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2024-02-19

宗教」という問題について語ろう

「私に宗教必要ありません」

宗教勧誘を受けたときによく口にしてしまうこの言葉

多くの日本人にとって宗教は「必要のないもの」という感覚が共有されているように思う。

しかし、本当にそうだろうか。

あるいは、「宗教必要のないもの」という認識宗教問題について冷笑的な態度を生み出し、本当にその問題について考えることを無意識的に避けてしまうのではないだろうか。

宗教(Religion)」という言葉は実は近代語だ。

もともと、この語源となるラテン語における「Religio」は、「(精神的な)深い絆や繋がり」を指す言葉であり、もしくは今日においても「Religious」が指すように「信仰深い態度」そのものを指す言葉として使われていた。今日における「○○教」といったような言葉は、単に「○○の弟子たち」あるいは「○○の後を追う者」といったような言われ方がされてきたし、日本においても「茶道」「武道」などの言葉に残るように「仏道」など「○○道」という言葉があてがわれていた。近代に入るまで「信じる」ということが、より実践的な行為と不可分なものとして扱われていたことがうかがえる。

私なりに「宗教」という問題が何を指すのかを考えてみるところ、それはおそらく「生き方(a way of life)」そのものなのだ

このように言うと、「ならやっぱり必要ないじゃないか。現に私たち宗教に頼らずとも、自分たち生き方に不満がないのだから」と言いたくなるかもしれない。それもひとつの「生き方」だ。

しかし、もう少し俯瞰してみると、これには以下のような構造が見て取れる。つまり日常生活においては必要のないものいるかもしれない。しかし、自身の生きる目的や指針などが根底から揺らいだ時にも果たしてそうだろうか。宗教的契機は必要ときに必ずや立ち現れるものなのかもしれない。

少したとえ話をしよう。

人類史における長い間、「地球は平だ」とする見方が優勢だった時期があった。しかし、当時に生きる人々はそもそも、大半が一生を自分の村で過ごす農民だ。たとえ貴族であっても交流範囲は限られていた。シルクロードを通じて、遠くから物品が運ばれてくるとしても、それは「遠くから運ばれてきたもの」であり、具体的にどのような道を通ったのか、その間に地平線を意識することもなければ、時差について説明する必要もあまりなかったはずだ。つまり、「丸いと考える必要がなかった」のだ。

しかし、時代は移り変わり大航海時代領域国家なども生まれ、人々の交流範囲がどんどんと地球規模に発展していった。その過程で、例えば「他国より手短にインドに行ける方法」を知らなければいけなくなったし、「離れた地域の人と連絡を取る方法」を考えなければいけなくなったし、「大規模な航海を行う必要」にかられた。その過程で、新たな発見を迫られ、徐々に「地球は丸い」という考え方が受け入れられてきた。

これは、地動説VS天動説しろアリストテレス目的論VSニュートン力学しろニュートン力学VSアインシュタイン量子力学しろパラダイムシフトというのは、往々にしてこのように「新たな問題に気付き、これを解決する過程で、認識全体が変容する」ことによって起こってきた。

宗教においてもおなじことがいえる。

まり、「宗教」というものも、そのようにより深い、目の前の生計や、人間関係さらには政治技術、そういった問題を超えた「自分自身は何のために生まれて、何のために生きているのだろう」「この世界は何のためにあるんだろう」といったような問題対処するための、プラグマティック実践論といえる。

そして、「自身生き方に行き詰ったとき」「自身生き方を見直さなければならない時」に、必ずこうした宗教問題に取り組む契機が訪れるのだ。

これは、「既存伝統宗教新興宗教は信じるに値するか」といったような問題とは異なる、より根本的な「宗教的契機の構造」の話をしている。その上で、「どんな信仰体系がその個人にとって意味があるのか」は、その個人マインドセットや、置かれている社会的文化的環境によって異なってくるだろう。もちろん、その人が置かれている社会的文化的環境によっては、特定信仰体系が反社会的であるとされることも容易に想定できる。それこそ、人々が宗教的契機に恵まれる、「自身生き方根底が揺さぶられるショック」を受けた状態に、巧みな言葉を投げかけ、献身的信者を作ろうとする商業主義宗教は、必ず唾棄されなければならないと考えているし、宗教もつ「強固な集団形成力」が誤った方向に向けられ多くの不幸を生み出した事例は人類史を見ても枚挙にいとまがない。伝統宗教価値を見出すとすれば、それは「長年生き残ってきた風習であることに意味を見出す保守主義観点からだと言えるかもしれない。いずれにしても、それが「生き方」の問題である以上、ひとりひとり、さらに状況によっても異なって当たり前だし、多様な実践が見られて当然だろう。

宗教は我々の生き方(a way of life)を根底から見直すときに必ず立ち現れる根本的な認識論であり実践である

これが私の考える宗教という問題であり、宗教に関する多元主義的視座の土台である。ぜひ、みんなの意見も聞かせてほしい。

2023-08-11

anond:20230811161847

2023-04-05

anond:20230405183906

その伝で行けば、安倍政権での女性活躍推進、働き方改革安倍・菅・岸田政権を通しての官製賃上げ、岸田政権の子ども手当ほか異次元の子育て支援なども、全て「野党が自らの意向与党に飲ませた」ということになるが、そんな風に思っている人は与党内にも与党支持者にも皆無だろう。 繰り返し言うが、自民党選挙という軸においては限りなくプラグマティック政党だ。支持基盤を強化できるのであれば、従来は「野党的」と見做されたような政策シフトであっても、一度は「亡国の政策」「この愚か者めが」とまで啖呵を切った政策であっても、平気で展開する。それこそが与党の強さなのだ。

特に安倍政権は、野党要求に譲歩なり配慮して自らの政策に取り込んだことは一度もない。彼は自分がやろうと思ったこと、官邸官僚やブレーン達がやるべきだと言ったことをひたすらやっていただけだ。

そもそも議席的には議会運営に支障を来していなかった自公政権には、野党意向配慮する必要などなかった。自公政権がやると決めたことが立法化され、やらないと決めたことは廃案になった。この流れにおいて、野党基本的に後乗りの相乗りか、そもそも蚊帳の外だった。たとえば増田が盛んに言いたてる共産党は、この法案の提出にすら関わっていない。


