その先人気が出て、ゴリ押しした分の先行投資を回収できると思うからゴリ押しするのであって、いくらゴリ押ししたところで売れないものは売れない。
要はビジネスだ。
ゴリ押ししたおかげでそのコンテンツを認知し、お金を払うほど満足した客がいるのだから
そこに価値が生まれていると言っていいだろう。
自分がどれほど興味がなくて、理解できなくても、それがどんなにくだらないものでも
それに興味を持って、視聴したり、購入したりする人がいて、ビジネス的に回っているのであれば、「ゴリ押し」はなくならないし、
ニーズの把握、資本の投入、そして回収、それが資本主義社会だ。
今回のAKBの総選挙で、テレビ局はニュースで大々的に国民的行事だと伝え
「興味ないよね」という会話も含めれば、かなりの人が話題にし、
熱狂的なファンは投票のために2000万注ぎ込み
その熱が冷めやらぬ中、なんと新人の「江口愛実」という子が彼女たちを指しおいてCMでセンターに抜擢されたという。
ここ数日ほど話題を集めていたが、
まあ、なんのことはない。結局、その子はメンバーの顔をCGで合成した架空の人物で
「江崎グリコ」の「アイスの実」から名前をとったという顛末であった。
国民的イベントという装いを纏った金銭投票の結末が、一企業の商品の宣伝だったのだ。
これを、なんと形容すればいいのだろう。まさしく茶番中の茶番である。
もっと見えにくい形で、巧妙な形で、あらゆるところに資本に回収されるような仕組みが僕らを囲んでいる。
はからずも、総選挙で2位に甘んじた子が「票数は愛です」という名言を残した。
これは、ホリエモンが言った「愛はお金で買える」よりも無意識のうちに資本主義社会の核心をついている。
お金で愛が買えるのではなく、愛はお金に回収されるというところがポイントなのだ。
愛じゃなくてもいい。あらゆる人間の感情と認識と思考が資本システムに回収される仕組みに満ちているのだ。
「好きだ」とか「かわいい」とか「モテたい」とか「面倒くさい」とか「寂しい」とか「エロい」とか
「見栄」だとか「常識」だとか「不安」だとか「時間」だとか「萌え」だとか「やりがい」だとか。
しかしながら、その感情も、それを回収するシステムも否定することはできない。
抱くべき「正しい」感情など本質的に存在しないのだから。この社会では、誰もそれを一律に決めることはできない。
自由に感情を抱き、自由に好きなものを買うことができる。
その感情がお金と結びついていること自体おかしくないのか、考えることもできる。
もちろん、考えないでブヒる自由もある。
ここまで書いて、「ゴリ押しだ」と叫ぶ人たちへの見方を少し変えなければいけないのかもしれないと思った。
大抵、批判の対象は電通・韓流・マスコミで、その背後に反日勢力がいるという論法に見飽きていたが、
その根底には、思い通りに金を回収しようとするシステムへの反感が、実のところ存在するのではないだろうか。
しかしながらそれも、「WiLL」「諸君」「正論」「嫌韓流」といった本のコンスタントな売り上げや
それを煽りアクセス数を稼ぐコピペブログのアフィリエイトなど、結局資本に回収される仕組みに飲み込まれているという入れ子的な構造がある。
「信者」と書いて「儲」と読むなんて、よくできてるなと思うが
人間の感情・思考を、あらゆるミームをお金に変換するシステムを作ったときに、儲けることができる。
それこそが資本主義システムであり、僕らに快適・安心・快楽を与えるくれるのと同時に、いつでも手をこまねいてチャンスを狙っている。
自分ではそのつもりなくても、パワハラしてるんじゃね?ってことだろいわせんな。
その話を聞いた私は反射的に、
「そんな魅力的なキーホルダーを付けていたのも悪いよ。」
脊椎反射で、間違ったことをしていない家族が悪しざまに言い、それを問題視していない。
しかし、私にしてみれば、他の子の目を引かないような子どもだましのキーホルダーでお茶を濁しておけばいいとしか思えません。カワイイことにそれほどこだわる必要性を感じないのです。
妻が怒りを感じている原因を理解しておらず、問題収束にのみ注視している。
「主流派女子のものさし」と「ガリ勉の人達のものさし」とで両親がチャンバラしていれば、子どもも安心して自分のものさしを振りかざせますから。
