はてなキーワード: 自由経済とは
①「自由経済」でお金は制限が緩く世界中を動き回るが、一方で、人間はそれほど自由がなく、国の税金は基本的に国内での活動から派生する。
②為替の差を利用して「途上国」の時給<<<<「先進国」の時給で、「先進国」の人たちは「途上国」から農産品や資源・サービスなどを安く安く買える。
③人間として生きるのに必要な食物や衣服などは先進国でも途上国でも変わらない。
④グローバル「商人・経済人」が安く安く買ってきた途上国の農産品、資源・サービスなどを全世界で高く高く販売することで
富を蓄積させる。
⑤先進地域では資源・サービスのうち途上国でも可能なもの、サービスに従事できなくなり、そこで働いていた人の仕事がなくなる。
仕事がなくなった人たちは生活が困窮し家庭を持てなくなる。少子化が進行する。国としては移民を入れないと人口や生産力が維持できない。
⑥イエ制度は女性を家庭に縛り付けると理論武装した経済人が労働市場に女性を大規模導入し、男性を競わせ
「情報だけ」と「実際にモノが動く」はハッキリ別だと覚えとくだけでもだいぶ違う。
ゲームや小説など、情報オンリーのフィクションの娯楽は、基本的に情報だけで完結します。
ボクシングみたいな格闘技、スポーツだと実際に殴り合うので、それなりに「死なないように」制限するし、怪我を誘発しないルール作りをします。
(まあ怪我するし障害が残ったりもするのだが、なるべくないように気をつけることにはなってる)
一方、格ゲーは防具付けずに刃物で切りあっても誰も現実では怪我しないので、ゲーム演出に現実の格闘技みたいな配慮はない。
今は「SNSで言葉で脅す、脅迫する」のが犯罪行為として摘発されるようになってます。
これは過去に「ネット上での暴言や脅迫、犯罪予告が、現実での暴力行為に本当に結びついた」ことで、
「物理的に傷害や殺人に至る行為の一部」として扱われるようになったため。
ある程度、誰もが「本当に殴られるかも」「本当に殺されるかも」と怖がることが現実的になったから、
これが現実の世界で、実力行使、暴力行為についてもう少し厳格に摘発され処罰されるなら
「ネット言ってるだけじゃん」ってなるけど
実際には日本でも日本の外でも実力行使や暴力が取り締りを逃れてるし、
多くの人が「警察も守ってくれそうにない」って思ってるからネット上での脅迫は効果的になってる。
ネットで読んだり書いたりしてるだけだと忘れがちだけど、
実際に殴られると痛いし、たとえ死ななくても、怪我をしたら仕事できなくなって収入がなくなったりする。
なので、脅迫で「本当に殴られるかも」って思わせるのは、相手を潰すのに凄く実効性がある。
そういう「実際の暴力と結びつけてる言葉がある」ことをワザと知らないふりをしてるけど、そんな難しい話は誰もしてない。
「殴られたら人は死んだり怪我したり、辛い思いをする。それをやるぞと言うのは実際の行為と密接に結びついていて、精神的苦痛をもたらす」というだけ。
それで、ネットでの売買について。
大事なのは「情報だけじゃなく、実際に物が動くかどうか」になる。物品売買が発生してるから、そこに疑問の余地はない。
「ボクは仲介してるだけだよ、つまり、扱ってるのは情報だけだよ」というポーズを取ってるけど、
実際にはその情報は物の移動と分かちがたく明確に結びついている点です。
ネットの中だけで完結しないんですよね。
つまり、格ゲーじゃなくて実際に殴りあうボクシングの領域です。
その一つの目立つ例が転売行為となります(個人的には優先順位がやや低いと思ってる。後述)
「生活必需品とみなされるものが買い占め独占などされると社会全体のパフォーマンスが低下する」というのが、
今どきの共通認識です。