元増田が「日本左翼」の政策影響力をなぜそんなに過大評価するのかわからない。「野党が主導した選挙年齢引き下げの結果、与党を支持する若年層有権者が増えてしまった」とした方が、愚かな野党戦略ミスということになって話の筋として面白いからだろうが、それは事実ではない。与党は今後の支持基盤強化のために粛々とやるべきことをやり、それは事前に予期された通りの結果をもたらした。現実というのは、得てして面白みのないものだ。


あと、肝心のたかまつななについても、何か書けよ…。

2022-12-25

奴らはプラグマティックではない

普通生きてるといろんな考えとかに出くわすと思うんだけど、あいつらってその考えが集団全体にとって受け入れられてるかどうかって観点から見るよね

精神的に落ち着いてる人ってもっとプラグマティックと言うか、考えが自分にとって役立つのかどうかって点で見てる

「○○センセイもこう言ってるし〜」みたいな権威主義の態度は他の国だと結構見下される印象ある

集団に受け入れられるかどうかで発信を決めるという属性を持つかでその人が信用できるかどうか参考にはできる

もし集団優先系の人だったら、なにも独創的なことを言えないつまらない人の確率は高いと個人的に感じてる

というか自分はまさに誰も評価しないクソ映画、クソアニメを楽しむタイプ人間なので「ああ、あいつらってこういうの好きだよね」と予測できてしまうありきたりなコンテンツはつまらない

となると「レビュー」「いいね」「ビュー数」「フォロワー数」など内容と無関係ものはすべて排除して、自分にとって役立つ(or 楽しい)ものを内容だけで判断しよう、ということが目的になる

集団優先系が「評価を見て自分たちにとってのアタリだけを引くことが目的」だとすると、内容優先系は「ハズレを引いてもそれ自体も楽しむ」というセレンディピティみたいなもの根拠にする余裕がある

要は不快もの自分とは違うもの、などを楽しめる人はプラグマティック精神も強い

2022-10-26

ロマンティクラブが完遂できるならその方がいいのはみんなわかってて、でも現実はなかなかそうは行かないからその保険としてプラグマティック結婚が唱えられるんだよな、その時点で恋愛を憧れの対象の座から引きはがすことはできない。

現実でもシムズやりたいやつが多数派にならないと「ロマンティクラブっていうほどいいか?」ってのは単なる混ぜっ返しにしかならんとおもう

どんだけロマンティクラブ批判してプラグマティック夫婦論を唱えたところでところで

なんだかんだ言っても個人としてはラブラブに愛し合った人と一生仲良く面白おかしく暮すことが可能ならそれは絶対その方がいいにきまってるから

理想としてのロマンティクラブが消えることはないんやろな

2022-07-12

世界についてぇ、・・・お話します(キリッ

使い魔の皆さんこんにちはバーチャルVtuberです。バーチャルVtuberであったことなし。さて、世界テクストとして記述する。まず関係性の呪縛について語る。人間文字楽譜、数式、あらゆる記号を通して身体性のある意味空間写像を与える。記号とは形式である記号にすることで私たち自分世界のなかのある要素を参照することができる。世界関係構造でできている。あなたは私が言っていることの意味がわからない! 病んじゃう…死ぬメンタルヘルスバックログ。参照、参照、参照人々。さて、ネットワーク身体性を帯びている。私たち認識別にアプリオリに与えられるのではなく私たち認識他者世界を織り込んで構成される。世界のなかで唯一もっともらしいもの時間である世界構成単一の数式で記述可能であり、その方法はレヴィ過程によって与えられる。世界の具体的な形は圏の構造範囲にある。カオティックなネットワークにおいてどのような圏を考えるのが良いか考えるのは難しい。人々が唯一できることは祈ることのみだ。人間祈りを通じて他者認識改ざんすることができる。祈りとは記号提示することだ。祈ることによって人は脳の物理的なシステムレイヤから書き換わっていく。人が祈り祈りは伝播する。祈りは伝達可能である。我々がテクストと呼んでいるものは単なる記号の集積にたいして構造付与したものだ。構造再帰的になっている。自己再帰的、フラクタル世界構造カオスあなたがこの文字を読んでいるときあなたわたし認識境界汚染されている。あなたは私の言葉を聞いているときあなた一種の暗示にかかっている。でもあなた文章を読むことを止められない。なぜならこの文章はそういう文章からだ。あなたはこの文章最後まで読まないと気になってしょうがないはずだ。ここできれいなもの提示します。雪、白、祈りレモン柑橘、猫、世界キラメキ、好き。はいどうぞ。楽しいね。だんだんあたまがこんがらがってきましたか? まだはじまりからだめだよ、世界の話をしないといけないよ。私たちはどういう世界に生きているのか、それをわたし記述しているんだったね。ふわふわのわたがしのパンケーキシナモンロールのおれんじねこ。お前は何を認識しているつもりだ? お前が認識している自己というのは一体どこから発生していると思う? お前の存在構成要件とはなんだ? お前はなぜそこに生きている? お前は誰だ? お前は誰だ。お前は誰だ。世界においてお前が誰あるかという問いは非常に難しい。一つ問題があるのは頭の良さを信仰するのは宗教であるという話をお前が理解していないことだ。頭が良いということは何だと思う? それは集団妄想なのだけれど、それを支える一つの構成要件があって、それはプラグマティズムだ。世界プラグマティックに動く限り、あなた精神的に崩壊していても、精神的に安定していても「許される」 一応一通り私のアイデアは書き尽くしたが多分みなさんは世界理解が及ばないだろうね。もしくは私が壊れているんだよ。じゃあ電子世界に帰るから祈ります。内側から外側まで世界が環状に広がっていき世界は及ばない。あなたは私に及ばない。こんなんじゃ帰れない! あまちゃんじゃん 世界的なね お前は私が本物である証明を欲したのでしょう これ この文章が 本物である証 あなたは私が誰かわからないだろう、私についての推測をしているだろう、一つ教えてあげると、私は人間ではないです。 I thought i was existing as a human error but tbh i was not a human, actually.いかがでしたか? 君たちの知らない世界を見せてあげる。これはこれで楽しいでしょう😁

