はてなキーワード: 政治的な正しさとは
WIkipediaだけ見て言ってそうw
そもそもを言うなら「ポリコレ」はナチズムや共産主義の文脈で使われていた言葉で
そこから幾度も意味の変遷をしているうちに「左翼が自虐として使うこともあった」というだけだぞ。
当時の「左翼」と現代の「左翼」にどれほどの共通性があるかはさておき。
リベラルたちが自分たちの言動を「ポリコレ」と自称していないのは現在でも同じだが、
いずれにせよその語が指し示す「政治的な正しさを求める運動」が現実に存在するからこそ、
いまこのツリーの文脈で言えば「原爆を悪ふざけに使ったミーム」が「政治的な誤り」で、
「原爆を悪ふざけに使ったミームを批判すること」が「政治的な正しさを求める運動」だ。
わかるか?
ニンテンドースイッチのゲーム50本遊んで感想書いたのでまとめ(23〜47)
携帯電話で展開していた探偵・癸生川凌介事件譚シリーズの第十弾。
シーズン1最終作ということで、今までの縦筋として伏線が貼られていた過去の事件、永劫会事件がついに描かれる。
今までの癸生川シリーズ全部盛りな贅沢な作品で、ミステリらしい意外な展開、文書の書き方で読者を騙すもの、マルチサイトの構成の妙、小説として情緒的な染みる文章と、良かったところが沢山ある。
シリーズを通じての伏線が回収される展開も多いため、必ず全作遊んでからここに辿り着きたい。
人によってはこの作品をシリーズで一番に据える人がいそうな、ゲームとしての完成度は抜群だった。
携帯電話で展開していた探偵・癸生川凌介事件譚シリーズの第六弾。
マルチサイトシステムを導入していて、伊綱さんと、生王の視点を行き来しながら事件を追う。
構造自体に仕掛けがある系の作品になっていて、ミステリやってる感がかなり強い。
人によってはこの作品をシリーズで一番に据える人がいそうな、トリックの魅せ方としての完成度は抜群だった。
携帯電話で展開していた探偵・癸生川凌介事件譚シリーズの第四弾。
もちろん、ミステリらしい意外な展開や、文章での表現を利用したトリックなどもあってそちらも楽しめる。
人によってはこの作品をシリーズで一番に据える人がいそうな、物語としての完成度は抜群だった。
株式会社オレンジのロマンティックミステリの第二弾で、女性主人公が事件を捜査して解決しながら男性キャラといい感じになっていくストーリー。
普通の女子大生が突然マフィアのボスになるという突飛な開幕ながら、割と丁寧で良い意味で地味な捜査と解決をしていく。
とはいえマフィアのボスらしく、違法行為をしてでも事件の手がかりを集めるところなんかは今作独自の魅力があり、このシリーズは女性主人公の成長も魅力なんだけど、今作ではマフィアのボスらしくなっていくという本当にその方向で成長していいのか? と困惑しながら遊ぶことになる。
そして本当にマフィアのボスらしくなっていくのが本当に面白くて、好きなところだ。
あのルートレターのシリーズ的には続編に当たる角川ミステリシリーズの第二弾。
奇作、怪作としか言いようがない前作とは違い、しっかりと地に足が着いた丁寧な良作だった。
主人公の八雲マックスが映像作家としての矜持を持つプロに徹する人間性なのも好印象で、熱苦しいものの痛快な好男子で好きなキャラだった。
またもう一人の主人公新人女優のリホも駄洒落に拾い食いと評されるひょうきんなキャラで、主人公がどちらも魅力的な作品だった。
株式会社オレンジのロマンティックミステリの第一弾で、女性主人公が事件を捜査して解決しながら男性キャラといい感じになっていくストーリー。
主人公は他人の死を夢で予知できる能力を持っているが、メイドという立場なのでそれをありのまま報告しても信じてもらえないので、色々と工夫して殺人事件を阻止するという展開。
この夢で見た予知の死を覆すという展開が短編連作的に続くのだけど、どれも同じ人、攻略対象で主人として支えている男性キャラの死を予知するため、何してもこの人死ぬじゃん、とシリアスな笑いを感じてしまったのは不謹慎だから反省したい。
貴族と平民という立場の差のエピソードなどは興味深く、伝えたいことの取捨選択がしっかりしてて短いボリュームながらしっかりまとまっている好きな作品。
