はてなキーワード: 年寄とは
出生
天文14年(1545年)、猿楽師の大蔵信安の次男として生まれる。長安の祖父は春日大社で奉仕する猿楽(現能)金春流の猿楽師で、父の信安の時代に大和国から播磨国大蔵に流れて大蔵流を創始した。この頃に生まれたのが長安であったという。
父の信安は猿楽師として甲斐国に流れ、武田信玄お抱えの猿楽師として仕えるようになったという。長安は信玄に見出されて、猿楽師ではなく家臣として取り立てられ、譜代家老・土屋昌続の与力に任じられたという。この時、姓も大蔵から土屋に改めている。長安は蔵前衆として取り立てられ、武田領国における黒川金山などの鉱山開発や税務などに従事したという。
武田信玄没後はその子・勝頼に仕えた。天正3年(1575年)の長篠の戦いでは、兄・新之丞や寄親の土屋昌続は出陣して討死しているが、長安は出陣していない。天正10年(1582年)、織田信長・徳川家康連合軍の侵攻(甲州征伐)によって武田氏は滅亡する。
ただし一説では、武田勝頼から疎まれたため、武田氏を自ら離れて猿楽師に戻り、三河国に移り住んでいたとも言われている。
遠江国佐野郡懸川宿の年寄に対する掟書(『德川家奉行衆連署傳馬掟書』慶長6年1月、個人蔵)[2]。伊奈忠次、彦坂元正と連署しており、「大久保十兵衛」[3]と記され黒印が押されている
甲斐武田家が滅んだ後、長安は徳川家康の家臣として仕えるようになる。家康が甲州征伐の際に逗留用の仮館を長安が建設したが、この時に家康がその館を見て長安の作事の才能を見抜き、仕官を許したといわれている。また、一説では家康の近臣で、旧武田家臣の成瀬正一を通じて自分が信玄にも認められた優秀な官僚であり、金山に関する才能に恵まれていることを売り込んで、家康に仕えるようになったともいわれている。
長安は大久保忠隣の与力に任じられ、その庇護を受けることとなる。この際に名字を賜り、姓を大久保に改めた。天正10年6月、本能寺の変で信長が死去して甲斐が家康の所領となる。しかし当時の甲斐は、武田家滅亡後の混乱から乱れていた。そこで家康は本多正信と伊奈忠次を所務方に任じて、甲斐の内政再建を命じた。ただし、実際に所務方として再建を行なったのは長安であるとされている。長安は釜無川や笛吹川の堤防復旧や新田開発、金山採掘などに尽力し、わずか数年で甲斐の内政を再建したと言われている。
天正18年(1590年)の小田原征伐後、家康は関東に移ることになる。この時、長安は青山忠成(江戸町奉行)、伊奈忠次、長谷川長綱、彦坂元正らと共に奉行(代官頭)に任じられ、家康が関東に入った後の土地台帳の作成を行なった。これは家康が後に関東で家臣団に所領を分配する時に、大いに役立ったと言われている。
また、関東250万石のうち、100万石は家康の直轄領となったが、この時に長安は長谷川長綱、彦坂元正、伊奈忠次と共に関東代官頭として家康直轄領の事務差配の一切を任されている。
天正19年(1591年)には家康から武蔵国八王子(後に横山)に8,000石の所領を与えられた。ただし、八王子を以前に支配していた北条氏照の旧領をそのまま与えられた形となったらしく、実際は9万石を与えられていたという。長安は八王子宿(現・東京都八王子市)に陣屋を置き、八王子十八人代官を置き、宿場の建設を進め、浅川の氾濫を防ぐため土手を築いた。石見土手と呼ばれている。
長安はまた、家康に対して武蔵の治安維持と国境警備の重要さを指摘し、八王子五百人同心の創設を具申して認められ、ここに旧武田家臣団を中心とした八王子五百人同心が誕生した。慶長4年(1599年)には同心を倍に増やすことを家康から許され、八王子千人同心となった。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こると、長安は忠次と共に徳川秀忠率いる徳川軍の輜重役を務めている。戦後、豊臣氏の支配下にあった佐渡金山や生野銀山などが全て徳川氏の直轄領になる。すると長安は同年9月に大和代官、10月に石見銀山検分役、11月に佐渡金山接収役となる。
慶長6年(1601年)春に徳川四奉行補佐にて甲斐奉行、8月に石見奉行、9月には美濃代官に任じられた。これらは全て兼任の形で家康から任命されている。異例の昇進と言ってもよく、家康が長安の経理の才能を高く評価していたことがうかがえるものである。