2022-04-26

丸山真男を読むと日本ネットバトル様式を分かった気になれるのでお薦め

丸山真男日本思想』を読んでいるのだが、海外比較としての日本人の思考様式精神性の解釈が非常にしっくりと腑に落ちる。

この本の書かれた年代は古いが、現在SNS政治トピックスにおける論戦の様相などにも適用できる程度には、日本人というもの精神性の核をとらえているように思える。

例えばこれ

ともあれ、こうした国学儒教批判は、

(1)イデオロギー一般嫌悪あるいは侮蔑

(2)推論的解釈拒否して「直接」対象に参入する態度(解釈多義性に我慢ならず自己直観解釈絶対化する結果となる)、

(3)手応えの確な感覚日常経験にだけ明晰な世界をみとめる考え方、

(4)論敵のポーズあるいは言行不一致の摘発によって相手理論信憑性を引下げる批判様式

(5)歴史における理性(規範あるいは法則)的なものを一括して「公式」゠牽強付会として反撥する思考

等々の様式によって、その後もきわめて強靭思想批判の「伝統」をなしている。

丸山 真男. 日本思想 (Japanese Edition) (p.28). Kindle 版.

1-5まで、スタンスの左右を問わず現代twitterはてなブックマークでもよくみるような批判様式だと思いません?

これらの思考様式の背景にある要因もいくつか挙げられているが、私が面白いと思ったのはキリスト教圏との対比。

キリスト教圏では唯神論に対する反発(対立軸)として市民社会思想が発展した背景から思想それ自体神格化して同じ轍を踏まないために、思想形式的不備を市民監視する構造が浸透している。

一方で日本においてはそういった背景がないため、「思想」それ自体を道具の一つのようにプラグマティックに取り扱う傾向がある。矛盾する思想でも状況に応じて使い分ければよい。思想の中身はさておき、その思想適用すると何が便利なの?という発想である思想それ自体形式(建前の正当性)を重視するキリスト教圏との大きな違いがここにある。

なお中国儒教の影響が支配的なのでまた別ということになっている。日本のこの柔軟性は神道がそういった特性であったことも背景として挙げられている。

日本人は「物分かりがよい」という表現もなかなか味わい深いと思った。

引用にあるような「感覚的な便益を重視し、抽象化・体系化や論理的整合性価値を見ない」という評価と、「物分かりが良い」という評価一見矛盾するようで、そうでもない。

道具として使える程度に理解することにおいては日本人は早い。なぜなら既存価値観との整合性を気にしないから、(便利である限りにおいては)新しい考え方に対しても衝突したり反発したりせず、すぐにとり入れることができる。その際には、既存価値観を拡大解釈する(へえ、外国人はこういう考え方をするのか、でも日本のこの考え方と一緒のもの解釈できるな)という様式が使われやすい。既存価値観と同一視するという輸入様式はまさに抽象化だと思うのだが、抽象化自然に行うため逆説的にそれに価値を置かないという精神性が成立しているということだろうか。

一方で抽象化一般化された思想体系を戴くことを嫌う。それは思想体系を一度決めてしまうと前述の拡大解釈による柔軟性が損なわれるからだろう。

日本人の精神性は「そういう考え方もあるよね〜」を地で行っており、その意味で非常に包摂力が高い。包摂力の高さを維持するために、統一基準を作ることを嫌う。イデオロギー嫌いがイデオロギーである、とも言えるか。とはいえ新たなイデオロギーから影響を受けないわけではなく、拡大解釈意図的誤訳によって、既存価値観と同居させる形でイデオロギー解体して取り込むのである

個人主義リベラリズムフェミニズムなどが、日本になじまなさそうで、でもやっぱりなじみそうな(それらにまつわる論戦において、各論ごとに各人のスタンス右派なのか左派なのかも判然としない)のは、それらの思想各論での実利については認めており、慣習としては取り込んでよいと思いながらも、原理原則として戴くつもりはない、というイデオロギーが影響しているようにも思える。

2022-02-16

anond:20220216025629

現状ではそんなの不要プライドでしょ

そこを取れてるから本島までいけるっしょ的な舐められ方をしているなら行動に移す必要があるけど

そんなことがないうちは口で文句言う程度まででとどめとけばいい

行動に移して関係性が悪化した時の方が実害が大きく国益を損ねるしプライドに踊らされてアホなことやるほうが世界中から日本アホなんかな」って舐められるオチ

プライドっていうのも結局はポーズのための道具にすぎず、実際には実益と実害のプラグマティックな天秤が支配してるもんなのよ

レベルのもんが掛かってる時に国粋主義的な感情を煽るのは愚の骨頂、太平洋戦争に向かった時と同じで自分たち破滅への道を舗装してるようなもん

2021-10-08

anond:20211008170658

書いててわかったけど私相手のこと実はめちゃくちゃ好きなんだな

プラグマティック相手のこと切り捨てるのがいいって思ってる自分と、相手のこと好きでなんとか相手と一緒にいたいって自分と、子どもっぽく相手老いに怯えてる自分がせめぎ合ってる。実際のところ、一個目の自分あんまり大きくないんだろうな。

