
逆に年に似合わないフリフリとか女児みたいなロリータとかだと、ウワッ女装おじだ!!!!!て思ってしまう
女装こそが目的で単に女であるってのとは一線を画してるというか
まあ好きな格好すりゃいいけどもし普通に平穏にただの女として生きていきたいんだそれ以外ないんだっていうトランス女性はふつうのおばさんに見える格好すればいいと思う
壊れたトロッコの行き先の片方には豚、もう片方には人間の赤ちゃんまたは重度な知的障害者が置いてあり、どちらかを犠牲にすることでどちらかは救われてる
この時お前らはどちらを救う?人間を救うだろ?確かに人間も豚も大きな意味で同じ生き物だけど、同じ命ではないから
このように多数論証を肯定するならヴィーガンが種差別として否定する判断も肯定されることになる
知性の高い動物たちは、ふつうの人間ほどには「生」に対して強い利益を持っていないとしても、知性の低い動物たちや、あるいは人間の赤ちゃんや重度な知的障害者よりかは強い利益を「生」に対して持っている。
だから、知性の高い動物が死ぬことを知性の低い動物が死ぬことよりも重大な危害であると見なして、どちらかが死ななければいけないときに後者を死なせることは、種差別ではなく合理的な区別だ。
逆に、「人間だから」という理由で赤ちゃんや重度な知的障害者たちが死ぬことを知性の高い動物が死ぬことよりも重大な危害であると見積もることは、合理的な区別ではなく種差別である。