はてなキーワード: 革新派とは
要するに男性の姓名に女が合わせなきゃいけないのは差別だとか、
そもそも女性側に合わせることは可能なんだから差別には当たらないだとか、そんな感じの議論だ。
そんな議論に対して思うことは一つ。
「結婚できてる時点で勝利者側なんだからてめーらに割くリソースはねえよ」という感情だ。
そう。やっかみやひがみであるかもしれない。
だが、多分私の言うことは真理だ。
であって、「結婚した後の事」なんてことを考えられるほどハッピーな人間に対して議論ののリソースを割いて欲しくない。
夫婦別姓問題で盛り上がっている人達は、保守派も革新派も、それをわかっていただきたい。
アナタたちは、白い眼で見られている。
大学生時代に「涼宮ハルヒの憂鬱」ブームを経験した三十代。当時はひねくれた人間だったので、ハルヒが流行っている真っただ中に、原作ではなくその元ネタとなった「ハイペリオン」に手を伸ばした。当時の自分はきらきらとした学生生活にあこがれていたくせに、そういう青春をテーマにしたラノベを避けていた。みんなと同じものを読むのが嫌だったのと、そういうきらきらしたものを読むと、自分の灰色の生活と引き比べてしまうからだ。そういうわけで、「涼宮ハルヒの憂鬱」の知識は、書店で一気読みした第一巻と、ウィキペディアの情報、断片的に見たアニメの数エピソードに頼っている。おそらく粗があるので、話半分に聞いてもらいたい。
「ハイペリオン」とはダン・シモンズが1989年に発表したSF小説である。邦訳は1994年に出版された。ヒューゴー賞・ローカス賞・星雲賞を受賞している超大作で、登場人物である長門有希が読んでいる。
ジャンルは一応スペースオペラなのだが、あえて言うならばSF全ジャンルと英米文学のごった煮である。というのも、七人の登場人物がそれぞれの身の上を語るのだが、それぞれがホラーだったりサイバーパンクだったり時間SFだったりで、しかもそれぞれの出来がいい。
続編として「ハイペリオンの没落」「エンディミオン」「エンディミオンの覚醒」がある。作者の思想がややうるさいところもあるが、絵になる場面が多くて楽しい。また、人類の各文化の多様性を高らかに褒めたたたえているのが、やや西洋・アメリカ中心主義ではあるが、気持ちがいい。
長門は「情報統合思念体によって造られた対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェース」であり、言い換えるならば「宇宙人が作った人間の形をした存在」ということになる。「情報統合思念体」には「主流派」「急進派」「穏健派」「革新派」「折衷派」といった派閥が存在し、それぞれの思惑ごとに動いている。
一方、「ハイペリオン」には、英国の詩人ジョン・キーツの人格を再現したサイブリッド(人造人間みたいなもの)が登場する。これは、人類に様々な助言をするAI群「テクノコア」によって、ある目的のために作られたものである。彼は長門ほど万能ではないが、この背後にいるテクノコアには「穏健派」「急進派」「究極派」が存在していることが共通している。ちなみに、それぞれの立場としては、当面は人類とは共存する、さっさと人類を滅ぼして自分たちが覇権を握る、人類も自分たちも滅んでもかまわないので究極の知性を創造する、である。このAIたちはとっくの昔に人類を超えており、人類を裏切ろうとしている。というか、作中ではすでにある方法で人類をひどく搾取しているのだが、これは読んでみてのお楽しみだ。
設定の上ではよく似ているけれども決定的に異なるところがたくさんあり、よくできたオマージュだと思う。
結論から述べると登場する。そもそも、舞台となるハイペリオンという惑星には「時間の墓標」なるものがあり、そこの封印が開くと未来から様々な事物や情報が送られてくる。同時に「シュライク」という殺戮マシーンが封じられているが、シュライクは時折人間の願いを叶える、とされているのだ。七人の登場人物がハイペリオンまで巡礼に向かうのもそれが理由だ。
ここで未来と述べたのだが、実は未来は確定していない。「テクノコア」が作り出す究極知性が宇宙を支配するか、人類の集合意識が生んだ究極知性が覇権を握るか、この二つの間で揺れ動いている。ここでいう究極知性とは神と言い換えてもいい。つまり、遠い未来で行われる人類とテクノコアの戦いが、現代にも影響を及ぼしているのだ。なんといったって彼らは神なのだから、なんでもありなのである。
この状態は、まさに朝比奈みくる(大)の周囲の事情とよく似ている。現代に干渉し、自分たちの望む形の未来を確定させようと活動している点が近い。