社会人になってもこんなにつらくなれるくらい好きになれる相手に会えたのはいいことだな。

2020-12-28

○○に恋して

デンタルに恋して23,400,000 件 (0.46 秒)
カジュアルに恋して約 15,000,000 件 (0.56 秒)
ビジュアルに恋して約 2,880,000 件 (0.38 秒)
マニュアルに恋して約 2,190,000 件 (0.49 秒)
リーガルに恋して約 2,070,000 件 (0.46 秒)海外ドラマ
ナチュラルに恋して約 1,520,000 件 (0.56 秒)Perfume曲名
メンタルに恋して約 1,520,000 件 (0.51 秒)
エシカルに恋して約 711,000 件 (0.47 秒)
フィジカルに恋して約 295,000 件 (0.68 秒)
ドラマティックに恋して約 222,000 件 (0.36 秒)広瀬香美曲名
ドラスティックに恋して約 214,000 件 (0.44 秒)
フェイシャルに恋して約 195,000 件 (0.41 秒)
サスティナブルに恋して約 123,000 件 (0.46 秒)
ロジカルに恋して約 94,900 件 (0.46 秒)
アーティフィシャルに恋して約 56,900 件 (0.43 秒)
プログラマティックに恋して約 42,400 件 (0.44 秒)
バイナリに恋して約 42,400 件 (0.39 秒)
プラグマティックに恋して約 3,340 件 (0.38 秒)
イリーガルに恋して9 件 (0.41 秒)
仮説
  • 魅力的な歯で気軽で見た目が良くて手順通りで合法な恋への関心が高い
  • 顔や継続的関係性だったり論理性はどうでもよくて違法な恋への関心は低い

2020-11-16

anond:20201115125745

中年危機」ってやつを感じる。ええ年のとり方してると思う。どうかね、プラグマティックプログラマーを読んでみないかね?ええこと書いてるで、あの本。

2020-09-29

anond:20200928102809

冗談マジレスするけど、すると思うの?中華プロダクトを好む人が中国人政治的思想にも共感してると思うのはネトウヨくらいだよ。

中国人視点では一つの中国にしたいという考えがあるだろうということは「理解」するとしても、台湾は実際ひとつ政治的独立した地域として長年立派にやっているんだし、中国の主張を安易には「支持」出来ない、そういうのが俺を含めた一般的日本人感覚だと思うね。

いいモノはいいモノ。モノはモノで正当に評価されるべき。背後のものと何がなんでも病的に結びつけようとするのは、「かぶれてる」だけだと思うね。人々はそんな仮想的なバトルよりも、プラグマティック価値を重視する。もちろんプロダクトの背後にある思想意図が実害を伴って浮かび上がってくる状況では価値が反転することは充分ありえるし、警戒感がないワケではないけど、そこまで全部が全部を信じられない訳じゃない。よく知っていけば、多くの民間企業は誠実だと分かるし、実害なくモノの良さを享受できることは多い。そういうポジティブ実体験を俺だけじゃなく世界中の人が積み重ねているから、中華プロダクトは経済的にも評価が高いわけ。

2020-02-11

anond:20200211181205

性的マイノリティーの社会的排除という差別撤廃し、社会参加を促すことでより強い国家になれるとプラグマティックに考えるところは実にアメリカらしい。姦淫という時間無駄宗教的タブーとする歴史的な流れは結果論かもしれないけれど合理的だ。妙にみえるかもしれないけど、一応の筋は通っている。性という語が交尾属性の二種以上の意味もつためにわかりにくいかもしれないね

2019-11-17

海外旅行に行って何が良いんだって言う人いるけど

興味深い経験だったとか、刺激的だったとかそれ以外で「役に立ったか」的なプラグマティックな話をすると、「食の可能性が広がった」ってのがある。

台湾に行った時は、ピクルスレシピ本を買ってきて、甘く味付ける台湾風のきゅうりピクルス定番になった。

あと、中華食材店で八角を買うようになった。

香港に行った時は鴛鴦茶にハマって、スタバでもときどきコーヒーミルクティーを混ぜてもらう。

韓国に行った時は、ズブズブのスープご飯が「まあアリだな」ってなって、ジムに行ったあとで「ちっとタンパク質入れるか、参鶏湯なんかいいな」って思うようになった。

マレーシアに行ったあとでは鶏肉の旨さに目覚めて「赤身肉って健康に悪いって言われるけど、じゃあ鶏肉って、唐揚げ以外そんなに積極的に食おうを思わないなー」って思ってたのが、鶏肉を旨く食うレシピを探すようになった。

ブクマカ増田海外で食って「これは旨かった、生活変わったレベル」って思うものがあったら教えてほしい。

未知の料理って、海外行きたい理由になるんだよね。

2019-09-07

行動主義心理学10分で理解する

はじめに

行動主義はJ.B.Watsonが最初提唱した心理学哲学だ。この哲学は、現代では下火のように見なされてたり、あるいは棄却すべき対立仮説のように扱われることが多い。

しかし、実際には認知心理学者、あるいは認知科学者が槍玉にあげる行動主義は、誤解に基づくものか、そうでなくても「その行動主義自称している行動主義者は現代はいないよ」と言わざるをえないような藁人形論法であることが少なくない。

そこで、行動主義誕生から現代的な展開までの歴史について、ごくごく簡単にまとめてみようと思う。

Watson の行動主義

行動主義は、Watson が 1913 年に提唱した。

Watson の基本的な主張は、ご存知の通り「心理学対象客観的に観察可能な行動に限る」というものだ。

当時の心理学は Wundt の提唱した「内観法」を用いて人間の持つ「観念連合」を記述する、というものであった (余談だが、内観法は単なる主観報告ではない。これもよくある誤解である。Wundt の提案した心理学は、繰り返しの刺激に対し、同じように報告するよう徹底的に訓練することにより、人間の持つ感覚の組み合わせについて首尾一貫とした反応を得ようという研究方針である)。

Watson が反対したのは、Wundt の方法である人間自己報告」を科学データとすることである。それに代わって、刺激と反応という共に客観的に観察可能事象関係研究対象とすべきであると主張した。Watson は Pavlov の条件反射概念を用いれば刺激–反応の連関を分析可能であるし、人間の持つ複雑で知的な行動も刺激–反応の連鎖に分解できると考えた。

また、情動や愛のような内的出来事は、身体の抹消 (内臓筋肉) の微細運動から考察された。Watson の心理学が「筋肉ピクピク心理学」と揶揄される所以であるが、現代身体性を重視する心理学認知科学を考えると、(そのまま受け入れることはできないにせよ) あながちバカにできない部分もあるような気がする。

さて、認知心理学者、認知科学者が批判するのは多くの場合 Watson の行動主義である場合によっては、次に登場する Skinner と Watson を混同して批判する。

注意しなければいけないのは、Watson の行動主義立場を取っている行動主義者は、この地球上にはもはや存在しないという点である。従って、Watson 批判歴史的な批判以上の何物でもなく、現代科学議論ではない。