ニンテンドーとコーエーテクモがバディを組んで送る超贅沢なアドベンチャーゲーム。
タイトルの通り二人組の関係性がかなり重要なキーワードになってくるが、あくまでバディなので男女問わず楽しめる王道なストーリー。
舞台となるミカグラ島に住む市井の人々にもサブエピソードがいっぱいあって、モブキャラが活躍する展開が大好きな自分としてはそちらの方向も嬉しかった。
ヒーローを目指す主人公のルークに延々とずっと辛い展開が続くので、遊ぶ手が止まりかけるほどだったのだけど、バディのアーロンがそれを引っ張り上げる展開が熱くて沸る燃えるゲームだった。
女の子は万華鏡、といえば何をやっても良いと思ってるゲロカスな美少女デスゲームもの。
ふわふわした可愛い4人の美少女が、罵倒有り暴言有り暴力有り可愛げ無しのデスゲームに巻き込まれながら、剥き出しの人間性を露出していく。
そんな残酷なデスゲームの間に、いかにもな可愛い萌えな過去の日常パートが挟まり、この落差の凄まじさが独自の味わいになっている。
罵倒シーンの声優さんの熱演も見所で特に茜屋日海夏さん演じる五条風華の暴言は下品すぎて、日常パートでの可愛さとの差が凄かった。
ダンジョンRPGの老舗エクスペリエンスが送るホラーアドベンチャーで、怪異の噂をDRPGのような探索パートで調べてから、RPGのボス戦のような怪異との対決パートに挑む構成で、テキストが主体のアドベンチャーゲームらしくない画面構成になっている。
とはいえ、要するにで言うと、事件の手がかりを見つける捜査パートと、容疑者を追い詰める尋問パートみたいなもので、怪異と言いながらも探索パートで手に入れた情報からフェアに対決パートの選択肢を推理可能なように作られている。
RPGっぽいパラメーターの表現はフレバーに過ぎず、テキストをしっかり読むことが大切なので、そういうゲームが苦手でも問題なく遊べた。
印人と呼ばれる仲間を連れて探索するのが特徴で、中年男性ながらかなり露骨にツンデレキャラで萌える真下悟さんが僕はお気に入りだ
○普通
三つしか記憶を保持できない主人公が自身の恋人をなぜナイフで刺したのかを巡るサスペンスなコマンド選択式ADV。
時系列が未来から過去へ進んでいくため行き来する渋谷の街のモブキャラ達にも物語があり、当時の雰囲気を感じられる。
フラグを記憶出来るにも三つだけという設定をシステムに落とし込んでいるのが見どころ。
ただし、この試みが成功しているのかは若干疑問が残り面倒なだけだったかもしれない。
編集者で美女としての自覚が強い木戸いづみが担当作家の鏡月正宗からの無茶振りで事件を捜査することになるコマンド選択式ADV。
物語としての起伏は少なく、ミステリというよりはクイズの趣きが強い。
美女を自称するいづみの強引な聞き込みパートが面白く、話がテンポよく進む。
携帯電話のゲームからの移植だが背景絵のクオリティが高くあの当時に遊んでいたらまた違う感想があったかもしれない。
うらぶれた探偵の狗神エイジとお嬢様刑事の鷲宮ヒナのバディもの。
舞台の池袋に住む市井の人々の協力を得ながら様々な事件を解決しつつ、エイジの相棒でありヒナの兄が死んだ真相も追う縦筋の物語もある。
協力者の面々がかなり優秀な人が多く、主役の二人よりも探偵として優秀なのでは? と思ってしまう良い意味でのテンポの良さが楽しい。
システム面では、よくわからないミニゲームや、頻繁に挟まる話に区切りがついているわけでもない暗転など、運営型スマートフォンゲームの移植故のシステム的にしっくりこないところがあった。
少女同士の恋愛を描きつつ、幾つかの日常の謎を解決する公称ジャンルは百合ミステリ。
ただ、ミステリ部分は少女同士の恋愛を際立たせるための背景のようなもので、あっさりと進んでいく。
その分、恋愛に関する描写はかなり多めでかつ濃厚なもので、恋と友情の差を自覚しつつ、はっきりと恋愛的な意味で好きになっていく過程が描かれていた。
それだけに短編連作で4つしかエピソードがないのは、良い意味で物足りなかった。
携帯電話で展開していた探偵・癸生川凌介事件譚シリーズの第九弾。
白鷺に紅の羽の裏を描く、と言っても時系列や人間関係のそれではなくて、モチーフ的なというか、表現が難しいやつだ。