よく例えに出されるのは「水をダムでせき止めて下流の人間が水が飲めなくて死ぬ」で、
「飲食店や食料品店が効率的に商売しようと思ったら、売り切れで売上減るより一定割合で廃棄してでも在庫積んで売ったほうがいい」ので、
世の中の食料供給量が余っていても、金がなくて餓死する人は常にいるわけです。
国力というのはマンパワー、動員力そのものに直結してて、戦争に勝つにも何をするにも頭数が必要と思われていて、
日本なんか食糧不足の時期があまりにヤバかったし、貧乏であっても飯が食えるよう、食料供給にめっちゃ国が介入してました。
(今でも一応は介入してます)
その後、あまりにも「平和な時代」(先進国にとっての)が続き、次第に戦争のイメージがわかなくなります。
「全面核戦争が起こるのかも。1999年に恐怖の大王が来るのかも」ってビクビクしてたのが、
「戦争のための準備を前提にするなんて効率悪いよね」ってなり、国民国家って考えかたもどんどん崩れていきました。
「国と国で戦争するんじゃなかったら別に貧乏人のためにカネをつかわなくてもよくね?」
って政治家や官僚が思いはじめた結果、自由経済バンザイ、国の規制とか無駄だよねってなってるのが今で、
コロナウイルス騒ぎでマスクやアルコール消毒剤や使い捨て手袋など、「国民の健康な生活を維持するために必要なもの」が
昔は穀物や塩や砂糖あたりだけ押さえておけばまあ大丈夫かな、って思われてたのが、
世の中がどんどん複雑に高度になっていった結果、
「国民の健康な生活を維持するために必要なもの」の範囲がすごく広くなったんですよね。
それで「おいおい転売サイトを放置しとくとガチ貧乏人だけじゃなくて俺ら中産階級までヤベーぞ」ってなった。
世の中の複雑さについて知識を持ってる人ほど気になる対象は多くなり、
実際、今、必要と思われてるものがなくなっても、世の中は何となく続いてくと思います。
万単位で人が死ぬような影響もあるでしょうが、気づく人は意識し、知らない人は知らないまま死んだり生き延びたりします。
考えたくなくて知らないフリしてる人も多そうです。官僚とか頭良いし情報はあるけど「気にしだすとキリがない」ってなりがちでしょうね。
嗜好品のたぐいの転売については、個人的にはしょうがないかなと思ってます。
トレーディングカードゲームのペラペラな紙に高値をつけて取引するのとPS5を高額転売するのに差は感じません。
そこはソニーの商売とメルカリの商売のカチあうとこなので、企業間のケンカだと思います。
昔からゲームメーカーは中古ゲームショップともケンカして、その対策で色々な施策をしてきたし。
コンビニでのゲーム販売網構築とか(破綻したけど)、ダウンロード販売とか。
「どこまでが嗜好品で、どこまでが生活必需品か」という線引き議論はあるでしょう。
話を戻します。
メルカリについては、「情報だけ扱ってるフリをしてる」のがダウト。
なので、この手の仲介業者に対しては、「実質的に物が動いている以上、物を売っているとみなす」のが必須という話になるかと思います。
というお願いは
ということであって
実質自分が損をするのを減らすためのお願いだったりするんだよね
でも無敵の人はどこまでいっても無敵なんでそれを恣意的に利用しちゃうというか
無茶したぶんだけ得しちゃうのでやめないよね
おなじ無茶を以てしても無理筋な話なわけで
必要になるよね
赤信号を無視しても死にはしないのだからいいじゃんっていうのを
赤信号をしっかり待って青でわたるなら、なにかもらえるとか
あわてず騒がず迷惑をかけないでいれば、なにかもらえるとか
宗教って統治があるとあの世でとかコミュニティでのランクがとか概念があるけど
マイナポイントをスマホで配るとかでゲーミフィケーションできたらいいけど