「涼宮ハルヒの憂鬱」の全てを読破したわけではない自分が、本文から有効な証拠をあげることはできない。というか、いくつかのブログでそれを示唆する記述が十分に述べられており、自分が付け加えることは何もない。
よって本記事では、「ハイペリオン」で行われたテクニックを間接的な証拠として用いたい。以下、「ハイペリオン」のネタバレに触れる。読みたくない方は引用部分を読み飛ばしてください。
「ハイペリオン」の七人の登場人物は、旅の無聊を慰めるため、それぞれの出自を語る。一人はフィドマーン・カッサードという兵士である。仮想訓練の度に謎の美女モニータと遭遇し、そこでむさぼるように体を重ねるが、彼女とは仮想空間とでしか会うことができなかった。やがてアウスター(人類連邦に所属しない宇宙の蛮族)の襲撃を受けるが、そこで彼女と再会し、殺されかける。カッサードは彼女との再会を目指している。
もう一人の人物はソル・ワイントラウブという学者である。彼は娘である赤ん坊を抱えて巡礼に来た。彼の願いは、娘であるレイチェルの病を治すことである。レイチェルはかつて学者としてハイペリオンを訪れた際、シュライクによって年齢を逆行する呪いをかけられてしまった。父と同じ聡明な学者であったレイチェルは日に日に幼くなり、とうとう赤ん坊にまで戻ってしまった。レイチェルが「誕生」の日付を迎えるまで、あと数日しかない。
さて、結論を簡潔に述べよう。レイチェルの病は癒される。そして彼女は未来世界へと連れていかれ、そこで再び大人へと成長する。やがてレイチェルはモニータと名乗り、カッサードと出会うのである。
つまり、「涼宮ハルヒの憂鬱」のオマージュ元である「ハイペリオン」では、意外な二人の人物が同一人物であった、そしてその片方は未来人であった、というギミックが存在するのである。
もちろん、年齢遡行までオマージュしているのかどうかはわからない。記憶に蓋をしているだけかもしれない。ただ、妖艶な美女と無邪気な赤ん坊が同一人物であった、という驚きを、朝比奈みくる(大)とキョンの妹が同一人物であった、というかたちで本歌取りしている可能性は、検討される余地はある。
どうなのだろう。キョンの妹は小五だが低学年にしか見えないという記述もあるので、実は成長がストップし、年齢が逆転し始めているのかもしれない……。
鶴屋さんは「宇宙人と未来人だったら、どっちがいい? そろそろ決めといたほうがいいかもにょろよっ!」と発言したそうだが、これは今後の展開を予測する大きな鍵となる可能性がある。というのも、「涼宮ハルヒの憂鬱」が「ハイペリオン」をどこまでなぞるかははっきりしないが、もしも設定を強く意識しているのなら、「ハイペリオン」で「テクノコア」が人類を裏切ったように、「情報統合思念体」が最後には人類に敵対する可能性があるからだ。そして、みくるは人類と「情報統合思念体」との争いの中で、少しでも人類に有利な未来へと導こうとしているのではないか。となると、長門とみくるの決別は避けらないことになる。みくるが長門を幾分苦手としている描写を考えると、興味深い。
少しだけ触れておく。「ハイペリオン」「ハイペリオンの没落」のなかには、超能力は出てこない。出てくるのは「エディミオンの覚醒」以降であり、主人公たちがある能力に目覚めることで、クライマックスに人類の命運を大きく変えるのだが、これも読んでみてのお楽しみだ。
「ハイペリオン」であらゆる願いを叶えるとされるのは殺戮者シュライクである。実に気まぐれな神なのだ。そういうと、ハルヒが悪役シュライクだということになってしまうのだが、自分は違うと思う。明るい青春ラノベにこの設定は似合わない。願いが叶う、ということだけを拝借したのだろう。とはいえ、物語全体を通しての謎の一つ、ということは決定している。
それと、実はシュライクの正体は作中でも若干ぼやかされている。テクノコアが作った殺戮マシーンを人類側がのっとったことが示唆されているが、時間を行き来できるのだから時系列がはっきりせず、筆者の記憶も確かではない。
「エンディミオン」「エンディミオンの覚醒」の語り手はいたって普通の青年ロールであり、彼は破天荒な少女アイネイアーの守護者に任命される。とはいえ、物語の大半は奔放な彼女の振り回されながら進む。それこそ「涼宮ハルヒの憂鬱」の本編のように。
しかし、ロールとアイネイアーは最後にはひどくつらく悲しい別れ方をしなければならない。この設定が本編のキョンとハルヒの関係に輸入されていないことを願う。