癸生川シリーズを通しての、探偵は何のために事件を解決するのかを端的に示した短編になっている。
テーマ性の塊みたいな剥き出しの作品なので好き嫌いは別れそうだけど、僕はかなり好きな方だ。
携帯電話で展開していた探偵・癸生川凌介事件譚シリーズの第八弾、元々はDS版の移植である。
久々にスピンオフ短編やマルチサイトではなく、いつメン達のいつもの構図。
ただ、ボリュームが多いのにいつもの構図をやるせいで、伊綱さんの推理がひっくり返るのが、少しもったいなさを感じてしまった。
あくまであのいつもの構図は短編や中編だから決まるもので、長編にはあまり向いていなかったかもしれない。
携帯電話で展開していた探偵・癸生川凌介事件譚シリーズの第五弾。
ちょっと今まではとは毛色が違い、いつものレギュラーメンバの出番も控え目で雰囲気もホラー寄り。
とはいえ、我らが名探偵癸生川凌介が出てくるシーンは格好良く決まっている。
彼をなぜかホッとすると評するのは、なるほどな意見で、なかなか自己分析が出来ているセリフだと思った。
携帯電話で展開していた探偵・癸生川凌介事件譚シリーズの第七弾。
今作はちょっと箸休め的なスピンオフな短編で、正直ちょっと読みどころはあまりない。
犬可愛い可愛いゲームと一言で終わっても良いぐらい犬は可愛い。
とはいえ、これだけ遊ばないのも勿体無いので通して遊べば良いと思うな。
携帯電話で展開していた探偵・癸生川凌介事件譚シリーズの第三弾。
三作目ともなると、いつメンのいつもの構図でいつものやつと簡単に評したくなっちゃうね。
とはいえ、シリーズを通しての縦筋なんかもで出して、探偵・癸生川凌介事件譚として好きになれる要素が増えていくキッカケも多い。
今作は割と聞き込みや証拠品集めからの推理が多く、今までの突飛な発想の飛躍が求められるものじゃないのも特徴的かつ、以降はこれが主になっていく。
携帯電話で展開していた探偵・癸生川凌介事件譚シリーズの第二弾。
前作の流れは踏襲しつつも、本格ミステリさながらの大胆なトリックが映える面白い作品だった。
とはいえこの類の方向性はしっくりこなかったのか、これ以降はもう少し社会派だったり、テーマ性だったり、文章の書き方で読者に対して何かを隠蔽する類の方向性になっていく。
物理トリックの類はゲームだと映えるんだけど、携帯電話の容量の少なさを考えると難しかったんだろうなあ。
携帯電話で展開していた探偵・癸生川凌介事件譚シリーズの第一弾。
名探偵癸生川凌介、その助手白鷺洲伊綱、彼らの事件をゲームにしている生王正生、いつもの面々のデビュー作。
伊綱さんと生王が捜査をしてそれらしき答えに辿り着くも、癸生川がどんでん返すいつもの構図は初見だと結構驚く。
携帯電話という限られた容量の中でしっかりとミステリをやろうとする気概が素晴らしい、
めちゃくちゃ豊富なスチル絵に軽快なBGM、そしてカートゥーン調のアニメーションでハイスピードに物語が展開していくSFもの。
テキストを読むことが主体のゲームって落ち着いた作品が多く、議論をしたり腰を据えてお話を聞いたりが多いんだけど、この作品はとにかく主人公たちが走る! 動く! 飛ぶ! と終始忙しなく動いてばかりで色々な物語が手早く展開していく。
テーマソングの飢餓と宝玉はオープニングテーマでありながら、作品の全てを包括するような歌詞になっていて、クリア後に聞くとまた違った感想になる曲で大好き。
ただ、このスピード感故に細かい部分の整合性や説明がカットされているのは好みが分かれそうかな。
とにかく全体を通じて奇妙な作品で、十数年ぶりに高校時代の文通相手との手紙を発見して、彼女に会いたくなりその地元島根に向かう。
こんな如何にもな青春振り返り系エモストーリーの導入だが、全くこんなストーリーではなく、罵倒、悪口、恫喝を繰り返す反社会的な主人公に振り回される恐ろしいお話。
ストーリーもリアリティラインがルートによって様々すぎて、突飛な展開が続くかと思いきや、現実的な着地を見せたりと、唯一無二な奇妙すぎる作品だった。
インディーゲーム開発者の女性二人の関係性を淡いドット絵の演技で描くナラティブアドベンチャー。
