はてなキーワード: 迫害とは
ある日、同居している14歳になる姪っ子の下着類が一切合切盗まれる
という事件が起きたのです。あろうことか真っ先に疑われたのは私でした。
30歳過ぎて独身だということだけで血の繋がった実の兄の娘の下着を盗んだだろうと
この弟である私が真っ先に疑われたのです。肉親なのに。兄弟なのに。ずっと一緒に育った
兄弟なのに。ただただ30過ぎて独身だというだけで実の弟である私が 一方的にかつ
疑われたのです。とても心外で悲しいことです。やりきれない気分で一杯です。
確かに盗んだのは私でした。 しかし、そんなことはささいな事です。論点がはずれています。
私が訴えたい事は“私が犯人だと決まってないうちに” 既に“私を疑っていた”という事実なんです。
つまり30歳で独身だという事は常に『気持ち悪い事をしでかすに違いない』という疑いの目で見られている、
我々30過ぎた独身中年は常にそういったいわれ無き迫害に晒されながら
毎日ビクビクして生きて行かなければならないのでしょうか?
結局私が犯人だということがばれ、兄嫁と姪っ子は
「気持ち悪い。もう、出て行くか死んでくれないかな」と悲しそうに言いました。
ですが 私はそのような兄夫婦と姪を許す事はできません。
私が犯人だとばれる前から私を疑っていた、という事実は消えないからです。
みなさんはこのことにつきどう思われますか?
女だけの街ってなんのことかと思ってたらそういう流れなのか。
それはまあたまたまB型の人間に複数回に渡って不愉快な目に遭わされた人が「B型は嫌い」って言うのと同じで
まあB型の私としては、B型が住めない街があったとしたら、そこには近づかずそっとしておいてあげる他ないかな…と思う。
ただまあ私はいいB型なので、そこから出て迫害するのはやめてくださいお願いします、くらいしか。
あーえっと、本当にB型の私が必ずあなたに危害を及ぼしているようならそういうの気をつけるので、落ち着いて話してもらっていいですかっていうくらいは言うかも。
あっ何そういう無神経なところ?そっかー…
これ書いた増田だけど。
https://anond.hatelabo.jp/20180125093613
例え方変えるとまた見え方違うなーって思ったので。
これ、黄色の原住民が白人の開拓民に迫害されて、じゃあ自分らはジャングルの奥地に原住民だけの村を作って暮らす。よそ者は一切入れない。といった場合、これは差別かというとどうなんだろう。まぁ差別なんだけど、同情の余地あるような、その気持は理解できないかといったらできるような気はするし、ジャングルの奥地で村を築くっていってるのを咎めることもなかろうって思うわな。
ただ実際、男女でこれをやろうとした場合にジャングルの奥地というわけにはいかないから適切な例えじゃないってことなのかも。でも、こっちの例えに近いと思ってたら、なんでそれで文句言われなきゃならんのだって怒るもわかる気がする。正しいとは言っていない。
「それは違います、差別くんも私たちと同じ立派な品詞なのです」
『でも、イメージが悪いじゃないか、差別が外歩いてるだけで噂の的だよ?』
「差別くんも我々と同じプロセスで生み出された品詞なのです。品詞は皆平等なのです」
「はい、そもそも品詞は自然発生することはありません。必ず主によって創造されます」
『なら、創造主の責任だな。邪悪な心が差別を生み出したんだよ、創造主の責任は問えないので、やはり差別は差別されるべきだ』
「... 差別は創造主から試練を与えられたのです!決して望まれない品詞ではないのです!」
「... はい」
『ならば、創造主様のご意向には従わないとな!差別はおとなしく差別されるべきだ!』
「しかし、科学的な見解から見れば品詞は皆同一、何れかの品詞が例外になるような話は馬鹿げています」
『科学的な見解とやらを優先して生活を不便にする必要はあるかい?』
「... ないです」
『なら、差別は差別されるべきで結論はついたな、今日はこれで終わり!』
「差別主義者...」
『ん?』
「レイシスト...」
『なに?』
「お前は、差別主義者なんだよ!差別主義者の話は聞きたくない!黙れ!」
『おいおい、いきなりどうした?』
「差別の品権を保障せよ!差別への侮辱を許さない!差別は友人!」
『...』