それと、ジョン・キーツ(ジョン・スミスではないが)のサイブリッドは二つ存在し、片方が殺される運命にある、とだけ述べておこう。
彼は「ハイペリオン」四部作ののちに「イリアム」「オリュンポス」を発表している。トロイア戦争の世界、遠未来の没落した人類、機械知性たちの話が入り組んでいて、文学とSFのマッシュアップ具合が楽しいのだが、残念ながら「ハイペリオン」四部作で述べた人類の多様性を寿ぐ姿勢から後退し、明確なイスラム嫌悪が出ているのはいただけない。さらに、邦訳されていない最近のシリーズは、ヒラリー・クリントンが大統領になったパラレルワールドで、国民皆保険で怠け者になったアメリカ人が薬物におぼれているというすごく政治的に偏向した作品なので、翻訳されないんじゃないかな……。
【追記】最新作ではないのだが、2011年の「Flashback」という作品。シリーズではなかった。失礼。
【もう一つ追記】その薬物は、いつでも自分の人生の最高の瞬間を追体験できるというしろものだ。そして、世界のほとんどがイスラム過激派に支配されている。経済は日本に牛耳られ、南西部の州はメキシコのギャングに支配され、作中では地球温暖化が否定されている。アメリカの保守的な世界観を煮詰めたような感がある。
ヒラリー・クリントンについての記述は記憶違いかもしれない。ただ、イスラム嫌悪が強いのは間違いない。
https://sosbrigade.miraheze.org/wiki/ハイペリオン
おそらく、ハルヒ全盛期の頃に、こうした議論は出尽くしていると思う。だが、検索をしても類似した意見が見つからなかったため、ここに記録した。
それから、ろくに原作を読んでいないのに、そして記憶もいい加減なのに、好き勝手言ってどうもすみませんでした。
多数のコメント、感謝しております。また、「全部読んでいないのに書くなんてずうずうしい」との指摘、まったくもってその通りです。ファンの気持ちを逆なでするような行い、お詫び申し上げます。また、立ち読みも迷惑でしたね。未成年の頃とはいえ、今にして思えば赤面ものです。
自分としては、「ハイペリオン」を読んだ人間からは、「涼宮ハルヒの憂鬱」の設定はこう見える、と伝えたかったのです。笑ってやってください。また、類似した意見がネットになかったので、記録しておこうという思いもありました。
ただ、ブクマカにもあるように、ジオシティーズやインフォシーク、ヤフーブログなどの一斉削除が原因の可能性のほうが強いですね。はからずもアーカイブの問題にも思いをはせることになりました。
それでは、失礼します。
もっと言うならば、表現規制のやり玉にあがり続けてきた芸人だった。
メインで出演していた番組は、すべて「子供に見せたくない番組の上位勢」だったことを覚えているだろうか。
要するに、おっちゃんおばちゃん、PTAからくっそうけが悪いタイプの番組のスターだったのだ。
フェミは、「昔のPTA」の立ち位置に座っているということだ。自覚はないが、「こんなもの教育上悪いからテレビ局に電話で抗議する」ということをやっている保守派なんだよね。自分たちは革新派だと思ってるけれど、実際にはPTAおばさんなんだよね。
ねぎま・・・超保守派。他人の言うことは「それもあるよね」と言いつつ、自分が絶対正義。
つくね・・・革新派。軟骨から卵黄まで大体OK。結果が良ければ過程は何でもいいだろうと言う考え方。
正肉・・・原理主義。肉さえあればネギなど要らぬ。正しくは胸肉だけど、もも肉も首肉も全部同類と思ってる。
砂肝・・・ちょい変わり者。少し周りと比べると浮いてる。でも頭抜けた個性ってほどではない。
せせり・・・恋愛体質。惚れっぽい。惚れればタレでも塩でもすぐ合わせてしまう。
ボンチリ・・・エネルギッシュ。悪く言うとオイリー。でもカラッとしてるのであまり嫌われない。
ヤゲン・・・個性派。変人。骨があると言うより骨。肉が付いて才能開花することもある。
いかだ(手羽)・・・金持ち。大体が経営者でガツガツしてる。存在感アピールが邪魔くさい。
ソレリス・・・高嶺の花。普通に生活していると滅多に見ない。美人で色っぽいらしい。
ささみ・・・冷静沈着。何が来ても動じない。あんまり内面まで熱くなることはない。
レバー・・・オタク。基本的にあまり好かれないけど、すごい奴は尊敬される。質が悪いと臭い。
ハツ・・・体育会。血気盛ん。熱血で暑苦しい。意外とレバーと話が合うつもり。
チョウチン・・・サディスト。有精卵の卵が好物なんて、サディストしかいねえよ。