全てを文章で語らず、キャラクタの演技で語るストーリーが見所でかなり細かい演技が丁寧に表現されている。
また、途中で挿入されるゲームボーイライクなパズルゲームが、レベルデザインでなにかを暗喩しており、キャラクタがなにを感じたのかを、台詞や演技だけでなく、このパズルゲームでも表現しているのが今作独自の特徴的な部分。
なかなかハードで現実的な部分が多く、少し心に余裕がある時に遊んだ方が楽しめそうだ。
修学旅行で水中を走る列車に乗り込んだ学生たちの中で起こる殺人事件のお話。
スペインのインディーメーカーの作品だが日本のサブカルが大好きな人たちが作っているようで、そういうのが好きな人向けの小ネタがたんまり入っている。
とはいえ、ジェンダーや政治的な正しさを規定とした問題提起が挟まるなど、日本ではあまり見られないストーリーもあり独自の良さがあった。
殺人事件にまつわる解法も、トリックやロジックなどのあれこれではなく、人間関係の妙に重きが置かれているのも、ある種のらしさなのだろうか。
奇妙なホテルの一室で目覚めた男性がいきなり殺人事件の容疑者と報道されるニュースを見るところが始まるホットスタートな実写ゲーム。
短編ほどのボリュームながら、ゲームシステムを利用した演出や、繰り返しループする世界での面白コメディや、シリアスな男女の恋愛など色々な要素がみっちり詰まってる。
特にヒロインのサチムラアカネは、敵なのか味方なのか、頼れる強キャラなのか守るべき弱い子なのかが目まぐるしく変わる上に、扇状的なシーンも多く、演じている栗山千明さんの魅力が盛りだくさん。
ヴィーガンなんかしょせん理想論で自分たちで勝手に肉を食わなくていい幻想の楽園作って現実から逃げてるに過ぎないだろ
それで気が収まるなら勝手にやればいいけど、そんな理想だけの正しさじゃ誰もついてくるわけないし、
お前らが現実逃避してる間にこれからの時代は発展途上国もどんどん豊かになって肉の消費は増え続ける一方だよってこと
ほんとに家畜たちに対して憐れみを感じるならもっと効果的なことができるだろってこと
「原罪」って言葉を出してくれたけど、宗教は置いといて現代的な倫理性を追求していっても、
この社会ってのは涙を呑んで死ななければならなかった人が大勢いて、そういう多大な犠牲の上で成り立っているんだから、「原罪」のような決して拭えぬ根本的な罪深さを人間は持っていると感じるモノじゃないだろうか。
https://anond.hatelabo.jp/20230417120220
私は山上徹也に同情する。つまり情状酌量の余地があると思っている。
『テロリストの主張に沿った物言いをすることがテロ容認だ』や『目的の正しさは手段を正当化しない』というコメントを目にしたが、山上のやったことが正しいことだとは思っていない。
手段は誤っており、殺人で、有罪である。しかし情状酌量の余地がある。この2つは両立する。
「同情する」という感情は私だけのものではなく普遍的に存在する。しかし社会の大きな枠組みとして存在するわけではなく、個人の意思に委ねられるので、消すのは難しい。というか無理である。
例として、ある会社で社員の不注意により事故が起こった。今後事故を起こさないようにするにはどうすればよいかを考える。「もっと注意する」は効果が薄い。人間のミスは無くせないから。根本的原因を解決するか、事故が起こっても大事に至らない方法を考えるのが正しい。
これと同じように「犯人に同情する」という消せないものを消すことに力を注ぐのは何かずれてるなという気がする。そんなことでこの負の連鎖は解決しない。
次に、『テロの背景を知るとか原因に対策するとかという議論がナンセンス。テロの主張にスポットを当てること自体が、次のテロの原因になる。テロを起こせば言い分を聞いてもらえる社会なら、テロがなくなる訳ない。』という意見。
「テロ」とは「政治的目的を達成するために殺害など苛酷な手段で、敵対する当事者さらには無関係な一般市民などを攻撃し、そこで生ずる心理的威圧や恐怖心を通して譲歩や抑圧などを図るもの」とされている。
無差別殺人テロであれば私だって「情状酌量の余地なし」と思うけど、山上は「安倍元総理の隣の人に当たらないくらいの距離まで近づいた」と言っている。正直なところその他の殺人事件被害者1人との量刑差を見いだせない。