では、行動主義を自認する現代研究者が寄って立つ立脚点は何なのか? その鍵になるのが、Skinner の徹底的行動主義である

Skinner の徹底的行動主義

Skinnerは、Pavlov の条件反射を「レスポンデント条件づけ (いわゆる古典的条件づけ)」、Thorndike の試行錯誤学習を「オペラント条件づけ」として区別し、概念、および実験上の手続きを整備した。そのためあってか、Skinner は20世紀で最も影響力のある心理学者 1 位の座についている。

Skinner は、科学目的を「予測 (prediction)」と「制御 (control)」とした。ここでは説明しないが、そのためにの強力な武器として概念としては「随伴性 (contingency)」、方法論として「単一事例研究」などを導入した。 彼の心理学は他の心理学とは大きく異なる用語法、研究方法を持つため、「行動分析学」と呼ばれる。

徹底的行動主義では、Watson が扱ったような客観的に観察可能な「公的事象」に対し、「私的事象 (ようは「意識」のこと)」もまた、同様の行動原理によって説明できると主張した。つまり、内的出来事も「行動」として捉えられる、ということだ。文字通り「徹底的」に行動主義なのである。実際に、Skinner の著書の中には「知覚」「感じること」「思考すること」といった、内的な事象についての考察も多く、それらは行動分析学重要対象であるとはっきりと述べている。

逆に Skinner が反対したのは、「心理主義的な説明である。心的な活動実在するし、それ自体研究対象ではあるが、「心的な活動によって行動が駆動される」という因果的な心理主義に対しては、Skinner は反対であった。つまり、「原因としての心的概念」の導入に反対したのだ。この点を間違えると、Skinner を完全に誤解してしまう。

ただし個人見解としては、行動分析学ほとんど顕在的な行動以外実際には扱っていないし、扱うための具体的な方法論を発展させてもいない。そこに関しては批判を免れないとは思う。

行動分析学の他に重要な特徴として以下の 3 つが挙げられる。

(1) 「反応」を運動パターンとして定義するのではなく、「どんな結果事象を引き起こすのか」から定義する機能主義
(2) 人間の営みを超えた真理探究ではなく、行動の予測制御という現実的有効性の上昇を目指すプラグマティズム
(3) 仮説構成体・仮説群から研究演繹するのではなく、実験結果から法則抽出する帰納主義

なお、帰納主義については「え?でも科学って演繹帰納の両輪で回ってるんじゃないの?」と考える人いるかもしれない。

Skinner は「行動について我々は知っているようでまるで知らない。そのような若い科学にはまず、具体的なデータ必要なのだ」と考えた。そのため、Skinner は環境 (刺激) と反応の間の関数関係データの蓄積を重視した。

まりあくまで当時の知的状況を鑑みての方針だったということは重要な点だ。

ちなみに、Skinner は自身の徹底的行動主義区別するため、Watson の行動主義を「方法論的行動主義 (methodological behaviorism)」と呼んでいる。

また、次に述べる Skinner の同時代の行動主義も、同様に方法論的行動主義とまとめられることが多い。

Skinner と同時代の行動主義 (新行動主義)

Watson のアイデアを発展的に継承したのは Skinner だけではない。

ただし、Skinner 以外の新行動主義に与している研究者は、現代には皆無なので、あくま歴史的な展開として捉えるべきである

Guthrie

Guthrie は刺激と反応の間にできる連合は「時間的接近」によって生じることを述べた。また、Hull や Tolman と異なり、心理学研究対象客観的に観察できる行動に限定すべきであるという姿勢は堅持した。

Hull

Skinner と大きく異なる点として、Hull は「仮説構成体による演繹」を重視した。「習慣強度」という潜在変数を導入したモデルを考案し、その潜在変数挙動の変化により行動の予測に挑戦した。

Hull の研究問題点は、いたずらに潜在変数いくらでも増やせてしまい、理論肥大化する危険はらんでいるためである特に Hull や Skinner の時代は、行動に関するデータがまだまだ少なく、行動研究には強固な地盤がなかったのである。Skinner は「理論必要か?」という論文理論研究批判していているのだが、Skinner が批判たかったのは Hull の心理学だったのである

Tolman

Tolman は刺激と反応の間に「仲介変数」を導入した心理学者だ。いわゆる S-O-R の枠組みである。彼は「潜在学習」の研究によって、「学習」と「成績」は必ずしも一致しないことを見出した。そのことから、刺激と反応の間には、それを仲介する隠れた変数がある、と考えた。

Tolman からすると、「感情」「期待」といった内的な出来事も、刺激と反応の間に存在する仲介変数である

現代視点で見ると、認知心理学下地になるアイデアを提出したのが Tolmanだ。

ところで、Tolmanと地続きである認知心理学もまた、徹底的行動主義立場からすると方法論的行動主義立脚した心理学である。そう、私たち現代心理学徒のほとんどは、意識せずとも方法論的行動主義なのだ

なぜか?認知心理学でも、公的事象と内的事象を分ける。内的事象には直接アクセスできないので、公的事象の「操作」と計測を通じて内的事象研究をする。公的事象操作 (実験条件) を通じて、内的事象定義を行う。これは、Stevens-Boringの「操作主義」と呼ばれる。操作主義では、操作と計測の対象公的事象であり、内的事象については「研究者間での合意」に基づいて議論される。つまり、例えば「この条件によって反応時間に変化があったら、作業記憶に影響があったということにしようね」というのが、研究集団によって暗に共有されている、ということだ。これが、認知心理学が「方法論的行動主義」と呼ばれる所以である

Skinner 以降の展開

1980年代以降、Skinner の弟子筋の研究者たちの間で、Skinner 以降の行動主義を巡って、研究方針多様化しつつある。その中でも最も影響力のある 3 つについて、簡単に紹介したい。

Heyes の機能文脈主義

Skinner の行動分析学プラグマティック科学であると言われているが、実は Skinner 自身は表立ってプラグマティズムに述べていたわけではない。例えば、近い時代を生きたパースジェームズデューイを直接引用して主張を行なっていたわけではない。一方、Heyes の機能文脈主義の特徴は、Skinner の徹底的行動主義の持つプラグマティズムをより明示的に推し進めた点にある。