かわ・・・パシリ。下っ端根性抜けない。しっかり焼いて気合いいれよう。
豚バラ・・・空気読めない。鳥から選ぶということさえできない空気の読めなさ。
最初に:しばき隊リンチ事件原告側に本件を使った中傷が行われているようだ。下記を参照あれ。M氏を貶めないように。
高島章弁護士について報道がなされておます。高島弁護士は、「M君リンチ事件」控訴審の終結をもって弁護団からは離れておられ、その後は関係がありません。ちなみに本会が高島弁護士にお支払いした金員は過去ご報告した通りです。— M君の裁判(主水裁判)を支援する会 (@m_saiban) 2019年9月21日
以下の通り1円の単位までご報告をしているにもかかわらず、極めて悪質な印象操作に熱心な、リンチ事件擁護者が散見されます。本会はお約束通り、裁判費用以外には1円も出費しておりません。悪質な「印象操作」の主には、支援会で協議の上、然るべき手段を検討いたします。 支援会事務局— M君の裁判(主水裁判)を支援する会 (@m_saiban) 2019年9月21日
日報33面より。刑事事件保釈保証金300万円の横領であった。周知の通り、高島氏は新潟水俣病第三次訴訟団の弁護団長、および朝鮮総連新潟県本部顧問弁護士を務めていた。
https://www.niigata-nippo.co.jp/news/national/20190917495600.html
ツイッター上での旺盛な発言、特にシールズ(のち未来のための公共)への批判、およびその実力団体とされている対レイシスト行動集団(旧:レイシストをしばき隊)のリンチ事件への告発者の一人として知られている。一部には筋の通った昔ながらの革新派弁護士という評判もあった。
現時点では残念ながら謝罪はない。新潟県弁護士会長を現在勤めている斎藤裕について友人と過去説明したこともあり、自身も副会長を務めていたときがあっため実際に看過できない内容であった可能性がある。
高島氏の事務所は17日午後、ひっそりとしていて、電話にも応答がなかった。
高島氏は1993年4月に同会登録。新潟水俣病第3次訴訟などでは弁護団長を務めた。水俣病訴訟を支援する民間組織事務局の萩野直路さん(65)は「訴訟では認定を勝ち取るために尽力してくださった。残念だし、驚いている」と話した。
このように特に新潟水俣病関係者からの悪評がある人物には見えなかったが、ツイッターからはしばしば私生活の苦しさが窺われる呟きをしている。同時に、長きにわたるがん患者らしきことを呟いており、先日退院した旨自身のアカウントで呟いていたかと思う。
懸念されるのは新潟水俣病の扱いである。周知の通り、先日の参院選で当選した打越さく良弁護士は高島氏と激しく対立してきたしばき隊の神原元や野間易通と親交があり、特に神原のヘイトスピーチ訴訟では一緒に原告側弁護士として闘ったという。神原は懲戒請求、弁護士としての罷免要求すら上記の履歴・活動を顧みず平気で行っていた。打越は前掲第三次団の最高裁敗訴直後に擁立することが立憲民主党本部主導で発表された落下傘候補である。しばき隊の中心人物である李信恵の単著を出した影書房も8月中旬に水俣病にツイッターでいいがかりをつけていたため、県下の人権運動を打越らカウンター諸氏が牛耳り出すのではないか。
現に構成員である香山リカは、新潟県で行われているいきづらさを抱えた人たちの演芸会である「こわれものの祭典」に、東京出張時圧力をかけている。カウンターと新潟水俣病関係者の人権が両立すると彼らが考えているとはおよそ考えられない。県下の人権運動でも気に入らなければ平気で弾圧する連中なのである(対立するろくでなし子が登壇する予定であったため、運営に圧力をかけ妨害した)。
考え過ぎかもしれないが、日本共産党にとっての被差別部落問題同様、一方的に解決した問題にさせられてしまわないか心配である。
追記:
詳細を読むと
依頼人が昨年9月、県弁護士会に懲戒請求して発覚した。高島氏は私的流用を認め、協会には毎月10万円ずつ返済しているが、依頼人側が負担した20万円や示談金として預かった10万円の一部は、いまだに依頼人側に返還していないという。
ということである。斎藤裕会長は元々新潟市のBRT反対運動の中心人物で、共産推薦で新潟市長選に出馬し善戦した市民活動家でもあった。しかし去年、この直後の新潟市長選において夏の新潟県知事選での敗北による旧民進党の政治家から不満が噴出する中、共産党はBRT廃止論を撤回することになる。このことを激しく非難し自身の選挙で争った自民党非主流候補を応援した。共産ですら手に負えない人物となった斎藤氏はいわば封じ込められる形で県弁護士会長に就任したのではないかと推測する。