今回のテロであれば敵対対象が明確な分恐れもない。知らないうちに国に巣くってるカルトの方が怖い。
一部ではあるが『いかなるテロも容認できない』と主張する方々の中には一方で『いかなる差別(実際には区別)も絶対的な悪だと決めつけてしまうと、自分は悪ではないので差別しない→自分がしているのは差別(区別)では全くないという誤った認識に陥ってしまう。ある程度の"区別"は社会に必要だよ。』なんてブコメしている人もいる。都合がいい物差しじゃないか。そして根拠薄弱の自覚があるのか自らの主張を「民主主義に対する脅威」として権威付けする。
個人ではなく国として「テロ犯の要求は聞かない」という方針はありだとは思うけど、だからって自民党議員の半数近くが教会と接点を持つような脅威とカルトを放っておくのはなしでしょ。結果的にそれが山上の主張に沿う形になったとしても対応すべきだよ。
何より山上からすると旧統一教会のせいで家族が崩壊した中で、国に頼ろうにも政権与党が「政治的な正しさや国民の苦しみよりカルトとの癒着による議席の確保が大事」だとしてきたわけで「ではこちらも正しさなど知ったことではない。」と山上に言われたら返す言葉ないじゃん。
これって「テロを起こせば言い分を聞いてもらえる社会」だからではなく「テロでも起こさないと言い分を聞いてもらえない社会」だったからだよね。(岸田首相襲撃の木村容疑者に関しては何も分かっていないため今判断しても的外れになるので書かない。)
ジョージ・オーウェルがかつて1984年の中で予想した「ビッグ・ブラザーが見ている」世界になってしまった今、社会的弱者だとか、性的なまなざしがどうかなどを気にしながら生きていかなければならなくなった。
日々、心をすり減らしながら働いて、ほんのひとときの慰めすら焼き払われるようになってしまった令和2年の空気に、政治的な正しさとやらが自分たちの日々のくらしにはなにももたらしてくれないことに気づきつつも、いつかは報われる、そう思いつつ過ごしていたと思う。
一見、素晴らしく見える言説。
貧困をなくそう、飢餓をゼロに、すべての人に健康と福祉を。
SDGsの17のゴールについて、文句を言う人はいないだろう。だって、そうあった方がより良い社会に見えるから。
これに反論するには、謳われているこれらのテーマよりより強い強度で、反証しなければならない。
しかしこれらのゴールは、そもそも反論する必要すらない、無敵の命題なのだ。
ひとは多くのテーマを投げられると混乱してしまう。マジックナンバー5と言われるように、17のゴールなんて扱えようもない。
それでもテーマ単体はそれぞれどうしようもなく正しい。ただしいのだ。
そうやって少しずつ罪悪感を逆手に取り、気づかないうちに、正しさを盾に作り上げてきたディストピアは我々が暮らす社会を次第に蝕んでいったように 思える。
こんなことネットで言ったら社会的に死ぬよね、みたいな枕詞をつけて、対面で、「ここだけの話」をするようになってしまっている。
1984年で描かれていた監視社会は気がつけば現実のものとなっていた。
そんな時代に暇空茜氏が登場したのは痛快この上ない出来事だ。
私はapos時代やブラウザ三国志時代の空白氏を存じ上げなかったが、Twitterにて「暇な空白」として現れた以降、フォローこそしていなかったがリストに入れて彼の振る舞いを眺めていた。
すぐレスバ対象にマウントを取るし、ピンフスキーにウザ絡みをし続けるさまなどは、見ている分には昔のインターネットが戻ってきているような気がして個人的にはめんどくさそうだけど好ましく思えていた。
彼を好ましく思わない人からは、承認欲求に狂った躁状態であるという揶揄を目にしたが、それは誤りで今も昔のインターネット然とした振る舞いの延長であると思う。
忖度なくマサカリを投げ、雄叫びをあげる猛獣でありつづけるだけであり、私のような新参から見ても変化してるとは思えない。
とにかく氏は特殊個体であることは間違いないが。そういう人なのだ。
そんな彼が暇を持て余して?始めたウソを暴くという戯れだが、この話を追っていてずっと感じていることがひとつある。