慶長8年(1603年)2月12日、家康が将軍に任命されると、長安も特別に従五位下石見守に叙任され、家康の六男・松平忠輝の附家老に任じられた。7月には佐渡奉行に、12月には所務奉行(後の勘定奉行)に任じられ、同時に年寄(後の老中)に列せられた。
慶長10年(1605年)、大久保長安を普請奉行として武蔵御嶽神社の本社を普請。
慶長11年(1606年)2月には伊豆奉行にも任じられた。つまり長安は家康から全国の金銀山の統轄や、関東における交通網の整備、一里塚の建設などの一切を任されていたのである。現在知られる里程標、すなわち1里=36町、1町=60間、1間=6尺という間尺を整えたのも長安である。
これら一切の奉行職を兼務していた長安の権勢は強大であったと言われる。また、7人の息子を石川康長や池田輝政の娘と結婚させ、忠輝と伊達政宗の長女・五郎八姫の結婚交渉を取り持ち、忠輝の岳父が政宗となったことから政宗とも親密な関係を築いていたと言われている。そのため、その権勢や諸大名との人脈から「天下の総代官」と称された。この頃、長安の所領は八王子8,000石(実際は9万石)に加えて、家康直轄領の150万石の実質的な支配を任されていたと言われている。
慶長17年(1612年)7月27日、中風にかかり、家康から烏犀円を与えられている(『駿府記』)[4]。
しかし晩年に入ると、全国の鉱山からの金銀採掘量の低下から家康の寵愛を失い、美濃代官を初めとする代官職を次々と罷免されていくようになる。さらに正室が早世するなどの不幸も相次ぐ中で、慶長18年(1613年)4月25日、中風のために死去した[5]。享年69。
長安の死後に生前の不正蓄財が問われ、また長安の子は蓄財の調査を拒否したため、慶長18年(1613年)7月9日、長安の嫡男・藤十郎(37歳)、次男・外記(36歳)、三男・青山成国(30歳)、四男・達十郎(29歳)、五男・内膳(27歳)、六男・右京長清(23歳)、七男・安寿(15歳)、以上7人は切腹となった。また縁戚関係の諸大名も改易などの憂き目にあった(大久保長安事件)。
ほとんど外様に近い立場から[6]老中(加判)に就いた唯一の人物であり、その謎めいた生涯は多くのフィクションの対象となっている。
無類の女好きで、側女を70人から80人も抱えていたと言われている。
金山奉行などをしていた経緯から派手好きであり、死後、自分の遺体を黄金の棺に入れて華麗な葬儀を行なうように遺言したという[7]。
世間的にはやっぱり席を譲らない=モラル皆無のクソ野郎扱いを受けることが多いと思いますが、自分なりに色々考えた末の信念なので言い訳というか理由の説明をこの場でいたします。
まずは意地でも座りたい理由の説明から。何と言っても会社と家が遠いこと。タイトルでは上京と言ったものの、自分は今千葉駅に住んでいて、千代田区にある会社まで1時間以上電車に乗って通っている。
就職を機に引っ越してきたので家の選択肢はそれこそいくらでもあったわけだが、東京でウサギ小屋みたいな家に住むより多少広い家に住みたかったので会社から遠い駅に住むことにした。会社の近くだと倍ではきかなそうな広くて綺麗な家に住めて非常に満足している。
かといって長い通勤をずっと座っているのも大変だろうなと思い、朝は確実に座れる始発駅の千葉駅周辺に住むことにした。大学に行くのに常にバイクに乗っていたこれまでの生活からは想像もできないくらい
電車に乗る時間は増えたけど、読み通り朝は100%座れるし意外と帰りの電車でも結構早い段階から座れることが分かったので大変満足している。
前書きが長くなったが、ここまでで言いたいことが何なのかというと、「絶対に座るために頭を使って住む場所を考えている」ということだ。それだけ電車で座ることに対する思いが強いことを留意していただきたい。
では、その上でなぜ「年寄には」席を譲らないのか。それは端的に言って自分が年寄を敬うべき存在、守られるべき存在だと考えていないからだと思う。言うまでもなく少子高齢化が進むこの国で不必要に(本当に不必要かは分からないが)
出歩く年寄に席を譲る必要があるだろうか?自分は全くないと思う。ふらふら出歩いている年寄より働いている若者の方がどう考えても疲れてるし大事にされるべき存在だとさえ思う。
100歩譲って出歩くにしても電車を使わずにタクシーに乗るとか通勤ラッシュの時間とはずらすとかいくらでも融通は効く立場だろうにわざわざ混むと分かっている時間にのこのこ出歩く神経が理解できない。