さて、とはいえ斎藤氏は前述の神原弁護士が常任幹事である自由法曹団員でもある。最近は新潟水俣病関係の裁判記録が破棄されたと県弁護士会長として訴えた。しんぶん赤旗も全国記事で水俣病を取り上げるなど、神原・野間・有田芳生らの異常な氏への中傷へ批判をにじませつつあった。そのようななか、発覚から1年が立ったものの、ついに法曹団中央の圧力に抗しきれなくなって、処分に踏み切ったと思われる。処分に応じても謝罪はしないという高島氏の態度はそういうことだろう。
とはいえ、詳細は割愛するが、元々市民活動家としての斎藤氏は、小柳聡の政治資金記載漏れで懲役刑になるに違いないと扇動するなど「合法・倫理性に欠けると言えなくはないが、訴えるのはきわどい」行動が多かった。同時に、県の弁護士の代表になったものとして、自分がどれだけ危険な凶器を振り回してきたかも真摯に反省して頂きたいとおもう。
男グセの悪い奔放なフェミニストと、家父長制フェミニストが対立している。
どんどん性表現を行い、好きな男を他人から奪いながら寝て、社会的にも、やりたいように力でのし上がっていく。これが、与謝野晶子、市川房枝など、日本の伝統的なフェミニストである。一言で言うと元気でエネルギー溢れる黒いマッチョのゴリラである。現代でも、瀬戸内寂聴や、北原みのり、はあちゅう女史などにその傾向が見られる。
ところが、今はてなで見られるようなフェミニストは、それとは全く異なる。性的な表現や肌の露出を嫌い、社会や男性からの保護を希望し、困難さの責任は自分にはなく、自分より高齢の男性にあるとする。より正しいルールと、高い倫理観を好み、それに従うことを望む。これが笑えるのは彼女の発想が、実際はどう見ても保守派的である点である。
このように、フェミニストを自称する人々の中身が、革新派テロリストから、ゴリゴリ保守派に、いつのまにか、変質してしまったことが、議論のねじれの原因となっている。
さて、私事ではあるが、私はひょんな事から知人の紹介を以て物書きとして仕事をすることになってしまった。
同人小説の一つも書いたことはなく、詩を紡いだこともないズブの素人が物書きとなってしまったのだから、これは一大事である。
世の中に生々しい悪臭を漂わせるクソのような文章を生み出すに違いない。同業の諸先輩方には申し訳のしようもないが、生きていくためには書いてみるしかないようだから、一つ堪忍していただきたい。
具体的に何を書いているのかという話だが、主にソシャゲのシナリオとフレーバーテキストの仕事をしている。
シナリオは新規追加キャラクターに付帯する「ガチャを回したくなるようなストーリー」であり、フレーバーテキストとはアイテムやキャラの説明文といった類のものである。
自他ともに認めるズブの素人であるから、面白いストーリーも売れるキャラクターも分からずに右往左往している私の論は大変滑稽であると思うが、思考を整理しながら意見を頂きつつ、私のような後進があった時の手がかりになればという考えでタイピングしているのでご容赦願いたい。
物申したい訳ではなくて、自らの認識と世の中の齟齬を確かめつつ、様々な意見に触れられれば良いと考えた訳である。
物書きとしてスーリーを生み出す以上、面白いと思われる作品を作らねばならない。
しかし、困ったことに今までの人生で面白いものを作ろうとして作ったことはない。作りたいから作った絵や模型は少々あれど、人にウケる事を目的とした作品を作ったことは全く無い。これでは何を良しとすれば宜しいのかが分からない。
初っ端から大きな壁にぶち当たり、困り果ててしまった私は「ここはひとつ、自分が好む『面白さ』を分析し、自分と同じ感性の人間にウケる物を作ることから始めよう」と考えた訳である。
そのために、まずは自分が好きな作品をリストアップしてみようと思い立った。
そうして思いつくままに好きな作品をリストアップしてみた訳だが、どうやら具体的なことは何も分かりそうにない。 困った困った。
(例として『攻殻機動隊』『エヴァンゲリオン』『松本零士戦場まんがシリーズ』『姉なるもの』『装甲悪鬼村正』『DARKER THAN BLACK』『Fate/stay night』『イヴの時間』『カウボーイビバップ』『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』『殻ノ少女』『ARIA』などが浮かんだ)