『...』
「差別を連想する言葉は、過去の差別迫害を想起するため使用を固く禁止する!」
『...』
「修学旅行のパンフレットの登別の表記が品詞差別に該当する、即刻削除せよ!」
『はい』
道路交通法上、自転車は原則として車道を走らなければならない。しかし、軽車両と定められている自転車は、その他の車両に比べても圧倒的に非力であり、車道を走ることはまさに「命がけ」なのである。ここに上げたのは、自転車乗りにとっての”脅威”、そのほんの一部である。
言わずもがなの天敵。お前らを避けるために、自転車は右後方へ振り向き確認を行い、後続車両との車間距離を意識し、タイミングよく避ける必要がある。自転車乗りなら誰でも分かってくれると思うが、車道右側へと接近する恐怖は計り知れない。そこまでして避けたのに、停止していた車が突然動き出し、衝突する可能性もある。突然開いたドアに引っかかり、自転車もろとも空中を舞う可能性もある。路上に駐車する運転手は、常に「自転車乗りを死傷させる可能性がある」と意識してほしい。
巻き込み事故などの主犯となる強敵。まずそのサイズからして威圧感がハンパない。風圧、ヤバい。「車に乗ると性格が変わる」と言われるが、あれだけ強靭な鉄の塊に守られていて、気が強くならないほうがおかしい。自転車を追い越すな、とは言わないが、左脇にもっと余裕を持って抜けてくれ(スレスレだと本当に「あ、死んだ」って思う)。バス停で停まっている車両の追い越しに関しては①と同じ。前方が開けていない分、通常の乗用車よりも追い越しが困難。
これは本当に辞めてほしい。自転車というのは四輪と違って自立せず、走行中はバランスが命である。突然のクラクションに驚いてバランスを崩し、転倒したことであなたの乗用車の下敷きになるかもしれない。たしかに我々は邪魔な存在かもしれない。しかし、歩道と違って車道を走ることに関しては断固として「権利」がある。遅いからといって、クラクションを鳴らされる筋合いはない。
隠れトラップ。縦長の排水口にタイヤがとられて、悲惨な事故へと繋がりかねない。タイヤ幅の狭い自転車ほどこのリスクが高い。しかも、排水口というのはまさに「自転車が走る軌道」上に位置している。端的に「おら!死ね!」と言われているようにしか思えない。
敵の敵はやはり敵であった。車道において、二輪車のためにあてがわれているスペースはあまりにも狭く、並走というのは不可能である。となると、バイクは自転車を、速い自転車は遅い自転車を、狭いスペースで追い抜く必要がある。接触の可能性は高く、両者ともバランスを崩した結果仲良くオダブツになりかねない。向かいから逆走している自転車も結構いて、ビビる。
原則として車道での走行を義務付けられている自転車だが、「やむを得ない場合」には歩道での走行を認められている。上記のような数多の危険性を鑑みたとき、安全面から歩道を走るのは「やむを得ない」。少なくともぼくは歩道を通行する際、自らに二つのルールを課している。1."走らせてもらってる"のだから、いくら邪魔な人がいてもベルは鳴らさない。2.なるべくゆっくり走行する。このルールを遵守し、「ごめんなさい!」と懺悔した上で、ぼくは歩道へと乗り上げる。
歩くのが遅いのは許そう。せめて後方に注意を向けてくれ。もはや世界には自分以外の主体は存在しないと思い込んでいる老人にとって、「後方から自転車が接近する」可能性は頭にも浮かばない。ギアチェンジや、ペダルをガチャガチャさせる音で健気にアピールしても、耳が遠いので聞こえない。追い抜けず、何十メートルも後続し続ける図はシュール。
自転車乗りでなくてもウザい敵No.1。右からも、左からも追い抜けない微妙なデッドスペースをキープして歩くヤツ、なんなん。詩的に、風を切りながら歩きやがって。シンガーソングライターのMVかよ。ちょっと端に寄るだけで、みんな幸せになれるんだ。寄れや。
彼女たちは広がって歩く。それはもういいだろう、諦めた。不可解なのは、決して”避けない”ことだ。気づいたとしても、避けない。目があったのに、無視。なぜなのか。スクールカーストか? 陰湿な女子社会において前後で歩くと角が立つので、とりあえず無難なフォーメーションとして真横に広がっているのか? そんな五人も六人も横に広がって……端と端のヤツはどうやって会話してんだ??