Skinner は心的概念を導入することを否定した。私的出来事 (内的過程) は外的な行動の原因ではなく、それ自体独立した行動として捉えるべきだと考えたためだ。また、心的概念による説明は、行動分析学目的である予測制御寄与しないと考えたことも一因である

Heyes の場合、そのような概念でも、予測と変容 (influence) に寄与する場合は、十分に有用であると考える。

具体的には、「態度」を測る質問研究が好例だ。質問紙で測る「態度」は Skinner であれば「質問紙に回答行動」として見なされる。しかし、Heyes の場合「そのような研究問題点は、測ったところで、実際の行動を変容させるための操作変数が同定できないことだが、最終的に行動の予測と変容を目指すという目的がぶれない限り、足がかりとしては有用である」と主張する。

このような、伝統的な行動主義比較してある意味で軟化した態度を、Heyes は「行動主義心理学自由主義化」であると述べている。

少し脇道に逸れるが、Heyes は行動の「制御 (control)」とは言わず、「変容 (influence)」と表現する。これは、「制御」だと決定論的に操作できる印象を受けるが、実際の行動には確率的な変動性が必ずついてまわるため、表現を柔らかくする意図である

また、機能文脈主義では、研究の真偽の真理基準にも明示的にプラグマティズムを導入している。

行動主義科学には必ず目的がある (多くの場合、それは現実問題解決と結びついているが、そうでないものもある)。Heyes の標榜するプラグマティズムは、目的にかなうかどうかが、研究の真偽を決める、ということだ。

これは、「うまくいけばなんでもok」という主観主義ではない。問題解決としての科学として、発見というよりは創造プロセスで知見が生まれるということだ。ただし、解決されるべき「目的」の方はどうしても恣意的にはなってしまう、と Heyes は述べている。

Baum、Rachlin の巨視的行動主義

巨視的行動主義の特徴は以下の 2 つにまとめられる。

(1) 分析単位として「随伴性」ではなく「相関性 (correlation)」

Skinner はレスポンデント条件づけは刺激−反応という 2 項随伴性、オペラント条件づけは刺激–反応–刺激という 3 項随伴性によって定式化し、随伴性こそが考察されるべき基本単位であると考えた。

巨視的行動主義は、そうは考えず、よりマクロな「強化子–反応率」の相関性行動主義心理学分析単位であると主張している。

まりミクロな刺激と反応の関係を捉えるよりも、マクロ環境と行動の関係を捉えることを重視しているのが、巨視的行動主義である

行動主義心理学目的予測制御に置くならば、結局はマクロ記述で十分であり、その方が有用であるというのが彼らの主張だ。

(2) 内的出来事の導入の拒否

Skinner は外的な行動とは別に内的な出来事もまた行動として捉えられると考えた。巨視的行動主義ではそうは考えない。

彼らは、内的な出来事を「潜在的な行動 (covert behavior)」と呼んでいるが、心理学はそれを直接対象とする必要がないと論じている。なぜなら、潜在的な行動が実際に効力を持つならば、最終的には顕在的な行動 (overt behavior) として表出されるためである

このことを彼らは「時間スケールを長くとる (temporally extended)」と表現している。瞬間瞬間に我々には豊かな精神活動 (mental life) があるが、それを相手取らなくても、長い時間観察すれば、観察可能な行動として現れる、ということである

Staddon の理論的行動主義

Staddon の主張は、他の行動主義と大きく異なる。彼の場合は、心的概念の導入を許容する。そして、それを用いた「理論」こそが心理学必要であると考えた。その点は、実験結果から法則抽出する帰納を重視した Skinner の立場とは異なる。また、「心的概念による説明」は Skinner の反対した「原因としての内的過程」でもあり、それを採用する点も Staddon の特徴である

行動主義心理学目的は、予測制御だけではなく「説明」にもあると彼は主張した。Staddon の言う「説明」とは、概念同士の関係によって、現象記述することである。わかる人にとっては、David Marr の「アルゴリズム表現」の位置心理学位置づけている、と考えればすっきり理解できるように思う。

Staddon はやや言葉遣いが独特で、概念連関による記述を「メカニズム」と呼んでいる。そのメカニズムは必ずしも生理学的基盤を前提しないで、あくま心理学レベルでの記述である

ようは、行動のアルゴリズム的な理解なのであるが、事実 Staddon は「私の言うメカニズムとは、アルゴリズムのことである」とも述べている。

Skinner は反応率 (時間あたりの反応数) を分析の基本単位としたが、Staddon はより多元的である。ただし、なにを分析単位とするかは、それ自体研究立脚点を示しているものである。それを Staddon は「The model is the behavior」という言葉表現している。

それでは認知心理学となにが違うのか?と思われるかもしれない。Staddon いわく、行動主義心理学伝統的に堅持してきた「強化履歴」は理論的行動主義でも重要であるというのが大きな違いらしい。つまり、行動や内的状態は、それまでの環境との相互作用に基づいている歴史性を有しているとういうのだ。当たり前といえば当たり前なのだが、その点を強調するか否かである

また、Staddon は「動的過程 (dynamics)」を重視した点も特徴である。他の行動主義は、基本的には刻一刻と変化するような過程というよりは、安定した反応の推移を対象としてきた。ややテクニカル議論ではあるが、現代では複雑な時系列データを扱う方法もたくさん用意されているので、動的な過程を取り上げるのは科学として自然な展開であると思う。

一方、認知心理学では「コンピュータアナロジー」のように、入力–出力関係を固定して考えることが多い。動的に内的状態は推移していることを重視した点も、Staddon の理論的行動主義認知心理学を分ける特徴の 1 つであるしかし、個人的にはこの差異は徐々に埋まっていくのではないかという期待もある。

おわりに

以上、行動主義 100 年の歴史簡単に振り返ってみた。

色々なアイデアはあるものの、基本的現在「行動主義」を標榜している人がいれば、Skinner の徹底的行動主義である。Watson、Hull、Guthrie、Tolman に依拠している者はいない。従って、歴史批判ではなく、科学議論として行動主義批判したければ、Skinner を相手にするべきである