パッと見で抱く第一感は、大抵の作品には何処か仄暗さがある事、ハーレム物ではない事(Fateはハーレムに近いが)が共通項であるという事ぐらいだろうか。
(一見明るく見えるARIAだって地球の海はすでに人の泳げない環境になっており、テラフォーミングされた火星の海で人が営む話だし、その他の作品も主人公格のキャラが暗い過去を背負っていたり、あるいは直面している状況が暗かったりする。)
あとは私が「根暗で面倒くさいタイプのオタク」のような何かであることぐらいは分かるのかも知れない。
本筋に戻るが、素人なりにこれらの作品を嗜好する人間が好む『面白さ』とは「その世界をキャラクターを通して知ること」ではないかと私は考えた。
例えば草薙素子がメスゴリラではなくか弱い少女であっても、碇シンジが熱血爽やか少年であっても、私は攻殻機動隊やエヴァが好きだっただろう。
なぜなら彼らがどのような性格や外見であっても、あるいは登場せずとも、世界設定が同じならだいたい同じように世界は動くだろう。
極論を言えば草薙素子がか弱い乙女であり公安9課に勤めていなくとも人は義体化し続けてゆくし、あるいは碇シンジが初号機に乗れと言われた時点で超ノリノリであっても、最初に戦う第三使徒サキエルにはコテンパンにされ、進化し続ける使徒を食い止めきれずにサードインパクトを迎えるだろう。
キャラの性格や外見がウケなくとも物語は進行し、あるいは登場せずともその役目は別の人物が担当して物語は収まるべきところに収まる。なぜならその世界はそういうニーズを抱えて生まれるからだ。
しかしそれではつまらないから、面白く見える視点を借り受けることで、物語は娯楽作品として成り立たせることが可能になる。
結論として、私は「キャラクターとは世界観に内包される1つの要素であって、世界の覗き穴でしかない」という考えに至った。
しかしこれを知人に語ったところ、「世界はキャラクターに内包されている」という返答を得て混乱することになり、こじらせ続けた結果としてこの日記を書くに至ったのである。
まず私は混乱を与えた知人に「なぜ世界はキャラクターに内包されるのか?」と問いかけてみた。
すると彼は「大塚英志を読みなさい」と言うので、彼が勧める「物語消費論改」に目を通し、今の私にうってつけの本のように思えた「キャラクター小説の書き方」も読んでみた。
大塚英志の書く文章は客観的なエビデンスを示す事よりも、一つの前提を提示した上で理論を展開する事に重きを置いているように思え、彼の取る左翼的立場(いわゆる大多数の革新派とは別物との自覚があるのか、自身は『サヨク』と表記するが)が突如乱入して辟易する事もあり、中々体力の必要な内容であったが、ひとまず読み切った。
彼の書き込んだ政治的なノイズと、理論展開をしたかっただけの文章をフィルターに掛けながら読んでいくと、どうやら物語というのはキャラクターがいないと生まれないものらしい。
キャラクターが初めに存在し、ストーリーを作る中で世界が見えてくるのだという。
なるほど、確かに何かしらのネタがなければ物語は書けないし、世界を描写することができないように思える。
例えば年齢や性別を設定されたA子さんというキャラクターだけがそこにいて、世界観がなかった場合はどうだろうか。
この場合、A子さんに生まれるのは虚無の中に放り出されたと言う事実だけである。
もし、その「『何もない世界』を受けてA子さんが得た情動こそが物語である」というのならば、それは虚無と言う世界観がないと成り立たないのではないか。
逆に、例えば「中世風の世界」があったとしよう。登場するキャラクターの設定は何もない。
中世風の世界といえば、人の頭の中には剣戟や鎧がたてる金属音や、あるいはそこで生活する人々が桶を片手に井戸に水を汲みに行く姿などを思い浮かべるだろう。
そして、多くの人は中世と言われただけで頭の中にヨーロッパの景色か、日本の中世を思い浮かべたのではないか。
あたり前のことだが世界観には内包する事物があり、事物には経緯がつきまとうものである。
世界観を定めたことで、これらの自然な在り方の幅が定まり、人物も含めて存在する範囲が決定される。
たとえ時間が静止していても、大木には新芽から育った歴史があり、水すらも水素2つと酸素が結合したという経緯が発生する。
私はこれらの変化こそが物語なのではないかと考えているのである。
即ち、その世界で起こった変化を拾い上げた時に、初めて事物がキャラクター化すると考えているが故に、私はキャラクターが世界に内包されるという考えが捨てきれない。