実質体感できるお得がないと、殴って罰則を体感させるしかなくなるわけではあるし
エロ同人のお控えくださいは
露出や過激な表現の低い情報を高く評価したり価値をつけたりする仕組みがあればいいんだけどね
企業とかスポンサーが確実で控えめで有益で地味な情報に出資を多くするとか
そういうの申請制度にしないとエロとか過激な情報とか嘘を罰則ってすると罰則はらってまで人気とるなら
「隠れて流布する」が増えるに決まってるわけだし
体罰が意味ないのもそれだよね 暴力じゃ解決しないし悪を罰しても悪の定義とか言われだすし
社会貢献ってそういうところだとおもうんだよね
なんでマイナスを補填して罰則をきめて違反していないからセーフとかになっちゃうんだろ
構造的な概念を無宗教だと組み上げにくいというのはあると思うけど
協力とか団結とかいった社会構成的な思考も停止させてる反戦主義みたいなのも
原因かもって思ってしまう
抑制したり助成したりする機構までも完全に資本主義で自由経済主義的になってる感があるけど
それがいいのかわるいのか実際に体験するところにいる気がする
公平とか搾取とか犠牲とかの話にするのは、マルクスがやった失敗の本質で、実は筋が悪い。
だって年収250万のやつに会社経営させると、やはり失敗する。一兵卒に将軍の仕事を任せるわけにはいかない。人間にはやはり個々人の能力に差があるわけ。
マルクスはまだ、能力でなく血統が重視された貴族制の時代を引っ張ってたから「貴族の代わりにブルジョワ」と言う論理を使ったけど、自由経済下では実はそれは成り立たない。プロレタリアートにブルジョアの真似はできないから。人民平等は実は格差のアンチテーゼにならないんだ。
底辺層を社会から排除すると、全体から低確率で排出される天才を活かすことが出来なくなる。
だから底辺層には高所得者の金をばら撒き分配する。それが社会のためになる。
こういう話にすべきなんだよ。
右翼だったら「御国のために恩を返す」でまじで自発的にばら撒きが行われていたのだが、共産主義無き今リベラルにはそれができないからな。
恋愛モノとか一番嫌い。
そんなものに描かれる人間なんて大半は美男美女だし、じゃあお前ここで惚れた振られたどう転ぼうと無限に異性が群がってきてその中から適当に一番イケてるのを選んでハッピーエンドになるんだろうなって思うとなんか萎える。
お前そんなことで涙流すなら明日俺と人生変わってたら発狂して死ぬのか?って
スラムダンクとかも屈指の名作らしいけど昔からあんまり好きになれなかった。
こんなイケイケ体育会系の長身男なんて絶対学歴以上に就活強いし女にもモテるだろって思うとこんな部活動の1ページの勝ち負けなんて糞どうでもいいじゃんって思ってしまう。
スポ根は苦手だ。
ホラーは好き。
ガッキーだろうとキャメロン・ディアスだろうと福山雅治だろうとイケてない奴だろうと殺される恐怖は普遍的だ。
どんなに価値ある有能で美しい人間でもマッドサイエンティストにムカデ人間に改造されてしまえば何もかもがおしまいだ。
女性主体なら江戸川乱歩の芋虫とか好きだなぁ。夫婦双方に救いのない感じがいいし、最後の救いの胸糞の悪さも気持ちがいい。
一番好きな作品はジョーカー。ありゃ心に刺さった。そんな私にも理解ある彼くんが生えてくる世界の苦悩なんてワンパンで格の違いを見せつけてやる感じが素晴らしい。
フォレスト・ガンプ、アイ・アム・サム、ワンダー君は太陽的な感動ポルノは苦手かなぁ。
現実世界のガンプは自由経済・自由恋愛社会の中で淘汰されて野垂れ死んでるんだろうなって思うと悲しくなる。
ああ、こんな人間になりたくなかった;;