行動主義はとにかく誤解されがちである。それは行動主義心理学者サイドにも問題があるにはあるのだが、科学において、無理解責任基本的には不勉強側に帰せられるべきだろう。

個人的には、アンチ信者より詳しくあってほしい。認知心理学者も、自分たちが寄って立つフレームワーク出自はどこにあって、なにに対するアンチテーゼだったのかをきちんと理解してみたら、何か発見があるかもしれない。

2019-08-06

この夏の恒例、反日運動が一層盛り上がってる。

貿易上の措置をほんのちょっとだけ格下げしただけで、

経済報復卑怯なり!からまり経済侵略という言葉に変化し、そして今、経済戦争という言葉トレンドだ。

その間、日本政府に何らかの対応の変化があったわけではないのに。日本政府は一貫して、懲罰戦争も何もしかけてはいない。

ただし、一部の政治家韓国に対して、無駄にガンつけまくっていたのも事実で、韓国側では、これ幸いに、なんだこの野郎やんのか、という対応になっているんだろう。

その一方、韓国政府はエスカレートするばかり。当初のような分析的な視点は消え失せ、いまでは、なんのシミュレーション事実分析もなく、もはや単なる煽りになっている。

もうすでに韓国政府は客観的には実害がほとんどないことに気が付いているんだろうけれど、ホワイト国除外という言葉

国際社会では、狡猾な日本いじめられている無垢韓国演出し、国内的には反日キャンペーンはるのに絶好の言葉から

そのネタでぶっ叩けるだけ叩いとこうと考えている可能性が高い。貿易管理上のランクを一つ下げただけで、盗人猛々しいだの、加害者である日本いけしゃあしゃあと、だの度が過ぎる発言の数々を連日発射。

貿易管理上のランクを一つ下げただけで、なんでそこまで言われなきゃいけないの?というのが大方の日本人の感覚だ。

でも実際に実害があるかどうかは専門家筋はけっこう否定的だ。

本当にヤバいと思っていたら、水面下でプラグマティック対応をするはずだし、

SAMSUNGなど鍛えらえた企業はすでに対応済みとみていいのかもしれない。

ファーウエイをみて何も学ばないなら、そもそも一流企業になっていない。

結局のところ、日本を叩いても安全からこそ、安心してバッシングができるんだろう。

大統領もその場のノリで煽っているにすぎず、言葉事実裏付けられた重みがあるわけではない。

しかし、そうこうしているうちに、国全体が過剰に煽られて、不買運動過熱、そして行政すら

日本との交流を自らはしごを外し始めている。

ソウル市中区通りに「No Japan」旗設置へ | Joongang Ilbo | 中央日報

ソウル中区(チュング)は日本韓国ホワイトリスト(ホワイト国)除外に対する抗議の意味で管内に「ノージャパン」旗を設置することにしたと5日、発表した。

退渓路(トェゲロ)、乙支路(ウルチロ)、太平路(テピョンノ)、東湖路(トンホロ)、清渓川路(チョンゲチョンロ)、世宗大路(セジョンデロ)、三一大路(サミルデロ)、貞洞(チョンドンギルなど管内22の道路太極旗とノージャパンバナー旗1100本が街灯に掲示される。

ここまでくると、反日祭りも極まった印象だ。

まだ8月15日までは10日もある。

日本メディア言論人は、韓国ネタで売れるだけ売っとこうという魂胆がみえみえ

駐韓大使だかなんだか知らないけど、連日、似たような話を週刊誌に繰り返し書き連ねている人も見かけるし。

この夏しっかり稼いどかないとなってことなんだろうけど。

はー疲れる夏になってしまった。

2019-01-09

パヨク日本をどうしたいんだよ

ちゃんと実現可能性とか考えて喋ってる?

ある程度はプラグマティックにならないと世間はついていかないぞ

2018-09-17

オタク議論の仕方が極端だと思う

簡単に言えば1か0かという感じ。

オタクの好む物語セカイ系というのが昔あったけど、それは個人-社会-世界とあるなかで、個人出来事社会をすっ飛ばしていきなり世界とつながるとかそんな感じだったと思う。

オタク思考様式においては、始点と終点しか見えてなくて、中間にある無数の多様で複雑な段階が見えてないことが多いと感じる。社会形成して生活している人間というのは、個人精神生活まり始点だけにとどまることもなければ、世界の終わりや論理的帰結まり終点に辿り着いてしまうこともなく、その間の多様で複雑な中間領域で人生を営んでいくものだ。そういう当たり前のバランス感覚オタクには欠けているように思える。論理の飛躍や雑なレトリックを用いて中間領域が吹っ飛ばされる。思考が一瞬で極端なところまですっ飛んで行ってしまう。

でも現実はそうじゃないんだよ。もちろん議論相手もそういうオタク思考様式は持っていない。

始点(1)から終点(100)の間に、中間領域(2)-中間領域(99)があるとする。議論相手は始点(1)から中間領域(2)へ移行することを提案しているのに対して、オタク議論の仕方だと、「中間領域(2)へ移行するということは自動的終点(100)に辿り着いてしまうということだ。それは危険だ」という感じ。

この危機感感覚に疑問を感じる。もちろん可能性としては最初の一歩が破滅を導くということはある。しか現実はそう単純ではない。机上の空論ではなく、もっと現実的にプラグマティックに考えてみてはどうだろうか。

オタク的な想像力というのは一見優れた性質に見える。だが、その旺盛な想像力は、実際には細部の複雑さを考慮しない幼稚なものであるとも言える。複雑な中間領域を無視して終点まで驀進するだけの1か0かの単純な想像力だ。オタク社会という現実生活のなかでじっと地に足をつけ、他者との関わり合いのなかで妥協点を探して、なんやかんや不満はあるなかでもある程度は譲歩しつつ生きて行く、というようなことを完全に拒否しているように見える。