そして、物語の本筋というのは、それらの小さな変化全ての集合体であり、世界観そのものがストーリーであると考えてしまっているのだ。
うーん…困った…。なんでキャラクターに世界が内包されるのだろうか。
A子さんの主観から書いた物こそが物語であり、A子さんの認知した物こそが世界観であると定義するのだろうか?わからん…
うーんこまった。うんこまった。
なぜ困っているのかは次項で触れよう。
上記の様に「世界にキャラが内包されている」と考えている私が、物書きとして初めて書くことになった物語はソーシャルゲームに追加される新キャラのイベントストーリーだった。
この仕事のキモは、有料のクジ引きでプレイヤーが獲得できる新キャラをプレイヤーに対して強烈に売り込むことである。
具体的には運営会社が考えるキャラクターの「良さ」を引き立てるためのお話を一本仕上げるのだ。
ここで私は早くも躓いた。
何故ならソーシャルゲームにはベースとなる世界観があり、主要キャラはすでに出揃っており、本筋の進行に何ら問題のない所に、いきなり「強烈な売り込み」を必要とするキャラが登場してしまうからである。
本筋の話に必要のないキャラクターを、いかにも重大で必要な魅力を持っているかのように持て囃し、そのために何かしらの話を世界観という大地から発掘して、プレイヤーの周りに再配置する作業となる。
そして、運営としては本筋に明確な終わりを与えてしまうとプレイヤーが離れてしまうから、本筋だけを避けて大地を穴ぼこだらけにしながら不要物ばかりが増え続けていき、やがてはプレイヤーの周りに綺麗にそびえ立つ「本当はどうでもいいキャラ」の山が本筋を隠してしまう。
これは、私の「世界に内包されたキャラクター」の考え方だと避けて通ることは叶わない結果のように思える。
しかし、「キャラクターに内包された世界」という考え方であれば、大地の形は定まっていないので、きっとプレイヤーの周りに何処からともなく取り出した土を積んでゆく作業となるだろうから、なるほど確かにそちらの方がソーシャルゲームに向いている。
ただし「どこからその土(物語)を持ってきたんだよ」という疑問とともに、「別にその土がなくてもこの世界は存在しているし、その山は不要じゃない?」という感想を得る私のような面倒な者も少々発生するだろう。
「要・不要でしか語れない虚しい奴め」と言われればそれまでだが、こちらとしてはいきなりステーキか、或いはさわやかハンバーグでも良いが、兎も角ステーキハウスで3000円のステーキを注文したら、鉄板の上にステーキを覆い隠さんほどのミックスベジタブルを乗せられた心持ちなのである。
いきなりステーキの店員としても、ステーキが主役なのに上役の指示でステーキを切り捨ててでもミックスベジタブルを山程ぶち撒けろと言われて途方に暮れててしまうだろう。ステーキの前でアホ面を晒してミックスベジタブルを握りしめている店員こそが私なのである。
私は本筋を覆い隠さんほどのサブキャラを並べるという在り方は、本筋へたどり着かせない為だけの行為にしか思えず、ベースとなる世界観にガチャの新キャラを紐づけていく意義を上手く見いだせなかったのだ。
前項で困っていたのはこの点であって、物語がキャラクターに内包されているのであれば私の考えが間違っているだけなのだが、どうやら一応理屈は通っているように思えてしまっている。
え?意義はお金を稼ぐ事だし、キャラも理由なく存在していてもいいじゃないかって?
まあその通りなんだけどさ…青臭くってウブな駆け出しとしては、ちゃんと物語を進めたいわけよ…
え?面白ければ本筋がどーこーはどうでもいい?
それも最もな話よ…だけど、面白いって何さ?
ようやっとこの4項目にして表題に触れられた。
展望も何もなく書いてきたので、まずはここに着地できた事で一安心である。
「本筋が進まないシナリオ、世界に干渉できないキャラクター」に塗れた作品であっても、成功しているコンテンツというのは存在する。
何を隠そう大部分のソシャゲは「本筋が遅々として進まず(或いはほとんど存在せず)、本筋に絡まない=世界の動きに絡まないサブキャラクターに塗れている」にも関わらず、利潤を得やすいガチャ商法を確立し、商業的に成功していると言えるだろう。
しかし、これは「プレイヤーが楽をして手に入れられる娯楽としては」という但書が付属するのではなかろうか。
例えば、人が10時間の自由と完全に健康な体を手に入れたとして、目の前に据え置きのゲーム機とスマホが置いてあり、何れかの"ゲーム機"で好きなゲームをして10時間消費できるとしたらどちらを選ぶだろうか?
