はてなキーワード: 紳士とは
木製の籠にボールを放り込むこともあれば、
んで、それだと余りにも弊害が多いと
何より見ていて胸糞悪いしな
これが競技
まだ、名士がそれをプレイするのは憚られる
サッカーやラグビー経験ある人はこの概念を聞いたことがあるはず
これで、名だたる名士が名誉を賭けて戦うようなものになったわけ
野球が競技臭いのは、日本人がスポーツの歴史を知らんからだろう
真剣さと楽しさの両立を良しと出来ない、日本の文化的土壌もあるけどな
勝ててもショーとして成り立たなきゃ興業としては失敗ってことだな
負けて楽しくはなりづらいので、勝ちながら楽しませなきゃならない
今回のW杯はどうだろうな
少なくともショースポーツではない
面白くない場面ではあったけれど、それが悪かと言われると難しい
これを正当にあるべき姿にするなんてこと出来るのかね
決勝トーナメントどころか緒戦敗退を繰り返していたね
そんなことないんだろ?
って感じ
おばあさんは「ここのスーパーのお総菜コーナーのラインナップ」を知らないのかな?
私は近くで便利で大好きで仕方がない近所のスーパーに行きすぎて
もう店員さんに聞かなくても
お総菜コーナーもいい意味で変わり栄えしない
いつもと同じラインナップ品揃え。
あるとき
そのお総菜売り場でおばあさんに声を掛けられたの。
「これ美味しいのかね?」
「さあどうかしら?」
このすっとこどっこいおばあさんめ!と思っておばあさんが指し示す揚げ物お総菜を見たの!
そしたらそしたらよ!
こんな揚げ物お総菜初めて見たわ!!!
こ、このおばあさんできる!!!
なかなかやるわね!
私はそのただ者じゃないおばあさんの手に取るささみのシソ挟み揚げを気にしながら、
「美味しいかも!私も試してみるわね!」
交わす言葉こそ少なかったけれど、
私はこのスーパーには、
まだまだただならぬ猛者がいることを知ったわ。
そう思っていた時期が私にもあったと思ってた。
だけどまだぜんぜんね!
まだまだ甘かったわ。
しかしお総菜売り場の店員さん新商品置く場所考えた方がいいわよ、角度とかを。
うふふ。
つまんで食べられるのが便利なだけ。
朝はしっかり食べたいわね!
こういうときはやっぱりレモン炭酸ストックしておくのがベターだわ。
最近ピンクグレープフルーツジュース近所に売ってなくて
今度見付けたらピンクグレープフルーツウォーラーにするわ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
おばさんの話でつまんないかもしれないけど。
そこでけっこうお客様に食事のお誘いを受けることがあって本当はダメなんだけど課長が目をつぶってくれる雰囲気で暗黙の了解でお誘いを受けていた。
ある経理のおじさんはとてもグルメな方で一人では行きにくい店だからと鉄板焼き金沢料理ロシア料理すき焼き銀座のカウンターのお寿司屋さん帝国ホテルの最上階のビュッフェなどなどいろいろ高いものをごちそうしてくれた。
もうひとりの経理のおじさんは音楽が好きで銀座のピアノ弾き語りのバーやシャンソンバー。あとはドイツ料理屋さんのビール祭り生演奏でみんなで踊るとか。
銀座はハシゴして遅くなることが多かったからタクシー代もらって帰るのが恒例だった。
ある社長さんは窓口3人を別荘に招待してくれて一泊二日でおもてなしいただいたり。
思えば携帯電話もメールもなかった時代に待ち合わせとか取り付けるのも一苦労だし会えるかどうか賭けだしよく一度もトラブルにならずに会えていたなと思うよ。
まぁサラッと読むと体の関係は?とか思われるんだろうけどどの方もとても紳士でそんな気配もなかった。
大げさに転がって痛いフリするのが紳士かよ
それがないと、見るに堪えない不快な場面が増える。
結果として、先細りしていくと思うんだよね。
某小説で、お坊ちゃまキャラ(ある意味御坊茶魔よりお坊ちゃま)が高いところの物を取ろうと脚立かなにかに上ったスカートをはいた少女を見上げる位置にいたけど「紳士なので目をそらした」みたいな描写があったんだけど。
え?ちょっと、待って。
たとえば風でスカートがめくれそうになったり、階段などの段差、あるいは立位体前屈みたいなポーズで靴下を直そうとしたりしたら普通、目を逸らすなりするモンじゃないの?