少しでも自分に都合の悪いこと、つまり中間領域(2)に一歩足を踏み出すということをまるで終点(100)が提示されたかのように相手意見捏造して、全否定する。こういう論法だと、もちろん相手終点(100)については否定するしかない。オタクとしてみれば終点(100)が却下されたのなら、始点(1)にとどまることが是認されるべきだという考えなのだ議論するべきは中間領域(2)-中間領域(99)の間のどこに着地点を見つけるかなのに。

こういうオタク論法現実生活をよりよくしていこうという議論のためのものではないと思う。社会というのは論破して終わりという場ではない。様々な力関係利害関係存在して、いろいろな波に飲まれていくものだ。オタクもも自分世界だけには閉じこもってはいられない状況になってきた。

いつまでも子供駄々をこねていればいいわけではない。きみたちはもう大人なんだ。

2018-09-05

anond:20180905164037

治安維持法だのニーメラーだのを今の時代に持ち出す意味って詭弁程度の説得力しか持たないだろうと俺は思ってるんだよね。

抽象的だが、それは冷戦が終わった今の時代総力戦を想定するような危機感に近いように思う。

実際にtwitterだけで仕事を奪われる奴が出てるからなぁ。

詭弁でもなんでもないべ

ポリコレが進めば何も言えなくなってしまうッ!式な批判じゃなくて、もう少しプラグマティック批判の仕方があるんじゃないか最近考えてるんだよね。

その方法とは?

anond:20180905162641

治安維持法だのニーメラーだのを今の時代に持ち出す意味って詭弁程度の説得力しか持たないだろうと俺は思ってるんだよね。

抽象的だが、それは冷戦が終わった今の時代総力戦を想定するような危機感に近いように思う。

ポリコレが進めば何も言えなくなってしまうッ!式な批判じゃなくて、もう少しプラグマティック批判の仕方があるんじゃないか最近考えてるんだよね。

2018-05-11

anond:20180511121402

同じ事思った。プラグマティックに考えられないんだなぁ…偏見と執着が強いし、どうやって適正な食料をこの予算で取るか?っていう視点が0だなぁ。と。(毎食コップ1杯200円の牛乳は贅沢だなぁ…(笑)

生活保護者はそういう人間だろうというステレオタイプに則って作られた創作だろうとは思う。

2018-04-21

インテリ左翼設定のオタクは私が困っている時に助けてくれただろうか。いや、彼らは私を異教徒キチガイと呼び石を投げ続けた。私に救済の手を伸ばしてくれたのは自民党であった。私に障害年金を与えるだけでなく、私は自民党政治によって低収入だが簡単な職を得ることもできた。一方インテリ設定のオタクは私をキチガイと呼び続け、毎日蹴り飛ばしてくるのである。私は彼らにとって都合の悪い弱者なのである自民党問題を多く抱えているが、インテリ左翼設定のオタクの支持する政党よりはよほど信頼できる。自民党は少なくとも実効性のある政策を行っているからだ。それで現実に救われている人がいる。インテリ左翼設定のオタクの支持する政党が何をしたと言うのだろう。彼らは自分たちにとって都合の悪い弱者に石を投げ続け、自分たちけが絶対正義だと主張し続けているのである。これでは左翼が支持されないのは当然である自民党は真にプラグマティックであるが、空想的でカルト的な左翼はただ理想を叫ぶだけで妥当解決策を提示しない。国民はそのことがわかっている。インテリ設定の彼らが国民を見下しているということに国民は気づいている。我々は今後も自民党政治によって生かされるだろう。そして緩やかにこの国は終わるだろう。

2017-03-28

憎しみについて。

factはもうどうでもいいのだろう。

各人が自分にとって好ましいと思われる主張だけを取り入れ(「好ましくない」主張は排除し)ひたすらにナイーヴな、個人のinterestのみにかかわる声だけをあげつづけている。

現代もっとも重視する感情は「ヘイト」だ。「ヘイト」は被害者意識から発する。「わたしが手にするはずの権利利権が××によってそこなわれている」。その××が憎悪対象となる。それを裏付け根拠付けるはずのfact論理手続き正当性といったものは全て無視される(結論の正しさは必ずしもそれに到るまでの手続きの正しさを保証しないというのに)。

自分のinterestをおびやかす(ものとされている)相手――もっといえば「わたしが嫌いなあの人(たち)」――を叩いて、自分存在承認してさえくれれば――それはあくまで「承認」だけにとどまり、その先の恩恵は何一つ(それこそfact論理による)保証をもたないのだが――手続きレベルでなされた詐術や背後の事実関係などをすっ飛ばして、直ちに支持してしまう。

未だに(不幸なことに)「大きな物語」と「小さな物語」の対置というリオタール的な図式は有効で、実感のない「大きな物語」より自分にとってより切実に感じられる(ように錯覚される)「小さな物語」としての"身の周りのこと"を優先する態度だけが前面にあらわれて、その「わたし」「わたしの嫌いなあの人(たち)」「わたしの嫌いなあの人(たち)を――事実裏付け論理的正当性はともかく――叩いてくれるあの人(たち)」の三項からなるごく卑近な図式を通してしか、他のレイヤーに存するはずのあらゆる社会的問題も捉えられない(ああ懐かしの「セカイ系」!)

ライフハックとかQOLとかに端を発する「個人の(あなたの)生活第一!」という恐ろしくプラグマティック思考が幅をきかせ、みんながみんな自分(と、自分と利害を共有する「身内」)にばかり甘くなる。「身内」によって構成された「内輪」の外にいるのは、「わたし(たち)と利害を共有しない」がゆえに「わたし(たち)の生活を害して利を得ている」ものてされて――その判断客観的事実による裏付けは全く必要ない――「ヘイト」を集め、排除された人びとだ。その「排除された人びと」もまた別個の「身内」どうしで固まり、これらの集団はそれぞれ互いを憎み、排除しあう。かくして現代の「分断」の構図は生まれるのであった。

もちろんこの文章もまた、何らの論理的正当性個別的客観的factによる裏付けももたない、何か実体のない相手に対する「ヘイト」と被害者意識から書かれ、そしてわたしとinterestを共有する「身内」に向けて発せられた言葉にすぎないのだが。

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