彼は一切攻撃していないのだ。
ただ淡々と記録をつまびらかにし、過去のデータや発言と照合して、それらを解説してオープン化しているだけにすぎない。
それが攻撃だと感じるのであれば、自身の振る舞いを顧みた方がいいと思うが、それはまた別の話。
正しい「とされる」ことをしているから、多少難があっても多めに見てもらえる、というバリアが彼の行動によって無効化されつつあるように見える。同時に相手がたの反論や非難の矛先を全て彼が受けることによって、矢面に立ちたくない、立てない事情がある他の人間も行動に参加できるようになっているのだ。
結果、暇空氏が一人で叩き出せるダメージよりも遥かに大きな数値を稼ぐことができていると思う。
むろん、暇空氏一人が攻撃もしなければならない場合だったとしてもかなりの数値だと思うけれど。
こういった暇空氏が端緒となった調査行動だが、彼が裁判費用として集め始めたカンパの金額を見るに、社会的に大きなムーブメントが産まれていることは疑いようがない。皆、彼に望みを託したいのだ。一方で、Twitter以外のソーシャルメディアではこの話題をあまり見かけない。
だからマイナーな運動なのだ、影響はないという意見になってしまうのはわからないでもない。しかしこれは(あくまで私の個人的な見解だが)実態を窺い知ることができないという観点から正しくないと言えるだろう。
私のFacebookのフレンドには、暇空氏が言う83-2人委員会の人間がいる。「ナニカ」に近いと目される組織で勤めている人間も複数名いる。財団の犬も。
社会人として、そんな交友関係の中で、この関連の記事に言及なんてできないのは自明であろう。
関係性に色々なグラデーションがある中、83-2人委員会に名を連ねているけれど、今のあなたの見解は?なんて今のインターネットの世界で聞けるわけがない。そしてそもそもFacebookは国内においては仕事の告知や自慢しか流れてこなくなっている斜陽気味のメディアだ。
わざわざ、波風を立てるようなことを書かないのだ。書いてしまうような人は狂人であろう。(おそらくその手のタイプの人はフレンド関係のままだけどフォローをはずされているだろう。)
しかしながら、わたしと同じようなソーシャルグラフを持つ友人とリアルで飲む時に、ポロッと話題に出してみると面白い反応を得られるのだ。
お互いの認識を恐る恐る確認するようなやり取りをした後、「あれまじでやばいよね」みたいな形になる。
そして、「暇空にカンパしたもん」というように、陰ながら支持している旨を明かす。「おれも」と返す。そして、「これはFBでは言えないよねー」「そうそう、角が立ちすぎる」なんて会話になるのだ。
極めて個人的なサンプルであるが、800人くらいフレンドがいる中で、その中で近似したソーシャルグラフを持つ200名の中で、たまたまリアルで会う機会があった人のうち15人弱がそんな感じだった。
普段積極的にインターネットに触れている党派性に染まっていない層はWBPCの話について好ましく思っていないと思っていいんじゃないだろうか。
一方で、ソーシャルグラフが近くない友人、実家近辺の友人や大学時代の友人はこの問題を認知すらしていないからここが課題だと思われた。
左のいつメンがいれば、同様に右のいつメンもいて、一般的な生活者だったらどっちのいつメンの話も聞きたくないのだ。怒りに満ちた言葉や、皮肉になってない当て擦りの言葉なんかもう、たくさんなんだよ。
そういういつメンは言葉遣いも悪くなる。怒っている人には近づかなくない。だから先鋭化する。
そんなところに突如として現れたのがこの冷静さに満ちた動きなのだ。観客をするにもリテラシーが必要とされる。
かわいそう、良さそうといった感情によって蹂躙されてしまった社会と世間を取り戻す智慧の革命と言っても過言ではない、かも。
あけすけに語られる不恰好な言説ではなく、冷静にウィットを込めて、時には自虐も入れてソフィスティケートされたうえで投げかけられるから、抵抗なく飲み込める。これを冷笑という向きがあるのかもしれないが、そう知覚してしまうこともわからないでもない。しかし、冷笑というよりはポップであると感じる方がおおいのではないだろうか。