高校は7割女子でけっこうスカート短めだったし、大学時代も電車通学でちょくちょくスカートの短い学生はいたし、今も徒歩通勤路がもろ高校の通学路で、ちょくちょくパンチラしそうな状況はあるけど、基本目を逸らすので、今まで見たパンチラは目を逸らす暇もないくらいの不意打ちだったけど。
839 :名無しさん@おーぷん:2017/04/26(水)17:51:19 ID:Hz7
ありがたいこと大変なこと嫌なことたくさんあったがここで言いたいことはひとつ
実はいろんなところで言われてるがあまり浸透していないようなので
被災者のためにと衣類を送ってくださった方々の善意まで否定する気は毛頭ない
ただ現実的に被災地で何が起こったかを知ってもらえたらありがたい
マスコミの「冬用衣類が足りない!」(ちょうど季節の変わり目だった)という報道を受けて爆発的に増加
あっという間に狭い体育館を埋め尽くした
床が見えないほどの服、服、服の海…
もちろん食料品や生活雑貨など衣類の他にもさまざまな種類の物資も続々と届く
しかし個人から送られてきた衣類ほどスタッフを苦しめる存在はなかった
まず仕分けの手間。普通の物資を1とすれば衣類の箱は10というほど手間がかかる
せめてこれだけでも分類した状態で入っていれば御の字だがそんな箱はほぼない
箱を開き一枚一枚手に取って確認する
これは女性のセーター、Mサイズ。こっちは子どものズボン、140センチ。
見た目ですぐに判断できる服ばかりではない。
これが想像以上に膨大な時間と手間を要する。やってもやっても衣類は減らない
それどころか次々に新手が送られてくる
840 :名無しさん@おーぷん:2017/04/26(水)17:51:50 ID:Hz7
ひらひらのワンピース、タイトなミニスカート、スーツに礼服。誰が着るだろう
こうした需要のない服、人には勧められないような服の割合は実に3~4割にも達した
しかしすぐに捨てることはできない
ゴミ袋ひとつとっても災害の片づけで不足している上、マスコミの目もある
「善意」をゴミとして捨てていると報じられたらどれだけのバッシングを浴びるか
結局「使えない服」として分類された大量の衣類が少なくない場所を占拠していく
また、被災者に衣類を選んでもらうのも一苦労だ
場所がない中でぎゅうぎゅうに並べた服を、被災者が自分のサイズを探してかき回す
ぜいたくを言うなと怒られるかもしれないが被災者にもプライドがあり
特に発災から日がたってくると、服も「着られれば何でもいい」とはならない
しかし個人から送られてくる衣類というのは大半が「うちではもう誰も着ない」服だ
気に入っていて今よく着ているという服を送ってくる人はいない
しかしデザインが古いとか何度も着て色が落ちてきたとかそんな理由で着なくなった服は
結果的に選ばれるのは数少ない、本当にわずかな新品や新品同様の服
それ以外はいつまでも山となって残る
841 :名無しさん@おーぷん:2017/04/26(水)17:52:57 ID:Hz7
具合が悪くなるほどの服の海に溺れているにもかかわらず
この二つは中古で人にあげるということがまずないので
送るとしたら新品になるが、わざわざ新品を買って送ってくれる人はほとんどいない
いても個人レベルなのでせいぜいが5セット、10セットといったところ
これが本当に苦しい
肌着や靴下の不足は本当に深刻で、服と一緒に並べようものなら数秒でなくなる
そこで避難所内に不公平感が出ないようなるべく平等に配布したいのだが
肌着がない、肌着がほしいという被災者の要望にはほとんど答えられなかった
もっとも効率的だったのはだいぶ経ってから実現した企業からの支援
衣類メーカー、肌着メーカーが「新品」を「大量」に送ってくれた
一人〇点限りとはいえ全員に行き渡る新品
さらにひと箱に同じサイズの同じ製品が入っているため仕分け不要のありがたさ
正直涙が出た。そのくらい仕分けはきつかった
服の山に埋もれているのに肝心の被災者の求めるものはないという状況もきつかった
各地からの応援職員、大震災を経験したボランティアに話を聞くと全員が同じ事態に直面していた
842 :名無しさん@おーぷん:2017/04/26(水)17:53:23 ID:Hz7
「新品しかいらない」「同じものを大量にほしい」「古いの汚いの送るな」「需要考えろ」「仕分けして詰めろ」
なので、結果として同じことが繰り返されているのだろう
被災地では、特に発災直後はスタッフが不眠不休で働かねばならない
多くの人員が割かれ、貴重なスペースを奪われ、他の業務に支障をきたすことも多々あった
箱を開き、服を取り出し、サイズを確認し、誰も着ないと判断した服を再び別の箱に詰め、積み上げる
言い方は悪いがゴミを捨てるまでの手順をわざわざ増やしているようなものだから
自分の実感としては、衣類に関しては個人からの中古品の寄付は受けるべきではない
被災地の人手を奪った上に誰にも利用されず最後はごみとして処分され処分費用がかかるのは
例えばこれまでの災害で寄せられた義援金などをどこかにプールしておき
新たな災害が起こった時にそれを財源として企業から新品を供出してもらうような形が最適ではないか
敵国がいない。
殺すのは日本。不埒な事を考えた権力者によって第二次大戦をなぞるように、外国を侵略して国民は徴兵されて死ぬ。国にマインドコントロールされた国民は自死を求められる。日本は負け続けて空襲され国土がボロボロになる。
自分たちが間違ったことをしなければ、平和で暮らせると思っている。
自分たちが殺す側に立つと思っていない。
平和教育で見せられるのは事後の廃墟だ。もしくは逃げ惑う市民たちだ。だけど、実際の戦場はニ〇三高地のように平和を愛し、敵兵と心を交わす紳士も鬼になる。
ベトナムやアフガン、イラクで心理的後遺症が残った兵士は多い。
平和教育は自分達を律するだけで、何らかの理由で発生する敵がいない。自分達は無垢で被害者にしかならないと思っている。他人や他の国も同じだと思っている。
多分、それじゃこれからはダメだと思うのだ。ふとしたことで生命線ギリギリに追い込んだり、敵意を持たれたりするのだ。ダイバーシティ的な考えがこれからは必要なんじゃないだろうか。