物差しのすり合わせをする必要がなく、物差しの差の吸収を子供にさせようと考えている。
自分の疑問を解決しただけで終わっている。
男性は本音がどこにあろうと「社会に貢献する」という根本的な部分を持っているので、話のもっていきかたに苦労することがない。
実は今、父に女性のケアマネさん、母に男性のケアマネさんが付いている。2人とも、もちろん、我が家の状況を理解している。父は認知症なのだが診断が難しい珍しいタイプで、ある医師は「認知症」だと言い、ある医師は「ぼくは認知症と取りません」と言うような状態だ。正直、認知症かどうかはどうでもいい。問題は私が父に対して、どのくらい保護責任があるかということだ。認知症で無ければ、保護する必要はもちろん無い。自分の身の回りのことはしているからだ。認知症であれば、何か重要な判断を必要とする場には立ち会わなくてはならない。例えば、見当識の無い要介護3の母を父一人にみさせておくなど社会的に許されないだろう。ところが、ここのところを父のケアマネさんが理解してくれない。
「私は週35時間は休みが欲しいんです。でないと精神的に潰れます。だから、その間、ヘルパーさんとか出来るだけ人に入って欲しいんです」と言ったら笑い飛ばされた。「お父さんは自立して生活できるのだし、奥さんと同居しているし、娘さんも近居なんだから、ヘルパーなんて入れられませんよ。介護保険では出来ないこともあるんです」だそうだ。「いや、父には母の世話は出来ないと思いますけど」「認知症じゃないって言われたんだし、本人がやると言っているのだから、やればいいじゃないですか」って。
一方、母のケアマネさんは、母をショートステイに預けるように、しきりとアプローチしてくれる。母の世話するのが父には無理だということを理解してくれているのだ。父は頑として受け付けないが、本当に有り難い。
父のケアマネさんに「父に母を預けるのは無理だ」ということを理解してもらうには、どう話せばいいのだろう。
優秀な人間を育てた方がいい気がする。自分でもちゃんと勉強するけど。
俺が結果を出すまでには結構時間がかかるらしい。(長期的なプランを立てないといけないし、勉強期間含めてどれくらいかかるか聞いた)
それとパートナーへの神愛を得るために犠牲にしたものが結構大きいって(手伝ってもらって純愛から神愛になったんだけど)。
本来のサイコパスの能力が発揮出来ていれば、ある程度の結果は出せてたらしいけど。
一つの目安として
女×2+自分
そしたら、なんとなくそのうちの1人と付き合うことになったり、
またはそこから人脈が繋がってその先と付き合うことになったりして
1対1で自然に雑談できても、男が意識しすぎて(悪く言えば、がっつきすぎて)
駄目になるケースはけっこう多い。
けど、「女×2+自分+α」だと、不思議に精神的な余裕ができる。
それが安心感(というか信用)になるみたいで、心理的に受け入れやすい…んだと思う。
女性にキモがられることなく自然と雑談できるにも関わらず彼女ができない!
という場合は、「同時に2人以上の女友達ができる場」を頑張って探すといいよ。
また、こんなオクテな男友達に女の子を紹介したい場合、まずは「女×2+男+α」で
追記
「俺がひとりで歩いているところに…」のブコメ、笑わせてもらいました。
俺もこういうセンス欲しい。
東大卒なんてそこらじゅうにゴロゴロしてるが、増田ほど気持ち悪いのはそういない…わけでもないな。結構いる。中身の無いハッタリ職の人に多い。
今のエネルギー関連の議論みてると「集団ヒステリー」と言われるのも仕方ない。
電力自由化すべきかどうかなんてのは電力供給が安定化した後でも出来る話だし、
原発の代替にいきなり自然エネルギーを使うのも、現状ではハイリスクすぎる。
特に今は、そんな先のことを話しているような状況ではないはずだ。
現時点で稼働中の原発は動かし続けて、点検停止中の原発も再稼動させるべきだろう。
いきなり原発が全部止まったら、電力供給がギリギリ足りるか足りないかの状態になる。
そもそもピーク時の電力需要を正確に予測できるとは思えないし、
新しい発電所ができるまで、こんなギリギリの状態を続けていける訳がない。
とりあえずは、コストも安全性も今の時点で明確になってる火力発電所を建てて、