理解ある彼くん現象とは、精神疾患や引きこもり等の女性が『女性の生きづらさ』『困窮した状況から立ち直った方法』をテーマに描いたコラムや漫画の中で『理解ある彼氏』が最終ページ辺りに唐突に登場し、男性パートナーの経済的・精神的な支えによっていきなりすべての問題がなんとかなってしまうというある意味デウス・エクス・マキナ的な超展開パターンがあまりにも多いため、皮肉や嫉妬を込めて『理解ある彼くん現象』とか『そ理彼(そんな私にも理解ある彼くんがいますの略)』などと言われるようになったネットスラングである。
逆に障害者や引きこもり男性の人生にこのような『理解ある彼女』が登場し経済的・精神的に支えられ人生におけるセーフティネットとして機能するケースはそ理彼に比べると極めて稀で(健常男性だったパートナーが結婚後に鬱病を発症したケースや数十年前の国民皆婚時代の話であれば例外的にないこともないが)、自由恋愛化した現代日本においての生まれながらの性的価値の差による男女の非対称性の象徴としてよく扱われている。
また、男性の自殺率などを持ち出し『男性と女性どちらが本当の弱者であるか』というテーマの議論でもよく議題に上がる内容だ。
ちなみにこれは『無能の世界』の男女の対比の話であって、例えばそこそこ良い大学を卒業していたりコミュニケーション能力が高かったりと男だろうと女だろうと現代社会で就業や恋愛や結婚に特に困ることのないような五体満足の男女とは全く別次元の社会問題であることは予め頭に入れておいてほしい。
解説するが、理解ある彼くんの正体とは『一応定職にはついているが健常者の女性に相手にされなかった冴えない非モテ男性』のことである。
恋愛競争に敗北したチー牛顔の彼らは『無職や障害者のメンヘラ女性を養う』という戦略を取ることでギリギリの境界で恋愛競争に振り落とされないように必死にしがみついているのだ。
男としての性的魅力は低いが『優しい』『メンヘラ相手でも面倒を見れる』『嫁を養えるレベルにはまともな経済力』という属性がたまたま彼女らのセーフティネットとしてマッチングし、双方の妥協と打算の歪な結果生まれたのがあの物語なのだ。
しかし、この構図は同時に、後世の男性に対する重大な加害行為ではないだろうか?
この漫画で描かれる多くの『性を売ることでしか生きていけない無能な女性』というのは、言い換えるともし彼女がたまたま男であれば生きていけない人間だったということだ。
この『性を売る』というのは売春行為だけでなく当然恋愛での優位性を利用して婚姻等の社会制度の中で『理解ある彼くんに面倒を見てもらう』ことも含まれる。
男性パートナーに依存して生きていくということは、大人として成熟していけば結婚、出産などのイベントからは多くの場合逃れられないだろう。
そして、精神疾患や発達障害などは高確率で子供に遺伝してしまう。
私が『理解ある彼くんに支えてもらいか弱い女性が幸せになったお話』を見たときに一番違和感を感じるのは、彼女らの間に生まれるかもしれない男の子、つまりは不幸の再生産による後世の男性に対する加害行為があまりにも見て見ぬ振りされすぎではないだろうか?という点だ。
生活や承認のために様々なものに目をつぶって『ただ女だから生きていけた無能な女性』が『男だというだけでは生きていけない無能な男性』をこの世界に生み出すことはあまりにも残酷ではないか?
生き方が多様化した現代社会、中には「私は理解ある彼くんと無能な女性の間に生まれた性的弱者の無能な男性であるが、それでも趣味や宗教に打ち込むことによって幸せな人生を送ることができた。」というような男性も、ミクロレベルにはいるのかもしれない、だがそんなレアケースが生まれることを期待して恋愛や生殖のような生物としての根源とも言える選択肢を生まれながらにして当人の意思とは関係なく奪われた弱者を生み出すことは果たして人道的であろうか?