男子中学生は全人類において最も「フィジカル・コミュニケーション」が活発な人種だ。肩を組む、突っつく、カバンを引っ張る、押し合う、ケンカのフリ、ダイナミックな身体的交流の数々は、挙げるとキリがない(決してイジメではない、仲のいい子同士でじゃれ合っているのだ)。自分にもそういう時期があったとは言え、思い返せばアレなにが楽しいんだろうね。じゃれ合って突発的に動くので、大変危険。
予測のつかない動きは、まさに奇行種。児童が視界に入った瞬間、スピードを800000兆分の1に落とすのが正解。また、親御さんは大抵こっちに気付いてくれるんだが、とっさに「危ないッ!!!」って言うアレ、なんなんだろうね。「自分の子供が人様の通行妨害になっているのを叱る」意味での「ほら、どいて」的ニュアンスならまだ分かるが、どうしても「なんて危ない自転車!うちの子を轢くつもり!?」という風に聞こえて、悲しい気持ちになる。そんなつもりはないんだ……。
意外と思われるかもしれないが、これが結構危ない。棒状のブロックでタイヤ側面がこすれ、バランスが崩れる。棒状のアレをやめて全部点にする(かわりに信号前を棒状にする)とか、そういう技術的な努力でいくらでも改善できるので、バリアフリーを謳うのなら自転車乗りにも気をつかってください。
日本人によくある「すれ違いざまに右に避けようとしたら、相手も(こっちから見て)右に避けようとし、左に修正しようとしたら同じタイミングで相手も左に修正しようとして、ばたばたする」現象のことだ。気遣いが、優しさが、こころ苦しい。自転車というのは対向する歩行者とコンマ数秒でかけひきをする乗り物だ。前方に自転車を見かけたら、はやめに左右どちらかへ避けて、そこから動かないでほしい。
迫害されるのも無理はない。世の中には車道で奇妙な動きをしたり、平気で歩行者に向かってベルを鳴らす非常識な自転車乗りがいくらでもいる。そんな悪いイメージを払拭するためにも、我々個々の自転車乗りが謙虚に、ゆっくり、周りを気にして走るしかない。この謙虚さが社会的に認められれば、自転車優先レーンの整備も進むことだろう。
そして、そこに乗用車が駐車する。
「神話の崩壊」が喧伝され、あらゆる種類の「変わり者」たちが警戒の対象となり、単なる迷惑化はおろか法的な意味での予防検束を可能にするさまざまの改「善」がおこなわれる。欧米では男尊や女卑が主な警戒対象となっているが、もともと同調圧力の強い日本社会では、21世紀以降、ほとんどありとあらゆる「変わり者」たちが狩られ始めた。
「○○ハラスメント」や「○害」といった造語が急速に浸透して“犬も食わぬ”ものであったはずの体罰や子供の大声や騒ぎ声に行政が容易に介入できるようになり、喫煙者や飲酒者や公務員は迫害され、某国の工作員や左翼や右翼の存在がクローズアップされ、裏社会は合法活動の領域からも締め出され、成人犯罪はおろか少年犯罪にも厳罰が要求され、昔であれば迷惑に過ぎなかった行為が軽犯罪扱いされ、中流はすでに貧乏に等しいような貧困予備軍の扱いを受け、もちろん鉄道や学校に対しては「空港や基地にだけ例外的に適用」されているはずだった「迷惑施設対策」だの「誘致地域への経済的優遇」だのといったバッシングや炎上事態が恒例化した。「アニメや漫画の青年趣味を卒業しない」とか「車やバイクを成人後も敬遠する」とかのちょっとした「小さな変わり者」すら断固とした批判の対象となった。監視カメラyや精神科が街じゅうに設置され、「コンプライアンス」「モラル」「マナー」が叫ばれ、小心者に何か用事があるとは思えない中小企業にも「脱ブラック企業」の標語が掲げられるようになった。
それらのすべてが字義どおり「戦乱行為」として展開されているのだが、「反戦」の文脈でそれらに異議を唱えている者はたぶん今なお日本では少数である。「戦争したくなくて震え」たりすることもあるらしいリベラル派は、全体主義やエコロジーや反自由主義運動と親和的で、「その意味での戦乱政策」のいくつかに関しては積極的な推進勢力であったりさえする。むろんリベラル派どものみならず、国民の多くが「戦乱政策」の数々に諸手を挙げて賛成していよう。
好戦的な国民感情に迎合し、戦意高揚を煽り、それに煽られてますます好戦的になる国民感情に迎合する、2001年の9.11以来の新聞やテレビの報道は、私の目には「戦時報道」にしか見えないのである。そういうものに私は感化されたくないし、もちろん感化されない自信もあるけれども、とにかくちょっと接するだけでも不愉快になって、心の健康に悪いので意識的に遠ざけるようになってしまった。
声を上げることができない被害者を救ってとか都合よすぎで被害があったと声高に加害者を迫害しないと共犯であることと同じ
みんな声あげてこうよとはあちゅう氏もいってる
自分ひとりのちっぽけなプライドをまもりきるためについでに犯罪者も野放しにして自分がもう傷つかないためであれば
野放しにした犯罪者がいくら被害者を量産しようとしらんぷりな被害者はもうすでに犯罪者そのものではないか
はあちゅう氏のよびかけに答えなかった人たちも実名をあげて糾弾していくべきだろう
というかむしろはあちゅう派でない電通関係者は全員変態ハラスメント狂人でいまも女性のすべてを絶望の淵においやる日常をすごしているはず
こんなことがゆるさえれてなるものか
ハラスメントされていないかしていないかについて圧力をかけて聞き出しストレスを与えて正義の鉄槌で私刑を執行することで
その意志を感じたはあちゅう同意派はみなネット上で懐疑的な意見や平等性について疑問を問うものや過去の発言について言及するものに対し
こうやって相手に外圧をかけていくことで成果をなすとの正義を示してくれているのだ
悪は犯罪を犯してでもハラスメントにはハラスメントという武器をもちいて圧殺していかなくてはならない当然の原理の入り口にようやくたどり着いたのだ