特にスーツを着て革靴を履いたサラリーマン風の年寄にはどんなによぼよぼに見えても絶対に席を譲らない。働ける体なら当然電車にも乗れるはずだし電車に耐えられないならさっさと働くのはやめて後進にポストなり仕事なり譲るべきだと思うので。
グダグダと会社にしがみつくくらいなら頼むから潔く退職して少しでも未来のある若人にパイを回してくれ。
以上、今日の帰りの電車で目の前に立っているサラリーマン風の年寄と横にいた60手前くらいの部下らしきオッサンにめちゃくちゃ見られ続けて少しイラついたので自己正当化の文章をしたためた。
あくまでも自分が席を譲らないのは年寄に対してだけで、妊婦さんとか見るからにけがをしている人とか、疲れを親に訴えている子供とかには席を譲るようにしている。子供はマジ日本の宝。
親戚が裕福なので支援もしてたし、もうちょっとなんとかならんかったか、とも思ったが、悔やんでも仕方ないのでどこかのタイミングで割り切れたことが救い
父は他界しており、母も高齢なので喪主が回ってきた(残った兄弟で一番上だったので)
大往生まであと一歩というところ。最後は風邪こじらしてしまったらしい。ホームから連絡来た。
当日まで元気だったし話もしてたのでちょっと理解が追いつかなかったが90超えてたのでまあしゃーないか
喪主は色々案が出たし初めは頼まれて引き受けるつもりだったけど最終的に叔父に任せたが、兄と同じところの会館だったので、勝手もわかってるからとサポートに回った
打合せとかは同席して
ほんとあっという間。遺品とか全然片付いてないし、兄の手続きも全部は終わってない
祖父は増田兄弟に負担をかけないように後見人つけててくれたので、葬儀以降はほとんどすることないけど、
祖母のほうは、叔父が遠方で仕事もしてるということもあって、頼まれて市役所とかは済ましたけど、まだ銀行とか相続関係とかほとんど手をつけてない
葬儀費用はケチらなかったのと、父の意向もあって、200万弱、150万、300万とか
祭壇とか馬鹿高い
とりま流れで元々会員入ってた葬儀やとかホームが紹介してくれたとことかで他を調べずにやってみたけど
まず会員入ってたところはお勧めしない。安くなるよーって耳障りのよい営業で年寄に契約(予約)させるけど。
部屋のサイズとかも選べなかったり。入会から式まで何十年も経てば参加者の数も大幅に増減(大体減だろうけど)するし、
コロナとか色んな事情も変わってしまう。ただサービスとかは良かったので、いきなり葬儀社選びから始める面倒さを無くす意味では助かった。
ホームの紹介のところもめちゃ高かった。こちらは打合せすることがほとんどなかった家族葬だったので楽だったが。
(花のランク決めるぐらいで、オプションの選択がほとんどなかった。こだわりたい人にはちょっと物足りないだろう)
基本パックに入ってないこまごまとした追加料金が発生することもあるし、棺桶ひとつとっても5万が基本プラン込のやつで、三面彫りとかになると30万とかもっと上のランクがあったり、しょぼしょぼ葬儀を回避しようとするとあっという間に何十万という金額足されていく
あと俺が喪主しそうな人とは話して、最低ランクで簡素に済まそうということになった。
それだけでも、霊きゅう車の手配とか棺桶やらドライアイスやらなんだかんだで何十万円になるだろうけど。お寺高いし、高齢の親戚への体裁とか考えたら初七日もやらんとだし。
そんで、市役所からは5万円しかもらえないけど。(あー、健康保険かなんかの5万といっしょに暮らしてたらまた数万年金のほうから出たんだっけ。手続き多すぎて忘れた)
しばらく葬式はしたくない
例えば『批評理論入門』『小説読解入門』(いずれも中公新書)を著して、実際にメアリ・シェリーの『フランケンシュタイン』やジョージ・エリオットの『ミドル・マーチ』の売上を伸ばすのに貢献した廣野由美子の功績は、作家からも読書家からも評価が高い。
それに比べて豊崎由美なんて、年寄を罵倒・嘲笑することで小銭を稼いでいた炎上商法家に過ぎないから、読書家からも評価されていない。その手法も『映画秘宝』やと学会の真似しただけ。某女性作家をべた褒めして媚びたけれど「豊崎由美に評価されることなど望んでいない」と見事にシャットアウトされるなど、本の読み手(笑)としては作家たちからも評価されていない。
自分とTiktokerとは違うと思っているだろうけれど、むしろ豊崎由美によるTiktokerへの評価は豊崎自身に当て嵌る。だからTiktokerの人も豊崎由美なんて無視すれば良いよ。