Twitterなどで男女論で議論しているフェミニストやこのような論説に異を唱えているアカウントを追っていると、(勿論漫画化などされていない)暗数も含め『無能な女性が理解ある彼くんと結ばれることで不幸な人生を歩むであろう男の子を生産する』パターンはかなり多いように見える。
現代の発達障害者の男女の生涯未婚率などを比較すると、統計としてもより顕著になるだろう。
もしかすると、この歪な関係の男女の間に生まれてくるのが運良く女児である可能性もある、その場合、その娘は母親と同じように将来『理解ある彼くん』を生やすことで幸福や承認を掴むことは可能なのかもしれない。
しかし、結局は彼女らの子孫から男の子が生まれてしまうまで問題を先送りするだけのことだ。
弱い男性が恋愛や人間関係の中で淘汰され苦しまざるを得ない現代の構造は誰が悪いという話ではない。
それが自然の摂理、といえばそれまでだし、ほぼ全国民が見合い結婚をしていた数十年前の方が生物としてはおかしかったのかもしれない。
これは黒人の奴隷制や昭和時代の女性蔑視な法体制のように国家による責任でも、ましてや『彼らを選ばなかった女性』の責任でもないだろう。
国民に自由を与えた結果、たまたま彼らは選ばれなかっただけだ。
LGBTや黒人のように歴史的な道徳的優位性もなければ、彼らは被害者ですらないだろう。
しかし、そんな歴史の都合は本人達の苦しみとは何一つ関係ない。
100年前であれば、現代では考えられないような碌でなしの男ですら皆何も考えず結婚できていたのだろう。 労働者階級が農民中心の時代では、現代では無能扱いされる彼らも無能ではなかったのかもしれない。
もっと昔の狩猟時代であれば、生きることに必死でこんなことは考えすらしなかったのだろう。
たまたま時代と自己の存在がミスマッチしてしまった不幸な存在が現代の無能な男性なのである。
社会は自動化が進み労働環境は複雑化し続け、教育費は高騰。経済格差は今後も広がり続ける。
無能な社員を雇い続け海外からは『日本式経営』と揶揄される現代の終身雇用形態も合理性のもといつ終焉を迎えるのか誰にもわからない。
きっと無能男性に対して厳しい社会は今後も長い間続いていくのだろう。
社会が形を変え、自殺率や幸福度が更に悲惨な状態になり、無能な世界の男女格差がどれだけ広がっても、きっと彼らは被差別階級にすらなれないのだろう。
情報化によって無能な男がどんな惨めな末路を辿るのか、現代はこんなにもはっきりと知ることができてしまう。
今の世界は、無能な男が笑って胸を張って生きていけるほどまだ優しいものではない。
政治的な正しさなんて概念も、そこまで万能ではない。 『多様性』なんて甘い言葉にきっと苦しむ彼らの存在は含まれていない。
現代における政治的な正しさにおいては「どんな人間であれ恋愛や生殖の権利はあるし、か弱い彼女らがパートナーに救済され子供を持つことは何一つ間違っていない」という主張の方が圧倒的に正しいのだろう。
しかし、どんなに取り繕っても現代の自由経済・自由恋愛社会というものは性淘汰と優生思想の理のもとに機能していて、結局は彼女らの救済の物語とは性淘汰の苦しみを後世の男性にすべて押し付けているだけではないだろうか?
実の子供というのは親にとっては可愛いものだ。 それは多分、種としては出来損ないの息子であったとしてもだ。
理解ある彼くんと無能な女子との間に生まれてきた子供の存在意義を無理やりこじつけるとすれば、それはきっと弱い女性と冴えない男の人生に多少の彩りを与える愛玩動物なのであろう。
彼らの存在は、さしずめカップルが寂しさを紛らわすためにペットショップから貰ってきた去勢済みのポメラニアンと何も変わらないのだ。
悲しいことに、愛玩動物として生を全うするには人類は幾分賢すぎる。
もし今後このような物語を見たとき、少しでも思い出してほしい。
か弱い女性が『理解彼くん』に救われた明るい物語の陰には、その皺寄せにより生涯苦しみ抜かねばならない後世の男性がいるかもしれないことを。