電力供給が確保されてから、老朽化した原発から順番に廃炉していくべきだ。
小規模な発電所を建てて実証を繰り返し、コストや安全性を十分に見極めてから展開すべき。
見切り発車で地熱か風力か太陽光に大規模投資して、後々弊害が分かって止めることにするとか、
政府が早急にやらなきゃいけない仕事は、点検停止中の原発がある地域を説得して再稼動させることと、
原発の代替となる発電所を電力会社に建設させ、対外的にはCO2排出目標の棚上げをお願いすることで、
将来のエネルギーのあり方の議論とかは、もっと長期的な議論と実証の上でやるべきことだ。
ね。自分を主観的に観るって意味がわからないね。ごちゃごちゃする。でも、どういうことなんだろうって悩んでみると、妙に面白くなってくるような気もする。
客観視の相対として主観的に観るってことを捉えれば、自分自身の考えを持つってのも回答のひとつとして上がるんだろうなあ。
まあ自分でふいに思いついただけのことだったんだけど。なんか申し訳ないね。誰かさんはいなかったんだ。
でも、こんな言葉遊び的なことを脈絡もなく思いつくためには無意識下の「誰かさん」が必要なのかもしれない。
困ったものですね。
サンライズからしてみれば、元増田のようなファンの高齢化/老害化こそが最大の懸案事項だったわけで、これを放置していたらじり貧は避けられない。しかし単体では若い(児童層)への訴求力は持ち合わせておらず、この辺の戦略をどうするかが喫緊の問題だった。
そこに「レイトン教授」シリーズや「イナズマイレブン」シリーズでゲーム、アニメ共に児童層対象で実績のあるレベルファイブが現れ、さらにコロコロコミックという、小学生の流行を制するための最強の応援も取り付けた。これにサンライズが振り向かないはずがないだろ。
こんなくだらないことでガンダムを嫌いになりたくない。
議会制民主主義の日本では、議員の選挙に参加しなければ政治に関与できない。
つまり政治に意見を言うということは、実質的に選挙に参加することである。
もちろん、投票したい人間がいないということもあるだろうが、今まで一度も投票に行っていない人は、『投票しない人』ではなく『選挙に参加する気がない人』であるのはほぼ確実だろう。
そのような人が政治について語るのは、語っているのではなくただ愚痴を言っているに等しい。
自分の考えはともかく、『選挙に参加する気がない人』の愚痴を聞かされる『投票した人』の気持ちになれば相手が理解できるだろう。
ガンダム新作が発表されて、「ガンダムじゃない」感をひしひしと感じた。
今後の発表や本放送で感想が大いに変わることはありえるが、ひとまず現時点では、ガンダムである必要性を全く感じられない。
なぜか。
等身の低い丸っこいキャラデザ、三世代に渡るストーリー展開、オモチャにしか見えないガンダムのデザイン。
全てレベルファイブの作品で見たことがある、というかもうぶっちゃけこれ、イナズマイレブンベースにダンボール戦機のメカ要素取り込んだだけだろ!としか思えない。
全てにおいて突っ込みどころ満載だが、個人的には、三世代ネタを出してきたところが最も気になった。
そもそもガンダムの主人公は、親子、というか家族の概念が希薄な人が多い。
アムロやカミーユは親が仕事優先で放置されがちな少年時代だし、ロランやヒイロは出自不明。
ガロードとシンは戦災孤児、親を殺して自発的に孤児になった刹那というガンダム。
キラには親がいるが、全くストーリーには絡んでこない、かなりの透明度。ウッソのところは…他が濃すぎて……
とりあえず、ガンダムの主人公はそのほとんどが、帰るべき家・家族を持たない「孤独な少年」である。
ただ、自分の知る限り唯一、孤独な少年じゃない主人公のガンダムがある。
「Gガンダム」だ。
「ガンダムファンの高年齢化問題」と「小学生層の取り込み」を実現させるために、設定を大きく変え、「機動戦士」ですらなくなったガンダム。
ガンダムAGEは、Gガンで挑戦し、一定の効果を得たこの課題に、再挑戦する意思が見える。
そして今のタイミングでこの課題に挑戦するにあたって、こども向けのゲームタイトルで躍進するレベルファイブが関わるのは、ある意味当然のことのようにも思える。
そこまではよかった。
ガンダムに関わっている間、それを捨てて「ガンダムの」ストーリー作家になれるか?