多くの人は据え置きゲーム機を選ぶと思う。
ソーシャルゲームを10時間プレイするということは、多くの場合は右手の親指で、画面の右下を5秒毎にタップする10時間を過ごすことになるだろう。
ソシャゲのファンタジーゲームよりもドラクエXI、スマホの荒野行動よりもPS4のPUBGのほうが良いユーザー体験を得られることは当然である。
(バトロワゲーにおける「物語」とはプレイヤーのプレイそのものであると私は考えている。つまり、より派手に快適に臨場感を得られるPUBGのほうが物語を鮮明に作り出すことができると思っている。まあ、異論どころか非難轟々かも知れないが、本題とは離れてしまうので一旦放置してほしい。)
しかし現実には日本のゲーム市場はソシャゲが大きな地位を不動のものとしている。
これは、プレイヤー自身が体験・考察・のめり込む事なく「楽に手に入れられる娯楽」を欲しているからだろうと思う。
つまり「さっと注文して、さっと食べ終えられるファストフード」のニーズが高まっているのだと考える。
ここで本題に戻るが、端的に言ってファストフード的娯楽に、「大きな物語の展開を推察し、その行く末を記憶して楽しみにする」という『面白さ』は重すぎる。
世界観や、大きな物語の動きを受け取ることができるプレイヤーに対して、ファストフード的娯楽を求めているプレイヤーが圧倒的に多い。
故に本筋を覆い隠してでもサブキャラを増やしまくり、ゲームの本筋とは関係のないキャラ推しの話を通勤電車の中で10分で摂取させ、その体験を通してガチャを回させて達成感を与える訳である。
本筋というハイカロリーでの御馳走を消化するには、健康な消化管と食後にゆるりと過ごすことができる時間が不可欠だが、これは時間とタスク処理に追われる現代人にはちょっと厳しい要求だ。
故に、消化が楽で手早く終わるローカロリーな立ち食い蕎麦である、本筋に干渉しないキャラシナリオをちょいと摘むぐらいがちょうど良いという世情があり、まぁ立ち食い蕎麦も許せないほどマズイ訳ではないから多くの人が食べるのだ。
そしてこの2つを比べた時、多くの人は無意識のうちに御馳走と立ち食い蕎麦を「比べるべきではない両者」と判断して、或いは意識的に御馳走を我慢して立ち食い蕎麦を選んでいると言う構図なのだろう。
どちらを食べてもひとまず空腹は収まり、なんとなくか明確かの違いはあれど「美味しかった」という感想が残るから、死に物狂いで御馳走を求める酔狂なグルメ以外は、立ち食い蕎麦でも満足感は得られるのである。
つまり、ベストである必要が無いと言うのが、物語の器たる創作物に求められているのではないか。
結局のところ私はここまで考えた所で面倒くさくなってしまった。
本当は物語の捉え方を考えていたはずなのに、到着したのは「求められる面白さ」になり、挙句の果てにはステーキと立ち食い蕎麦だ。救いようがない。
さて、脱線し続けた挙げ句、私はこの記事の命題である「本筋が進まないシナリオ、世界に干渉できないキャラクターは何が面白いのか?」という問いには、一旦以下の答えを与えることにしようと思う。
Q.「本筋が進まないシナリオ、世界に干渉できないキャラクターは何が面白いのか?」
A.「本筋が進まないシナリオ、世界に干渉できないキャラクターは一番面白い訳ではないが、なんとなく面白い位にはなる」
つまり、結論として、「本筋の展開する面白さ」は今の創作物には重すぎる。
キャラを立たせてキャラを売った方が、消費者に優しいし、会社としても嬉しいのだ。
ベストではなくベター良いから、世界に干渉できないキャラクターでも十分であり、安心できる経営につながるということだけは確かなようだ。
私は物書きの入り口に立った以上、そこをうまいことやっていく必要があるらしい。
さて、私の眼前にそびえ立った、ステーキの上にぶち撒けるべきミックスベジタブルはどうしてやろうか。
ミックスベジタブルを手早く、それなりに美味しく仕上げる方法をご存知の方、或いはこのステーキとミックスベジタブルが載っている鉄板料理の良い拵え方をご存知の方がいれば、教えていただければ幸いです。
例えば日本人とかアメリカ人とか、男とか女とか、保守派とか革新派とか、○○社員とか、社長とか平社員とか、ニートとか金持ちとか、ホモとかレズとかノンケとか、スポーツ選手とか特定の職業とか、学生とか、年齢とか、ロリコンとかショタコンとか、オタクとか、既婚とか未婚とか、ブクマカとか増田とかネラーとかニコ厨とか、軍人とか
括ってノーマライズして1人のキャラクターに仕立て上げて考えるのは簡単だけど
そのカテゴリの中には様々な人がいて
全員に当てはまることはなかなか無い
よくやりがちな間違いは、カテゴリの置き換えだ
例えば
犯罪を犯した人 → その所属するカテゴリ → 「このカテゴリの人は〜」という論じ方をする
早まった一般化というやつだ
批判的思考が苦手ない人ほどこういうことをやってしまいがちだが
カテゴリを安易に作らず、むしろ積極的にバラし、より元に近いカテゴリや、個人そのもので語るのが重要だし