昔からゆっくりものを考えるタイプだった。しかし、現代社会は次から次に決断を求めてくるから、毎回の決断に自信を持って望むことができない。一晩考えてみよう、と思うような内容の出来事があっても1時間後には決断を求められる。何ヶ月も時間がほしいような決断も、1日や2日で結論を求められる。ポンポンと素早く決断できる人にはとても快適な世の中なのだろうが、それに適応できない自分のような人間にとっては地獄でしかない。
例をあげてみよう。(自己検閲により削除)
もっとスピードを緩めて生きていきたい。しかし、自由経済社会ではそれを出し抜いて早く決断を下す人がお金儲けをして、ぼんやりしている人はただただ残りカスで我慢するしかない。ほとほと疲れてしまった。
毎日新聞の世論調査によると首相支持率が急落しているそうで、つくづく首相にはなりたくないもんだな、とそう思った。
他の政策の賛否はともかくとして、目下の最大の問題である対新型コロナウイルス防疫政策についてもっとも成功しているのは日本だろう。
にもかかわらず、首相の仕事というものは民衆の賞賛という形では報いられてはいない。
一つは死者数の少なさと、今一つは我々の市民的自由への当局による制約が事実上一つもないということだ。
この二つを同時に達成した国は、他に一つもない。
なぜこの二つに注目するべきか?当たり前すぎるかも知れないが一応振り返っておく。
まず、死者数。
感染しようがしまいが、結局は命を救うのがもっとも重要だろう。
苦しい病気にかかりたくはないが、死ぬよりはいいし、感染しても症状がでないまま終わるのなら免疫ができるわけでかからないよりもいいかも知れない。出歩かれても困るが。
ちなみに超過死亡という概念もあり、国際的な比較にはこちらの方が有効だという議論もある。
この指数で見ても日本の状況は、諸外国に比較して優れていると言える。
もちろん、経済は重要だ。だが、経済のために自由や人権を無視して良いのか?そうではあるまい。
我々の一人ひとりが自発的にさまざまな自由の行使を控えているのだ。
自粛警察とか同調圧力とかいうのは瑣末な問題で、諸外国にもあるものだし、そもそも当局による行為ではない以上、政府による直接的自由の制約とは言えない。
緊急事態宣言にともなってそれらが生じたとは言えるかもしれないが、それは間接的なものであるし、ならば間接的な制約と直接的な制約でどちらが政府による自由への干渉の程度が大きいか?問うまでもない。
もちろん「自粛警察」による他者の権利の侵害は非難されるべきものだが、実際にそれは本物の警察によって取り締まられている。
マスクの転売禁止と、医療機関へ分配するためのマスク供給業者からの強制買上げ。
これらも市民的自由への干渉と言えば干渉なのだが、例えばフランスのように理由のない外出を禁じる(移動の自由への明白な制約)と言った強硬なものとは程遠い。
ましてや一個の都市からの移動の手段を完全に封じるとか、スマホにアプリをインストールさせて接触者を全部特定させるとか、「検査拒否罪」で強制的にPCR検査を受けさせるというものではない。
日本以外の国で防疫に成功している国は、どこも市民的自由をかなり大胆に犠牲にしている。
生命、市民的自由、経済、これらは三つとも重要だが、少なくとも生命と市民的自由を守るという点でもっとも成功したのは日本だ。
経済への影響は、どこの国もまだどの程度のものになるかは分からない。
ならば現時点では、日本のCovid-19対策こそが自由世界の模範であろう。少なくとも現時点では。
強調しておくべき義務を感じるが、日本の成功は「市民的自由を犠牲にしないCovid-19防疫は可能である」ことを示す重要な証拠だ。
「自粛」というのは社会的かつ自発的な行為なので、その主体は我々一人ひとりの国民だ。
我々の政府の選択は「社会における接触を8割減らす」という専門家会議の方針をバカと言われようがアホと言われようがほぼ「国民への呼びかけ」のみで実現することだった。
そしてそれは成功した。
政治は我々の社会が育んできた専門知を信頼し、愚直にそれを実行した。
その途上で、俗悪なメディアに煽られた民衆がPCR検査の実施拡大を求めたが、首相は拡大するとは言ったものののらりくらりと躱してきた。
こんなものを真面目にやっていたら(おそらくはできたろうが)本当に医療システムは崩壊していたろう。
さて、私が首相だったらと考えてみる。
なにをしていただろうか?