多分無理、絶対無理。
いくら「これまでのファンも大事にします」と言ったところで、既にゲーム発売も予定されている。
そんな状況で、ゲームの都合でストーリーを変えることができる立ち位置に社長自らが腰を据えるわけだ。
信用するのは難しい。
何せ日野社長って、会社の経営方針的に、ドラクエ、二ノ国、そして今回のガンダムと、ブランド力への執着心が半端ない。
そこにきてガンダムAGEは、イナズマイレブンでやり尽くした感が否めない「三世代」ネタを主軸に置くときた。
つまり、このガンダムが成功すれば、日野社長は「家族ネタに定評のある構成作家」の地位を確立し、それはそのままレベルファイブのブランド力になるのだろう、ということ。
それを前提とすると、先日の発表会は、
「新作ガンダムは、2011年秋までのレベルファイブ作品紹介プレゼン動画です!1年かけて放映するからよろしく!」
…と言っているようにしか見えなくなってくるので、今非常に困っている。
最近のガンダムは文句言いながらもそれ自体も結構楽しめてたけど、今回ばかりは不安100%で楽しめる自信が全くない。
誰か一番いい論破を頼む。切実に。
こんなくだらないことでガンダムを嫌いになりたくない。
うつ病ではないと思う。
そういった類のものではなくて、自分でもわかっているつもりではいるんだけど、要は他山の石というか隣の芝生は青く見えるって言うのとおんなじなんだと思う。
処理レベルでしか思考が羽ばたかないってことではないし。あくまで苦手だと思ってしまっているだけで、できないわけじゃないのだろうしさ。
まどろっこしい書き方でごめん。謝ることでもない気がするけど、これ以外に適当な返事を思いつくのが面倒だ。
なんて、ね。言い訳がましい。誰に対しての言い訳なのかも不明だ。
あんまり失礼なことは書きたくないんだけどな。正しく自分が思ったことを伝えたいとするとどうしようもなくなる。今日はそんな気分なのです。
それはそうと、自分自身を主観的に観るって言うのはどういうことなんだろうな。自己分析は客観視してるってことでしょう。
そもそも、自分で自分を見るって言うことが、光の二重スリットじゃないけど、自分がふたり居なければいけないことなんだから不可能なのかな。
ワケの分からない早期英才教育がいかに無意味かという主張を聞いてもらうにあたっては、「東大」というキーワードがメチャメチャ便利ですよ。
あと、「東大」というキーワードで自分の繊細な部分のガードが一気に下がって色々とダダ漏れになってしまう人が多いので便利です。元増田です。
結局のところ、人間ってのは得てして感情論的にしか行動できないものなんじゃないのかな。
純粋に論理的ないし科学的な行動ばかりしていられたら、まったく違った景色が見られてたんだろうしさ。
でも、純粋に論理的ないし科学的な行動ばかりする存在って、果たして人間って呼べるんだろうか。
思考はできる上にひらめきも情報処理機能もちゃんと備わっていたとして、その上で感情に縛られない行動を選び続けられる存在というものは人間なのかな。
そもそも、感情に縛られない行動をするということが可能な存在って何だ。哲学的ゾンビなのかな。
人間は言語に縛られている。その上には言語化できないファジーな領域があって、つまりはそれがクオリアなのかもしれない。
詳しくは学がないからわからないけど、その曖昧模糊とした確かな領域が、人間が人間たる重要な要素の一つであると思う。
それは感情なのかな。思考なのかな。感情と思考はどちらが上位に在るのかな。マズローだっけ、階層なんたらの人。
本能こそが人間なのかな。あるいは人間的な本能ってものが存在しうるのかな。いけないな。本能の定義をしっかりさせていないから、また道を見失う。
というか、ずっと道を見失ってばかりじゃないのかな。そもそも道を歩いていさえいないんじゃないのかな。
水中を漂っているかのような空中を彷徨っているかのような、そんな妄想に近いことばかりしかできていないんじゃないかな。
不毛だな。
地区 | 事業所数 | 従業者数 |
---|---|---|
大田区 | -41.9%(×) | -42.7%(×) |
浜松市 | -39.6%(×) | -32.5%(×) |
東大阪市 | -31.7%(○) | -25.8%(×) |
全国平均 | -37.3%(×) | -25.6%(×) |
要は、彼らは勘違いしている。会話を進める、場をもりあげる、努力するとかいうことをまるでお笑い芸人が笑いを取るがごとくに振舞うことだと勘違いしている。そしてネタやらボケやらツッコミやらを要求する。それがたまらなくうっとおしい。あまつさえこちらがそのやり方に乗らないと憤慨さえする。彼にしてみればそれを作法だと思っているので当然であろう。
笑いをとろうしたりおどけたりするのは有用だと考えている。それで場の固さが取れる、いつもは見られない人間性が表れる、思わぬ会話の発展があるなどたくさん効果があるからだ。しかしそういうものは1つの方便であって別に正義ではないとどこかで弁えていてもらいたい。
その場の人間あるいは観客を満足させるための基準も方法もきっとさまざまだからだ。
周りが考えてるというか、君がうつ病で周囲についてけないだけなんじゃない?
最近、周りの人がずいぶんと「考えている」ような気がしてびっくりする。彼ら彼女らはすごい。
追い込まれているからなのかどうかは知らないけど、とても能動的で意欲的にさえ映る。
それに比べて自分はかなり「考える」ことが苦手だ。ちょっと失望してしまうくらいに。残念な閾値でしか「考える」ことを使いこなせていない気がする。
機械的に処理することならそれなりの力はあると思う。言われたことなら、まあできる。当たり前のことだけども。
考えることと処理することの違いって、結局は自己表現をするか否かに寄るんじゃないだろうかなんて思い至った。
責任がどうこうということもあるけれど、同じくらいに人からの評価や、もっと単純なもので目が怖かったりするんじゃないかな。
没個性は平坦で刺激に乏しいけれど、代わりに平穏を享受してくれる。すごく安全で退屈な場を用意してくれる。
なんか書きたいと思ったことが横にずれていったけど、まあいいや。おわり。