本件はもはやcolabo問題ではない。
ナニカが何かは観客席の人間からはわからないが、最終的にはナニカ疑獄に収束すると思うし、そう願いたい。これは静かな、静かでポップな革命だといえよう。これがきっと、戦後の本当の終わりを示す標なのだと思う。
現在のアップデートされた価値観を前提とするなら人間の肉体をもっと変えていく必要がある事はもっと強調されるべきだと思う
女性が10代~40代くらいの間に平均2回以上出産して肉体に負担かけないと人類の種の保存が出来ない上に生存本能が種の保存を訴えてくる
魚介類を含めた動物の肉を食わないと生存に必要な栄養素を摂取しにくい
平均的なスペックを発揮できない肉体として産まれた人間はどうあがいてもやれる事に制限がかかる
どれも政治的な正しさを追求していく上では問題にあがる要素と言えるだろうね
これらの課題を種の保存を始めとした様々な行為を諦めていく事で解決するやり方もあるが
人間の本能がそれを受け入れがたいものと抗ってくるのでやはり投薬によって人間の肉体の脳という部分を変える必要があるのには変わりない
だから人工子宮・遺伝子技術によって老若男女誰でも一人で自分の子どもを苦痛なく作れるようにした方がいいし
肉体の障害はサイボーグ化を始めとした肉体改造でガンガン変えられるようにした方がいい
そもそも脳まで完全にサイボーグ化してこれからはAI含めて機械の脳を持った存在を人類に含めた方がいいだろう
今の医学なんて1000年以上前からの人間から見れば肉体を根本から変えてるようにしか見えないだろうしな
だから現状は人類という種が衰退に向かっていく事を受け入れながら
根本的な肉体改造技術を開発して衰退を解決しようとするのが一番政治的に正しい態度と言えるだろうね
この際に人工子宮や遺伝子改造やサイボーグ化やAIなどに問題意識を持つ事は自由だと思うが
それが差別性や最新の「人権」の軽視と切り離せないという意識は持っておく必要があるだろう
ポリコレはポリティカル・コレクトネスの略で日本語だと「政治的な正しさ」と訳される。ここで注目するべきなのは「政治的な」という部分だ。そうだ。政治的なんだ。どこまでいっても政治的。倫理的に正しいわけでも絶対的に正しいわけでも世間的に正しいわけでもない。あくまで政治的。どういう為政者が権力の側にいるか。それでポリコレも時代によって変わる。例えば日本の戦時中の敵性言語排除なんかもポリコレだ。ストライク!ボール!と言うと攻撃されるのは完全にポリコレである。そもそもポリコレというのはナチスのヒトラーや旧ソ連のスターリンが好んで悪用していた概念である。気に入らない言説を全てポリコレに反するとして幾千もの書物を焼いたし人間を焼いた。君たちが普段軽々しくバカにしているポリコレは実は非常に怖いものだ。ポリコレは全力で排除しなければならない。
ポリコレ叩きが苦手だ。昨今はスーパーマン新作の主人公がバイセクシャルだったり、ガンダム新作の主人公が色黒の女性だったりとポリコレ叩きが盛んになっているが「いや、スーパーマンがバイセクシャルで何が悪いの?」「ガンダムの主人公が女性で何が悪いの?」と思ってしまう。
もともと異性愛者だった主人公が突然バイセクシャルになったとかだったらおかしいと思うが、新キャラがバイセクシャルなら何の問題もなくないか? 既存のシリーズにポリコレ要素を盛り込むなというのもよく分からない。ポリコレ関係なく時代に合わせて設定が変わっていくというのは当たり前のことだ。それがたまたま主人公がバイセクシャルだっただけ。
ポリコレは「容姿、性別、人種、セクシャリティ等での差別の否定」「マジョリティだけでなくマイノリティも活躍させる」という政治的に正しい理屈なのに対し、アンチポリコレが政治的に正しい理由を唱えているのを見たことがない。「容姿が良い人の活躍の場を奪うな!」も一見それっぽい理屈だがいくつかの作品で容姿の悪い人がキャスティングされたところで容姿の良い人はそれ以上に活躍の場があるのは変わらないしただの被害妄想だ。結局本音は「俺のシコれないブスやホモはいらない!」でしかない。そりゃ勝てるわけないだろうと思う。政治的な正しさと男のズリネタを天秤に掛けたら前者の方が重要に決まってる。