PCR検査を増やすとは言わなかったとは思う。足りないから増やせという発想ではシステムの別の部分を壊すことがあることを職業上よく知っているからだ。ただ、記者や低俗なワイドショーを口汚く罵って舌禍を起こしていたことだろう。
マスクは配ったと思う。暇でバカな痴呆老人がやることが無いから街からマスクがなくなっている。あいつらに我慢させるためにとりあえずばら撒いたるわ。だがやはり舌禍を起こしていたことだろう。
経済について私は何をしていただろうか?少なくとも手続きが面倒だとかなんだとかっていう連中には「お前ら、その金が必要ってことは仕事がないってことだろ。面倒でもやる時間くらいあるだろ。忙しくてやる暇ないなら商売繁盛で結構なことだ」と煽ってやはり舌禍だ。
右派左派の論争が雲鼓なのは何でも乱暴に左右の軸でまとめようとするからだよバーカバーカみたいな話はよく見るけど、じゃぁ乱暴じゃない軸分けって何なよの?ということで愚考してみた。最初はツイに書こうとおもったんだけどいつもチンコとかしか言わない垢なので思い直してここに書く。
所詮素人の思考実験なので粗が目立つし、要素のプロットには自分の政治的はポジションにおける感情がどうしても入るのであんまり参考にならないかもしれないけどまぁそれはそれとして。
欧米で左右というとまずこの価値観になるよねという奴。社会インフラ的なものを政府が運営するか民間に移譲していくか的な理解でええのかなと思う。同時に、再配分の強さを表すパラメータでもあるので、大きな政府になれば労働者側に有利、小さな政府になれば資本家側に有利ということになる。
軸としてはこんな感じ
保守と改革って左右関係なくね?と思うのですよ。これは政策実行のスピード感とかコミュニケーションとかでの政府の態度問題で、改革はスピード重視だけどトップダウンになりがちで対話をおろそかにするし、保守は対話をスピードよりも利害関係者間の対話を重視するので民主的だけどクソ鈍いという特性を持っている。
三つ目は外交パラメータで、自由貿易と国際機関の調停を重視する路線と、自国のブロック経済圏を重視する路線もしくは他国のブロック経済圏を排除するための孤立を行う路線。
協調←-----------------------→覇権/孤立
通貨統合--市場開放---保護貿易・民族主義--植民地主義・鎖国
EUの通貨統合を市場開放の進んだ形と見るのかブロック経済圏と見るのかは素人なのでどうプロットしたものか悩ましいんだけど、国際協調の極端な形として置いてみた。極端なものは破綻をきたしやすいという点では妥当だと思う(ぁ
また、民族主義の扱いをどうするか悩ましいところではあるんだけど、排他性の強さを考えればこの軸に組み込んでしまってもいいかなと思う。
軍事的なパラメータ(タカハト)というのは独立パラメータではなく、基本的には協調vs覇権・孤立の軸に付随して発生するものと考えていいのではないかと思う。つまり覇権や孤立に傾けば自動的にタカになるし、そうなると周辺国も警戒して軍事拡大を行うという関係なので、軍事ありきでのタカハトは有り得ないというのが妥当かなと。
以上の3軸を使うと、ステレオタイプな左右像は
ということになる。でも実際の各国の状況を三軸で分析してみると…
ということで基本的にステレオタイプな左右像にはまるような国や勢力というのは有り得ないのじゃないかと。これを乱暴に左右という一本の軸で考えようとしたらそりゃ当然の様に理屈が破綻しますわね。
民主主義 → 政治家になるやつはエリートしかいない(しかも民間で稼げないけど自己顕示欲の強い2流)ので国民主観な政治なんてされない上に無能化する
自由経済 → 自由=競争とは生まれ持った環境と才能を持たない者にとっての人生罰ゲーム
グローバリズム → 欧米文化第一主義によってマイノリティの固有文化が消失していく統一思想
共産主義・社会主義が不正解だっていう答え合わせは前世紀で済んだけど
民主主義・自由経済主義・グローバリズムの答え合わせも、もう終わったんじゃないの?